2013年03月31日

「信じない者にならないで」ヨハネ20:19〜31

 みなさん。ハッピー・イースター!
毎度、千葉市川から、思い出したかのようにやってくる伝道者、竹下力です。みなさん、お元気でしたでしょうか。

 今日は「イースター」ということで、暦の上では、イエス・キリストが、死んで葬られ、三日目によみがえったその日にあたるわけですが、死んだはずの人間がよみがえるというのは、まず信じられない出来事だと思うんです。

もし私が、今日の帰り、交通事故か何かで死んだとするじゃないですか。
すごい、たとえですけど。。。
皆さんも、きっと悲しんでくれるに違いない。そう信じたい(笑)

でも、三日目に葬儀に出かけていったら、棺おけに遺体がない、竹下が蘇った!
そう聞かされたとしたら、信じられるかというと、皆さん100%間違いなく、疑うと思うんです。それ普通です。

今日の聖書箇所は、前半の部分がイエス様が復活した日曜日、つまり今日の出来事です。そして後半は「八日後」の出来事、ユダヤ式の数え方では、その当日を含めて、足掛け八日後となりますから、ちょうど一週間後に当たる来週の日曜日となるわけですが、ここにキリストの復活について疑いを抱いたトマスが出てきます。
私、結構、彼が好きというか、親近感がわくんですよね。

「見ずに信じる者は幸いです。」とは語られていますが、イエス・キリストがよみがえった…、それは決して、科学が未発達の昔の人だから信じられたというような話ではなく、当時の人たちであっても、常識ではありえない、信じがたい出来事であったわけです。

 もし、このイエス・キリストの復活が作り話で、それを見ずに信じろ…というのであればですよ。かんなり信じることの難しい、無茶な宗教、作ったものですよね。
 
ですが、実に、トマスばかりではなく、この現場にいた弟子たち全員、見ずに信じたわけではなかったんですね。
「見て、信じた」んです。
実際に見ちゃったものだから、「見た」もんは「見た」という他なくなってしまったわけです。彼らは、目撃者となったわけです。

実に、このヨハネの福音書では、「見た」という言葉が、非常によく出てきています。

20章から復活の記述が始まっているのですが、少し拾い上げてみますと…

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

この「もうひとりの弟子」とはヨハネのことですが、やはり「見て、信じた」んですよ。

でも、じゃあ、それで100%、復活の事実を、信じられたのかといえば、それでも、復活の主イエスご自身を見ていなかった弟子たちは、まだ、信じ切れなかったようです。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。

弟子たちが、この時、一番に不安だったのは、イエス様が死に、次はわが身、ユダヤ人たちがいつ自分たちを捕らえに来るか、いつ殺されるのか、その恐怖でいっぱいだったんです。
十字架の死の恐怖、空の墓を見ても、イエスがよみがえった…という知らせを聞いても、その恐れは、消えることはありませんでした。

しかし、その恐怖の中に、復活の主イエスは、現れたんですね。

「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

それは、もう本当に、言葉にはならない衝撃、感動だったはずです。

弟子たちも、「主を見て喜んだ。」こうして自分の目で見て、ようやく復活の事実を理解しはじめていくんです。

しかし、そんな弟子たちも、すぐに、もう1つの不安がよぎるわけです。それは、主イエスとの関係においてです。

主イエスの手には紛れもなく、釘の跡、さらに、わき腹には槍で突かれた刺し傷もあったわけですね。弟子たちは、その傷跡も、確かに見たんですよね。

弟子たちは、もうイエス様に死んでも着いて行きますと言いながら、いざ十字架が迫ると、とたんに逃げてしまったんです。そんな自分たちを、イエス様は赦してくれるのだろうか、認めてくれるのだろうか…。そんな不安も心には残っているわけです。

