2012年08月05日

「ハートに金メダル」マタイ25:14〜30(タラントのたとえ話)

(2012.8.5 茅ヶ崎シオンキリスト教会)

みなさん、おはようございます。

毎年8月になりますと、悟先生の代打として登場する、自称8月の男、竹下 力です。
「8月の男」というと、年一回の登板でも何だかすごそうじゃないですか。ただの男なんですけどね。
「8月の男」勝手に気に入っているんですが、おそらく来年も8月には登場しますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。


さて、今、ロンドンオリンピックが行われていますが、メダルを取るって大変なことですよね。
思うんですが、水泳とか、体操だとか、なかなかメダルが取りにくい競技というのは、たとえ銀や銅でも、メダルが取れれば、大喜びできると思うんですよ。

ところが、柔道…、私も見かけによらず、かつて柔道をやっていたこともありまして、柔道を、よく見るんですが、金が当たり前、金メダル以外はメダルじゃないなんて言われたりもして、銀や銅だとなんだか残念…のような、なんだか緊迫感と悲壮感に漂っているんですよね。


オリンピックに出られることですら、本来、すごいことだと思うんですよ。ところがオリンピックで試合できる喜びよりも、金へのプレッシャーでなんだか選手たちも萎縮しているような。むしろ金にこだわらず、チャレンジ精神で、日本の柔道で、世界のJUDOに挑んでもらえたらなと思うんですけどね。

さて、今日は、そんなロンドンオリンピックから、インスピレーションというか、かこつけて「ハートに金メダル」なんてタイトルをつけてみたんですが、神様も私たち一人一人に、金メダルを用意してくれています。

えっ、私にですか…?、何に対してですか…?と思うかもしれませんが、皆さん、一人一人に、この8月の男にですら、ちゃんと金メダルを用意してくれているんです。
果たして、どんなメダルなんでしょうか?

今日は、それを「タラントのたとえ話」から見ていこうと思っているんですが…、その前に、このたとえ話、皆さんは、どのように受け止めているでしょうか。

話の内容をざっといいますと、

ある金持ちの主人が、遠くへ行くというんで、僕(しもべ)たちに財産を託していくんですよね。
能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりに2タラント、そして、もうひとりには1タラントを預けていくわけです。

5タラント預けた僕は、その5タラントを元手に、さらに5タラント儲けるわけですね。
2タラント預かった僕も、やっぱり2タラント儲けます。
帰ってきたときに、主人は、喜ぶわけですな…。「よくやった、忠実な僕じゃ。」

ところが、1タラントの男は、地面に埋めてしまうわけですよ。それを知った主人は、その1タラントの男を放り出してしまうお話です。


どう思います?

この1タラントしかもらえんと、この男が、なんだか、かわいそうにも思えたりするわけですが、
いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる…、
やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救いも取り消されてしまうんじゃなかろうか…、
そんなふうにも、読めると思います。


しかし、福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救い、ただこれ一本です。
聖書全体から見れば、そうです。

でも、このタラントのたとえ話、何もしないで怠けていれば、神様に裁かれる…そんなふうに誤解されていることも多いんじゃないか…と思うのです。


ですが、実は、この1タラントの男が、1タラントを地面に埋めておいたことが問題ではないんです。
この男が、お金を稼ぐ能力に乏しかったのでもありません。この男の主人に対する理解が圧倒的におかしいんです。


よく教会で「タラント」 といえば 「能力」、教会用語でいえば神様から与えられた「賜物」として使われることがあると思います。
確かに英語でも「タレント」といえば、「才能」とか「有能」という意味になりますし、日本で「タレント」といえば、芸能人のことを指したりもしますよね。それらもすべて、この「タラントのたとえ話」から派生してきた意味です。


なんですが、この当時、この「タラント」という言葉に、「能力」という意味はないんです。
これが大きな誤解の元かもしれません。
「タラント」とは、元々重さを量る「はかり」のことで、そこから、金の重さ、つまり金額をあらわすようになりました。
ですので、この時、イエス様が語られている「タラント」も「能力」を意味しているわけではなく、単純に金の量、金額です。

