2013年02月09日

心のバロメーター

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
1テサロニケ5:16〜18

前回、心の内にどんな言葉が占めているかで、捉え方が変わるという話をしましたが、この1週間、仕事が忙しく、女性陣のおしゃべりに、ちょっとイライラ…。
ったく!…と思いながも、自分の書いた文章思い出して、とりあえず我慢(^_^;)

うーん。。ためになる…自分の(笑)

でも実際、このおしゃべりを止めてしまうと、いい意味でのコミュニケーションまで止めてしまうんですよね〜。
そこが難しいところです(笑)

しかし、そんな私も、仕事帰りに欲しかったビデオカメラをゲット!
それで、もう、ちょーご機嫌(^^)
イライラは、どこかに吹っ飛んでいました。

我ながら、現金というか、単純というか、ある意味、感心しちゃいました(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、竹下家の親族の間では、実家のお便所に掛けられている有名な言葉です。

実家にいる頃は、なんも思わなかったのですが、今は、心のバロメーター的な言葉になっています。

もちろん、人生、喜べることばかりではないと思います。時には、嫌なことも、辛いことも起こります。
逆に、いつもは喜んでいられることばかりではないから、「喜びなさい」ってことも勧められているんですよね。

もし、これを「命令」(律法)として受け止めたら、この上もない苦痛だと思います。
少なくとも、私は嫌ですね(笑)

ですが、喜べない状況の時にも、ただ悲観するだけ、不満でいっぱい、あるいは落ち込みっぱなしではなく、どうしたら喜べる状態になれるか、自分も周りも喜べる方向に心を向けていく事ができたなら、心の持ちようは、ずいぶん違うのではないでしょうか。

たとえ喜べない状況の中でも、クリスチャンは神に祈ることができます。
自分一人では絶望だったとしても、神様は無限大です。
祈る…というアクションを起こす限り、心は絶望へとは向かいません。

今の私自身、振り返れば、いいことも悪いこともありながら、それら一つ一つが経験となって、今があります。
無駄な経験などありません。
そう考えれば、本当はどれも感謝なこと。今があるということだけでも、実際、とても感謝なことなんですよね。。

…とは言いながら、渦中にある時は、なかなか全てを感謝することなど、正直、難しいのですが(^_^;)
でも、人間の脳には不思議なところがあって、何も感謝することがなくても、繰り返し「ありがとう」と口に出していると、自然と脳は、何がありがたいんだろう…とを探し始める習性があるというんです。

ないもので不満を抱いているより、感謝できることを探していく方が、自分にとっても周りにとっても、幸せへの近道なのかもしれないですよね。

本当にすべてのことに、感謝できるとしたなら、それは本当に幸せなことだと思います。
だって、感謝なんですから。。(^_^;)

この聖句の続きには、大切な一句があります。

「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

これが神の望み、神のみこころだというわけです。
つまり、私たちが、そうなれるようにイエス・キリストは存在し、助けてくれているのが聖書の神様なんです。

人生、悩みや困難は多々ありますが、
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する…
この言葉を胸に、そんな幸せを目指していきたいものですよね(^^)

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
1テサロニケ5:16〜18

posted by holyhope at 18:23| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年02月04日

私の内にある言葉

…一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。
彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
詩篇56:5

今、皆さんのうちには、どんな言葉があるでしょうか。
それは日によってもいろいろだと思うんですね。

私も、調子がいい時には、肯定的、前向きな言葉、明るい言葉が多く心を占めています。
ところが忙しかったり、落ち込むようなことがあると、批判的、否定的な言葉が心を占めてきます。
不思議なもので、同じ物事に接しても、その時の自分のうちに、どんな言葉が占めているかで、捉え方も気の持ちようも変わってくるんですよね。

冒頭の詩篇の一節は、イスラエルの英雄ダビデの作ですが、彼はこの時、宿敵のペリシテに捕まった時とされています。
この時のダビデは、サウル王の嫉妬を買い、命を狙われ、なんと敵国に逃げこむわけですが、ダビデだとバレてしまったわけです。まさに四面楚歌。

ここで興味深いのは、ダビデは、この時の自分の状態を「彼らは私のことばを痛めつけています」と表現しているところです。
味方にも敵にも命を狙われ、恐怖や不安、あるいは惨めさ、孤独感、否定的な言葉が、ダビデの心の内にも占めてきたんでしょう。

そこに気づいたダビデは、自分の味方である神様の言葉を慕い求めるのです。

…神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
詩篇56:10〜11

こうしてダビデは、人ではなく、神のことばの方を信じて、自分のうちに湧き上がる否定的な言葉から、自分自身を守っていくんです。

私たちも、この社会で生きている間には、いろんな言葉を聞きます。
そこには、いい言葉も多くありますが、否定的、批判的な言葉も多く耳にしているわけです。
また時には、過去の嫌な出来事が思い出されて、もう昔の話なのに、思いが言葉となって、自分で自分を傷つけてるなんてこともありそうですよね。。。

知らないうちに、自分自身の内に、否定的な言葉が溜まっているんです。

その言葉が、自分にむけば自己否定的になりますし、他者に向けば、批判的、攻撃的にもなります。

やがて、自分自身の内にある言葉が、自分だけに留まらず、周りの人にも伝播するんですよね。

会社の上司や仲間にも批判的な態度で接してしまったり、さらに余裕がなくなると、普段は聞いてあげられる奥様の愚痴も、はあ、面倒くせえ奴だな〜と思ってみたり?(笑)
たとえ口では言わなくても、内側にある言葉が、表情や態度になって思いっきり出てきます(^_^;)

普通は、ここで奥様も察してくれるんですが、お互いに余裕がない時には、そこで留まらず、愚痴は続き、私の言葉も荒くなり、売り言葉に買い言葉、ついには爆発するわけですね…、私が(汗)

まさに否定的な言葉の連鎖です。

実は、周りの状況ではなく、自分の内にどんな言葉が多く占めているか…の方が重要なのかもしれません。

いつも思うのですが、否定だけでは何も生み出しません。むしろ、いいものまで壊してしまいます。
自分から出た否定的な言葉は、結局は自分自身に帰ってくるんですよね。
完全に否定的な言葉を避けることもできないでしょうが、なるべくなら肯定的な言葉を蓄えられた方が自分自身も周りも幸せです。

クリスチャンにとって、自分のうちにある否定的な言葉から、身を守ってくれるのが、まさに聖書、神のことばでしょう。

私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、いのちのことばを、せっせと蓄えていきたいものですね(^^)

…あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。
それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
詩篇56:13

 
posted by holyhope at 10:46| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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