2013年08月31日

最もたいせつな戒め マタイ22:35〜40

2013.8.31 TPC東京プレヤーセンター

みなさん、こんにちは。
今日は、またまた岩井家庭集会の皆さんもおよびして、勝手に合同礼拝にさせていただいております。
今、家庭集会の方では第2列王記、預言者エリシャの時代になっておりまして、そこからメッセージをしようかな…と思ったんですが、どうも、今ひとつ、インスピレーションがわかないんですよね。。
正直、語りたくないな…というか。
伝道師がこんなことを言っていいのか、わかりませんが…(笑)

イスラエル史上最悪と呼ばれる女帝、イゼベルが君臨し、預言者エリシャによって立てられた新たな王、エフーがそれを打つ…。
では、そのエフーはというと、結局は、神様から離れてもいってしまうわけです。

そこから何を語るのか…って言うと、何か、ちょっと違和感を感じずにはいられなかったんですよね。
もちろん、第2列王記も聖書、神のことばです。話そうと思えば話せなくはないし、学ぶべきことはあると思います。

でも、それよりも、何よりも、単純明快、私たちが一番大切にしなくてはならないことは何か、聖書が神様が最も伝えたいことは何か、もう今日のこの箇所に尽きてしまうと思うんです。

マタイ
22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒め…
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのです。」

マルコの福音書では、
「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

いずれにしても、この2つの戒めが、聖書全体、一番大事、もっともたいせつな戒めと言って問題はないと思います。
戒め…というと、ただ私たちが守るべき命令かのように捉えてしまいがちかもしれませんが、私たち人間が愛し合ってほしい…これが神様の一番の願いであるわけですよね。

ちょっと調べてみたところ、第2列王記には、あくまで単語としてですが「愛」と言うことばが一つも出てこないんですよね。

もちろん愛が、全くなかったわけではないと思います。
でも、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…「私たちが愛すること」、これが最も大切な戒め、最も大切な事柄とされてこなかった時代、歴史、これが第2列王記といえるのかもしれません。
そもそも律法自体が忘れられていましたから無理もないのですが、結果、イスラエルは衰退の道を歩んでいったわけです。

では、私たちはどうでしょうか。。

もちろん、愛がないわけではないと思います。
ここに集っている皆さんは、確かに神様を愛してらっしゃると思うんです。
だから、こうして集まって、礼拝したり、賛美したりもしますし、お互い助け合ったり、祈りあったり、交わりも持つと思うんです。
ですが、それを承知で、あえて尋ねるんですが、
本当に、みな等しく、的確に、隣り人を愛せるか…というと、なかなかどうして、実は、私自身も含めてできていない、足りない、失敗も多いと思うんですよね。

この愛は愛でも、キリストの愛だったりするわけじゃないですか。
汝の敵を愛せよ。迫害するもののために祈れ。
人がその友のために、命を捨てるこれほど大きな愛はない…
聖書の愛は、無限大なんですよね。

ちなみに、この2つの戒め、私は100%完璧に守れています…という方、いらっしゃるでしょうか。

はい、誰もいません。

よかったです。
これで、できてます…と言われちゃうと、この先、どう話していいか、わからなくなってしまうんですが、私もできているとは、お世辞にもいえません。
100%完璧にできているのは、誰もいないはずなんです。
もし、いるとしたら、イエス様だけです。

ですが、ちょっと注目して欲しいんですが、ここでイエス様は、隣人を愛するということは、神様を愛することと同じように大切な戒めだとおっしゃっているんですよね。。。

この2つの戒め、言うなれば、最高法規、憲法みたいなものですよ。
もし、この2つの戒めが守れていない…、ここから外れていたとしたならですよ。

その他、多くの部分で、どんなに聖書に忠実だったとしても、どんなに見た目、立派な働きをしたとしても、聖霊様から、どんなに、すんばらしい賜物いただいたとしても、それで優れているとか、それが正しいなんてことにはならないはずですよね。。
早い話、憲法違反なんですよ。

…の、割にはですよ。
この2つの戒め以外の部分で、あれこれ優劣を付けたり、批判しあったりしてしまうようなことが、皆さんとは言いませんが、実際問題、正直な話、キリスト教会の中では、あったりするんじゃないでしょうか。。

いいんですよ。
ぜひ、ここは、正直であって、欲しいんです。
正直、キリスト教会、私たちの間にはあり…ますよね。。?

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

この質問をしてきた律法、聖書の専門家は、イエスを試そうとして…と書かれています。
彼らは、聖書を徹底的に調べ上げて、徹底して律法に反しないような生活をする、プロ中のプロだったわけですよね。
それで、神様を愛している…、さらには律法に定められた隣人愛も行っていると思い込んでいた人たちだったわけです。
でも、それで律法を守っていない罪人たちを見下したり、非難したり、裁いたり、逆に、そんな罪人を赦していたイエスを敵対視、実際、揚げ足をとろうと試していたわけなんですよね。

人のふりみて、我が振りなおせ…なんです。

果たして、今日の教会で、また自分自身にとって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛が、他の何よりも大切な戒めとして、本当に、今、私たちの目標として、私たち自身、私自身のうちに掲げられているでしょうか。。。

ここは、気をつけて欲しいんですが、決して、できていないから、駄目…ではないんですよ。
誰かを否定、非難することではないんです。

ここが律法主義と、キリストの福音の分かれ道なんです。
律法主義では、律法を守らなければ、神様に愛されない、裁かれる…と考えますから、他人を裁くがゆえに、自分の落ち度や、できていないことを認められなくもなっていくんです。

キリストの福音では、できていないものは、できていませんと認めていい世界なんです。

なぜならば、そんな不完全な私たちを赦すために、キリストは十字架を背負い、私たちのことを愛してくれているんですよね。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

この生き方、この愛を、100%実現したのは、イエス様だけ。
実に、そんなイエス様の愛によって生かされているのが、私たち、クリスチャンなんです。

できていないから、駄目ではなく、できていないにもかかわらず、愛されているからこそ、私たちも、この3つの愛を目指すんです。

書かれた当時、小学校1年生の作文があります。

「おかあさんのたからもの」

せんせい あのね
おかあさんのたからものはね
ぼくだって

おかあさんのたからものは
ぜったい ゆびわだと
おもって いたけど
ゆびわは 2ばんめだった

ぼく
たからものになっちゃってこまるよ

たからものって
はめたり つめたり
かけたりするものなのに
でも
なんか いいきぶん

ぼくは
そとへでて はしりまわったよ


…なんだか、かわいらしいというか、いいですよね。
大人になるにしたがって、宝物だといわれても、こうも純粋には受け止められないというか、そうは単純に喜べないような気がします。それだけ私たちは、多くの傷も受けてきたのかもしれませんね。
しかし、愛が喜びを与え、心にどんな変化をもたらすか、その気分は、よくわかると思います。

どれだけのことができるか、どれだけのことをしているかは問題ではないんです。
この小学生の作文ですが、ただ愛されていることを喜んでいるだけなのに、私達の心にまで、何か暖かなものを与えてくれていますよね。

イエス・キリストに愛されていることを喜んでいるお父さんがいる、キリストに愛されて喜んでいるお母さんがいる、子供がいる、仲間がいる、それだけでも実は周囲に何かを与えているんです。

神様の宝物はね、ぼくだって
神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、僕だった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

 本当に、外へ出て走り回りはじめたら、逆に心配されますんで、やめといた方がいいかと思いますが、イエス・キリストに愛されている喜びこそが、クリスチャンにとっての最大の原動力であり、原点です。
礼拝や賛美、クリスチャンの愛も、すべてこの感動から、湧き出るものです。

愛するって、単なる行為ではなく、心が伴うものですよね。
ですから、単に「愛しなさい」と言われるだけでは、できないんですよね。愛するためには、愛されることも必要なんです。

今、巷では、体罰やいじめ、家庭内でも幼児虐待、様々な悲しいニュースが流れていますが、必要なものは、なんでしょう。
「体罰はいけない」「いじめてはならない」…という律法や処罰でしょうか。
それとも、愛されている喜び、愛する心、愛そのものでしょうか。

日本では、年間3万人の人たちが自ら命を絶っています。
必要なものは、何でしょうか。やっぱり愛です。

東日本震災では、多くの人たちが津波に巻き込まれ、命を落としました。
誰かを亡くした深い悲しみや傷…、そこに慰めや癒しを与えてくれるものは何でしょうか。。。
やっぱり、愛です。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

これが、もっとも大切な戒め…、
これが律法、聖書全体、預言者。これがメッセージです。

これこそが、私たちを創られた神様の、最初からの願いです。
イエス様は、できない私たちをも愛してくださいました。
聖霊様も、このためにこそ、私たちのうちに宿り、働いてくださっているんですよね。
この戒めを実行可能にしてくれるのも、神様の愛です。

人は変えられませんから、まず自分自身からです。

私たちはどこまでも不完全、完璧はありません。
失敗することも、愛せないことも、まだまだ、いっぱいあると思います。
しかし、けれども、にもかかわらず、
こんな私をも、キリストが愛してくださっているというので、
自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…
この3つの愛に生きる。

神様の宝物はね、ぼくだって。
あなたです。私です。

神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、ぼくだった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

できないものであるからこそ、まず自分自身が、神様の愛を感じ取りながら、3つの愛を表せていけたら、いいですよね。

…イエスは彼に言われた。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マタイ 22:36〜40



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2013年08月07日

1人のために…

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか…。」
ルカ15:4

ここしばらく、ちょっと掲載をお休みしてました。

いろんな出来事があったんですが、その中でもショックだった出来事の一つに、高校時代の友人が突然、行方がわからなった事件がありました。
釣り好きということもあって、地元静岡の友人たちが懸命に探したのですが、どうやら事故ではなさそうです。

奴なりに悩みもあったのかもしれないな〜と、少なからず伝道師やってる自分としては、力不足を感じずにはおれません。

今は、どこかで無事にいて、ひょっこり現れるんじゃないかと、待っているところです。

しかし、懸命に探してる友人たちの状況報告を聞きながら、本当にいい仲間たちだなと思いました。
ジーザスも、神はそのようなお方だといいます。

特に都会では、大勢の中の一人に埋れてしまいやすいかもしれません。
周りには、いっぱい人はいても、なぜか孤独を感じてしまうことがあると思います。

しかし、バイブルの神は、1人を大切にする神です。

私もその1人。
自分もまた一人を大切にする心を忘れずにいたいものです。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ルカ15:7

posted by holyhope at 20:49| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする