2011年11月17日

「神の家族である教会」エペソ 3:14〜21 

皆さん、おはようございます。

早いもので、11月、この会堂が出来てから、もう1年が経とうとしているんですね。
1年が早いのは、歳を取った証拠なのでしょうか。
すると、私より、もっと早く感じている方も、中にはいらっしゃるのかも!?しれませんね。。。


さて、先日は15周年のコンサートが催されましたが、15年前大竹家のまさに「家」でスタートした家の教会も、こうして会堂が与えられたわけです。
でも、会堂が与えられたから、「家の教会」ではなくなるのか…というと、それは違うように思うんですね。いや、もし違ってしまうとしたら、私にとって、非常に寂しいというか、残念なことだと思います。


この中には、すでにこの会堂が出来てから、いらっしゃっている方もいるわけですが、もはや「家」で礼拝しているわけでもないのに、「家の教会」になりうるのか…。
いや、私たちが「神の家族」であれば、ここの建物は「神の家」なんですよね。


この会堂を設計するときも、どこか「家」の雰囲気を残したいというのが、ほとんど皆さんの総意であったわけですけれども、私たちが「神の家族」であると言う意識がある時に、その家族が共に生活をする場所は、「会堂」というよりも、「家」と呼ぶ方が自然なのではないかなと思うんです。


今日の箇所は、パウロがエペソにある教会へ書き送っている手紙ですが、その中で、パウロが「祈り」を込めている箇所です。
それは、エペソ人への手紙全体を集約しているパウロの思いともいえるでしょうし、学問や神学を超えて、エペソの教会、さらにはキリストにある教会がこうであってほしい…というパウロの願い、すなわち祈りであると思うわけです。
今日はこの箇所から、私たちが、いかにして「神の家族」となり、それが「教会」であるということを、皆さんと一緒に再確認できたらな…と思うわけです。


3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

さて、早速、「家族」と出てきましたが、2章では、「他国人でも寄留者でもなく…、神の家族」なんだということが出てきます。
その家族の名の元である「父」の前に祈るというわけです。

当然の話ながら、「父」と呼ばれるためには、「子」という存在も必要になるわけですよね。

例えば、私には、まだ子どもがいませんから、当然、私一人がどんなに頑張っても「父」にはなれないわけです。

はじめに「父」という存在があって、次に「子」があるようで、実は、「子」という存在があって、はじめて「父」にもなれるわけです。
つまり、父と子という存在は、どっちが後先ではなく、お互いに同時にはじまる関係です。

この「父」に対し、「子」といえば、まずイエス・キリストになるわけですよね。
もし父なる神がはじめから存在すれば、子なる神もはじめから存在しているということになります。私たちは、その子なるイエス・キリストと言う存在を通して、神様の事を「父」と呼ぶようにもなったわけです。


それが、まず「天にいます、私たちの父よ。」とはじまる主の祈りです。
イエス様は、こう祈るようにと教えられたわけです。
神様のことを「父」と呼ぶ、しかも、「お父様」とか「お父上」ではないんです。
「アバ」…小さい子どもが父親を呼ぶ呼び方、「パパ」「ちゃん」「おとう」こういう呼び方で、読んだんです。
これは当然、当時のユダヤ人にとって、許しがたいことであって、パーだの、ちゃんだの、もう許せん!まさに、ここにはイエス様の命も掛かっているわけですね。

そのイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、私たちも神の子とされ、神様のことを「父」として知るようになったわけです。
そして、さらに、もうひとつ、聖霊という存在が登場してきます。


3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。


私たちは、御子イエス・キリストを通して、父なる神という存在も知り、神の子とされ、父に祈るということも知りえたわけですよね。
その父なる神は、どうするかというと、御霊、聖霊という存在を、私たちに送ってくださるというわけです。

さて、聖霊というと、正直な話、本当にいるんかな、よくわからないな…という方もいらっしゃると思うんですね。でも、わからなくてもいいと思うんです。
なぜならば、聖霊は、「わしが聖霊じゃ〜」というような、自己主張をせず、絶えず絶えずイエス様であり、父なる神を指し示します。

中には、聖霊の働きを強調する教会もありますが、聖霊の特殊な働きばかりが強調されすぎると、かえって聖霊の存在がわからなくなってしまう人もいるように思います。
実際、イエス様がなんと言っていっているかというと、「御霊はわたし(つまりイエス様)について教え、わたしについて証をする」、そう言っているんですよね。
また、ガラテヤ人への手紙などでは、『私たちは「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を受けた』とも言われているわけです。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。


この「こうして」というのは、まさに前節の御霊の働きでして、この御霊によって、御子イエス・キリストは、私たちのうちに語り掛け、ともに住んでくださり、だからこそ、私たちも「アバ父」、天のお父様と祈れるというわけですね。
私たちがイエス・キリストに心を傾け、「天の父よ」と祈る…、その時、その瞬間、これ自体が聖霊の働きに他ならないわけです。
まさに、「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊です。

このように、父、子、聖霊…三位一体の神様が、働いてくださっているわけですが、これをはじめて聞けば、唯一の神といいながら3つの神様がいるかのように思うでしょうし、「3つだけど、一つじゃ」という、なんちゃあ、よう分からんゆう話にもなるんだと思います。


ここで、今日は、ちょっとだけ、三位一体についてお話しておきたいと思うわけですが、
私たちは「三位一体」、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神がいて…三つで一つ、唯一の神だと考えると思います。これはローマ・カトリックから受け継いでいる考え方で、どちらかというと異邦人的な受け止め方なんです。

でも、西のローマに対し、東の東方正教会では、唯一の神の中には、父、子、聖霊…「三つある」という考え方があるんですね。

そもそもパウロをはじめ、ユダヤ人のクリスチャンにとってはどうだったんでしょうか。
彼らは、もともと唯一の神を信じているわけですね。最初に、唯一の神様がガツンと存在しているわけですよ。
そこに、イエス様が現れて、その唯一の神の中には、実は父という存在があり、子という存在、そして聖霊という存在がいるということが明らかになったわけです。神様ですので「人格」というとおかしいんですが、言うなれば、三つの神格が存在している。つまり、唯一の神様の中に父、子、聖霊…、三つがいる…こういう捉え方をします。

父だけでは存在しえないし、子なるイエス様だけ、また聖霊だけでも存在していないんです。どれか一つに偏ってもいけないし、どれか一つが欠けることもありえないんです。

父がいるなら、子もいる。さらに父と子の関係をつなぎ、さらには神と人とを繋ぐ聖霊の存在、この3つが全部が揃って唯一の神でありうるし、唯一の神の中に3つある。

私たちも、この父、子、聖霊…この3つが揃った唯一の神様の関係、交わりの中にすっぽり覆われるかのように、神の子として、受け入れられているわけです。

私たちが、もしお互い神の子どもであれば、その横の繋がりは兄弟姉妹、神の家族であるわけですよね。
これは決して、キリスト教の風習でも、誰かが言ったような「人類みな兄弟」的なスローガンのようなものではなくて、神様ご自身の性質、父と子、聖霊、3つが関係あるがゆえに、必然的に私たちも神の子、兄弟姉妹、神の家族となりうるわけです。


3:17 …また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。


私たち教会、神の家族の基盤は、愛だというわけです。
いつしか志保子さんも、組織としての教会と家族としての教会の違いについてお話してくれたことがありましたが、私たちが、一つ気をつけなくてはならないのは、教会を運営していく時に、ついつい会社組織の感覚で、物事を運んでしまうことかもしれません。
私もビジネスをしていますので、注意しなくてはならないんですが…。


教会にも会計や、様々な事務的なことも発生するわけですが、会社の基盤になっているのは、売上であり、利益です。そのために宣伝、営業もするわけですよね。同じ感覚が教会に入り込むと、献金が売上となり、奉仕は仕事、伝道が宣伝、営業となって、会員数獲得、成績が問われるようにもなるわけですよね。
人数が増えれば、自社ビルならぬ、会堂を建てて、「立派な教会ですね」と評価をうけたりするわけです。実際、こういう教会もあったりするわけですよ。
でも、これは会社的なあり方が、いつしか教会に持ち込まれてきた結果のように思います。


もし会社であれば、社員は、ある意味、やめてもいいんですよね。必要であれば、人員補充、代わりの人材を見つければいいのかもしれない。
でも、家族はそうではありません。家族の一人は、代わりになる人はいないんです。この人は、この人でしかない。これが家族ですよね。

愛に根ざし、愛に基礎を置くあなたがた…それは、私たちは神の家族であるからです。

一言で、「愛」というと、なんだかいいなあ…とも思うわけですが、この愛は人間の兄弟愛、家族愛をさらに超えて、キリストから来る、キリストの愛なんですよ。
自分が受ける愛ではなく、時に自分の命でさえも与える愛というわけです。

言うは安し、行なうは難し…、なかなか、できることではないですよね。
できること、できないことも、人それぞれ違うと思いますが、自分自身の事を思えば、よくわかると思います。はあ、足りないことだらけです。

自分がやるべきことに気づきもしない時もあれば、失敗することもある。そのくせ、人の足りないところにはカチンと来て、怒りの感情すら起きることもあるわけです。
実際にそういうこと、ありません? 実は、関係の近い家族であるほど、ありえますよね。

でも、家族であれば、そういうこともあってもいいんだと思うんです。
もちろん、いつもであっては困りますが、時にぶつかることがあっても、どこかで理解し、赦せるのも、「家族」という間柄だからではないでしょうか。

私の父親もご存知のとおり、癖のある男でしたから、散々ぶつかりましたけどね。完璧な親もいなければ、完璧な子どももいない。でも、反発して家を出たとしても、しゃあしゃあと戻ってきて、また一つ屋根の下で暮らしていけちゃうのも、家族ですよね。
もし会社であれば、クビかもしれないですよね。
実に、有名な放蕩息子のたとえ話がありますが、父なる神と私たちの関係も同じなのかもしれませんね。

また、愛だからと言って、なんでも、ただ与えればいいのか…、そんなこともありません。
実際に、家族、親子という関係で考えて見ると、よくわかると思います。
乳飲み子には、必要最大限のものを与えていくと思うんですね。しかし、ある年代からは、必要最小限を与えていくと思うんです。
なぜならば、いつまでも親の家にいて、親のすねをかじって、親に頼らなくては生きていけないようでは困るわけです。
その子も、自立していかなくてはならないからですよね。

でも、何から何まで子どもに我慢させればいいのかというと、そういうわけでもないですよね。
人を愛すると言うこと、人に与える心というのは、まず自分が受けることによって、学ぶようにも思うのです。


天のお父さん、父なる神も、必要な時に必要なだけ、必要最大限かつ必要最小限のものを私たちに与える神ではないでしょうか。

 ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…実に、最大限に与える神です。

しかし、一方で、神様を信じれば、家内安全、商売繁盛、病気一つせず、至れり尽くせり、全てが順風満帆かというと、決してそうではない。
人それぞれ、人生の様々な悲しみや痛みを自分が受けることによって、人の悲しみや痛みを知るからこそ、人を愛することも学んでいくわけですよね。

そんなわけで、一言で「愛」と言っても、いろんな要素があると思います。今の私たち一人一人は、決して完璧ではないと思うんです。
それは、エペソの教会もそうでした。パウロ自身もそうでした。
ですが、お互い完璧ではないがゆえに、いや、自分の不完全さを知れば知るほど、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するようになるのではないでしょうか。
それらを、全ての聖徒とともに…すなわち神の家族とともに、その横の繋がりの中で、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように…とパウロは祈るわけです。


3:19  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。


ああ、どんどん、スケールが大きくなっていきますよね。

礼拝という時が、神と人との関係、イエス様を通し、聖霊の働きによって、父なる神様と神の子という関係を結ぶ時であるとするならば、礼拝後の食事の時は、今度は神を中心とした子と子の関係、兄弟姉妹、神の家族として関係を深める時であるはずです。

実に、聖望教会では、毎週、一緒に食事をする。
これは、実に大切なことで、聖書的でもあると思うんです。私たちが、家族であればです。イエス様も、その多くを食卓で語られたわけですよね。一緒に食事をしたんです。その中心が聖餐でもあるわけです。

私たちが週一回、集まったときには、一緒に食卓を囲む…これは、もし私たちが家族だとしたら、ごくごく自然なこと、当たり前のことなんですよね。


そこで、日常にあった様々なことを分かち合いながらも、神の家族としての関係を深め合っていくことによって、実は、父と子と聖霊…神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされていく…ということにもなっていくのではないでしょうか。


3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。


今日は、父と子と聖霊、この三位一体の神様によって、私たちも神の子どもとされていて、その子供同士は神の家族、礼拝後の食事も実は大切であって、家族であれば実は自然な姿なんだというお話をさせていただきました。


なぜ、聖望教会では、これらが、ごく自然とできてしまったのか。
それは、もちろん大竹ファミリーという実際の家族を中心に、本当の家で始まった教会で、しかも奥様、登巳子さんは料理の先生、得意中の得意だったということもあったかもしれないです。
でも、その背後には、やっぱり確実に父と子と聖霊、この三位一体の神様の働きがあったからではないでしょうか。だからこそ、私たちは神の家族になりうるわけです。

今日は、わがままを言って、礼拝の最後に頌栄、父、御子、御霊の三位一体の神様を、純粋かつ端的に褒め称える賛美を取り入れさせていただきました。
結婚式や葬儀の時には、歌われる賛美ですので、皆さんもご存知かと思います。
父・御子・御霊の大御神に〜という賛美です。


この歌、私が小さい頃は、わけもわからず、不思議な歌だったんですよね。
「ちち・みこ・みたまの・おおみかみ」ですよ。ひらがなで並べたら、なんちゃあ、わからん。でも、礼拝の最後になぜかお約束のように歌う、でも短いから好き、これで礼拝も終わるぜ…みたいな。
でも、決して、儀式でも、形式でも、おまじないでもないわけですよね。

今日は、ぜひ、この聖望教会という私たち神の家族と一緒にですね、父、子、聖霊なる三位一体の神が、この家族を15年間守り、そして、今も、とこしえまでも守ってくださるという感謝と祈りを込めて、厳かに、でも元気よく、心から賛美したいと思うわけです。

最後にもう一度、パウロの祈りをお読みしますので、一言一言、味わいながら、皆さんの祈りとしていただければと思います。

 …こういうわけで、私はひざをかがめて、
  天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
  どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
  あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
   こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、
  あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

  また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
  すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
  人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

  どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて
  豊かに施すことのできる方に、
  教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。


愛する天のお父様、感謝します。
これまでの15年という時、三位一体、父・子・聖霊なる神様が、この聖望教会という神の家族を守り、養い育ててくださっていることを覚えて感謝します。
あなたが与えてくださったこの会堂も、私たちが神の家族としての関係を深めることによって、さらに神の家族の集まる家、神様、あなたご自身の家として、ますます用いられていきますように。
また、さらに、この先も、まさに、このパウロの祈りのように、私たち、神の家族の上にも、現実として、豊かに、あふれるばかりに、現されていきますように。

今週一週間、私たちのそれぞれの歩みがありますけれども、あなたがともにいて、守ってください。
そして、また来週、神の家族として、この家で集うことができまように、お祈りいたします。

愛する主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。 アーメン。


posted by holyhope at 16:07| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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