2008年06月16日

孤独が神の家に 創世記28:10〜28

今日はヤコブという人物の話から、見ていきたいと思うのですが、突然、ベエルシェバから、カランへと旅立ったといわれても、わからないと思うので、まず、これまでヤコブについてお話ししますね。

ヤコブと言うのは、イスラエルの祖であるアブラハム、その子イサク、そして3代目がヤコブになるわけですね。

このヤコブには、エサウという双子の兄貴がいたんですが、普通に行けば、家は兄である長男エサウが継ぐことになるわけですね。でも、このヤコブという人物は、ある意味、狡猾、ずるがしこい策略家でして、長子の権利を、なんとかして自分の物にしようとするわけですよ。
そこで、エサウが狩りから帰ってきて、お腹がペコペコのところに、まあ、おいしそうな煮物を作って、待ってるわけですよ。
腹へって死にそうだから、その豆の煮物くれ〜
だったら、長子の権利を譲ることを誓え!
で、そのレンズ豆の煮物と引き換えに、エサウから長子、長男の権利を譲ってもらうわけですな。

まあ、それで、簡単に長子の権利を譲ってしまうエサウもエサウなんですが、豆の煮物と長子の権利、あまりにも差がありますよね。
もし今の日本の法律でしたら、この契約は、後から不成立にもできるんです。
あまりにも差が有りすぎて、本当とは思えない、冗談だと思った…といえるんです。

そのぐらい馬鹿げた方法で、まんまとエサウから長子の権利を得てしまうのです。

次に、父イサクを騙します。
イサクとしては、アブラハムから受け継いだ神の約束の祝福を、エサウに、引き継がせたかったんですね。その祝福の祈りを、エサウにしようとしていました。
そこで、ヤコブは、イサクの目が見えなくなっていたのをいいことに、エサウの振りをして、イサクを騙し、自らが受け継いでしまうのです。

それを聞いたエサウは、どうですか。
怒り心頭、カンカンになって、ヤコブを殺す勢いになったわけですね。

そこで、ヤコブは、逃げるように家を出て、叔父ラバンの下へ身を避けなくてはならなくなったわけです。それでベエルシェバから、カランへと旅立った…というのが今日の箇所の始まりです。

ある人は、こういいます。
神からの祝福を得るためには、ヤコブのように、貪欲である必要がある。
果たして、そうなんでしょうか。いや、決して、そうではないんですね。

その策略によって、ヤコブが得たものは、祝福ではなく、まさに「孤独」だったわけです。

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

家にいれば、やわらかい枕もあったことでしょう。しかし、彼は、石を枕にして、野宿することになったのです。

それは、まさに身から出た錆、当然といえば、当然の結果なんです。
何が、神の祝福なんだろう…と、ヤコブも思ったかもしれません。

このヤコブを見た時に、実際、こういう、ずるがしこくて、親兄弟を騙して、自分のものにしてしまう策略家を見たときに、好きになれます?なれないですよね。

そこで得られた「孤独」。それは、まさにヤコブの身から出た錆。
そんなヤコブが、神様からの祝福を受けようなんていうのは、あつかましい話なんですよね。

にもかかわらず、神様は、そういうヤコブのある意面だけを捉えて、なんじゃ、そんな奴は、よう好かん!とは言わないんですな。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。

そのずるがしこいヤコブの傍らに、主は立たれたんです。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

これが、皆さん、まさに神の恵みなんです。
神の恵みの祝福というものは、
兄だから、長男だから、権利があるから与えられるものでもなく、
人間的な努力や策略によって獲得できるものでもなく、
受けるに値しないにもかかわらず、一方的に、神から注がれるものなんですよね。

でも、私たちは、人の一面だけをみて、いい人、悪い人と判断してしまいがちなんだと思うのです。そのことを一番思わされたのが、この前の日曜の秋葉原の事件です。
被害者やその家族、当事者にとってみれば、その痛みは大きく、とてもじゃないけど許し難いことでしょう。しかし、マスコミまで、事実以上に、彼の悪いところ、悪いところを掘り下げて、悪い奴かのように言うわけですな。私たちは気をつけないと、こういうマスコミの影響を知らず知らずに受けてしまうような気がします。

彼のしてしまったことは、確かに、取り返しのつかない重大なことなんですけれども、でも、わかっているのは、あくまで、彼の極々一面でしかないわけですよ。
それまでの生い立ち、家庭環境、社会生活、何を思い、何を考え、どうしてあの犯行に及んだのか…、それも裏表、偏りなく見ていかない限り、正確なところは、わからないことだと思います。

私が、彼から受けた印象は、まず強烈な孤独感。
友達がいないわけではない、でも、心のうちにある本音を表現する術を知らなかったのか、あるいは、打ち明けて、共感してくれる相手が身近にいなかったのか、とにかく話せなかったんでしょう。

「誰でも、よかった」っていうじゃないですか。なぜ「誰でもいい」んでしょう。
ね、「誰でも、よかった」なんて冗談じゃない。それこそ被害を受けた人は、たまったものじゃないです。
でも、なぜ「誰でも、よかった」のか…。
誰もいいから、わかってほしかったんじゃないかなと思うんです。
その悔しさ、寂しさ、挫折、怒り、孤独感…、いろんなものが心の中でギュッと濃縮されて、鬱積されていったわけですよ。
誰でもいいから、自分のことをわかってほしい…、その表現が、こともあろうか、ああいう形になっちゃったんじゃないかなって思うんですよね。

そんなこと、誰がわかるか…、誰が受け止められるか…、それこそ冗談じゃない。普通一般的には、そうかもしれない。
でも、私たちは、そういった心の刃(やいば)を受け止められる存在を、一人だけ、知っちゃっているんですよね。
誰ですか…。
まさに、カルバリの十字架を背負ったイエス・キリストです。

…彼への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、
彼のうち傷によって、私たちはいやされた。

本当に、誰でも、よかったんです。イエス・キリストで、よかったんです。
イエス・キリストなら、彼のことを受け止めていたでしょう。
でも、彼は、イエス・キリストの存在を知らなかったんです。

なぜ、神様は、ヤコブの傍らに立たれたのか。
それは、ヤコブの策略が成功したから、イサクの祈りがあったからではないんです。

ヤコブが、ずるがしこくって、狡猾で、兄から殺されるほどに嫌われて、孤独だったからではなかったでしょうか。

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

このとき、初めて、ヤコブは、祝福の源である神という存在に気がつくんですね。
不思議だと思いません?
ヤコブは、あれだけ神の祝福を得たいと思っていながら、肝心の祝福の源であるはずの神の存在を意識したのは、このときなんですよ。

では、いつから、神はヤコブの傍らにおられたんでしょうか。

この場所に、来て初めてでしょうか。
家を出た時からでしょうか。
イサクに祝福の祈りをしてもらってからでしょうか。

いいえ、母の胎内にいる時から、ずっとです。

25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

実に、ヤコブが、母の胎内にいる時から、すでに神の計画があったわけですね。

ヤコブは、それを知らなかったか、信じていなかったのか、自分の策略、力で得よう、得ようとしていたわけですね。
でも、神は、はじめから、ヤコブが生まれる前から、ヤコブがわかっていない時も、信じていない時も、知らずに孤独に陥った時も、神はヤコブの傍らに立ち、ヤコブに祝福の約束は注がれていたわけです。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

祝福の約束を受けたヤコブが、それからの人生ばら色、順風満帆だったのか。決して、そうではありません。
これから、ヤコブは叔父のラバンの元に行くわけですが、このラバンという男が、ヤコブ以上にずるがしこい策略家でして、ヤコブは逆に騙され、痛みを知り、そこで練られていくわけです。
「あなたをこの地に連れ戻す」祝福の約束が実現するには、やがて兄とも和解しなくてはならないわけですが、そのためには、そのずるがしこさ、狡猾さがそぎ落とされなければならなかったんですよね。ヤコブがそうなるためには、必要な時でもあったわけです。

では、エサウのことは愛していなかったのか。
決して、そうではないですよ。
兄が弟に仕える、エサウはエサウなりの役割が与えられているわけです。

でも、エサウにはエサウの問題があって、それを理解し、飲み込むまでには、やはり時間が必要でした。二人がその問題を乗り越え、成長するには、お互いに、まだしばらく時間が必要だったわけですよね。

クリスチャンの人生、歩みも同じだと思います。
私たちが、どこで一番悩むかといえば、家庭であり、学校、会社であったり、地域であったり、場所や問題はいろいろであっても、究極は人間関係の問題が一番多いと思います。
私たちは、決して、完成されているわけではありません。決して、すべてがうまくいく、すべてが順風というわけにもいきません。
時に、人間関係で悩み、苦しみ、失敗もしながら、そこで練られていくんでしょう。
でも、主は、私たちの傍らに立っておられる。
私たちがわかっていようがいまいが、信じられない時も、失敗した時も、一人孤独な時も、
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

私たちが、そんな神という存在を知る時に、ルズはべテルに、孤独は神の家に変わります。

最後に、十分の一をささげる話が出てきます。
十分の一をささげるから、神が祝福してくださる…わけじゃないですよね。
以前のヤコブだったら、そういって取引しようとしたかもしれません。
でも、「私が賜るものの十分の一」、すなわち、神の祝福が先、行ないは後、神の恵みが先行しているのです。

恵みとは、受けるにふさわしくないにもかかわらず、無代価、無条件に注がれる神からのよい贈り物のことを言います。
私たちは、その贈り物を、無代価、無条件に、ただ受け取っていくことなんですよね。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。



posted by holyhope at 00:14| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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