2015年10月31日

《三位一体と教会-1》「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜26


父・子・聖霊…三位一体の神様を、父なる神、子なる神、聖霊なる神、3つの神様かのように捉えていないでしょうか?
そもそも3つなのに1つ、「三位一体」がわからん…ということも多いかもしれません。
ですが、父・子・聖霊がワンセットになっているのが唯一の神様。
この神様に守られて、私たち人間があり、教会もあることを、イメージしていただければと思います。

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「三位一体の神に守られて」 ヨハネ14:6〜26

2015.5.24 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん。おはようございます。

今日は、教会の暦の上ではペンテコステ、弟子たちに聖霊が初めて降った日にあたるわけですが、今日がペンテコステであること、みなさん、知ってました?

いつも事前に説教題をお知らせしているんですが、お恥ずかしながら、その時点では全く忘れていたんですよね。。。
ですが、なぜか今回の説教は、もう、ほとんど前回のメッセージ終わった時から、次は、三位一体についてお話ししよう…と決めていたというか、強く思わされていたんです。
こういうのを聖霊の導きというんでしょうか。あるいは、聖霊の憐みというべきなのでしょうか。。。
とにもかくにも、今日は三位一体のお話ができること、感謝したいと思います。

 さて、今日は、聖霊だけではなく父・子・聖霊、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、使徒の働きには、こうあります。
イエス様が天に昇られる直前に、弟子たちに話したことですね。

使徒の働き1:8
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

ここで言われる聖霊の力って、なんでしょう?どんな力でしょうか?
大胆に宣教する力でしょうか?いやし、奇跡、何かミラクルを巻き起こす力でしょうか?
そもそも聖霊って、どういう存在で、どう働いてくれているんでしょうか?

父なる神様…なんとなく、わかります。
子なるキリスト。イエス様のことですよね、よくわかります…、
ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、耳で話す声が聞こえるわけでもなく、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、実は、よくわからなかったりしませんか?

なのに下手をすれば、「聖霊の働き」だとか「聖霊の導き」とか言われてしまうと、まるで水戸黄門の紋所みたいな?
はあ、そうですか…と納得せざるを得ないというか、それはちょっと違うんじゃないかな…と思いつつも、わかっていないのは自分だけなのかもしれないと思いつつ、どこか腑に落ちないというか…、そういうことってないですか?
それも、ちょっと嫌じゃないですか。

そこで大切なのが、聖霊単独ではなく、父・子・聖霊、三位一体であるというところから、聖霊についても理解する必要があるんです。

ただ正直な話、「三位一体」と言われると、もっとよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんです。
もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。
でも、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。

そこで、三位一体が、どうしてわかりにくいのか、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。
なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりすると思います。

でも、私の経験上、女性って、理屈っぽい話って苦手の方、多いような気がするんですよね。
三位一体っていうんだったら、三位一体でいいじゃない、これでOKだったりするんです。
反対に男性は理屈が通らないと先に進めなくなることが多いんじゃないかなと思うんです。私も、そんな男性の一人なんですが…。
ですので、前半は、そんな哀れな男性陣のために、少し理屈からお話ししますね。

 イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、いきなりイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人、ペテロや、ヨハネ、パウロもそうですが、ユダヤ人クリスチャンにとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、絶対不動の位置に、ドーンと存在しているわけですよね。

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 そして、イエス様、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

そこで、地図を見てほしいんですが、
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この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。

もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。
最初の海外拠点になったのは、今のトルコにあるアンテオケの教会です。
よく聞くところでエペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、テサロニケや、コリントといった教会は、隣のギリシャにある町です。

今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。
これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。
ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。
「1つの中に、三つある」
唯一の神様の中には3つの格が存在している…という理解のほうが、素直ということになるわけです。

さて、ここまでは、よろしいでしょうか。
理屈の話はここまでにてして、本題へと入りますが、神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でも、説教者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

つまり、神様ご自身については、どんな人よりも、まずイエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。
この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんです。
それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道」、「わたし」すなわち、イエス様が大事です。
まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。

必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 「…わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様も、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

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イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…
この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。
これ全体で、唯一の神様なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に勝手に単独で動いているわけではありません。
父なる神様やイエス様抜きで「神」は語れないし、「聖霊」だけでは「神」全体ではないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして、目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」と言えてしまうということもありうるわけです。
ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

続くヨハネの福音書も見てみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わしますわたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って、わしが聖霊じゃあ〜って、自己主張しているわけではないんですよね。だから、聖霊の存在がわからないというのも、ある意味、正解なんです。

イエス様も残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、いつも「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」ひそかにイエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊という存在なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。
仮に、そういうことがあったとしても、すべてが否定されるわけではないですよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

反対に、イエス様の心、イエス様ご自身を理解できれば、本当にそれが聖霊の働きなのか、見分けも付くということにもなるわけです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる神を知ることになるわけですね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

私、最近、通勤の駅まで行く途中で、自然界の何かを感じようとしているんですよね。
つい都会には自然がないかのように思ってしまいがちですが、決して、そんなことはないんですよね。
日がのぼり、空が広がり、時に雨が降り、木々や草花が命を輝かせる。
そして、私たち人間も、誰一人例外なく、この自然界の中で生かされているんです。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ他の宗教、無神論であったとしても、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。
ただこの自然界、天地を作られた人格ある父という存在を感じることができるのは、クリスチャンだけです。

わたしたちが、そんな神様を知る、それは「わたしが道であり、真理である」イエス様がいればこそです。
しかし、イエス様だけではなく、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。
1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

今日、ここから外に出て行くときには、ぜひ、空を見上げて、自然界の何かを感じてみてください。
私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、この地球のあらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この聖霊の力ってなんでしょう?
イエス様を知る力、神の愛の力ではないでしょうか。
私たちが神の愛を知り、神様を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛する、その愛の中にこそ、イエス様ご自身があらわされてくる、だからこそ、わたしの証人にもなりうるわけです。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

それが、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。
だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでありましょう。


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《三位一体と教会-2》「父に祈る」エペソ3:14〜21


2015.6.14 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 梅雨に入りましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 お隣、韓国ではマーズ(MERS)が流行してしまいまして、韓国旅行を得意とする「にこまるツアー」も大打撃を受けております。
 ここ最近、日韓関係がギクシャクしてからは、旅行者が減少してきたんですが、ようやく少しは回復してきたかな〜という矢先に、ドーンですよ。
 実際のところ、通常の観光では、まず感染の心配はないとは言われていますが、旅行というのは、本当に平和産業なんだなと思います。
 ですが、そんな中でも、東方神起のコンサートだけは中止にならず、日本からも多くのファンが出かけているらしいです。それはそれで、さすがだな…と思いますよね。

 さて、前回、三位一体ということから、メッセージさせていただきましたが、父・子・聖霊は、決して三つの神様がいて、バラバラ単独に存在、活動しているわけではなく、一体にして分かれざる聖三者、唯一の神様の中に、三つの自由意志を持つ人格ならぬ神格があって、子なるキリストは父を指し示し、父は聖霊を送り、聖霊はイエス・キリストを指し示す、ちょうど三角形、トライアングルのようなリレーションを保ちながら存在、活動をしている…そんなお話をさせていただきました。

 なぜ、この三位一体が大切かというと、使徒信条にもあるように、私たちの信仰そのもの、キリスト教の核みたいなものなんですね。

 いわゆる異端の特徴のひとつは、この三位一体を否定してきます。
 三大異端と呼ばれるエホバの証人、統一教会は、三位一体を否定、つまりイエスは神ではないとしていますし、モルモン教の場合には、三位一体ではなく、多神論。父・子・聖霊、三つの神が単独バラバラに存在していると説いているんですね。
 これだけでも、聖書から逸脱しているわけですが、モルモン教が言うにはですね、復活したイエス・キリストは、実は古代アメリカ大陸に渡っていったんだというわけです。別のイエス・キリストの物語が作られて、名前は一緒でも、違う教えにすり替えられてしまったわけです。これではイエス・キリストの名の下で、いろんな教えが作れてしまいますよね。

しかし、2000年前にイスラエルに来てくださったイエス・キリストご自身の十字架と復活…、
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる。
これがキリスト教、これが福音です。それは今も昔も変わりません。聖霊も、聖書も、このイエス・キリストこそを指し示しているわけです。

ところがですね、今や正当とされるキリスト教会の中であっても、イエス・キリストの福音はどこへやら、
あーしなければならない、こーしなければならない、じゃなければ神様に裁かれる…かのような律法主義に陥ってしまったり、
そんなことしたらサタンや悪魔にやられる…、自発的な愛ではなく、恐怖によって人の行動をコントロールする、すなわちマインド・コントロールが行われてしまったり、
目には見えない、耳で聞こえない聖霊の名の下に、いかにも正しそうな、でも実は違う、新しい教えが説かれてしまったり、
そんなことが実際に起きてきています。

つい先日、神社仏閣に、油をかけて問題になったニュースがありましたよね。。。

容疑者となった彼はキリスト教系の宗教団体の「教祖」として報道されていますが、実際は、そうではないようです。
彼の作った団体は、信徒による伝道を促進させるための、いわば宣教団体なんですね。
彼は、そもそも正統な教会出身のクリスチャンでして、ただ熱心さのあまり、単なる自分の思いつきや考えまで、聖霊の導きだと信じきって、ある意味、真剣に神社仏閣に油をまいてしまったといえるんでしょう。

なぜ、このようなことがおきるのか。その大きな原因の一つは、聖霊を、父と子から切り離して捉えているからだと思うんです。
そしてもう一つの大きな原因は、イエス・キリストの福音に対する理解不足です。

クリスチャンであってもですよ。
これって…おかしいじゃないですか。今、プロテスタントも、様々な教団に分かれ、それぞれに違いを主張しあっています。
そのために肝心要の部分が、どこかあやふや、見えにくくなっているのかもしれません。
これらは決して異端や、よその教会の問題としてではなく、私たちも含めた、キリスト教会全体の問題、身内に起きた問題、クリスチャン全体の問題として捉えてほしいんです。

そのためには、私たちがまず何よりもイエス・キリストの福音を一番にして、各教会がキリストの福音こそ、内でも外でも明確に発信していく必要があると思うわけです。

さて今日の聖書箇所、このパウロの祈りも、まさに、父・子・聖霊、三位一体なる神様、揃い踏み、トライアングルの関係を捉えた祈りになっていることが分かるかと思います。

天の父に祈ることを教えられたのは、主の祈りに代表されるように、イエス様ご自身であるわけですが、今日は、三位一体という観点を踏まえて、このパウロの祈りを味わっていきたいと思うわけです。

3:14 こういうわけで、

…とはじまるわけですが、「こういうわけで」とは、どういうわけなのか…、それは、この前、前半の1章から3章までがかかっています。
ですから、その1章からここまでを、まず、スーパー超ざっくりと見たいと思います。

1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

ここで言われている「神」とは、3節から受けて、父なる神のことをさしています。
父なる神が、子なるイエス・キリストをこの世に遣わし、私たちをもご自身の子として迎えようとしてくださってるわけですね。

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

この御子イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに、私たちに罪の赦しを与えてくださっている。これは決してイエス様単独の意思ではなく、子を遣わした父の意思も、しっかりとあるわけです。

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

聖霊はその証印。しかも、それは、ただ福音を聞いて信じたことによって押されたわけというわけですよね。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ここでも聖霊は、神を知るためだと出てきますよね。聖霊も、父によって遣わされ、イエス・キリストを指し示すのが、一番の働きです。ですから、その聖霊によって、救いの教えが変わることも絶対にありません。もしあったとしたら、それは、単なる自分勝手な思い込みか、別の霊の働きとなるわけです。

2章前半に行くと、その救いは神からの恵みの賜物であって、私たちの行ないではないことが語られます。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

つまり、何か私たち人間の考えや方法、行動によって、救いの道が切り開けるわけではないわけですよね。
ですから、「実は、聖書にはこんなことが書かれていて、救いにはこれが必要だったんです」…みたいな?、余計な新しい発見とか、啓示とか、油かけとかは、よういらんわけです。
私たちが救われるのは、ただ一方的に、イエス様によって与えられた救いの恵みを、そのまま、いただきますと、素直に受け取ることだけなんですよね。

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

ここでも父・子・聖霊が揃い踏みです。この両者というのは、元々神の民であったユダヤ人と、そうではなかった私たちを含む異邦人のことを指しています。それも実は、敵対していた両者、今もイスラエルと周辺諸国は敵対関係にあったりしますが、14、15節あたりを見ますと、その敵対する両者の隔ての壁が打ち壊され、敵意も廃棄され、聖霊の助けを得ながら、キリストによって、父の身元にいくことができるんだよというわけですね。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

つまり、ざくっと、まとめますと、父は、子であるイエス・キリストをこの世に送り、十字架の血潮のゆえに、私たちの罪を赦し、ユダヤ人も、異邦人もなく、ご自身の子、神の子として向かえてくださっているというわけですね。
さらには、聖霊によって、私たちに、それらを理解する力をも与えてくださっているというわけです。

これら全てが、神から出たこと、神から与えられた恵みであって、私たちの行ない、考え、方法によるものではありません。
ただ福音を信じる信仰によって、ユダヤ人もギリシャ人も、今は仲が悪い日本人も、韓国人も、キリストにあって同じ一つ神様の子供、すなわち兄弟姉妹、神の家族になれる、これぞ神の恵みの業、これが教会という集まりでもあるわけですね。

それは、この「田園グレースチャペル」という単位ではなく、全世界、あらゆる国民に広がるキリストの体なる教会、キリストを信じる群れ全体であるわけです。

クリスチャンの皆さんからすると、なんでもない、耳にたこができるくらい、繰り返し、聞いてきた、イエス・キリストの福音そのまんまかもしれません。

しかし、パウロは、これこそが天地万物を創造された時から秘められていた神の奥義であって、神の恵みによって、その福音に仕える者とされたんだと3章の前半で述べています。

それら全部を受けて、「こういうわけで…」

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

ユダヤ人の元々の習慣では、立って祈るのが、普通でした。
ですが、ただ、この福音の恵みのゆえに、パウロは、思わず、ひざまづいたんです。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

私たちは、この福音を恵みを当たり前、クリスチャンなら常識のように思うでしょうか。いや、それとも、目新しい何かを必要としてしまうんでしょうか。
それとも、この福音の尊さ、ありがたみのゆえに、おのずと、ひざまずくのでしょうか。

パウロは、天でも地でも、ユダヤ人も、異邦人も、さらにはクリスチャン、ノンクリスチャンも超えて、家族と呼ばれるすべての名の元である「父」の前に、ひざまずいたのです。

この思いの中には、パウロがユダヤ人でありながら、異邦人宣教に取り組んできたということが、大きくあるように思います。

ユダヤ人にとっては、異邦人、つまりユダヤ人以外が救われるなんて、天と地がひっくり返っても、絶対にありえないような話だったんですよね。
まさに敵対関係。
しかし、その異邦人とも、イエス・キリストの福音のゆえに、神の子、ひとつの家族となれるというわけです。
パウロは、その家族の名の下である父の前に、ひざまずいたんです。

私たちクリスチャンが、父に願う祈り、奇跡って、どんなことがあるでしょうか。
さまざまな祈り、願いがあっていいと思うんですよ。

ですが、私たちも、イエス・キリストの十字架のゆえに罪が赦され、神の子として迎えられている。
私たち、自分自身をも神の家族、その一員として迎えられている…まずは、その福音の恵みのゆえに、ひざまずく。福音そのものを喜ぶ、感謝する、そういう者でありたいですよね。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

この「内なる人を強くする」とはどういうことなんでしょうか。
この2節は、新改訳では2つの文にわかれていますが、実際は、一続きで描かれていて、
「内なる人を強くする」と、「うちに住んでくださる」とは、同じことを言っています。

前にもお話しましたように、御霊、聖霊の力とは、霊的なスーパー、ウルトラマジック的な力というよりは、イエス・キリストを知る力、それも学問的な頭の理解ではなく、ハートで理解する力と言えるでしょう。

そのようにして、私たちの心のうちにも、イエス様の愛が築かれていく…イエス様なら、どう見るだろう、どう考えるだろう、イエス様の目で見、イエス様の心で人や物事を理解、判断する力を養っていく、そんなさまが描かれています。これが聖霊の働きなんです。

この「住んでいてくださいますように」は、出たり入ったり、アパートかホテルか、一時の仮住まいではなく、永住していてくださいますようにという言葉です。
しかも、日本語では表現しにくいんですが、過去形で書かれていて、最初に信じたその時に「永住した」キリストが、そのまま永住していてくださいますようにというわけです。

 3:17 ・・・。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

もちろん、これは私たちが持っている愛ではなく、イエス・キリストの愛です。
愛に根ざし、愛に基礎をおく…どちらも完了形、すでに根ざしていて、愛に基礎を置いている様子が描かれています。

私たちクリスチャンが気をつけなくてはならないのは、時に愛よりも、ある一種の「正しさ」を基礎に置いてしまうことかもしれません。
もちろん、正しくあろうとすることが、いけないことではないんですよ。

でも、概して、私たち人間が考える「正しさ」というのは、神の正しさではなく、所詮、人間レベルの正しさなんです。
その正しさによって、人を悪く言ってしまったり、非難してしまったり、時には言い争い、やがては戦争まで生むんですよね。
その時に語られる「正義」とは、大義名分、実に、言い訳みたいなものかもしれないですよね。

夫婦喧嘩、一つとっても、そうじゃないですか。
けんかをするときには、必ず、自分は正しく、相手が間違っているという態度や姿勢で挑んじゃうんですよね。

私自身も、そうなんですよ。元々は父親譲りの瞬間湯沸かし器。普段は穏やかでも、カチンとくると、ボッと火がついて、怒りの蒸気がプシューと出てしまうんです。

その一番の被害者は、我が妻・静さんではないかと思うわけですが…、
二十代のころ、よく切れてました。
三十代の半ばころ、切れた後、なるべく早めに謝るようにしました。
40代になって、ようやく切れずに、怒りを収められるように…なったでしょうか。どうでしょうか。。。

でも、内心では、このやろ…って思うときも、あるんですけどね。

こうした愛を基準に置いて考えるとき、私たちも、まだまだ不完全、不十分、決して、自分が正しいといえるほど、正しい人間ではないこともわかると思うんです。

愛に根ざし、愛に基礎を置くというのは、なんでも、いいこ、いいこで、決して間違いや過ちに目を瞑るということではないと思います。
ですが、もし本当に相手に間違いや落ち度があったとしても、赦すということ、理解すること、では、どういったら相手が理解しやすいか、配慮する、総じて、「愛する」ということを忘れずにいたいものですよね。

 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

十字架というのは、世界でもっとも残酷な死刑です。
俺が死ぬから、お前ら生きろよ。
イエス・キリストは、決して正しくない、罪人を赦すために、痛み、悲しみ、苦しみを背負い、命まで捧げるわけですよ。

もし私たちが、このキリストの愛基準で、自分自身の「正しさ」を問うたら、誰一人例外なく及びもつかないと思うんです。
しかし、私たちもまた、このキリストに愛され、赦されているからこそ、こうして神様の前に集えるわけですよね。
このキリストの愛が基礎にあるからこそ、この集まり、教会も、私もありうるわけです。

自分に愛せない人がいる時、それはキリストの愛の広さを知るときなのかもしれない。
自分が途中であきらめてしまう時、それはキリストの愛の長さを知るときでしょう。
自分の弱さや限界を感じる時、それはキリストの愛の高さを知る時、
自分の罪深さを思う時、キリストの愛の深さを知る時なのかもしれません。

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。・・・

「人知を超えているものを理解する」、パウロも矛盾を承知で言っているかと思うのですが、それだけキリストの愛は、広く、長く、高く、深いんですよね。
その理解する力はどこから来るのか・・・、それこそが、父から遣わされている聖霊です。

パウロが、父に祈り求めているのは、その聖霊の助けを得ながら、私たちクリスチャン一人一人が、キリストの愛の理解を深め、確かにしていくことなんですよね。

 3:19 ・・・こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

当然なことながら、これは私たちが神と同等になれるというわけではありません。しかし、父・子・聖霊、三位一体の神の満ち満ちた、その豊かさ、愛を一身に受けて、私たちが満たされていくようにと祈るわけです。

最後は頌栄で締めくくられているわけですが、

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン

私たちは、このように父だけでもなく、子だけでもなく、聖霊だけでもなく、父、子、聖霊、三位一体の神が一丸となった愛と救いの中に入れているわけですよね。
ただキリストを信じる信仰のゆえに、神の子とされ、子同士は、兄弟姉妹、神の家族。
それが教会です。

この祈りには、実に、パウロの宣教師としての愛、教会を愛する思いがあふれている祈りだと思います。
こうした祈りをもって、また世界へと福音が伝えられ、各地に教会が築かれ、この祈りの延長線上に、このグレースチャペルもあるんです。

私たち、一人一人をみたら、ともに不完全な者同士です。
しかし、このイエス・キリストの福音を大切に、霊的にも、また物質的にも、養い育ててくださる父なる父の元、聖霊の助けをいただいて、今も昔もとこしえまでも変わることがない、キリスト愛の広さ、長さ、高さ、深さを味わいながら、ともに歩んでいきたいものですよね。

 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
 3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
 3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

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《三位一体と教会-3》「サタンよりキリスト」ルカ22:31〜34



みなさん、おはようございます。

先週あたり、梅雨らしく、冷え込む日が続きましたが、一転、急に暑くなりましたよね。
皆さん、体調のほどはいかがでしょうか。
こうして、1ヶ月に一回ですが、皆さんとお会いし、共に神様を賛美、礼拝できること、心からうれしく思います。
単純なようなんですが、本当に、純粋にうれしいというか、ありがたいことだな…って思うんですよね。
だって、そうじゃないですか。もしイエス様がいなかったら、まあ、おそらく会うこともなかったと思うんですよ。
一期一会…じゃないんですけどね。本当に、うれしく思うんです。
これから夏本番、霊肉ともに、神様に守られますように、心からお祈りしております。

さてさて、この2回、父・子・聖霊、三位一体の神様ということに主眼を置いて、お話を続けていたんですが、今日は、三位一体の神様に対して、「サタン」、「悪魔」という存在についても、少し取り上げてみようかな〜って思うんですね。
でも、サタン、悪魔って聞くと、あんまり気持ちいいもんじゃないですよね?

ここ注意が必要なんですが、気をつけないと、恐れや恐怖を抱いてしまうんです。

私もですね、いい加減なこと話せませんから、サタン、悪魔について、聖書や文献を、集中して調べるじゃないですか。正直、あんまり気分がいいもんではないですよね。

ですが、今日のこの話、結論から言えば、サタンよりキリストなんです。
もし私たちが自力でサタンや悪魔に立ち向かったら、負けるかもしれないですが、イエス・キリストは、すでに勝利しているんですよね。
このキリストを信じる信仰によって、私たちは、すでに神のもの、天の父に迎えられ、聖霊が注がれ、三位一体の神様に包まれているわけです。だから、安心なんです。

そこで、まず、「サタン」「悪魔」について、お話させていただきたいと思うんですが、私も、いろんな教会に行くじゃないですか。
だから感じるのかもしれないんですけれども、ちょくちょくサタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか、よく耳にするんですよね。
皆さんも言ったり、聞いたりするとも思うんです。

もちろん、そういう場合もあると思います。
決して、サタンの働きがないってわけじゃないですよ。

でも、サタンって、そんなに、いっぱい、あちこちにいて、いろんなところで働いているんでしょうか…。

皆さん、どう思います?

北は北海道、南は九州、沖縄まで、日本各地だけじゃないですよね?
おそらくアメリカでも、ヨーロッパでも、世界中にいるクリスチャンの口から、サタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか話が出ているんだろうと思うんです。

でも…、ちょっと、いっぱい、いすぎじゃね?…って、思うんですよね。

父、子、聖霊、三位一体の神様は、天にも地にも満ちておられるお方です。
でも、サタンは、霊的な存在とはいえ、あくまで、単体、単独、1個の存在なんですよね。
一般的には元天使、堕天使だと言われていますが、あちこち歩き周ってはいても、決して、全地に満ちているわけでもないんです。
決して、神様と対等に肩を並べて存在している存在ではないわけですよね。

仮に、たとえ本当にサタンに惑わされて、罪を犯すことがあっても、それは自分自身のうちに、罪があるからなんですよね?
何か物事が進まなくなるのも、必ずしもサタンの仕業とも限らないですよね。
単純に人間的な限界だったりもするわけです。何もそれらを、しかも、わざわざクリスチャンが、サタンの手柄にしたり、さも、いっぱい、サタンがいるかのように宣伝したりする必要もないだろうと思うわけです。

確かに、聖書にも「サタン」や「悪魔」が出てきます。無警戒というわけにも行きません。
でも、実は、サタンや悪魔という名前を、少し乱用しすぎてはいないかとも思うんです。

実に、聖書で、それほど多くは、サタンや悪魔は登場していないんです。
前にもご紹介したかもしれませんが、これは単純に、日本語の新改訳聖書の第二版で単語の数を調べただけなんで、参考までに留めてほしいんですが、

まず、イエス・キリスト。
「イエス」は2049箇所、
単独の「キリスト」(「イエス」「キリスト」と連記されているところは除いて)が461箇所。
しかも、イエス・キリストの名は新約だけですからね。
他にも「彼」とか、「小羊」とか、キリストを指し示している言葉はいっぱいあります。
「主」とか、「神」になると、数え切れません。

一方、「サタン」や「悪魔」はどうでしょう。
新約、旧約あわせても、「サタン」が58箇所、「悪魔」が38箇所、格下の小わっぱの「悪霊」で93箇所に過ぎません。
数でも、イエス様が圧倒的に勝利!…みたいな?
異質なものなんで目立つかもしれないですが、聖書でも、「サタン」「悪魔」について、それほど言及しているわけでもないんですよね。

しかも、よろしくないのが「悪魔」という日本語訳。
聖書では、「サタン」と「悪魔」は、同じ存在を指しているわけですが、
「サタン」というのは、ヘブル語で、反対する者、分離する者、非難する者、そういう意味の言葉です。
その「サタン」の音を、そのままギリシャ語で音をなぞったのが「サタナス」。
今日の箇所でもありますが、日本語訳聖書でも、そのまま「サタン」と出てきます。

でも、ギリシャ語圏の人にはそれでは意味がわからないんで、その意味を表すギリシャ語訳が「ディアボロス」。
やはり、誹謗中傷する者。訴える者。ヘブル語の「サタン」と同義語、同じ意味の言葉なんですね。
この「ディアボロス」が、日本語では、「悪魔」と訳されてはいるんですが、元々の意味をたどると、「悪」でも「魔」でもないんです。
「悪魔」と「訴える者」、ずいぶんイメージが違うと思いませんか?

確かに、神様に反対する者なんで、悪魔といえば悪魔かもしれないんですが、ただ「悪魔」と聞けば、人によって、いろんなイメージが出ちゃうと思うんです。
ちなみに、日本語の「悪魔」は、元々は仏教から来ている言葉でして、聖書とはまったく別の世界で、いろんな、こわーい、こわーい悪魔の姿も描かれてしまってもいるわけです。

そんな私たちの言葉、それも無意識、潜在意識の中には、聖書とは違う、いろんな悪魔のイメージが、すでに、ついてしまっているわけですよね。
この潜在意識が曲者なんです。

私、先端恐怖症があるんですよね。
尖がった先の方が、こっち向くと、それだけで、いやなんです。
それは、なぜかと申しますと、小さいころ、食卓に箸たてを出したままであそんでいると、よく、ばあちゃんに、「そんなところで遊んだら、箸が目に刺さる」って、注意されたんです。
ですから、今でも、先のとがったものが、こっち向くと、目に刺さりそうでいやなんです。
ところがね、これが、不思議なんですよ。
自分、めがね、かけてるじゃないですか。
だから、絶対に刺さらない…ってわかっていても、嫌なんです。
これが潜在意識です。
頭で理解しても、自分の意思では、なかなか抜けきらないのが、潜在意識、無意識の領域なんですね。

ちなみに、そんな、ばあちゃん、クリスチャンだったんですが、「うそをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」…とも申してました。。。
キリスト教の世界には、閻魔様はいなかったと思うんですが、それだけ、私たちの間には、そういう違う宗教の霊的な存在も描かれているわけです。
実は日本語で言う「悪魔」というのも、仏教、架空の存在から描かれているというわけです。

特に最近では、最近だけでもないかもしれませんが、「サタン」「悪魔」という名前をちらつかせながら、不安や、恐れを抱かせ、礼拝しなければ悪魔にやられるだとか、献金しなければ悪魔にやられるとか言って、組織の言うことをきかせる、いわゆるマインドコントロール、カルトに陥る教会も、ちらほらと、出てきているわけです。

確かにイエス様を信じたはずなのに、いつの間にか「サタン」「悪魔」の名前で動かされているんですよね。
私は、これこそ、サタンの惑わし、巧妙なトリックだと思うんですよ。

私たちは大丈夫だとしても、新たに教会に来た人たちが、どういうバックグラウンドを持っているかはわからないわけです。
もしかすると、その「サタン」「悪魔」という名前が、恐怖を呼び起こしてしまうのかもしれないですよね。

ですから、皆さん、私たちも「サタン」「悪魔」という言葉には、聞くにも、語るにも、注意が必要なんだと思います。人によって、いろんなイメージが起きちゃうんです。
もちろん「サタン」「悪魔」を無視はできないですが、安易に語ってもいけないですし、強調しすぎたら、もっといけないんです。

そこで、ぜひ、サタンの存在や目的を正しく理解していただければなと思うわけです。
サタンは、決して悪い魔物ではなく、「訴える者」という意味です。
単に人を罪に誘って、悪いことをさせるのが目的ではなく、それは手段。あの手、この手を駆使して、どうにかして神と人とを引き離したい、神様の愛、キリストの福音を否定させたい、これこそがサタンの究極の目的なんです。

アダムとエバがそうだったように、時に悪いことをさせるのかもしれません。それによって神様はお前たちを愛してないぞ…と訴える。
時には、御言葉まで使って、正しそう、決して正しくはないですよ、正しそうなことも言います。信じる信仰だけではだめなんだ、福音を否定させたり、それでもクリスチャンなのかと訴えてきたりすることもあるかもしれません。
神に反対する者、分離する者、誹謗中傷する者、訴える者、これがサタンの正体です。

こういう思い、考えが出てきたら、それこそ要注意。
まずはイエス様をみる。イエス様に頼る。これが先決です。

確かに、罪は罪なんです。それらを認めて、ごめんなさいすること、改めていくことも必要でしょう。
ですが、それで私たちの罪がきれいさっぱりなくなるわけではないんですよね。
私たちはどこまでも不十分、不完全な罪人なんです。
でも、だからといって、それで神様ご自身から、私たち、人間への愛がなくなってしまうわけでも…ないですよね。

むしろ、そんなサタンによってだまされ、罪によって分離させられた、人間と神様との関係を取り戻してくださるのが、我らがイエス・キリストであるわけです。
ですから、どこまでも、サタンよりキリストなんです。

さて、前置きが長くなっちゃいましたが、時は、十字架直前のシーンです。

ルカ22:31〜34
 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロや弟子たちも、それまでイエス様が一緒だから、安心。強気なことも言えてたんですよね。
「死んでもついていきますー」なんて言っていますが、本当のところ、死ぬなんて、ほとんど考えていなかったはずです。

なんてったって、死者をも生かす、イエス様が一緒ですもん。
たとえ死んでも生きる。向かうところ敵なし。
怖くなんか、ないですよね?第一、イエス様が負けるわけがない。

この直前を見ると、誰が偉いか、言い争いしているのがわかります。
さあ、いよいよ最終決戦。イエス様が政権を取ったら、誰が幹事長で、誰が官房長官か。
十字架を背負おうとしているイエス様に対して、弟子たちの理解は、その程度でした。

ところがイエス様は、そんな息巻く弟子たちに水を指すように、こう話しかけられたわけです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

かがーん。
そんなこと願ってもほしくないですが、神に敵対する者の割には、律儀に、神様に願った…らしいです。
サタンといえど、決して、神様と対等に敵対できる存在ではなく、あくまで神様の許しの中で存在しているに過ぎないんですね。

でも、まあ、それはサタンのことだから仕方のないことだとしても、神様も神様ですよね。
そのサタンの願いを聞き届けたというんです。
ちょっと、勘弁してくださいよ…って話じゃないですか。

ですが、ここ注目してください。神様が、時にサタンを用いることがあるんです。

えーっ。そんなことがあろうことか…。あるんですね。

なぜ神様は、こんなサタンの願いを許されたんでしょうか。
それは、この先、初代教会の指導者として下に使えていくためには、誰が偉いか…、手柄や功績で、自分を上に立たせるのではなく、そんな誇りや高ぶり、それこそ余計な麦の籾殻が、砕かれ、振るい落とされる必要があったんではないでしょうか。

ですが、その後に注目してください。

 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました・・・

単にサタンに揺さぶられて、全部、振るい落とされてしまうのではなく、ちゃんと純粋な信仰の麦粒が残るように、イエス様が祈っていてくださるんですよね。

やっぱり、サタンよりキリストなんです。

ペテロは決して、単に弱いだけではないように思います。
網を捨て、一番弟子として、真っ先に着いて来たペテロです。イエス様が捕まるや否や、他の弟子たちはあっという間に逃げた中、ペテロは、大祭司カヤパの官邸にまで行くんですよね?
本当にイエス様についていきたかったし、かんなり、がんばったんです。

しかし、イエス様と引き離されたとき、まさに、サタン、敵対する者、誹謗中傷する者が、彼を揺さぶり、恐ろしさのあまり、ついに三度知らないと否定してしまったわけです。

でも、実は、この後から本当の意味での、サタンの麦のふるいが本格化したように思うんです。

私たちは、歴史の後ろから、復活も知りながら、十字架をみることができるんですよね。
しかし、ペテロは、当時にあって、時間順にしかみれないわけです。
十字架から足掛け三日、中一日は待たなければ、復活に辿りつけないわけですよ。

誰が偉いか、言い争っていた自分。
死ぬまでついていくといいながら、予告どおりに三度知らないといってしまった自分。
その悔しさ、情けなさ、自己嫌悪、自己否定、俺は弟子として失格だ。。。
イエス様は死んだ。本当に復活なんてするのか。。。
内から、外から、いろんな声が聞こえてきたはずです。

「しかし、あなたの信仰がなくならないように祈った。」

しかも、ここは、信仰が強調されています。

「あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

ペテロ、お前は三度、私を否定するよ。だが、大丈夫。わかっている。
あなたの、その信仰をなくすな。信じて、待て。復活を待て。
ペテロには、このイエスの祈りこそが、ただただ、心の支えではなかったでしょうか。

 22:32 「・・・だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

自分の弱さを知ることは、自分だけではなく、人の弱さを知る時でもあると思います。
ペテロは、サタン、訴える者に揺さぶられ、自分の弱さをさらけ出し、惨めで、情けなくて、下の下にたどり着いてはじめて、そのさらに下、底辺で支える、キリストの愛を理解していくわけです。
これが、後々教会のリーダーになるペテロにとっては、必要不可欠なことでもあるわけです。

イエス様も、サタンの試みを受けたわけですが、実に、それも人間の弱さを知るため、それによって、憐れみを持つため、それが理由だったわけです。

ヘブル人への手紙では、こんな風に書かれています。

ヘブル人への手紙
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

すると、サタン自体は、決して望ましいとはいえないですけど、神様の手にある時に、試みを受けることも、時に必要、一概に全て悪とは言いきれない…のかもしれないですよね?

この後も、ペテロは、いろんなところを通るわけですけれども、やがてはローマで殉教を遂げます。
でも、それはいきなり強くなったわけではなく、この経験も一つ大きな経験としてありながら、いろんな経験も重ねて、やがて、そうなりえたんだと思います。

正直な話、私も、名前は力ですが、かなり弱い、ただの罪人に過ぎないんですよね。
こうして神様の言葉を語る役割を与えられてはいるわけなんですが、ほんと、恐れ多いことなんですよね。
サタンじゃなくても、自分で自分をふるいにかけちゃうことがあるんです。

自分なんかが、こんな働きしていいのか。
ただの自分の思い上がりじゃないのか…
ネガティブになりだすと、とことん落ち込んでしまうんです。
なにぶん、本当に罪人なんですから。
それこそ、サタンに惑わされているだけなんじゃないか…とか?

でも、そんな時に思い浮かぶのは、やっぱりイエス様の十字架なんですよね。

たとえ、どんなに自分が罪深くても、何であっても、イエス・キリストの十字架、このキリストの事実だけは、何があっても、否定できない、変わることがないんです。

ここまでくると、もう自分がどうとか、サタンがどうとか、ほとんど関係ないんですよね。
神学校で教わったある先生が、メッセンジャーというのは、ホテルでは、一番、身分の低い仕事なんだ。預かったメッセージを、ただ、お客様に届ける…それがメッセンジャーの仕事だ。本当に、そうなんだと思うんです。
自分がどうであれ、神を語る。キリストを語る。

主イエス・キリストを信じるならば、いつでも、どこでも、誰であっても救われます。
イエス・キリストは、私たちの全ての罪の身代わりに、十字架を背負い、罪と死と悪魔、サタンを打ち破って、事実として、よみがえったんです。すでに勝利を収めたんです。
イエス・キリストの福音は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

サタンが何をしても、この事実は変えられません。

皆さんの長い信仰生活の間にも、いろんな出来事があると思います。
失敗すること、悩むこと、思わず、自分の弱さがさらけ出ちゃうこと。
あるいは事故や病気や怪我、思わぬ問題で、本当に神様に愛されているのか、わからなくなること、自分はだめだと思うこと、クリスチャンとしてこれでいいのか…って思うようなこと、あるかもしれません。
時には、本当に訴える者、サタンに揺さぶられちゃうなんてことも、あったりするのかもしれないですよね。

「しかし、わたしは、あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

サタンがどんなに、誹謗中傷、訴えてきたとしても、サタンよりも、キリストです。

自分には、何にも誇ることがない、たとえ何の功(いさおし)、実績も功績もなかったとしても、神は、御子イエス・キリストの十字架と、ただ、あなたの、その信仰のゆえに、赦し、受け入れ、神の国へと向かえいれてくださるんです。

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちの大祭司、イエス様も、決して、私たちの弱さに同情できないお方ではありません。
むしろ、私たちの弱さを知って、あわれんでくださるお方なんですよね。
聖霊も絶えず、このキリストこそを指し示してくれています。

そんなイエス様、聖霊様の助けもいただきながら、弱さを覚えることがあっても、イエス様に習い、私たちもまた人の弱さを理解し、人を力づける力へと変えさせていただきたいものですよね。


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《三位一体と教会-4》「キリストと平和」コロサイ3:12〜17

2015.8.9 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 ほんとに暑い日が続いていますよね。お変わりないですか。
 私は、さいわい食欲がなくなる…ということはないんですけれども、それでも日によっては朝から、体がだるいというか、重いというか、力が入らなくなる…、今まで、夏バテって意識したことはなかったんですけどね。
よく食べ、よく寝るようにしながら、体を保っていますが、皆さんも、ぜひお気をつけください。

 さて、ここしばらく、三位一体の神様について、前回はサタン、悪魔という存在についてお話させていただいたんで、今回は、人、人間かな…なんて思っているところなんですが、時は、8月、今日は9日、長崎に原爆が投下された日、今週末は15日、終戦記念日を迎えます。
 今年は、戦後70年の節目にもなっているわけですが、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案ですとか、皆さんも、それぞれに戦争や平和についても考えることが多い年ではないかと思います。

 方や、一方で、たまたま昨日テレビで見たんですが、NHKが20代、30代に調査したところ、広島、長崎に原爆が投下された日を正確に答えられたのは、わずか23%だったそうです。
 もちろん、いつの日かが問題ではありませんので、原爆の事実だけでも知ってさえいてくれればいいのかもしれませんが、それが、いいか悪いかではなく、だんだんと、この日本も、そういった戦争の記憶が薄らいでいるという、この現実は、しっかりと認識しておいたほうがいいのかもしれません。
 つまり、戦争によって受けた痛みが忘れられていく、それは、決して自分たちが受けた痛みだけではなく、戦争によって相手に与える痛みもわからなくなっていく…ということでもあるわけです。

そこで、今日は、「平和」ということも一つテーマとして念頭に置きながら、聖書を味わっていければな…と思っております。

さて、これは前回も少しお話したんですが、私たち人間には、思い込み、先入観、無意識の領域が約8割、9割以上、物を言っているわけです。

 これは笑い話なんですけどね。
 前回、サタンよりも、キリストと題して、サタン・悪魔と呼ばれる存在についてもお話させていただいたんですれども、サタンは神様とは違って、霊的な存在ではあっても、単体、単独であって、全国津々浦々、神様のように天地に満ちている存在ではないですし、悪いことすべてが、サタンの仕業でもないですし、私たちの思い込み、無意識、潜在意識の領域で、聖書が言っている「サタン」とは別の、まったく別世界で描かれた悪魔のイメージを描いてしまっていることもありえますよ…なんてお話をいたしました。

 むしろ、私たち自身のそういった思い込み、あるいは限界であったり、弱さ、あるいは罪が原因であったりするわけです。
 で、結論としては、サタンより、キリスト、イエス様に頼る、イエス様を信じることですよ…なんて、お話をしたんですが、そんなお話をしておきながらですよ。。。

 教会からの帰り道、ふと、ふとですよ。
 あんなふうに、サタンをこきおろして、サタンに狙われるんじゃないだろうか…なんて、ふと思ってみたりするんですよね。
私の頭の中にも、サタンや悪魔という存在に対する恐怖意識がどこかしらあるんですよね。

 これで、もし事故にでもあったら、「ほら、あんな話をするから、サタンにやられた」ということに話にもなるじゃないですか。
少なくとも今日の一日は、事故にはあえないぞ、家に帰って、ちょっと車を運転するにも、いつもよりも超慎重に、超安全運転ですよ。

 幸い、事故も、何事もなく、翌日の朝を迎えましたんで、これは私の思い込み、先入観、私の頭の中だけの架空のサタンの仕業であることが立証されたわけですが、それだけ、私たちの思い込み、先入観というのは潜在意識の中に染み付いて、理性的には違うと判別していても、言葉や行動、あるいは感情にも影響を及ぼすわけですよね。

 それらが総じて、私たちの罪、すなわち「的外れ」、欠けた部分となっているように思います。

 今日はコロサイ人の手紙から、信仰者の歩むべき道、方向性を示しているところから選んでいるわけですが、たとえ、今現在において、できていない、不完全であっても、それでクリスチャン失格ということは、絶対にありません。

これはクリスチャン、ノンクリスチャン問わず、私たちは、たとえ1割の顕在意識で正しいことがわかったとしても、残りの九割の無意識、潜在意識の中で的をはずした、欠けた部分を持っている罪人だということです。

…というとね。気をつけないといけないのが、罪人だと攻められているように感じてしまう人もいらっしゃるかもしれないですが、そうではないんですよ。

 お互い罪人同士。
 弱さもあります、罪も犯します、間違うこと、失敗すること、悩むこと、それで人間関係、こじれること、うまくいかなくなること、傷つくこと、痛むこと、争うこともあります。

 でも、そのままでいいの…っていったら、そうではないんです。
 悩んだまま、傷ついたままでいいのか、そんなことはないわけですよね。
 歩むべき、目指すべき方向性というのがあるわけです。もちろん、それを導いてくれるのは神様、イエス様であり、聖霊であり、父なる神様であるわけです。

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」と書かれていますが、ぜひ勘違いしないでください。
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な人たちを神様が選ぶ・・・、そういった人たちだけが選ばれて、あとは神様に捨てられるわけではありません。
 聖なる…というと、ピュア、クリーン、きよく、正しく、美しいイメージがありますが、私たち自身がピュアでも、クリーンでもないんです。私たちは本質的に罪人なんです。
 本当に「聖」と呼べるお方は神様だけです。その「聖である神様のものとされた」というのが、「聖なるものとされた」という意味です。
私たちは、元々、本質的に罪人であるにもかかわらず、神様は、その罪人である私をも選び、イエス・キリストを十字架で苦しめ、痛めつけても、聖なるご自身のもの、神の子として迎え入れ、愛してくださっているわけですよね。

 そういった意味として、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
 この「身に着けなさい」は、身につくまで「繰り返しなさい」という意味合いです。

 つまりですね・・・。裏を返せば、今、現時点においては、身についているとは限らないんです。
 同情できないときもある、慈愛、謙遜、柔和、寛容じゃない時もある、失敗しても、でも、繰り返して、身に着けていきなさい…なぜならば、神に選ばれ、神の子とされ、神に愛されているから。イエス・キリストの十字架の命をかけて。

ですから、13「互いに忍び合い」、実を結んでいくまでには、忍耐も必要なのかもしれないですよね。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、

 さっきの柔和、寛容とは全く正反対なんですが、私たちは、それで不満を抱くような者なんですよね。それでいて、自分は正しいと思い込む。
 あー、まあ、あるような気もするじゃないですか。でも、互いに赦し合いなさい。

 赦す…というと、罪が野放しにされるような気になってしまうかもしれないんですが、あくまで、罪、失敗を自覚している場合においてです。
方向はわかっていても、でも、失敗してしまうことは誰にでもあるわけですよね。

 しかも、この赦しは、ただの赦しではありません。

 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 イエス様も、ただ罪を赦したわけではないんですよね。ここにはね、イエス様の十字架がかかっているわけですよ。
そのイエス様の愛と赦しの心をもって、あなたがたも赦しなさい。そして14節、愛しなさい…と語られています。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 もちろん、この愛も、愛は愛でも、キリストの愛です。

 この箇所は、よくガラテヤ書の5章に出てくる「御霊の実」、とも比較されます。
御霊の実…木になる「実」の実ですね。

ガラテヤ人への手紙
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はありません。

 総じていえば、「愛する」ということになります。
あくまで、御霊の実ですから、私たちの努力だけで結ばれていく実でもないんです。
御霊は、絶えずイエス様を指し示してくれています。
その聖霊の助けをいただきながら、イエス・キリストの愛を受けて、繰り返し、繰り返し、失敗しながらも、身に着けていくものなんですよね。
できないから駄目ではないんです。
むしろ、できないのに、キリストに赦されているからこそ、その愛を知るからこそ、私たちのうちに結ばれていく実、心です。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 さて、ここで「平和」という言葉が出てきましたが、本当に、十字架の痛みを負った、キリストの愛と赦しを知ったとき、ただ愛される、赦されるだけではなく、自らも痛みを負ったとしても、愛する、赦す方向に変えられていきます。
 このキリストの福音が、お互いの共通理解として保たれている教会であれば、皆さんもまさにキリストの平和、心も平安でいられるのかもしれません。

 ところが、一度、世に出れば、荒波に、もまれるわけですよね。
 決して、人々の心に愛や赦しが全くないわけではありません。
 でも、まあ、ぐちゃぐちゃぐちゃと、いろんな問題もあったりして、様々な争いごとや、闘争、だまし、だまされ、うらみ、憎しみ、欲の絡みあい、怒り、悲しみ、赦せない心、それで、罪人たる自分の本性も刺激されたりしちゃうわけですよね。

なので、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するように、私たち自身が、自分自身の心を守る必要もあるわけです。

今、ちょうど日本も、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案で、物議を醸している最中ですけれども、平和というのにも、二種類あると思うんですよね。

武力だけに限ったことではないんですが、力による平和と、力によらない平和です。

この世、この現実社会にあって、罪人が築く社会ですから、戦争がなくなることはないと思います。
国の利益を維持、拡大するために、力でねじ伏せようとする、武力を行使してしまうものがいる以上、自らも武力を手にしてしまう、使わざるを得なくなる。これも、かなしかな、確かな現実なのかもしれません。

ですが、武力による平和には、必ず、新たに痛みを負う者が生まれてしまいます。
その痛みがまた新たな武力、戦いを生んでしまったりもしているわけですよね。

そこで、一見、現実的ではない、理想過ぎる理想かもしれないけれども、武力によらない平和、これを目指すことは忘れてはならない、大切なことなんです。

「剣を取るものは、みな剣で滅びる。」(マタイ26:52)

キリストは、弟子たちに、剣を捨てさせて、
王、自らが痛みを負い、王、一人の命と引き換えに民を救う。
キリストの平和と勝利は、ここにあるわけですよね。

ニューヨークの国連広場の壁には、こんな言葉がきざまれているそうです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

 これは、旧約聖書のイザヤ書、またミカ書にも出てくる預言の言葉なんですが、実に、この後に、救い主、つまりイエス・キリストの誕生の預言が続くんです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

まるで、憲法9条のようじゃありません?
ちなみに、憲法9条はこうです。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

クリスチャン人口1%足らずの日本といえど、この点に関していえば、実に聖書的なんですよね。
もちろん、99%の日本人は、そんなふうには捕らえてはいないとは思いますよ。
でも、日本は敗戦を機に、奇しくも、まるでイザヤの預言のような、この憲法9条、平和憲法を得たんです。
本当に、奇しくも、敗れて、得たんです。

アメリカによって制定されたという批判はありますが、こういっては何ですけど、何の後ろ盾もなく、国家が自ら、武力、軍隊を捨てるのは容易なことではないですよ。
だったら、どうやって国民を守るんだという話にもなるわけですよね。
しかし、そんな憲法9条が制定されて以後、戦後70年間、これを維持、守ってきたのは、紛れもなく、戦争の痛みを知る日本国民に他なりません。それで今の日本もあるわけですよね。

クリスチャンが多い国も数多くある中、世界が理想としては掲げながらも、現実的には、武力による平和が当たり前、武力によらなければ平和は築けない、そう思い込んでしまっている中、日本は、武力によらない平和を目指してやってきた。
先進国の中で、今、これができているのは、日本だけなんですよ。すごいじゃないですか。

しかし、その日本も、次第に戦争を忘れ、痛みを忘れ、この価値が見えにくくなってきているのかもしれません。
一度、国内に目を向けたときに、「誰でもいいから、殺してみたかった。」そういう殺人事件もあるわけですよね。
人、一人の命の価値すら、薄らいできている・・・。それは他者はもちろん、その犯人、自分自身のことですら、命のありがたみ…というものが薄らいでいるように思うんです。

まして、国々が武力で物をいわせようとしている中、何の後ろ盾もなく、武力を持たないというのは、武力を持つ以上に勇気のいることかもしれません。

そこで、いま、日本国民は、武力による平和なのか、武力によらない平和なのか、その選択を迫られているわけですが、結果、どっちに転んだとしてもですよ。私たちがどこを目指すべきか…といえば・・・

3:15 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」

キリストの平和、「力によらない平和」、もっと積極的に言えば、キリストの愛と赦しによる平和なんです。

もし私たちの宣教も、ただ神様との関係だけの平和であって、人と人、国と国との平和には、なんら関係がない、結びつかないものだとしたら、それは、ちょっと、むなしいものですよね。

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

日本も、かつては戦争も引き起こしてきましたし、私たちも、世にあっては、本質的に、同じ罪人なんです。
だからこそ、キリストのことばを、私たち、自分自身のうちに豊かに住まわせていく必要もあるわけですよね。
キリストは、私たちを命がけで愛してくれている、これが十字架の言葉です。

 日本語の感謝の言葉、「ありがとう」というのは、よくできた言葉で、あるのが難しいと書いて、「ありがとう」なんですよね。
イエス様が命を捨てたのは、クリスチャンのためだけではなく、全世界、全人類のためですよ。
今は仏教徒だろうが、今はイスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、今はイエス様にとって、私たち一人一人が、世界の一人一人が、「ありがたい」存在なんです。
 私自身、皆さん、自分自身も「ありがたい」存在として、今、生かされているんですよね。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

その主イエスの名によって…クリスチャンは、何をしますか?
「ありがたい」存在に、何をしますか?
ことばによると行ないによるとを問わず、すべてです。

そう思うとですね。。。まあ、自分自身、本当に罪人ですよ…。だと思いません?

 私たちもまた不完全なる罪人ですが、にもかかわらず、先に神に選ばれた者、キリストの愛を知らされた者、またキリストに赦された者として、いかなる時にも、赦す心、愛する心、平和を願う心、感謝する心を忘れない。
もちろん、失敗やできない時もあります。
でも、自分なりに、自分らしく、自分にできる方法をもって、キリストの愛や平和を広げていく、このような生き方を目指していきたいものですね。


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《三位一体と教会-5》「どうしても必要なこと」ルカ10:38〜42

2015.9.27 田園グレースチャペル

 みなさん。おはようございます。

 8月の暑さから一転、急激に涼しくなり、秋が猛ダッシュしてやってきたように感じてしまいますが、皆様、お変わりなく、お過ごしでしょうか。

 今日は「マルタとマリヤ」のエピソードを取りあけているんですが、この話というか、マルタさんの姿って、私たちにとって、すごく身近な話だと思うんですよね。

 うちも夫婦共働きなんで、私も家事をするんですが、でも、どちらかが家事をしている時に、どちらかが休んでいるということはありえないというか、まあまあまあ、夫婦喧嘩の火種みたいなもんですよね。

 昨日は、昨日で、メッセージの用意してるじゃないですか。
 その傍で、いろんなことを話かけてくるんですよね。。。
 「SMAPの中居くんって、結婚する気あるのかな…」
って、知らんがなって思うんですが、あれ、不思議ですよね。
きっと、多分、思ったことを口に出してるんだと思うんですが、決して、どちらが…というわけではなく、どちらもマルタであったりするものです。

 さて、そんな「マルタとマリヤ」の話なんですが、この箇所を読んだとき、皆さんはどのように受け止める、あるいは、どんな風に聞いているでしょうか。

 10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
 10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
マルタさんの何がよくなくて、マリアさんの何がよかったのでしょうか。。。
どう捉えていますか…?

 なんて質問を投げかけるということは、竹下がまた何かを覆そうとしているかのように聞こえるかもしれませんが、正しい、間違い、関係なく、皆さんが、どう読んでいるか…、まず、ちょっと意識してみてもらいたいんですね。

たいていは・・・、
「奉仕も大切。でも、マルタのように、心を乱しては駄目。
 それよりも、なによりも、マリアのように、まず御言葉を聞く、いや聞くだけではなく、御言葉に聞き入る…これが大切です。」
…なんてふうに、読んだり、聞いたりしているのではないかと思います。

どうでしょうか・・・。大体、こんな感じで、合ってますか?
いや、いいんですよ。大体は、これで合っていると思います。
結論として、イエス様が、「どうしても必要なこと」というのも、「まずは御言葉を聞く」それで、よろしいでしょうか。どうでしょう?

 よろしければ、今日の説教は、これにて、おしまいということになるわけなんですが…、そうはならないんですけどね。

 もし「御言葉に聞く」ことが大切と語られながら、ここで終わってしまえば、実に、御言葉を聞いたことにならないのではないかと思うんです。
 これは決して否定する意味ではなく、私たちは聖書を読んでいるつもりでも、実は、読めていないことがある…、それを、ちょっと意識してみてほしいんです。

 イエス様が、何が「どうしても必要なこと」だと語っているのか、ぜひ、そこに耳を傾けてみてほしいんですよね。

 時に、聖書に限らず、どんな文章であっても、その一文の意味というのは、必ず、前後の文脈、その背景によって、意味が規定されます。これが文章読解の基本です。
 報道や何かでも、インタビューで、1箇所だけが取り上げられて、そこだけが強調されてしまう時、本人が言わんとしていたこととは、違っていることもあるものですよね。
 聖書も、気をつけないと、一部だけを取り出して、読まれてしまいやすいんです。ですので、聖書も前後の文脈から、極端な話、聖書全体から考える必要があります。

 そこで、その前を見てみますと、有名な「良きサマリア人」のたとえ話がでているかと思いますが、実は、ごめんなさい。
 今日は、まず、私たちが聖書をいかに読み違えるかを理解してもらうために、あえて聖書朗読では、このたとえ話の部分は、はずしていたんです。
 実に、先ほどの答えも、このたとえ話に書かれていることなんです。

 このサマリア人のたとえや、この10章、その前も後も、イエス様が、まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が書かれています。
 ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムのすぐ東側、オリーブ山を越せば、エルサレムというところにあります。
違う場所なんですね。
おそらく、もっと後での出来事、本来ならば、19章あたりで出てくる話なのです。

 つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを挿入したんです。

 良きサマリア人のたとえでは、ある意味、理想的な愛の形が説かれているかと思います。
ところが、あまりにも理想的過ぎて、実際問題、自分自身はどうかといったら、現実とは程遠い、雲の上のような話で終わってしまいやすいように思います。

 しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、きわめて現実味のある出来事です。
 つまり、サマリア人のたとえ話で語られた理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示すのに、このマルタとマリアの話が、ぴったりだったわけです。

 そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 私たちが、もし同じ質問を誰かにされたら、普通、どう答えるでしょうか。
「ただイエス・キリストを信じれば、救われる」そう答えると思います。

 しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があります。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
「こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…」、即その場で捕まえて、石打ちにでもされかねない、そういう話です。

 でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、

10:26 「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

と、うまく切り返しているわけです。

 彼は律法の専門家ですので、その答えは知っているわけですよね。仕方なく、答えます。

 10:27 「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

 これが最も大切な戒め、これが律法であり預言者、イエス様自身もそう語った、まさしく大正解なのです。

10:28 「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 イエス様もちょっと冷たいですよね。「わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
 ところが、実は、たとえ正しい答えは知っていたとしても、それが実行できないのが、私たち人間、罪人の現実なんだと思います。
それが律法の限界でもあったわけです。

 でも、ここで、イエス様は二つの質問をしているんです。
一つは、律法には、何と書いてあるか。客観的に、聖書にどう書いてあるか…です。

 しかし、もう一つ、「あなたはどう読んでいますか。」
主観的に、あなた自身の現実問題として、どう理解していますか。どう受け止めていますか。その問いかけでもあったんです。
 もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は全く変わっていたと思います。

 みなさん。聖書を読むとき、ある意味、自分の正しさを現すために、聖書を読んでも、あまり意味がないんですよ。
 むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。
「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味があるんですよね。

 ですが、彼は、正しい答えも知っていましたし、本人的には、実行しているつもりでした。しかし、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気づかず、自分は正しいと主張してしまう…そこに盲点があるのです。

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

 私は、家族も、友人も愛している、ついでに向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。さあ来い。私の隣人とは誰だ…。自分は正しいと思っていますから、自信満々です。

 そうしたやり取りがあって、イエス様が語ったのが、良きサマリア人へのたとえです。

 エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。次に通りかかったレビ人も、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。

 ユダヤの律法では、もし血に触れたら、身を清める期間をおかなくてはなりません。その間、仕事ができなくなる。彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。

「誰が、私の隣人なのか…」

 彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。

 その後に通りかかったのが、サマリア人です。

 サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血で、外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった人たちです。そんな彼らをユダヤ人たちは、何百年もの間、妥協の産物、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別、侮蔑していたんです。

 もちろん、サマリア人自身も、そんなユダヤ人たちが大嫌いでしたから、そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、ありえないような徹底した介護ぶりです。
 そんなこと、絶対に、ありえない。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、この人の隣人になったのか」。

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

 彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。「その人にあわれみをかけてやった人です。」、そう答えているわけです。

 ですから、これは、単に、隣人を愛しましょうとか、傷ついた人を助けましょうとか、そういうレベルの話ではないのです。
 何世代もの怒り、憎しみ、恨みを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。

やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
私たちには、なかなかどうして、できない。
「誰が、その人の隣人となったのか…」なり得たのか。
このサマリア人の姿は、まさに、イエス様の姿なんですよね。

罪人を赦すがゆえに、その責めを身代わりに負って、十字架を背負う愛。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに、これから十字架によって示されようとしている愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。
その宣言でもあるわけです。

 10:37 ・・・するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 果たして、できるでしょうか。私たちには、正直、難しいことですよね。

 自分の嫌いな相手。自分のことを悪く言ってくる人。その人を自分自身のように理解して、愛せるのか。その人の隣人になれるのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。
 にもかかわらず、私たちも、この律法の専門家のように、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。
 それも身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。それが、私たちの現実、日常。それがマルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているわけです。

 さて、このマルタとマリヤの話。
 もし、単純に、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
 御言葉を読んでいない人は駄目。マリヤのように「まず御言葉に耳を傾けましょう」と読んでしまうとしたならば、実は、聖書を読んでいるようで、読めていない、この律法の専門家と同じになってしまうと思います。

 実に、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたはずなんですよね。
 イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、自ら、もてなしの準備をはじめたはずだったんです。それは、マルタの愛からきたこと、実際、誰かが食事の用意をする必要もあったんです。

 ところが、まあ、イエス様だけならともかく、ペテロに、ヤコブに、ヨハネだの、その他大勢、ナタナエルだか、ガマガエルだか、名前も、よう覚えていないような弟子たちまで一緒にいたわけでしょ。あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう大忙しで、大変だったわけですよ。
そんな時、ふと目をやれば、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかり聴いている…。
 マルタはマルタで、自分も、イエス様の話を聞きたかったのかもしれません。

 なんだか自分ばっかりが苦労して、マリヤはずるい。まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。空気読んでよ…みたいな?わかるじゃないですか。
 挙句の果てには、その矛先がイエス様に、向いちゃったわけです。

10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」キィーッ!!! みたいな?

「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にはならない高周波ノイズも、絶対、乗っかっていますよね。

 マルタの失敗は、ついつい、マリヤを気にしてしまった、自分とマリヤを比べてしまったところにあるように思います。
 はじめは、自らの愛する思いで、はじめたこと。マリヤは全く関係なかったんです。
 本当に手助けが必要なら、普通に、ちょっと手伝ってくれる?とお願いすることもできたはずですし、もしマリヤが別の用事で出かけていたら、全く腹も立たなかったことでしょう。
 ところが、マリヤのことが気になり、イエス様がどう思っているのか気になり、自分がなおざりされている気がして、愛ではなく、嫉妬や怒りに変わってしまったわけですよね。

10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。最初はマルタの愛だったんです。
 マリヤも、気が利かないといえば気が利かない、不十分といえば、確かに不十分。しかし、マルタが正しくて、完璧だったわけでもないんですよね。
 マリヤはマリヤで、今この時、イエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
マルタは、自分とマリアを比べる必要もなければ、ましてマリヤを否定、非難する必要もなかったんです。

ですが、反対に、もしマリヤが「先生。マルタに、もてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」なんて言ったとするならば、どうだったんでしょうか。イエス様はマリヤに同じように言ったはずです。

「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」

どうしても必要なこと、イエス様の願いは、ただ一つ。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

これが律法であり、預言者、聖書全体。これがイエス様の願い、生き様、心。まさに、THE御言葉です。
私たちが「愛する」という事、その心、その1点に集約されています。

 ですが、愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけのことをしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。

 私たちができること、今していることは、良きサマリア人のたとえ話でわかるように、イエス様の愛と比べたら、まだまだ、ずっと下ですし、その時、その時で、今の自分にできる範囲、そのレベルのことでしかないはずなんですよね。
 ですが、その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。
イエス様は、その不十分、不完全なものを喜んで、受け取ってくださるんですよね。

 ここが一番大切なのですが、そんな自分自身の不十分、不完全さを認めることができる時、その自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさも見えてくるのではないでしょうか。

 誰が、この私、自分自身の隣人となったのか…

 あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、イエス・キリストは、この私の良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけです。

 どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
 私たちにできることなんて、限りがあって当然。あれも、これもとはいきません。
 しかし、この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、自分なりに、自分らしく、一つ、また一つと、神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。
 この3つの愛に生きる。

 もちろん失敗は、多々あると思います。しかし、このキリストの愛に育まれながら、一つ一つ、自分を愛し、隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。


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《三位一体と教会-6》「キリストの体なる教会」Tコリント12:12〜27

2015.10.25 保守バプテスト 田園グレースチャペル

 みなさん、おはようございます。

 すっかり秋らしい秋になりましたが、皆さん、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか。
 私は先週、ちょっと気管支を痛めてしまったようでして、もしかしたら、お話の途中にも少し咳が出てしまうかもしれません。ご容赦ください。
 だいたい、この季節になると、乾燥してくるせいか、いつも大なり小なり、痛めてしまうんですが、先々週くらいから、少し疲れもたまっていたようでして、市川の教会での大きなイベントがありまして、その取り纏めと、奉仕とで、少しおかしかったんですよね。
とにもかくにも、それが一段落したところで、気が抜けたのか、一気に疲れも出てしまったようです。 
 空気も大分、乾燥してきているんではないかと思いますので、皆さんも、気をつけていただければと思います。

 さてさて今年は、まず三位一体の神様、父・子・聖霊という存在が一丸となって、私たちを取り囲むように、抱くように、守り、導いてくださっていることをお話ししてきました。
 子なるイエス・キリストは、父の愛を指し示し、父なる神は私たちに聖霊を送り、その聖霊は絶えずイエス・キリストを指し示す。
 私たちはイエス・キリストによって、父なる神様の元、神の子どもとされ、子ども同士は、神の家族、それを証してくれているのが聖霊です。

 しかし、一方で、私たち人間というのは、とかく不完全、足りないところだらけでありまして、決して完璧ではありえません。
 前回のマルタとマリヤの話のように、本当の家族、姉妹であっても、片方で、マルタさんのように、忙しさのあまり愛することを見失ってしまうこともありますし、一方、マリヤさんも御言葉には熱心、夢中になっていたかもしれませんが、その御言葉の中心の「愛する」ということで考えれば、実は気が利かない、どこか抜けていることもあります。
 しかしイエス様は、どちらがいいか悪いか、正しいか間違っているか…、比較したり、非難したりするのではなく、マリヤはマリヤ、マルタはマルタで、それぞれのいいところを、いいところとして受け止めてくださっていたわけです。

 私たちは、そのイエス様のところに集まってきた、そんな不完全な人の集まり、その集合体が、この「教会」という集まりということにもなります。

 そこで、今日は、「キリストの体なる教会」という有名な箇所を取り上げさせていただきましたが、だいぶ前、私も、ここから取り上げさせていただいたことがあったかと思うんです。
 ですが、もう、すっかり、そんなことは忘れているだろうと思いまして、選んでいるわけですが、いいんですよ。説教なんて、そんなもんなんです。
 ですが、ここで「からだ」といわれているとおり、この体には感覚がありますよね。
 手があり、足がある。
 頭というより、その体の感覚で、ぜひ身に着けておいていただければと思うんです。

 まず、そもそもパウロが、なぜ教会を「キリストのからだ」として捉えたのかといえば、そこには主に2つの理由があるといえます。どちらも体験的、この体の感覚的なんです。

 一つは、パウロがまだサウロという名前だったころ、いわゆるダマスコ途上での出来事。
キリスト教に反対し、ダマスコにある教会を迫害しに行く途中、突然、強烈な光に照らされて、ある声を聞くわけですよね。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。」
「主よ、あなたは、どなたですか。」
「わたしは、あなたが迫害するイエスである。」
この体験を通して、パウロは回心するわけですけれども、その時に、感覚的に、教会はキリストご自身であるという理解、感覚ができたと考えられます。

 もう一つは、聖餐式の聖餐です。
 実は、この前の11章では、その聖餐が取り上げられているんですよね。聖餐式の式文は、ここから引用されていたりもするんですが、私たちが普段行う聖餐式になりますと、すでに小さなサイコロサイズに切り分けられたパンが用意されているわけですが、本来は、1つのパンであったわけです。

「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげてのち、これを裂き…」

つまりイエス様は、一つのパンを取って、裂いたんです。自ら、裂いたんです。
そして、こう言われた。「これは、わたしの体です。」

 もちろん、これは十字架を指し示しているわけですが、実に、聖餐というのは、もともと一つのパン、つまりイエス様が「からだ」としてのパンを自ら裂いて、その裂かれたパン、つまりイエス・キリストの体の部分が、私たち一人一人に分け与えられるといるんですよね。

 そして、この二つに共通しているのは何かといえば、イエス・キリストの「痛み」であるわけですよね。
 私たちも、この体を打たれれば痛みますよね。

 それと同じように、教会の痛みは、キリストにとっての体の痛み。パウロは、ダマスコ途上の出来事と、聖餐すなわち十字架を通して、その痛みを認識したわけです。
 そこから生まれているのが、「教会は、キリストの体である」という理解なんです。

 ですから、私たちが、このキリストの体なる教会ということを理解するということは、単に頭の理解ではなく、キリストの「痛み」を私たちの「痛み」として共有する、神経を繋ぐということでもあるわけです。

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

 とかく教会で「キリスト・イエスにあって、一つ」ですとか、「御霊の一致」という時に、よもすると、ある一つの同じ考え、同じ意見、同じやり方、同じ働き…、みなが「おなじ」になるという意味合いで受け止められてしまうこともあるのかもしれません。
 でも、「違う」んです。
 何が「違う」かって、私たち一人一人は、そもそも与えられた能力、個性、やり方、得意不得意、みな違うはずなんですよね。

 確かに御霊は一つ、バプテスマも一つ、おなじです。
 ですが、私たち一人一人が「同じ」になるということが言われているわけではありません。
もし、お互いに「違う」ものを、「同じ」にしようとすれば、それは、どこかで無理が出てきて当然なこと。
 ですが、からだが一つでも、多くの部分がある。もし、能力も、個性も、働きも、「違う」ということを、お互いにですよ、お互いに理解できれば、逆に一つにもなりうるんです。

 実に、これは家庭でも、会社でも、ある程度、同じことが言えるのかもしれませんね。
 夫婦だって、もとは生まれも育てられ方も違う。うちら夫婦もそうですよ。
 私も、結婚して最初のころは、歯磨き粉のキャップの閉め方から文句をいわれましたもん。もちろん、喧嘩も多かったです。
 ですが、お互いに違いを理解しながら、一つの家庭を築いていくというところで、一つになりうるわけです。
 教会の場合には、「一つの御霊」、御霊は絶えず、イエス・キリストを指し示すわけですから、言い換えれば、イエス・キリストのスピリットによって、一つになるというわけです。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

 パウロは、まず、私たち自身が持つ、この体になぞらえて、説明していくわけですが、まあ、当たり前といえば、当たり前のような話、自分のこの足がですよ。
「俺は足だぜ。手とは違う。どこにでも自由に歩いていけるんだ。」…って、どっかに勝手に歩いていたら、困るというか、そんなことはないわけです。

 教会の中にも、中には、石橋をたたいて渡る、慎重かつ几帳面な人もいれば、まず渡ってから考える、大胆かつ積極的な人もいるかもしれません。
 何かと新しいアイデアが浮かぶ人もいれば、より堅実、確実な方法を好む人もいます。
 そのために、時に、意見が分かれる…ということもありうる、それ自体はあっていいと思うんです。
 もし、同じ一つの体の中に、それぞれの器官があるように、私たち一人一人は「同じ」ではなく、手と足のような違いはあるということを理解できれば、当然なことですよね。

 私たちが前に歩こうとする時、両手両足が同時に前に進もうとしても、前に進めないんですよね。右手が前のときは、左手は後ろ、左足が前に出て、右足は後ろです。それでバランスを取りながら、前に進めるんですよね。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

 どちらが正しいわけではなく、どちらにも長所短所があったり、欠けた部分も、間違うこともありうるわけです。
 だすが、実は、どちらも、神の御心。
 イエス・キリストのスピリットに従って考えていることであれば、考え方や方法に違いはあっても、その心、目的には、いいも悪いもないわけですよね。
 むしろ、どちらの見方、考え方も必要で、かえって自分とは違う反対意見こそ大切、耳を傾けることができれば、その両方の見方、意見を調整していくことで、実は、全体としての、バランスが取れていたりもするわけです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

 田園グレースの場合には、口から生まれてきたんじゃなかろうか…言う人が多いよう気もしますが、もちろん、おしゃべりじゃなければ、教会に属せないということにはなりません。

 ですが、私、思うんですが、比較的、多くの教会で、言った見れば「口」の働き、すなわち「伝道」の働きが重んじられることって多いように思うんですよね・・・。確かに伝道の働き、大事なんです。
 でも、うまく伝道ができないために、劣等感を抱くクリスチャンが少なくないように思うんです。ですが、ウルトラ異教国の日本にあって伝道が難しいのは、ある意味、当然なこと。決して、伝道が、全てではないんです。

「信仰は聞くことから始まる」…って言葉がありますが、聞く耳を持つって、本当に大切ですよね。聖書は、この手でめくり、この目で見て読むんですよね。
そんな聞く「耳」を持ち、さまざまな物事に見る「目」を持つ、これも必要、すごいことではないですか。
仕事をしたり、料理をするこの「手」、この「手」の働きも大切です。
「よい知らせを告げる足は、なんと立派なことか」なんて言葉もありますが、直接、口で語るばかりがすべてではありません。

 人と人、その出会い、人間関係の中から伝わるものもあるんですよね。
 クリスチャンになった証を聞くと、かつて教会学校に通っていたとか、職場の先輩がクリスチャンだったとか、決していきなり信じたわけではなく、いろんなクリスチャンとの出会いもあって、最終的に信じていることが多いんだと思うんです。
 福音を直接語っていなくても、その出会いが、実は知らないところで、ある人にとっての「救い」へと繋がっているとしたら、決して馬鹿にはできないんです。
 すると、口にはなれないけれども、足にはなれてるのかもしれないですよね。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

 もちろん、面と向かって「必要としない」なんて言う人もいないと思うんですが、時として、私たちは、自分自身に対して、同じ感覚に陥ってしまうことはあるのかもしれません。
 なぜ、あの人は、あんなふうにできるんだろう…、私には、こんなことも出来ない…といって、人と比べては自分で自分のことを否定してしまうことはあるように思います。
 ある時には、自分とは違う人に対して、思わず不平不満か、愚痴となってこぼれてしまうこともあるのかもしれませんね。

 でも、冷静になれば、自分の目が見てることが全てではないんですよね。
 自分と人とは違って当然。役割、働き、できること、できないこと、みな違うんですよね。
 私たちは、自分と他の人が「違う」ということを、本当に認識する必要があるんだと思います。自分と同じ人間はいないんです。

 いや、以前、実際に、うちの会社にいたんですよね。
 その人は、もともと独立して一人でやっていたんですが、その「一人」ということに耐えられなくなって、うちの会社に入ってきたんです。ですが、しばらくすると、あれが悪い、これが悪い、会社や周りの非難や悪口を言いはじめたんです。
 はじめは新人の女の子なんか、言われてみれば確かにそうだなんて同調しちゃったみたいなんですね。
 でも、あまりに非難、悪口ばかり言うものだから、お断り入れたらもう大変。今度は、その子自身に、裏切られただの、信用できない、態度が悪い、一緒に仕事は無理…、攻撃の矢が向いてしまったんです。
 確かにできる営業マンではあったんですが、決して、会社は営業だけで成り立つわけではないんですよね。経理や総務、事務的な仕事もあります。
 彼にしてみれば、自分が他より優れていると認められたい一心だったようなんですが、ところが、その周りを非難する言葉で、どんどん人が離れていってしまったわけです。

 これは、極めて極端な例だと思うんですが、でも、もし自分が「目」だとしたら、自分とは違う「手」が同じ働きができなかったとしても、それは否定、非難に値するんだろうか…。
 そうではないですよね。
 否定や非難したところで、何が変わりますか。手が目になれるわけではないんですよね。
 目には目の役割があり、手には手の、目にはできない特技があるんです。
 どんなに目が、手を非難したとしても、では、自分自身が、自分自身の手を切り落とすのか…って、そんなことはしないわけですよね。

 なぜでしょう・・・。
 「痛む」からです。その痛みは、キリストのからだとしての痛みであるわけですよね。
 その「痛み」を共有していくのが、神の家族であり、教会なんです。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

 実際に、パウロが、どの器官を弱いと思っていたかは分からないわけですが、パウロ自身は、目に病を抱えていたようです。
 でも、それまで当たり前だと思っていた視力が落ち、その目に弱さを抱えたとき、はじめて、目の存在の大きさ、尊さが見えたのかもしれませんね。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

 このからだというのは、実に、理想的なようで、理想的ではなかったりするんです。
 疲れるときもあります。病気にもなります。腰が痛くなったり、肩が痛くなったり、思うように動くようで、実は、思ったように動かなかったりすることも多々あるわけです。

 私も、姿勢が悪いじゃないですか。
 忙しくなって、仕事をつめすぎると、肩が痛くなって、首が回らなくなるんですよね。
 それで、たまに整骨院に行くんですが、実際に悪いのは、どこかというと、この胃の裏辺り。ここが硬くなってくると、胃腸の調子も悪くなって、肩、首、腰とくるんです。不思議ですよね。体は全て、繋がっているんです。
 イエス様も、私たちと一緒の、この限界がある、この肉体、この体を有してくださったわけですよね。

 ですから、この「キリストの体なる教会」ということを考えるときに、「キリストの」は付いていても、私たち人間の集まりである「体なる教会」というものは、決して完璧ではありえないし、ある意味、理屈や理想どおりには行かないこともありうるわけですよね。

考えても見てくださいな・・・。ここに、どれだけ完璧な人がいますか。誰もいないんです。
私たちは、まず、それを素直に認めることなんです。

 実に、弱さも抱えています。欠点もあります。ですから問題が起きることもあれば、どんなにがんばっても、どこかで限界はきます。
ですが、その現実の中で、確かに生きていて、存在しているのが、私たちでもあり、教会なんですよね。

もし、教会の弱さや欠点、あるいは痛みを感じたならば、それは否定したり、非難すべきところではなく、労わるべきところ、自分自身が補うべきところであるわけです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そこで大切なのが、「キリストの…」ということになるわけです。

ひとりひとり、個性が違います。生まれてきた環境、性格、能力、役割もみな違います。
自分と同じ人はいないし、完璧な人もいません。言ってみれば、みな不完全な罪人です。
でも、一人一人、キリストによって赦され、キリストに愛され、集められた各器官。
もし、私たちの誰か一人でも痛むとき、イエス様も痛みます。
みな違う。だから、みな大切。この中で、いらない人は、ひとりもいません。

一人で一人前ではないんですね。
一つの教会でも一人前にはならないのかもしれない。
時や場所を超え、全世界に広がるキリスト教会、
みなが集って、ようやく一人前、それがキリストの体なる教会です。

最後に、
12:31 …また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

さらに、まさる道といわれています。「さらにまさる道」って何でしょう。
それがこの後に続く、愛の賛歌、やっぱり、愛するということなんですよね。

しつこいようですが、聖書の中心も「愛する」ということ。しかも、ただの愛ではないんですよね。

13:7 (愛は、)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

ああ、私たちも、そこまでには、まだまだ程遠いような気がしますよね。
だから、道なんですよ。

それが、イエス・キリストの歩まれた道であり、私たちが歩くべき道なんですよね。
そこに、キリストの体なる教会の成長もあるのではないでしょうか。

互いに労わり合い、助け合いながら、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛を目指して、歩んでいきましょう。

 12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


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2015年10月20日

ニュースレター第11号

いつも、私たち夫婦の活動のためにお祈りいただきまして、誠にありがとうございます。

だいぶ、たまってしまいましたが、8月からの報告と、年内の予定です(^_^;)
PDF版には、東北のミニレポートも記載しています。
よろしければ、ぜひご覧ください(^^)

PDF版>>>第11号.pdf

■活動報告と予定(8〜12月)

8月9日(日) 保守バプテスト・田園グレースチャペル(神奈川・川崎)力・説教
8月 9日(日) 【東北支援】シーサイドバイブルチャーチ(宮城・仙台) 静・コンサート礼拝、仮設コンサート
8月16日(日)  シャローム福音教会(神奈川・横浜)力・説教
8月16日(日)  ミッション・エイド・クリスチャン・フェロシップ(東京・御茶ノ水)静・礼拝賛美コーディネート、特別賛美
8月29日(土) 日本聖書協会・聖書クイズ王北海道大会(北海道)静・賛美ゲスト
8月30日(日) 聖協団・札幌教会(北海道)静・コンサート礼拝/チャペルコンサート

9月20日(日) 聖望キリスト教会(千葉・市川) 力・説教/静・賛美
9月27日(日) 保守バプテスト・田園グレースチャペル(神奈川・川崎)力・説教

10月3日(土) 洛都祭・震災復興支援チャリティーコンサート(京都)静・コンサート
10月4日(日) シオン宣教団・大阪シオン教会(東大阪)静・礼拝特別賛美
10月4日(日) 単立・上野芝キリスト教会(大阪・堺)静・チャペルコンサート
10月13日(火) アーサー・ホーランド師・ブレッシングナイト(東京・中野)静・賛美ゲスト
10月18日(日) 日本フリーメソジスト・勝田笹野教会(茨城・ひたちなか)力・説教/静・賛美・コンサート
10月25日(日) 保守バプテスト・田園グレースチャペル(神奈川・川崎)力・説教

11月7日(土) JECA・中野島キリスト教会(神奈川・川崎)静・コンサート(with Migiwa)
11月8日(日) 保守バプテスト・田園グレースチャペル(神奈川・川崎)力・説教/静・コンサート
11月14日(土) 内灘聖書教会(石川・河北郡)静・コンサート
11月15日(日) シャローム福音教会(神奈川・横浜)力・説教
11月15日(日) 日本福音同盟・高岡バプテスト教会(富山・高岡)静・コンサート
11月16日(月) 北陸学院大学(石川・金沢)静・コンサート
11月22日(日) 聖望キリスト教会(千葉・市川) 力・説教
11月22日(日) ミッション・エイド・クリスチャン・フェロシップ(東京・御茶ノ水)静・礼拝賛美コーディネート、特別賛美
11月23日(月) 横浜YMCAウェルカムフェスタ(神奈川・横浜)静・ゴスペルクワイヤディレクション
11月28〜29日 【東北支援】原町聖書教会(福島・南相馬)力・説教/静・コンサート

12月6日(日) 日本伝道福音・富山福音キリスト教会(富山)静・クリスマスコンサート
12月13日(日) 保守バプテスト・田園グレースチャペル(神奈川・川崎)力・説教
12月13日(日)ミッション・エイド・クリスチャン・フェロシップ(東京・御茶ノ水)静・礼拝賛美コーディネート、特別賛美
12月20日(日) 日本フリーメソジスト・勝田笹野教会(茨城・ひたちなか)力・説教/静・賛美・コンサート
12月23日(水) 日本福音ペンテコステ・高松クリスチャンチャーチ(香川・高松)静・クリスマスコンサート
12月24日(木) 聖望キリスト教会(千葉・市川)イブ燭火礼拝 力・ショートメッセージ
12月24日(木) 福音宣教教会(愛知・名古屋)静・クリスマスコンサート
12月26日(土) 横浜YMCA合同ゴスペルライブ(神奈川・横浜)静・ゴスペルクワイヤディレクション

■静・新CD制作に向け始動!来年1月発売目標で。
上記、奉仕と同時に、静は第5作目となる新CD制作に向けて動き始めています。今回は旧約聖書の詩篇を題材にしたオリジナル曲を中心に構成される予定です。どうぞ、お楽しみに!
■各教会でご奉仕いたします!…力・説教、静・賛美 地方の教会でも、まずはご相談ください。


■PDF版ニュースレター、東北支援レポートも合わせてご覧ください。

PDF版>>>第11号.pdf

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