2011年05月11日

最も小さな者にしたこと マタイ25:31〜46

皆さん、おはようございます。

今日は、母の日、女性の日…ということでして、本来なら、女性に関連した箇所から、お話する方が、ふさわしいのかもしれないのですが、せっかく被災地にも行ってきたということもあって、こちらの話題を取り上げさせていただきました。

先ほど、実際に写真を見ていただきましたが、いかがでしたでしょうか。

石巻南部20110430 石巻市街地20110430 石巻市街地20110430-2
荒野の十字架 

テレビや何かでは、あの津波が押し寄せてくる衝撃的な映像は、皆さんも、よくご覧になっているかと思うんですね。
しかし、震災から50日経った今も、建物の瓦礫や車の残骸が残されたままの、まさに荒野と化した、静かなる現実がここにはあるように思います。

まさに、この世の終わり…かと思うような出来事。実際に、あの津波を経験した人にとっては、そうだったと思うんです。
正直な心情として、神様は何故このようなことをしたのか…、神様がいるなら、なぜ、こんな地震や津波があるんだろう…という思いも起きなくはないと思うんです。あるいは、神様の計画の中で、何かの意味が合って起きたとか、そこに意味づけしようとしたりとかね。

ですが、私たちは、ここで考えなおさなくてはならないのは、どんなに大規模で、被害が大きかったとしても、決して、あの地震や、津波そのものが、何らかの神の警告だったり、裁きだったり、まして、世の終わりではないということなんです。

今回の箇所も、前の24章から続く、終末、世の終わりについて書かれた一連の箇所なわけですが、まず簡単に、聖書が言う、終末、世の終わりについて考えてみたいと思います。

確かに、聖書には、世の終わりの前に、地震が起きることも書かれています。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
確かに書かれています。ですが、
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
産みの苦しみのはじめであったとしても、「終わりではない」…というわけですね。

では、世の終わりとは、なんなのか…

聖書が言う、世の終わりに起きること、それは戦争や地震そのものではなく、そういった事で起きる、人々の不安や恐怖に乗じて、片方で反キリストや、偽預言者がおきてくる、一方で、不法がはびこり、人々の愛が冷えていく…。こちらです。
この前、ちょっと雑談していた時に出てきたんですが、早速、「わしゃあ、今回の地震を予測していた」だとか、預言が当たっただとか言いおる、自称預言者も出ているというじゃあ、ありませんか。

今回の地震や津波に恐怖を感じた人の中には、飛びついてしまう人もいるかもしれないですよね。
私たちは、こういったところに、目を光らせなきゃいけないんです。

この日本では、地震も津波も、ある意味、この世のはじめからあることなんですよね。
おまけに火山や台風、大雪もあって、この日本という島々の地形や自然界は形作られ、その恩恵を受けながら、様々な生物、私たち人間の命もはぐくまれてきたわけですよね。

つまり、私たちが住んでいる場所に、新たな「地震」や「津波」という災害が起こされたわけではなく、こういった地震も津波もある日本の上に、私たちは、生を受け、暮らしているわけですよね。東北ばかりじゃない、日本全国、どこにでも起こりうることです。

私の実家、静岡ですけれども、小さな頃から、東海大地震、起きれば、津波が来ると言われ続けてるわけですよ。
幸い、まだ来ていないだけで、いつかはくる。
ある意味、静岡の人間と言うのは、はじめから地震や津波が来ることを前提で暮らしているんですよね。
だから、備えもしているし、震度5や6ぐらいじゃあ、驚いても、動じない。
むしろ、まだ、足りない、まだ、こんなもんじゃない…、わけわかんないこと言いますから。
うちの母親なんかすごいですよ。今回の余震の中でも、静岡震度6ってあったじゃないですか。
すぐには電話も繋がらなかったんですが、繋がった時には、もう寝てましたから。
うちのいとこも「おばさん、すごいね。」なんて、驚いていましたからね。

世の終わりも、多少は、近づいているのかもしれないけれども、決して、終わったわけではない。
少なくとも、今、私たちは生きている。また被災地に生きる彼らは、あの被災地にあっても、懸命に生きているわけですね。
決して終わりではない。希望はある。
それを、いわば勝手に、神様の計画がどうとか意味付けしてみたり、むやみやたらに、終わりにしてはいけないな…と思うわけです。
それこそ、何の根拠もない話なんです。

ただね、地震に限らず、私たちの人生と言うのは、いつ、どのように、終わりがくるかはわからないわけです。
それは、30年後かもしれないし、明日かもしれない。
今回みたいな自然災害かもしれないし、事故や病気、本当に、世の終わりの日かもしれない。
分からないですが、いつか、自分とこの世との関係が終わる時もくるわけですよね。
「だから、目を覚ましていなさい。」、今を大切に生きる、今できることをする…ということは、いつでも大切なわけです。

では、私たちが、今、すべきことは、何でしょう…。
そう考えるときに、こうした人々が、不安や恐怖、失望のどん底にある時にこそ、与えていくこと、愛していくこと、まだまだ希望はある、主にある希望を伝えていくこと、これが私たちに与えられている使命ではないだろうか。
それこそ、本当の本当に、世が終わるその瞬間までです。
それこそが「聖なる望み」、聖望キリスト教会でありたいと思うわけですよね。

さて、今日の箇所を見ていきます。

25:31〜 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

まあ、実際に世の終わりが来て、裁きの座に着くときにですね。
右側に羊さんグループ。左側に山羊さんグループに分けられると言うわけですよ。

まあ簡単に言えば、羊さんグループは、よくやった人たち。山羊さんは、やらなかった人たちというわけですよね。
では、私たちは、どっちに分けられるんでしょうか。

ここで、自信を持って、堂々と、私は間違いなく羊グループです…と言える人は、よっぽどの人だと思います。
よっぽど本当に誰にでも尽くしてきた人か、よっぽど自分が見えていないか…どちらかでしょう。
本質的に、私たちは、山羊さんだと思うんですよね。

では、永遠の裁きを受けるんですか…?って、そうではない。
イエス・キリストの十字架のゆえに、罪赦されて、山羊にもかかわらず、羊として迎え入れられているわけですよ。
ですから、私たちが救われるのは、あくまで信仰による、恵みによるんです。

では、なぜ、このようなことが言われているかというと、祭司、パリサイ、律法主義者といった、自分たちは正しいつもり、出来ているつもり、羊のつもりの人たちも、背後にいたからですね。
彼らは正しいつもりでいますから、自分の罪を認めなければ、イエス様の救いも必要としなかったわけです。
しかし、最も小さな者どころか、イエス・キリストご自身に対しても敵対し、十字架に付けていくわけです。
実に、羊のつもりで山羊なんです。

でも、私たちも、注意しなくてはならないのは、「やっている(つもり)」、「できている(つもり)」かもしれません。
実に、出来ていないことは間々あるわけですよね。

ここで言われているのは、ごく普通の兄弟姉妹に対してでもなければ、ただの小さな者でもない、
「最も小さな者たちのひとり」に対してだというんですよ。

25:37〜 その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、
飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、
着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ」

私たちは、偉い人、一目置く人、尊敬できる人には、敬意を払い、最善を尽くすかもしれません。
でも、「最も小さな者」ってどんな人でしょうか…。

具体的に、どんな人でしょう…って考えるのも失礼な話かもしれないですけど、ぜひ、ちょっと考えてみてください。
そうしないと、なんとなく、いい話で、右から左へ、スルーしていくんです。

社会的な弱者ということばかりではないと思いますよ。
決して偉くはない人、出来ない人、劣っている人、普段、目にも気にも留めないような人、
あるいは、尊敬なんかとってもできない嫌いな人、そういった自分が「最も小さな者」と思ってしまう「一人」です。

そんなふうに人を見る時点で、もうOUTなんですが、下手をすれば、悪く言ったり、非難したりしているかもしれないですよね。
でも、たとえ、その人が、どんな人であったとしても、誰に対してでも、それはイエス様にしているのと同じことだ…というわけなんですよ。
私たちは、できるているでしょうか…。できていません。これが、正直な、現実だと思うんです。正直でいいんです。
それができていない、私たち自身もまた「最も小さな者たちの一人」なんですよね。

実に、困っていることにすら、気づかないことも、ありそうな気がしますね。
皆さんにも、お配りした「東北支援プロジェクト」ですが、すでに、いろんな支援、ボランティア活動がなされているわけですよね。

「…両手に荷物を抱え、他の避難所を巡り、必要以上に物資集めをしている人がいる一方で、停電のため夜は真っ暗、わずかな灯油で暖を取っているお年寄りがいる。」

誰でも、いっぱい上げて、いっぱい喜ばれたら、うれしいわけですよね。
なんだか自分がすんごく、いいことしているかのように思うわけですよ。
だから、震災当初、物資の配給という時に、ティッシュくださいと言われると、ティッシュの箱を、5箱も10箱も上げたりしていることが、実際にあったそうなんです。
でも、あるお年寄りの夫婦がいて、大丈夫ですか?と声をかけても、大丈夫ですと答える。
でも、心配になって、家に言ってみたら、津波の浸水で、片付けもままならないままの状態でいるわけですよ。
灯油あるのって聞いてみると、あるって答えるんですけど、見てみたら、ほんとうにわずかにしかない灯油で暖を取っている、夜、行ってみれば、真っ暗の中で、すごしていたというのです。

特に2番目のなんか、ひどい話でしょ。
「被災した自宅の泥掻きをしてもらう代わりに、某団体のボランティア拠点として自宅を提供したところ、思い出の品までが泥と一緒に捨てられ、親戚知人が送ってくれた個人宛の支援物資まで配られてしまった…。」

決して、否定は出来ないですよ。それ以上に、各地で大きな活動もしているし、助けられている人たちも大勢います。
某団体と濁しているんですが、実は、クリスチャンで構成された救援団体です。
でも、実際、隠れたところでは、こういうことも起きているわけです。

それで、石巻祈りの家の方が、そのボランティアチームを引率していた先生に、抗議したところ、
「これは神様の働きだから」って言ったというんだから、すごい話じゃですか。
どんな神様でしょう。本当ですか?

これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。

それは、おそらく「最も小さな者」に対し、自分も「最も小さな者のひとり」として、同じ立場、同じ目線で物事を考え、接することができるか、どうかなんだと思うんですよね。

実際、私たちが、助ける側にもなれば、助けられる側にもなると思います。
地震、津波、原発もあります。今、ビンラディンの問題もありますよね。病気も老後も、数々の不安要素というのは、この先も多かれ少なかれ、ありますよ。
写真で見たような、あのような見渡す限り、荒野になった中で、私たちは、自分を守ることに必死になってしまうのだろうか。
それとも、その中でも、なお希望を持ち、人々に与えることを考えていけるのだろうか。
もしかしたら、少しでも安心を得るために、ついつい大きなことを求め、大きな働きに目を留めてしまうのかもしれません。
そこで与えていく、助けていくためには、大きな力がなければ、無意味かのようにも思ってしまうかもしれません。

ですが、ここに出てきているのは、実は、それほど大きくない、小さなことの集まりなんですよね。

 食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…

イエス様は、「最も小さな者」が「最も小さな者の一人」にした、最も小さなことに目を留めてくださるというわけです。
実は、これこそが必要な心ではないだろうか。

さて、思い出したかのように申し上げますが、今日は、母の日、女性の日です。
最近でこそ、男女平等なんて言われまして、社会で活躍する女性も増えてきたわけですが、それでも仕事の上では、男性のほうが、大きく目立つことが多いわけです。
ですが、主婦の働きもまた、食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…、どこか通じるところがありますよね。
それで今日は、最も小さな男性陣たちが、日ごろの感謝を込めて、さも自分で創ったかのように、焼きそばを作らせていただくわけですが、その背後にも、しっかり女性の下ごしらえがあったりもするわけですね。

私の父も、出るなといっても出てくる、何か目立つタイプでしたけどね。
父は父で、社会福祉の現場で貢献した人ではあったんですが、家庭の中では、圧倒的に母の働きの方が、すごかったですよ。
寝たきりになった祖母が5年以上かな介護をし、私から見て叔父…父の兄ですよね、その介護が3年、さらに80近くになって、父の面倒も見てきたんですよね。
その間、ずっと家を空けられなくなるわけです。決して、真似して、できることではないと思います。
決して表彰も受けなければ、大きく取り上げられることもないわけですが、父が外で、好きなように働けたのも、実は、背後に、こうした母の献身的な働きがあればこそだったわけです。
イエス様は、そういった隠れた働きに、目を留めていてくださるわけですよね。

私たちには、それぞれできること、できないこと、得意不得意があると思います。
私たちは、どちらかというと、できないこと、不得意なことで、自己否定や、他者を非難してしまいがちです。
ですが、一人一人与えられた、個性、能力は違います。

被災地に対しても、私たちにできることというのは、限りがありますよ。
本当に焼け石に水かのような、小さなことかもしれないですけどね。でも、それは、イエス様にするのと同じことです。

最も小さな者たち全てにはできないかもしれない。でも、最も小さな者の一人にでも与えていく…。
たとえ、どんなに小さくとも、できないことではなく、できることをもって、最も小さな者のひとりに、与えていく者でありたいですよね。

…すると、王は彼らに答えて言います。
 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。」



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