2009年06月17日

求め続ける祈り ルカ11:1〜13

 おはようございます。
 雨も降ったり、やんだりで、だんだんと蒸し暑くもなってきましたが、みなさん、お体、体調のほうは、大丈夫でしょうか。
 
前回、少しお話しましたが、最近、私たちの体、あるいは脳の働きについて書かれた本に少々はまっておりまして、そういった本を読んでいくと、実に不思議なんですよね。

 それらの本を書いた人たちは、医学者であったり、脳科学者であったりして、いってみればクリスチャンではありません。ところが、クリスチャンである私が、その内容を読んでいくと、どこか聖書で言われていることにつながって来るんですね。
 実に、私たちのこの体の仕組み、生業を見ていくと、そこに神の言葉が刻まれている…、まさしく神の言葉によって創られているということがわかるのです。

 なんてことをいうと、いやいや、そんなことは、はじめから信じていますよ…と言われてしまうところなのかもしれません。
 
 神が言葉によって、私たち人間を創られた…確かに、私もそう信じてはいました。でも、そこまでなんですよね。
 具体的に、神様が、どんなふうに私たち人間の体を創られているの…そこまでは深く知らないし、突っ込んで考えない。
 クリスチャンではない人たちにしてみれば、えー、言葉なんかで創ったの?そんなの信じられない…ということになるところでしょう。

 でも、今日は「祈り」ということを取り上げますが、私たち人間の体が、実は「祈る」ように創られているとしたら、ちょっと、なんか、不思議じゃありません?

 さて、今日の箇所は、弟子たちが主イエスに「私たちにも祈りを教えてください。」とたずねるところから始まっています。
 主イエスは、ここで2つの祈りを教えています。

 1つ目の主の祈り…これは、まさしく心静めて、平安を祈る祈りと言えるでしょう。
もう1つは「求め、捜し、門をたたく」祈り、それは自ら積極的に行動する祈りといえると思います。
 今日は、「求め続ける祈り」と題して、後半の2つ目の祈りに主眼を置いているわけですが、まずその前に、この平安を求める主の祈りと、活発的に動く緊張の中で求める祈り、この2つのバランスの中で語られていることに注目したいのです。

 前回もお話しましたが、私たちの体の自律神経には、平安、リラックスモードの副交感神経と、緊張モードの交感神経の二種類がありまして、お互いに相反する働きをしながら作用して、両方がバランスよく働く必要があるんですね。体自体がそのように創られているわけです。逆に、このバランスが崩れると、私たちの体にも不具合が発生するんです。

 私たちは、ある程度の安定を求めます。それも、実は脳の働きでもあるんです。
不安や緊張の中にあることは、交感神経だけが活発に働くことになり、いわゆるストレスになるわけです。血圧が上がり、血糖値があがり、よく言えば体全体が活動モードになるわけです。
 特に現代に生きる私たちは、本来あるべき自然な状態から離れていますから、どうしても交感神経が優位になりがち。ですから意識して心を静めて、安らかに平安を求める祈りというものもまず必要不可欠となるわけです。言うなれば、休みの日や、朝晩、安らぎを得るために祈る祈りです。

 聖望教会では、この主の祈りを、子供たちにも分かるような言葉で、かなりゆっくり祈るじゃないですか?
 ところが、他の教会に行くと、むちゃくちゃ早いときもあるんですよね。
私が前にいた会社でも、韓国人のクリスチャンたちが、朝の集会みたいのをやっていて、その最後に、じゃあ、主の祈りをして終わりましょう…なんて時もあるんですが、そしたら、めっちゃくちゃ早いんですよね。
天にましますわれらの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国をきたらせたまえ…韓国人なのに、日本人の私が追いつかないくらいのスピードで、祈るわけですね。
でも、主の祈りの本質からいくと、それでは安心も平安もなかろう…いう気がします。

 天にいます、私たちの父よ…。
 イエス様は、神様のことを「父」、それも「お父ちゃん」とか「パパ」とか、子供が呼びかける言葉で紹介したわけですが、
 そんな父なる神の御名があがめられますように、御国が来ますように、
御心が天になるこどく、地にもなりますように。。。
 まさに神の平安、神の守り…、それは家で子供が父親の守りの中で安心するように、天の御国にある神の平安、神の守りが、まさしく私たちが生活するこの地にあっても満たされますように…という祈りなわけです。

 ですから、1日の始まる前にでも、終わった後にでも、深呼吸でもしながら、ゆっくりと、そのことを願い、また父なる神が私たちを守っていてくださることを感じながら、祈る時に、この主の祈りの意味、味わいもでてくるわけです。
 
 では、そういった平安の祈りだけでいいのかというと、決して、そうではない。
私たちの日常生活の間には、様々な必要や問題が起きてくるわけですよ。
それは決してネガティブなことばかりではなく、私たちが何かを求め、新しいことに意欲的に取り組むとき、チャレンジする時、そこには生きがいがあり、感動があり、喜びや感謝も生まれてくる。
平安と緊張、あるいは挑戦…、このバランスがとても大切なんですね。
実際に、脳を活性化させる喜びのホルモン、ドーパミンが放出され、心も体も生き生きとしてくるんだそうです。

 そこで、2つ目の祈りもあるのですが、この祈りは、静かに手を組んで祈る…というよりは、「求め、捜し、そして門をたたく」…すなわち実践、行動が含まれている点に注目したいところです。
 
 さてイエス様は、ここのたとえ話で、結構とんでもないことを言っています。でも、たとえ話では、そのとんでもない部分が、鍵になる部分です。
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。

これはある話です。
今と違って、夜らくだに乗って旅をしますから、真夜中に突然、やってくる…これはある話です。

11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

これも当然な話ですよね。でも、次はむちゃくちゃな話です。
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

友達だからと言うことで与えることをしないでも…って言っていますが、これを本当にやり続けたら、いい迷惑というか、本当に友達をなくしそうな気がします。新改訳聖書の下の註を見てみると、「頼み続けるので」というのは、「あつかましさのゆえに」ともなっています。人にしたらあつかましい限りですが、少なくとも神様に対しては、あつかましいくらいに、祈り求め続けなさい…ということなんですよね。

ここでイエス様が語っている「求めなさい」ということ、この「求めなさい」はギリシャ語の原文で、現在形。求め続けなさい…とも訳していい言葉です。

求め続けなさい。捜し続けなさい。門をたたいて、たたいて、なお、たたき続けなさい。
そう語っているんです。

 この求め、捜し、門をたたく…というプロセス、実に私たちが何かを求める時、この脳が、まったく同じプロセスを踏むんです。

 ある意味、当たり前のような話なんですが、わかりやすく説明するために、おいしいラーメンが食べたいと思ったとしましょう。
 どんなにおいしいラーメン食べたいなあ…と、いくら思っていたとしても、それだけでは、おいしいラーメンにはありつけないですよね。

 ラーメンが食べたいな…と求めた瞬間に、普通、私たちの脳は、おいしいラーメンを食べられる方法、手段を捜し求めているんです。
 自分で作る方法もあるだろうし、過去に食べた記憶の中からおいしいラーメン屋さんを思い浮かべるかもしれません。いや、もっと違う他のラーメンが食べたいと思えば、情報誌か何かで、ラーメン屋さんを捜します。
 そして、これ!というラーメン屋さんが見つかったら、門をたたく、のれんをくぐる…すなわち、行動に移す。もしかしたら1軒目はいまいちかもしれません。ならば、2軒目、3軒目と捜し求めて、それで、はじめて、おいしいラーメンにもありつけるわけです。

 本当にそんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないんですが、でも、私たちが意識することなく、私たちの脳は、あらゆる日常生活の場面で、「求め、捜し、門をたたく」…このプロセスを繰り返し働かせているわけです。

 つまり見方を変えれば、実は、私たちの日常の全てが「祈り」そのものなんですね。
決して特別なことではない。私たちの脳の回路に、もうあらかじめ、この「祈り」のプロセスはセットされているともいえると思います。

ところが、さまざまな出来事の中には「求め、捜し、門をたたく」このプロセスがうまくいかなくなることもありうるんですよね。
求め、捜しても、見つからない。門をたたいても、開かれない。結果、あきらめとなってしまう。
あるいは、何かを求め、捜し、方法や手段も見つかった。
でも、門をたたけない…ということがあるんですよね。

過去に起きた、様々な失敗、挫折、困難の経験によって、その祈りや願い、夢を、気づかないうちに自ら否定してしまっているなんてこともあるような気がします。いわゆるトラウマというやつです。

勇気を出して、いざ門をたたいても、すぐに開かれるとは限りません。
開かれても、それで、すべては解決するとも限りません。
またまた失敗してしまうかもしれないです。
そうしているうちに、求めているはずの願いや夢やをあきらめてしまう、捜すことも、ついには、求めることすらやめていることもあるような気がするんです。

しかし、そんな自分の限界を超えて、「神」という存在により頼みながらも、なお求め、捜し、たたき続けていく…そこに「祈り」があるのでしょう。

蚤の実験の話って知っています?

蚤って…、最近見たことないかな?
猫とか飼っていると、お目にかかることもあると思いますが、1mm、2mmの大きさで、ピョーンって、えらい高くとびよるんですな。

でも、その蚤に、ガラスのコップかぶせるじゃないですか。
そうすると、いつもの調子でピョーンと飛ぶと、頭ぶつけるんですな。
しばらくは飛んでもぶつけ、飛んではぶつけ繰り返すらしいです。でも、そのうちに、ぶつからない程度にしか飛ばなくなる。

それから、ガラスのコップはずしても、ぶつからない程度にしか飛ばなくなるというんです。

私たちも、よもすると、過去という名の目に見えないガラスのコップをかぶせられている…なんてこともあるかもしれないですよね。

でも、イエス様がここで言っているのは、あくまで
求め続けなさい。捜し続けなさい。門をたたいて、たたいて、なお、たたき続けなさい…。

実は、求める…ということには、過去のしがらみから脱出して、将来や未来に目を向けるということでもあるわけです。

大体、最近、こう言っても信じてもらえないんですが、私はそもそも、人前で話すのが大の苦手なんですよ。
今、こうしてしゃべっているのは、すべて、前もって原稿にしてあるからなんですね。
だから、たまにアドリブで話をいれると、頭がこんがらがって、舌が回らなくなるんです。

小学校、中学校くらいまでは、全然、そんなことを意識していなかったように思うんですけどね。むしろ授業中、あほな発言して、怒られていたこともあったんですよ。
でも、大人になってからかもしれないですが、いつの間にか、緊張するようになって、思ったことを口にすることができにくくなっていたんです。

そんな自分だったんですが、イエス・キリストの福音を福音として伝える…という使命というか、願いが起こされたんですが、でも口下手でしょ。どうやって話したらいいのか…って迷いもあったんです。
仕方がないから、まず最初は、自分のお気に入りの先生の物まねから、はじまったんです。
もう、しゃべり方から、内容、話の落とし方まで、すべて物まね。
でも、そうしていくうちに話の間とか、抑揚、強弱だとか、落ちのつけ方だとか、そして、いかに本題を伝えるか…、段々と自分のものにもしてきたんですよね。
それで、ようやくこのくらいには、しゃべられるようになった…というところなんです。
今でも、どうしたら伝えられるか…は、求め続けていますよ。

それは私自身に与えられた夢であり、やりたいことだったわけで、みなさんは、みなさんであるはずです。
かつては描いていたけど、今はあきらめてしまっている自分の夢や希望はありませんか。どうでしょう…。
別に、教会生活、伝道や奉仕といった類でなくてもいいです。
みなさんこの社会で生き、様々な人とかかわりを持って、生活しているわけです。
このたとえ話でも、旅してきた友に与えるパンがなくて、祈り求めていく祈りなんです。
この世に生を受けて、家庭であったり、仕事であったり、いろんな人たちとのかかわりの中で、この社会で何をなすか、人に何を与えるか、そこで自分の命を輝かせる…、こうしたメッセージでも、結局は、社会にむけて語るわけですよね。

11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

なぜ、ここで、求める人には、聖霊なんでしょう…。そんな気がしません?
それはそれでありがたい話なんですけれども、でも、どちらかというとパンを求める時には、パンがほしいかな…って気がするじゃないですか。
でも、パンをください、魚をください、何をください…って求めていても、聖霊なんですよ。聖霊がパンを作ってくれるわけでもないだろうし、なぜ、聖霊なんでしょう…。

それは、あくまで求め続け、捜し続け、門をたたき続けるのは、まず私たち、自分自身だからかもしれません。私たちが、求め続けていく時、様々な困難や壁にもぶつかります。時には、周りや人のせいにしてみたり、自分はだめだと否定したくもなる。
求め続けるのも、案外、大変なんです。

私も旅行会社やっていて、はあ、くじけそうになるというか、自分の能力的な限界を感じることも、しばしばです。おじけづいたり、もう嫌になる時もあったりします。
でも、求め続けるのも自分、探すのも自分、門をたたくのも、あくまで自分。
周りのせいや、自分を否定してみても、事が進むわけでもありません。
そんな時に、私たちに慰めや、励まし、勇気を与えてくれるのが、まさに聖霊…、実に神ご自身です。私たちが、求め、捜し、門をたたき続けていくのは、あくまで自分だとしても、決して一人ではない、その祈りの中に神がともにいて、求め、捜し、門をたたき続けてくださる。

だから、求め続けなさい、捜し続けなさい、門をたたき続けなさい…

モーセが出エジプトの使命を与えられたのも、80歳になってからです。
それも、すんなり実現したわけではなく、エジプトの王と直接交渉し、紅海をわたり、民の反抗にあい、水のない荒野を40年もさまようことになるわけですよ。
最後、約束の地カナンの一歩手前、ヨルダン川の向こう岸まで、たどり着いた時、御年120歳です。
そこまでモーセを支えたものは何でしょう。
もちろん神様の導きや慰め、助けがあったからには違いないですが、モーセ自身、約束の地、乳と蜜の流れる地に行きたい、一歩でいいから踏みしめたい…その希望、夢を持ち続けていたからではないでしょうか。モーセの場合、カナン地には行くことはできないよといわれていたにもかかわらず、神様に、もう祈るなと言われるくらい、祈りもとめ続けたわけですよ。
結果、やはりヨルダン川を渡ることこそ許されなかったわけですが、でも、求め続けていたからこそ、ネボ山の山頂から約束の地、カナン全土を見渡して、その生涯を全うし得たわけですよね。

うちの母親も同じく80歳になりますが、父が天国に旅立って、今は静岡で一人暮らし。そこで、私の姉が一緒に暮らそうか…と言う話になったんですが、母にしてみると姉はともかく、その旦那が少々苦手と言うか、お気に召さないらしい。
 まあ、一緒に同居となれば、生活も一転しますから、80歳にもなって、まだ一人でもやっていけるうちは、そんなに無理することもなかろう…と思っていたんですが、この前、静岡に行ったら、一緒に暮らすことを決めたというんですよね。
 おいおい大丈夫かいなと思って、聞いてみたところ、こういうんですわ。
 「これは神様が私に与えたチャレンジ、私の最後のお役目だと思ってやってみるよ。」
 いや、今まで父の方は、出るなと言っても出てくるタイプだったんですが、どちらかというと母は控えめ。旅行に行こうかと誘っても、この歳になって怪我すると嫌だから…そういうタイプだったんですね。
 でも、御歳80で、なお新たなチャレンジする。孫たちに何かを与え、それが母の生きがいになるのであれば、息子としても応援していかなきゃならんですよね。

青年は幻を見、老人は夢を見る…

ペンテコステ、まさに聖霊降臨の時に、ペテロも引用した御言葉です。

ぜひ求め続けてください。
捜し続けてください。
門をたたき続けてください。

今すぐ実現には至らないかもしれません。
多くの困難にもぶつかるかもしれません。
遠い遠い、本当に夢に終わるのかもしれません。
でも、求め続け、捜し続け、門をたたき続ける中で、様々な出会いや発見、求め続けなければ得ることのできない新しい世界も見えてくるはずです。

わたしは、あなたがたに言います。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれるのです。



posted by holyhope at 23:41| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
二つの祈りの話はとても参考になりました。
平安=副交感神経
願い・求める=交感神経

難病を抱えてる身なので、健康に関する本を
よく読みますが、自律神経のバランスが大切だとか書かれてます。
あなたの祈りの話を聞いて、二つの祈りのバランスが心身の健康にとっても大切なのだと
納得できました。
Posted by ムサシ at 2009年07月01日 10:53
コメントありがとうございます(^^)

祈りとか、癒しとかいうと、半分まやかし、神がかり的な特別な奇跡のように感じるかもしれません。
そんなふうに語られたり、また、それを売り物にして、本当にまやかしの宗教もあると思います。

ですが実際に、医学的な常識を超えて、癒されるということがあります。

その癒される過程には、体にも、なんらかの変化や反応があって、予めその仕組みもあるんではないか…と思っていたところで、行き着いたのが、自律神経の働きでした。

難病を抱えているということですので、苦労も多いと思います。
ですが、その病気のために、心までやられてしまわないように、
むしろ、「祈る」心で病気も乗り越えられるように、
私も祈りたいと思います。

Posted by りっきー at 2009年07月03日 00:58
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