2012年11月25日

福音のスパイラル(Tヨハネの手紙 4:1〜2, 9〜12)

(11/25 シャローム福音教会 他)

みなさん、おはようございます。

さて、今日で11月最後の日曜日になりました。日に日に寒くなってきていますが、皆さん、お変わりないですか?


いよいよ今週土曜からは12月、クリスマスシーズンを迎えようとしています。
この前の休み、妻の静と一緒にショッピングモールに出かけたんですが、早いもので、もう大きなクリスマスツリーとか飾られているんですね。妻の話では、もう今月のはじめから出てるよって言うんですが、商魂たくましいというか、教会より早いな…なんて思うんですが、教会でよく本当のクリスマスを知ってください…なんて呼びかけるじゃないですか。でもその前に、世の中、すでにクリスマスみたいな?日本って、そういう意味では不思議な国かもしれませんね。

でも、実は、私自身、クリスマスって、今ひとつピンと来ない部分もあったんですよね。

だって救い主といったって、生まれた時には、赤ん坊じゃないですか。確かに、救い主の誕生、それはそれで、すばらしいんですけど、赤ん坊のイエス様が何をしたわけでもないんですよね。むしろ、マリヤとヨセフ、大人が世話しなきゃならんのですよ。
でも、その意味を教えてくれているのも、今日の箇所でもあるのかなって思います。


さて、今日は、福音のスパイラルとタイトルを付けさせていただきましたが、「スパイラル」とは、螺旋、渦巻きのこと。また渦巻状に連鎖して上昇していく様を表しています。
「負のスパイラル」なんていうと逆ですね。報復の連鎖のように、マイナスにマイナスを重ねて言ってしまう様子を表します。
もちろん、今日の話は、「負のスパイラル」ではなく、「福音のスパイラル」。神様の愛の中で、私たちが上昇していく、愛のスパイラルと名づけてもいいのかもしれません。


実に、このヨハネの手紙では、言葉を変えながら、同じことが繰り返されているんです。それは、イエス・キリストの十字架であり、神の愛、そして、私たちが愛し合うということ…、それを一番端的に表しているのが、今日の箇所かなと思い、代表的に選ばせていただいたんですが、クリスチャンの皆さんにしてみれば、きわめて基本中の基本、ある意味、当然のように思う内容かもしれません。

しかし、ヨハネは、決して、信仰の入門書や、伝道メッセージを書いているわけではなく、紛れもなく、クリスチャン、教会に向けて、この手紙を書いているわけです。
それはなぜなのかと言うと、もうひとつヨハネが繰り返している、異端への警戒があったわけです。


2:21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

私たちは、まず、このことを真摯に受け止めておく必要があると思います。
つい、私たちは「異端」と言われても、私たちとは関係がない、私たちは大丈夫と思ってしまいがちなのかもしれません。でも、ヨハネは真剣に警戒しているわけです。

この手紙の一番最後は、5:21 「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と締めくくられているわけですが、手紙なんだから、もっと気の利いた挨拶もあるだろう…って気がするじゃないですか。

でも、それだけヨハネは切実に危機感を感じていたのだと思います。自分は大丈夫でも、周りが、同じ危険に巻き込まれる可能性は、決してゼロではなかったわけです。


4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。」

と、出てきますが、事実として、イエス・キリストを信じているようで、福音の原点から外れていくクリスチャン、教会もあったんですよね。


ごくごく簡単に言うと、ヨハネがこの手紙を書いた当時には、「グノーシス主義」と言って、霊と肉とに分けて、霊魂こそが善で、この肉体は全て悪だと考える思想があったんです。そのグノーシス主義の思想が、キリスト教会の中にも入り込んできたんです。


…なんて、「グノーシス主義」だなんて説明が始まると、うちの奥さんなんか、すぐに眠くなり始めるらしいんですよ。
皆さんは大丈夫でしょうか。。。
これを、いかに、わかりやすく、奥さんが寝ちゃう前に、説明できるかが伝道者としての役割、使命なのかもしれませんが、この手紙を理解する上で、手がかりになることなんで、ちょっとお付き合いくださいね。


この「グノーシス主義」では、肉体は悪だと考えますから、キリストも肉体を有したのではなく、ごく普通の人間、ナザレのイエスがバプテスマを受けた時に、キリストの霊が乗り移り、十字架で死ぬ直前に肉体から離れた…と考えたわけですね。
私たちからすると、かえってわからん…という話になるかもしれませんが、ギリシア哲学の影響もあって、当時のギリシア世界の人たちには、妙に説得力があったんです。

ですので、キリストを信じているようで、実はイエス・キリストの受肉(誕生)はもちろん、十字架、復活も否定してしまったんです。
 
 このグノーシス主義では、霊だけが高められ、霊だけが救われればいいわけです。そこで、肉体のすることはろくでもないと極端な禁欲主義に走るか、あるいは、逆に、罪は所詮肉体のもの、何をしてもかまわない…極端な快楽主義に走る人たちもいたようです。
 ほんのちょっとした狂いが、実は、大きな違いをもたらしていく結果にもなるわけです。


 そうした背後があって、ヨハネは、福音の原点を語っているわけです。
 
 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。


 この前の節では、「愛のない者には、神はわからない」とまで出てきますが、でも、ここで言われているのは、愛は愛でも、無差別無償に与える神の愛です。決して、ヨハネも最初からそんな愛を理解していたわけでもなければ、自らが持っていたわけでもありません。それがイエス・キリストによって示されたんだというわけです。

たとえ人間に罪があるとはいえども、本来、この人間の肉体も、神が造られたものです。
イエス・キリストもまた、肉体をもって生まれ、その肉体をもって、肉体を持つ人を愛したわけです。言葉を変えれば、人として生まれ、人として人を愛したんですよね。
決して、霊とか、思想とか、概念だけの世界ではありません。


目に見えない神が、目に見える形で、人を愛するためには、借り物ではない、完全オリジナル、ご自身の肉体を持つ必要があったわけです。
それがゆえに、人間に養われなければならない赤ん坊から、母マリヤのお腹のなから、人をはじめたんですよね。

当然、肉体を持つというのは、食べていかなくてはなりません。
ナザレという小さな村で、大工として働き、そこで私たちと同じように、人生の痛みや悲しみ、苦労も含めて、人としての様々な経験を積むわけです。そういった経験と体力が一番バランスが取れたような30歳で活動を開始したわけです。

そして、事実として、罪人の友となり、共に食事をし、時に笑い、時に涙を流しながら、罪人たちを赦し、愛したがゆえに、その罪の責めを負い、その肉体を持って、十字架を背負ったわけです。



 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
ペテロはイエスを知らないと三度否定し、他の弟子たちはとっくに姿をくらましている中、一見すれば、最も忠実な弟子かのように見えると思います。
でも、彼は、この時、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。そのことは、ヨハネの福音書で告白されています。ユダは公然と裏切り、ペテロは公然と否定しました。でも、ヨハネは、影で裏切り、ひそかに否定していたんです。


私たちが神を愛したのではない 

…実は、ここに、ヨハネ自身の完膚なき自己否定、罪の告白もあるわけです。

しかし、けれども、にもかかわらず、イエス・キリストは愛してくださった。

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛がある。


 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


…とはいっても、ところが、ところがなんですよ。

この愛は、愛は愛でも、キリストの愛、無限大なんですよね。
神が、どんな自分を、どれほどまでに愛してくださっているか、知れば知るほど、決して、自分にはできないことも見えてくると思います。
であるがゆえの「愛し合うべき」、「べき」の愛なんです。


4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

愛という点では、私たちは、まだまだ成長過程だと思います。今、できていなくてもいいんです。むしろ、できないからこそ、私たちには、赦しが必要で、十字架が必要なわけですよね。
ただ、その「愛すべき」、愛するという方向に向かっているかどうか、ここが大切なんです。


もしも、何か心が責められることがあるなら、やっぱり十字架のもとに行き、そこで、しっかり神の赦し、神の愛を受け取ることなんですよね。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「光の中を歩む」というと、どこか聖人君主のように、清く正しく美しく歩んでいるかのようにと思ってしまうかもしれませんが、でも、そうじゃないんです。もし私たちが、本当に神様の光の中を歩んでいるなら、罪も、穢れも、ついでにシミも、そばかすも、よう見えるはずなんですよ。
実は、それが正真正銘、「ありのままの私」なんですよね。

