2012年05月07日

復活の食卓 ヨハネ21章

(2012年5月6日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会)

みなさん。おはようございます。

先月についで、2回目のご奉仕になりますが、いかがお過ごしでしたでしょうか。

前回はちょうど受難週のはじまりだったんですが、その後、復活祭、イースターを迎えられたと思います。


最近、クリスチャンの友達と話題になったのが、この「イースター」という言葉でして、テレビで「イースター」が「春を祝うお祭り」として紹介されていたらしく、「これだから日本のテレビは…」と、憤慨していたんですよね。

でも、クリスチャン人口1%なんだから、まあまあ。。。というところなんですが、そもそも、なぜ「イースター」と呼ぶのか気になりまして、調べてみたところ、なんと、もともとは、ヨーロッパ、ゲルマン民族の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来しているんだそうです。
ちょうど、このエオストレに由来する春のお祭と、キリストの復活が暦の上で同じだったようで、やがて「イースター」が、復活祭を意味するようになったようです。
ですので、「春のお祭」というのも、あながち間違いではないわけです。

もう、ややこしいたら、ありゃしないですよね。
日本的に言えば、「春のお彼岸」が、いつのまにか復活を祝う日になっちゃったみたいなもんですよ。

考えてみれば、「イースター」なんて言葉を使わずに、日本語で「復活祭」と呼べばいいんですよね。私たちには、わかっているようで、わかっていないこと、また、自分たちの常識を、さも世間一般でも常識かのように思い込んでいることもあるのかもしれませんね。
さてさて、そんな復活祭から1ヶ月が経とうとしていますが、今日は21章全体から「復活の食卓」を皆さんと味わってみたいなと思っています。

● 失意の中で…

時に、復活というと、実は、そうは簡単に信じられないような話なんだと思います。
それは、一番身近にいた弟子たちでさえも、そうだったように思うのです。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」


イエス・キリストの復活という、天と地がひっくり返るような、ありえない出来事を目撃した割には、なんだか拍子抜けてしているような感じがしませんか。


ペテロは、もともと漁師です。イエス様の弟子になった時、網を捨てたのですが、再び、漁へと出かけていくのです。

ある人は、ペテロは、もう一度、イエス様に会うために出かけていったんだ…という人もいますが、「よし、もう一度、イエス様に会いに行こう!」というような、喜び勇んだ前向きな姿勢のようにも見えませんよね。

実に、イエス様とはいえ、死んだ人間がよみがえる、1度や2度、見ても信じられない…、
目の前に姿があるときはともかく、時間がたつにつれ、夢か幻か…、
そんな気分にもなってくるものかもしれません。
それは、ペテロだけではなく、ほかの弟子たちも一緒でした。

彼らは、主イエスを探すというよりも、本当に夜通しかけて漁をするんです。
イエス様が現れても、彼らはわからなかったようです。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
 けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

私たちも、もし、この当時、この現場で、復活した姿を見たとしたら、なかなか、その現実を理解しきれないのかもしれません。

例えばですね。。。
仮に、私が先週の金曜日、亡くなったとしましょう。なんだか、すごい、たとえですが…。
皆さんにも知らせが届いて、悲しみのうちに今日の日曜を迎えたとするじゃないですか。
ところが、死んだはずの私が、今日、何事もなかったかのように、おはようございます!と現れたら、みなさんどうします?
まず、自分の目を疑う、次に、死んだという話がデマだったかと疑う、ついには自分の頭を疑う…、とにもかくにも疑う、信じられないと思うんですよね。

弟子たちは、確かに、復活の主を見て喜んだんです。
1週間後、疑いを抱いたトマスの前にも現れ、トマスも見て、信じたんです。
でも、その時がすぎれば、それで終わってしまう。。。

しかも、十字架を目前に裏切ってしまった弟子たちです。弟子として失格じゃないのか…。
復活の主と出会っても、今の自分と、どんな関係があるというのか…、わからない。

どこか現実感もなく、どこかわからないまま、彼らは、漁へと出かけていったのではないでしょうか。

ところが、夜通しかけても魚一匹とれない、あー俺たちは漁師としても、だめだぁ〜!!
そんな失意の中にあったように思います。
そんな失意の中に、復活の主は再び姿を現したのでした。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

少々、言葉が丁寧に訳されすぎているんですね。
このとき岸辺からおよそ100m近く離れているわけですから、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」「はい。ありません。」そんな声なんか届きやしないんですね。まるで、現実感がないんです。

おーい、食べるものがないのか〜
あー、ないよ、ない。今日は、全然、駄目だ。
だったらさあー、右の方に網を降ろしてみろよ。

まったく何いってんだ。俺たちは、夜通しかけて一匹も取れなかったんだぞ。
…なんて言いながら、半分投げやりで、網をバサ〜っと、投げたんだと思います。

21:6 …すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

その異様さに、ヨハネが、気がつきます。あれは主だ!
21:7 …シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。


上着なしに、イエス様の前に出られない、そう思ったんだと思いますが、ペテロらしいといえば、ペテロらしい。普通、上着を脱いで、湖に飛び込むんですよね…。
上着を着て、湖に飛び込んじゃったら、イエス様の前に出るときには、もう、びしょぬれ。ボタボタ水なんかたれちゃって。冷静なんだか、そそっかしいのか、よくわからない。
もし、私がおんなじことしたら、静から、もうちょっと、やめてよ…って、いわれてしまいそうです。


21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」


そこでは、食事の準備がなされていました。
ユダヤの世界で、一緒に食事をすることは、赦しや和解を意味しています。
逆に言えば、ユダヤでは、仲の悪い人、敵対する人、赦せない人とは、食事をしないんですね。
ですから、それは、まさに弟子たちにとって、赦しと和解の食卓が用意されていたんです。

21:11 …シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
   それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。


普通、漁師が、取れた魚をわざわざ1匹、2匹…153匹とは数えないと思うんですね。
100匹以上はいるぞ、大体、150くらいかな…、漁師だったら、そのぐらいはわかるはずなんです。
でも、弟子たちは、これが本当に現実のことなのか…、あたかも確かめるような気持ちで、1匹1匹、数えたんだと思います。
著者ヨハネ自身も、あの時の網の重さ、魚の感触、153匹は153匹、その時のことを一つ一つを描写しながら、あれは夢の中の出来事ではない。幻を見ていたんじゃない。確かに、現実の出来事なんだ。そう言いたかったんだと思います。
確かに現実の中に、イエスがおられた。

21:12 「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
 弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 このときになって、ようやく弟子たちもイエス様の復活が現実のこととして受け止められるようになってきたのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

そのパンや魚を手渡した主イエスの手には間違いなく、あの十字架で負った傷の跡がありました。彼らは、現実に、その手から、パンを受け取って食べたんですね。
それは彼らにとって、正真正銘、主イエスの赦しを現実として味わった瞬間でした。

● 三度の失敗、三度の赦し

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

さて、ここで、三度目、「3」という数字が出てきました。
かつて「3」という数字で馬鹿になる芸人がいましたが、「3」で心にグサってくる弟子がいますよね。
十字架の直前で、三度、イエス様を知らないといってしまったペテロです。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
  「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
  ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

以前のペテロだったら、迷わず、「はい主よ、ほかの誰にも負けません。私はあなたを、誰よりも、一番に愛してます」そういったように思います。
でも、イエス様のことを知らないと言ってしまったペテロには、そんなことはいえなくなっているんですね。

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

私があなたをどれだけ愛しているか、どのくらい愛せるか、あなたが一番ご存知のはずです。
このときのペテロは、自分自身の現実、限界も、しっかりと自覚していたんだと思います。

ところが、なぜかイエス様は、同じ質問を三度繰り返します。
ペテロも、その「3」に、心を痛めるんですね。あたかも自分が、三度知らないと言ったから、イエス様から責められて、三度、尋ねてられているような、そんな感じがしてしまったんでしょうね。

でも、イエス様は、三度、嫌味ったらしく、わざわざ三度、尋ねたんでしょうか…。
そうではないはずですよね。

ペテロの心が傷つき痛んだのは、決して、三度、尋ねられた時からではないんです。
三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったその時…、その時に負った心の傷が、まだ癒えていなかったんですね。
死んでも従うと言った自分、でも従えなかった自分。だから痛むんです。
そんな三度失敗し、三度の傷を負っているペテロだったからからこそ、イエス様は、三度、赦しの言葉をかけていくんですね。


21:15 …イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」


 ペテロ、あなたは、決して失格ではないんだよ。
 あなたは、今でも列記とした私の弟子だよ。
 どうか、わたしの羊を養ってください…。

それでも、心の傷の痛みは、すぐには消えないのかもしれません。
でも、イエス様は、失敗した分だけ、3度失敗したペテロには3度、5度失敗したら5度、100回失敗したら、100回でも、何度でも語りかけてくださるのではないでしょうか。

「わたしの羊を飼いなさい。」 そして、「わたしに従いなさい。」

●もう一人の弟子

さて、実は、ここにもう一人、ペテロの背後で隠れて痛んでいた弟子が出てくるんです。
ペテロが三度「知らない」と言った大祭司カヤパの官邸に一緒にいた「もう一人の弟子」ヨハネです。

21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
  この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

この「イエスが愛された弟子」とは、まさにヨハネ自身のことです。
ですが、ヨハネ自身がこの福音書を書いているわけで、自分のことを「イエスが愛された弟子」と紹介するなんて、なんだか生意気のような気がするじゃないですか。でも、実は、そうではないんです。

イエス様が捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に連れていかれたとき、ペテロは、周りの人から「イエスの弟子だ」と責められ、三度知らないといってしまうわけですよね。
ところが、一緒にいたヨハネは、誰からもとがめられることもなく、無事、十字架の元にまで行くことができたんです。
それは、なぜでしょう。。。

このヨハネの福音書の18章を見ると、実にヨハネが「大祭司の知り合い」だったことが記されています。
大祭司といえば、イエス様を十字架に着けた張本人でしょ。
ヨハネは、門番とも顔パス、誰にも責められることなく、だから十字架のもとにまで行けたんです。

一見すると、ヨハネは、弟子の中で唯一、十字架のふもとにまでいった弟子。いかにも従順で、立派なようにも見えると思います。
ですが、この時、ヨハネは「イエスの弟子」としてではなく、実は「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。
この事実を書いているのは、ヨハネの福音書だけです。

 ユダは公然と裏切り、ペテロは公に三度知らないと言った。
 でも、私は、影で裏切り、背後で否定していた…。

ヨハネは、そんな自分の裏切りを、この福音書でひそかに告白しているのです。

当然、イエス様にもわかっていたはずです。
状況からして、イエスの弟子でありながら、何事もなく無事に十字架の元まで来れるわけがないんですよね。
そこには、何か裏がある。
でも、イエス様は、そんなヨハネに母マリアを託し、復活の食卓へと招いたのでした。

だから「イエスを愛した弟子」ではなく、「イエスが愛された弟子」。
この時のヨハネには、ペテロのように「イエス様を愛しています」なんて、とても言えなかったのかもしれません。

●私たちの現実

さて、私たちは、「イエスを愛する弟子」でしょうか。
それとも「イエスが愛された弟子」なのでしょうか。。。

もし私たちが、できない自分の姿を見たときには、「はい、主よ、あなたを愛しています」…そういえるかというと、やはり、言えなくなってしまうときもあるかもしれません。

ですが、私たちは「イエスを愛する弟子」であると同時に、実に「イエスが愛された弟子」でもあるわけです。

できない自分もイエス様が愛してくださっているのなら、私たちも「それでも、イエス様のことを愛しています」…それでいいんですよね。

晩年、ヨハネは手紙の中で、こう記しています。
1ヨハネ 4:10〜11
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

愛は、競争ではありません。
できないことではなく、できるところでもって、持たないところではなく、持てるものでもって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…。

「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従ってきなさい」

「わたしの羊」「イエス様の羊」って…、実に、自分自身のことでもあるんですよね。
ペテロも、イエス様の羊。ヨハネも、イエス様の羊。皆さんも、イエス様の羊。
私たち、一人一人、みな、イエス様が愛する羊たちなんです。だから、愛しあうべき。

もし、私たちが、他に言うべきことがあるとしたなら、できなかったときの「ごめんなさい」かもしれません。
ところが、私たちは、特に大人になってくると、プライドが邪魔をするのか、「ごめんなさい」の一言が、素直に言いにくくなるときがあるような気がします。
もし自分の子供が、何か悪さをすれば、「なぜ、ごめんなさいって言えないの!」なんて、怒りそうな気もするんですが、いざ自分が、何か失敗や間違いをしても、誰かのせいにしてみたり、言い訳をしてみたり、自分の過ちにすら気づかなかったりして、「ごめんなさい」…って、いいづらい。そんな時も、ありますよね。

ペテロや弟子たちも、そうでした。自分たちの失敗を気にしている割には、実に言っていないのが「ごめんなさい。」の一言なんですね。
でも、イエス様は、彼らに「ごめんなさい」って言えないの!なんて言わず、そっと、和解のしるしであるパンを与えたのでした。

クリスチャンになってからも、この先、失敗すること、間違えること、多々あると思います。
深い傷を負って、自分はもうクリスチャンとして失格だなんて思うことも、あるかもしれません。
ですが、すべての罪、一切の罪が、イエス・キリストの十字架に釘付けられたんです。

 自分は失格だと思って、船に乗り込んだ夜…、
 漁をしても、何をしてもうまくいかず、失望に沈む夜…
 そんな暗い寂しい夜もあるかもしれません。

 しかし、夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立っておられた…。
 彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火と、その上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
  「さあ来て、朝の食事をしなさい。」

残念ながら今は目に見ることはできませんが、復活の主は今日も生きていて、私たちを和解の食卓、赦しの食卓、「復活の食卓」へと招いてくださっているのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった…。
 
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2012年04月06日

「赦しの食卓」ルカの福音書 7:36〜50

2012年4月1日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会(宮城県)

みなさん。おはようございます。

千葉、市川からやってまいりました竹下 力です。
普段は旅行会社で働いておりまして、その名も「にこまるツアー」。

おかしな名前でしょ?

そう、おかしな名前なんです。
普段は韓国旅行と、たまにイスラエル聖地旅行を手がけているんですが、教会の先生によっては、たまに、「ん?」とかいわれちゃうんですよね。
なぜ、こんな名前になったかというと、旅行を通じて、皆さんに笑顔になってもらえたらという願いを込めて、笑顔の「にこまる」なんです。
あー、そう考えると、いい名前じゃないですか。
そんな旅行業をしながら、教会でこうしたメッセージ、伝道活動をしております。

さて、教会の暦では、今週は受難週、イエス様が最後にエルサレムに入り、まさに金曜には十字架を背負われる日に当たります。

受難週で「食卓」といえば、聖餐式の原点になった、いわゆる最後の晩餐が、一番思いつくところかもしれません。
ですが、それはある意味、究極のゴール、まさに最後の晩餐でして、イエス様は、今週になって、突然、十字架を背負うことになったわけではないんですよね。

イエス様は、これまでにも多く「食卓」という場で語られています。

ちょっと、皆さんご家庭の食卓を思い浮かべてみてください。。。

そこは神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な空間というわけではなく、生活のにおいがプンプンする、極めて日常的な空間、それが「食卓」という場所ではないでしょうか。

いろんな「食卓」があると思うんですよね。
楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。
そんな私たちの極々日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんです。

ですが、イエス様は、そんな多くの「食卓」に着き、様々なことを語られていたわけです。


今日の箇所の直前、34節を見ると、
イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。

ユダヤの社会では、同じ食卓を囲む、一緒に食事をするというのは、それ自体が、赦しや和解を意味します。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。
つまり、その行為自体が、罪人と仲間同士、赦しを意味していたわけです。

それは誰かの家だったかもしれないし、大衆居酒屋のような場所だったのかもしれない。
でも、そんな罪人の「食卓」にもイエス様は来てくださる。そこにも「救い」をもたらしてくださる。
これが、まさに恵みなわけです。

ところが、今日のこの箇所の食卓は、同じ食卓でも、ちょっと珍しい食卓のような気がします。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちですよね。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人たちです。

ところが、そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。
背後には、不穏な空気も流れているのです。


しかも、そこへもってきて、「すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た」…と言うわけです。
おそらく、見た目、一発で罪深いとわかる女性、遊女、売春婦だったと思われます。

この「すると」と訳されている言葉。
他の訳では、「見よ」と訳されている注意、注目を示す言葉です。
「見よ」、よりによって、そんな「罪深い女性がやって来た」というわけです。

パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。
もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。
ある意味、イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。


これはもう、何が起こるに違いない。一触即発…
なんていう間もなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけです。


当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。しかも、ここはギリシャ語で未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…というわけです。


さて、皆さんは、この女性の行為、この光景をどんなふうに見えるでしょうか。どんな風に想像していますか。。。

私たちは、対象のイエス様を知るがゆえに、この女性のしていることを美しい礼拝の姿として見てしまうかもしれません。
しかし、実際に、現場にいれば、いきなり来るや否や、お客さんの足元で泣き始めて、口付けしているわけですから、あの女は、なぜいきなり泣き出したんだろう、いきなり何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。


そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」


日本語の聖書では「この方が…」なんて丁寧な言葉で書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。

「この女が誰で、どんな女であるか…」そんなことは、一目瞭然、その町で有名な罪深い女性なんです。
それがわかったからといって、別に預言者の証明になると言うことでもありません。

シモンが何を思っているかというと、
「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから…。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
彼は、一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

しかし、これがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていくことになります。

そこで、まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。

 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。
 日本円で言えば、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

 多く赦されたものが、多く愛するということ。。。

この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。


この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。
いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。
でも、生まれた時から、そうなりたくて、こうなった訳じゃない。
この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく勇気が要ることだったと思います。
周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。
もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。

しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。
見た目や評判にかかわらず、この女性の真心を受け止めた。この女性自身、その全人格を受け止めたんです。
すなわち、この女性は赦されたんです。

だから、この女性も、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多くの涙と愛があふれてとまらなかったのです。


では、このパリサイ人シモンという男には、罪がなかったんでしょうか。。。
いいえ、そんなことはなかったわけです。


当時、当然アスファルトで舗装なんかされていない道をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も砂埃で汚れます。
ですから、そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、頼まれなくてもお茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
ところが、このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。
そのことでもイエス様のことを、歓迎しているわけではなかったことがわかります。

にもかかわらず、この女性のことは、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。


「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、単なる表向きの行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。
それは、どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
「真心」というもの。

このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の「愛する」ということは見失っていたのです。

しかし、そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、このパリサイ人シモンの食卓にも着かれたわけですよね。

それは決して、シモンが赦されていなかった、イエス様が足を洗う水も出さんと、礼儀知らずなやつだと根に持っていたわけでもなく、このたとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。
だから、そのままこのパリサイ人シモンの食卓にもついたんですよね。

ところが、このシモンは、自分の正しさのゆえに、落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。
これが、パリサイ人シモンの真実でした。

その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、実際に赦されていたのに、その赦しを感じることも、味わうこともできなかったのです。


イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます


 この女を見ましたか…。現在形。

 …この女を見ているかい。

  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…

  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。


多く赦されるか、少ししか赦されないか…
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されない…というわけではないんですよね。

自分自身の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。

罪というと、つい犯罪だとか、倫理的に悪いこと…のように感じてしまうと思うんですが、聖書がいう「罪」というのは「的外れ」という言葉なんです。言葉を変えれば、失敗。野球のストライクかボールかで言えば、ボールです。

律法の中心「愛」から的を外す、失敗する。
誰かを愛せない、愛さない、愛していても失敗してしまう…それが、日本語の聖書で「罪」という言葉で表されているもの、すなわち「的外れ」ということになるわけです。

では、私たちが、誰でも、どんな人にでも、偏りなく、同じように愛せるか…というと、なかなか、そうは、できなかったりするじゃないですか。
実に、私たちも、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が劣っているような気がして、中々認めにくい時があります。
案外、私達は、自分が正しくありたいのかもしれません。

ですが、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいこと

「あなたの罪は赦されています!」


49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
  「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」


こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし何か事件を起こした罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」とか、「いったい何様なんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。


もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。
彼女もユダヤ人。
罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…、そう思ったかもしれません。


実に、一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負ったわけです。


「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言い方だと思います。
なので、少し意味がぼけてしまっているんです。

どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思いますか?

もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、あなたは救われた。」
「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」となるところなんです。
当たり前のような話ですが、自分の信仰が救うのではなく、イエス様が救ってくれるんですよね。


 あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
 私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。
 だから、安心していきなさい…


イエス・キリストの十字架は、決して、ありがたい救いの教え、「宗教」ではありません。
イエス・キリストは、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その罪の責めを身代わり、
やがて、ついには十字架まで背負った、
十字架を背負ってもなお、その愛と赦しを貫いたわけです。


私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。
クリスチャンのみなさんなら、よく理解されていることかと思います。

ところが、ところがなんですよ。
私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。
っていうか、ありますよね。ここは正直でいいんですよ。

パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれませんね。

しかし、ここが一番のポイントです。

イエス様は、そんなパリサイ人の食卓にも着いてくださっているんですよね。
パリサイ人シモンも、この罪深い女性も、両方とも、赦しているんです。
両方にとって、赦しの食卓だったんです。

でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、
なんと、自他共に罪深いことを認める、この女性だけだったというわけです。


みなさんが、今日も家に帰り、また今週も、さまざまな食卓につくと思います。
そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない罪人の食卓かもしれません。
でも、イエス様は、その食卓にもついてくださっているんです。

そこには赦しがあり、そこに恵みがあるんです。
その究極が十字架直前の最後の晩餐、主の食卓、すなわち聖餐になるわけです。


 主イエスは、渡される夜、祝福して後、パンを割き、弟子たちに言われた。
 これは、あなたがたのために割かれる、わたしの体です。
 また杯も同じようにして言われた。
 これは、あなたがたの罪のために流される、わたしの血です。
 取って、食べよ。分けて、飲め…。