ですので、今日は一旦「タラント」=「能力」「賜物」という公式ははずしてみてもらいたいんです。


さて、その1タラントは、新改訳聖書の注釈では、6000デナリになります。
1デナリは、当時、労働者の一日分の給料に相当します。
仮に1日の日当を5000円と見積もったとしても、およそ3千万円という金額になります。


ですから、15節を読み替えますと、

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円(5タラント)、ひとりには6千万円(2タラント)、もうひとりには3000万円(1タラント)を渡し、それから旅に出かけた。」


なんだか、途端に、すごい話に変わったような気がしませんか。
話を聞いている弟子たちにしてみても、手にしたことも、見たこともないお金だったと思います。

確かに、5タラントや2タラントに比べれば、1タラントしか与えられていないように思うかもしれませんが、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。


もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ではないでしょうか。誰でもいいという額ではありません。
どうでしょうか。
もし皆さん、自分が社長だとして、留守の間、3000万円任せられる部下という人って、どういう人でしょう。
たとえ、どんなに能力があっても、若手の新人に任せられますか?
絶対にできないですよね。決して、誰でもいいというわけではないはずです。


この1タラントの男は、決して能力に乏しい男ではなく、3000万円の資金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もありました。
だからこそ、この主人は、この男に1タラント、3000万円を託して安心、彼を信頼して預けているわけです。


ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。

25:24 『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』


いったい、どういうことなんでしょう?
なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない…そういう話なんです。

3000万円あれば普通の会社なら十分に立ちます。
私も普段は旅行会社で働いているんですが、無担保で3000万円の融資が受けられるとしたら、こんなありがたい話はないですよ。
主人は、決して蒔いていないわけではないのです。


この1タラントの男は、単に怠けていたわけではありません。
だからといって、持ち逃げしたり、使い込んだり、悪いことはしていない、確かに1タラントを返すのです。

ですが、面と向かって「あなたは散らさない所から集めるひどい方だ」と言い放つわけです。
もし、この主人が本当に「ひどい方」で、この男が主人を恐れていたら、そんなことも言えないはずですよね。
主人が「こわくて」、地面に埋めたというのは、嘘なんです。

むしろ積極的な意思で、この「ひどい」主人のために、あえてリスクや苦労を背負って、一文たりとも稼ごうなんて思わない。
あなたが預かれといったから、預かっただけ。これ以上も、これ以下もありません、これがあなたものです。
私は言われたように預かりました。そのままお返しします。

主人の信頼や愛情を全く理解しようとはせず、ある種の敵意すらあるのです。

この主人は、決して、1タラントで何の利益が得られなかったことで、腹を立てたわけではないんです。
地面に埋めて置いたことが気に入らなかったわけでもありません。

あなたは、わたしのことをそのように思っていたのか…、この男の思いにショックを受けているのです。


この男にしてみれば、1タラントでも、5タラントでも変わりはありません。
金でも銀でも銅でも、石ころと同じ。地面の中に埋めてしまうのです。


25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

当時、イスラエルの宗教家たちも、確かに律法は守り、神様のことも信じていました。

しかし、彼らは、律法を守らなければ神からは祝福を受けられない、律法守らなければ神から裁かれる…、
極端な話、とにかく朝から晩まで、律法に反しないような1日のスケジュールを考えて、そのとおりに行動をしていたんです。
そうしなければ、神様にやられる、祝福を失う、まさに、彼らにとって神様は、まるで「蒔かない所から刈り取るひどい方」かのようでしたし、そう教えていたんです。
だから、律法を守らない民を裁いたり、さげすんだりもしていたんですよね。

しかし、彼らも、決して神様から愛されていなかったわけではありません。

…わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

旧約聖書のイザヤ書にある有名な言葉ですが、これは、まずイスラエルに、しかも名指しで語られている言葉です。

しかし、彼らは、神の愛が理解できず、イエス・キリストを地面に埋めるどころじゃない、十字架に釘付けにしようとしてしまうのです。

時は、まさに、そんな十字架が迫っていました…。

 本当に神は、蒔かない所から刈り取るようなひどいお方だと思いますか…。
 それは、大いなる誤解です。
 どうか、父の愛を受け取ってください…。
 わたしは、これから十字架を背負います。これが神の愛です。
 どうか受け取ってください。
 そうしなければ、与えられている愛まで、なくなってしまう、失っていくのです。


