2012年12月31日

竹下静プロフィールビデオ

突然ですが、うちの奥さん(竹下静)のプロフィールビデオです。
夫婦で、メッセージ&音楽伝道活動しています。

2012年もお世話になりました。2013年もよい1年となりますようにお祈りしております。
タグ:竹下静
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2012年12月26日

「闇の中に輝く光」ヨハネ1:1〜5,14

(2012年12月9日 南相馬・原町聖書教会)

恒例のあいさつとなりつつありますが、改めまして、みなさん、ただいま。

千葉市川から帰ってきました竹下 力です。

私も静も、働きながらの活動している関係で、なかなか帰ってこられなかったんですけれども、ようやく帰ってくることができました。
今回で4回目、まだまだ全然、南相馬のこともよく知らないのに、不思議と、本当に実家に帰るのと同じ感覚なんですよね。本当ですよ。

名は体を現すとも申しますけれども、通称「ただいまの教会」という名前が、この教会の体を現し、また私たちの心にも実家のような思いを与えてくれているのかもしれないです。

「ことば」というものには、不思議と、そういう力があるんですよね。

…と半ば無理やり、不思議と今日の聖書箇所へとつながる訳ですが、この12月、クリスマスシーズンということで、ヨハネの福音書からお話してみようかなと思っています。


1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


いきなり、この箇所を読めば、わかるようで、なんだか、ちっともわからん…という感じなんですが、このヨハネという人の文章は、非常に文学的というか、芸術的なんですよね。
この「ことば」とは、もちろん、イエス・キリストのことを指しているのですが、これを学問的、理屈で捉えようとすると、かえって難しいかもしれないです。


試しに、ある聖書注解の一部を読んでみたいのですが、


 〈初めに,ことばがあった〉(1).〈初めに〉は,創1:1を想起させるものであるが,ここでは創造の初めではなく,〈ことば〉(〈ギ〉ロゴス)が創造に先立って存在していたこと,すなわちロゴスの先在性をうたっている.
 
なんだか、わからないものが、余計に分からなくなってくるというか…、
こんな説明を、1分も続けていれば、うちの奥さんだったら、容赦なく、寝てしまうかもしれない…。

わからないものを、いかに、わかりやすく、静さんが寝ないように語るかが、伝道者としての腕の見せ所、使命、役割かもしれないですが、こうして「言葉」で何かを伝える、聞いてもらう、表現するということの中には、さまざまな創意工夫や、人知れぬ苦労があったりもするものですよね。

これは福音書ですから、ヨハネは、イエス・キリストについて伝えたいわけですよ。
そのヨハネが、出だしから、いきなり、「ロゴス」の先在性だとか、小難しい哲学的な説明したくて、こういう表現を使ったのか…というと、ちょっと疑問なんですよね。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

この表現なんて、何か絵が浮かんできそうな、まさに芸術的な表現じゃないですか。

あたかも芸術家が、何に感動し、それをどうにか伝えたくて、でも、それがうまく説明できずに、絵や歌や音楽、様々な表現手段を駆使しながら言い表していくように、ヨハネも、イエス・キリストという存在を、見て、聴いて、触れた時に、ことばを駆使しながら、どうしても伝えたい感動があったんではないでしょうか。

私たちも、もっと感覚的に、シンプルに捉えていっていいように思うんですね。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

神は、光あれといわれた。すると、光があった…。
神様はことばで、この全宇宙、全世界を創り、私たち人間もことばで造られた…、そう聖書は語るわけですが、ユダヤ人たちも、それをことばで聞き、当時は印刷ないわけですから、多くは口伝、ことばで伝えてきたわけです。

神様も、ことばで、人間たちにご自身を表してきたんですよね。

アブラハムも、はじめに神のことばを聞き、イサク、ヤコブ、子、また、その子へと、ユダヤ人たちは、ことばで伝え、ことばで聞いてきたんです。実に、ヨハネ自身も、はじめにことばで、神様のことを聞いているのです。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


ちょうど金曜日にも大きな地震がありましたが、自然界は時に厳しくもあります。
ですが、一方で、自然に癒されたり、自然の恵みをいただいて、私たちは生かされてもいるわけですよね。

少し話はそれるかもしれませんが、年末年始に静岡に帰った時には、夫婦で、よく日の出を見にいくんです。太陽が昇ってくる前というのは、これまた寒かったりするわけですよ。
ところが、やがて暗かった空が赤ばんで来て、暗闇を引き裂くように、太陽が強烈な光をもって、顔をのぞかせる。その時の太陽の光って、ものすごく暖かいんですよね。
そこに熱さ、いのちを感じるわけですよ。

古くから日本人の場合には、そんな太陽そのものだったり、海でも、森でも、果ては鰯の頭まで、一つ一つのものを神として拝んでしまっているのかもしれませんが、でも、あくまで考えようによってはですよ、自然界のあらゆる森羅万象、八百万の中に、「神」という存在、「神」の性質を感じる感性には優れたものがあるのかもしれない。

…なんてこというと、偶像礼拝を肯定しているみたいですが、決して、そうではないですからね。

パウロもまた、「神の、目に見えない本性…は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知」られていると語っていますが、ただ知らない、わからないがゆえに、太陽そのものを拝んでいるだけで、その感性自体は、必ずしも否定されるものではないと思うんです。
実にその延長線上、その先に、太陽も山も海も創造した「神」という存在がいるわけです。

昇り来る太陽にエネルギーを感じ、飛び立つ鳥たちに美しさを覚え、自然界の全てのいのちあるものに感動する…、それはまさに、それらを創り上げた神を賛美し、まさしく霊とまことによって神を礼拝するということにもなるわけです。

 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

私たちも、また、間違いなく、この自然界で生かされている一員です。
それは、今、南相馬、福島で暮らす皆さんが一番、肌で実感していることかもしれない。

冗談抜きに電気や原発がなくたって、人間は生きていけます。ですが、事実として、太陽や海や山、この自然界が生み出す様々な恵みがなければ、誰一人として、私たちは生きてはいけないんですよね。

ところが、とかく人間は、自分の力で生きていこうとするのかもしれない。自分ひとりと言わなくても、人間たちの力で生きているかのように錯覚してしまうのかもしれません。

しかし、どんなに技術が発展しても、多くの人がストレスや悩みを抱え、年間自殺者3万人以上、自らいのちを絶ってしまう…これが今の日本社会の実情でもあるわけです。

事実、私たちは、誰一人として、自分ひとりの力で生きている人などいないし、誰しもが神が生み出した自然界の恵み、いのちを受けて、いかされているわけです。

そんな、いのちを生み出し、光を生み出す神の言葉であり、神ご自身。
それをヨハネは、どこに見出しているかというと、闇の中で見出したというわけです。


1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 

時に、私たちは、漠然とでかまいません…、神様のことを、どこに見出しているでしょうか、
どんなところにいる存在として捉えているでしょうか。

そりゃ神様ですからね。
なんとなく、はるか上の方で、一点の曇りもない、まばゆい光の中で暮らしている、そんなふうに感じている部分があるように思うんです。
でも、実は、それは私たちが神様をどこか遠くに離してしまっているだけで、実は、私たちを取り巻く自然界と同じように、私たちのごくごく身近、隣り合わせに、神は存在しているんではないのでしょうか。

少なくとも、ヨハネは、ここに光はない、ここにいのちはない、ここに神などいないと思えるような「闇」の中で、光は輝いている…すなわち神は存在しているというわけです。

私たちにとっての闇とは、どんな闇でしょうか。。。

様々な人生の苦しみ、悲しみ、不幸と呼べる出来事かもしれません。
あるいは、過去の失敗や後悔であったり、自分でも嫌いな自分、まさに、罪人と呼べる自分かもしれません。
私たちは、そんな自分の闇に対して、ここに神はいない、こんな自分は愛されない…、と勝手に思い込んでいる部分があるかもしれません。

しかし、その「闇」の中にこそ、神の光が輝いているというんです。
闇は、これに打ち勝たなかった…!

本当でしょうか。そんなことがあるんでしょうか。。。

ことばは、目には見えません。神様も目には見えません。
ところが、その、ことばが人となり…、私たちの間に住まわれた。
すなわち、イエスキリストです。


ことばが人となるって、これもまた、わかるようで、なんじゃあ、わからん…言う気もしますが、実は、私たちも、言葉で考え、言葉で行動します。ある意味、私たちも、言葉が、からだを有していると言えると思うんですよね。

でも、私たちの中には、いいことばばかりではなく、悪い言葉、嫌なことば、偽りの言葉もあったりもするわけですよね。
しかし、正真正銘、完全、神のことばが肉体を持った人。それが、イエス・キリストです。


しかも、その神のことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちの間…、わかりやすく例えて言うなら、この南相馬、原町に住まわれたんです。


住まわれたと言うのは、天幕、幕屋を張るということばです。
幕屋というと旧約時代の礼拝所ですので、何か特別なように思えてしまうかもしれないですが、遊牧民たちの一般的な住宅形式でもあるわけですよね。早い話、移動式の仮設住宅なんです。決して、神様の為に建てられた立派な神殿でも、豪華な宮殿でも、一流ホテルのスイートルームでもなく、私たちの間、隣の敷地にテントを建てたというわけですよね。


実は、私自身、クリスマスという時に、今ひとつ、ピンと来ない部分もあったんです。
それは何かと言いますと、救い主の誕生、それはすばらしいことなんですけど、クリスマスというときには、イエス様も、まだ赤ん坊じゃないですか。

何もできないどころか、マリヤとヨセフがいなければ、生きてはいけないんですよね。
ところが、その赤ん坊のイエス様は、神の栄光を捨て、貧しい家庭に生まれ、しかも十字架で死ぬために、生まれてきた…なんて言われてしまうと、なんだか、かわいそうというか、あわれというか、悲しい話に聞こえてくるんですよね。
そんな赤ん坊に、何を期待するねん…みたいな。


しかし、ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

ことばが人なると言うとき、神様の特権で、いきなり完成形の大人としての体を持って現れたのではく、赤ん坊から、さらに言うならマリアのおなかの中から、はじめるわけです。

さらに、イエス様が公に活動し始めたのも、30になってからです。若くて体力バリバリの20歳ではなかったんですよね。
実は、ここに神様、イエス様の意思、選択があったのではないでしょうか。


当時のベツレヘムの馬小屋も、ナザレの住居も洞窟を改造して造られたものです。
日本で洞窟というと、じめじめしていて、こうもりか何かが住んでいそうですが、日本と違って、雨も少なく、当時のイスラエル、貧しい一般庶民の間では、それがスタンダードな暮らしだったんです。


事実、イエス様時代のナザレには、洞窟の住居跡しか発掘されていないんです。
ですので、ナザレでは洞窟の家が普通。その中で大工というのは、洞窟を住めるように改造する家具職人、おそらく近くの町へ出稼ぎにも行っていたと考えられています。


肉体を持つ以上、食べるためには、働かなくてはなりません。
イエス様も、少年になり、働けるくらいの歳になったとき、父ヨセフを手伝いながら、大工として働きはじめるわけです。
そこには私たちと同じように、苦しいこと、辛いこともあったかもしれませんが、楽しいこと、嬉しいこともあったはずでず。


…ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちと同じ暮らし、同じ生活、ごくごく平凡な暮らし、貧しいといえば貧しいかもしれない。でも、そこには、人としての喜びや幸せがあったはずですよね。