それは聖餐式のあの小さなパン…
物質的な意味でのパンそのものや、小さな杯に入ったぶどうジュースを、食べるか飲むかではありませんよね。

そこに込められた主イエスの「真心」、まさに十字架で肉を裂き、いのちをかけた愛と赦しです。

ぜひね、食卓に並んだ料理とともに、主イエスの十字架の赦しと恵みを味わってみてはいかがでしょうか。

 見よ、罪深い女がいた…。
 見よ、罪深い男がいた…。
 見よ、罪深い私がいた…。

 「あなたの罪は赦されています!」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。

 しかし、イエスは言われた…。
 「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して行きなさい…!!。」

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2012年03月03日

「弱さの中に働くキリスト」マルコ4:35〜41, Uコリント12:8〜10

みなさん。おはようございます。

今日は、教会学校と大人の礼拝とのダブルヘッダー、2度目の登板となるんですが、
ある意味、いろんな経験を積んでいる大人の皆さんに語るのと違って、
子供たちに教える…というのは、私自身、いろいろと学ぶことも多かったような気がします。

今日の教会学校では、先のマルコの福音書の「嵐を静める」シーンが聖書箇所でした。
大人の皆さんには、もう一歩、深く踏み込んでお話させていただければと思っているんですが、
もし皆さんだったら、この箇所から、子供たちに、どのようなお話をするでしょうか…、
それを、ちょっと考えてみてほしいんですよね。

普通にパッと考えると、嵐を恐れた弟子たちの信仰の弱さを指摘して、
イエス様を信じれば大丈夫、弟子たちのようではなく、イエス様を信じましょう…というような
お話をしたくなるような気がします。
もちろん、これ自体が間違いというわけでもありません。

でも、そこをグッと堪えて、1歩踏み込んで考えてみると、自分自身がこの状況に置かれたら、
果たして何ら恐怖を感じないだろうか…というと、決して、そうではないんですよね。

私たちが、子供たちに何を伝えようと考えたときに、こうした聖書の記事から、つい瞬間的に、
理想的なお話、ある意味、いいお話に、まとめてしまうことがあるような気がします。
もちろん、それは、子供たちに信仰を継承してほしい、健全に成長してほしいという願い
からくるわけですが、実は、大の大人も怖がる、自分にもできないようなことを、
子供たちに要求してしまうことにもなるんじゃないか…、そんな気がします。

ですので、子供たちや誰かに教えるという前に、一歩身を引いて、自分自身のことに
置き換えて考えてみるのがいいと思います。

イエス様を信じていても、困難にぶつかること、怖くなること、不安になること、悩むこと…って、
実は、ありますよね。
それは私なんかより、人生のベテランの方々なら、よくご存知だと思います。
イエス様を信じていれば、地震や津波は襲ってこないんでしょうか。
タイタニック号は、沈まなかったんでしょうか。
決して、そうではないんですよね。

子供たちも、将来、いろんな波風嵐、困難にぶつかります。
不安になること、恐怖に襲われること、あるかもしれません。
たとえイエス様を信じていても、そういう患難があることを前提にしていないと、
実は、そうした恐れに襲われたとき、逃げ場がなくなる…、
どうすればいいのか、わからなくなってしまうような気がしますよね。

マルコ4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。

みなさんだったら、どうでしょうか。怖くありませんか。
よくよく状況を考えてみれば、この弟子たちの中には、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…
少なくとも、ガリラヤ湖出身の4人の漁師さんたちがいたはずなんです。
船の操縦も慣れたもの、湖のことも知り尽くした、この道のプロが4人も乗っていたんですよね。

そのプロたちですら、恐ろしくも、怖くもなってしまう、実際に身の危険を感じる程、
ものすごい嵐だったんです。
単に弟子たちが弱いのではなく、この状況の中にあっても動じない、冷静さを保つというのは、
実は、かなりレベルの高い話ではないでしょうか。

どうでしょう。。。みなさんだったら、どれだけ冷静に保っていられるでしょうか?
イエス様みたいに寝てられますか?とても寝てなんか、いられないと思うんですよね。

寝るといえば、うちの静さんも、夜、テレビ見ながら、リビングで寝始めると、もう起きられなく
なっちゃうんですよね。
声をかけても、「あ゛」。話しかけても「ん゛〜」。
ホットカーペットがあるとはいえ、この冬でも、そのまま4時、5時、下手をすれば、朝まで寝てしまう…。
それだけ、強い信仰の持ち主といえるのかもしれませんが…、
そんな静さんであっても、さすがに、この嵐の中では寝てなんかいられない、
きっと、ぎゃーぎゃー騒ぐと思うんです。

4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

静も騒ぐこの嵐の中をですよ、どうして、イエス様は、寝ていられたんでしょう…。
むしろ、その方が、すごいというか、不思議なくらいではありませんか。

所詮、小型の木造漁船です。
もちろん大きく揺れていたし、弟子たちも大騒ぎしているわけです。
しかも、この時、波をかぶって、船に水が入って、沈みかけていたわけですよね。
弟子たちは、必死になって、水をかき出していたんでと思うんです
ところが、振り向けば、イエス様、寝てるんです。弟子たちも、びっくりです。

4:38 …弟子たちはイエスを起こして言った。
 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

弟子たちは、イエス様が寝ているのを見て、半分、憤慨もしているようです。
もし、これが一番年下のヨハネが寝ていたらどうでしょう。
ペテロあたりが、蹴っ飛ばして、たたき起こしているような気がしますよね。
私たちは、恐れや心配事が募ると、実は、怒りの感情も巻き起こってしまいがちなんですよね。

イエス様は、よっぽど疲れていたのか、はじめは本当に眠り込んでいたんだと思います。
ですが、どこからかは、この嵐の中、弟子たちが、どう対処するのか…、
半分寝ながら、様子を見守っていた…ような気もしますよね。
あたかも弟子たちの弱さが浮き彫りになってくるのを待っているかのようです。

4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

「どうして、そんなに怖がるのか…。」
私たちにも、何かのピンチに遭遇したとき、多くの心配や、恐怖心がおきる。
それは、ある意味、当然ありうることです。
でも、そのような中で、無制限に恐れっぱなしではなく、いかに冷静な判断を保ち、
適切な対処ができるかが勝負ですよね。

実は、この時の弟子たちには、そんな自分の弱さ、限界を知るということが、まず大切だったのかもしれません。
なぜなら、弟子たちは、この先、福音宣教のために、
もっと、もっと多くの困難、身の危険も乗り越えていかなくてはならなかったわけです。

「信仰がないのは、どうしたことです。」
そうはいっても弟子たちは、仕事を捨て、イエス様についてきた人たちです。
決して、信仰が全くなかったわけではありません。
しかし、恐怖心のあまり、信仰なんて、どこかに吹っ飛んでしまったわけですよね。
冷静さを失ってしまったんです。そこに問題があったんではないでしょうか。

実に、イエス様は、助けを求めてやってきた異邦人や女性には「あなたの信仰は立派だ」とか、
「あなたの信仰があなたを救った」など信仰を認めています。
その割りに、ところが弟子たちには、「信仰がどこにあるのか」「信仰が薄いものだ」とか
弱さを指摘することが多いんですよね。

ですが、イエス様も、そうは言いながらも、そんな弟子たちを、助けていくんです。
それも、この時ばかりではありません。何度も、何度も、繰り返しです。

4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

実は、この弱さの中に働くキリスト体験、実体験の積み重ねこそが、
いかなる恐怖や困難にぶつかっても、冷静さを失わないで対処できる、
揺るがない信仰を作り上げていくために、弟子たちに必要なことだったんではないでしょうか。

今日の招きのことばに取り上げましたが、
イエス様は、決して、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

私たち大人も、まず自分の弱さを認めるということが必要なような気がします。
そして、その弱さに働くキリストの存在を知ることになるわけです。

そのことを一番、明確に証しているのが、次に上げたコリントの手紙に記された
パウロの証であるように思うんですね。
パウロは、いわゆるダマスコ途上の出来事、教会を迫害に行く途中、強い光を浴びて、
その時以来、視力が弱くなったようです。
前の節では「肉体のとげ」という表現が出てきますが、おそらく、ここでも、その目のことで
祈っているのではないかと思われます。

なぜなら、こうして目が悪い、病気があるというのは、当時の社会通念上、神からの
祝福を失っている証拠、罪がある証拠かのように見られていましたし、
見方を変えればですよ、パウロの信仰が弱いかのようにも見られたかもしれません。
パウロ自身も、心のどこかで、否定的に考えていたと思います。
「肉体のとげ」のようで、実は、「心のとげ」となって、ずっと突き刺さっていたわけですよね。

Uコリント
 12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

三度も祈るというのは、文字通りの三回かもしれませんが、象徴的に人間的な限界を
表す数でもあるんです。いずれにしても、パウロのことですから、それは真剣に切なる祈りを
捧げていたことでしょう。
しかし、それでも、この「肉体のとげ」、目が癒されることはなかったわけです。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。…

もともとパウロは、ユダヤ教のエリート中のエリートだったわけですよね。
ある意味、怖いもの知らず、弱さとは縁がなかったかもしれません。
だから、愛だの、罪の赦しを解くキリスト教会が許せなくて、迫害していたわけです。
ですが、そのダマスコ途上の出来事で、「わたしは迫害するイエスである」という声を聞き、
視力を失い、自らが弱さを負うことで、人の弱さを理解するようになり、
キリストの愛の素晴らしさをも知るようになったわけですよね。

パウロにとっての、この「肉体のとげ」、弱さというのは、決して不幸なものではなく、
パウロの実体験上も、キリストの恵みを受け取るために必要かつ十分なもの、
なくてはならないものだったわけですよね。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」

このことばは、直接、パウロの心に響いてきた言葉であると思われますが、そのことを思い出させてくれたわけです。

12:9 …ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちも、自分の弱さや罪を知るからこそ、イエス・キリストを信じたんだと思うんですよね。
もし私たちが、自分の弱さを誇ることができたなら、これほど強いものはないと思います。
そうでしょ。弱さが誇れちゃうんですから。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

これは、ある意味、究極ですよね。
なかなかパウロの境地にはたどり着けないかもしれません。

私たちには、いろんな弱さがあります。
時には、弱さがゆえに、恐れること、不安になることもあるともあると思います。
それ自体は、ある面、避けられない、あってもかまわないと思います。

でも、その時に、ただ恐れるのではなく、落ち着いて、私たちの内に起こりうる心の嵐を静めることの
できるお方、イエス・キリストに、いかに頼れるかでしょう。

私たちが不安や恐れ、あるいは怒りの感情に捕らわれているときには、
私たちの脳は、否定的な言葉で、ぐるぐる、いっぱいになっているはずです。
自分に向えば「どうして自分は駄目なんだろう」、他者に向えば「どうして、こうなんだ!」と怒りの言葉にもなります。
そんな時に、軌道修正してくれるのが、まさに神の言葉ですよね。

そこで今日は、聖書の中から、そんなことばを、いくつかピックアップしてみました。
これはあくまで単純に、私の独断と偏見で選んだだけなんで、皆さんそれぞれに、
この言葉の方が心に響くという御言葉もあると思います。

