2011年12月06日

「『今日』という日がクリスマス」ルカ2:8〜20 

2011年12月4日 原町聖書教会(南相馬市)

DSC00613.jpg 
(午後の歓談風景。礼拝も食卓を囲んで行なっております。)

みなさん。おはようございます。

今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

前回7月にはじめてお邪魔させていただいたんですが、この教会は通称「ただいま」の教会ということで、
私も、すっかり気に入ってしまったんですよね。
そんなわけで、はじめましての方もいらっしゃるんですが、皆さん、ただいまーと挨拶させていただきます。

私たちの教会も元々家の教会なんですね。
ですから、元々は本当に家の食卓で礼拝をしていましたし、今は会堂も与えられたんですが、
やはり、その名残で今もテーブルを囲んで礼拝をしています。
今日は、一応、スーツを着ているんですが、普段、うちの教会で、こうしたお話をする時には
普段着でして、先生なんて呼ばれたことなどないんですよね。
「竹下君」や「竹ちゃん」、がんばって「力さん」ですから、みなさんも同じように呼んでいただ
ければと思います。


さてさて、今日は、クリスマスのお話をということだったので、クリスマスのお話をさせていた
だきたいと思っているのですが、クリスマスって…何の日でしょう?


12月25日と言うと、最近の子どもたちに聞けば、時にサンタクロースの誕生日…といわれて
しまう時もあるんですが、イエス・キリストの誕生「日」をお祝いしているのかというと、
それも違っていて、イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけでもないんですね。

これは後の時代に定めらたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、
9月か10月くらいじゃないかとも言われています。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?
実際のところ、特定できないんですね。

では、誕生日でもないのに、何をお祝いしようとしているのだろう…、
クリスチャンは、一体、何を喜んでいるのだろう…、
今日はクリスマスの喜びについてご一緒に分かち合えたらと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。


世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。
ベツレヘムは標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな村。しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が遠吠えしていて、その寂しさを
凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。
 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そんな、いきなり御使いだの天使だのが現れたら、そりゃ、
びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、いるんかいなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、
彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれません。


聖書で羊飼いというと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、どちらかといえば、羊飼い
同士で放牧する土地を争う、やくざまがいの部分もあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神から離れ、神からも見放された者、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのかもしれません。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
    この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
    これが、あなたがたのためのしるしです。」


 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。

 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。


もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、
見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。

ごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもする
わけですよね。宿屋の主人に入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、ナザレという田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、
飼い葉おけ、馬小屋で生まれた。
だからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

「御心にかなう人々」とはどんな人たちなんでしょう。
日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように
思うんですね。

でも、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰しも間違うこともあるし、失敗することもありますよね。
クリスチャンであっても、夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいします。
私も平日は旅行会社で働いているわけですが、まあ仕事をしていれば、ストレスは溜まるし、
イライラすることもあるし、失敗すれば落ち込みもします。
クリスチャンであっても、病気にもなれば怪我もするし、人間関係で悩むこともあります。

それなのに、自分は正しい…と思い込んでみたり、言い訳をしてみたり、誤魔化そうとしたりもしてしまうんですよね。

とかく人間というのは、自分が正しいと思いたい…そんな性質があるように思う。
でも、自分は正しい、自分は間違っていない、そうお互いに言い合っては、争ってみたり、
時に人を殺してしまうことすらあるわけです。
実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言い張って、起きるんですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、
決して、そうではないはずなのです。
もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。

「天に栄光、地には平和を」

神が正しく、自分には間違いがある。
もしお互いに、お互いにですよ「自分が間違っていました、ごめんなさい」と認め合うことが
出来たなら、夫婦喧嘩も戦争なんて起きないのかもしれませんよね。

確かにある瞬間、ある部分は正しいこともあるかもしれません。
でも、実際には、どこかで間違っている自分もいるはずなんですよね…。
隠しておきたい、いわば「闇」の自分かもしれません。

しかし、救い主は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためでもなければ、立派で正しい人間のためでもない。
いや、むしろ、誰しもが抱えているはずの、間違う自分、誤ちを冒す自分、普段は隠している
闇の自分、人から見れば間違いだらけの自分のところにこそ、救い主はやってきたというのです。

こんな私のところにも、救いがやってきた。

こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。

ある殺人強盗で捕まった男が、十字架に釘つけられていました。
十字架というのは、世界で最も苦しい死刑です。それは自業自得とはいえ、まさに人生最悪の日。

でも、彼にとって特別だった事が一つあって、横に、あの救い主と呼ばれたイエスという男も
一緒に十字架につけられていたことでした。

もう、周りではローマの兵隊やら野次馬たちが野次を飛ばして、あざけっている中、
この強盗はこう思うんです。
「自分が十字架につけられたのは自業自得、でも、この人は何も悪いことなどしていない。」
そして、こう言うんです。

イエスよ、天国に行ったら、俺のことも思い出してほしい…。

すると、イエス様は彼にこう語りかけるんです。
「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイス、天国に行く。」


こんな俺のところに、救いがやってきた。
こんな俺でも、イエスは愛してくれていた…。


彼にとって人生最後の最悪の日は、人生最初のクリスマスへと変わったのです。

イエス様は一番目に、「今日」、今日だと言いました。
どれだけ正しいことをしたか、どれだけ聖書読んだか、最低1年くらい教会に通ってからでもありません。
強盗であっても、今までどんな罪や傷があったとしても、「今日」、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

2番目に、「わたしと一緒だ。」そう言ったんです。
ただ単に「あなたは天国に行くよ」じゃないんですね。「わたしと一緒に、天国に行く。」
もし、イエス様がなんら苦しみを負わず、ただ十字架の下にいただけなら、
彼の心に、その声は届かなかったかもしれません。
でも「私が一緒だ。」イエス様も一緒に、同じ苦しみを負っている…。
だから、彼は十字架の苦しみの中にありながら、そこに慰めが与えられ、救いの希望まで
持つことが出来たんですね。

イエス様の弟子ヨハネは、イエスのことをこう表現しています。

 光は、闇の中で輝いている…。闇はこれに打ち勝たなかった。


皆さんにとっての、「闇」とは何でしょう…。


本当に人生は山あり谷ありです。
今までの人生の中にも、様々な傷、失敗、後悔…、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
特に今回の震災では、皆さん、本当の本当に辛い思いもしていらっしゃると思います。
少しでも理解しようと、こうしてやって来たりもするんですが、でも、実際に生活しているわけでは
ないから、本当のところは、やっぱり理解しきれないんだと思うんです。

でも、イエス・キリストは違います。
その悲しみ、苦しみ、「闇」の中にこそ、イエスは来てくださるお方です。

たとえ一人孤独のうちに叫ばざるを得ない、そんな夜が来たとしても、
イエス・キリストは、あなたの傍にいて、私が一緒だ、俺はお前のことを愛しているよ…、
そう語りかけてくる、そういうお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 きょう、あなたはわたしと一緒にパラダイスに行く…。

こんな私のところに、救いがやってきた。
こんな私でも、イエス様は愛してくれていた。

私たちが、そんな救い主に出会うのは、夏の晴れ渡った青空の下というよりは、
やっぱり冬の寒い夜、暗い星空の下での出来事なのかもしれませんね。

…恐れることはありません。
 今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
 この方こそ主キリストです。



ラベル:クリスマス ルカ
posted by holyhope at 17:37| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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