表現は厳しく語られていますが、これがイエス様の心です。

私たちは、能力の点で言えば、1タラント以下かもしれません。
誰か、私に無担保で3000万円融資してくれる人はいるでしょうか…。
誰もいません。
300円か、3000円か、せいぜい、がんばって3万円くらいだと思います。私なんか、0.001タラントの男ですよ。


ですが、これは、たとえ話。
商売やスポーツの世界では、能力や結果で評価されるかもしれませんが、福音の世界ではそうではありません。
信仰に応じて、誰にでも与えられる、神様の愛を受けとって生きる世界です。


神さまは、私たちにどれほどの「タラント」を与えてくれているんでしょうか。
初めに言いましたが、「タラント」は、「能力」ではありません。元々は金額です。
イエス・キリストの命を、もし金額に換算するとしたら、いくらになるんでしょうか。。。

1タラントでしょうか。2タラントでしょうか。5タラントでしょうか…

実に、私たちには、ものすごい「タラント」が注がれているんですよね。


私たちにとって、愛された喜びこそが、すべての原動力です。

ですが、その神様の愛に比べたら、私たちが神様のためにできる一つ一つは、実に小さなことかもしれません。
そんな自分に勝手に×をつけてみたり、これじゃあ駄目だと否定してしまったりすることはないでしょうか。。。

ある五歳の男の子が、お父さんの誕生日に、お箸をプレゼントしました。

ところが、それは料理で使う、長いお菜ばしだったんですね。
お父さんもそのお菜ばしをもらって、これお父さんになの?お母さんにじゃないの?
たまには、料理の一つくらいしなさい…ってことなのかななんて、
最初は戸惑ったらしいんですが、話を聞いてみるとですね、
はじめ、お店に行ったとき、その子が持っているおこずかいで買えるようなお箸がなかったらしいんですね。

それでも、その男の子は、お父さんにお箸をプレゼントしたくて、いろいろお店を探していると、他のよりも長くて立派なお箸が眼に留まったんです。
しかも、自分のおこずかいでも買える。それが、お菜ばしだったんですよね。
その子には、それがお菜ばしだなんてわかりませんから、もう喜んで、お菜はしを買ってきたわけです。


そのお菜ばし。それは、五歳の男の子の愛だと思います。
愛というのは、形ではありません。立派なことでも、大きなことでなくてもいいんですね。
能力でもない、成果でもない、ハートです。


一方、五歳の息子が、自分のためにお箸をプレゼントしようとして買ってきたお菜ばしだとわかって、嫌がるお父さんはいません。
その日の夕飯は、がんばって、その長いお箸で食べたそうです。
これはお父さんの愛だと思います。
このお父さん、私の恩師で巡回伝道者の福沢満雄先生なんですが、今でも、そのお菜ばしを取っておいてあるそうです。


神様の眼から見たとき、私達のしていることも、とんちんかん。抜けているところ、足りないところも、大いにあると思うんですね。
しかし、それを愛として、受け止めてくれるのも、神様の愛だと思います。

神様は、決して「蒔かない所から刈り取るひどい方」ではありません。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。


私たちがその愛に答えようとするとき、…能力や成果は関係ありません。

小さな者が、小さな者にする、小さなことにも眼を留めて、
そのハートを評価して、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』そう言って喜んでくださる。


私たちに、最高のタラントを与え、私たちのハートに最高の金メダルを用意してくださっているのではないでしょうか。



…よくやった。良い忠実なしもべだ。
  あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
  主人の喜びをともに喜んでくれ。

ラベル:たとえ話 マタイ
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「何を学び、何を伝えていくのか」マタイ28:16〜20

みなさん、おはようございます。

先日、私の友人で、神学校で説教学の講師をしている牧師と話す機会があったんですが、説教で大切なのは何だ…という話題になりました。
…といっても、まじめな説教学の講義ではなく、友人との話なんで、半分、冗談なんですが、説教で大切なことって、皆さんは何だと思うでしょうか。

私とその友人との間では、お互い開口一番、そりゃあ、まず笑いでつかむことだろう…ということで一致したんですが、いや、実際、笑いって大切なんですよね。半分冗談なんですが、半分は本当なんです。

これは別に説教には限った話ではなく、こうして人前で話すときにはすべて言えることなんですが、
人は笑うことで緊張が解けて、相手の話に耳を傾ける準備ができるらしいんです。


「牧師殺すに刃物はいらぬ、あくびの三度もすればいい。」なんていった人もいましたが、
もう笑いさえ取れれば、その説教は80%成功したようなもの。
あとは、基本、聖書の話じゃないですか。でも、実は、毎回、その笑いのネタを考えるのが大変なんです。


今、テレビでロンドンオリンピック、やってますよね。
昨日も、説教の準備の間に見たりするんですが、なでしこが勝つか負けるかよりも、大体、そういう時は、なんかネタはないか…と思いながら、見てたりもするんですよ。


だから、芸人さんって、すごいな…と思うんですよね。特に若い芸人さんなんて、つまらないネタやりながら、必死で、がんばっていたりするじゃないですか。そういう姿を見ると、わしもキリストの芸人としてがんばらにゃあかん…と思ってみたりもするんです。

さて、今日は、「何を学び、何を伝えていくのか」、宣教命令として有名な箇所を取り上げているんですが、
もちろん、いかに笑いを取るか…ではありません。


宣教命令…、みなさんもここから説教を聞く機会があると思うんですが、どんなメッセージが多いでしょうか。おそらく宣教しましょう!と語られることが多いのかなという気がします。


ですが、宣教を考える前に、私たちが聖書やイエス様から、いったい何を学び、何を伝えていくのか…、私たち自身が確かに確認しておくってことが、実は、すごく大事なように思います。

現実に、数々の教団、教派に別れ、それぞれに特徴や主張があったりもするわけです。
それはそれで、もちろん何が正しいのか探求している結果ですので、決して否定もできないのですが、一方で、細かい部分で、それぞれのこだわりを主張しあっていては、私たちであっても、何が正しくて、どうすればいいのか、混乱もしてしまうわけですよね。

そんな傍らで、本当におかしな聖書解釈によって、カルト化してしまう教会も存在してしまうんです。

クリスチャン以外の人たちからしたら、どうでしょう。。。
「これだから、宗教は…」って話にもなるわけですよね。実際、そうなんですよ。
つまり、そのつもりはなくても、周りには違うものが伝わっているわけです。

ですが、イエス様が何を教え、何を伝えてほしいのか、これが本当に大切なことですよね。それがイコール、私たちが何を学び、何を伝えていくのかでもあるべきです。
今日は、この宣教命令を足がかりに、変な話、実際にキリスト教会で語られている、おかしな聖書解釈もご紹介しながら、本当に伝えるべき大切なことは何なのかを、ご一緒に考えることができればなと思います。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。


聖書って、本当に正直だと思うんですよね。
十一人の弟子たちが、復活の主に会ったときに、「ある者は疑った」というんです。
「疑う」といえば、トマスが有名ですが、トマスだけでもなかったようです。

弟子たちといえども、復活の事実を目の前にした時に、にわかに信じがたい…これも真実なことですよね。ですが、この疑うこと、疑う者がいるというのは、この事実が本当なのか、何が大切なのか、真実を見極める上では、非常に大切なことでもあるように思うんです。


疑うというと、信仰と相反するように思うかもしれませんが、もし疑うことがなかったら、それはマインドコントロールにもなってしまうわけです。
これは、みなさんにも知っておいてもらいたいんですよね。マインドコントロールというのは、まず、この疑うということを禁じていくんです。

「正当」とされるキリスト教会の内部にでもですよ、マインドコントロール的な教えが説かれて、カルト化してしまっていることが実際にあるんです。


たとえばですね…

疑うのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

そうやって疑問の声を、シャットアウトさせたりもするわけです。


これ、実際にあった例ですよ。私に言わせれば、これこそ、サタンの惑わしです。
いつの間にか、イエス様ではなく、悪魔だとか、サタンの名で縛られていくんですね…、残念なことに、これが正当とされるキリスト教会の中でも起こりうる、マインドコントロールの一つのパターンなんです。もちろん間違いです。


ですが、もし、こうした方法で、宣教が進められたら、どうでしょう?


宣教しないのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

どんなに福音が語られて、人が集まったとしても、その中身、実態は全く異質なものになってしまうわけです。

聖書にも確かに、悪魔や悪霊が出てきます。サタンの惑わしもあるかもしれません。
ですが、私たちには、イエス・キリストへの信仰によって、聖霊が与えられているわけです。聖霊は、悪魔やサタンより、弱いんでしょうか。いいえ、何億万倍も強いんです。
その聖霊は、私たちのうちにあって、絶えず絶えず、イエス・キリストを指し示してくれています。ここが、ポイントです。
ですから、サタンにビビることではなく、聖霊の声に耳を傾ける、すなわち、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様に聞く、それが大切なんですよね。


ところがこうして「聖霊」を持ち出すと、今度は、聖霊によって導かれた教会や指導者に間違いがない…なんて話にもなるんです。


自分であれ他者であれ、教会は人の集まり、私たちはあくまで人間です。
「聖霊が導いている教会や指導者に間違いがない」ということは、絶対にありません。
人間である以上、どんな教会でも指導者でも、時には間違いや失敗もあります。


私たちも、ひとつ注意したいのは、自分自身の思い込み、先入観かもしれません。
その意見や考えが、どんなに正しいと思ってみても、どこかで疑いを持ち、広い視野でよく吟味してみる。これは私たちにも、一つ必要な姿勢かもしれませんね。


疑うことを禁じるのは、バレてはいけない何かがあるからなんでしょう。もし本当に本物だったら、どんなに疑っても本物なんです。

ところが、実際に間違いが明かされたとしてもですよ。
ローマ13章には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…権威はすべて、神によって立てられたもの。…そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」なんて言葉が書かれています。
ここだけを取り出して、「だから、牧師やリーダーには逆らってはいけない。たとえ間違っていても従うべき。」なんてことが、実際に、まことしやかに語られていたことがあります。

これ本当に、ちらほらと語られていたりするんですよ。これも、もちろん、全くの間違った解釈です。


でも、聖書には、確かに、そう書いてあったりもするんですよね。
下手に逆らえば、もしかしたら、さばきをまねきくかもしれないじゃないですか。
明確な根拠がないと、ちょっと怖くもなりますよね。
こうして聖書や神の「権威」を利用して、間違っていることにも従うことが正しいことになってしまう…まさにマインドコントロールなんです。


しかし、このローマ書でいう「上に立つ権威」というのは国家権力であって、一般論です。
文脈を追えば、すぐわかります。イエス様が王だから、皇帝には従わないというのではなく、払うべき税金を払い、法律を守りましょうという話なんです。
ですが、仮に、もしその国家が、信仰を禁じたとするならば、それにも従うべきなんでしょうか。。。
違いますよね。
そうであっても、私たちはテロリストではない、牢に入れと言うのなら、甘んじてそれを受ける、義をもって悪に勝つ…これが主旨です。

ところが何度も、繰り返し、少しずつ、恐怖や脅しをかけながら、「疑う」思考を止めさせ、聖書や神の権威を借りて従わせていく、これがマインドコントロールの手口であるわけです。

実に、これらは特殊なカルトではない、どれもキリスト教会の中で起きた実例なんです。


ですので、聖書は一部を抜き出すのではなく、必ず文脈から、もっと言えば、聖書全体を見て解釈する必要がありますし、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様だったらどう考えるだろう…、この視点を忘れないようにしたいものです。


「しかし、ある者は疑った。」

実に、ここにこそ、聖書の真実の眼があります。

イエス様も、まだ疑いの眼で見ている弟子たちを、決して、拒んではいないんです。


28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた…。

半分疑いの眼で見ている弟子たちに、イエス様のほうから、近づいてこられたんですよね。


28:18 …「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

いっさいの権威あるお方は、特定の誰かでも、私たちでもなく、イエス・キリストです。
このお方にこそ、権威があります。

でも、なぜイエス様は、ここで「権威」ということを持ち出したのでしょう。
イエス様の生涯を見たときに、上に立って権威を振うのではなく、しもべとなって、下に仕えたお方ですよね。
そのお方が、なぜここでは突然「権威」を主張したのか…、ちょっと不思議ではありませんか?
そこには、何か訳もあるような気がしますね。


それは、当時、ユダヤ人的な常識として、ユダヤ人以外が救われるなんて、天地がひっくり返っても、考えられない話だったんです。
このときの弟子たちも同じ。彼らもまたイスラエルの独立、復興を願っていましたし、それがユダヤ人にとっての救いでした。
この世界宣教命令があるにもかかわらず、使徒の10〜12章では、ペテロが異邦人にバプテスマを授けたというので、エルサレム教会では大論争にもなっているわけです。
そのくらいユダヤ人にとっては、異邦人が救われるというのは衝撃的な出来事だったんです。


28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

なんの権威があって、そのようなことが言えるのか?