十字架の傷跡というのは、ただ単に、主イエスだけが負った傷ではないんです。
十字架を前にして逃げ出した弟子たちの心の傷でもあったんですよね。
しかし、

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

彼らは、決して、見捨てられたわけでも、弟子として失格でもなかったわけです。

そして、今日、一番の注目株、トマスさんです。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

彼は、ある見方をすれば、確かに不信仰なのかもしれません。
ですが、私個人としては、彼を非難することは出来ないし、いや、ある面、むしろ、立派にすら思うんですよね。

他の弟子たちが、復活した主を見た、主を見た、といっているわけですよ。ついつい、なんだか自分ばかりが見てないのが悔しいような気がして、俺も見たと言ってしまいたくなるような気がするじゃないですか。でも、彼は、そこで妥協しないんですよ。

彼は、良くも悪くも、人の話をそのまま信じない。鵜呑みにしないんですよね。
ちゃんと事実を、この眼、この手で、確かめようという姿勢…、それはそれで、ある面、大切なことですよね。
ですが、彼は、決してイエス様の復活を否定しようとしたのではなく、もし本当に復活したと言うのであれば、その事実を確かめたかった、自分も復活の主に会いたかった、むしろ求めていたと思うんです。実は、会えなくて、ちょっと寂しかったのかもしれませんね。

そして主イエスもまた、そのトマスを否定したのか…というと、決して、そうではなかったんです。

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。」

その差し伸べられた手には、紛れもなく、やはり十字架の釘の跡があったわけです。

トマスもまた確かに、その傷跡を見たんです。
トマスが、その差し伸べられた手の傷跡を見、手で触り、そこに主イエスのぬくもり、愛と赦しを確かに感じたときに、トマスの心の中にあった傷も癒されていったのではないでしょうか。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

このあと主イエスは、「見ずに信じる者は幸いだ」とも語られているわけですが、決して叱責しているわけではなく、「見ずに信じられるくらいなら、幸せだよな。」と苦笑いしているようにも思うんですよね。
主イエスは、決して見ないで信じろと言うのではなく、傷跡を差し出し、見てでも、手を差し入れてでも、信じない者にならないで、信じるものになれと語りかけているわけです。
私なんか、この復活を疑ったトマスが、ちゃんと復活の主を見て、信じたというが故に、信じられるような気がしますね。
トマスばかりではなく、弟子たちは、誰しも、見て、触って、信じる事ができた、最も幸いな人たちだとはいえないでしょうか。

さて、私たちも、確かに、その手の傷跡を見、触れさせていただく必要もあるのかもしれません。

…と言っても、残念ながら、今は、復活の主イエスを、この目で見ることも、手で触ることもできないわけですが、「人の優しさに触れる」…という言い方をしますよね。
優しさも、確かに、この目では見えないし、この手で触ることも出来ないわけですが、確かにあって、私たちは、心で何かを見て、心で何かに触れることがあるわけです。

主イエスが差し出した、手の傷跡。。。
それは、まさに歴史的な主イエスの十字架の事実に触れていくことなんです。
両手両足に傷跡のあるイエス・キリストこそが、よみがえって、今、生きて働いておられるというわけですよね。

私は両親ともにクリスチャンだったわけですが、まだ小さいころは素直で、父親から教えられるがままに「イエス様は私の罪のために十字架に着いた」とは言えちゃうわけですよね。それが信仰告白となり、洗礼ということにもなったわけですが、じゃあ、私の罪ってなんなの、実際の十字架ってどうだったの…って、まったくわかっていなかったと思います。

ですが、大きくなるにつれ、反抗期にもなるわけですよね。親元から離れるついでに、教会からも離れ、いつしか罪を重ね、その罪が重く感じられるようになっていたんですよね。
ちょうど大学4年のこと。正直、自分はクリスチャン失格だと思っていました。この先、何を目指して生きていけばいいのかもわからず、生きる活力も失いかけていたような時期があったんです。

でも、そんなある日、はっきりと目の前に十字架が描き出されたんです。

それは、もちろん、この眼で見たわけではありませんが、頭の中に描き出されたんですよね。
しかも、よく宗教画にあるような、カンナで削ったような十字架に、無抵抗に十字架に着けられているような姿ではなく、曲がりくねった荒削りの十字架に釘つけられ、苦しみと戦うキリストの姿だったんです。

また、この耳で聞いたわけではないですが、その姿から、はっきりとこういうメッセージを受け取ったんです。

「力、俺は、お前のその罪のために、十字架を背負ったんだよ。私が死ぬから、お前は生きなさい」

事実として、イエス・キリストは、多くの罪人たちを赦したがゆえに、その赦した罪の非難や責めを負って、十字架を背負われたわけです。

十字架を背負われた主は、2000年という時を越えて、今日も傷ついた手を差し出し、人々の心に向けて「見なさい。」「触りなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そう語り続けています。それが復活の主イエス・キリストです。

その傷跡に触れる時、どんなに罪深くても、どんな弱さがあっても、どんなに失敗があっても、シャローム、心には平安、与えられた生涯を自分らしく精一杯生きるだけ、神がすべてを受け入れてくださるわけです。

私自身も、決して清く正しく美しい、お世辞にも立派な人間などとはいえません。やっぱり罪人ですよ。
でも、この主イエスの愛と赦しを知って、だから今、生きている、自分なりに懸命に生きているにすぎないんですよね。
やっぱり罪人みたいな?

でも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

これこそ復活の主イエスの願いであるわけです。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

ヨハネは、イエスが、他にも多くのしるしを行ったと言いますが、具体的には、その多くを書きませんでした。その出来事の中にも、もしかしたら私たちにとって教えられることや益になることも実はあるかもしれないですよね。でも、書かなかったんです。

なぜならば、それら細かいことを逐一書き記すことで、本来の目的、私たちが信じて、イエスの御名によって命を得るということが、ぼやけては意味がないからです。

どれだけ聖書を読んだとか、理解したとか、どのくらい教会に通ったかとか、もちろん、この世の生涯を生きていく間には、力にも役にも立ちますが、およそ「救い」ということに関していえば、まったく関係ありません。

主イエス・キリストは、私のためにも、あなたのためにも、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その責めを身代わり、十字架を背負い、死にも打ち勝った。
ここに希望があり、愛があり、いのちがあります。

この主イエス・キリストを信じるなら、いつでも、どこでも、誰ででも、救われます!

イエス・キリストの十字架は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

ぜひ、私たち自身も、この主イエスの手の傷跡を、しっかりと心で見て、事あるごとに触れさせていただきましょう。
この復活の主イエスを喜び、素直に信じるものでありたいですよね。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

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2013年03月28日

単純シンプルに

…キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマ(洗礼)を授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。
それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1コリント1:17

先日の日曜には、教会で洗礼式があったのですが、一人の人が救われるというのは、やっぱりうれしいことですよね。
人生の中には、様々な苦難や失敗があります。時に自己否定にも陥ってしまいがち。
しかし、「はじめに神が…」(創世記1:1)いてくださる。

私たち人間は、何かと難しく考え、時に無理してまで幸せなり、自分自身の人生なりを築きあげようと、あくせくしてしまうことがあるような気がします。

それはそれで、成長という観点では必要なことかもしれないのですが、しかし、根本では、誰しも自分の意思や努力で生まれてきたわけではないんですよね。

はじめに神があって、この世に生まれ、今、生かされている。。

単純シンプルに、今、生かされていることを喜び、感謝できたら、もっと自然体で、自分らしく、有意義な人生をおくれることも多いように思います。
もちろん頭でそう思っても、なかなか、そうはいかないこともあるんですけどね。。(^^;;

キリスト教会内でも、時に同じような現象が起きてしまうように感じます。

はじめは単純にイエス・キリストを信じたはずなのに、やがて難しいことが言われたり、難しく考えたりしてしまう。。
難しいことの方が、優れているように見えるのかもしれません。
単純なものが複雑になり、枝葉の細かい部分が大きくなって、本質的な部分を見えにくくしてしまう…
そんなことはないでしょうか。。。

時には、本質的な部分が損なわれているにも関わらず、目もくれず、周辺の事柄ばかりが大きく取り上げられる…そんなこともあるように思います。

冒頭の聖句は、パウロという伝道者が、コリントの教会に書き送った手紙です。

信仰の始まりであるはずのバプテスマ(洗礼)でさえ、私はあの先生から受けたい、いや、こっちの先生の方がいい…なんてことがあったようです。

パウロは、決してバプテスマを軽視しているわけではありません。
しかし、たとえバプテスマであったとしても、そのためにキリストの十字架がぼやけたり、影が薄らいだりしないように細心の注意を払っていたことがわかります。
当然、自分の宣教の言葉であっても、しかりです。

十字架は、世界で最も残酷な死刑。決して、たやすいものではありません。
主イエスは、事実として、罪人を赦し、友となり、その罪の責めを身代わりに負って、十字架の死にも挑み、釘付けにされました。
そんなイエスの生涯、生き様を通して、神の愛と赦しがいかなるものかを人々に見せてくれたわけです。

この十字架を背負うこのイエスの生涯、生き様を見た時に、この方こそ神の子、キリスト、神ご自身と信じるなら、いつでもどこでも誰であっても、神の愛と赦しを受け取ることができます。

信じる信仰によって救われる…
私たちの努力や行ない、勉学、訓練…何かではないのです。

今週は受難週。この金曜は、イエス・キリストは十字架につけられた日にあたります。

パウロも、また後世に生きる私たちも、この十字架につけられたキリストを語り伝えてはいるのですが、いかなる言葉も、宣教手段も、また神学的なこだわりも、この事実として十字架を背負われたキリストには、決して及ぶものではないことを心に刻み込んでおきたいものです。

単純シンプルに、私たちの救いのはじめに、まずキリストの十字架の事実があったことを、しっかりと覚えたいものですね(^^)

イエス・キリストは、あなたのことも、命がけで愛しています!

…しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1コリント1:23〜24

 
ラベル:受難週 十字架
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2013年03月11日

口の前に手を開きたい

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。
「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」
申命記15:11

今日は、311ですね。
皆さん、それぞれに思うところがあるのではないかと思います。

私も、いつも通り仕事だったのですが、震災後、最初に東北に行った時のことなどを思い出していました。
でも、今もなお現地で復興途上にある人たちのことを思うと、今日この日ばかりは、うまく言葉が見つからず、なんだか口を開くと、まるで嘘のようになってしまいそうで、言葉が出てきません。

冒頭の言葉は、旧約聖書に出てくる古代イスラエルの律法です。
律法の事細かな教え1つ1つは、もはや守る必要はありませんが、律法の精神は学ぶべきところがあります。

まだまだ現地では、様々な助けが必要な人たちがいます。
しかし、今日この日に何もできない自分がいます。

口の前に、手を開きたい。
たとえ口は開けなくても、手だけは閉じず、開き続けるようにしたいものです。。(^_^;)

でも、その点、日本はすごいと思います。
今日この日も、まだまだ手を開く人たちがいます。

一人ができること、私自身にできることも、本当に顕微鏡レベルの小さな小さなことでしかないのですが、今日でなくても、どんなに小さな手でも、開いていきたいものですね!

あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
伝道者の書 11:1
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2013年03月08日

何も思い煩わないで…

…何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ4:6〜7

昨年夏からの竹島問題の影響で、韓国旅行の需要は、前年に比べ、およそ半減しています。
韓国旅行を基盤とする、うちの会社もかなりの打撃を受けておりまして、3月の給料から20%カットすることが決まりました。

ま、旅行業界というのは、こういう波は付き物なので、なんとかなると思います。
むしろ去年までが、韓流ブームに乗っかって好調だったというのが、正解でしょう。
決して、うちの会社だけではありません。
何事も捉えようで、今の状況でもなお80%は得られるわけですから、感謝なことなんですよね。

…とは言え、決して少ない額ではありません。
奥様になんてお知らせしようか…、少し気がかりだったのですが、さすがは、我が奥様。
その程度では動じません。
これまでの方が、よほど苦労をかけているからかもしれませんけど…(笑)

内心は心配もあるとは思いますが、理解を示してくれました。
それだけでも助かります。。(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、パウロという伝道者が投獄された時に書かれた手紙です。

パウロの場合、給料20%ダウンどころじゃないんですよね。。
投獄です。
さすがに、のんきな私も牢に入れられてまで、こうも落ち着いていられる自信などはございません。。(^_^;)

ですが、パウロは、そのような状況の中で、パウロのことで心配しているピリピの教会の人たちを思い、語りかけるのです。

「何も思い煩わないで…」

私たちは、その時折の境遇によって、気持ちがアップダウンしてしまうことは避けられないと思います。
人生の中には、ピンチや岐路に立たされること、迷うこと、悩むこともあります。
時には、立ち止まり、自分を省みて、何がベストか、じっくり考えることも必要でしょう。

ですが、それが決して解決に向かうことがない否定的な思い…、
度を超えた不安や落ち込み、不満や愚痴になったり、あるいは自己嫌悪、後悔だったり、
「思い煩い」になってきたら要注意です。

そんな「思い煩い」が続けば、自分にあるよいものや、可能性まで否定するばかりではなく、周りにまでマイナス的な影響を及ぼしてしまうことがあります。
心だけではなく体にも影響を与えて、「重い患い」にもなってしまいかねません。

しかし、状況がどうであれ、ただ、その時、その時に、自分自身にできる最善を尽くすことでしかないんですよね。。
そのためにも、いかに心の平安を保つかです。

このパウロの場合は、半端ありません。
これまでに病を負い、死ぬほど鞭打たれたり、遭難したり、生死を分けるような数々のピンチもありましたが、その中を掻い潜ってきました。

お世辞にも決して順風満帆とは言えない、思いっきり逆境に立たされていながらも、その只中で神に祈り、神が共にいて、神が守ってくださる…、
その都度、その都度、ピンチを乗り越えてきた、その経験が物を言うんでしょう。
誰よりも、イエス・キリストは、十字架にも挑み、乗り越えたお方です。

「何も思い煩わないで…」

まあ、今の私レベルですと、鞭1発だけで思いっきり思い煩いそうですが(笑)、この給料20%OFFは一つの経験。

さて、どこを節約して、どう打開していくかな…(^_^;)
決して思い煩わずに、前向きに励んでいきたいと思います。

1日1日、自分なりに、自分らしく、精一杯いきましょう!

…あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
1コリント10:13
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2013年03月04日

ニュースレター2013年3月


早いもので、昨年、神学校を卒業10 年、結婚満10 年を向かえました。

今後の展望を考えたときに、より伝道・音楽活動の方に重点を置き、
さらに外へと出向き、広く活動を展開、充実していきたいと願っております。

ぜひ皆様方のお祈りとともに、他の教会にもご紹介いただけましたら幸いです。
もちろん、皆様方の教会でも必要がありましたら、喜んで奉仕させていただきま
すので、ぜひお声かけいただけましたら幸いです。

ニュースレターも作成しましたので、あわせて、ぜひご覧ください。
>>> ニュースレター2013年3月(PDF版)

■活動予定

3 月1〜3 日 仮説住宅(東松島市・仙台市) 静・コンサートwith Migiwa
         【聖望教会・東北単立教会支援】シーサイドバイブルチャペル
3 月10 日 単立・聖望キリスト教会(市川市) 力・説教/静・賛美
3 月23 日 CD アジアン・インスピレーション「Ai(アイ)」発売記念ライブ・静
3 月31 日 保守バプテスト・田園グレースチャペル(川崎市) 力・説教/静・賛美、コンサート
4 月14 日 単立・シャローム福音教会(横浜市) 力・説教
4 月20 日 スプリング・ディナー(南相馬市) 静・コンサート
4 月21 日 【聖望教会・東北単立教会支援】単立・原町聖書教会(南相馬市) 力・説教/静・賛美
5 月 3〜6 日【聖望教会・東北単立教会支援】キリスト教会「石巻祈りの家」(石巻市)等訪問予定
5 月 5 日 兄弟団・石巻キリスト教会(石巻市) 力・説教/静・賛美 午後コンサート予定

■3 月1 日発売 CD アジアン・インスピレーション「 Ai(アイ) 」 に、静の「JOY」も収録

3 月1 日よりキリスト教書店等にて発売開始される日韓22 組のゴスペルアーティストによる全22
曲のオムニバスCD に静も参加。また、同じく収録されているMigiwa さんとは、今後ユニット活動
も展開していく計画もあります。ご期待ください。CD は定価2,100 円(税込)。
http://www.holyhope.net/shiz/news.htm

今後ともよろしくお願いいたします。
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2013年03月01日

「エリヤを養ったカラス」T列王記17:1〜9

(2013年2月23日 東京プレヤーセンター)

みなさん、こんにちは。
今日は、聖望教会の面々で、月一回、岩井家の家庭集会を行っておりまして、勝手に合同集会とさせていただきました(笑)。

今、この家庭集会では、創世記から始まり、大胆なくらいに、ざっくりと、聖書になにが書いてあるか見てみようということでやっておりまして、今、列王記になったところなんですね。今日は「エリヤのカラス」の場面というわけでして、無理矢理でして、TPCのみなさんにも、お付き合いいただこうというわけです。

さて、サウル、ダビデ、ソロモンと王朝が続いたわけですが、ソロモンが外国の女性に、はまりまして、偶像のための神殿まで作ってしまったんですね。

結果として、混乱をもたらし、南北に分断してしまうわけです。
南のユダ王国では、エルサレムの神殿があったからか、神様に立ち返る王も出ます。
しかし、北王朝では、南との対立もあって、ことさら偶像礼拝が続いてしまうわけです。

T列王記 17:1
…ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

エリヤの記事は、いきなりアハブ王に喧嘩を売っているところから始まるわけですが、この預言者エリヤの時代、アハズ王は最悪というくらいな王だったんですね。

T列王記16:31
…彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。
それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。

この奥さんがまた、強烈な偶像礼拝者でして、イスラエルの預言者を迫害し、後々まで、女君主として君臨していくわけです。
そこで、身が危ないというわけで、神様からエリヤに次のことばがあったわけです。

T列王記17:3〜4
…「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

皆さん、どう思いますか。。。

カラスですよ、カラス。
日本の真っ黒なカラスとは違って、もう少し小ぶりで、グレーのチョッキみたいな模様が入って、かわいらしいんですが、やっぱりカラスです。
普通は、飛んできて、食べてっちゃうのが、カラスなんですよね。。。

人とは言わないまでも、もう少し、犬でも、猫でも、まともな動物はいなかったのでしょうか。。。よりに寄ってのカラスなんです。

しかし、エリヤは、神様の言葉通りに身を隠すんですね。

17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

なんと、けなげに、カラスがせっせと運んでくるんです。
神様の言葉に従うエリヤもすごいですが、このカラスたちも偉いじゃないですか。

もちろん、これは単なる偶然ではありません。
偶然どころか、普通は、カラスが運んできてくれるなんてことはありえないわけですよね。むしろ自分が食べるために、人のものも奪ってしまうのがカラスです。

そこは、やっぱり神様が命じて、神様が働いているからこそ、カラスは運んでくるんですが、それにしても、なぜ、神様は、この時、カラスに運ばせたんでしょうか。なぜ、カラスを選んだんでしょう。

実に、このエリヤを養うカラスの姿を見たときに、まず、私自身が、このカラスのようであるべきだな…って思うんです。

私が神学校時代、いのちのことば社でバイトしながら、学校に通っていたんですが、なんせ、一人暮らしのバイト暮らしじゃないですか。大して、ろくなものを食べていなかったんですよね。

すると、同じ職場にいたおじさん…、聖望教会の小林さんなんですが、だったら家の近くに住んで、たまに、ご飯でも食べにきなよ…ということで、それで市川に住み、今の聖望教会にも集うようになったんですね。
まあ、早い話、餌付けされたようなものですよね。

さらには、なんと小林さんの奥さんが、お昼のお弁当まで毎朝、届けてくれるようになったんですよ。
それを聞いた、同じ職場の人が、まさに「エリヤのカラスだね」と言ったんですが、まさに、それは本当に、有り難い話です。

ここで終われば、すんばらしい話で終わるんですけど、間髪いれずに、そのご主人、小林さんが…、なんて言ったと思います?

「うちの場合、カラスが飛んできて食べてっちゃう…。」

さもありなん。。
私こそ、本来の、まさにカラスみたいなものなんですよね。

そのほかにも、今日は聖望教会の面々が来てくれましたが、これまで、私も、静も、多分に聖望教会の一人一人に養われてきたんだよな…って思うんです。
それは、食べ物ばかりではなく、慰めであったり、励ましだったり、時には笑い話、冗談も含めて、さまざまな助けを受けながら、養われてきたわけです。

では、そんなカラスみたいな私が、聖望教会に、あるいはTPCに、また、ほかの人々に、何を与えることができるんだろう、何を運べと命じられているんだろう…って考えるとですね、私の場合には、やっぱり一番は聖書の言葉、いのちのパンを運ぶことだと思うんです。
ついつい、メッセンジャーと言うとね、えらくなりがち、高くなりがちなんですが、でも所詮、カラスですから。
せっせと御言葉を運ぶカラスになれたら、いいんじゃないかな…って思うんですよね。
これが静だったら、歌になるかもしれないですよね。与えられた音楽の才能を持って、歌を届ける。

私たち一人一人、与えられているものには違いがあるだけで、お互いに自分が持っているものを、必要な人のところに運び、時には、運んでもらいながら、お互いに養いあっていく…、実に、これこそ聖書、神様の求めている「愛し合う」という姿なんですよね。

カラスでさえ、神様が命じられると食物を運んでくるというのに、人間は何をしているかというと、さらに貪欲で、与えられたものでは飽き足らず、イスラエル人は偶像礼拝に走っていたわけです。
でも、これは、決して、人事ではなく、私たち、自分自身も含めて、人間の一面でもあるわけです。

預言者エリヤも、このカラスに養われながら、何かを感じ取っていたんではないだろうか。。。

このあと、川が枯れてしまうと、神様は、やもめ、未亡人のところに行けと言うんですよね。今度は、カラスではなく、やもめです。
しかも、このやもめは、もう最後一握りの粉で、息子と一緒にパンを食べて死のうとしている…、そんな極貧状態のやもめだったんです。
でも、それは、あくまで神様のみことばが、先にあったからです。

17:9…「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

神様の言葉、何もなくして、やもめから、最後の粉を奪えば、間違いなく、甕の粉はなくなりますんで、絶対に真似はできません。
我が家の米も、食べれば、普通に減ります。これは特別な事柄ですので、良い子は絶対にマネしてはいけません。
しかし、今日は、このやもめが、シドンにいるやもめということに注目したいと思います。

最初に、シドン…って出てきましたよね…。
そう、まさにこれからエリヤが対決しようとしているアハズ王の妻、悪妻イゼベルのお膝元がシドン(今のレバノン)なんです。まさに敵陣なんですよ。もちろん、このやもめも偶像礼拝者であったことでしょう。

なんと、本来、エリヤが本来一番嫌っていた偶像礼拝者のところに、神様のことばを運んでいくわけです。
もう一度、1節を見ていただけますか。

17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

この時のエリヤには、「私の仕えている」、「私のことば」、「私」が先行していて、ほかの箇所に見られるような、「主のことば」がないんですよね。

実に、エリヤも神様が遣わされたカラスに養われ、カラスから学んだように思うんですよね。。。エリヤもまた、カラスのように、命じられるまま、御言葉を運んでいったんです。

それで、偶像礼拝をしていた家族のところにも、救いがもたらされ、偶像礼拝の地にあっても、天地を造られたこの神こそが神であることが明らかにされたわけです。
そして、いよいよバアルの預言者への対立と向かうわけです。

私たちにも、神様が送ってくださるカラス的な存在が、実は多くいるように思います。
必ず誰かに助けられながら存在しているんですよね。
ならば、私たちも、人それぞれに運ぶものは違いがあっても、神様が命じられる時、このカラスのように、必要なものを必要な人へ、せっせと運ぶ存在でありたいものですよね。

17:4「…わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
ラベル:列王記 エリヤ
posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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