2011年08月27日

「人と比較しない生き方」ルカ10:25〜42

(8/21 シャローム福音教会にて。「良きサマリア人のたとえ話」と「マルタとマリヤ」の話から ) 

みなさん。おはようございます。

うちの奥さんの歌どうですか?
身内なんで、あんまり褒めるのもどうかと思うんですが、なかなか、いいでしょ。
もっと、やればいいのに…と思うのですが、それはそれで、ご本人様のペースもございますので、
旦那の身分では、下手なことはいえないんですけれども、今日は午後、東北支援のための
チャリティーコンサートをさせていただくことになっておりますので、ぜひ、ご参加いただければと思います。

先週も福島、宮城で大きい地震もありましたが、特に津波があった地域では、ようやく瓦礫が
撤去されたばかり。本当の意味での復興は、まだまだ、これからなんですよね。

午後には、写真もお見せするつもりでおりますが、石巻では本当に市街地の奥深くまで津波の水が
入り込んできたんですよね。
ですから海から離れた、津波の直撃を受けていないような地域でも、床下やら家の内側には、
魚の腐ったようなヘドロがいっぱい入り込んでしまっているわけですよ。
それらを、ようやくきれいに片付けて、これから内装をリフォームさせていくという段階。
…といっても、業者にやってもらおうとすると、多額の費用がかかるわけですよね。
なので、昼は手作業で少しずつ修復して、夜は避難所へ戻るような生活をされている方も大勢います。

そういうわけで、まだまだ、これからです。それも地域全体を含めた、経済的な復興が必要です。
長い長い時間がかかります。

それに対して、私たちに何ができるのか…。
出来ることは、本当に極々わずかだと思います。
でも、自分に出来る、そのわずかなことをしていくことが、大切なんじゃないかなと思うわけです。


さて、今日は、「マルタとマリヤのエピソード」に焦点を当てていきたいと思うのですが、
その前の「良きサマリア人」のたとえ話から見ていきたいと思うんですよね。

…というのは、このサマリア人のたとえや、この10章、その前後一連の話は、イエス様が、
まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が描かれているんです。

ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムの東側、約3qの
ベタニヤというところでして、あとオリーブ山を越せば、エルサレムというところなんですね。
おそらく、エルサレムへ入る直前の出来事、本来ならば、19章あたりで出てくるような話なのです。

つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを
挿入しているんです。

サマリア人のたとえでは、誰もが惚れ惚れするような、ある意味、理想的な愛の形が説かれている
かと思うんですね。
ところが、それが、私たちには理想で終わってしまいやすいんです。
ああ、いい話だな…、素晴らしい教えだな…、
子供相手だったら「良きサマリア人のようになりましょう」と教えられたとしてもですよ。

実際問題、自分自身はどうかといったら、あまりに理想的過ぎて、程遠い出来事のまま終わってしまいやすいのです。

しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、なんだか身に覚えがあるというか、
昨日か、おとついかにも見たような、私たちの間でも起きそうな非常に現実味のある出来事ですよね。

理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、
何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示してくれているような気がします。


そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

同じ質問を、もし、私たちが答えるとしたら、なんですか。
もし誰かに、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と
質問されたとするならば、皆さんだったら、なんと答えるでしょうか。。。。

クリスチャンの皆さんなら、「ただ、イエス様を信じさえすれば、救われるんだよ」そう答えると思います。


しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があるんです。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…、お前は神なのか、即その場で捕まえて、石打ちにでも
されてしまいかねない、そういう話です。

でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と、うまく切り返したわけです。


当然のことながら、彼は、律法の専門家ですので、律法的な答えを知っていたわけなんですよね。
仕方なく、答えるわけです。

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」


これが、最も大切な戒め、イエス様自身も、そう語った、旧約聖書の律法の世界では、まさしく大正解なのです。

「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」


「正解!わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
ところが、実は、たとえ正しい答えを知っていても、それが実行できないのが、私たち人間の現実なんですよね。
それが律法の限界でもあったわけです。

でも、ここで、イエス様は二つの質問をしていたんです。

一つは、律法には、何と書いてありますか。客観的に、聖書にはなんて書いてあるか…です。

しかし、もう一つは、あなたはどう読んでいますか。あなた自身の現実問題として、どうなのかです。
その問いかけ。

もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。
どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は変わっていた
かもしれませんね。


しかし、彼は、正しい答えを知っていました。本人的には、実行しているつもりだったんでしょう。
でも、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気がつかず、自分は正しいと
主張している…そこに盲点があるのです。

みなさん。聖書を読むとき、変な話、自分が正しくなるために、聖書を読んでも、実はあまり意味がないんですよ。
むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。
でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。

自分が正しくある必要は全くありません。
それどころか、「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、
教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味もあるんですね。


10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」


私は、家族も愛している、友人も愛している、向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。
さあ、私の隣人とは誰だ…。と待ち構えているわけですね。
自分の正しさを示そうとして言っているわけですからね。自信満々です。


そこで、イエス様が語ったのが、この良きサマリア人へのたとえというわけです。


エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
このエリコヘの道は、荒野の山岳地帯、曲がりくねっていて、死角が多く、強盗が多いことでも有名でした。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。
次に通りかかったレビ人というのも、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。


ユダヤの律法では、もし血に触れたら、律法の定めでは身を清める期間をおかなくてはなりません。
その間、仕事ができなくなる。
彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。


「誰が私の隣人なのか…」
彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。
いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。
これが彼らの考えていた律法を守るということ、彼らの言っていた正しさだったのです。


その後に通りかかったのは、サマリア人です。


サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血の人たちです。
外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった、そんな彼らを何百年もの間、ユダヤ人たちは、
口も聞かなければ、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別していました。


「強盗に襲われたある人」も、普通に考えてユダヤ人という設定です。


そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。ありえない。
しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、
ありえないような徹底した介護です。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、隣人になったのか」。
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」


彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるわけです。


これは、単に、隣人を愛しましょうとか、いい事をしましょうとかいう、そういうレベルの話ではないのです。
 
何世代もの恨み、憎しみを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。


やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
なかなかどうして、できない。

「誰が、その隣人となったのか…」、なり得たのか。

これは、まさに、イエス様なんですよね。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに十字架によって示された愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。その宣言でもあるわけです。

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


私たちにも正直、難しいことですよね。

それも自分の嫌いな相手。自分の苦手な人。自分のことを批判したり、悪く言ってくる人。
その人を自分のように愛せるのか。隣人になっているのか…。なれるというのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。

それにもかかわらず、私たちも、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。

それも、非常に身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。
それが、私たちの現実、日常の姿。マルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているんです。


このマルタとマリヤの話。みなさんは、どう読んでいるでしょうか。

もし、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
マリヤのように御言葉を聴く事が大事、マリヤのようになりましょう…と読んでしまうとしたならば、
実は、この律法の専門家と同じになってしまうように思います。


でも、ここで、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたんです。
イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、もてなしの準備をはじめた。
それは、イエス・キリストの愛を受けて、マルタの自主的、自発的な愛であったはずだったんです。

ところがまあ、イエス様だけならともかく、ペテロだの、ヨハネだの、その他大勢、名前もよく覚えて
いないような有象無象の弟子たちも一緒にいたわけでしょ。
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう忙しくて、大変だったわけですね。

そんな時に、ふと目をやると、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかりを聴いている…。


なんだか自分ばっかりが苦労しているような…、マリアは、怠けている、マリヤは、おかしい…。
そりゃ、ないんじゃないんの、空気読めよ…的な?
まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。

挙句の果てに、ちょっとイエス様も、なんとも思わないの!

こういう感情って、私たちのうちにも、起こりがちですよね。


10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
キィーッ!!! みたいな?

「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にもならない高周波ノイズも、
十分、乗っかっているような気がしますよね。


マルタは、どうして、こうした感情が起きてしまったんでしょうか…。

はじめは、イエス様をもてなす気持ち、愛する気持ちからしていたことなんです。
マルタの失敗は、自分とマリヤを比べて、自分ばかりが苦労を負わされているかのような、
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまったのかもしれません。
私たちは、ついつい自分と人とを比べてみたり、人から自分が認めてもらいたかったりしてしまうんですよね。


でも、聖書がいっているのは、ただ「隣り人を愛しなさい」ではないんですね。
あなたの隣り人を、あなた自身を愛するようにしなさい。
つまり、ここには「自分自身を愛する」ということも含まれているんです。人よりも前に、まず、自分なんです。

自分を愛するというと、ナルシストみたいな?自己中心的に思えるかもしれませんが、そうではないんですよ。
ナルシストというのは、自分だけが愛されたいんです。
実は、自分で自分を愛してあげることが出来ていないから、人から必要以上に愛されることを要求するわけです。

もし、マルタ自身が、人との比較ではなく、自分で自分自身のことを認める、愛することが出来ていたなら、どうだったでしょう。

自分が、この時、これが必要だと判断し、自分がしようと決めてした、よいことであれば、
マリヤが何をしていたとしても、それは構わないはずなんです。
実際問題、もしマリヤが、この時、用事で出かけていたとしたら、なんとも思わなかったはずなんです。
本当に助けが必要なら、普通に手伝ってくれる?とお願いすることも出来たと思います。


ところが、マルタは、ついつい傍にいたマリヤと比べてしまった。
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまった…、
その時、自分で自分のことが、認められていないような錯覚に陥ってしまったんでしょうね。

どうでしょう。人を非難する自分と、人を愛する自分…。
自分を上から客観的に見たときに、どちらの自分の方が、自分で自分のことを好きになれそうでしょうか。
私たちが、人を非難し始めるとき、実は、自分で、自分自身のことを傷つけ始めているんです。

はじめの愛する気持ちから、いつの間にか、嫉妬や怒りの感情へと変わっていってしまったわけです。

10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。
でも、マリヤはマリヤで、この時にはイエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
それを非難したり、変えさせたり、奪ったりする必要までは、マルタにはなかったはずなんです。

でも、これでもし、マルタが非難されてしまうのだとしたら、それも違います。
逆に、もしマリヤが「ちょっと先生。マルタにもてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」
なんて言ったとするならば、イエス様はマリヤに同じように言ったのではないでしょうか。
「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」


どうしても必要なこと、キリストの願いは、ただ一つ。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』


私たちが愛するという事、その心、その1点に集約されてくるように思います。


愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。
あれもできたらいい、これもできたらいい、そう思ったとしても、自分自身の器の限界を超えて、
多くのことを抱えてしまえば、結局のところ、できずじまい、それが怒りや非難に変われば、本末転倒になります。

人との比較や、人からの評価でもありません。人がどうかよりも、まず自分です。
マルタはマルタで、よくやっていたんです。マリヤもマリヤで、よくやっています。
私も私で、私なりに、よくやっているのなら、それでいいのです。

私たちが本当に自分自身を見つめていくとき、決して完璧なわけではないし、またまだ発展途上。
失敗もすれば、足りないところも、大いにあると思います。
決して、良きサマリア人のようには、できていないはずなんです。

私だってそうですよ。今だって、こうしてメッセージ用意していながら、会社で誰かの事をコノヤローって
思ったりしちゃうんですから。

私たちができること、今していることというのは、その時、その時、今の自分にできる範囲、レベルのことで
しかないんですよね。それ以上も以下ありません。
その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。


でも、ここが一番大切なのですが、そんな小さな欠けだらけの自分自身のことを認めることができる時、
そんな自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさ、偉大さも見えてくるのです。

誰が、そんな私の隣人となったのか…
あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、歴史の事実として、イエス・キリストは、この私の
良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけですよね。

その愛を感じるとき、人の足りないところも、また赦せてくるのではないでしょうか。


どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、だから自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。この3つの愛に生きる。


このキリストの愛によって支えられ、守られ、育まれながら、一つ、また一つと、自分を愛し、
隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。


 



posted by holyhope at 17:40| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
固くなりがちの聖書の話を、分かりやすく、楽しく、軽妙に説いておられるのに感心しました。一信徒として、毎日聖書と格闘している私としては、これから、ほかの記事も読ませていただきたいと思っております。
Posted by さとうまさこ at 2012年07月07日 22:30
コメントありがとうございます。楽しく、わかりやすくというのは、モットーです。
ぜひ聖書の深さ、豊かさを味わっていただければと思います。よろしくお願いします。
Posted by りっきー at 2012年07月07日 23:56
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