2009年06月21日

賢い娘と愚かな娘のたとえ話 マタイ25:1〜13

今日のたとえ話は、たとえ話の中でも、受け取りようによっては、ちょっと怖いような、ある意味、危ないたとえ話から取り上げてみました。今日は、単純に、1つのたとえ話の意味をお話するのではなく、その読み方、コツまでつかんでもらえればなと思っています。


25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 
油を用意していた5人の賢い娘と、油を用意していなかった5人の愚かな娘。
クリスチャンと言えども、5人は救われ、5人は取り残される…
そう読み取っても不思議でもない、そんな箇所です。
 
皆さんどう思いますか?
このたとえ話を皆さんは、どのように理解するでしょうか。
 
クリスチャンと言えども、5人は救われ、5人は取り残される…
だとすれば、「油」の意味するところは何でしょう。

ある人は、信仰というかもしれません。ある人は、聖霊というかもしれません。
ともしびの灯りは、信仰の灯りで、油は聖霊のこと。
1度は信じてクリスチャンになっても、聖霊が注がれていなければ、熱心に祈り、御言葉にしたがっていなくては、信仰のともしびも、やがて消えてしまう…。
クリスチャンでも、最終的に救われる確立は50%。5分と5分。
5人は救われ、5人は取り残される…
 
どうでしょう。考えてみてください。
この解釈は、正しいでしょうか、間違っているでしょうか…。

なあんて言うからには、答えは、もちろん間違っているんですけれどもね。

でも、そう誠しやかに語られたら、そうなのか…って思ってしまいません?
これは、実際に、今までのキリスト教会の中にあった解釈の1つです。
でも、そこに、違和感を感じてほしいんです。

確かに、このたとえ話だけを読んだら、文章的な意味では、そう解釈できる話でもあるかもしれません。

でも、まず、ここがポイント。
どんな文章でも、前後の文脈によって、その言葉の意味は決まります。これは、聖書に限らず、いかなる文章を読み取る上でも鉄則なんです。
聖書も同じです。必ず、前後の文脈があります。
どんな状況で、何について語られているのか、その場面、背景から、読み取るのが自然ですよね。そうしないと、イエス様が考えても思ってもみなかった、深い、深い、たとえ話の解釈も生まれてきてしまうんです。

さらに言えば、聖書全体、イエス様が全生涯、命を賭けて伝えたかったこと、愛と赦し、十字架と復活、信じる信仰によって救われる…この福音の本質を踏まえて読み取ることなんです。

もうその瞬間に、クリスチャンといえども、5人は救われ、5人は取り残される…、この解釈は間違いなく違ってきますよね。
むしろ、あのイエス様なら、なんとかこの愚かな5人を助けようとするに違いない、いや、この愚かな5人ほど受け入れようとするに違いない。
何かがおかしい。イエス様が言いたいことは、別にある。
そういうセンサーを、ぜひピピっと働かせてほしいんです。

そもそも、たとえ話は、決して、わかりやすく語ることが目的でもないんですね。
イエス様の周りには、パリサイ派、律法主義者、あるいは祭司たち、イエス様の説く福音に反対する人たちも大勢いたわけです。そういった人たちからの余計な反論、攻撃をかわすため、わざと真理をぼかしてもいるんです。

「耳のあるものは、聞きなさい」

わかる人にはわかるように、でもイエス様の考え、福音に反対する人、本気で聞くつもりのない人には、ぼやけていて話が分からなくなっているわけです。

そこに隠されたイエス様が本当に語りたいこと、表面的な字面ではなく、その心を知る、それがたとえ話の味わいなんです。
 
では、このたとえで、イエス様は何を語りたかったのか、文脈、聖書全体から、イエス様の心に迫ってみましょう。

もともと、前の24章から、世の終わり、終末について語られている場面です。

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

これが、話の始まりです。

世の終わりが近づく時、いろいろな患難が起こる、にせ預言者やにせキリストが出てくる、反キリスト、反福音勢力が起こってくる…

24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

みなさん、ここ注意してくださいね。
にせキリスト、にせ預言者って、自分のこと、なんと言うか知っています?
まさか、正直に、私は偽者です…なんて言わないですよね。
反キリストの名前も。実は「キリスト」なんです。そのキリストの名の下、正当な預言者、伝道者、牧師として活動するわけですよ。

で、何をするの?福音に反対すること、福音の真理を曲げてくるんです。

信じるだけでは、救われない。
5人は救われ、5人は取り残される…
だから伝道しなさい、人を集めなさい、そして一生懸命、献金しなさい…。

本当に、そういう話にもなりかねない。いや、実際、起こっているのかもしれません。
キリスト教も、本物か偽者かもわからなくなるような、混乱の時代が来るというわけです。
でも、その最後の最後に、けじめとして、本物のイエス様が、再び来られる…というわけですね。

ある日突然、その時には、一人は引き上げられ、一人は取り残される…。
またまた、怖くなるような話が出てきますが、これがクリスチャンだけのことを指しているのではなく、この世の全体での話だということはわかると思います。
これも決して1対1、確率が50%という意味合いではありません。
この時、世にいるクリスチャンは、みな引き上げられます。
しかし、世の終わりは、ある日突然、思いがけない時、でも、いざ来るとなったら、瞬く間にやってくる…そういう話なんです。

さて、そんな話の中に、このたとえ話も出てきます。
結論を先に言ってしまえば、ここでイエス様がいいたいのは、

25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

50%が問題ではないんです。
混乱の時、終末の時を、意識していなさい。警戒していなさい。目を覚ましていなさい。
ここが、イエス様の一番言いたい結論です。

イエス様が世の終わりに関して、1つは、瞬く間にやってくるということ、もう一つは、その来るのは、遅くなるということだったようです。
このたとえ話でも、花婿の到着が遅くなり、夜中になっています。

実際に、エルサレムの教会では、イエス様は、もっと早くに来ると思っていたようです。
だから、持ち物や土地を売っては、みなと分配し、共有していたことが、使徒の働きには出てきます。よもすると、理想的な、美しい教会の姿として語られたりもします。

ですが、土地を売ってしまうということは、畑で生産する能力もなくなるわけですよね。
ただ、ひたすら貯金を食いつぶしていくようなものです。

ところが、いつまでたっても、イエス様はやってこない。
やがて、エルサレムの教会では、経済的に困窮していくようになってしまうんです。本当に、物質的な油切れを起こし始めたんですね。
そこで、パウロは各地方の教会へ、一つの募金を募り、エルサレムの教会を経済的に支援していたようです。

かつて、日本のキリスト教会でも、また韓国でも、強力な指導者が、私は夢を見た。夢でお告げを受けた。何年何月にイエス・キリストが再び来られる…そう予言して、話題になったことがありました。

それを信じた信徒たちは、みな仕事をやめ、財産を売り払い、すべてを献金して、山に登り、ああ信じない人たちは愚かな娘たちのように取り残されるのかもしれない、でも、私たちは大丈夫、万全の用意をしたつもりで、イエス・キリストを待ち望むわけですよ。

ところが、こないんです。来るわけもないんです。
来るとしたら、その指導者に、損害賠償の裁判がやってくる。
正しく理解していないと、こういう話も、起こるんです。

その日、その時は誰も知らない。わたしも知らない…イエス様ですら知らないですもん。
なんで、人間様ちゃんが、知ることになるんでしょう。
いや、むしろ、遅くなる。
全世界に福音が届けられ、一人でも救えるうちは、最後の最後まで、ぎりぎりまで粘る。
これがイエス様の心です。

でも、遅くなればなるほど、いつ来るんだろうか…、
本当に来るんだろうか…、
だんだんと世の終わりに対する意識も薄れてしまうのも、私たちかもしれません。

25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

もし、この油が、信仰か、聖霊だとするならどうでしょう。
信仰や聖霊を分けてあげられない。そういう意味なら、ありうるかもしれません。
ですが、信仰や、聖霊って…、店に行って、買いに行くようなものなんでしょうか?
その瞬間、話の筋が見えなくなります。

大体、花嫁の友達を呼んで、夜遅くまで、花婿を出迎えるために待たせているわけでしょ?
普通だったら、ともしびも、油も、この家の主人、つまり花嫁の父親が、用意すべきものですよね。
家の中にも当然、ランプや油があるはずなんです。
なのに、どうして家の主人に求めるのではなく、わざわざ店へ買いに行かせたんでしょう?

私に言わせれば、この賢い娘たち…、これがクリスチャンだったら、相当、意地悪な娘のように思えてしますよね。
やっぱり女には裏があるゆーか、女は怖いぜよ…そういう話にもなってきそうです。

しかも、この後、愚かな娘たちが、油を買って、戻ってくると、宴会が始まっていて、扉が閉められてしまっているんですよね。

25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

いいですか。
自分の家の娘と結婚する花婿を迎えるために来てくれた人たちですよね。
しかも、わざわざ、夜中に油を買いに行ってきたのに、間に合わなかったとはいえ、入れてもらえない…。この主人も、ずいぶん冷徹と言うか、薄情だと思いません?

イエスさまのたとえ話の中には、当時、よくある話を語りながら、そこにありえない、不可解な点が出てきます。
実は、ここがイエス様が言いたいところ、イエス様のオリジナルになっている部分なんです。

本当に、世の終わりが来る時、わたしが来る時、それは一瞬の出来事、
実際には、油を売ってる暇もなければ、油を買いに行ってる時間もありません。
その日、その時は誰も知らない。瞬く間に来る。

だから、目を覚ましていなさい…。これが、言いたいんです。

さて、私たちにとっての終末。皆さんの中では、どういう位置づけになっているでしょうか。
世の終わりというと、まだ遠い先のように感じてしまうかもしれません。
でも、私たちにとって、自分の死を迎える時…これも一つの小さな世の終わりなんです。
もちろん、この世はそのまま続くかもしれませんよ。
でも、自分にとっての、この世の時が終わる、それが死という瞬間なんですよね。

私も、まだ30年くらいは生きるつもりでいますけどね。
でも、帰り道、車ではねられて、死んでしまうのかもしれない。
この世での「死」は、誰にでも間違いなくやってきます。厳粛です。
それは、今日かもしれないし、30年先かもしれない、わからないわけですよ。

私たちは、信仰によって、永遠の命を受けています。
信じる信仰によって、間違いなく、天国に行きます。
でも、この世での命が、いつ終わりになってもいいように、いい意味で緊張感を持って、「今」というこの瞬間、瞬間を、どれだけ大切に生きているでしょうか。
それが油を用意しているか、どうか…ではないでしょうか。

いざ、その日が来てから、いや、もうちょっと待ってくださいとか、
あ、これをしとけばよかったとか、まだやってなかったとか、
ちょっと店に油を買いに行ってきますから…なんて時間は、もうないんですよね。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

あえて、賢い娘か、愚かな娘かといわれれば、私たちは「愚かな娘」なのかもしれないですよね。
でも、実際に、そんな愚かな娘にもかかわらず、神の恵みと憐れみのゆえに、賢い娘のように天の御国に迎え入れられているんです。
これが福音の真理です。

ですが、一方で、本当に長年、救い主を待ち望んでいながら、迎えることができていなかった人たちがいました。
それが、パリサイ派や律法主義者、そして祭司たちです。

ここに、福音の不思議な逆転があります。
おそらく祭司たちがこのたとえ話を聞いたならば、自分たちこそ「賢い娘」のつもりでいたことでしょう。
彼らは、ある意味、本当に待ち望み、用意も万端に整えているつもりだったんです。
ところが、いざ実際に、救い主が来たら、彼らはイエス様のことを迎え入れられなかった。
それは、「愚かな娘」のように思っていた遊女、取税人のような罪人たちのことを、イエス様が赦し、愛したからですよね。
それで祭司たちは、その救い主を十字架に付けて、抹殺すらしてしまうわけです。
逆に、そんな彼らから、「愚かな娘」同然に思われていた罪人たちが、救い主を受け入れ、天の御国に入ろうとしていたわけです。

実に、愚かな娘と、賢い娘…、表裏一体、紙一重なんです。
本当に、救い主を迎える気持ちがあるかどうか、それだけでしょう。

 祭司、律法主義者の人たち…。
 あなたがたは、自分が賢い娘かのように思っていますが、
 実は、愚かな娘になっていませんか。
 今は、裁かれないつもり、自分は用意ができているつもりでいますが、
 実際に、わたしを迎え入れようとはしていないではないですか…。
 本当に、この世の終わりが来た時、あなたがたを受け入れるのは誰なのでしょう…
 これからわたしは、あなたがたのためにも十字架を背負います。
 どうか愚かな娘のように閉め出されることがないように、わたしを受け入れてください。

 これが、イエス様の心です。

私たちも、ついうっかりすれば、「賢い娘」になったつもりで、「愚かな娘」になっているようなこともあるのかもしれませんよね。

でも、私たちは、基本、愚かな娘、放蕩息子なんです。
その愚かな娘、放蕩息子が家に帰る時、父は喜んで迎えてくださる…これが福音の本質です。
そんなイエス様の心を心に蓄えて、今日という日を歩んで生きたいですよね。


posted by holyhope at 23:14| Comment(4) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。初のコメントです。

大阪市で、牧師をやっています。

去年、コロサイ1:6に心を留めさせられ、それから、「神の恵み」を知ることに自分なりに焦点を当ててきました。

その後、マタイの「山羊と羊のたとえ」の問題は解決したのですが、「5人の賢い娘と、5人の愚かな娘」の、従来の解釈がおかしいと思えてきました。

つまり、油=聖霊、として、クリスチャンでも残される人がいる、という解釈は、「恵みによる救い」に反対するのでは?と思うようになったんですね。
ある意味、「行いによる救い」になってしまうかもしれない。
油=聖霊を求めよ、求めなければ地上に残される、みたいに。

まだ、人に説明できるほど消化し切れていませんが、同じ思いの方がおられたことに、感謝しています。
Posted by かずしパパ at 2009年09月29日 14:54
かずしパパさん。コメントありがとうございます。

特に基本まじめで働き者の日本人にとって、クリスチャンといえども、なかなか無条件の恵みを無条件で受け取りきれていない、
十分、理解もしきれていない部分があるように思います。
ただで受けるのは「悪い」と思っちゃうんですよね。

その感覚が根底にあるので、実は聖書の解釈をも変えてしまって、時に福音から外れたような解釈すら生んでいるようにも思います。

そのような解釈に出会った時には、安易に鵜呑みにせず、
あれっ、おかしいな…、
何か他に言いたいことがあるんじゃないだろうか…と探っていくことだと思うのです。

神の言葉はどんなに正しくても、
解釈するのは、あくまで人。
自分自身も含めて、人には間違いがある…
その視点を忘れずにいたいものですね。

何よりも、神様からの最大の恵みであるイエス様の心を大切に伝えていきたいものですよね。

「初代教会の限界」も、ぜひ読んでみてください。
Posted by りっきー at 2009年10月03日 15:21
終わりの日には偽キリストもキリストを自称して現れる。そんななか、もし本当のキリストがこられたらどうやってその人を見分けることができますか。空から来るのですか。それとも何か奇跡を見せるのですか。見分け方についての考え方を教えてください。
Posted by 牧師 at 2011年04月20日 11:29
コメントありがとうございます。

聖書が言っているのは、再び主イエスが来られる時は、それは「いつ」「どこで」というものではなく、ある日、突然の出来事です。その時、信じる者すなわちクリスチャンたちは、たちまち空中に集められます(Tテサロニケ4:17,18)。

私たちが見分けるのではなく、イエス様の方で、信じる者を見分けて、集めてくださるというわけです。それも瞬間的な出来事のうちに…です。ここがポイントです。

ですので、今のこの世にありながら、つまり時間的にゆとりがある(終わりではない)状態にありながら、「わたしゃ、天から雲に乗ってやってきた」だとか、何か奇跡的な事を起こして「私こそ再臨のキリストだ」とか、人々に語る人がいるとすれば、それは全て偽キリストです。
同様に、「ここにいる」「あそこにいる」「この前、東京駅で見た」というような形では、キリストは来られないということを明確にしていただければと思います。

マタイの24:30などには「天の雲に乗って」という表現が出てきますが、私たちがこの世の次元で考える物理的な「雲」に乗って降りてくるのではなく、もう想像を超えた全く別の次元で起こるような現象をこのような表現しているのかもしれません。

ですので、本当にこの世の終わりの時、再臨の時が来てみないと、「わからない」という方が正解かもしれません。

しかし、何がどうあっても、「主の御名を呼ぶものは、みな救われる。」(ヨエル2:32,使徒2:21)
これが一番大切です。

今回の東日本の震災では、多くの方の家や財産、また命が失われました。
多くの悲しみや傷を負い、実際に、あの地震や津波の脅威を体感した時には、まさに「この世の終わり」かのようにも感じたと思うのです。

ですが、決して、この地震や津波そのものが、この世の終わりではありません。

今回の規模は何百年に一度かの大規模なものでしたが、この日本では、この世のはじめから地震も津波も起きてきた国なのです。

しかし、このような不安、恐怖に乗じて、この震災が、さも「この世の終わり」のしるしかのように、まして自分がキリスト(救世主)かのように説くのだとすれば、それは全くの偽りです。

こうした惑わしにも注意を注いでいきたいですよね。
Posted by りっきー(こと竹下) at 2011年04月23日 20:33
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