2012年04月06日

「赦しの食卓」ルカの福音書 7:36〜50

2012年4月1日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会(宮城県)

みなさん。おはようございます。

千葉、市川からやってまいりました竹下 力です。
普段は旅行会社で働いておりまして、その名も「にこまるツアー」。

おかしな名前でしょ?

そう、おかしな名前なんです。
普段は韓国旅行と、たまにイスラエル聖地旅行を手がけているんですが、教会の先生によっては、たまに、「ん?」とかいわれちゃうんですよね。
なぜ、こんな名前になったかというと、旅行を通じて、皆さんに笑顔になってもらえたらという願いを込めて、笑顔の「にこまる」なんです。
あー、そう考えると、いい名前じゃないですか。
そんな旅行業をしながら、教会でこうしたメッセージ、伝道活動をしております。

さて、教会の暦では、今週は受難週、イエス様が最後にエルサレムに入り、まさに金曜には十字架を背負われる日に当たります。

受難週で「食卓」といえば、聖餐式の原点になった、いわゆる最後の晩餐が、一番思いつくところかもしれません。
ですが、それはある意味、究極のゴール、まさに最後の晩餐でして、イエス様は、今週になって、突然、十字架を背負うことになったわけではないんですよね。

イエス様は、これまでにも多く「食卓」という場で語られています。

ちょっと、皆さんご家庭の食卓を思い浮かべてみてください。。。

そこは神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な空間というわけではなく、生活のにおいがプンプンする、極めて日常的な空間、それが「食卓」という場所ではないでしょうか。

いろんな「食卓」があると思うんですよね。
楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。
そんな私たちの極々日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんです。

ですが、イエス様は、そんな多くの「食卓」に着き、様々なことを語られていたわけです。


今日の箇所の直前、34節を見ると、
イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。

ユダヤの社会では、同じ食卓を囲む、一緒に食事をするというのは、それ自体が、赦しや和解を意味します。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。
つまり、その行為自体が、罪人と仲間同士、赦しを意味していたわけです。

それは誰かの家だったかもしれないし、大衆居酒屋のような場所だったのかもしれない。
でも、そんな罪人の「食卓」にもイエス様は来てくださる。そこにも「救い」をもたらしてくださる。
これが、まさに恵みなわけです。

ところが、今日のこの箇所の食卓は、同じ食卓でも、ちょっと珍しい食卓のような気がします。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちですよね。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人たちです。

ところが、そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。
背後には、不穏な空気も流れているのです。


しかも、そこへもってきて、「すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た」…と言うわけです。
おそらく、見た目、一発で罪深いとわかる女性、遊女、売春婦だったと思われます。

この「すると」と訳されている言葉。
他の訳では、「見よ」と訳されている注意、注目を示す言葉です。
「見よ」、よりによって、そんな「罪深い女性がやって来た」というわけです。

パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。
もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。
ある意味、イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。


これはもう、何が起こるに違いない。一触即発…
なんていう間もなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけです。


当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。しかも、ここはギリシャ語で未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…というわけです。


さて、皆さんは、この女性の行為、この光景をどんなふうに見えるでしょうか。どんな風に想像していますか。。。

私たちは、対象のイエス様を知るがゆえに、この女性のしていることを美しい礼拝の姿として見てしまうかもしれません。
しかし、実際に、現場にいれば、いきなり来るや否や、お客さんの足元で泣き始めて、口付けしているわけですから、あの女は、なぜいきなり泣き出したんだろう、いきなり何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。


そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」


日本語の聖書では「この方が…」なんて丁寧な言葉で書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。

「この女が誰で、どんな女であるか…」そんなことは、一目瞭然、その町で有名な罪深い女性なんです。
それがわかったからといって、別に預言者の証明になると言うことでもありません。

シモンが何を思っているかというと、
「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから…。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
彼は、一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

しかし、これがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていくことになります。

そこで、まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。

 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。
 日本円で言えば、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

