2011年12月12日

「王として生まれたキリスト」ヨハネ18:33〜40

2011年12月11日 キリスト教会「石巻祈りの家」

石巻祈りの家 石巻祈りの家
 (個人宅で行われている正真正銘アットホームな家の教会です。)

 みなさん、おはようございます。
 今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

 さて教会の暦では、クリスマスを前にして、アドベント、まさに救い主がお生まれになるのを
待ち望む時期にあたるわけですが、私たちは一体どんな救い主を待ち望んでいるのだろう、
クリスマスには何を喜び、何を祝おうとしているのか…って考える時なわけです。

 …と言いながら、今日の箇所は、クリスマスとは全くかけ離れた、イエス様が十字架に
着けられる直前、ピラトの裁判のシーンだったりするんですが、私たちは、幸いなことに、
イエス・キリストがどういうお方であるか、イエス様がお生まれになった後の出来事、
その生涯全体をよく見て、そのイエスが、神の子、救い主かどうか、じっくり判断することが
できるわけですよね。
 その上で、イエス様を救い主としてお迎えし、イエス様がお生まれになったことも祝う。
 これが私たちにとってのクリスマスです。

 しかし、当時のユダヤ人たちは、歴史の順番通りにしか見ることが出来ないわけです。
つまり、救い主が実際どんなお方で、どんな風に救いをもたらしてくれるのか、見ることなく
待ち望み、そして迎えることになるわけです。その違いって、あるような気がします。

 この裁判では、「ユダヤ人の王」ということが焦点になっているわけですが、ユダヤ人たちは、
王と名乗るこのイエスという男を死刑にしろというわけです。
 ところが、このピラトはローマ総督ですから、なぜ死刑にしなくてはならないのか、まるで
見当もつかないわけです。

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。
     「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。
     「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
      あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。
     「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、
      あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」

もし、例えば私がですね「私は王だ」と名乗ったとしても、「お前は馬鹿か」で終わるじゃないですか。
例えば、政治的なテロでも起したなら別ですが、ただ単に、自分は王だと名乗っただけなら、
死刑にまではならないですよね。

今、ピラトの目の前にいるイエスという男は、縛られて、なんら抵抗するわけでもない、
ローマを冒涜したわけでも、政治的な活動をしてきたわけでもない、
たとえローマに刃向かったとしても、ローマの軍隊にかなうわけがない。

なぜユダヤ人たちが、これほどまでにイエスを十字架刑にしろというのか、その理由が
わからないんですね。私たちにも、わからないところがあるのかもしれません。
 
そこで、ユダヤ人たちにとっての「王としての救い主」とは、どんな意味を持つのか、
まずは歴史の順番どおりに、少し見ていきたいと思います。

イザヤ書 9:6
 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

これを預言したイザヤは、実にイエス・キリストの誕生から700年以上前に活躍した預言者です。
イスラエル自体もともと小さな国なのですが、それが南北に別れてしまい、外国の脅威に
さらされていたですね。その時に、救い主の誕生が預言されたのです。

それから700年という間、彼らは、救い主を待ち続けることになるわけです。
 
クリスマスまで、あと700年。待てますか?
誰も待てん…というか、誰も生きていません。
それどころか、ただ「700年」といわれても、あまりピンと来ないまま、話が流れてしまうと思うんですね。

今から700年前というと…、西暦1300年、日本でいえば鎌倉時代の末期になります。
1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏によって室町幕府が建てられたわけですね。
それから戦国時代、織田、豊臣、そして徳川によって江戸幕府…
ちょうど今年はNHKの大河ドラマで「江」がやっていましたけど、その江戸時代が15代、
260年続いた後に大政奉還、明治、大正、昭和、平成へと…気が遠くなりそうですが、
これが700年という時です。

その700年間、何世代にも渡って、いつ来るかもわからないまま救い主を、ずーっと
待ち続けていたわけですよ。

イスラエルは、イザヤが預言してから間もなく、まず北のイスラエル王国がアッシリア
という国によって滅ぼされます。
その後、新バビロニアによって南のユダ王国も滅ぼされ、バビロン捕囚、外国に囚われの
身になったこともありました。
その後もペルシア、ローマ帝国と、常に外国の脅威にさらされて、ほぼその支配下に
あったわけです。


彼らは、周辺諸国と戦って、イスラエルの独立を果たしてくれる王としての救い主、
まさにイスラエルにとっての「平和の君」が現れるのを、ずーっと待ち続けていたわけです。

 実にイエス様の弟子たちも、またそうだったんですね。
 彼らもまたイエス様がイスラエルの独立を果たしてくれると信じていたんです。
使徒の働きの1章を見てもわかります。

使徒1:6 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

十字架、復活の後も彼らは、イスラエルの独立を求めていたのです。

一方で、ユダヤ人の中には、王としての救い主が来られては困る人たちもいました。

まず、その一人はヘロデ大王です。
もし自分以外に王がいるなら、彼にとっては自分の座を奪う敵ですよね。
実際に、彼は、東方の博士から「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、
2歳以下の男の子を皆殺しにしています。

そして、もう一人は実質的な政治を行っていた大祭司をはじめとする祭司たちです。
彼らは、群集がイエスのことを、待ち望んでいた救い主だと信じて、暴動が起きることを
何よりも恐れていました。
もしそうなればローマが黙っていない。本当に、イスラエルは潰されてしまう。
彼らは彼らなりに、イスラエルの国のことを考えていたんですね。
彼らは、イエスの人気や力も知っていましたから、それだけにイエスを非常に危険視したわけです。
そして、ついにイエスを捕らえて、ローマの手に引き渡すことができたわけです。

さて、あとは群衆たちですよね。
皆さん、どうでしょう…。
よく群集たちが、あれだけイエス様を大歓迎してエルサレムに迎え入れておきながら、
1週間も経たないうちに十字架につけろと叫ぶようになったのか…。
疑問としてあがるところだと思うんですよね。

でも、今の日本、まさに、これと同じだとおもうんです。内閣支持率なんてそうでしょ。
民主党政権になりました。それまでは、わっーと盛り上がっていたと思えば、批難の嵐です。
子ども手当て一つだけみて、政権や内閣の是非って問えますか。
野田内閣になって、また少し盛り上がったかと思えば、引いていくわけですよね。

まして、神様から約束された「王なる救い主」のはずが、今、まさに敵国ローマの手によって
捉えられている、もし、その姿を見たとしたなら、皆さんなら、どう思いますか…。

私なら、がっかりするというか、正直、偽者だと思ってしまうと思う。
だから、あれほど集まっていた大勢の群集たちも、みな一斉に引いていったわけです。
それどころか、期待が大きい分、何だ、偽者じゃないか、十字架につけろと叫ぶようにもなったのです。

日本は、いまだかつて世界地図の上からなくなったことのない国ですから、その心情は理解し
得ない部分もあるかもしれません。
でも、ユダヤ人にとっての「王としての救い主」というのは、それは待ち続けた700年という時の
重さでもあったわけです。

一方、イエス様の方です。
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。
     もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、
     戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

イエス様は、実際に、この世の国のこと、政治的活動をしてきたわけではありません。
イスラエルという国を守ろうとするとき、そこには必ず戦いがある。それは旧約聖書の歴史が嫌というほど物語っていることです。
イエス様は、そういったこの世の国と国の壁、民族、部族を越えた、神の国へと招こうとしていたんですね。

イエス様が、捕らえられるときにも、弟子の一人が剣をとったわけですが、「剣を持つものは、みな剣で滅びる。」
イエス様はすぐにやめさせました。神の国は、そうやって勝ち取るものではなかったからです。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」
     イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
     わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
     真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

イエス様は、これまでご自身のことを「王」として公に語ったことはありません。
むしろ、弟子たちに救い主であることを隠すようにも言われて来たほどです。

ところが、この裁判の席上では、公に自らを「王」として名乗ります。
まして、この状況、場面で公にすることは、必然的に十字架を意味していたわけです。
でも、その死を目の前にした場面で、イエス・キリストはこう語るわけです。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

ピラトには、まるで、その真理が死をもたらすかのような、死ぬために生まれてきたかのように
聞こえたかと思います。

ピラトは言います。「真理とは何か。」

真理とは何でしょう。皆さんなら、なんて答えますか。「真理とは何か。」


真理にも、いろいろあると思いますが、この時、この場面で言われるところの真理とは何か…。
岩波国語辞典によれば、真理とは、本当のこと、間違いでない道理、正当な知識内容だそうです。

たとえば、もし本気で平和を実現しようとするならば、それは単純に、せーので、武器を捨てる
ほか道はない。平たく言えば、愛し合うということ。これも一つの真理だと思います。

でも、人間は武器を持ってしまう。必ず武器を使ってしまう人間がいる。
これも真理といえば真理でしょう。

武器をとり、それを使う人間がいる中で、武器を持たないということは、まさに命がけです。
平和を願いながら、やはり武器を取ってしまう。あるいは、武器を持たせてしまう。
これもまた、私たち人間のもつ真理なのかもしれません。

しかし、武器を持って戦わせるのではなく、国民を救うために、王自らが命を捨てる。
普通は、王を守るために、国民が戦います。王が死ぬとき、その国家は敗北です。
かつてのイスラエルもそうでした。王が死んでは、一見すると、無意味のような気がします。
あり得ない。
しかし、それが、平和への道だとしたら…。

王自らが、十字架で命を捨てる代わりに、イスラエルも、ローマも、日本も、あらゆる国民を
神の国へと招き入れる。
これが、「王」であり「救い主」としての使命、生きる道であり、真理だったのではないでしょうか。

この後、19章のところを見ると…
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。

「さあ、この人です。」と訳されていますが、昔の訳では、「この人を見よ」。

やや差別的な言葉が使われていて、ピラトにしてみれば、この無力で哀れな男を見てみろ、
これでも死刑を望むのか…そういう意味で、言ったと思います。

ピラトにしてみれば、バラバの方が、よっぽど危険人物に見えたに違いありません。

このバラバこそ、強盗と書かれていますが、ローマからの独立を目指して、取税人や
ローマの兵隊を襲って強盗働く革命家、つまり自称「救い主」の一人ではなかったかと
言われています。
当時、そうやって本当にテロ的な活動をして、十字架刑に処せられていた人たちも多くいたんです。

ですが、先ほども言いましたが、イエス様は政治的な活動をしてきたわけではありません。

この人を見よ…!! 

しかし、この時のユダヤ人たちには、イエスの方が、神の名を語る偽者のように見えてしまったのです。

十字架の死というと、なんとなく気分も重たくなると思うんですね。
ですが、イエス様は、決して、死ぬために生まれてきたわけではないと思うんです。
この場面で、十字架を背負ってしまう、それがイエスという男ではないでしょうか。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」
十字架に釘打たれる中、こう叫びます。
「父よかれらをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

少なくとも彼は、あらゆる国民を守るため、王自らが命を捨てる。
それはユダヤ人に限らず、私たち人間が誰しも抱えている咎、エゴ、罪がもたらした
結果かもしれません。
イエス・キリストは、私たちの「罪」のために十字架につけられたというのは、
ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。
その十字架を背負い、最後の最後まで「王なる救い主」として生きたんですよね。

今日の交読文、イザヤ53章を選ばせていただきましたが、まさにイエス・キリストの
預言と言われている箇所です。その中にこう出てきます。

イザヤ53:11
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう…。

これが神の御心であり、王としての姿。この「受難のしもべ」とも呼ばれるお方を
「王なる救い主」として迎えるとき、イエス様も喜んで私たちの王として、私たちを
神の国の一員として迎え入れてくださるんですよね。

この人を見よ。
この人を見たとき、何を感じ、どこに真理を見出すか。

哀れな人だと見るか、ただの馬鹿だと見るか、それともこの方こそ神の子、
王なる救い主と見るのか。それは、もう人それぞれだと思います。

この時、多くのユダヤ人たちは、イエス様を救い主としては認めることができず、
その後も救い主を待ち続けることになりました。

このあと、イスラエルは、ローマによって滅ぼされ、それから、さらに1900年の間、
差別や迫害も受けながら、ただ救い主を待ち望み、その信仰のみで、ユダヤ人と
しての自分たちを守ってきた民族です。

今でこそ、彼らは国家を持ち、軍隊も持っています。
ユダヤ人にもいろいろいるわけですが、でも敬虔なユダヤ教徒たちの中には、
今のイスラエルは人の力、暴力によるもので、神のイスラエルではないと言う人もいるんですね。
彼らは、まさに今もなお「王としての救い主」、平和の君を待ち望んでいるわけです。


さて、私たちは、今、どんな救い主を待ち望んでいるでしょうか。
救い主に、どんな期待を持って待ち望んでいるでしょうか。。。

誰しもが家内安全、商売繁盛、健康で、いつまでも幸せを願うと思います。

ところが人生、山あり、谷ありです。決して順風満帆ばかりではありません。
特に今回の震災では、皆さん、本当に多くの悲しみ、痛み、苦しみを負って
こられたかと思います。
正直、救い主、神様がいるなら、なぜ?と思うこともあると思います。

しかし、イエスキリストは、私たちの貧しさの中へ、悲しみの中へ、
その痛みの中に来てくださるお方です。

 イザヤ53:3 彼は、悲しみの人で病を知っていた…。

2000年前、イエス・キリストは、貧しい大工の家庭の子供として、馬小屋で生まれました。
私たちと同じように、何も出来ない、赤ちゃんとして生まれたんですね。
何も出来ないどころか、世話をしなければ、生きていけないんですよ。

それが、世界で最初のクリスマス。これが「王として来られた救い主」の姿です。

ですが、馬小屋だったからこそ、野にいた羊飼いたちも、救い主のもとに駆けつけることができました。
あたたかな布団はなくても、マリアとヨセフがいて、愛とぬくもりがあったと思います。
貧しいかもしれないけれども、そこには確かに「平和」があったのではないでしょうか…。

そんな王としての神のひとり子、イエス様をお迎えするクリスマスになったらいいですね。

イザヤ 9:6
  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
  主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。


 



posted by holyhope at 19:18| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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