どれも有名な言葉ですから、よくご存知の方もいらっしゃるとは思うんですが、
イエス様も嵐をことばで静めたように、こういう言葉を意識して、見返したり、頭の中に刻んでおいたりすると、
神の言葉が私たちを守ってくれるんじゃないかな…と思うわけです。


〜弱さを感じたときに読みたい神のことば〜
 (まだまだ、いろいろあります。自分なりに作ってみるといいと思います)

ヨハネ16:33 「…あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 これは、今日の教会学校での暗証聖句にさせていただきました。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。」…実際に、あるんですよね。
 「しかし、勇敢でありなさい。」…勇気を持って、行動しなさい。挑戦しなさい。
 「わたしはすでに世に勝ったのです。」
 …イエス様もまた、弱さを負いながらも、十字架の苦しみ、恐怖に打ち勝ったわけです。
 そのイエス様が、わたしたちと一緒にいてくださるわけですよ。

 子供たちには、これからの将来、たとえ恐れを感じたとしても、
 勇気をもって、チャレンジしてもらいたいという願いを込めて、
 この言葉を選んでみました。

ヨハネ 20:19 …「平安があなたがたにあるように。」 

 イエス様が復活したときの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めていたわけですが、
 その弟子たちの中に入ってきて、イエス様が語られた言葉です。

 これはヘブル語でいう「シャローム」、挨拶の言葉です。
 朝でも夜でも、出会ったときも、別れる時にも使えます。
 朝には「ボーケルトーヴ」という朝の挨拶がありますが、いつでも使える、
 日本語で言えば「どーも」に相当するかもしれません。
 でも日本語の「どーも」は、何が「どーも」なのか、あまり意味はないんですが、
 ヘブル語では「平安があるように」という言葉が交わされているんですよね。

 「平安があるように…」
 これは、自分に対しても、他者に対しても、持ち続けたい、祈りの言葉でもあるように思います。


マルコ5:36 「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 これはヤイロという人が娘が死にそうなので助けてほしいと、イエス様にお願いし、
 家に向う途中、娘が亡くなったという知らせが入った…、その時、イエス様が語られた言葉です。

 単純、シンプルな言葉ですけどね。
 ちょっとしたときに思い出せて、「恐れることはないんだ」と勇気付けてくれるのではないのでしょうか。

マタイ11:28〜30
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 …わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

以前から疑問だったのが「休ませてあげよう」…といっても、結局、荷は負うわけじゃないですか。
どうして休まるのか、荷が軽くなるんだろうって、思っていたんですよね。
でも、自分ひとりで負うのではなく、「わたしのくびきは負いやすく…」
実は、イエス様が一緒に負ってくださるんですよね。

詩篇23:4  
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 有名な詩篇23篇ですが、なぜ恐れないのかといえば、やはり神様がともにいてくださる、
 ともに歩いてくださる…、その実感、安心感からですよね。

 詩篇の中にも、いろいろと、いい言葉が出てきますよね。

詩篇  30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 いつまでも、悲しみや、不幸が続くわけではないんですよね。

詩篇 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
        
 「わがたましいよ…」というのは、詩篇によく出てくるフレーズですよね。
 これは詩篇の作者自身が苦しみにあるとき、悲観的な言葉で心がとらわれているとき、
 自分の魂、心、脳みそに言い聞かせているように思うんです。

イザヤ41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

 神さまは、繰り返し「恐れるな」と語りかけていますが、特に、このイザヤ書には多く出てきます。
 それだけ私たちは、恐れるからでしょう。
 その中でも、この「虫けらのヤコブ…」って、好きなんですよね。なんか、いいじゃないですか。

 たとえ「虫けら」のような私たちであったとしても、神様は助けてくださるんです。

申命記8:16 …あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。

 神様は、イスラエルの民を、厳しい荒野を通らせたんですが、
 「ついには、しあわせにするためであった」というわけですよ。
 私たちも試練の中を通るときもあるわけですが、それも「ついには、しあわせにするため」とはいえないでしょうか。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


 この言葉も同様ですよね。
 一時は、なぜこんなことが起きるんだろうということって人生には度々あるわけですが、
 後から振り返ってみると、あの経験があったから…ということって、多分にありますよね。
 たとえ不幸や失敗に思えるようなことでも、実は、無駄な経験は何一つもない、
 そこから学ぶこと、受け止め方一つで、すべては「益」になっていくんです。

Uコリント 12:9 「わたしの恵みは、あなたに十分である。
  というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

先ほども取り上げましたが、自分の弱さがゆえに、自分が嫌になったり、
苦しくなったりすることもありますが、弱さがあるがゆえに、人の弱さも理解できれば、
キリストの愛も知ることができたわけです。
そう考えれば、弱さもまた、実は、「恵み」の一つなのかもしれないですよね。

■誰かが弱っているときには…

ローマ 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 

これはおまけですが、わたしたちは、弱っている人に、無理に励ましたり、
すぐに元気になってもらおうとしてしまうことがあります。
でも、まずは、喜ぶものと喜び、泣くものと一緒に泣く…、
心に寄り添うことの方が先決なのかもしれません。

■クリスチャンのライフスタイル

Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

最後に、クリスチャンのライフスタイルとしてみましたが、
この言葉は、何をするにしても、私たちの人生全般にわたっての生き方、
一つの指針ではないかな…って思うんです。

静岡の実家のお便所に掲げられていることで有名な御言葉なんですが、

もし、これができたとすれば、実は、しあわせですよね。

とはいえ、決して、いつも喜べることばかりではないと思います。
でも、まったく逆を考えてみてください。
いつも悲観的に捉え、誰のことも信頼できず、すべてのことに不満に思っているとしたら…
これって、ものすごく不幸なことですよね。

決して、いつも喜んでいられるわけではないし、回りの環境や他人を変えられなかったとしても、
自分自身は変えられます。
いつも喜ぶことを心がけ、心の不安は神にゆだねて祈り、わずかなことでも感謝するように
心がけていけば、実は、しあわせな自分に変わっていけるんではないんでしょうか。

そして、この最後の一文が大事なんです。
実に、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること。」、
神様も、それを望んでいる、それが、御心だというわけです。

まだまだ、そのほかにも、いっぱい、いろんな御言葉があると思います。
私は、こっちの方がいい、この言葉に支えられた…ということばがあると思います。

ですので、赤線引くなり、手帳やカードでも、自分なりに、そんなことばをピックアップして、
心、脳みそに刻み込んでおくと、いざ人生の嵐に遭遇したときにも、
そんな神の言葉が、心の嵐も静めてくれるのではないでしょうか。


Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 

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2012年02月05日

振り向いたキリスト マルコ5:25~34

2月4日 TPC 東京プレヤーセンター 昼の礼拝

みなさん、こんにちは。竹下 力です。
私は、普段、月曜から金曜までは、旅行会社で働きながら、
こうした聖書のメッセージをお届けする働きもさせていただいています。

私の妻もゴスペルシンガーみたいなことをやっておりまして、
本当は、今日は、特別賛美でもと思っていたんです。
ですが、日曜からインフルエンザになってしまいまして、
もう直ってはいるんですけれども、念のため、お休みさせていただきました。

こういう時に限って、私の仕事も忙しくて、仕事に、家事に、看病でしょ。
でも、2人で倒れるわけにはいかないですから、
ウィルスなんかに負けねえ〜という信仰か、気合か、意地で乗り切るような1週間でした。
本当にはやっているようなので、みなさんもぜひ、気をつけてくださいね。

さて、イエス様もいろいろなところを旅しながら、各地を周っていたわけですが、
この時には評判が広がり、もう人気絶好調、
あそこに、イエスがいるぞ!とわかると、たちまち多くの人たちが集まってきました。

テレビもラジオもない時代ですからね。
何か珍しいものでも見れるんじゃないだろうか…。何か、ご利益があるかもしれん。
いわゆる野次馬たちも、大勢、集まってくるんです。

 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
 5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

この長血をわずらっていた女性もその群衆の中にいた一人です。
病気なのに、意気のいい群衆を掻き分けていくわけですから、
それはもう大変だった思います。

 「お着物にさわることでもできれば…。」なんて、言ってたら、触るどころか、跳ね飛ばされちゃうんですね。

「着物に触って、きっと直るんじゃ〜!」

こんぐらい勢い(?)、とにかく必死だったと思うんです。

あたかも、ヨン様か、最近ではグンチャンかもしれませんが、
あわよくば握手してもらおうと押し寄せる、おば様方のように、
やっとの思いで、つかんでみたら、ペテロだったりしてね。

「あんた、もう、邪魔!」

なんか言いながら、とにかく、必死で、イエス様の着物に触ったんだと思うんです。
すると、その瞬間、直った!!!というんです。

 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

私たちは、このような話を見聞きするときに、
いやー、そんなこと、あるんかな…とか、いやいや、そう信じることこそ信仰だ…とか、
彼女の病気が癒された「奇跡」そのものや、その「奇跡」を呼び起こした彼女の信仰とかに注目していくことが多いような気がします。

ですが、こうした病気が治ることは、実際、ままあるんです。
私たちは、普段、西洋医学的な考え方にどっぷり浸かっていますから、こうして病気が治ってしまうのは、まさに「奇跡」のように思えるかもしれません。

でも、東洋医学の世界ではどうか。
「きっと直る」、まず、その気になることが、治療の核だというんです。
その気になることで、本当に免疫力や自然治癒力も上がるらしいんですよ。

もうだいぶ前ですが、私の叔父も、癌の手術をしたんです。
でも、取りきれなくて、全身転移、医者からは余命3ヶ月の宣告を受けたんです。
それを聞いた私の父が、だったら最期は自宅で…と、退院させたんです。

でも、本人は、その告知を聞いていなかったんです。
というのも、手術をした後、ひどい感染症を引き起こしまして、耳が聞こえなくなったんですね。
一時は、顔がパンパンにはれ上がり、呼吸も3回止まるほど。
その度ごとに、私の父親や牧師が駆けつけては、これまた大きな声で祈るわけですよ。
半分、逝きかけていたのを、無理やり引き戻されて、今度は退院でしょ。

それまでの叔父は、神様も何も、一切、信じようとしなかった人だったんですが、神様が救ってくれた!そう信じきっちゃったんです。

そしたら、どうでしょ。。。

全身に転移していたはずの癌が、本当に、きれいになくなっちゃったんです。

なんだか、半分、ずるいような話なんですけどね。
なんせ、本人は告知されていないんですから。
ですが、とにもかくにも、こうした病気が治ることは、実際にありうるんです。

しかし、本当の奇跡は、実は、この後から起きていったんです。


 30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。

「誰か」と言われても、もう、その他大勢の群集たちが、押し寄せているわけですよね。


弟子たちにしてみれば、
「先生、変なこと、言わんといてください。
 誰か…って、みな触っています。私だって触っていますよ。」
そんな感じだったと思うんです。

この時、実は、ヤイロという人が、娘が死にそうだから、助けてほしいっていうんで、先を急いでいたんですよね。
ヤイロも、「先生、お願いですから、急いで、娘のところに来てください。」
もう、必死で、先を急いでいたと思います。


ところが、それでも、イエス様は、動こうとしない…

 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


なぜイエス様は、この状況の中、この一人の女性のことに、こだわったのでしょう…。
そこに、何か隠された訳があるような気がしますよね。

そこで今日は、この女性が病気を患っていた「12年」という時。

この「12年」という時…というものを考えてみたいと思うのですが、皆さん、12年前は、何をしていましたか。

私は今38です。12年前といえば、26歳になります。
26歳といえば、われらがJTJ神学校で2年生の時だったんですね。
この時、生活のために、昼間、アルバイトをしながらたったんですが、
社員並みに働かせてもらいまして、「いのちのことば社」っていうんですけどね。
同期のカイク加藤さんが3月見事に卒業していく中、もう1年余計に勉強させていただける恵みを与えられたわけです。

ま、それでバイトを辞めまして、とにかく卒業し、
その後、結婚もし、働きながらの伝道活動を行い、1社、2社と渡り歩いて、
今、「にこまるツアー」で、5年目です。

皆さんもそうだと思いますが、12年の間には、いいことも、悪いことも、いろいろなことがあるものですよね。

でも、この長血の女性、彼女の場合には、そういった12年という時、ずーっと病気のために苦しんでいたんです。
それは、それは、長い長い12年間だったはずです。

「長血」という病気が、今でいうなんという病気かは断定できないんですが、出血を伴う婦人科の病気だと思われます。
そうすると、ユダヤの社会では、彼女に触れば、汚れる…、忌み嫌われてしまうんですよね。
その病気のために、仕事も結婚もできなかったかもしれません。
そんな彼女が、人ごみ、群衆の中にいることなんて、もっと赦されない、非常識なことだったんです。

だから、群衆の中に「紛れ込み」、うしろから、ばれない様に触っていたんですよ。
実に、12年もの間、社会も、また彼女自身も、彼女の人格を否定し続けていたのです。


「イエス様に触ったなんて言えない!」
まず彼女は、そう考えたと思います。ですが、イエス様は捜し求めて、先に進もうとしない。

そこで彼女も、覚悟を決めて、恐る恐るイエス様の前に進み出ていくのです。

 33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

彼女の真実ってなんだったんでしょう。
それは、単に病気が治ったということだけではないはずです。

12年もの間「長血」という病気だったこと、
いろんな医者にかかっても駄目、ひどいめにもあわされ、
全財産使いはたしてしまったこと、絶望に陥ったこと、涙に暮れる日もあったと思います。
その悔しさや悲しみ、あるいは憎しみといった感情もあったかもしれません。

たとえ病気が治ったとしても、「よかったね!」だけでは、すまないことってあるじゃないですか。
あの医者たちは一体なんだったのかとか、私の12年間は一体なんだったのかとか…、
もし彼女がそっちの方に考えが行ってしまうとしたなら、彼女が納得できるような答えは見つからないんですよね。
そこに、救いもないんです。
心に傷を負ったまま、結局、病んだままになってしまうんです。

「12年」という時…。これが、彼女の真実です。

彼女は、イエス様に、その真実を余すところなく打ち明けたのです。

その悲しみや、苦しみ、12年間の真実を、全部、余すところなく打ち明けた、その後に、
イエス様は、彼女に語りかけたわけですね。


 「娘よ…。」

それは、まさに、彼女の全人格に向けて、呼びかけられた言葉でした。

 34 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。…」

こうしてはじめて、彼女の全人格に対して、本当の奇跡、「救い」が訪れたんですね。
体だけではなく、心にも「元の気」、元気を取り戻せたんです。

 34 「…安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

この先、彼女が、まったく病気にかからなかった…わけではないと思います。
クリスチャンになったら、カゼ一つ引かない、虫歯一本ならないという人は、まずいません。
カゼにもなれば、虫歯にもなります。
私の父も、癌だったわけですが、父は癌が消えることはなかったわけですね。
人間、いつかは、何らかの理由で、この世の生涯を閉じる時が来ます。
彼女もまた、同じです。


しかし、たとえ死を迎えるような病気になったとしても、
もし、心は平安、すこやかにその時をすごすことができたとしたなら、
それは、病気といえるでしょうか。
病気も、もはや病気ではなくなっているような気がします。


 先ほど紹介した、余命3ヶ月と宣告された叔父ですけど、
もともと脳卒中で半身不随がありまして、ひどい劣等感の固まり、お酒を飲んでは、わめき散らしてしまう…そんな人だったんですよね。

教会に行くようになってからも、しばらくは、あの人は嫌いとなれば、嫌な顔して、握手もしない…、そういうタイプの人だったんです。
でも、徐々に、徐々に、変えられていきまして、いつしか、誰にでも、笑顔で接するようになっていったんです。

退院してから3年、ある日、肺炎になりまして、病院に行く途中、眠るように天国へと旅立っていきました。
とっても穏やかな最期だったようです。
叔父が、その生涯を、健やかに幕を閉じるためには、その3年という時も、また必要だったのかもしれませんね。

時に、私たちは、先を急ぐあまり、立ち止まって振り向くことができないことがあるような気がします。

 5:31弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか」

特にこの現代、次から次へと情報が流れていて、時代は瞬く間に変化していきます。
忙しいという字は、心を亡くす…と書きますが、
立ち止まってなんかいられない、振り向いてなんかいられない…、
一人の人のために、もしかしたら自分自身のことですら、振り向く余裕を失ってしまうのが、この現代なのかもしれません。

しかし、イエス・キリストは、そうではありません。

 …イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
 …イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


イエス・キリストは、目には見えません。耳で言葉を聞くことはできません。
しかし、今日も、ここにいて、私たち一人一人の声を聞きたいと願っている。

信じて救われておしまいではなく、信じた時から、本当の奇跡、
全生涯、全人格をかけた救いが始まっていくんですよね。

私たちが、心も体も元気であるために、たった一人のためにも、振り向いて、
その人のことを知ろうとしてくださる…、それがイエス・キリストです。


 彼女は、イエスに真実を、余すところなく打ち明けた・・・。



いま少し、イエス様の前に、私たちの真実を打ちあけて行く時を持ちたいと思います。


今、皆さんが、人には言えない、一人、心に抱え込んでいる悩みはないでしょうか。
もしかしたら、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
過去に負った傷、まだ癒されていない傷なのかもしれません。
でも、真実なそのままの私を、イエス様に打ち明けてみましょう。


あなたの信仰があなたを救った…!! 病気にかからず、すこやかでいなさい。

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2012年01月28日

【原発問題】電気料金の値上げ。原発はコストが安い?

「今、万軍の主はこう仰せられる。あなたがたの現状をよく考えよ。」ハガイ1:5

今回は少し「電気料金」の話をしてみます。
今回、原発が使えない分、火力の燃料費分がコストあがるというわけですね。
だから、やっぱり「原発が必要」という話になりそうで、ちょっと心配。。

でも、原発には、これまで多くの国のお金(つまり国民の税金)が使われているので、
これまで安く提供できている「ようにみえる」だけなのです。

実は、知らない間に、別の形「税金」として、支払っているのです。

東電の場合、今回、燃料費のコスト増加分は約6500億円のこと。
ですが、原子力には、核燃料サイクル事業において45年間で少なくとも10兆円、
さまざまな研究費用、開発費、人件費、
また原子力を(安全に?)利用するために、保安院の審議官や、安全委員会の委員には、
一人年間1000万円以上の給与を支払い、他にも多くの機構が存在しています。
地域への助成金などなど、これらを全て含めると、火力よりも原発のコストははるかに高くなってしまいます。

ただ、これらの原発のコストは「電気料金」ではなく、「税金」で国が支払っているので、
電力会社は安く電気を提供できるという仕組みなんです。


いざ事故になれば、損害賠償、廃炉費用にかかる経費は「兆」の単位です
(燃料棒取り出しだけで1兆円の試算のようです)。

もし、これらの費用が他のエネルギー政策に割り当てられていたら…、
「増税」もいらなかったという話ことになるのかもしれませんね。。。(^_^;)


今は、こうした全てをを見直す時期。
国民も強い関心を寄せていないと、また元の木阿弥に戻ってしまいます。

ちなみに原子力の発熱量は火力よりも多く、海水温をあげてしまうので、
温暖化防止にもならないのです。
今は火力で凌ぎつつ、いち早く次世代エネルギーを模索、開発したほうが
将来性があると私は思います。

昨今、航空会社も燃油サーチャージを徴収していますが、かかるべき燃料費は、
当然、消費者が負担せざるを得ない部分はあると思います。
今、この時期、節電できる仕組みを考えるなど努力は損にならないでしょう。

安い電気がないと困るから、誰かを犠牲にしていいことはないですよね。

 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

 そこで、イエスは彼に言われた。
「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 これがたいせつな第一の戒めです。
 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
マタイ22:36〜40

タグ:原発
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2011年12月21日

天地創造と原発

「はじめに神は、天と地とを創造した…。」(1:1) 

原発について読み漁っていますが、ずっと頭に引っかかっているのは天地創造です。
およそキリスト教と科学は、「進化論」をきっかけに、どこか喧嘩してしまっている部分が
あるのですが、私は残念な話だと思っています。
 

創造7日間の記述と科学の推論と照らし合わせると、決して矛盾ばかりしているわけではなく、
一致してくることも多いのです。
 

ところで、原子炉、核分裂の燃料となるウランは、いつから地球上に存在していたのでしょう。
聖書でいうところの、創造の「1日目」からです。

2 「地は形なく、何もなかった…」 

科学的見地から見れば、地球誕生直後は、初期地球は無数の隕石が衝突し、
高温でドロドロの溶岩、マグマの状態でした。
その時の熱エネルギーの一つになったのが、実にウランの核分裂らしいのです。

地球全体が、金属でも溶かしてしまう高温状態、まさにメルトダウン。
このドロドロのマグマが、地球内部に残り、多くの地熱を蓄えているから、
今の地球環境もあります。
また、それが故に火山活動もあり、プレートが動き、地震活動もあるわけです。 

ウランも必要があって、存在していたわけです。
もちろん、ウランの核分裂によって、プルトニウムも必然的に存在していたはずです。
ごくごく微量ですが、自然界にも天然プルトニウムも存在しているそうです。 

この時の大気のほとんどがCO2、多くのスモッグで真っ黒の状態でした。
もちろん放射性物質もバリバリです。
外から見れば、暗黒の雲に覆われた「闇」に包まれていました。
つまり、地球全体が巨大な原子炉みたいなものだったわけです。 

2 …やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。 

しかし、地球には生物にとって、なくてはならないものが備えられていました。
「水」です。
高温ですので、この時には、まだ水蒸気です。

次に「光」です。 

3 そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。 

これをビッグバーン的な光の創造と考えてしまうと、科学的な矛盾が発生します。
しかし、11節で、すでに天も地も創造されているので、太陽も、光もあるはずです。

通常、日本語では「光があった」という表現はほとんどしません。
これも誤解のもと。
では、普通、日本語では「光がある」状態のことを何というでしょうか。。。
「明るい」と言うはずですよね?
日本語文化圏では、光を物質的な存在としては認識していないのです。
(英語ではlightを量的にも表現します。)

 …神は「明るくなれ」と言われた。すると「明るくなった」。 

これが、「光がある」ということ。私たち日本語文化圏に住む人間の感覚での表現なんです。

核爆発によって巻き上げられている暗黒の雲に覆われていた地球には太陽光線が
届いていませんでした。
しかし、巨大な隕石が衝突することによって、スモッグが蹴散らされ、地上に太陽の光が
もたらされました。
つまり、「明るくなった」のです。
 「1日目」です。

しかし、まだ太陽や星が見えるほど、クリアではありません。
ただ、これによって多くの大気中の熱や、スモッグ、CO2も、大気圏外に分散されました。
地球は徐々に冷えていきます。
やがて、水蒸気も地に落ちていくようになり、初期の海ができます。

 7 こうして神は、大空を造り、大空の下にある水と、大空の上にある水とを区別された。

 初期の海はまだ高温で、高い気圧のもと200度くらいだったと言われています。
多くの酸化物、鉱物、放射性物質も多く含んでいるので、まだ生物が生息できる状態ではありません。
これが「2日目」です。

 9 神は「天の下の水は一所に集まれ。かわいた所が現われよ。」と仰せられた。 

ウランの核分裂もおさまり、徐々に冷やさた溶岩は固くなっていきます。
固くなった地表が内部の圧力によって、火山や地震、地殻変動となって押し上げられます。

こうして地面が出きると、さらに海水の酸も中和されていきます。
高濃度の放射性物質も、少しずつ放射線が減少していきました。 

ここで、ある生物が生息する三大要素が揃います。
CO2」、「光」、「水」です。

そこで登場するのが、植物です。

 11 神が、「地は植物、種を生じる草、種類にしたがって、その中に種のある実を 
 結ぶ果樹を地の上に芽生えさせよ。」と仰せられると、そのようになった。
 

植物によって、光合成がはじまると、CO2から、酸素が生み出され、大気も冷えていきます。
かすんでいた大気も、徐々に浄化されていき、太陽や月、星が見える様になっていきます。 

14 ついで神は、「光る物は天の大空にあって、昼と夜とを区別せよ。しるしのため、
 季節のため、日のため、年のために、役立て。 

 こうして、魚、鳥…、動物たちが生息する環境ができました。

 ここまでの順番は科学と聖書は矛盾しません。
およそ3000年前の記述が、ここまで一致するのは、不思議です。

そして人間が創られたのは、最後の6日目です。
進化論上でも、人間は、一番新しいといってもいい動物でしょう。 

私たち人間が生息するためには、この「6日目」の環境が必要です。
この環境に合わせて、人間は創られています。 

当然、「1日目」の環境では過ごすことができません。
2日目」でも無理です。
3日目」で、ようやく植物が生息可能な環境でした。 

地球上の多くのウランは安定していますが、ごく一部、まだ核分裂を起こす
ウランが
残っています。

原子力というのは、初期の地球、「1日目」で使われたウランの燃えカスを
利用する
ことから始まりました。 
神が「1日目」で使われたウランの燃えカスを、人間がわざわざ掘り起こして
利用しようと
した結果、地震や津波で制御しきれなくなったのが、今回の
「福島」の事故です。

皮肉にも地震や津波も、実は地球初期にウランの核分裂によるエネルギーに
よって
生成されたマグマの圧力があるからだとすれば、なんと皮肉なことでしょう。 

なぜ、わざわざ「1日目」に戻る必要があったのでしょう…。
今は、「2日目」のように、水で一生懸命冷やしている…そんな状態なのかもしれません。 

進化論の問題点は、「生物は環境に応じて、変化できる」という楽観にあります。
残念ながら、DNAの研究から、人間に突然変異できる可能性のあるDNAを持つ動物も、
人間から進化した動物も、現在のところいません。

もちろん多少の環境なら、突然変異しなくても対応できます。
しかし、人間は、真に原子力をコントロールできるほどの能力もなければ、
放射能汚染された環境に対応できるほど、万能でもないということかもしれません。

私たちに必要なのは、「1日目」ではなく、「6日目」の環境です。
6日」というと簡単に思われがち、読んでも6分にもならないですが、
神の「6日」の中身は、科学…人間から見れば、何十億年分に匹敵する内容なのです。
神が「6日間」かけて創ってくれた自然の恵みを、もっと大切にしたいものですよね。
 


…そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。
  見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。 創世記 1:31

タグ:創造論 原発
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2011年12月16日

【原発】福島原発から流出した放射性物質は「ゼロ」?

 
今日の午後なされる「冷温停止」宣言に掻き消されてる大切なニュースです。

福島だけではなく、本当に東北の復興を願う方、三陸の牡蠣、気仙沼や石巻の漁業関係者、
魚を食べたい人も、ぜひ見てほしいと思い
ます。
原子力安全・保安院は、福島原発から流出した放射性物質を「ゼロ」とみなすというのです。

... 正直に言って、あんまりネガティブな言葉は書きたくはありません
でも、本当に大切な情報が伝えられていないような気がするのです。知っていて、納得する
のであればいいんです。
この記事を出しているのは、見る限り「東京新聞」だけです。私も知ろうとしなければ、
知らないままで終わっていると思います。今
の私にできる一つは、「伝える」ことだと思います。
これがどんな意味を持つのでしょうか…。

原発の事業者には、当然、法律で放射性物質の流出を規制されているわけですが、
今回の事故では4月の4700兆ベクレル(規制値
の2万倍)の漏出をゼロ、12月4日の
2600億ベクレルのスト
ロンチウムもゼロ、今後も「事故収束まで」、漏出や意図的な
放出
があっても、すべて「ゼロ」、つまり規制すべき機関が「規制しない」(責任はとら
ない)というのです。

すでに流出した放射性物質はどうしようもないですが、今後も規制されません。
「ただちに」健康に影響を与えない範囲で、「世論」が許す限り…ということになるんだろうと思います。

「安全」に原発を廃炉をするためには、時に、やむを得ない時も出てくるのかもしれません。
でも、誰の安全でしょうか?
今、とりあえず「冷温停止」しました。
優先順位は、廃炉や何年かではなく、これ以上放射性物質を流出させない、国民に被害を
与えないように工程は組むべきです。しかし
「規制はない」のです。
廃炉はどんなに時間を懸けても安全に、除染は1日も早く速やかになのです。

原発を守るためなら沿岸の魚介類の汚染は仕方なく、さらに食物連鎖で濃縮されて
いくことにもなります。
「規制」もなく、「ただちに健康に影響を及ぼすレベルではない」という曖昧な発表の元、
またまた「風評」で判断されることになり
ます。
現実問題として、流出した物質は黒潮にのって、多くは北上します
およそ茨城県から北海道の太平洋沿岸、近海で取れる魚介類、そこを通る、さんまや
カツオも危険にさらされます。
復興を目指す気仙沼、三陸の漁業関係者にも大きなダメージになるはずです。

「原子力安全・保安院」は、電力会社が適切に原発の管理、運営しているかをチェックする
機関なのですが、あくまで「原子力」の「
安全」「保安」であって、決して近隣住民、漁業関
係者、環境をは
じめ国民の「安全」ではありません。管轄外なんです。

もし、なんとなく、それでも仕方がないか…で終わるなら、国や東電、保安院と変わりません。
今、この事態になっているのは、これまで「なんとなく」原発を暗に認めてきた結果だと、私は思っています。

しかし、私たちには選挙権があり、また原発について国民投票を実現しようとする活動もされています。
その時、適切に判断してもらうためにも、まずは情報をシェアしていくことだと思うのです。

東京新聞 「保安院 海への汚染水 ゼロ扱い」
http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011121690070643.html

 福島第一原発事故で、何度も放射性物質を含む汚染水が海に漏出したが、
経済産業省原子力安全・保安院は「緊急事態」を理由に、法的には流出量は「ゼロ」と
扱ってきたことが本紙の取材で分かった。
今後、漏出や意図的な放出があってもゼロ扱いするという。
政府は十六日に「冷温停止状態」を宣言する予定だが、重要な条件である放射性
物質の放出抑制をないがしろにするような姿勢は疑念を持たれる。


 原子炉等規制法により、電力事業者は、原発ごとに海に出る放射性物質の
上限量を定めるよう決められている(総量規制)。福島第一の場合、セシウムなどは
年間二二〇〇億ベクレルで、年度が変わるとゼロから計算される。


 しかし、四月二日に2号機取水口近くで高濃度汚染水が漏出しているのが
見つかり、同四日には汚染水の保管場所を確保するため、東京電力は建屋内の
タンクに入っていた低濃度汚染水を意図的に海洋に放出した。

 これら二件の漏出と放出だけで、原発外に出た放射性物質の総量は四七〇〇
兆ベクレル(東電の試算)に達し、既に上限値の二万倍を超える。

 試算に対しては、国内外の研究機関から「過小評価」との異論も出ている。


 今月四日には、処理済みの汚染水を蒸発濃縮させる装置から、二六〇億ベクレ
ルの放射性ストロンチウムを含む水が海に漏れ出した。

 さらには、敷地内に設置した処理水タンクが来年前半にも満杯になる見込み。
この水にもストロンチウムが含まれている。東電はできるだけ浄化して海洋放出する
ことを検討している。漁業団体の抗議を受け、当面は放出を見送る方針だ。


 保安院は本紙の取材に対し、事故への対応が最優先で、福島第一は損傷で
漏出を止められる状態にない「緊急事態」だった点を強調し、総量規制を適用せず、
四七〇〇兆ベクレルの漏出をゼロ扱いする理由を説明した。


 「緊急事態」に伴う特例扱いは「事故収束まで」続くとも説明したが、具体的な期間は
「これからの議論」とあいまい。

 今後、仮に放射性物質を含んだ処理水を放出したとしても、ゼロ扱いを続けるという。


(東京新聞)


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2011年12月14日

【原発】「6割が1mSV未満」か「4割が1mSv超え」か

今頃になって、原発の本を読み漁っていますが、これまで自分の無知、無関心、
無責任ぶりをつくづく感じています。
その結果として
、今の「福島」もあるんだと思うと、本当に申し訳ない限りです
なので、「原発問題を考える」カテゴリを追加しました。

これまでの私の感覚では「危ないんじゃないかな。大丈夫なのかな
でも、自分ではどうすることもできないし…。」という感じで、
深く知ろうとまでは
していませんでした。
すでに知ってた人は知っていたのかもしれません。
ですが、恥ずべ
きことに私は知ろうともしませんでした。

... 「想定外」と「想定しない」のとは違うと思います。
地震大国日本にあって、今回の事故は「想定内」の出来事でした。
震災前から警鐘を鳴らしていた人たちは大勢います。結果、その通りになっているのです。
もし「想定しない」のであれば、国や東電と同じです。
私にもその
責任の一端があると思っています。

原発は、現状、国のエネルギー対策として予算が投入されて行われています。
つまり、国が原発を止めない限り、下々の機関では、止まりません

もちろん、国民を危険にさらすわけにはいけませんから、「原発は安全」でなくてはなりません。
国の機関は「原発の安全」を確立するのが仕事です。その受注先の電力会社しかりです。
学者たちも、自分他の研究成果を実現させよ
うとしているわけですから、しきりに「安全」を説きます。
ここが味噌です。
決して「原発が安全」なのではなく、たとえどんなに危険をはらんでいても、
あくまで「原発は安全」でなくてはならないのです。
結果として「福島」では事故が起こり、「想定外」の被害が起きたわけです。