 多く赦されたものが、多く愛するということ。。。

この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。


この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。
いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。
でも、生まれた時から、そうなりたくて、こうなった訳じゃない。
この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく勇気が要ることだったと思います。
周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。
もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。

しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。
見た目や評判にかかわらず、この女性の真心を受け止めた。この女性自身、その全人格を受け止めたんです。
すなわち、この女性は赦されたんです。

だから、この女性も、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多くの涙と愛があふれてとまらなかったのです。


では、このパリサイ人シモンという男には、罪がなかったんでしょうか。。。
いいえ、そんなことはなかったわけです。


当時、当然アスファルトで舗装なんかされていない道をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も砂埃で汚れます。
ですから、そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、頼まれなくてもお茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
ところが、このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。
そのことでもイエス様のことを、歓迎しているわけではなかったことがわかります。

にもかかわらず、この女性のことは、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。


「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、単なる表向きの行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。
それは、どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
「真心」というもの。

このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の「愛する」ということは見失っていたのです。

しかし、そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、このパリサイ人シモンの食卓にも着かれたわけですよね。

それは決して、シモンが赦されていなかった、イエス様が足を洗う水も出さんと、礼儀知らずなやつだと根に持っていたわけでもなく、このたとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。
だから、そのままこのパリサイ人シモンの食卓にもついたんですよね。

ところが、このシモンは、自分の正しさのゆえに、落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。
これが、パリサイ人シモンの真実でした。

その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、実際に赦されていたのに、その赦しを感じることも、味わうこともできなかったのです。


イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます


 この女を見ましたか…。現在形。

 …この女を見ているかい。

  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…

  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。


多く赦されるか、少ししか赦されないか…
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されない…というわけではないんですよね。

自分自身の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。

罪というと、つい犯罪だとか、倫理的に悪いこと…のように感じてしまうと思うんですが、聖書がいう「罪」というのは「的外れ」という言葉なんです。言葉を変えれば、失敗。野球のストライクかボールかで言えば、ボールです。

律法の中心「愛」から的を外す、失敗する。
誰かを愛せない、愛さない、愛していても失敗してしまう…それが、日本語の聖書で「罪」という言葉で表されているもの、すなわち「的外れ」ということになるわけです。

では、私たちが、誰でも、どんな人にでも、偏りなく、同じように愛せるか…というと、なかなか、そうは、できなかったりするじゃないですか。
実に、私たちも、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が劣っているような気がして、中々認めにくい時があります。
案外、私達は、自分が正しくありたいのかもしれません。

ですが、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいこと

「あなたの罪は赦されています!」


49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
  「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」


こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし何か事件を起こした罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」とか、「いったい何様なんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。


もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。
彼女もユダヤ人。
罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…、そう思ったかもしれません。


実に、一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負ったわけです。


「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言い方だと思います。
なので、少し意味がぼけてしまっているんです。

どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思いますか?

もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、あなたは救われた。」
「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」となるところなんです。
当たり前のような話ですが、自分の信仰が救うのではなく、イエス様が救ってくれるんですよね。


 あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
 私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。
 だから、安心していきなさい…


イエス・キリストの十字架は、決して、ありがたい救いの教え、「宗教」ではありません。
イエス・キリストは、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その罪の責めを身代わり、
やがて、ついには十字架まで背負った、
十字架を背負ってもなお、その愛と赦しを貫いたわけです。


私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。
クリスチャンのみなさんなら、よく理解されていることかと思います。

ところが、ところがなんですよ。
私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。
っていうか、ありますよね。ここは正直でいいんですよ。

パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれませんね。

しかし、ここが一番のポイントです。

イエス様は、そんなパリサイ人の食卓にも着いてくださっているんですよね。
パリサイ人シモンも、この罪深い女性も、両方とも、赦しているんです。
両方にとって、赦しの食卓だったんです。

でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、
なんと、自他共に罪深いことを認める、この女性だけだったというわけです。


みなさんが、今日も家に帰り、また今週も、さまざまな食卓につくと思います。
そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない罪人の食卓かもしれません。
でも、イエス様は、その食卓にもついてくださっているんです。

そこには赦しがあり、そこに恵みがあるんです。
その究極が十字架直前の最後の晩餐、主の食卓、すなわち聖餐になるわけです。


 主イエスは、渡される夜、祝福して後、パンを割き、弟子たちに言われた。
 これは、あなたがたのために割かれる、わたしの体です。
 また杯も同じようにして言われた。
 これは、あなたがたの罪のために流される、わたしの血です。
 取って、食べよ。分けて、飲め…。


それは聖餐式のあの小さなパン…
物質的な意味でのパンそのものや、小さな杯に入ったぶどうジュースを、食べるか飲むかではありませんよね。

そこに込められた主イエスの「真心」、まさに十字架で肉を裂き、いのちをかけた愛と赦しです。

ぜひね、食卓に並んだ料理とともに、主イエスの十字架の赦しと恵みを味わってみてはいかがでしょうか。

 見よ、罪深い女がいた…。
 見よ、罪深い男がいた…。
 見よ、罪深い私がいた…。

 「あなたの罪は赦されています!」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。

 しかし、イエスは言われた…。
 「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して行きなさい…!!。」



posted by holyhope at 20:56| Comment(5) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
あなた様の、ここでの聖書解釈に感動いたしました。
すばらしいです。胸に染み入りました。感謝です。
Posted by アルト at 2012年05月31日 00:29
コメントありがとうございます(^ ^)
でも、私の聖書解釈がすばらしいのではなく、元々聖書が伝えてくれていること、イエス キリストご自身がすばらしいんですよね(^^;;。
そのすばらしさを、ぜひ、味わってもらえたらと思って、がんばっております。
今後ともよろしくお願いします。m(_ _)m
Posted by りっきー at 2012年05月31日 09:17
いいですね。
いい赦しのメッセージですね。
いい救いのメッセージですね。
私たちは、基本的には、だれかれ差別なく赦されているのですね。
それなのに、本当に赦され救われるのは、口で態度で心でイエス様の所に、いったひと、・・・なのですね。そして、今、クリスチャンに赦す権威が与えられている、・・・
なぜ、・・・
Posted by Hiroyasu ITO at 2012年07月12日 23:03
ITOさん、コメントありがとうございます。

そうですね。。
ちょっちコメントも抽象的な表現でしたので、的を外してしまうかもしれないのですが。。。

神様、クリスチャンに限らず、人間関係でも、目の前に赦しが差し出されているのに、受け取れない、意地になる、突っぱねる、自分の正しさを主張してしまう…などなど、あるように思います。
特に若いうちなんて、そうだったりしますよね。
私たちの普段の日常生活の間でも、実際は赦されているのに、赦しに気づかない、わからないことはあるように思います。

神様の赦しも同じで、私たちが自分の罪に気づき、赦してくださいと言う時、もうすでに、ずっと前から、赦しが備えられていたことにも気づけるんだと思います。

クリスチャンは、そんな神の赦しを知ったわけですから、赦す権威というよりは、赦すことが求められているし、実は自分自身にとっても、赦すということが必要なことなんだと思います。

…と、言っても、なかなか難しい時がありますよね。ここは正直でいいと思います。私にはあります。赦せないのも罪、私たちはなお罪人なんです。

赦せない罪は、赦されないまま残るというわけですね。だって、赦せていないんですから。
瞬間的な怒りはともかく、ずっと誰かを赦せないままでいるというのも、実に不幸なことです。

キリストの愛と赦しを受けながら、赦せる心も養っていきたいものですね。
Posted by りっきー at 2012年07月13日 10:13
コメント中、「ちょっと」が「ちょっち」になってました(ーー;)
失礼しました。
ま、私自身、決して、完璧ではありえない、不完全な罪人だということですね(^^;;
決して、人の事をとやかく言える者ではないということですね
Posted by りっきー at 2012年07月14日 00:12
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