2011年09月18日

「復興の中での戦い」ネヘミヤ記4:1〜23

(2011年9月11日 聖望キリスト教会)

みなさん。おはようございます。

今日は、9月11日です。
9月11日というと、まず思い起こされるのが、ちょうど10年前、
2001年のアメリカ同時多発テロかもしれませんが、それと同時に、
東日本の大震災が起きてからも6ヶ月、ちょうど半年が経ったところなんですよね。

今日は、まず7月に行った東北、復興に向かう石巻と、特に南相馬の様子もご覧いただこうと
考えているわけですが、南相馬というのは、地震、津波、原発…いわば、三重苦を負っている町です。
その光景というのは、まるで焼け野原、この土地のおばあさんからすると、「見たくない」光景なんです。

こうした戦争だの、地震だの…そういう話になると、聖書を読んでいる皆さんの頭にも、
ふと、よぎるのが、「世の終わり」ということかもしれません。
まさに津波に遭った地域の被害にあった人たちには、まさに「世の終わり」かのように感じた出来事で
あったかと思うんです。


ですが、みなさんにも、注意しておいてほしいのが、こうした出来事があったとしても、それが、聖書が
伝える「世の終わり」に直結しているのか…というと、必ずしも、そういうわけではないんですね。

確かに、マタイの福音書には、イエス様が世の終わりについて語られた箇所で、戦争や地震の話も出てきます。
ですが、それら災難が仮に起きたとしても、決して、終わりではない。
これらのことは必ず起こること、むしろ、そのために動揺しないように、人に惑わされないように、
偽預言者に気をつけなさい…そう聖書は告げているわけです。

世の終わりも多少は近づいているかもしれませんが、少なくとも、今、生きている。
まだ終わりではないから、復興もあるわけですよね。

この日本にいる以上、私たちにも、同じような地震、津波の被害にあう可能性はゼロではありません。
私たちも同じ災害に遭うことは十分ありえます。

今日は、ネヘミヤ記を選んでいますが、旧約聖書の中にあって、まさに復興の物語、歴史であるのが、
このネヘミヤ記です。
これから写真をご覧いただきますが、まずは、もし実際に、自分の身の回り、
もし、この市川で起きたら…というつもりでご覧になってもらえたら、いいのかなと思います。

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◎石巻 新館地区 (2011.7.17)

震災時、周辺住宅は家の1階部分は完全に浸水しました。
家の外観こそ無事のようにも見えますが、中はヘドロで住めない状態になっています。
こういった場所は、報道にも出てこない場所かもしれません。

石巻 新館地区

ここに震災直後から、「サマリタンズパース」という宣教師を中心とするボランティアスタッフや、
石巻祈りの家の阿部さんたちがボランティアとして、支援してきました。
当初は、この道もヘドロや瓦礫で埋まっていたそうです。それらを一から除去してきました。

石巻 ヘドロ被害の現状
家の内部の状況です。
7月の段階で、ようやく床下内部まで、ヘドロの除去が完了したところです。内装の作業はこれからという段階でした。
この家の家族は、昼間、復興の作業をし、夜は避難所で寝泊りする生活を続けています。

石巻 ヘドロ被害にあった畑 石巻 ヘドロ被害を受けた畑
この近くのヘドロを被った畑です。灰色の乾いてひび割れしている部分は全てヘドロです。

石巻 畑からヘドロの除去作業
石巻の祈りの家の阿部さんや、宣教師のボランティアチームが、ヘドロを丁寧に除去。
絶望にしか思えなかった畑の持ち主にとって、大きな励ましと、希望になっています。
(この写真のみ、後日撮影のものです)

石巻 復興支援野外コンサート
この日は、竹下 静の野外コンサートとカキ氷のパーティを。近隣の方々約90名が集ってくれました。

石巻 復興支援 カキ氷で
こうした人たちが集るのも、震災当初から、この地区でボランティアをしていた阿部さんたちの活動があればこそです。

◎南相馬 原町聖書教会訪問 (2011.7.20) ~原発から22Kmにある教会。今回、初訪問。

福島県南相馬市 原発20km地点 
原発から20Km地点。ここから先は立ち入り禁止です。
何もないのどかな農村地帯のようで、放射線という実に目に見えない被害を受けています。

南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況

海岸沿いに行くと、一見、見渡す限り何もない野原か畑の跡かのように見える地帯が広がっていました。
…が、南相馬は、古くからの漁村の町。このあたりにも漁業施設や民家があったんだそうです。
瓦礫が撤去され、雑草が生えていますが、津波で全てが流された跡なのです。

かつての南相馬を知らない私たちには、まったく想像もできません。

ですが、土地のおばあさんにとっては「見たくない」光景。戦後の焼け野原と同じ状態なのです。
特に南相馬は、原発の被害も受けて、復興作業も遅れている地域です。

南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船
国道6号線近く。海岸線からは、だいぶ離れた場所です。
しかし、こうした漁船が、漁港から流されてきて、右に左に至るところで残されていました。
車と違い、こうした船の移動には重油を抜き、特殊車両で運ばなくてはならないため、費用がものすごく掛かってしまうんだそうです。

南相馬 原町聖書教会 南相馬 原町聖書教会
そんなところを通るとき、教会にたどり着くと、実感として、ものすごく、ほっとするんです。
原町聖書教会は10人足らずの教会です。ですが、どんなに小さくても、そこに教会がある存在意義を感じます。
ここにはぬくもりがあり、失望に終わらず、希望に満ちた笑顔と団欒がありました。

一言で「復興」といっても、それが、ものすごい気が遠くなるような、長い時間の掛かることであることがわかると思います。

しかも、ゼロからの新規開拓とは違う、「復興」というのは、今まであった多くのものが失われた失望感、
残骸が残る、まさにマイナスからのスタートなんです。

石巻でも、庭先に遺体が流されてたいたとか、自分の娘と孫が、この先の場所に流されていたとか、
その地に、悲しい記憶として、刻み込まれているのです。

私たちが支援しようとしているのは、こうした被災地で復興を目指す人たちの生活面だけではなく、
あらゆる失望にも負けない、あの笑顔でもあるような気がします。

画像 021-s.jpg 
(津波で会堂が全壊したシーサイドバイブルチャペル。現在、元喫茶店での活動展開中)

それが、この地での希望にもなるんですよね。


今日の聖書のネヘミヤ記というのも、まさに旧約聖書の中に出てくる復興の物語、その歴史です。
かつてイスラエル(南ユダ王国)が、新バビロニアに滅ぼされて、ユダヤの民はバビロニアに
強制連行されていたわけですが(いわゆるバビロン捕囚ですね)、やがてペルシャが起こり、
再びエルサレムへと帰ってきたわけです。

まず、神殿は再建されました。
ところが、その後70年経っても、エルサレムの城壁は崩れたままだったんです。

そこに起こされたのが、ネヘミヤです。

ネヘミヤももちろんユダヤ人ですが、この時、ペルシャ王に仕えていたわけですね。
ところが、ある時、エルサレムの城壁が崩れたままだと聞いて、ペルシャ王の許しを得て、
エルサレム復興のために派遣されてきました。

彼は、民たちと立ち上がり、エルサレムの城壁の再建に取り掛かったのが、この前の3章までの話です。


ところがネヘミヤたちが城壁の修復に着手して、面白くなかったのは、周辺の部族たちです。

イエス様のたとえ話に「良きサマリヤ人」が出てきますが、ここに出てくるサヌバラテというのが、
サマリヤ人の一人で、ユダヤ人にとって、まさに大嫌いなサマリヤ人の一人です。


4:1 サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。
4:2 彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。
  あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。
  焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


私たちが、ゼロから何かを成し遂げようとする時にも、様々な障害があると思うのですが、その中で、
私たちが一番気をつけなければならないのは、「言葉」かもしれません。
その言葉によって、復興がすすむも、中座することもあるように思います。


野田新内閣になって早々、経済産業大臣の発言が問題になりましたよね。
今日のこのメッセージの原稿作っている間に、辞任してしまったんですが、残念なことに、
今の日本では、敵ではなく、同じ日本国内、同胞同士で、言葉の揚げ足取りをしているのが
現実かもしれません。

みなさんも、ニュースで「死の町」だとか「放射能つけたぞ」とか発言した問題をご覧に
なっていると思うのですが、どう思われたでしょうか。


その発言を取り上げた、毎日新聞の9月9日の報道です。

「鉢呂吉雄(はちろ よしお)経済産業相は9日の閣議後会見で、野田佳彦(のだ よしひこ)首相に
同行して8日に東京電力福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の
市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と述べた。」

「死の町」という言葉だけを取り上げてしまえば、ひどいとも思うのかもしれませんが、
皆さんは、今、南相馬の様子もご覧いただきましたよね。
あの先、20km圏内は、本当に誰も住めず、もっと、ひどい状態、一切、手が付けられない、
放置された状態のままですよ。

どう思いますか?

