2009年10月11日

初代教会の限界 使徒の働き4:32〜5:14

初代教会の限界 使徒4:32〜5:14
みなさん、おはようございます。

今日は珍しくスーツ姿でして、どうしたんだろう〜とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、
今日この後、例の聖地旅行の営業で、チャペル・オブ・アドレーションに営業してこようと、
もくろんでいるわけです。
先ほどから、「馬子にも衣装」だとか冷やかされちゃっているんですが、
私も仕事の時には、ちゃんとスーツも着ているんですよ(笑)。

さてさて、普段、私は、いくつかの教会をめぐっているのですが、最近あらためて、この聖望キリスト
教会の良さと言うか、違いも感じているところです。

ここでは、いつも普段着で礼拝させてもらっていますが、それには私なりのこだわりみたいな
ものがありまして、神様の前で、格好をつけない、そのままの自分…、
それはある意味、罪人としての自分かもしれないですが、
決して、飾ることのない素の自分の姿で、神様の前に出て礼拝をしたい、
また、そのありのままの自分を愛してくれている神様を伝えたい…
そんな思いから、普段着でメッセージもさせてもらっています。

他の教会では、そうもいかず、やはりこのようなスーツを着ていくんですけれども、
そういったわけで、普段着で礼拝することが赦されているというのは、私にとって、
大変、ありがたい話なんです。

総会の時に、皆さんが教会堂のイメージとして、多く掲げられていたひとつには、
「家」ということ、あるいはこの家族的な交わり、雰囲気を大切にしたい…という
意見だったと思います。
 
普通、会堂建設というと、多かれ少なかれ、もめるというのが常でして、それは
どのくらいの予算の建物を立てるのか、そのお金をどうするのか、どのくらい借金して、
月々いくら献金しなくてはならないとか…、それは単にお金の問題ではなくて、
その献金が負担に感じる人もいて、会堂が大切なのか、それとも人が大切なのか…、
何を大切にするのか…、ぐちゃぐちゃくちゃと、一悶着あったりするものです。

静岡の母教会でも、まだ小さかった時ですが、そういうことがありましたし、
ほかの教会に通っている時も、そうでした。
 
それに比べると、聖望教会は、やっぱ違うよな…と、つくづく思うんですよね。
決して建物自体が目的ではなく、この交わりを維持、継続、発展させていくために
必要な建物…であって、逆に言うならば、この交わりを損なうような会堂建設では
あってほしくない…という共通の認識がすでに出来上がっていると思うのです。

そこで今日は、そんな皆さんと一緒に、教会について考えてみたいと思うのですが、
教会の初期の頃に起きた、アナニア・サッピラ夫婦の事件を題材にしながら、
「教会のあり方」ってなんなんだろう…ということを、皆さんと一緒に考えて
みたいんです。

皆さんだったら、教会で起きたこの事件をどのように考えるでしょうか。。。

単純に受け止めてしまうと、アナニア、サッピラという夫婦が、献金を誤魔化して、
神に打たれて死んだ…ということになろうかと思います。

多くの聖書注解でも、このアナニア・サッピラ夫婦の献金のあり方を問題視して、
教会の必要に応えず、自分たちのために一部を残しておいたのは罪が重いとか、
一部を残しておくことは自由だけれども、神の前に偽りがあったことが問題だったとか、
とにかく、この夫婦がいけない、この夫婦に罪があったというのが主流の意見なんですね。

でも、皆さんだったら、この事件を見たときに、どのように考えるでしょうか。。。
別に、間違えてもいいんです。「自ら考える」ということが、今日のポイントでも
あるんです。

正直、私は納得できないんですよね。
アナニア、サッピラ夫婦に偽り、問題があったのは確かかもしれません。
でも、その時の、ペテロの対応に問題はなかったのか、周りにいた教会の人たちに
問題はなかったのか…、その視点にかけているような気がします。

そこで、これから皆さんにお話するのは、少数派の解釈になるわけですが、
ぜひ、皆さんにも、どうなんだ?ということを考えてもらいたいと思うんです。

さて、イエス様が天に昇られて、弟子たちを中心に宣教が開始され、
そこに信じる人たちが群れとなって、そこに初代の教会が形成されるようになってきた
わけですね。

 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
 4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
 4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

さあ、皆さんはこの初期の教会の姿をどのように思うでしょうか…。
ある意味、理想的といえば理想的。順調といえば順調。
美しい教会の姿のように見えるかもしれません。

…が、これを、もし私たちが真似したら、どうでしょうか。正直言って、続きますか?
地所や家、持ち物を売っては、それを全部、教会に捧げちゃうんです。
余っている土地ならまだしもね、家を売ったら、その後、住む場所は、どうするんでしょうね…。
献金されるものを分け合いながら、共同生活することになるわけでしょうが、
バルナバにいたっては、畑を売っています。

 4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
 4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

そもそも「畑」って何でしょう…。作物を取って、収穫を得る。仕事、収入源、これが畑です。
畑を持っていれば、そこで採れた作物を食べることもできれば、作物を売って現金収入を得る
事もできます。

ところが、自分は畑を持っているからといって、それを売ってしまうんですね。
つまり、仕事、収入源を断ってしまう。確かに、畑を売れば、その時は、まとまったお金に
なるかもしれません。でも、それ以上の収入、仕事は失ってしまうわけですよね。

つまり、貯金を切り崩して、生活していくようなものだったわけです。
事実として、この後、エルサレムの教会は、経済的に困窮していくことになります。
それでも、誰も疑わず、「皆、心と思いを一つ」にしてしまっていたんです。
悪く言えば、誰ひとりとして「考えていなかった」んです。
そんな時も時に、このアナニア・サッピラという夫婦の事件が起きてしまったわけです。

 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
 5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

彼らは、なぜ代金の一部を残しておいたんでしょう…。
もちろん私利私欲のために、自分たちのものにして置きたかったのかもしれません。
でも、もしかしたら、将来に不安を感じはじめていたのかもしれませんよね。
このまま売っては教会で使い、売っては教会で使いしていけば、絶対に持たなくなる…
そう考えたのかもしれません。

だったら、そういえばいいじゃん…って思うでしょ。
でも、使徒をはじめ、周りのクリスチャンも、みんな「心と思いを一つにして」たんですよ。
「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず…」、誰一人言わないんです。
いや、言えない暗黙のルールが出来上がっていたんです。
「すべてを共有にしていた。」んです。

そんな中で、自分だけ、これは自分のものだと言えますか? 言えないですよね〜。

とにもかくにも、そこで、アナニアとサッピラは、夫婦で考えたわけですよ。
まあここは一つ、黙って少し残しておいて、一応、全部ってことにしておくか。。。
それで、それを全てかのように捧げたわけです。

みなさん、どうでしょう。どう考えますか。

いやいや、神様の前に欺きがあってはならない。それは罪だ。
ペテロだって、そう言っているじゃないですか。
だから、神に打たれて、死んだんじゃないですか…?

うーん。なるほど…。やはり、そうなのでしょうか。
それでは、ペテロさんの発言を見てみましょう。

5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、
聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
 5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。
なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

なるほど。確かに言っていますね。さあ、みなさん、どう思います…?
考えてくださいね。それが今日のテーマです。

ペテロが、もしここで正しく神の導きで神の言葉を語っているなら、
アーメン、そのとおりでいいんですよ。
でも、ペテロ自身の思いで、ペテロの言葉だったらどうでしょう。
ここにペテロが、「聖霊によって」とか「聖霊に満たされて」とか書かれていないんです。

ペテロは、あくまで人です。人だから、間違いもあります。
聖書に書いてあるから、聖霊の導きだから、神の教会だから、指導的な立場にある人だから
間違いない…というのは、大きな間違いなんです。
多くの場合、クリスチャンは、「聖書は神の言葉」、正しいことが書かれていると考えて
読んでいると思います。それはそれである意味、正しいんですが、それがゆえに、この
ペテロの発言まで、正しいと思い込んで、広く読まれてしまっている箇所なのかもしれません。

逆に、人には、間違いがある。…これも聖書の指し示している正しさです。
だとすると、本当に正しい発言かどうかは、検討しなくてはいけないですよね。

もしここでペテロが言うとおり、本当に自由に献金すればいいということが、
教会の中に共通理解として広く浸透していたとするなら、アナニアも誤魔化す必要も
なかったはずです。
アナニアは、ただ自分が捧げたいと思った分を捧げたというだけの話です。
何の問題もなかったはずですよね。
ただ捧げたいと思った分を、捧げただけ…ですよね。

でも、そうは捉えていなかったし、だから、ペテロも咎めたわけでしょ。
ここに矛盾があります。

そもそも、ペテロだって、サタンに心奪われ、イエス・キリストを三度知らないと
いったことだって、あったんですよね。
あなたは人を欺いたのではなく、神を否定したのじゃ〜ってなものじゃないですか。

でも、そんなペテロに、三度「わたしを愛するか…」「わたしの羊を飼いなさい」
そう語りかけてくれたのは、誰ですか。
イエス・キリストです。この方こそ、神です。

この時のペテロの言葉に、そんなイエス・キリストの心はあるでしょうか。
イエス様だったら、アナニアになんて語りかけたでしょう。
いきなり鬼の首でも取ったかのように、ばっさり切りつけるでしょうか。
ペテロは赦されて、アナニアは赦されない…そんなことはないですよね。

アナニアのためにも、十字架を背負う…それがイエス・キリストです。
そのイエス・キリストの十字架のゆえに、神の裁きは、すでに終わったはずですよね。

アナニアにも罪の告白、悔い改めは必要かもしれないですが、これが、もし神の裁きに
よって死んだのだとすると、私たちの信仰、信じる信仰による救い…は否定されます。

でも、実に、ここに神が打ったとか、主の使いが打ったとも、書かれていないんですよ。
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。

ペテロが言い放った「人ではなく、神を欺いたのだ」。
アナニアは、この恐ろしい言葉によって、ショック死してしまうんです。
大使徒ペテロに、いきなりばっさり切られちゃったものだから、グサっと来ちゃったん
ですよね。

その時、周りにいたクリスチャンたちの反応、態度は、どうでしょう…。
残念ながら、「ペテロさん、それは、おかしいんじゃないですか」といえる人たちも
いないんです。
むしろ、教会の人たちは、「非常な恐れ」、恐ろしさのあまり、誰も何も言えなくなって
しまったんです。

そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
 5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。

どうでしょう。皆さん、おかしいとは思いませんか…?

旦那さんが死んだのに、奥さんが知らないままなんですよ。
奥さんがやってきても、皆、黙ったままなんです。
聖望教会の人たちなら、絶対に黙ってられない…、サッピラを見つけた瞬間、一斉に
話し出そうな気がするじゃないですか。
でも、奥さんが知らないうちに、もうすでに葬っているんです。

この時の教会の異常さが分かると思います。これでは正しいも何もないですよね。
でも、そういった異常さを見失わせてしまうものがあるんですね。
聖書に書いてあるから、聖霊に満たされているから、使徒の教会だから、間違いない…
そういう先入観です。

しかも…、
5:8 ペテロは彼女にこう言った。
「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」
 彼女は「はい。その値段です。」と言った。

いいですか。もうすでに人一人、死んでいるんですよね。それも、ご主人ですよ。
地所の値段だとか、欺いているとかいう前に、伝えなきゃいけないことってありますよね。
この時のペテロに、愛と哀れみは、あるでしょうか…。

5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。
「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。
 見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」

人一人の命の重さすら、見失っているんです。
迷える一匹の羊を探し出す羊飼いの心、キリストの心は、ここにあるでしょうか。
この時のペテロ自身、本当に聖霊の導きの中にいたと言えるでしょうか。
実は、夫婦二人から、自分が試されて、腹を立てただけとは言えないのでしょうか…。

5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た
青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

恐れは恐れでも、常にあるべき神様に対する畏敬の念ではなく、常にあらず、非常な恐れです。
まさしく恐怖が教会を支配したんです。

アナニア、サッピラも、ペテロも、周りにいたクリスチャンも、ユダヤ人です。
小さい時から律法主義的な教育によって、罪を犯したら神にやられる、神に裁かれる…と
散々聞いてきた人たちです。
それがイエス・キリストによって、その世界から開放されて、神の愛と赦しの世界に
たどり着けたと思ったら、急転直下、本当に死ぬほど怖い言葉を投げかけられたわけ
ですよね。

でも、これがペテロをはじめ使徒たちの限界であり、初代教会の限界だったわけです。
アナニア、サッピラ夫婦にも確かに問題はありました。
でも、ペテロにも、周りにいたクリスチャン、教会にも問題があったんです。

無理な教会運営のあり方、福音理解の未熟さ、指導力の限界、始まったばかりの初代
教会の中で、いろんな無理や限界が重なって起きたのが、このアナニア・サッピラ夫婦の
悲しい事件であったのではないでしょうか。

もしこれを正しい、間違いない、聖霊に導かれた理想的な教会と思って受け止めてしまうと、
とんでもない間違いにもなりうるわけです。

そんな時に、おかしな現象が起きたんです。

5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
 5:13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
 5:14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

使徒たちの手によって、しるしや不思議な業が行われ、尊敬もされ、主を信じる人も増えて
いったにもかかわらず、ひとりもこの交わり=初代教会には加わろうとはしなかったんです。

不思議ですよね…。
教会が、イエス・キリストを見失った瞬間に、主を信じる人は増えても、人々はその輪に
加わらなくなったんです。
教会とは、「イエス・キリストの下に集まった人の群れ」のことを言います。

ペテロも人です。アナニア、サッピラ夫婦も、その周りのクリスチャンも、人です。
その人の集まりに、間違いや問題が発生しないかというと決してそうではない。
人だから、多かれ少なかれ、間違いや失敗もあるんです。

でも、そういった人間的な限界を超えて、聖霊、神様は救いの御業を進めていったわけです。

初代教会では、この後も、様々な問題や失敗も起きる中で、やがてパウロのような聖書に
精通した人物も起こされ、少しずつ学びながら改め、成長していく姿が、この使徒の働きでは
描かれています。決して、はじめから理想的で、完璧な教会ではなかったんです。

ルカも、それを、いいも悪いもなく、ただありのまま、事実を事実として描いたような気がします。
だから私たちは、その失敗からも学ぶことができるわけです。

聖霊に導かれているから、使徒だから、神の教会だから、初代教会だから、間違いはない…
ということは絶対にありません。
いろんな人が集まれば、様々な問題や失敗も必ず起きてきます。
それは、聖望教会も同じです。

その時にどうするのか…。
決して、ただ闇雲に心を一つにしていくことだけが、能ではありません。
決して、無理して、我慢して、全てを捧げ、犠牲を払っていくことでもありません。

自分たちの限界を認めながらも、自分にできることを、忠実にこなしていくことなんですよね。
私たち一人一人が、この集まりを維持継続していくために、今、群れに何が必要で、
自分には何ができるのか、その都度、その都度、考えていくことなんです。

その時に大切なのは、あのイエス様だったら、どう考えるだろう…
イエス様だったら、なんと言うだろう…
あのカルバリの十字架を背負い、今も生きておられるイエス・キリストは、
今、この状況を、どんなふうに見ているだろう…

そんなイエス様の目、イエス様の心で考える…
この視点を、私たち一人一人、忘れずにいたいものですよね。

聖望キリストの教会の基本精神の第一条には、こうあります。
1. この教会は、特定の教派・教団に属さず超教派であり、リーダー、主宰者は主イエス・キリストである。

これが掲げれていることは、本当にすばらしいことだと思うのです。
これは本当に大切にしたいですよね。

教会とは、「イエス・キリストの下に集まった人の群れ」のことを言います。
最後に、エペソ3:14〜21を皆さんと分かち合って、終わりにしたいと思います。

こういうわけで、私はひざをかがめて、
天上と地上で家族と呼ばれる、すべてのものの名の元である父の前に祈ります。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて
豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。
アーメン。



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