2011年08月09日

「もう一年」の愛 ルカ13:1〜9

(8/7 茅ヶ崎シオンキリスト教会 主日礼拝)

みなさん、おはようございます。
はじめましての方もいらっしゃるかと思いますが、千葉・市川からやってきました竹下 力と申します。
この教会は、前回も8月に来させていただいて、ちょうど1年ぶりになりますが、皆さんと礼拝を
ご一緒させていただいて、うれしく思っています。

今年の夏は、夏らしくない涼しい日も多くて、節電という意味では助かるかもしれませんが、
セミの鳴き声ってあんまり聞いていないような気がしません?
私の周りでは、あんまり鳴いていなくて、心配なくらいだったんですが、ようやく夏らしい暑さに
なってきましたよね。

急に暑くなると、今度は体が大変だったりするかもしれないんですが、食べ物も、何かと痛み
やすいと思います。
実は、ついこないだも、炊いていたお米を一晩で腐らせてしまったんですけどね…(笑)。

お米を炊いて、コップか何かに入れて、そのまま放置しておいたとします。
今の時期なら、普通、一晩か、二晩かで腐りはじめ、1〜2週間もすれば、当然、茶色く溶けて、
腐っていくと思います。

…これが、普通だと思いますよね?私も、そうでした。

ところが無農薬・無肥料という自然栽培で作ったお米を、同じように放置しておくとどうなるか…?

やがて発酵しはじめ、アルコールになり、さらに酢に変わっていくんだそうです。
考えてみれば、実は、これが本来の自然の姿なんですよね。
その植物が持つ自然の力をしっかり身につけた、健康で丈夫な作物がとれるというわけです。


一方、農薬や化学肥料を使って育てた作物というのは、見た目は立派に育っても、
病気になりやすく、腐りやすい。本来、その植物がもつ自然の力、生命力やら、抵抗力やらを
奪われてしまっているというんです。


私たちも、病気になったら、薬を飲む…これが当たり前になってくる。
なぜならば、それが手っ取り早いからですよね。
決して、薬を100%否定するわけではないですよ。
でも、その前に、私たちの間でも、失っている自然の力もあるのかもしれませんね。


実に、この自然界を創ったのが、私たちの信じている神さまです。
パウロは、ローマ人への手紙の中で、「神の目に見えない本性、神の永遠の力と神性は、
被造物によって認められる」と書いていますが、私たちもまた、同じ神様によって創られた
自然界の一員なんですよね。


でも、私たちは、自然から離れた生活をしていることで、本当は不自然な状態を常識だと
思い込んでいたり、本来あるべき自然の姿や、強いては神様のことも見失っていたりする
部分があるような気がします。


さて、今日のたとえ話も、そんな人間の常識を覆す話なのかもしれません。


今日のこの聖書の記事を読んだ時、皆さんは、どのように感じたでしょうか…。
単純に読んでしまえば、「悔い改めなければ、いつかは滅びるぞ〜。」
神様も3年は辛抱…、がんばって、もう1年、4年目で成果が出なければ、滅ぼされる…
そんな話にも聞こえなくはありません。


でも、聖書全体から見たらどうか、イエス・キリストの十字架と復活、信じる信仰によって
救われる…この福音の大原則から考えると、その解釈では、それらを根底から覆すことに
なるわけです。

だとすると、何かが違っているわけですよね。。。?


皆さんが、この先、聖書を読む上で、いろんな解釈にもあたると思います。
でも、本当に、イエス様が言いたいことはなんだろう…、
本当に、聖書が伝えようとしていることはなんだろう…
決して、ただ鵜呑みにせず、自ら読み取っていく力も身に付けていっていただければと
思うんですね。この時に、カギになる一つが前後の文脈です。

さて、今回の話には、前振りがあります。
エルサレムの神殿で、とんでもない事件が起こったというんです。


…ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた


あるひとたちが、そのニュースを知らせに来たというわけですね。
このニュースを聞いたのが皆さんだとしたら、普通、どう感じますか?


ピラトのやつ、けしからん。なんて、ひどいことをするんだ!…
非難の矛先は、まずピラトに向くように思いません?

ところがです。イエス様が、ここで奇妙な返事をしていることに、お気付きでしょうか。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、
ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。…」

そんなことは、誰も、一言も、言っていませんよね。。。?
ガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
罪深いとか、関係ないじゃないですか。

でも、ここに描かれていないだけで、実際に、その場にいた人たちは、そういうふうに思って
いたからこそ、そう答えているんですよね。


…神様の住まいである神殿で、
 神様を礼拝しにきたガリラヤ人たちが、
 こともあろうに、ローマ人のピラトに殺され、
 しかも、神様に捧げられた、いけにえの血に混ぜられた…


 これは、よっぽどガリラヤ人の罪が深かったに違いない。
 じゃなければ、神様がピラトの行為を放っておくわけがない。


当時のユダヤ、律法主義的な考え方では、こんな災難に遭うのは、罪が深かった証拠、
神様からの祝福を失っている、神の裁きに違いない…これが常識だったんです。


そういうふうに考えていたから、釘を刺すかのように、イエス様が答えたわけです。


13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、
みな同じように滅びます。

この「悔い改め」という言葉。
「悔い改め」というと、ひたすら罪を悔いて、行動を改める…というふうに思いがちですが、
ギリシア語で「メタノイア」。
心と体の向きを変える。考え方を変える。そういう意味の言葉です。

つまり、方向の転換、発想の転換をしなさい…ということなんですよね。


…あなたがたは罪が深いから、このような災難に遭う。神が裁きが下る。
 そのように考えていますが、そうではない。
 あなたがたは、天の父を誤解しています。
 悔い改めてください。考え方を変えてください。
 あなたがたの身にも、似たような災難は起こるものです。
 もしそのまま同じ考え方で行くなら、同じように、神に滅ぼされることになりませんか?


これが、イエス様が言いたいことなんです。
さらに、シロアムの塔で起きた事故の話を持ち出すわけですが、これも当時、人々の話題になっていたんでしょうね。


13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。


私たちの感覚では、偶然、偶発的な事故だと考えると思います。
罪が深いかどうかという発想にすら、結びつかないと思うのです。


ところが、あんなことが起きるのは、何か罪を犯していたに違いない、祝福を失っている、
きっと神様の裁きに違いない…、そんな話が、本当に話題になっていたから、イエス様が
持ち出しているわけです。


本当に、罪が深かったから、神様の裁きがあったからなんでしょうか。
その事故の犠牲になった18人の周りには、その突然の死を悲しむ家族や友人たちも
当然いたわけですよね。にもかかわらず、そんな話が、まことしやかに、ささやかれて
いたとしたら、どうでしょうか。


東日本大震災では、多くの人たちが被害に遭い、今もなお避難所生活を余儀なくされて
いる人もいるわけです。
他の誰かよりも、罪が深かったのでしょうか。クリスチャンは、被害に遭わなかったので
しょうか。神様からの祝福や守りを失ったのでしょうか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」


そもそも、日本は、地震で形作られたような国なんですよね。
ついでに、火山もあれば、台風もあります。これが、そもそもある日本の自然です。
私たちは、その自然界の上で生きている人間です。

自然は時に厳しくもありますが、私たちは、この日本の自然界の中で、四季折々、
いろんな恩恵もしっかり受けながら、命を育まれ、暮らしてきたわけです。

関東にいる私たちにも、この日本にいる限りどこででも、この先、同じような地震や
津波に遭う可能性は十分にありえます。
私の実家は静岡なんですけれども、静岡では東海地震なんて、私の小さい頃から、
近い将来必ず起きると言われ続けているわけです。


でも、いざ、もし、それらが起きた時に、それは神の裁きなんでしょうか。
神様に守られなかった、神様の祝福を失ったのでしょうか。
そうではない。


この前、7月に東北に行ってきましたけどね。
石巻では、海から離れた市街地まで、津波の水を押し寄せていて、今もなお、
ヘドロを家の中から、懸命に取り除いているんですよね。
しかし、まさに、こういうところにこそ、キリストの力は働くわけですよ。

それまでは存在すら知られていない、見向きもされなかったような本当に小さな教会にも、
国内ばかりか海外からも、そこに教会があるということで、やれ物資は送られてくる、
ボランティアはやってくる、また彼らの懸命な奉仕の姿に、地域の人たちにとっては、
教会が不思議な存在として光っているんですよね。

家ばかりではありません。中には、家族や友人をなくした人もいます。
でも、そういった助けや励ましを受けながら、多くの失望感に負けず、復興に向けて、
懸命に生きているわけです。


私たちが、同じような事故や災難、自然災害に遭うことも、当然ありえます。
怪我もすれば、病気にもなります。この世にあっては、誰にでも、いつか死という時も訪れます。
罪という点でいえば、50歩100歩です。
もしこれが、特別、罪が深かった、神の裁きというのなら、みな同じように滅ぼされた…と
いうことになってしまいます。
これでは、いざ何か自分の身に降りかかった時、希望も、救いもなくなってしまいますよね。

イエス様は、そういう因果応報的な考え方を、真っ向から否定したんです。

そんな話があったあとに語られたのが、次のたとえ話となるわけです。
よろしいでしょうか。

たとえ話を読み解くポイントは、よくある話の中で、ありえないような話が出てくるところがあります。
そこがイエス様のオリジナルの部分、つまり一番語りたいところにもなります。


13:6 イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。
これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

ぶどう園に限らず、自分で食べる用に、他の作物を植えるのは、よくある話です。
収穫を期待しているこの主人は、腹を立てます。3年もの間、実らず、この土地をふさいでしまっている。
これでは雑草と一緒。切り倒して、他の作物に切り替えよう…生産性を考えれば、当然の話、常識です。


13:8 番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

これも理解できます。
土地の持ち主はこの主人かもしれませんが、このイチジクの世話をしてきたのは、この農夫です。
せめて、もう一年…。そう願う気持ちも分かります。ところがです。


 13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」


実は、ここで、おかしな話が出てきているんです。
日本語では分かりにくいんですが、この農夫が言っているのは、
「それでもだめなら、来年には、切り倒しますから…。」ではなかったんですよね。
直訳的に訳せば、「あなたが切り倒せ。」命令形で書かれているんです。

それでもだめなら、切り倒してください。
私には、切れない。あなたが、切り倒せ。自分で切ればよかろう。。。そう言っているんです。

この農夫も、主人に雇われて、生活している身です。
本来ならば、主人が切れというなら、切るのが仕事です。
ところが「あなたが切れ」、そんなことを主人に言おうものなら、下手すりゃ、自分がクビ。
イチジクの前に、自分が切られても不思議ではありません。

でも、この農夫は、自分の首や生活まで賭けて、このイチジクを守るのです。ありえない。
たかがイチジク、しかも、ぶどう園の脇にある、実を結ばないイチジクをです。

もし来年、また駄目だったら、この農夫はどうするでしょうか…。

私には切れない。もう一年、それでも駄目なら、もう一年…、頼み込むに違いないのです。


…あなたがたは、天の父を誤解しています。
 3年もたって、実を結ばなければ、罪を悔い改めなければ、切り倒してしまう、
 この主人のように、神様は、厳しくて、恐ろしい方。
 それが当然、それが常識だと勘違いしています。

 しかし、そうではない。

 天の父は、この農夫のように、もう1年、もう1年…
 実を結ばないイチジクの木でも、なんとか養い、育て、実を結ばせようと努力する
 そういう、やさしいやさしい農夫のようです。


これが、イエス様の言いたいこと、イエス様の心です。


たとえ話で、「主人」だからといって、必ずしも、神様のことを指しているとは限りませんよ。
むしろ神様よりも、人間の勝手な思い込み、常識のほうが主流、まさしく「主人」のように
なっていたりもしますよね。


私たちは、どうでしょうか…。
私たちの心にも、この主人のように、2年、3年で結果を求めてしまう、そんな心も出て
こなくもないですよね。

何のために土地をふさいでいるのか。切り倒した方がいいじゃないか…。
会社だって、営業マンが3年も成果ゼロだったら、間違いなくクビです。
経営者であれば、たとえ、どんなに切りたくなくても、時に、雇えなくなる、切らざるをえない、
そういう状況に追い込まれることもあると思います。

私たちの人間関係の中において、時に、人を非難する言葉を耳にしたり、自らも口にしたり、
切ってしまおうという心が、起きてくることもあるのではないでしょうか。。。

この社会に暮らす私たちにとって、主人の考えの方が、常識に近いんです。
だから、神様も同じだと思い込みやすいんです。


本当は神様も、ある意味、神であるからこそ、私たちを裁かなくてはならない、そういう立場
なのかもしれません。私たちも、本来なら、裁かれて当然の罪人でしょう。

でも、わたしには切れない。
もう一年、もう一年…、と養い、育てようとするのが天の父、この自然界すべてを創った
創造主なる神様なんです。
イエス様は、そのために本当に命をかけて、十字架まで背負った。


…神は、実に、そのひとり子を与えたほどに、この世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。

今、どのくらい、その心、愛が、私たちの心で感じ取れているでしょうか。。。


たとえ私たちが、畑の脇の、実を結ばないイチジクの木であったとしても、
神様は、もう一年、もう一年…と、あきらめず、永遠に、愛を注いでくれているわけです。


私たちのこの人格、この心を本当に養い、育てるのは、「切り倒してしまおう」の心ではなく、
もう一年、もう一年…と、養い育てようとする、まさに、この神様の「もう一年」の愛なのでは
ないでしょうか。

私たちも、「切り倒してしまおう」の心ではなく、「もう一年」の愛を心にいっぱい蓄えながら、
歩んでいきたいものですよね。



…番人は答えて言った。
 ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
 木の回りを掘って、肥やしをやってみますから…。



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