2009年05月17日

からだの調和 Tコリント12:12〜27

2009年5月17日 田園グレースチャペル

 みなさん。おはようございます。
 新型インフルエンザが、国内でも感染したということで、またニュースになっていますが、それにしてもあの騒ぎようというか、警戒の仕方は、どこか日本独特のもかもしれませんね。

 いい面で言えば、感染の拡大を防ぐという効果もあるものの、一方で、外部からの侵入者=ウイルスに対して、他の国の人たちに比べると、不安感、恐怖心が強いのかもしれません。
それは島国で生まれた日本人独特の感覚もあるように思います。

 旅行会社的には少なからず打撃もあるところなんですが、せっかくね、民主党の小沢代表が辞めてくれたおかげで、トップニュースが変わったと思ったら、これでしょ。

 ちなみにですね、あまり不安感が強すぎると、逆に、からだの免疫力も低下してしまうんだそうです。
 イエス様も「あなたの言ったとおりになる」と言っていますが、インフルエンザになるんじゃないか…と不安や緊張が続くと、自律神経の交感神経が活発になって、むしろ免疫力は低下する、そういう仕組みになっているわけです。

 マスク、手洗い、うがいなどの予防策も大切ですが、かかっても大丈夫くらいの「気持ち」と「からだ」作りの方が大切なような気がしますね。

 さて、今回とりあえげるのは、パウロが教会を「からだ」に、ならぞらえている箇所です。

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

聖書で、「からだ」を取り上げているのは実に興味深い点です。

たとえば、「霊的にいい」とか「悪い」とか…言ったりしますよね。
でも、聖書では「からだ」を含めて考えられている。
霊・たましい・からだ…それらすべて揃って「人間」という考え方なんですね。

キリスト教が、霊的…、あるいは精神的、観念的、頭だけの世界に偏ってくる時、どこか「からだ」の存在が見落とされてしまうこともあるのではないかと思うのです。

じゃあ、「からだ」ってなんだろう…。
今、インフルエンザと戦っていますけれども、この「からだ」は、決して、理想どおりにはいかない、思い通りにはいかない、疲れを感じたり、病気になったり、弱さや限界も、しっかり抱えている…。
それが、この「からだ」です。

ちなみに、「疲れ」というものも、からだが疲れてくると、脳も疲れるし、脳が疲れてくると、からだも疲れてくる。
私たちの心も、脳で描かれているわけですよね。
脳も、実は、からだの一部、心と「からだ」は、本当に一つなんです。

さて、私たちが、この「からだ」を有している時点で、様々な限界をしっかりと抱え込んでいます。
神学校に行くと「教会論」とか勉強するんですけれども、神学的に、どんなに理想的で完璧な教会像を描いてみても、絶対に、間違いなく、理想どおりには、うまくいかない…。
全世界に教会は数多くあるけれど、完璧な教会は存在しません。
それは、私たちが、この「からだ」を有しているからといってもいいと思います。

さて、そもそも、パウロが、なぜ教会をキリストの「からだ」になぞらえたのか…
それは、まずダマスコ途上での出来事がきっかけとなっているようです。
パウロがまだ「サウロ」と呼ばれ、クリスチャンではなく、バリバリのパリサイ派だった頃、ダマスコにある教会を潰しに行こうとしていた途中、そこで、突然、まぶしい光を浴びて、一つの声を聞くわけですよね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか…。わたしはあなたの迫害するイエスである」

そこで、パウロは、キリストの「痛み」に触れるわけですよね。
教会を撃つことが、キリストを撃つことであって、
キリストと教会が一体であることを感覚的に理解するんです。
その「痛み」の感覚というのは、まさに「からだ」の感覚なんです。

しかも、この時パウロは、同時に目が見えなくなるわけです。
そこで、己の弱さ、不完全さというのものを「からだ」で実感するわけです。

それまでのパウロは、バリバリのパリサイ派、
今のトルコにあるタルソという学問の都市で生まれ、
そこからエルサレムの総本山に来て律法を学んだわけですよね。
いうなれば、東大法学部で勉強したわけですよ。
当時はまだ旧約聖書しかないわけですが、
律法については落ち度のないもの…、
それだけ熱心に聖書も研究したし、実践もしてきた。

だから、愛だの、赦しだの説くキリスト教会が、どうしても赦せなかったわけです。

ところが、いまや自分独りで歩くこともできない、
律法も守れない、何もできない、誰かの助けを必要としたわけです。
そういった「からだ」の体験、また「からだ」の不完全さ、弱さを実感していった時に、パウロは、そこにキリストの愛と赦しも理解したし、このキリストのからだなる教会という感覚を身に着けたのではないかと思います。

この「からだ」を有している私たちというのは、自分ひとりでは、どこまでも不完全で、弱さを抱えている存在かもしれません。でも、そのからだが集まって形作られているが、教会でもあるわけです。

12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

よく教会では「御霊の一致」という表現が使われていますけれども、みなが同じ考え方をし、みなが同じ働きをすることなのか…というと、違うんです。
これは、よく教会で、間違えて使われていることも多いのではないかと思います。

ある決められた1つの答えに、みなが意見や意思を統一させることは、「御霊の一致」ではなく、「意見の画一化」なんですよ。
これを「御霊の一致」という言葉を使ってみてください。
違う意見を持つこと自体、御霊、神様に逆らっているみたいになりません?

もし誰か第三者の意思に合わせて、みなが動くのだとすると、
それはカルト、マインドコントロールの世界になってしまうんです。

 ですが、ユダヤ人はユダヤ人、ギリシア人はギリシア人、日本人は日本人。
 みな、違います。

 新型インフルエンザの騒ぎが出てからも、韓国旅行ですらキャンセルが出ているんですが、
韓国の現地手配の韓国人に言わせれば、

「韓国人はキムチとにんにく食べているから大丈夫!」

と言っていましたからね。

 もともと韓国人は「ケンチャナヨ」と言って、あまり気にしない国民性なんですが、隣の国であっても、考え方は違っているわけですよね。クリスチャンだからって、一緒の考え、発想するかというと違うわけですよ。

みな、考え方も、得意、不得意、やり方も、役割も、みな違います。

しかし、イエス・キリストという1点にあって1つ…これが「御霊の一致」なんです。

 イエス・キリストだったら、どう考えるだろう…
 あのイエス様だったら、なんと言うだろう…この視点。

 イエス様が、みなに、同じ対応をしたでしょうか…。
パリサイ派に対して、遊女や取税人に対して、弟子たちに対して、みな違いますよね。

同じ弟子に対しても、ある時には信仰の薄い者だな…といいながら、でも、ある時には身を張って弁護する、時と場合によっても異なりますよね。

ケース・バイ・ケースによって、イエス・キリストの心を知る。

みな、それぞれに個性や役割も違うのだけど、
ああ、もしイエス様だったら、こういう場面、この状況で、こういうふうに考えるに違いない。
イエス様を知る人間であれば、誰でも合点がいく
…ここに御霊の一致もあるわけです。

その中で自分にできること、自分の役割を果たしていく…、
行動の一致ではなく、方向性の一致です。

たとえば、私たちが、もし、前に進もうとしたときに、この「からだ」がどう動くか考えて見ましょう。

いくら前に進むといっても、右手も、左手も、両足、頭もすべて、みながみな一斉に前に進もうとしたら、大変おかしな動きになりますよね。
ぴょ〜んみたいな?
 右手が前に行くときには、左手が後ろに行き、左足は前でも、右足は後から遅れてついてくるんです。
これが自然体です。それぞれに役割があって、まったく正反対方向に動く器官もありながら、
からだ全体の調和、バランスをとって、前に進むわけです。

さて、からだには多くの器官があります。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

手には手の、足には足の働き、目には目、耳には耳の働きがあります。
みな違います。
私には伝道ができないから、奉仕できないから、特別な賜物がないから、
あるいは、みなのように祈れないから、聖書わからないから、不完全だから…、
そんなことで「からだ」に属さないわけではありません。

私もこうして、メッセージなんかして、まがいなりにも「先生」なんて呼ばれちゃったりするでしょ。そうすると、結構悩むんです。
決して完璧ではないし、実際、「先生」なんて呼ばれるほど立派じゃないですよ、本当に。

でも、この前、落語を見に行ったんですよね。
落語というのは、笑い話だけかと思ったら、違うんですね。
笑いを絡ませながら、人生の教訓めいたことを聞かせる落語もあるんです。
それを聞いてたら、ふと思っちゃったんでよね。

俺のやっていることと、一緒じゃん!

なんとか馬鹿なことも言いながら、笑いで気持ちをつかんでおいて、
そこに、そっと聖書の何かを伝えてく…
なんか、びびっと、きちゃいました。
俺は、決して、立派な聖人にはなれないけれども、
キリストの芸人にはなれるか…、
なんかいいじゃないですか、「キリストの芸人」。
だから、こんな落語家みたいな頭にしたわけではないんですが、
まずは口なら口の役割をしていくことなんでしょうね。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

ある意味、能力、個性、働きは、みなバラバラでもいいんです。
みなが同じことができる必要はないし、みなが同じ風に考える必要もないし、目には目の、耳は耳の、手には手の感覚、働き、役割があるわけです。
大切なのは、神様が、からだの各器官を配置してくれているということなんです。
みなが、同じようなクリスチャンになる必要はありません。
でも、からだは一つだというわけです。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

あの人は、この働きができないから、必要ないということもできないのはもちろんですが、自分にはできないことを、他の人が持っていて、補ってくれている…実に必要な存在であったりもするわけです。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。

パウロが、具体的にどの器官を指して弱いとか尊いと考えていたかは、分からないのですが、自分のからだの実感を持って弱さを感じたのは、おそらく目でしょう。
視力を失ってみて、その大切さを実感していたに違いありません。
私たちも、普段、目が見えて当たり前、耳が聞こえて当たり前のところがあるように思います。でも、これがもし失われたとしたなら、はじめて、その尊さ、大切さを知るのかもしれないですよね。

しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

ここで言われているのが、「調和」、バランスということ。

私たち一人一人も、100%完璧な存在ではありうるわけではありません。
でも完璧ではないから、劣っているから、否定されてしまうのか、
決してそうではない、キリストは、そんな私たちを命がけで愛してくれているわけですよね。
私たち自身、それぞれが役割を持って、それぞれを、いたわりあうために存在しているというわけです。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

1つの個人でも、1つの教会でも、ある意味、もし単独で完璧さを求めていったとしたら、実は、必ず、どこかに無理や限界が必ず出てくるはずです。

疲れが出てくる、怪我をする、病気にもなる、かえって不健全になる…、
それが「からだ」というものなんです。

どんなに一流のアスリートであっても、突き詰めれば突き詰めるほど、得意とする専門分野があるわけで、決してオールマイティではないんです。
また無理や無茶なトレーニングを繰り返せば、故障にもつながります。

仕事をするときには仕事をし、遊ぶ時には楽しく遊び、そして、休む時には休む。
私たちのからだにも、やる気モードの交感神経と、リラックスモードの副交感神経があって、それぞれが相反する働きをしながら、その両方がバランスよく働いて、調和を保っているんですよね。
本当に、そういうふうに創られているんです。

この調和・バランスという感覚が、本当に大切のような気がします。
このバランスが崩れると、からだに何らかの不具合も発生してくるんです。

もっと広い視野で見ていった時に、グレースにはグレースの特徴があり、市川の聖望教会には聖望教会の特徴がある、1つ1つの教会も、各器官であるわけです。

1つの教会だけで完璧になるというよりは、1つ1つの教会が、それぞれの役割を果たしていくことで、全世界に広がるキリスト教会、クリスチャン全体で、1つの「からだ」となっていくことではないでしょうか。

そのあとに、それぞれの役割が出てきます。

「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」

必ずしも、すべてがグレースに揃っているわけではないですよね。
でも、逆に、ここには出てこない働き、能力を持っている人もあると思います。
それは、やはり神様が、グレースチャペルという「からだ」の調和・バランスを持って、配置してくれている各器官であるわけです。

すると、個々の教会の個性、特徴というのも、実に、

教会に集まる一人一人の存在、個性、特徴によって決まる

ものなんですよね。
決して、理想的である必要もないし、誰か一人がうちの教会はこうだ!と決められるものではないんです。

いろんな働きがあって、いろんな個性があって、みな違う、だから、みな大切。
キリストに愛されている一人一人。各器官。
その感覚が連なって、全世界にキリストの「からだ」なる教会として広がっていくのではないでしょうか。


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