しかし、そんな神様の光の中を歩んでいるなら、私たちは父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりを保ち、私たちの行ない、努力、訓練によるのではなく、ただ御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めてくださるというんです。


「罪」というと、なんだか悪いことのイメージが強いと思うんですが、元の言葉の意味は、「的外れ」。野球のストライク、ボールで言えば、ボールです。愛から的をはずす、要するに失敗です。これが聖書の言う「罪」なんですね。たとえ的はわかっていても、的をはずしてしまうことはありうるわけですよね。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

ともありますが、「罪」や「失敗」のない人なんて、当然、いないわけです。


しかし、そんな失敗を隠すのではなく、本当のありのままの自分のまま、神様の前に「罪」を認め、そんな自分をも愛する神の愛を知って、再び愛に向かって生きる。実に、私たちの信仰生活とは、実に、この繰り返しなんだと思います。
ですが、この繰り返しは、決して、ただの繰り返しではなく、そこに学ぶべきことがあり、成長があり、神の愛が渦となって、螺旋階段のように、少しずつ登っているわけです。


ところが、この繰り返しが、ただの繰り返しのように感じて、クリスチャンとしてこれでいいんだろうかとか、このままでは駄目だとか、何かが足らないかのように思えてしまうことがあるのかもしれません。
そんな心の隙に、すーっと異端の罠は忍び込んでくるように思います。


私の周りでも、知らず知らずのうちにカルト的になっていた教会に巻き込まれて、何かおかしいと思いながらもわからず、様々な傷を負ったり、心身ともに疲れ果ててしまったりした友人、知人がいます。決して、私たちに関係ない話ではないんです。
自分は大丈夫かもしれません。でも、家族が、友達が、知人が、そうした罠にはまってしまうことはありうるわけですよね。


まずひとつ多いのは、信仰だけでは不十分、こうでなくてはならない…というような、律法主義的な考え方だと思います。その罠にはまった代表例が、ガラテヤの教会です。
この考え方、発想は、実に、私たちに入り込みやすいのかもしれません。なぜなら、私たちの社会自体、法律や規則で行動を規制したり、評価したりすることが多いからです。


今、うちの会社でも、新人ちゃんを入れて、教育しているんですが、旅行業としてやるべきことは教えられたとしても、個々のお客様にどう対応していくかは、マニュアルで教えられない部分があるんですよね。
新人ちゃんも、失敗したくないものだから、これでいいですか、あれでいいですか…と聞いてはくるんですが、教えるほうも大変です。お客様にどうすれば喜んでもらえるか…、それはお客様によって、みな違うわけです。実際に、そのお客様の要望を聞きながら、自分で考え、悩み、時には失敗もしながら、いろんな経験していくことだと思うんですよね。


愛するということも同じ。決して、こうすれば正しいということもないし、自己満足では終わらないんです。命令やマニュアルで決めてしまえば、ある意味、正しいことはできるかもしれないし、失敗することも、責任を負うこともないかもしれないですが、「愛する」ということは、そういうものではないですよね。

愛は、自らの意思と責任で行うからこそ、愛になるわけです。だからこそ、私たちには、愛だけではなく、キリストにある自由も与えられているわけですよね。この愛と自由はセットです。自由というとね、なんだかいいなあと思うかもしれないんですが、そこには、ちゃんと自己の判断と責任が伴うわけです。でも、それは、私たちが自ら愛するため、その愛する心を育てていくために、この自由というものが欠かせない、大切な要素なんです。


