2015年04月26日

創造主なる神を知る イザヤ45:1〜8

2015年04月26日 聖望キリスト教会

 4月も最後の週になりまして、本当に暖かくて、春らしい季節になりましたね。
桜は散りましたが、これから新緑が芽生えて、やがて梅雨、夏へと向かっていくのかと思います。
 別に、私が思わなくても、自然とそうなるんですけどね。

今日の招きの言葉は、伝道者の書12:1を選ばせていただきました。

伝道者の書12:1 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。…」

 教会学校では暗証聖句の定番みたいな聖句の1つで、私も小さな頃から嫌というほど聞いてきた言葉なんですが、ここでの「覚える」とは、単に頭の記憶として「覚える」、暗記するという意味ではありません。

 それこそユダヤ人たちは代々、創造主なる神様のことは聞いてきましたし、信じてもいたわけですよね。改めて、覚えるも何もないわけです。
ですが、自分という存在を愛し、生かし、育んでくださっている創造主の存在をもっと深く知る、もっと深く感じ取る、これがこの「覚える」の意味するところです。

「…わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」

 聖書って正直だと思うんですが、決して、災いがないとは決していわないんです。
 これは被災地に行かせていただいて実感するんですが、本当に大きな「わざわい」がある前に、神様を信じているのと、そうでないのとでは、違うんですよね。
クリスチャンですら、神様なんで!と思ってしまう、これが正直なところだとは思うんです。でも、それでも、自ら被災しながらも、人を助けようとする…これが被災地のクリスチャンの姿でした。
 でも、そうでない人はどうかというと、本当にショックを受けて、心にも多くの傷を負ってしまうんですよね。それは、本当に今もなおなんです。

 私自身、4年前に起きた震災、また、それに続く福島の原発事故という大きな「わざわい」を通して、この自然界というもの、その恵み、また、それらを創られた創造主の父なる神様の存在を深く思う、感じるようになったように思うんです。

 もちろん、これまでも、この天地を神様が創られたとは信じてはいましたよ。
ですが、どちらかといえば、花より団子の世界です。
道端に花が咲いていてもスルーでしたし、雨が降れば、嫌だなと思いますし、夏、暑ければ、不満を言っていたようにも思うんです。
 ですが、実に、信仰あるなし関係なく、現実に、私たち人間は間違いなく、この自然環境があって、生かされているんですよね。
にもかかわらず、じゃあ、この与えられている自然環境に、どれだけ感謝していたんだろうというと、それまで、私自身、さほどでもなかったように思うんです。

 そこで、今日は、このイザヤの預言に導かれましたので、この箇所からみていきたいと思うのですが、この箇所を正しく理解するために、ちょっと簡単に、歴史背景から見ておきたいと思います。

 この預言者イザヤが活動していた当時には、南北に分かれたイスラエルは共に衰退、まず先に北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、やがて南のユダ王国も、次に台頭してきた新バビロニア帝国に侵略され、多くの労働者や技術者、またダニエルのような将来有望な人材が、バビロニアへと強制連行されていく、いわゆるバビロン捕囚が起きます。

 その原因は、王をはじめとする民たちの偶像礼拝だったわけですが、エレミヤ書、エゼキエル書を見ますと、民たちは、仕事が終われば、すぐにでも、またイスラエルの地に帰れるくらいに、楽観視していたようです。
 ところが、やがてエルサレムが陥落、神殿も崩壊、その希望は砕かれ、長い年月、バビロニアに拘束されたわけです。

 40章以降は、そのバビロン捕囚に囚われたイスラエルの民が、いかにして、再びイスラエルの地に戻り、国の再興、すなわち平和な暮らしを取り戻せるのか、そういった意味での「救い」について書かれている、これが第一義的な預言です。
 ですが、聖書の預言というのは、さらに後に起きることも重ねて預言されていまして、700年後に誕生する本当の救い主、イエス様についても預言されているわけですね。
 それゆえ、イザヤ書は旧約聖書の福音書とも言われています。
イザヤ書45:1〜8

 45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
 45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
 45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
 45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
 45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
 45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 45:8 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 1節に出てくる「油そそがれた者」というのは、まさにメシア、救い主の代名詞的な言葉で、ギリシャ語の「キリスト」も油をそそがれた者という意味を含んでいるんですね。

…と、ここまでは、ここまでなら、今日の聖書箇所も、すばらいしい救いを知らせている福音的な預言のように思えるかもしれません。

 ですが、このクロスという人物は、のちに起きるペルシアの王様だったんです。
 本来、「油そそがれた者」「メシア」といえば、まずはイスラエルの英雄、ダビデ王のことであり、救い主も、当然、ダビデの子孫から起こされるはずのもの、ですから、イエス様もダビデの子孫です。

 しかし、ここでは、その「油そそがれた者」という肩書きが、なんと異国の王様に、しかも名指しで与えられているわけです。
もちろん、このクロス王は、聖書の神様を信じていないどころか、まったく違う別の宗教を信じていた人物なんですよね。

神様は、そのペルシア王クロス王に

45:1…「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
といいます。つまり向かうところ敵なし。事実、ペルシアがバビロニアを攻略する時は、バビロニアは、そのまま城門を開ける、ほぼ完全降伏状態だったようです。

45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなた(…クロス王のことですが)、あなたをあなたの名で呼ぶ。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。

 ペルシア王クロスは、この預言を知ってか知らずか、バビロニアがエルサレムの神殿から持ち出した神殿の器具、用具、宝を、イスラエルの民に全部持たせて、エルサレムに帰還させ、それでエルサレムの神殿は再建されていきます。

 ですが、さあ、これがイスラエルの民の立場からしたら、どうでしょう。
もちろん、この預言が成就して、イスラエルの地に帰れるのは、希望であり、喜びです。

 しかし、なぜ、よりによって、異国の王によって救いがもたらせるのか、どこか腑に落ちない、どこか情けない、そんな気分にもなるかもしれません。

 まあ、自分たちは偶像礼拝に走ってもいたわけですから、言えた義理ではないんですが、続く9節以下を見ますと…

45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

…と、こうした疑問や反発心も、実際、あったんだろうと思います。

しかし、そのペルシアの王を油注がれた者、メシア、救い主として立て、イスラエルの民をバビロニアから救い出す、これを創造したのも「わたし」、創造主のわたしだ…というわけです。

45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。

 イスラエルの民は、昔から、創造主のことを知ってはいました。偶像礼拝に走っていたとはいえ、一応、信じてもいたはずです。
 ですが、どこかで自分たちは創造主なる神様を知っている、自分たちこそ選ばれた民だという誇り、思い上がり、実は、神様ではなく、自分たち自身のことを過信、楽観していたところもあったかと思うんです。
 ところが、バビロン捕囚が起き、エルサレムの神殿が崩壊し、こうした「わざわい」の中から、異教国の王によって救われる、そのことによって自分たちのうちにあった優越感、高ぶりは見事に砕かれていったわけです。謙虚にさせられたわけですね。

 「わたしが、これを創造した」。
 このことを通して、創造主なる神を知りなさい…というのが、この箇所のまず第一のメッセージです。

 私たちは、どうでしょうか…。こうした信仰者としての高ぶり、誇りはないでしょうか?
 どこかで、あるようにも思うんです。
 教会の敷居が高い…といわれてしまう所以も、こうしたところにあるのかもしれません。

 これは日本の教会ということではないですが、キリスト教会全体の歴史を見たときに、十字軍やユダヤ人迫害に代表されるような他宗教に対する過剰な攻撃、決して他宗教でも構わないということではありませんよ。
 でも、「人」に対する尊重、最低限の礼儀や敬意を失うこともあるように思うんです。

 こと私たち日本のクリスチャンは、圧倒的多くのクリスチャンではない人たち、多くの未信者、他宗教の人たちにも、助けられながら生きているわけですよね?
 「わたしが、これを創造した。」
 決して偶像礼拝を肯定するわけではないですが、たとえ偶像礼拝をしている人たちであったとしても、また神様が創った人であることに変わりはありません。たとえ、まだ神様のことを信じていなくても、その人にも優れた面、その人から学ぶこともありますよね。
 そうした人に対する礼儀や感謝を忘れずにいたいものです。

45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 クロスの信じていたペルシアの宗教では、善か悪か、善の神と悪の神が対立して世界を作り上げていると考える、善悪二元論でした。
 よいことは全て神様の業で、悪いことはすべて悪魔のしわざ…みたいな?
 もちろん、神様が二人存在しているわけではありませんので、そこに釘を指すための言葉とも捉えられていますが、「わざわい」もまた、神様が造ったというんです。

 なんで、神様「わざわい」まで創るんだろうと思うわけですが、私たちが「わざわい」や試練から、学ぶこと、そこであえて神様が気づいて欲しいこともあるんですよね。それはもちろん、神の御手の中にあってのことです。

 みなさん、「神様の奇跡」と言うときに、何を思い浮かべるでしょうか?

 病気が癒されること。問題や悩みが解決されること。必要が満たされること…。

 もちろん、そういったこともあるとは思います。
 でも、これも気をつけないと、無病息災、家内安全、商売繁盛…、お札かお守りに書いてありそうな、ご利益宗教とおんなじになってもしまうかもしれないんです。

 ですが、今日も太陽が昇り、時に雨も降りながら、大地が潤い、四季折々の草花が息吹き、あらゆる動植物たちが住み、この自然界の中で、私たち人間も生かされている。
「わたしがこれを創造した。」
 これが、まず何よりも、一番、まず最大の奇跡で、感謝すべきことではないでしょうか。

45:8
「天よ。上から、したたらせよ。
 雲よ。正義を降らせよ。
 地よ。開いて救いを実らせよ。
 正義も共に芽ばえさせよ。
 わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 天地創造という時、聖書と科学、…というよりは、クリスチャンと科学と言ったほうがいいかもしれないですが、どこか無用な喧嘩もしてきたようにも思うんです。
 これが私には、残念だな…って思うんですよね。そのために逆説的ですが、聖書が語る天地創造、創世記1章の記述が、現実離れしたような、ひとつの「神話」かのような印象を与えてしまっているように思うんです。

 確かに聖書では、神が7日で創った、7日目は安息、お休みですから、実質6日で創ったということになるわけですが、ところが科学では、地球誕生46億年だとか、宇宙誕生138億年だとか、桁外れな数字が出てくるわけですよね。
 これだけを取り上げてしまうと、まったく違うことが書かれているように思ってしまうかもしれません。ある人にとっては、6日で創ったなんて信じられないことでしょうし、クリスチャンにしてみれば、聖書を否定しているように聞こえてしまうかもしれません。

 ですが、科学の計算というのは、あくまで創造主、神という存在や力を計算に入れなかった場合での計算なんです。
それだけでも、けしからん…なんて思う方もいるかもしれないですが、でも、もし神様の力を抜きで計算したら、確かに、この地球の自然環境が形成されるには、46億年くらいかかるような代物、神様は6日で作られたとしても、46億年に匹敵するような価値あるものなんですよね。
 これは聖書を否定しているわけでも、なんでもないんです。
 むしろ、科学は、この創造の「6日」の価値の大きさ、偉大さ、また、いろんな多くの不思議さを教えてくれているわけです。
 もちろん、こうした科学のすべてが、正しいというわけではないですし、多くの科学者が、聖書の神様、創造主を知らないし、知っていても信じていないかもしれませんが、決して、まったくの出鱈目を言っているわけではなく、神様が創られた被造物を熱心に調べているわけです。

 創世記で描かれているのは、きわめて概略、大雑把ではあるんですが、よく見れば、ちゃんと1日、1日、一つ、一つ、物理的な段階を踏んで、この地球を創っていることがわかります。その順番も、決して、あながち科学の見解と矛盾しているわけでもないんです。
 そして、私たち人間は、決して1日目でもない、2日目でもない、6日目の自然環境の中で創られ、生かされているわけです。

 この地球が、こうした生物が生息できる環境にあるというのも不思議ですよね。
 地球がほんとのちょっと太陽よりに位置したら、灼熱地獄、水は蒸発して、気体になってしまい、雨にはならないんです。当然、生物は生息できません。
 また逆に、ほんのちょっと離れていても、全面凍りついて、やっぱり私たちは生きてはいけない。
この水が気体、液体、固体…ちょうどいい位置にいるから、私たち人間も、動植物たちも生息できます。

それ以外にも多くのことを、科学は教えてくれているわけですが、
大切なのは、「わたしが、これを創造した」
それは、まさに、今、私たちが住んでいる、この自然界です。

 前にもお話したことがありますが、ここ1年か2年前くらいからなんですが、毎朝、市川駅まで行く道すがら、意識して、空でも、風でも、鳥のさえずりでも、自然界の何かを感じるようにしているんですね。これが、なかなか、私の場合、意識していないと難しいんですが、仕事で悩み事があると、そのことばかり考えながら、いつの間にか市川駅についてしまうんですよ。
 それで、あわてて、ホームから空を見上げてみたりすることもあるんですが、私も仕事をしていますから、ストレスが溜まったり、ついついイライラしてしまったり、心配事で頭がいっぱいになったりしてしまうわけですよね。

 ところが、この自然界の何かを感じられると、今日もこの自然界の中で生かされている…、そのこと自体、そのことだけでも、神様の愛に包まれているような、自然と、まず何よりも感謝だなと思えるんです。
 それで、仕事の問題か悩みが解決されるわけではないですが、まず最初に、その感謝があることで、心にゆとりが生まれ、人への感謝、接し方であったり、よっしゃ、今日もがんばろう!と仕事への取り組み方も変わってくるんですよね。

 皆さんも、今日の帰り道、空を仰ぎ見、風を感じ、草花や鳥のさえずりでも、何でもかまいません。
 何気なく目の前を横切る猫やんも、そして自分自身も、この自然界の中で、今日も生かされている、そして、周りには多くの人たちがいて、助けられながら生きている、生かされていることを感じてみてください。

 イザヤもまた、特に荒野の自然界、そこに生きる動植物たちの姿を描きながら、わたしがこれを創造した…と繰り返しています。

 時に、確かに、この自然界は厳しくもあります。
 日本には荒野こそありませんが、地震や津波、火山、ついでに台風もあって、時に、災害をもたらします。でも、この自然があって、この日本は存在し、豊かな自然の恩恵を受けながら、私たち日本民族は生かされてきたわけです。

 当たり前のようで、決して、当たり前ではない。
 日本語の感謝の言葉「ありがとう」って、よくできた言葉だと思うんですよね。有るのが難しいと書いて、「ありがとう」なんです。私たちが生きている、生かされている…というのは、本当にありがたい話なんです。

 ところが、今日の現代社会を見たときに、この日本に原発を作り、あれだけの被害を出し、多くの人々が故郷を追われているにもかかわらず、今もなお原発に依存しようとしているわけです。
 片方で年間自殺者3万人、自ら命を経つ人がいれば、もう片方では「誰でもいいから殺してみたかった」…なんていう殺人事件も起こっています。
 人と人とが殺しあう戦争もそうかもしれませんが、実に、人一人という存在がないがしろにされてしまう、「いのちのありがたみ」というものが薄らいできているように思います。

 誰かを非難したり、国を非難したりするのは簡単です。
 でも、その前に、こんな時代だからこそ、まず、私たちクリスチャン自身が、天と地、この自然界、そして私たちを創られた創造主を覚える、畏敬の念と感謝の心をもって深く知る、味わっていく、ということが大切だと思うのです。
 その創造主の畏敬と感謝の念が、自分であり、周りであり、人の命を大事にする心、価値観にもつながってくるでしょうし、そうした価値観を広めていくことにもつながるのではないでしょうか。

 私たち自身もまた、神様、創造主について、まだまだ知らないこと、わかっていないことも多いんだと思うんです。
ですが、まったく神様を知らなかった、異教徒のクロスに語られているように、

 あなたはわたしを知らないが、
 わたしはあなたに力を帯びさせる。

 実は、私たちにも名指しで語られているのではないでしょうか。

 天地を創られた神様がいて、事実として、今日も私たちを生かし、力を帯びさせてもくださるわけです。
 与えられている役割は、人それぞれです。
決して、私たちが、メシア、救い主になるわけではありませんが、真の救い主、イエス・キリストを知っています。
いきなりは信じてはもらえないかもしれませんが、家庭において、職場において、地域社会の中において、まずは神が創られた人々に、日本の民に、感謝と敬意、愛を持って、あなたも愛されている、かけがいのない存在であることを伝えていけたらいいですよね。


posted by holyhope at 19:09| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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