「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」
この言葉に何か周辺住民に対する悪意か、侮蔑か、否定的な要素があるでしょうか?
少なくとも、私には読み取れません。

原発の影響で、本当に誰も住めなくなって、放置されている現実があって、その原因である
放射性物質こそが問題なんですよね。
そのために、いまや本当に「死の町」、掛け値なしで、思わず、そう表現してしまうほど、
そこまで悲惨な状態になっているというわけですよ。

続けて、この記事には、こうあったんです。

「会見では、事故現場で収束作業に当たる作業員らについて『予想以上に前向きで明るく、
活力を持って取り組んでいる』と印象を語り、放射性物質の除染対策に関しては『政府として
全面的にバックアップしたい』とも述べた。」

同じ会見の場で、その「死の町」と化した現場を見てきた結果、除染対策を「全面的にバック
アップしたい」と発言しているんですよね。しかし、肝心のことは補足です。

次第に「死の町」というたった一言だけがピックアップされて、それを聴いた野党が非難し、
さらに、その部分だけが被災地にも伝えられ、がっかりしたようなコメントを拾ってくるわけですよね。
その対応に追われていく間に、放射能の対策も遅れていくことになるわけです。
そうしている間にも、本当に放射線の影響を少なからず受けていくわけですよね。

もちろん閣僚級の人は、そこまで言葉に注意しなくてはいけないのかもしれませんが、
そんな言葉の端々を、重大な問題かのように大きく偏って国民に伝えた結果、早々に辞任せざるを
得なくなったわけです。
せっかく現地にまで視察に行ったのにもかかわらず、これでまた一つ、復興対策は遅れたわけです。

これは政治家やマスコミだけの問題ではないですよ。
別に、民主党を擁護しようというわけでもないですし、時に、問題や過ちを指摘する必要もあるわけですが、
今、この日本が一番優先すべき事を忘れて、小さなことで非難、中傷して、全てを否定していってしまう、
それが、今の国民全体、日本の風潮だと思うのです。


試しに、2節のサマリヤ人の言葉の「ユダヤ人」を「民主党」に置き換えてみましょうか。

「この哀れな民主党は、いったい何をしているのか。
 あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。
 一日で仕上げようとするのか。
 焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


今のこの日本、どこからともなく聞こえてきそうな気がしませんか?
実に、リアルに伝わってくると思います。

今の日本の現実が、ここにあるような気がするんですよね。
しかも敵ではなく、同じ日本人同士がやっているんです。


「この哀れな日本は、いったい何をしているのか。」
「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」


まさに、本当に、その通りかもしれません。実際に敵がいれば、そう中傷されそうです。
でも、だとしたら、本当に悔しい話ですよね。まさに、ネヘミヤもそうでした。

ネヘミヤは、サマリヤ人や周辺部族に対して、猛然と抗議することも、戦うこともできたと思います。
しかし、ネヘミヤは、その悔しさ、怒りを、人にぶつけるのではなく、神へと訴えるわけです。


4:4 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、
  彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。
4:5 彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。
  彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」


この祈りの言葉からして、ネヘミヤも相当、怒り心頭であることが分かると思います。
でも、ネヘミヤは、その悔しさを怒りで報いたり、敵と争うことをせずに、とにかく、そのままの
気持ちを神に祈り、復讐は神に任せたわけです。

なぜならば、彼がエルサレムに来た目的は、サマリヤ人と戦うことではなく、城壁を築くことだったからです。
彼は、祈る事で、本来、自分が成すべき目的を見失わなかったわけですよね。


今日の交読文、詩篇にもこんな言葉がありましたよね。

56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。


私たちは、誰かが発する否定的な言葉や行動の影響を受けて、実に「わたしのことば」が痛んでしまう、
自分自身までが否定的な考えに巻き込まれていってしまうことがあるように思います。

それを気づかずにいると、売り言葉に買い言葉、言い争いになったり、今度は自分が発する否定的な
言葉によって、また他の誰かを痛めつけていたりすることもあるかもしれません。

私たちが復興を目指していくときに、本来、一番やるべき目的を見失わないために、まず自分自身が
否定的な考え、言葉から身を守るために、必要なのが、まず、祈りということでしょう。

4:6 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。

ネヘミヤは、神に祈ることによって、民の働く気をも守ったともいえるのではないでしょうか。

しかし、敵の誹謗中傷や攻撃が、それでやむわけではありません。
これだけやって、まだ半分の高さしか、築けないのか…
そんな言葉が、内から外から、聞こえてくる。そんな状態が続くわけです。


4:10 そのとき、ユダの人々は言った。
 「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」

70年崩れたままの城壁が、なんと高さ半分まで継ぎ合わされたわけですよね。
これって、すごい話じゃないですか。いきなり100%の完璧や、完成もありえないわけですよね。
どんな事柄でも、一段、また一段と築き上げていくわけですよ。
ある人が10段積み上げた時、ある人はまた5段目かもしれない。
でも、5段目があるから、10段目もあるんですよね。
ところが、見方によっては、まだ半分の高さしか築けていないかのようにも、なってしまうわけです。


民は、目の前にある崩された現実と、非難する人たちの言葉や攻撃によって、
徐々に、前向きな気持ちや力も失っていったわけです。

仮に自分自身の言葉でも、こういったマイナス的な発言が、人々に、どんな影響を及ぼすかを、
私たちは自ら注意する必要もあるように思います。

さらに、言葉だけではなく、実際に陰謀や工作が企てられるようになります。


4:13 そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、
  剣や槍や弓を持たせて配置した。
4:14 私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、
  およびその他の人々に言った。
  「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、
  息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

私たちが実際に剣を取って戦うことはないとは思いますが、否定的な言葉や思いと戦うすべ、
剣になるのが、まさに、神の言葉ではないでしょうか。

エペソ6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

皆さんが、聖書を読んでいくとき、好きな言葉、いいなと思う言葉、慰められたり、励まされたりする
言葉に出会うと思います。
そしたら、ぜひ、その言葉に赤線でも何でも引いて、どんどん蓄えるようにしてみてください。

自分や人の言葉と、神の言葉と、どちらが強いでしょうか…。
私たちがどんなに弱くても、その神の言葉が、私たちの心の内側にある言葉をも守ってくれるんですよね。


4:17 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。

とっくに神殿は再建させたにもかかわらず、70年間もの間、エルサレムの城壁は、復興されずにいました。
それは、なぜでしょう。
もちろん被害の大きさや、敵の妨害があったかもしれませんが、「神殿」という宗教的な空間だけで
神様を捉えて、市民の実生活、城壁には考えが及ばなかったのかもしれません。
しかし、神さまは、私たちの生活空間を守り、復興させる神さまでもあるんですよね。

私たち人間の側も、宗教的な行為だけで考える、反対に実生活だけを捉えて考えるのではなく、
片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握る、片方で生活面、片方で信仰面、
その両輪が必要なのかもしれません。

4:20 「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
  私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」


私たちが、週に一度、集まる理由もここにあると思います。
もちろん私たちが礼拝することを、神様は喜んでくれると思います。
ですが、礼拝は、私たちが神様のために「守る」ものではなくて、
日常生活の中でも様々な問題や戦いがある中で、実は、神様が私たち自身を守るために、
教会という集まり、礼拝の時を与えてくれているのではないでしょうか。


それがゆえに、どんなに小さくても、被災地に教会があるということに希望がありますし、
ここにこそ、私たちが教会として、まず現地の教会を支援する理由もあるんです。

落ち込んだとき、苦しみのとき、一人では祈る気にもなれない、聖書を読む気にもなれない時でも、
教会に来さえすれば、誰かが祈り、主にある希望、御言葉も聞こえてくるわけですよね。

私たちにとっての角笛は賛美の歌声、私たちの神が私たちのために戦ってくださるわけです。


今回の地震や津波ばかりではありません。
私たちの人生の中でも、大波、小波、津波…、様々な困難が訪れることがあります。
その時、いろんなダメージ、心の傷を負うこともあるかもしれません。

そんな時、とかく否定的、悲観的な言葉が漂いがちですが、神に祈り、御言葉の剣を取り、共に集い
励まし合いながら、復興に向け、石を一つ一つ積み上げていきたいものですよね。

…どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
 私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。

 

 


posted by holyhope at 18:48| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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