そして、もう一つ陥りやすいう誤りが、霊的な成長、霊的な力を求めるあまり、違う霊、違うスピリット、違う発想まで取り込んでしまうことです。

4:2「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

聖霊は、あれやこれや自己主張をするのではなく、間違いなく、イエス・キリストを指し示し、イエスこそが、キリスト・救い主だと告白、証言しているわけですよね。

ただ、気をつけてほしいのは、偽預言者たちも、「キリスト」の名前を使うということです。残念ながら、私は偽者ですなんて自己紹介してくれないわけですよ。
しかし、聖霊は、ただ名前だけ「キリスト」ではなく、あるいは概念や知識、霊的なほにゃららではなく、人となってこられたイエス・キリスト、すなわち歴史上の事実として、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった、受肉、十字架、復活のキリストご自身を指し示してくれているわけです。


事実として、私たちを愛し、その肉体をもって、十字架までをも背負われたイエス・キリスト、ここにこそ愛があります。
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、これ以上も以下もありません。


ところが、偽預言者というのは、それでは足りないかのように語ってくるわけですよね。
十字架だけでは不十分、信仰だけでは不十分、実はこれが必要、実はこれが隠された奥義なんですよ〜ってな感じで、忍び寄ってくるんです。

ですので、絶えず、仮に私が言うことであってもですよ、「本当にイエス様は、そんなこと言うだろうか」「イエス様だったら、どう考えるだろうか」どこかで吟味する、この視点を、私たち一人一人が持っておく必要があるわけです。

ある意味、悪魔だって、聖書の言葉を使うんですよね。たとえ、どんなに聖書から語られていても、福音の原点、イエス・キリストから外れた聖書の解釈は、神の言葉ではないわけです。

ヨハネも、2:24では、このように忠告しています。

「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」


ヨハネは、その「初めから聞いたこと」、すなわち、キリストの十字架であり、神の愛であり、そして、私たちが愛し合うということ、それらをこの手紙の中で、1章の初めから、「初めからあったもの、私たちの聞いたこと」として、繰り返し、繰り返し、しつこいくらいに語っているわけです。ぜひ、一度、その視点で、この手紙全体を読んでみてもらえれば、より理解も深まると思います。

45歳で今も現役でがんばっている、有名なサッカー選手の三浦和良、ロス疑惑の三浦和義ではないですよ。サッカー選手の方の三浦和良がこんなことを言っています。

学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

チームが負けた時、何か失敗したとき、謙虚に自分の未熟さを認めて、そこで何か得られるものはないかと学ぶことを知っている、そういう人は、誰のせいにもしないと言うわけですよね。
彼は、それこそ日本を代表をする、一時は世界のトップレベルでプレーしていた選手です。正直、プライドや誇りもあると思うんです。でも、そんな彼が、「僕は学ぶ者でいたい。」というわけです。

昔は、かなり負けん気の強い選手だったと思うんですけどね。実際には、彼にも、人のせいにしてしまうこともあれば、自分を責めてしまうこともあるはずなんです。でも、そんな彼も今、45歳。プロのサッカー選手としては、肉体的には衰え、とっくに引退してもおかしくない年齢です。でも、「僕は学ぶ者でいたい。」今でも、現役で続けています。

私たちは、どうでしょうか。。。

私たちも、自分自身を振り返った時、まだまだ未熟な不完全なものだと思います。


学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

私も、若いときには、かなり人のせいにし、最近は、自分のせいにしてしまうことも多くなったかな…と言う気がするんですが、やはり、学ぶ者でありたいですよね。
私たちは、この生涯、最後まで、現役のクリスチャンなんです。


神がどれほどまでに愛しているかを知り、そして、自らが愛することを学ぶ。

聖書も、イエス・キリストを中心に、この視点で読んでいくときに、いろんな気づき…、
様々なアイデアや知恵、時に、励ましや慰めまで、与えてくれるはずです。


時に失敗することはあると思います。たまには、疲れて、立ち止まってしまうこともあっていいと思います。人を愛せなくなること、赦せなくなること、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
しかし、私たちがどんなに不完全であったとしても、神の愛は、完全です。


ことあるごとに、十字架のもとで、どんな自分が、どれほどまでに愛されているか…、
キリストの愛の深さ、広さ、高さを繰り返し、繰り返し、味わいながら、この福音の螺旋階段、神の愛の渦の中を1歩1歩、登っていくものでありたいですよね。
その行き着く先は、間違いなく、天の御国へと繋がっているのです。



「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」


 

posted by holyhope at 19:35| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする