2008年07月21日

「ヤボクの渡し」創世記32:22〜32

…私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。創世記32:26

つれて逃げてよ〜、ついておいでよ〜
それは、矢切の渡し。今日は、ヤボクの渡し。失礼しました

前回についで、ヤコブの物語から見ていきたいと思うわけですが、
そもそも、ずるがしこいヤコブ、策略家のヤコブ、
兄ちゃんを出し抜き、父親を騙し、神からの祝福を自分のものにしようとして、家を出なくてはならなくなったヤコブです。
でも、その家を出て、ひとり孤独になったルズの地で、神と出会い、神からの祝福の約束を受けることになったわけですね。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

それが前回の話です。
てせも、それからのヤコブの人生ばら色か…というと、決して、そうではありません。
叔父ラバンのもとに身を避けるわけですが、このラバンがヤコブ以上に上手でして、今度は、自分が騙されることになったわけです。

このラバンには二人の娘がおりまして、お姉ちゃんのレアと、妹ラケル。
ヤコブは、妹ラケルに一目ぼれするわけです。
それで、父親のラバンに嫁にくださいと申し出たところ、7年働いたら、嫁にしてもいいというわけですよ。
それで、ヤコブは、せっせ、せっせと7年間、働くわけですな。

で、いよいよ婚礼となったわけですが、朝起きたら、横にいるのはお姉ちゃんのレアだったというわけですよ。
なんで、レアがおんねん!
…という前に、気づけよ!という話かもしれないですが、当時、電気なんかありませんからね。日が暮れれば、もう暗くてわからなかったんでしょうね。
つまり、叔父のラバンに騙されちゃうわけです。

姉ちゃんより先に、妹を嫁に出すわけいかないというわけですよ。
もう7年働くんだったら、ラケルを嫁にしてもいいというわけです。

そこで、ヤコブはさらに7年、ラバンの下で、働くことになったわけです。

それも、ほとんど、ただ働きですからね。
まあ食べさせてはもらえても、14年間働いても、自分の財産、蓄えはできなかったわけです。
それで、さらに6年、今度は自分の財産を蓄えるために、この叔父ラバンの下でヤコブは、働いていたわけです。
もちろん、相手は自分以上に策略家ですから、そこでも、またすったもんだがあったわけですが、いよいよ、そのヤコブに、「あなたの生まれた国に帰りなさい」と神からのお告げがくだるわけです。

ところがですね。いよいよ、帰ろうとするわけですが、家に帰るということは、
あの、おっかない、おっかない、お兄ちゃんが待ってるわけですよね。

この時のヤコブには、兄貴を騙した自分が悪いということもわかっていました。
叔父ラバンの下で、騙されたものの痛みを自ら経験してきたわけです。
この時のヤコブには、なぜ兄貴が殺そうとするほどに、自分に対して怒りを燃やしたのか、身をもってわかっているわけです。
兄貴は、まだ怒っているだろうか…。帰ろうものなら、返り討ちにあわないだろうか…
ヤコブとしては、家に帰りたいんですよ。
でも、帰れない。

ヤコブの中に、激しい葛藤が生じてくるわけです。

それで、段々と家に近づいていくわけですが、ますます恐怖心が高まってくる。

その葛藤と恐怖が頂点に達したのが、今日のこの場面、ヤボクの渡しです。
それで、とにかく、他の人たちはヤボクの渡しを渡らせて、自分ひとりになり、格闘しはじめるわけです。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

私たちの人生の歩み中では、このような葛藤、悩み、壁にぶつかることがあると思います。
ヤコブの場合は、兄との人間関係ですが、
人それぞれ、状況や場面がちがっても、壁にぶつかることが、しばしばあるんですよね。

私なんか、若干35歳ですから、しょっちゅうです。

そんな時に、どうするか…というと、クリスチャン的には、まあ、祈るわけですよね。
でも、その時の「祈り」というものを考えた時に、自分の周りの人や状況を変えようとしていたり、時には、人である自分が、神様を動かそうとしていたりしていないだろうか…。

時には、それで、神様が動いてくれて、必要を備えてくれることもあると思いますよ。
でも、時として、人や周囲ではなく、実は、自分自身が変わらなくてはならない、変えられる必要がある時も、あるわけですよね。
ところが、どうして、いざ自分自身を変えようと思っても、なかなか変わらない、変えられない…そんなことがないでしょうか。

ヤコブも、このヤボクの渡しにたどり着くまで、思いっきり、逃げこしになります。
まず、使いを遣わして、兄貴に贈り物を届けさせるわけですよ。
まあ、なんとか、兄貴のご機嫌を取って、あわよくば赦してもらおうというわけですよね。
ところがですね、使いが帰ってきたら、兄ちゃんが400人を連れて迎えに来ているといわけですよ。
ますます、怖いものだから、群れを2つに分けて、自分は後ろ、それも一番後ろにつくわけです。いざとなったら、半分は犠牲になっても、残り半分を引き連れて、逃げようと言うわけですね。

ずるいヤコブ、卑怯なヤコブ、計算高い策略家のヤコブが顔をのぞかせるわけです。
これが、ヤコブ自身が持っていたヤコブの本質、ヤコブの弱さです。

ずるがしこさ、策略によって、人を騙し、それで兄貴を怒らせ、家から出る羽目になったにもかかわらず、また叔父ラバンによって、騙された人の悔しさ、痛みを理解したにもかかわらず、でも、変わらない自分が確かにいるわけです。

32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

もものつがい、股関節というのは、自分の体重を支えるのに、大切な場所です。
その、もものつがいが外れるというのは、自分の力で踏ん張りが利かなくなる…ということを意味します。
それまでは、どうにか、エサウを変えさせ、神を動かそうとしていたヤコブです。
しかし、これで、ヤコブの方が、折れるわけです。

一晩かかって、ようやくなんですね。
でも、純粋に一晩で変えられたのか…というと、けっして、そうではない。

兄貴を騙し、怒りを買い、家を出て、一人野宿した地で神と出会ったのが、20年前。
そこから20年、叔父ラバンのもとで働き、奥さんも同時に二人ももらって切磋琢磨。
その20年という時を経て、それでも変わらなくて、兄貴を目前としたヤボクの渡しまで来て、そこで神の使いと格闘し、それも一晩かかっても駄目で、もものつがいがはずれ、自分の心の内面、本質にあった、凝り固まったものも外れたわけですよね。

神様が、ヤコブに祝福の約束をしたのも、ヤコブが決して、いい人だから、従順だから、すぐれていたからではないんです。むしろ、人間性の面では劣っていたわけでしょ。
でも、神は祝福を約束し、そのヤコブにとことん付き合うわけです。
むしろ、神様の方が根を上げるくらい、ヤコブはしぶとかった。

32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」…

でも、このヤコブの優れていたところをあげるとするならば、神からの祝福の約束を決して手放そうとしなかったことでしょう。

32:26 …しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

このヤボクの渡しでの格闘のあと、ヤコブは変わります。
レアや、ラケル、そしてその時一番末っ子だったヨセフは一番後ろにおいて、

33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。

すなわち、土下座をして「ごめんなさい」をしたわけですよね。
これこそ、ヤコブが兄貴と和解し、祝福つまり幸せになるためには、ヤコブに必要なことだったわけです。
それには、家を出てから20年という時が必要だったんですよね。その間、様々な体験をしながら、神様もずっとヤコブと共にいて、導いてきたわけです。

また、兄エサウにとっても、ヤコブを赦し、受け入れるためには、20年という時が必要な時だったのかもしれませんね。

その長いスパンを持って、神はヤコブを捉え、いつも共にいて、祝福へと導いていったわけです。
でも、これで、ヤコブが変えられ、めでたし、めでたし…かというと、そうではない。この後も、ヤコブの人生には、いろいろな格闘が起きてくるわけです。しかし、そこにも神の導きがあるわけです。全生涯を通じてのものなんですよね。

私たち、クリスチャン。
よもすると、今というこの時、この瞬間に、理想的なクリスチャンの姿・形を求めすぎてしまうことがあるのかもしれません。
それは他人に対してもそうかもしれないし、自分自身に対しても同じ。あるいは、人から求められることもあるかもしれない。

実際に、私たちには、私自身にも、変わらなくてはならないところ、弱さ、欠点、数多く持っているわけですよね。
それは生まれ育った環境、これまでの人生の出来上がってきた歪み、
過去に負っている傷であったり、あるいは劣等感かもしれない、
それも、心の内面、内側、それも奥の奥の本質的な部分において、
なんか、ありやがるんですよね。こう、凝り固まったようなものです。

それは、人それぞれ違いがあっても、誰しもが存在していると思うんです。それって、なかなか変わらない、変えられない。
それが、時として、人に対する好き嫌いとか、人間関係の中で良くも悪くも出てきたりだとか、それが引き金となって、問題がおきたり、悩みにもなったり、葛藤を起してみたりもする。
でも、わかっていても変わらない自分がいて、もやもやになったり、自分は駄目だと思ったりするときもあるかもしれない。

しかし、自分自身もそうだし、その時、その瞬間だけの人を見て、いいとか、悪いとか簡単には評価しちゃいけないし、そんな自分は駄目だと思ってもいけないと思うんです。

そう最近、私、トイレ掃除に、はまっているんです。
なんか嫌なことがあったり、心がもやもやして来ると、トイレ掃除するの。
それも誰もいない時に、ひそかに一人でやるのがいいですよ。
ただ掃除するんじゃなくて、トイレの便器は、自分の心の鏡だと思って、掃除するんです。

うちの奥様も、あんまり掃除しないものだから、結構、汚れたりするんですよね。
私もあんまり気にする人じゃないから、ほうっておいたんですけれども、まあ、ある時、掃除したわけです。
まあ、かなり汚れていましたから、汚いな…とか、女性の住んでる家とは思えんな…とか(笑)。
でも、それって、すべて、自分の心のうちにあることなんですよね。トイレの便器にある汚れじゃなくて、自分自身の心のうちにある汚れなの。
それから、トイレは自分の心の鏡だと思って、掃除するようになったんですが、あの便器は、たいした器ですよ。
いうなれば、毎日、自分が生きていく上で、出てくる老廃物、汚れを受け止めてくれているんですわな。それも、ただ個室で、ひそかに受け止めてくれているわけです。
それを、ほうっておけば、汚れるんですよ。
私たちの心も一緒。
生活の中で、いろんなもの受け止め、いろんなものを被り、ほうっておけば汚れるわけですよ。

トイレは心の鏡と思いながら、その日あった嫌なことや、モヤモヤしていることを思いながら、で、そのトイレの汚れは、自分の心のうちにある汚れだと思いながら、この器の中だけじゃなく、便座の表も裏も、便器の下から床まで、掃除していくんです。
そして、最後にジャーと流しておしまい。きれいなになったトイレを見て、なんとなく、自分の心も、きれいになったような気分になれる…というだけなんですけどね。

でも、その、きれいにしたトイレに、また用を足すわけですよね。
ああ、便器さん、ありがとうございます…みたいな?
モヤモヤした心がね、感謝の心に変わっているんですよ。いやいや、便器はたいした器ですよ。

ヤコブは、ある人と格闘し、竹下は便器と格闘する。
ヤボクの渡しではなく、トイレの流しみたいな。
アホなようなことなんですけれども、それで、ひとつ楽しくなれたらいいわけですよ(笑)

私たちの主イエス・キリストも、私たちの罪、咎、汚れを背負って、十字架を背負われた。
まさに、神ご自身が、トイレの便器と同じ役割を担ってくれているわけです。
私たちが、日々、毎日、罪を全く犯さないということはないし、私たちの心が、全く清らかということもないんです。罪はある、汚れはある、未熟な部分もある。
毎日、用を足さなくてはならない、老廃物、汚れを出さなくてはならない。
誰が受け止めてくれるのか、イエス・キリストなんですよね。

私たちには、その主イエス・キリストの名によって、祝福の約束が与えられています。
それは、ただ信じるがゆえに、神様から一方的に注がれているものですが、それと同時に、
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
私たちも、その祝福の約束を手離さない。

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

すごいですよね。新改訳の注にもあるように、「イスラエル」というのは、神と戦う者の意味なんですよね。神と戦う、神の争うなんて、すごい話じゃありませんか。でも、そこまで、ヤコブは神様と取り組むし、神様もそのヤコブに、とことんかかわりを持ったわけです。

私たちも、失敗あるかもしれない、悩むことも、苦しむこともあります。いつまでも変わらない自分がいて格闘するときもあるかもしれません。
しかし、今の自分がどうであれ、やがては神が祝福してくださる。神が変えてくださる。その信仰を持ち続けることなんですよね。

「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」


posted by holyhope at 00:36| Comment(3) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
天使と格闘するヤコブ

ユングは、教義、信仰箇条と区別された宗教のメルクマールを、ヌミノース経験があるかないかにおいていた。外的集合的権威(集合的意識)よりも、内的な集合的力(集合的無意識)を重視したからである。しかし、これは神秘主義的思想ではない。宗教的な態度において、内的集合性が持つ恣意的な力と対峙し、その意味を問いつずける必要性を説く。この時にのみ,真の反対の一致(結合の象徴)が生じる、と考えたからである。これは個性化の考えと結びついている。ちょうど、天使と格闘したヤコブが、祝福を受けるまで天使をさらせなかったようにである。「自分の個としての目標を追求し、共同体に適応しようと、同時に両方試みるものは、誰でも神経症になる。このような「ヤコブ」は天使のほうがやはり強いのだといううことを認めようとしなかったのである、というのも、たとえば、天使もびっこを引いていた、後になんら言われることはなかったからである。」ユングはヨブの偉大さもここに見ていた。

ユング心理学辞典(創元社)P73より
Posted by k at 2009年01月11日 04:35
こちらのヤコブのメッセージ、自分の心と照らし合わせながら読ませていただきました。慰められました。でも、以外ですね。ストレス解消にトイレの清掃。ちなみに私は清掃作業員をしています。そして某プロテスタントキリスト教教会会員です。ちょっと自分の心の迷いの闇に入ってもがいている最中で母教会から遠ざかっています。なので、よけいに心を打たれました。ありがとうございます。
Posted by マサ at 2009年05月20日 15:57
更新をサボり続け、コメントしてくれていることにも気が付かず、大変失礼しました^_^;

ありがとうございます。

長い人生、長い信仰生活ですから、山あり谷あり、いろいろとあると思います。
でも、私とたちが気が付かなかったとしても、一番近くに、神がおられるような気がします。
Posted by りっきー at 2009年06月17日 23:51
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