2012年03月03日

「弱さの中に働くキリスト」マルコ4:35〜41, Uコリント12:8〜10

みなさん。おはようございます。

今日は、教会学校と大人の礼拝とのダブルヘッダー、2度目の登板となるんですが、
ある意味、いろんな経験を積んでいる大人の皆さんに語るのと違って、
子供たちに教える…というのは、私自身、いろいろと学ぶことも多かったような気がします。

今日の教会学校では、先のマルコの福音書の「嵐を静める」シーンが聖書箇所でした。
大人の皆さんには、もう一歩、深く踏み込んでお話させていただければと思っているんですが、
もし皆さんだったら、この箇所から、子供たちに、どのようなお話をするでしょうか…、
それを、ちょっと考えてみてほしいんですよね。

普通にパッと考えると、嵐を恐れた弟子たちの信仰の弱さを指摘して、
イエス様を信じれば大丈夫、弟子たちのようではなく、イエス様を信じましょう…というような
お話をしたくなるような気がします。
もちろん、これ自体が間違いというわけでもありません。

でも、そこをグッと堪えて、1歩踏み込んで考えてみると、自分自身がこの状況に置かれたら、
果たして何ら恐怖を感じないだろうか…というと、決して、そうではないんですよね。

私たちが、子供たちに何を伝えようと考えたときに、こうした聖書の記事から、つい瞬間的に、
理想的なお話、ある意味、いいお話に、まとめてしまうことがあるような気がします。
もちろん、それは、子供たちに信仰を継承してほしい、健全に成長してほしいという願い
からくるわけですが、実は、大の大人も怖がる、自分にもできないようなことを、
子供たちに要求してしまうことにもなるんじゃないか…、そんな気がします。

ですので、子供たちや誰かに教えるという前に、一歩身を引いて、自分自身のことに
置き換えて考えてみるのがいいと思います。

イエス様を信じていても、困難にぶつかること、怖くなること、不安になること、悩むこと…って、
実は、ありますよね。
それは私なんかより、人生のベテランの方々なら、よくご存知だと思います。
イエス様を信じていれば、地震や津波は襲ってこないんでしょうか。
タイタニック号は、沈まなかったんでしょうか。
決して、そうではないんですよね。

子供たちも、将来、いろんな波風嵐、困難にぶつかります。
不安になること、恐怖に襲われること、あるかもしれません。
たとえイエス様を信じていても、そういう患難があることを前提にしていないと、
実は、そうした恐れに襲われたとき、逃げ場がなくなる…、
どうすればいいのか、わからなくなってしまうような気がしますよね。

マルコ4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。

みなさんだったら、どうでしょうか。怖くありませんか。
よくよく状況を考えてみれば、この弟子たちの中には、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…
少なくとも、ガリラヤ湖出身の4人の漁師さんたちがいたはずなんです。
船の操縦も慣れたもの、湖のことも知り尽くした、この道のプロが4人も乗っていたんですよね。

そのプロたちですら、恐ろしくも、怖くもなってしまう、実際に身の危険を感じる程、
ものすごい嵐だったんです。
単に弟子たちが弱いのではなく、この状況の中にあっても動じない、冷静さを保つというのは、
実は、かなりレベルの高い話ではないでしょうか。

どうでしょう。。。みなさんだったら、どれだけ冷静に保っていられるでしょうか?
イエス様みたいに寝てられますか?とても寝てなんか、いられないと思うんですよね。

寝るといえば、うちの静さんも、夜、テレビ見ながら、リビングで寝始めると、もう起きられなく
なっちゃうんですよね。
声をかけても、「あ゛」。話しかけても「ん゛〜」。
ホットカーペットがあるとはいえ、この冬でも、そのまま4時、5時、下手をすれば、朝まで寝てしまう…。
それだけ、強い信仰の持ち主といえるのかもしれませんが…、
そんな静さんであっても、さすがに、この嵐の中では寝てなんかいられない、
きっと、ぎゃーぎゃー騒ぐと思うんです。

4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

静も騒ぐこの嵐の中をですよ、どうして、イエス様は、寝ていられたんでしょう…。
むしろ、その方が、すごいというか、不思議なくらいではありませんか。

所詮、小型の木造漁船です。
もちろん大きく揺れていたし、弟子たちも大騒ぎしているわけです。
しかも、この時、波をかぶって、船に水が入って、沈みかけていたわけですよね。
弟子たちは、必死になって、水をかき出していたんでと思うんです
ところが、振り向けば、イエス様、寝てるんです。弟子たちも、びっくりです。

4:38 …弟子たちはイエスを起こして言った。
 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

弟子たちは、イエス様が寝ているのを見て、半分、憤慨もしているようです。
もし、これが一番年下のヨハネが寝ていたらどうでしょう。
ペテロあたりが、蹴っ飛ばして、たたき起こしているような気がしますよね。
私たちは、恐れや心配事が募ると、実は、怒りの感情も巻き起こってしまいがちなんですよね。

イエス様は、よっぽど疲れていたのか、はじめは本当に眠り込んでいたんだと思います。
ですが、どこからかは、この嵐の中、弟子たちが、どう対処するのか…、
半分寝ながら、様子を見守っていた…ような気もしますよね。
あたかも弟子たちの弱さが浮き彫りになってくるのを待っているかのようです。

4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

「どうして、そんなに怖がるのか…。」
私たちにも、何かのピンチに遭遇したとき、多くの心配や、恐怖心がおきる。
それは、ある意味、当然ありうることです。
でも、そのような中で、無制限に恐れっぱなしではなく、いかに冷静な判断を保ち、
適切な対処ができるかが勝負ですよね。

実は、この時の弟子たちには、そんな自分の弱さ、限界を知るということが、まず大切だったのかもしれません。
なぜなら、弟子たちは、この先、福音宣教のために、
もっと、もっと多くの困難、身の危険も乗り越えていかなくてはならなかったわけです。

「信仰がないのは、どうしたことです。」
そうはいっても弟子たちは、仕事を捨て、イエス様についてきた人たちです。
決して、信仰が全くなかったわけではありません。
しかし、恐怖心のあまり、信仰なんて、どこかに吹っ飛んでしまったわけですよね。
冷静さを失ってしまったんです。そこに問題があったんではないでしょうか。

実に、イエス様は、助けを求めてやってきた異邦人や女性には「あなたの信仰は立派だ」とか、
「あなたの信仰があなたを救った」など信仰を認めています。
その割りに、ところが弟子たちには、「信仰がどこにあるのか」「信仰が薄いものだ」とか
弱さを指摘することが多いんですよね。

ですが、イエス様も、そうは言いながらも、そんな弟子たちを、助けていくんです。
それも、この時ばかりではありません。何度も、何度も、繰り返しです。

4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

実は、この弱さの中に働くキリスト体験、実体験の積み重ねこそが、
いかなる恐怖や困難にぶつかっても、冷静さを失わないで対処できる、
揺るがない信仰を作り上げていくために、弟子たちに必要なことだったんではないでしょうか。

今日の招きのことばに取り上げましたが、
イエス様は、決して、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

私たち大人も、まず自分の弱さを認めるということが必要なような気がします。
そして、その弱さに働くキリストの存在を知ることになるわけです。

そのことを一番、明確に証しているのが、次に上げたコリントの手紙に記された
パウロの証であるように思うんですね。
パウロは、いわゆるダマスコ途上の出来事、教会を迫害に行く途中、強い光を浴びて、
その時以来、視力が弱くなったようです。
前の節では「肉体のとげ」という表現が出てきますが、おそらく、ここでも、その目のことで
祈っているのではないかと思われます。

なぜなら、こうして目が悪い、病気があるというのは、当時の社会通念上、神からの
祝福を失っている証拠、罪がある証拠かのように見られていましたし、
見方を変えればですよ、パウロの信仰が弱いかのようにも見られたかもしれません。
パウロ自身も、心のどこかで、否定的に考えていたと思います。
「肉体のとげ」のようで、実は、「心のとげ」となって、ずっと突き刺さっていたわけですよね。

Uコリント
 12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

三度も祈るというのは、文字通りの三回かもしれませんが、象徴的に人間的な限界を
表す数でもあるんです。いずれにしても、パウロのことですから、それは真剣に切なる祈りを
捧げていたことでしょう。
しかし、それでも、この「肉体のとげ」、目が癒されることはなかったわけです。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。…

もともとパウロは、ユダヤ教のエリート中のエリートだったわけですよね。
ある意味、怖いもの知らず、弱さとは縁がなかったかもしれません。
だから、愛だの、罪の赦しを解くキリスト教会が許せなくて、迫害していたわけです。
ですが、そのダマスコ途上の出来事で、「わたしは迫害するイエスである」という声を聞き、
視力を失い、自らが弱さを負うことで、人の弱さを理解するようになり、
キリストの愛の素晴らしさをも知るようになったわけですよね。

パウロにとっての、この「肉体のとげ」、弱さというのは、決して不幸なものではなく、
パウロの実体験上も、キリストの恵みを受け取るために必要かつ十分なもの、
なくてはならないものだったわけですよね。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」

このことばは、直接、パウロの心に響いてきた言葉であると思われますが、そのことを思い出させてくれたわけです。

12:9 …ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちも、自分の弱さや罪を知るからこそ、イエス・キリストを信じたんだと思うんですよね。
もし私たちが、自分の弱さを誇ることができたなら、これほど強いものはないと思います。
そうでしょ。弱さが誇れちゃうんですから。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

これは、ある意味、究極ですよね。
なかなかパウロの境地にはたどり着けないかもしれません。

私たちには、いろんな弱さがあります。
時には、弱さがゆえに、恐れること、不安になることもあるともあると思います。
それ自体は、ある面、避けられない、あってもかまわないと思います。

でも、その時に、ただ恐れるのではなく、落ち着いて、私たちの内に起こりうる心の嵐を静めることの
できるお方、イエス・キリストに、いかに頼れるかでしょう。

私たちが不安や恐れ、あるいは怒りの感情に捕らわれているときには、
私たちの脳は、否定的な言葉で、ぐるぐる、いっぱいになっているはずです。
自分に向えば「どうして自分は駄目なんだろう」、他者に向えば「どうして、こうなんだ!」と怒りの言葉にもなります。
そんな時に、軌道修正してくれるのが、まさに神の言葉ですよね。

そこで今日は、聖書の中から、そんなことばを、いくつかピックアップしてみました。
これはあくまで単純に、私の独断と偏見で選んだだけなんで、皆さんそれぞれに、
この言葉の方が心に響くという御言葉もあると思います。

どれも有名な言葉ですから、よくご存知の方もいらっしゃるとは思うんですが、
イエス様も嵐をことばで静めたように、こういう言葉を意識して、見返したり、頭の中に刻んでおいたりすると、
神の言葉が私たちを守ってくれるんじゃないかな…と思うわけです。


〜弱さを感じたときに読みたい神のことば〜
 (まだまだ、いろいろあります。自分なりに作ってみるといいと思います)

ヨハネ16:33 「…あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 これは、今日の教会学校での暗証聖句にさせていただきました。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。」…実際に、あるんですよね。
 「しかし、勇敢でありなさい。」…勇気を持って、行動しなさい。挑戦しなさい。
 「わたしはすでに世に勝ったのです。」
 …イエス様もまた、弱さを負いながらも、十字架の苦しみ、恐怖に打ち勝ったわけです。
 そのイエス様が、わたしたちと一緒にいてくださるわけですよ。

 子供たちには、これからの将来、たとえ恐れを感じたとしても、
 勇気をもって、チャレンジしてもらいたいという願いを込めて、
 この言葉を選んでみました。

ヨハネ 20:19 …「平安があなたがたにあるように。」 

 イエス様が復活したときの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めていたわけですが、
 その弟子たちの中に入ってきて、イエス様が語られた言葉です。

 これはヘブル語でいう「シャローム」、挨拶の言葉です。
 朝でも夜でも、出会ったときも、別れる時にも使えます。
 朝には「ボーケルトーヴ」という朝の挨拶がありますが、いつでも使える、
 日本語で言えば「どーも」に相当するかもしれません。
 でも日本語の「どーも」は、何が「どーも」なのか、あまり意味はないんですが、
 ヘブル語では「平安があるように」という言葉が交わされているんですよね。

 「平安があるように…」
 これは、自分に対しても、他者に対しても、持ち続けたい、祈りの言葉でもあるように思います。


マルコ5:36 「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 これはヤイロという人が娘が死にそうなので助けてほしいと、イエス様にお願いし、
 家に向う途中、娘が亡くなったという知らせが入った…、その時、イエス様が語られた言葉です。

 単純、シンプルな言葉ですけどね。
 ちょっとしたときに思い出せて、「恐れることはないんだ」と勇気付けてくれるのではないのでしょうか。

マタイ11:28〜30
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 …わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

以前から疑問だったのが「休ませてあげよう」…といっても、結局、荷は負うわけじゃないですか。
どうして休まるのか、荷が軽くなるんだろうって、思っていたんですよね。
でも、自分ひとりで負うのではなく、「わたしのくびきは負いやすく…」
実は、イエス様が一緒に負ってくださるんですよね。

詩篇23:4  
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 有名な詩篇23篇ですが、なぜ恐れないのかといえば、やはり神様がともにいてくださる、
 ともに歩いてくださる…、その実感、安心感からですよね。

 詩篇の中にも、いろいろと、いい言葉が出てきますよね。

詩篇  30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 いつまでも、悲しみや、不幸が続くわけではないんですよね。

詩篇 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
        
 「わがたましいよ…」というのは、詩篇によく出てくるフレーズですよね。
 これは詩篇の作者自身が苦しみにあるとき、悲観的な言葉で心がとらわれているとき、
 自分の魂、心、脳みそに言い聞かせているように思うんです。

イザヤ41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

 神さまは、繰り返し「恐れるな」と語りかけていますが、特に、このイザヤ書には多く出てきます。
 それだけ私たちは、恐れるからでしょう。
 その中でも、この「虫けらのヤコブ…」って、好きなんですよね。なんか、いいじゃないですか。

 たとえ「虫けら」のような私たちであったとしても、神様は助けてくださるんです。

申命記8:16 …あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。

 神様は、イスラエルの民を、厳しい荒野を通らせたんですが、
 「ついには、しあわせにするためであった」というわけですよ。
 私たちも試練の中を通るときもあるわけですが、それも「ついには、しあわせにするため」とはいえないでしょうか。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


 この言葉も同様ですよね。
 一時は、なぜこんなことが起きるんだろうということって人生には度々あるわけですが、
 後から振り返ってみると、あの経験があったから…ということって、多分にありますよね。
 たとえ不幸や失敗に思えるようなことでも、実は、無駄な経験は何一つもない、
 そこから学ぶこと、受け止め方一つで、すべては「益」になっていくんです。

Uコリント 12:9 「わたしの恵みは、あなたに十分である。
  というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

先ほども取り上げましたが、自分の弱さがゆえに、自分が嫌になったり、
苦しくなったりすることもありますが、弱さがあるがゆえに、人の弱さも理解できれば、
キリストの愛も知ることができたわけです。
そう考えれば、弱さもまた、実は、「恵み」の一つなのかもしれないですよね。

■誰かが弱っているときには…

ローマ 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 

これはおまけですが、わたしたちは、弱っている人に、無理に励ましたり、
すぐに元気になってもらおうとしてしまうことがあります。
でも、まずは、喜ぶものと喜び、泣くものと一緒に泣く…、
心に寄り添うことの方が先決なのかもしれません。

■クリスチャンのライフスタイル

Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

最後に、クリスチャンのライフスタイルとしてみましたが、
この言葉は、何をするにしても、私たちの人生全般にわたっての生き方、
一つの指針ではないかな…って思うんです。

静岡の実家のお便所に掲げられていることで有名な御言葉なんですが、

もし、これができたとすれば、実は、しあわせですよね。

とはいえ、決して、いつも喜べることばかりではないと思います。
でも、まったく逆を考えてみてください。
いつも悲観的に捉え、誰のことも信頼できず、すべてのことに不満に思っているとしたら…
これって、ものすごく不幸なことですよね。

決して、いつも喜んでいられるわけではないし、回りの環境や他人を変えられなかったとしても、
自分自身は変えられます。
いつも喜ぶことを心がけ、心の不安は神にゆだねて祈り、わずかなことでも感謝するように
心がけていけば、実は、しあわせな自分に変わっていけるんではないんでしょうか。

そして、この最後の一文が大事なんです。
実に、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること。」、
神様も、それを望んでいる、それが、御心だというわけです。

まだまだ、そのほかにも、いっぱい、いろんな御言葉があると思います。
私は、こっちの方がいい、この言葉に支えられた…ということばがあると思います。

ですので、赤線引くなり、手帳やカードでも、自分なりに、そんなことばをピックアップして、
心、脳みそに刻み込んでおくと、いざ人生の嵐に遭遇したときにも、
そんな神の言葉が、心の嵐も静めてくれるのではないでしょうか。


Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 



ラベル:マルコ
posted by holyhope at 15:07| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
とても良い考察の上に立った記事ですね。
率直に感想を述べさせて頂きます。
文章が長すぎて焦点がぼけてしまっていると感じます。前半の考察が良いだけに、惜しいです。
恐れに対して、私達は抵抗できません。
ただ、正直に神様の前に出るだけです。
イエス様は弟子たちを叱責しているように見えます。
しかし、イエス様は、単に、あなた方は信仰が無いのですかと聞く事によって、ご自分のなさったことが信仰に基づくものである事を弟子たちに気付かせたのです。
弟子たちは、イエス様に対して、畏れ、を実感したのです。
でも、それは、ペンテコステの体験を通してでなければ、イエス様を本当に知る事は出来ない事をイエス様は知っておられました。
・・・・・
全てはイエス様にとっては、弟子達への準備だったのです。

Posted by 伊藤 博康 at 2012年03月04日 22:52
伊藤様、コメントありがとうございます。

> 文章が長すぎて焦点がぼけてしまっていると感じます

確かにおっしゃる通りだと思います。
今回に限らず、約30〜40分のメッセージ原稿をそのまま載せてしまっているので、私自身も感じている課題の1つです。
ただ言い訳になりますが、現状、時間的に、これが手一杯です。ご容赦ください。

特に後半部分の、御言葉のご紹介部分は、実際には別紙ご用意させていただいて、お話していた部分です。
ブログ形式のみで読むのには、ちょっと、きついかと思います。

ただ恐れや不安に襲われた時にも、我に帰れる一つのきっかけは、やはり御言葉の力ですから、信仰の入門者の方々のためにご紹介させていただいた次第です。

お読みいただいて、またご意見もいただき、ありがとうございました。
Posted by 竹下 at 2012年03月05日 10:22
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。