よくパリサイ人たちが言っていたことですよね。「何の権威があって、罪を赦すのか」
イエス・キリストの権威によってです。


 ユダヤ人じゃないから駄目だとは言わず、割礼がないから駄目だといわず、
 ギリシア人であっても、日本人であっても、
 国境、国籍、国語、文化を超えて、あらゆる人々をわたしの弟子としてください。
 認めてください。加えてください。

これが宣教命令の中心、イエス様のこころです。


その方法として、二つ。

 28:19 …父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…


まず、一つ目のバプテスマ。
時に、水に浸けるのか、垂らすのか、その方法にも論議があったりますが、どういったスタイルにしても、この時、イエス様は、そういったバプテスマという一つの形、儀式そのものを、大切に守って欲しかったんでしょうか…。

それも、ちょっと違うような気もしますよね。

実際、イエス様が、直接、人々を救っていった時には、バプテスマの有無は関係なかったし、求めていないんですよ。

「あなたの信仰が、あなたを救った。だから、安心していきなさい。」

救いを求めてきた人たちに、イエス様自身は、水のバプテスマの有無は問わなかったし、必要としなかったんです。
あくまで信仰のみです。では、なぜ、ここでバプテスマを授けるように命じたんでしょう。

それは、イエス様が必要としたのではなく、私たち、人間に必要だったんだと思います。

クリスチャンにとってのバプテスマの意味は、キリストの死にあずかるバプテスマ、つまり、キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、復活のいのち、永遠のいのちにあずかることです。
これは、バプテスマの意味であるより前に、福音そのもの、信仰そのものですよね。
ところが、その信仰も、言葉も、救いも、目には見えません。
またイエス様自身も天に昇られた後は、目には見えなくなるわけです。
すると、どこか救いの事実も、曖昧にもなってしまうんだと思います。それを歴史の事実として、目に見える形で、公に表現できるのが、バプテスマです。


授ける側からすれば、十字架と復活、イエス・キリストの権威によって、この人も救われる。あなたの信仰のゆえに、イエス・キリストが、あなたを救う。その公の宣言としてのバプテスマとなります。

反対に、授かる側からすれば、十字架と復活のイエス・キリストを信じて、この時、間違いなく、私は救われたという公の証にもなるわけです。


ちなみに聖餐式も意味は同じですよね。キリストの死を告げしらせるもの。
私たちの信仰告白も、バプテスマや聖餐も、表現方法がちがうだけで、どれも意味は同じ。
当然伝えるべきメッセージも一緒、キリストを信じる信仰によって救われる、福音です。


28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

イエス様も、実に、いろんなことを教えているわけですが、聖書全体を指して教えた最も大切な戒めがあります。
なんでしょうか…。
それが、「愛する」ことです。

マタイの福音書22:37〜40
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

  これがたいせつな第一の戒めです。
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

さらに、ヨハネの福音書によれば、最後の晩餐で「新しい戒め」として、教えられたんですよね。

ヨハネ13:34
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。


なぜ、イエス様は、これを「新しい戒め」として教えられたのでしょうか。。。
この戒めは、旧約律法の時代から、古くからある戒めなんですよね。


私たちは「愛する」という戒め自体は忘れなかったとしても、書類が積み重なるように、あれやこれやといろんなことが舞い込んで来たときに、いつの間にか下のほうに隠れてしまうことがあるように思うんですよね。


宣教命令も、実は、そんな上に積み重なってしまう、命令の一つかもしれません。
時に「世界大宣教命令」なんて「大」までつけられて、教会のスローガンにまで掲げられ、宣教第一、どれだけ伝道しているか、数で評価されてしまうこともあるように思います。
確かに宣教命令も大切なんですよ。でも、一部です。もっとも大切な戒めは、これです。