聖書では、この時の生活については伝えていないわけですが、イエス様は、間違いなく、家族や仲間と喜びも分かち合いながら、30までは、ナザレで暮らしていたんです。ここにはイエス様の望み、イエス様の意思があったはずです。
しかし、人としての人生経験もそれなりに積んで、30になり、時が満ちて、家族だけ、ナザレだけではなく、全世界に光をもたらすために、活動を開始したわけです。


イエス様は、事実として、遊女、取税人(言うなればやくざですよね)…多くの罪人たちと共に食事をし、時に笑い、時に涙もしながら、彼らを赦し、神の愛を伝えたんです。当時の宗教家たちから反感を買っても、なお愛したがゆえに、ついには十字架を背負うことになっていくわけです。

確かに十字架は、世界で最も苦しい死刑、苦しみそのものです。

でも、イエス様は、あえて、その十字架に挑んだわけですよね。逃げようとすれば、逃げられる状況だったにもかかわらず、そこに踏みとどまるわけです。
それが、ゲッセマネの祈りです。

なぜか。。。
もし逃げてしまえば、多くの罪びとたちが、また神から愛されない、闇の世界にもどらなくてはならないからです。

そんな中、ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
一見すれば、正しくも、立派にも見えるかもしれません。

ですが、このヨハネの福音書をよく見てみると、この時のヨハネは、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたことが書かれています。(ヨハネ18章)。

イエス様が捕らえられて、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれたとき、ペテロは周りにイエスの弟子だと言われて否定してしまうんですよね。ところが、一緒にいたヨハネは、門番とも顔パス、お咎めなしですんだんです。
なぜならば、イエスを十字架につけた張本人、「大祭司の知り合い」だったからです。

ユダは、公然と裏切り、ペテロは、公然と否定してしまいました。
しかし、ヨハネは、影で裏切り、影で否定していたんです。

これが闇の自分…、それでいて真実なヨハネの姿だったんです。

でも、イエス様は、十字架の上から、ヨハネを見つけると、母マリヤを託すんですよね。
イエス様だって、馬鹿じゃない。ヨハネが、まともにイエスの弟子だとわかれば、何事もなく、その場になんていられないはずなんです。何かが裏がある。

でも、イエス様は、黙って、赦すんです。そんなヨハネを信じるんです。それでも、ヨハネを愛するんです。

ここに実は、言葉にならないことばが、イエス様とヨハネの間にはあったんです。

…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

これはイザヤ書にある神様の言葉ですけれども、まさに神のことばが人となり、人を生かす、いのちの光が、闇の中で確かに輝いていたんです。

沈黙の中にも、ことばってあるんですよね。。。
ヨハネも、自分が大祭司と知り合いだったなんて、黙っていれば、誰にも知られずにすんだのかもしれない。でも、マタイ、マルコ、ルカと福音書が書かれ、伝えられていく中で、伝え切れていないことばがある、ヨハネには語らずにおれないことば、いのちのことばがあったのではないでしょうか。


私たちの「闇」って、どんな「闇」でしょうか。それは、人それぞれ違うと思います。
どんな場所で、闇を感じているでしょうか。。。

いや、実は、私たちが勝手に闇だと思い込んでいるだけかもしれないですよね。
その闇の中にこそ、光は輝き、沈黙の中にも、ことばがあるんです。

…私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。


イエス・キリストは、残念ながら、今は目で見ることはできません。
でも、闇もある私たちの人生の中で、今日も私たちの間に、イエスはおられます。

たとえ、私たちが闇だと思う唯中にあったとしても、すぐそばに、イエスがおられます。

イエス・キリストは、ありのまま、真実な私たちの姿を見たうえで、
表で格好付けることはない、背伸びをすることもない、
わたしは、あなたを愛しているよ、この場、ここから、一緒に歩いていこう。。。
そう語りかけてくれるお方です。


…初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…!!


そんな闇の中に輝く光、イエス・キリストと出会えるクリスマスとなりますように、お祈りしています。
posted by holyhope at 23:52| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする