2011年01月31日

この岩の上に… マタイ16:13〜28

みなさん。おはようございます。
今年、はじめてになりますね。1月ももう最後の週となりまして、いまさら、あけましておめでとうという感じではないんですが、みなさん、新しい1年をどのように迎えられたでしょうか。

前回、年末のメッセージでは、初日を見に行くという話もさせていただきましたけど、今年も行ってきました。
やっぱり初日はいいですよ。なんか好きなんですよね。
真っ赤に燃えた太陽が昇ってくる瞬間に、美しさと同時に、その熱、エネルギーを感じるわけですよ。
これは何も、初日に限ったことではないんですが、私たちは、太陽をはじめ、この自然界のあらゆる恵みの上に、今日も生かされているんですよね。
創世記の1章では、はじめに神が天と地とを創造された…と出てくるわけですが、このね、「はじめに、神が…」、この「はじめに、神が…」あって、今現代にいる私たちも、本当に生かされているんですよね。
私たちの努力や行ない、何をどうして生活するか…、これらも重要なことではあるんですが、でも、それよりも何よりも前に「はじめに、神が…」、はじめに、神様からの恵みがあるんです。聖書は明確に、そのことを宣言しているんですよね。
今年もね、早速、実生活の上で乗り越えなくてはならない課題があがっていたりするんですが、大丈夫、光は輝いている。そんなことを実感させられた次第です。

さて、今日のお話は、ピリポ・カイザリアでの出来事。
ピリポ・カイザリアというのは、イスラエルの北端になりまして、ヘルモン山のふもと、言うなれば、イエス様の宣教の折り返し地点となります。

この場所は、ヘルモン山の雪解け水が湧き上がっている場所でして、イスラエルには珍しく水が豊富で、糸杉のような木々の緑も豊富なところ、ヨルダン川の源流となっているような場所です。

そこに、ヘロデ大王の息子ピリポが町を作り、ローマ皇帝カイザル(英語でいうところの、ジュリアス・シーザーになるんですが)、両方の名前を取りまして、ピリポカイザリアという街になっていました。
今では遺跡のみが残っているんですけれども、この街の中心には、高さ100mくらいかな、岩というより崖がそびえていまして、そこにギリシアの神様「パン」が祭られ、神殿が建てられていたんですね。

言うなれば、他の神々、偶像礼拝中心の街です。そこでイエス様が弟子たちに尋ねられているシーンです。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
まあ当時の人たちは、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、いろいろなことを言っていたようですが、

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ここでペテロは、「生ける神の子キリスト」だと告白するわけですが、ただ「神の子キリスト」ではなく、「生ける神の子」、岩に刻まれたような死んだような神ではない、あなたこそ、正真正銘、生きとし生ける神の子、キリストである…ということなんです。

もちろん、このとき初めて、ペテロや弟子たちがキリストを信じたというわけではないと思います。イエス様に、何か特別なものを感じたからこそ、これまで彼らはついてきたわけでですよね。でも、彼らもユダヤ人ですから、実際に、神が人になる、あるいは人を神として信じることは、ある意味、恐ろしい、違っていれば死にも値する、怖いことでもあったはずなんです。
ですが、この直前にも、7つのパンを4千人に与えていく奇跡を目の当たりにしたわけですが、そんなイエス様が成すことを見、また人格的な交流もありながら、この方こそ、100%人でありながら、100%神、まさに天地万物を創り、荒野でマナを降らせ、人々を救い、人々を生かす神ご自身であるという確信へとなっていったわけです。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ペテロもそうですし、私たちもまたそうですが、私たちの信仰というものも、私たちが信じるようで、実は「はじめに、神が…」なんですよね。
はじめに神が、天と地とを創造された。はじめに神が、イエス・キリストをお遣わしになる。はじめに神が、聖霊を送ってくださる。実に信仰というものも、私たちが信じているようで、はじめに、神が与えてくださっている恵みなんですよね。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ここでは、聖書が書かれたギリシア語と、当時、実際に話されていたアラム語が混ざっているので、ちょっと、ややこしくなっています。

先に出た「バルヨナ」というのはアラム語で、ヨナの子という意味、シモンが本名です。
ぺテロは、あだ名なんですが、これは、ギリシア語に訳したもの。
アラム語では ケパ…、岩という意味です。パウロは、手紙の中では、よく「ケパ」と呼んでいますが、これが本来のアダ名なんですね。
イエス様も、当然、このとき、アラム語でしゃべっていたはずですから、

あなたは、ケパ、岩だ。この岩の上に、わたしの教会を建てる。これが順当なところだと思います。
ここからが、今日の本題なんですが、先ほどお話したように、このピリポカイザリアには、崖のような、本当に巨大な岩があるわけです。

そこで、あえて、イエス様から、あなたは岩だと言われたとしたら、どうでしょう。
ぜひ、高さ100mはあるような巨大な岩が目の前にあることを想像してみていただければと思うわけですが、それに比べたら、人間なんて小さな存在です。
自分の何が岩だって言うんだろう??そんな感じもしませんか?

ぺテロというと、おっちょこちょいで、イエス様の前では、よくたじたじになっていますが、このあとも失敗して、「下がれ、サタン」まで言われているんですよね。

でも、イエス様は、そのぺテロに、なぜ、岩だと呼んだんでしょうか。
これが、今日のお題です。

またね、竹下が、妙なところに、疑問を持ち始めたって思われちゃうかもしれないんですが、どうして岩だったと思います?
そんなこといったって、イエス様が、岩だって呼んだんだから、そうなんでしょう…といわれてしまえば、そうなんですけどね。

もともとの名前、シモン…というのは、聞くもの。従順である。という意味です。
これも、なかなか、いい名前でしょ。
でも、イエス様は、そのシモンという名をおいてまで、あえてケパ、岩だと呼んだ。
そこには何かしら意味もあるような気がするじゃないですか。

たとえばですね、ぺテロはそもそもガリラヤの漁師ですから。
案外、頑固者だったのかもしれないですね。人の言うことなんか聞かない、思ったことはやってみる、やってみないと気がすまない、お前はシモンじゃないよな〜、ケパ、岩だよ、なんてアダ名がついたんなら、わかるような気がするじゃないですか。
これは全くの私の想像ですが、アダ名って、そういう風につくんですよね。

普通に解せば、キリスト信仰ということになるんだと思います。
でも、ぺテロが岩のような大きく固い信仰の持ち主だったのか?

…というとですね、そうでもないような気がするんですよね。
聖書では、どちらかというと揺らぎ、迷い、逃げるぺテロの姿が描かれているわけです。

荒れた湖を歩いてきたイエス様に、私も傍に行かせてくださいといって…湖の上を実際に1歩でも2歩でも、歩いたんですよ。でも、怖くなって、ドボンと沈んで、溺れちゃう。
またイエス様が捕らえられた時、それでも、がんばって、大祭司カヤパの官邸までついて行くんです。でも、そこで、三度、イエス様のことを知らないといってしまう。

これが、ぺテロです。
その時のペテロには、自分が、まるで石ころみたいな存在に感じられたのかもしれない。岩のような揺るがない意思や信仰まで持っていたか…というと、決して、そういうわけではなかったんですよね。

それでも、イエス様は、あなたは岩だ、キリスト信仰が刻まれたあなたは、目の前にあるような岩になる。そう語られた。ここに、イエス様の心があるんではないかと思うわけです。それは、ペテロの何かではなく、生ける神ご自身がそう語り、そう働くからです。

私たちはどうでしょう。
自分自身を見たときに、実際、本当に石ころみたいな存在に思えるかもしれません。
それがぺテロであり、私たちのリアリティ、現実そうだとしても、イエス様は、あなたは岩だとおっしゃるんです。

生ける神の子キリストを信じる信仰のゆえに、あなたはケパ。あなたは岩になる。この岩の上に、わたしの教会を立てていくよ。

私たちが注意したいのは、たとえ今の状態がどうであっても、それで信仰のよしあしだとか、クリスチャンとしてのよしあしを、簡単に評価、決めつけてはならないってことなんです。他者はもちろんですが、自分自身であったとしてもなんです。
あるいは霊的にいいとか、悪いとか。。。
霊においては、本当は、いいも悪いもないはずなんですよ。信ずる者は、みな聖霊を受けてるんですよね。霊においては、最高、鉄壁な岩なんです。

ただ、その回りには、こってり肉的というのか、古い人間性が残ってるわけですよ。
ペテロも、また他の弟子たちもですが、聖霊を受けたら、それで100%完璧になったのか…というと、決してそうではないんですよね。

でも、それでも、あなたは岩だ。それでも、あなたはクリスチャン。
イエス様は、この岩の上に、わたしの教会、イエス様の教会を建てる、ハデス〜地獄の門もそれには打ち勝てないんだ。
…とおっしゃるわけです。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

カトリックでは、これをペテロ個人に語った言葉として受け止めています。
ですが、これと同じような話が、この後の18章、失われた一匹を探す羊飼いのたとえの後にも出てきているんですね。ですから、ここではペテロに、でも他の弟子たちにも、そしてそれは、キリストを信じる私たち一人一人に語られている言葉でもあるんです。

教会というのは、キリストを信ずる人の集まりで、神様との縦の繋がりであると同時に、人と人での横の繋がりでもあるとすれば、それを繋げといってるのか、解けといってるのかといえば…、もちろん、繋げです。
あなたがたはどう思うか。だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、九十九匹を山に残して、その一匹を捜しに出かけないだろうか…。

行かない。これが社会一般的な常識かもしれません。多少は探したとしても、弱い羊、群れについてこれないような羊は、あきらめる、むしろ、いなくなったほうが群れのために、いいのかもしれない…。
でも、わたしは、一匹とて失うことなど考えられない。ルカの福音書では、みつけるまで探すとまで言っています。
これが、イエス様の心、イエス様の生き様、十字架に向かうイエス様のスピリットなんですよね。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
ぺテロは、十字架を予告したイエス様をなだめて、怒られていますが、でも実は、この段階での、神の子キリストに対するぺテロの信仰であり、他の弟子たちも同じだったんです。

救い主キリストが、異国ローマの支配から救いだし、イスラエルを独立へと導いてくださる。だから、この段階での彼らがイエス様を信じるということは、これからエルサレムに上って行って、イエス様が王となるということでもあったんです。
だから、ぺテロにしてみれば、ある意味、信仰的に、いやいやあなたが負けるはずがありません…と答えているつもりだったんです。これが、このときのペテロの理解、限界です。

それに対して、「下がれ、サタン」とまで、きついことを言われてしまうわけですが、これは、ペテロがサタンに惑わされるというよりは、これから十字架に立ち向かおうとするイエス様にとって誘惑になりそうな言葉だったのかもしれませんね。
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

もし私たちが人の罪を赦す時、一方では、どうして赦すのか、それでは秩序が保てないだとか、人々の非難や責めが、赦した人へと移っていくことになると思います。
よく何かの事件の弁護士さんなんかが、報道陣に囲まれて、質問攻めになるときもありますよね。それでも、彼らは、決して、身代わりの刑罰まで受けるわけではありません。
しかし、イエス様は、本当に多くの罪人たちを赦し、宗教家たちから非難を浴び、さらには十字架までをも背負ってもなお、それを貫いていくんですよね。

弟子たちが、その十字架の最後まで着いていけたのか。決して、そうではありません。
それでも、ぺテロは他の弟子たちが一目散に逃げて行くなか、かなり頑張ったんですよ。
でも、できなかった。私たちもまた、実際に、同じ現場にいたなら、そうかもしれない。

それでも、あなたは岩。
イエス様が、本当に、ぺテロや弟子たち、そして私たちの心の岩に刻み付けてもらいたかったもの。
神は、リアルに、現実として、人を愛し、人を赦し、人を生かす神だということ。
それを、そこに生ける神の子としての生き方、生き様、いのちもあることを、十字架と復活の姿を通して、その心の岩に刻み付けて欲しかったのではないでしょうか。

私たちが、人を赦そうとするとき、それは時として、難しくなる時があるんですよね。
まさに、自分を捨て、自分の十字架を負うことになる。
でも、私たちは、痛みを負いきれなくて、どうしても赦せないことが出てくると思うんですね。それが、今の自分の現実、それは、それでいいんです。
それは、やっぱりイエス様だからできること。私たちには、イエス様の十字架までは背負うことはできないんですよね。

でも、イエス様は、それでも、あなたは岩だ…とおっしゃる。
私たちには私たちの、自分には自分自身の背負うべき十字架があるんだと思います。
人を赦し、人を生かす生き方…。その十字架を少しでも背負っていけたら、いいですね。


…あなたは岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
 ハデスの門もそれには打ち勝てません。



ラベル:マタイ 教会
posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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