 …あなたがたは互いに愛し合いなさい。

この戒めを、絶えず、新しく、一番上において置け…ってことだ思うのです。

私たちは、ついつい聖書のある一部だけをとりあげて、正しいか、間違っているかという論議をしてみたり、人を評価したりしやすい傾向があるように思います。
でも、そういった聖書のごく一部を大切に守ったからと言って、それで他よりも正しくなる、優れている、特別に神様に評価されるということはありません。
これこそが行ないによる義、行ないによって正しいと認められようとすること、パウロがガラテヤ書で全面否定していることです。
もし行ないによって義と認められるのなら、キリストの死は無意味である、無駄死にである、実に、全く真逆のことを伝えてしまうことにもなるわけですよね。


ただ、信じる信仰によって救われる。
キリスト・イエスにあっては、愛をもって働く信仰こそ大事なんです。


では、私達に、どれほどの愛があるのか…というとですね。。。。
なんと、まあ…、それほどには、なかったりするわけですよね。

ヨハネの福音書では「わたし(イエス様)が愛したように…」といわれているんですよね。
汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ。友のために、命を捨てるほどにです。
いやいや、私たちにはどうして、なかなかできることではありません。


しかも、愛に方程式ってないんですよね。
こうすれば正解ということも、十分ということもないんです。
人それぞれが、もてるもの、得意不得意、やり方も違うでしょうし、相手によっても、状況によっても、ケースバイケースです。


私たちには、ある意味、ある程度の「正しい」ことはできるのかもしれません。
でも、「愛する」というのは心が伴うものじゃないですか。
自分自身を振り返った時に、正しさで人を責めてみたり、感情的に無理だったり、「愛する」ということになると、誤魔化しがきかないんですよね。
いいんですよ。できないんです。神様の前では、自分に、正直でいいんですよ。

私たちも、「愛する」という点では、まだまだ発展途上、生涯、一求道者といえるかもしれないですよね。


でも、ここが大切なんですが、そんな足らない、不完全な者を、キリストは愛してくださっているんです。
十字架の命をかけて…。

このキリストに愛された喜びこそが、宣教の力、教会の力、すべての原動力になります。
キリストがどれほどまでに、愛してくださっているか、そして、いかにして私たちが愛していくのか、これがまず弟子のとして最も学ぶべきこと、そして伝えるべきこと、実は、それが聖書の中心なんですよね。


聖書は、細かい枝葉の違いで、正しいか、間違っているかを論じるためのものではなく、私たちが信仰によって、聖書から、神の愛を汲み取り、愛に生きようとする時に、いろんな知恵や力、時には慰めや励ましを与え、私たちの人生のいたるところで、豊かな実を結んでくれる、それが神の言葉、聖書なのではないでしょうか。

 28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

感謝なことに、私たちがイエス様に着いていかないと置いていかれるわけではないんです。
イエス様が、わたしたちと、いつでも、ともにいてくださるんです。これは約束です。


すべてのクリスチャンが、直接、宣教や伝道の働きをするのかというと、そうではありません。
宣教命令が一番大事な命令かというと違います。命令の一部です。

中には宣教の働きをする人もいれば、その働きをサポートする人もいます。
人の悩みを聞く人もいれば、その場を盛り上げて楽しませてくれる人もいる。
人それぞれ、個性や能力に応じて、いろいろな愛し方、いろんな弟子がいるわけです。

そういうわけで、私達は、愛において、お互いにまだまだ不完全な者だと思います。


しかし、この小さな者をも、キリストが愛してくださるというので、
自分らしく、自分なりに、自分にできることを持って、
神様を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛する。この三つの愛に生きる。

私たちが愛に生きるとき、キリストの愛も、おのずと広がっていくのではないでしょうか。

お互い不完全な者同士、愛を学び、愛を伝え、愛に生きる群れとして、成長していきたいものですよね。


…ユダヤから、世界へ。
 外国人だから駄目と言わず、律法を守っていないから駄目だと言わず、
 文化が違うから駄目だと言わず、わたしの弟子として受け入れて、バプテスマを授けてください。
 どうか、国境、国籍、文化を超えて、あなたがたは、愛し合ってください…。


これが、宣教命令の心、イエス様の心。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。



【参考】教会で起きるマインドコントロール


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