ですが、マスコミも発言をそのまま流してしまっていますので、情報を受け止める側には
注意が必要です。「ものは言いよう」なので
す。

13日の福島県による3月から4か月間の被ばく量調査のニュースの見出しです。

「一般住民最高は14.5ミリ=6割が1ミリシーベルト未満」
「外部被曝、97%が5ミリSv未満…福島県調査」
「【原発】福島で被ばく線量調査 4割が1mSv超え」

どれも同じニュースソースです。
「6割が1ミリシーベルト未満」と聞くのと、「4割が1ミリシーベルト超え」と聞くのとでは、
その違いってありますよね?
ちなみに「1ミリシーベルト未満 62.8%」というのが福島県の発表、そのままの表現でした。

でも、注意してください。
これは「4か月」の「外部被ばく量」の計算で、「内部被ばく」は計算されていません。
一般人の被ばく許容量は、従来1年間で1ミリシ
ーベルトと言われています。
4か月の間に、外部被ばくだけで、対象者の4割が、1ミリシーベルトを超える被曝が
起きているということなのです。
福島では震災から9か月経っても、今でも1時間で1〜2マイクロシーベルト、
年間で1〜2ミリシーベルトになる放射線数値を出し
ています。

しかも、外部被ばくのみの数値だけを見て「この数値では健康に影響は少ない」とか、
「100ミリシーベルト以下では健康被害は立
証できない」というコメントにも驚きです。
これほど根拠のない、
無責任なコメントもありません。

繰り返しますが、今回の調査は「4か月」の「外部被ばく」のみの数値です。
「内部被ばく」は計算されていません。
将来的には、内部被ばくの影響の方が大きいことはチェルノブイリの実例でわかって
います。5年、10年後に結果が出てくるでしょ
う。

外部被ばくが大きいということは、その分、放射性物質を吸い込み、内部被ばく
している可能性も高いということです。
これがよく言
われる「ただちに健康に影響するものではない」という真意でしょう。

これで「外部被曝、97%が5ミリSv未満」という見出しが、まったくナンセンスで
あることは、すぐわかってもらえると思います

あたかも「安心」を誘導しているかのような表現です。
なぜでしょう。。。日本には、原発を継続したい人もいるんです。
報道機関が決して客観的事実のみを伝えているとは限らないんです
でも知らなければ、「ああ、被害が少なくて、よかったね」にもなってしまいかねません。

もしかすると、不安を煽るように聞こえてしまうのかもしれません
でも、これで「安心」してしまえば、本当に被害にあった「福島」の方々への補償は
どうなるでしょう。「立証できない」と軽く見ら
れてしまいかねません。
曖昧な「安心」「安全」の名のもとに、危
険な原発も再開されてしまいます。
しかし、正確な情報がきちんと流れれば、対策も可能です。

ちなみに、放射線量よりも放射性物質が問題です。
内部被ばく、放射性物質を吸い込むことを防ぐには、インフルエンザ対策用の
マスクが一番です。一番危険なプルトニウムの粒子はウ
イルスより若干大きい
ので、吸い込むことを防げます。

まずは、正しく知ることからです。
本当の意味で「福島」を助けることができるのも、危険な原発を止められるのも、
電力会社ではなく、私たち国民の声であると思うの
です。

▼福島県「福島県県民健康管理調査」平成22年12月13日
http://www.pref.fukushima.jp/imu/kenkoukanri/231213gaiyo.pdf

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2011年12月12日

「王として生まれたキリスト」ヨハネ18:33〜40

2011年12月11日 キリスト教会「石巻祈りの家」

石巻祈りの家 石巻祈りの家
 (個人宅で行われている正真正銘アットホームな家の教会です。)

 みなさん、おはようございます。
 今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

 さて教会の暦では、クリスマスを前にして、アドベント、まさに救い主がお生まれになるのを
待ち望む時期にあたるわけですが、私たちは一体どんな救い主を待ち望んでいるのだろう、
クリスマスには何を喜び、何を祝おうとしているのか…って考える時なわけです。

 …と言いながら、今日の箇所は、クリスマスとは全くかけ離れた、イエス様が十字架に
着けられる直前、ピラトの裁判のシーンだったりするんですが、私たちは、幸いなことに、
イエス・キリストがどういうお方であるか、イエス様がお生まれになった後の出来事、
その生涯全体をよく見て、そのイエスが、神の子、救い主かどうか、じっくり判断することが
できるわけですよね。
 その上で、イエス様を救い主としてお迎えし、イエス様がお生まれになったことも祝う。
 これが私たちにとってのクリスマスです。

 しかし、当時のユダヤ人たちは、歴史の順番通りにしか見ることが出来ないわけです。
つまり、救い主が実際どんなお方で、どんな風に救いをもたらしてくれるのか、見ることなく
待ち望み、そして迎えることになるわけです。その違いって、あるような気がします。

 この裁判では、「ユダヤ人の王」ということが焦点になっているわけですが、ユダヤ人たちは、
王と名乗るこのイエスという男を死刑にしろというわけです。
 ところが、このピラトはローマ総督ですから、なぜ死刑にしなくてはならないのか、まるで
見当もつかないわけです。

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。
     「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。
     「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
      あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。
     「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、
      あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」

もし、例えば私がですね「私は王だ」と名乗ったとしても、「お前は馬鹿か」で終わるじゃないですか。
例えば、政治的なテロでも起したなら別ですが、ただ単に、自分は王だと名乗っただけなら、
死刑にまではならないですよね。

今、ピラトの目の前にいるイエスという男は、縛られて、なんら抵抗するわけでもない、
ローマを冒涜したわけでも、政治的な活動をしてきたわけでもない、
たとえローマに刃向かったとしても、ローマの軍隊にかなうわけがない。

なぜユダヤ人たちが、これほどまでにイエスを十字架刑にしろというのか、その理由が
わからないんですね。私たちにも、わからないところがあるのかもしれません。
 
そこで、ユダヤ人たちにとっての「王としての救い主」とは、どんな意味を持つのか、
まずは歴史の順番どおりに、少し見ていきたいと思います。

イザヤ書 9:6
 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

これを預言したイザヤは、実にイエス・キリストの誕生から700年以上前に活躍した預言者です。
イスラエル自体もともと小さな国なのですが、それが南北に別れてしまい、外国の脅威に
さらされていたですね。その時に、救い主の誕生が預言されたのです。

それから700年という間、彼らは、救い主を待ち続けることになるわけです。
 
クリスマスまで、あと700年。待てますか?
誰も待てん…というか、誰も生きていません。
それどころか、ただ「700年」といわれても、あまりピンと来ないまま、話が流れてしまうと思うんですね。

今から700年前というと…、西暦1300年、日本でいえば鎌倉時代の末期になります。
1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏によって室町幕府が建てられたわけですね。
それから戦国時代、織田、豊臣、そして徳川によって江戸幕府…
ちょうど今年はNHKの大河ドラマで「江」がやっていましたけど、その江戸時代が15代、
260年続いた後に大政奉還、明治、大正、昭和、平成へと…気が遠くなりそうですが、
これが700年という時です。

その700年間、何世代にも渡って、いつ来るかもわからないまま救い主を、ずーっと
待ち続けていたわけですよ。

イスラエルは、イザヤが預言してから間もなく、まず北のイスラエル王国がアッシリア
という国によって滅ぼされます。
その後、新バビロニアによって南のユダ王国も滅ぼされ、バビロン捕囚、外国に囚われの
身になったこともありました。
その後もペルシア、ローマ帝国と、常に外国の脅威にさらされて、ほぼその支配下に
あったわけです。


彼らは、周辺諸国と戦って、イスラエルの独立を果たしてくれる王としての救い主、
まさにイスラエルにとっての「平和の君」が現れるのを、ずーっと待ち続けていたわけです。

 実にイエス様の弟子たちも、またそうだったんですね。
 彼らもまたイエス様がイスラエルの独立を果たしてくれると信じていたんです。
使徒の働きの1章を見てもわかります。

使徒1:6 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

十字架、復活の後も彼らは、イスラエルの独立を求めていたのです。

一方で、ユダヤ人の中には、王としての救い主が来られては困る人たちもいました。

まず、その一人はヘロデ大王です。
もし自分以外に王がいるなら、彼にとっては自分の座を奪う敵ですよね。
実際に、彼は、東方の博士から「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、
2歳以下の男の子を皆殺しにしています。

そして、もう一人は実質的な政治を行っていた大祭司をはじめとする祭司たちです。
彼らは、群集がイエスのことを、待ち望んでいた救い主だと信じて、暴動が起きることを
何よりも恐れていました。
もしそうなればローマが黙っていない。本当に、イスラエルは潰されてしまう。
彼らは彼らなりに、イスラエルの国のことを考えていたんですね。
彼らは、イエスの人気や力も知っていましたから、それだけにイエスを非常に危険視したわけです。
そして、ついにイエスを捕らえて、ローマの手に引き渡すことができたわけです。

さて、あとは群衆たちですよね。
皆さん、どうでしょう…。
よく群集たちが、あれだけイエス様を大歓迎してエルサレムに迎え入れておきながら、
1週間も経たないうちに十字架につけろと叫ぶようになったのか…。
疑問としてあがるところだと思うんですよね。

でも、今の日本、まさに、これと同じだとおもうんです。内閣支持率なんてそうでしょ。
民主党政権になりました。それまでは、わっーと盛り上がっていたと思えば、批難の嵐です。
子ども手当て一つだけみて、政権や内閣の是非って問えますか。
野田内閣になって、また少し盛り上がったかと思えば、引いていくわけですよね。

まして、神様から約束された「王なる救い主」のはずが、今、まさに敵国ローマの手によって
捉えられている、もし、その姿を見たとしたなら、皆さんなら、どう思いますか…。

私なら、がっかりするというか、正直、偽者だと思ってしまうと思う。
だから、あれほど集まっていた大勢の群集たちも、みな一斉に引いていったわけです。
それどころか、期待が大きい分、何だ、偽者じゃないか、十字架につけろと叫ぶようにもなったのです。

日本は、いまだかつて世界地図の上からなくなったことのない国ですから、その心情は理解し
得ない部分もあるかもしれません。
でも、ユダヤ人にとっての「王としての救い主」というのは、それは待ち続けた700年という時の
重さでもあったわけです。

一方、イエス様の方です。
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。
     もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、
     戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

イエス様は、実際に、この世の国のこと、政治的活動をしてきたわけではありません。
イスラエルという国を守ろうとするとき、そこには必ず戦いがある。それは旧約聖書の歴史が嫌というほど物語っていることです。
イエス様は、そういったこの世の国と国の壁、民族、部族を越えた、神の国へと招こうとしていたんですね。

イエス様が、捕らえられるときにも、弟子の一人が剣をとったわけですが、「剣を持つものは、みな剣で滅びる。」
イエス様はすぐにやめさせました。神の国は、そうやって勝ち取るものではなかったからです。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」
     イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
     わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
     真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

イエス様は、これまでご自身のことを「王」として公に語ったことはありません。
むしろ、弟子たちに救い主であることを隠すようにも言われて来たほどです。

ところが、この裁判の席上では、公に自らを「王」として名乗ります。
まして、この状況、場面で公にすることは、必然的に十字架を意味していたわけです。
でも、その死を目の前にした場面で、イエス・キリストはこう語るわけです。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

ピラトには、まるで、その真理が死をもたらすかのような、死ぬために生まれてきたかのように
聞こえたかと思います。

ピラトは言います。「真理とは何か。」

真理とは何でしょう。皆さんなら、なんて答えますか。「真理とは何か。」


真理にも、いろいろあると思いますが、この時、この場面で言われるところの真理とは何か…。
岩波国語辞典によれば、真理とは、本当のこと、間違いでない道理、正当な知識内容だそうです。

たとえば、もし本気で平和を実現しようとするならば、それは単純に、せーので、武器を捨てる
ほか道はない。平たく言えば、愛し合うということ。これも一つの真理だと思います。

でも、人間は武器を持ってしまう。必ず武器を使ってしまう人間がいる。
これも真理といえば真理でしょう。

武器をとり、それを使う人間がいる中で、武器を持たないということは、まさに命がけです。
平和を願いながら、やはり武器を取ってしまう。あるいは、武器を持たせてしまう。
これもまた、私たち人間のもつ真理なのかもしれません。

しかし、武器を持って戦わせるのではなく、国民を救うために、王自らが命を捨てる。
普通は、王を守るために、国民が戦います。王が死ぬとき、その国家は敗北です。
かつてのイスラエルもそうでした。王が死んでは、一見すると、無意味のような気がします。
あり得ない。
しかし、それが、平和への道だとしたら…。

王自らが、十字架で命を捨てる代わりに、イスラエルも、ローマも、日本も、あらゆる国民を
神の国へと招き入れる。
これが、「王」であり「救い主」としての使命、生きる道であり、真理だったのではないでしょうか。

この後、19章のところを見ると…
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。

「さあ、この人です。」と訳されていますが、昔の訳では、「この人を見よ」。

やや差別的な言葉が使われていて、ピラトにしてみれば、この無力で哀れな男を見てみろ、
これでも死刑を望むのか…そういう意味で、言ったと思います。

ピラトにしてみれば、バラバの方が、よっぽど危険人物に見えたに違いありません。

このバラバこそ、強盗と書かれていますが、ローマからの独立を目指して、取税人や
ローマの兵隊を襲って強盗働く革命家、つまり自称「救い主」の一人ではなかったかと
言われています。
当時、そうやって本当にテロ的な活動をして、十字架刑に処せられていた人たちも多くいたんです。

ですが、先ほども言いましたが、イエス様は政治的な活動をしてきたわけではありません。

この人を見よ…!! 

しかし、この時のユダヤ人たちには、イエスの方が、神の名を語る偽者のように見えてしまったのです。

十字架の死というと、なんとなく気分も重たくなると思うんですね。
ですが、イエス様は、決して、死ぬために生まれてきたわけではないと思うんです。
この場面で、十字架を背負ってしまう、それがイエスという男ではないでしょうか。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」
十字架に釘打たれる中、こう叫びます。
「父よかれらをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

少なくとも彼は、あらゆる国民を守るため、王自らが命を捨てる。
それはユダヤ人に限らず、私たち人間が誰しも抱えている咎、エゴ、罪がもたらした
結果かもしれません。
イエス・キリストは、私たちの「罪」のために十字架につけられたというのは、
ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。
その十字架を背負い、最後の最後まで「王なる救い主」として生きたんですよね。

今日の交読文、イザヤ53章を選ばせていただきましたが、まさにイエス・キリストの
預言と言われている箇所です。その中にこう出てきます。

イザヤ53:11
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう…。

これが神の御心であり、王としての姿。この「受難のしもべ」とも呼ばれるお方を
「王なる救い主」として迎えるとき、イエス様も喜んで私たちの王として、私たちを
神の国の一員として迎え入れてくださるんですよね。

この人を見よ。
この人を見たとき、何を感じ、どこに真理を見出すか。

哀れな人だと見るか、ただの馬鹿だと見るか、それともこの方こそ神の子、
王なる救い主と見るのか。それは、もう人それぞれだと思います。

この時、多くのユダヤ人たちは、イエス様を救い主としては認めることができず、
その後も救い主を待ち続けることになりました。

このあと、イスラエルは、ローマによって滅ぼされ、それから、さらに1900年の間、
差別や迫害も受けながら、ただ救い主を待ち望み、その信仰のみで、ユダヤ人と
しての自分たちを守ってきた民族です。

今でこそ、彼らは国家を持ち、軍隊も持っています。
ユダヤ人にもいろいろいるわけですが、でも敬虔なユダヤ教徒たちの中には、
今のイスラエルは人の力、暴力によるもので、神のイスラエルではないと言う人もいるんですね。
彼らは、まさに今もなお「王としての救い主」、平和の君を待ち望んでいるわけです。


さて、私たちは、今、どんな救い主を待ち望んでいるでしょうか。
救い主に、どんな期待を持って待ち望んでいるでしょうか。。。

誰しもが家内安全、商売繁盛、健康で、いつまでも幸せを願うと思います。

ところが人生、山あり、谷ありです。決して順風満帆ばかりではありません。
特に今回の震災では、皆さん、本当に多くの悲しみ、痛み、苦しみを負って
こられたかと思います。
正直、救い主、神様がいるなら、なぜ?と思うこともあると思います。

しかし、イエスキリストは、私たちの貧しさの中へ、悲しみの中へ、
その痛みの中に来てくださるお方です。

 イザヤ53:3 彼は、悲しみの人で病を知っていた…。

2000年前、イエス・キリストは、貧しい大工の家庭の子供として、馬小屋で生まれました。
私たちと同じように、何も出来ない、赤ちゃんとして生まれたんですね。
何も出来ないどころか、世話をしなければ、生きていけないんですよ。

それが、世界で最初のクリスマス。これが「王として来られた救い主」の姿です。

ですが、馬小屋だったからこそ、野にいた羊飼いたちも、救い主のもとに駆けつけることができました。
あたたかな布団はなくても、マリアとヨセフがいて、愛とぬくもりがあったと思います。
貧しいかもしれないけれども、そこには確かに「平和」があったのではないでしょうか…。

そんな王としての神のひとり子、イエス様をお迎えするクリスマスになったらいいですね。

イザヤ 9:6
  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
  主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。


 

posted by holyhope at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2011年12月09日

「反原発」より「脱原発」

昨日、家の鍵を忘れてしまい、夜11時まで奥様の帰りを待つことに…(笑)

その間、本屋で、原発関係の本を買いあさっていたのですが、奥様から一言。。
「変な方向に走らないでよ〜」

... ま、確かに。。。
こんなネタを書くと、そう思われてしまうこともあるかな〜とも思います。
でも、プラカードもって、「原発反対!」とデモするつも
りはありませんので。。。(^_^;)

「反原発」よりも、まさに「脱原発」なんです。
正直に言えば、「電気」だけではなく、間接的にでも「原発」に纏わる様々な事業、援助、
恩恵を受けて、生活している方もいるだろ
うと思います。
実際に私たちも、巡り巡って、どこかでは恩恵を受けているはずです。

でも、その「原発」がいかに危険なもので、本当に「原発はいらない」んだってことを
なるべく多くの人たちに理解してもらう必要が
あると思っています。

なにはともあれ、まずは正しく知ることから。。。
その次に、何ができるかです。
ただ反対、ただ否定しても、何も生み出さないですもんね。。。(^_^;)

原発のことを知れば知るほど、福島を知れば知るほど、それが急務ということもわかってもらえると思います。

今、関東で、放射線量が上がった下がったやっているのは、かわいいものです。
福島は、それよりもっと生活の根底が覆されてしまったわけですよね。
農林水産業は現実的には難しいでしょう。
福島の土、全部入れ替えますか?海水取り替えてみますか?無理なんです。

私の母は、16歳の時、広島で被爆しています。
爆心地から1.5km、もちろん急性放射線障害は患いました。なので私は被爆2世なんですね。
それから15年後、姉が生まれた時、第一声はなんだったと思いますか?
普通なら、男の子か、女の子か、元気で生まれたか…が気になると思います。
でも、母は叔母にこう尋ねたそうです。

「指、何本あるか」

これが被爆者の恐怖なんですね。
さらに、13年後、私が生まれた時も、母は同じ思いを抱えながら産んでくれたわけです。
その息子が黙っているわけにはいかないで
すよね。

同じ、いや、もしかしたら、それ以上のことを、被爆国であるはずの日本が、自らの手で
起こしてしまったんですよね。それが「福島
」です。

事故が起きてから「想定外」は、なしこです。
日本は地震でできた国。全国どこてでも大地震は起こります。

これまで原発は、国のエネルギー政策として、国が多額のお金を注ぎ込んで、行なわれています。
それにも隠された訳があるのですが、それはそれとして、国の各機関は、地震を想定してしまうと
「原発」は作れなくなるので、「想
定しない」んです。
いや、わかっても、いかに「安全」かを説くの
が仕事なので、「危険性」は見て見ぬふりをせざるを得ないのです

今、東海大地震が起きたら、停止中の浜岡も福島と同じ危機に陥ります。
駿河湾に突き出した御前崎の隣にある浜岡原発が今回の事故を起こせば、海風と黒潮にのって
駿河湾沿岸部は放射性物質で汚染される
でしょう。
東海道は分断、風向きによって、関東、関西へも広がります。

あ、ちなみに、私の実家は静岡です。
今まではこんなところに原発があって大丈夫なんかな〜とは思いながらも、どこか我関せずで、見過ごしてきました。

いくら「岩盤の上にある」と言われても、その岩盤が乗っかっている直下のプレートごと
跳ね上がるのが東海大地震なんで無茶なんで
す。。。(T_T)
普通に考えて、プールの冷却水は跳ね上がります。
実際に新潟の地震で柏崎では起きていて、区域外に汚染水が流出していたようです。
地震で非常用電源が壊れない保証がどこにあるんでしょうか。。。
離れた場所に電源車用意していても、道路も壊滅するんで、きっと動けないでしょう。。。(-_-;)

全部、想定できる話ですし、実はこれまでも危機的な状況を現場の作業員が被爆覚悟で
守っていただけで、今回の事故も「想定内」な
のです。

なので、国の法律では、しっかり大都市の近くには原発は建設できないようになっているというわけです。

ちなみに昨日買った本は、まんま「原発はいらない」(小出浩章著)、京大原子炉研究所の助教の方が書いた本でした。


そのままだと、わけわからんで終わってしまうと思うので、なるべ
くわかりやすく伝えていければと思います。
ぜひぜひお付き合いくださいませ。。。<m(__)m>

逆に、もし、何か情報があれば、ぜひ教えてくださいね。(^^)


posted by holyhope at 14:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 原発問題を考える | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする