2014年01月19日

「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜28

みなさん。おはようございます。

今年最初の説教当番になりますが、本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、東北被災地を中心に活動を展開してまいりましたが、静もCDを出しまして、今年は、さらに活動を広げていきたいと願っています。

使徒の働きには、こうありますよね。
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
 使徒たちによって伝えられた福音は、エルサレムに始まり、いまや東の果て、日本、この市川三丁目にも届けられているわけです。
 しかし、教会というのは、内向きに、この建物の内側ばかりを意識するのではなく、地の果て、外に向かって、外に発信していく。市川三丁目にはじまり、関東、さらには地の果てに向けて発信していく、そうした性質も帯びているわけですよね。

 …といっても、みなが伝道者ではありません。みなが静のような歌うたいではありません。それは私たちの働き、役目として担っているわけですが、ホームグラウンドは、あくまで聖望教会だと思っておりますので、よろしくお祈りをもって、応援していただけましたら幸いです。

 さて、今日は、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、三位一体なる神様というのは、今朝も告白しました使徒信条にも表されるキリスト教の中でも極めて重要かつ中心的な信仰内容の一つです。

ですが、正直な話、「三位一体」と言われても、なんだかよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんですよね。
 父なる神様と、子なるキリスト、そして聖霊、確かに3つ存在しているのに、三つの神様ではなく、1つだというわけですよ。なんちゃあ、よう、わからん。これで、私たちの頭は、完全に「?」になるわけですよね。

 なぜ、大切かというと、今朝もお読みしましたイザヤの預言からしても、救い主は神ご自身、「わたしのほかにはいない」わけですよね。

 ところが、この「わからない」「わかりにくい」ところ突かれて、たとえば、イエス様をキリスト(救い主)だとは言いながら、神様ではない…、エホバの証人や、異端的な教えが忍び込んでしまうわけです。それは、すなわち「三位一体」を否定した考えなんです。

 あるいはですね、父なる神様…なんとなく、わかります。イエス様、よくわかります…、ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、よくわからなくて、下手をすれば、「聖霊の働き」といえば、なんでも「正しい」ことになってしまうなんてことも、世の中では起きているわけですね。

 それも、ちょっと嫌じゃないですか。
ですが、この「三位一体」、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。
 
 もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。聖書66巻、全部を把握したとしてもですよ。神様は、人知をはるかに超えているわけですよね。神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 にはこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

つまり、神様ご自身については、人ではなく、イエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。

そこで、今日は、イエス様がなんと言っているか、そこを見ていきたいと思うわけですが、その前に、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりします。
 
イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、たいていイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。
3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人にとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、ドーンと存在しているわけですよね。
 そして、イエス・キリスト、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。1つが先に来て、「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

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この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。
もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。

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最初の海外拠点になったのは、今のトルコ南部にあるアンテオケの教会です。

よく聞くところでカパドキアもトルコですし、エペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、コリントや、テサロニケといった教会は、隣のギリシャにある町です。今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。

これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。

ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。「1つの中に、三つある」という理解のほうが、素直ということになるわけです。

この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんですよね。それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。


14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道、真理、いのち」、必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 …わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様は、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 
その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。

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「父・子・聖霊」全部揃って、全体で「唯一の神様」なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に単独で動いているわけではありません。

たとえば、父なる神様やイエス様抜きで、「神」は語れないし、「聖霊」だけで「神」全体でもないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして―本当に曲者なのは、私たち人間なんですが―、
目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」などと、なんでも正しいかのように言えてしまうという危険もありうるわけです。

ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

このヨハネの福音書の続きを少しみてみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

決して、聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って自己主張しているわけではないんですよね。
「父」から遣わされて、必ず、道であり、真理、いのちである「わたし」すなわち「イエス様」を指し示しているんです。

イエス様は残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」イエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊様なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。

仮に、そういう勘違いあったとしても、すべてが否定されるというわけではないでよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

ですが、聖霊も神様なんですから、間違いのある人間がむやみやたらに「聖霊」の名を用いてもいけないはずですよね。。?

宮村先生も、徹底した聖霊信仰は、徹底した聖書信仰だと語られていますが、その聖書を通して、子なる神、イエス様ご自身が、繰り返して語られているのは、助け主、聖霊は「わたしについて教え、わたしについて証をする」ということなんですよ。

ヨハネは、手紙の中でも「霊だからといって、みな信じてはいけません。」(Tヨハネ4章)と忠告しているわけですが、受肉、十字架、復活、歴史的事実として「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」これこそ、聖霊です。
反対に、イエス様の心、イエス様を理解できれば、聖霊様のことも、わかるということになるわけです。

これが、イエス様ご自身が、最後の晩餐のときに、口を酸っぱくして語られた、助け主、聖霊というお方なんです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる創造主を知ることになるわけですね。

14:28 …あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

イエス様は肉体を有して、私たち人間に、目に見える姿、形をもって、神ご自身について、説き明かしてくださったわけですよね。
しかし、肉体を有するということは、ある時間、場所に限定されてしまうことにもなります。それが、神ご自身のすべてかというと、そうではないわけですよね。

イエス様と同じような父なる神様、天の父が、目には見えませんが、イスラエルにも、この日本にも、何億万光年離れた宇宙のはての果てにも、時間と空間をはるかに越えて、存在しているわけです。

私たちは、この天の父に抱かれるように、命をはぐくみ、事実、今、生かされているんです。つまり、父なる神様に愛されて、存在しているわけですよね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

今年も正月三日目に、ようやく、うちら的、初日を見に行ったんですけどね。特に、冬の寒い朝ほど、太陽の光って暖かく感じるんですよね。
この絶妙な熱によって、私たちは、間違いなく、生かされているんですよ。

地球がもう少し太陽に近かったら、地球は灼熱地獄、海の水も蒸発してしまうわけです。ほんのちょっとでも離れていたら、海の水は凍り付いて、人間をはじめとする生物は、やはり生きられないんです。それは、この地球上にも、わずかの違いで、日本には春夏秋冬が存在し、水のない砂漠も、万年凍りついたような南極が存在していることでも察しがつきますよね。
実に、絶妙なバランスのところで、この地球という環境は創られているわけですよ。
すごいと思いませんか。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ偶像礼拝者であったとしても、太陽は昇り、地には雨が降り、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。

わたしたちが神様を知る、救いに預かる、それは「わたしが道であり、真理」イエス様を通してだけです。
しかし、イエス様だけに守られているわけではなく、私たちは、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。

1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、ここから外に出て行くときにも、あらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

ここで言う「わたしの戒め」って何でしょう。

それは、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

また、この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでいきましょう。



ラベル:三位一体
posted by holyhope at 18:19| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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