2012年05月07日

復活の食卓 ヨハネ21章

(2012年5月6日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会)

みなさん。おはようございます。

先月についで、2回目のご奉仕になりますが、いかがお過ごしでしたでしょうか。

前回はちょうど受難週のはじまりだったんですが、その後、復活祭、イースターを迎えられたと思います。


最近、クリスチャンの友達と話題になったのが、この「イースター」という言葉でして、テレビで「イースター」が「春を祝うお祭り」として紹介されていたらしく、「これだから日本のテレビは…」と、憤慨していたんですよね。

でも、クリスチャン人口1%なんだから、まあまあ。。。というところなんですが、そもそも、なぜ「イースター」と呼ぶのか気になりまして、調べてみたところ、なんと、もともとは、ヨーロッパ、ゲルマン民族の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来しているんだそうです。
ちょうど、このエオストレに由来する春のお祭と、キリストの復活が暦の上で同じだったようで、やがて「イースター」が、復活祭を意味するようになったようです。
ですので、「春のお祭」というのも、あながち間違いではないわけです。

もう、ややこしいたら、ありゃしないですよね。
日本的に言えば、「春のお彼岸」が、いつのまにか復活を祝う日になっちゃったみたいなもんですよ。

考えてみれば、「イースター」なんて言葉を使わずに、日本語で「復活祭」と呼べばいいんですよね。私たちには、わかっているようで、わかっていないこと、また、自分たちの常識を、さも世間一般でも常識かのように思い込んでいることもあるのかもしれませんね。
さてさて、そんな復活祭から1ヶ月が経とうとしていますが、今日は21章全体から「復活の食卓」を皆さんと味わってみたいなと思っています。

● 失意の中で…

時に、復活というと、実は、そうは簡単に信じられないような話なんだと思います。
それは、一番身近にいた弟子たちでさえも、そうだったように思うのです。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」


イエス・キリストの復活という、天と地がひっくり返るような、ありえない出来事を目撃した割には、なんだか拍子抜けてしているような感じがしませんか。


ペテロは、もともと漁師です。イエス様の弟子になった時、網を捨てたのですが、再び、漁へと出かけていくのです。

ある人は、ペテロは、もう一度、イエス様に会うために出かけていったんだ…という人もいますが、「よし、もう一度、イエス様に会いに行こう!」というような、喜び勇んだ前向きな姿勢のようにも見えませんよね。

実に、イエス様とはいえ、死んだ人間がよみがえる、1度や2度、見ても信じられない…、
目の前に姿があるときはともかく、時間がたつにつれ、夢か幻か…、
そんな気分にもなってくるものかもしれません。
それは、ペテロだけではなく、ほかの弟子たちも一緒でした。

彼らは、主イエスを探すというよりも、本当に夜通しかけて漁をするんです。
イエス様が現れても、彼らはわからなかったようです。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
 けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

私たちも、もし、この当時、この現場で、復活した姿を見たとしたら、なかなか、その現実を理解しきれないのかもしれません。

例えばですね。。。
仮に、私が先週の金曜日、亡くなったとしましょう。なんだか、すごい、たとえですが…。
皆さんにも知らせが届いて、悲しみのうちに今日の日曜を迎えたとするじゃないですか。
ところが、死んだはずの私が、今日、何事もなかったかのように、おはようございます!と現れたら、みなさんどうします?
まず、自分の目を疑う、次に、死んだという話がデマだったかと疑う、ついには自分の頭を疑う…、とにもかくにも疑う、信じられないと思うんですよね。

弟子たちは、確かに、復活の主を見て喜んだんです。
1週間後、疑いを抱いたトマスの前にも現れ、トマスも見て、信じたんです。
でも、その時がすぎれば、それで終わってしまう。。。

しかも、十字架を目前に裏切ってしまった弟子たちです。弟子として失格じゃないのか…。
復活の主と出会っても、今の自分と、どんな関係があるというのか…、わからない。

どこか現実感もなく、どこかわからないまま、彼らは、漁へと出かけていったのではないでしょうか。

ところが、夜通しかけても魚一匹とれない、あー俺たちは漁師としても、だめだぁ〜!!
そんな失意の中にあったように思います。
そんな失意の中に、復活の主は再び姿を現したのでした。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

少々、言葉が丁寧に訳されすぎているんですね。
このとき岸辺からおよそ100m近く離れているわけですから、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」「はい。ありません。」そんな声なんか届きやしないんですね。まるで、現実感がないんです。

おーい、食べるものがないのか〜
あー、ないよ、ない。今日は、全然、駄目だ。
だったらさあー、右の方に網を降ろしてみろよ。

まったく何いってんだ。俺たちは、夜通しかけて一匹も取れなかったんだぞ。
…なんて言いながら、半分投げやりで、網をバサ〜っと、投げたんだと思います。

21:6 …すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

その異様さに、ヨハネが、気がつきます。あれは主だ!
21:7 …シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。


上着なしに、イエス様の前に出られない、そう思ったんだと思いますが、ペテロらしいといえば、ペテロらしい。普通、上着を脱いで、湖に飛び込むんですよね…。
上着を着て、湖に飛び込んじゃったら、イエス様の前に出るときには、もう、びしょぬれ。ボタボタ水なんかたれちゃって。冷静なんだか、そそっかしいのか、よくわからない。
もし、私がおんなじことしたら、静から、もうちょっと、やめてよ…って、いわれてしまいそうです。


21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」


そこでは、食事の準備がなされていました。
ユダヤの世界で、一緒に食事をすることは、赦しや和解を意味しています。
逆に言えば、ユダヤでは、仲の悪い人、敵対する人、赦せない人とは、食事をしないんですね。
ですから、それは、まさに弟子たちにとって、赦しと和解の食卓が用意されていたんです。

21:11 …シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
   それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。


普通、漁師が、取れた魚をわざわざ1匹、2匹…153匹とは数えないと思うんですね。
100匹以上はいるぞ、大体、150くらいかな…、漁師だったら、そのぐらいはわかるはずなんです。
でも、弟子たちは、これが本当に現実のことなのか…、あたかも確かめるような気持ちで、1匹1匹、数えたんだと思います。
著者ヨハネ自身も、あの時の網の重さ、魚の感触、153匹は153匹、その時のことを一つ一つを描写しながら、あれは夢の中の出来事ではない。幻を見ていたんじゃない。確かに、現実の出来事なんだ。そう言いたかったんだと思います。
確かに現実の中に、イエスがおられた。

21:12 「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
 弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 このときになって、ようやく弟子たちもイエス様の復活が現実のこととして受け止められるようになってきたのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

そのパンや魚を手渡した主イエスの手には間違いなく、あの十字架で負った傷の跡がありました。彼らは、現実に、その手から、パンを受け取って食べたんですね。
それは彼らにとって、正真正銘、主イエスの赦しを現実として味わった瞬間でした。

● 三度の失敗、三度の赦し

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

さて、ここで、三度目、「3」という数字が出てきました。
かつて「3」という数字で馬鹿になる芸人がいましたが、「3」で心にグサってくる弟子がいますよね。
十字架の直前で、三度、イエス様を知らないといってしまったペテロです。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
  「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
  ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

以前のペテロだったら、迷わず、「はい主よ、ほかの誰にも負けません。私はあなたを、誰よりも、一番に愛してます」そういったように思います。
でも、イエス様のことを知らないと言ってしまったペテロには、そんなことはいえなくなっているんですね。

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

私があなたをどれだけ愛しているか、どのくらい愛せるか、あなたが一番ご存知のはずです。
このときのペテロは、自分自身の現実、限界も、しっかりと自覚していたんだと思います。

ところが、なぜかイエス様は、同じ質問を三度繰り返します。
ペテロも、その「3」に、心を痛めるんですね。あたかも自分が、三度知らないと言ったから、イエス様から責められて、三度、尋ねてられているような、そんな感じがしてしまったんでしょうね。

でも、イエス様は、三度、嫌味ったらしく、わざわざ三度、尋ねたんでしょうか…。
そうではないはずですよね。

ペテロの心が傷つき痛んだのは、決して、三度、尋ねられた時からではないんです。
三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったその時…、その時に負った心の傷が、まだ癒えていなかったんですね。
死んでも従うと言った自分、でも従えなかった自分。だから痛むんです。
そんな三度失敗し、三度の傷を負っているペテロだったからからこそ、イエス様は、三度、赦しの言葉をかけていくんですね。


21:15 …イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」


 ペテロ、あなたは、決して失格ではないんだよ。
 あなたは、今でも列記とした私の弟子だよ。
 どうか、わたしの羊を養ってください…。

それでも、心の傷の痛みは、すぐには消えないのかもしれません。
でも、イエス様は、失敗した分だけ、3度失敗したペテロには3度、5度失敗したら5度、100回失敗したら、100回でも、何度でも語りかけてくださるのではないでしょうか。

「わたしの羊を飼いなさい。」 そして、「わたしに従いなさい。」

●もう一人の弟子

さて、実は、ここにもう一人、ペテロの背後で隠れて痛んでいた弟子が出てくるんです。
ペテロが三度「知らない」と言った大祭司カヤパの官邸に一緒にいた「もう一人の弟子」ヨハネです。

21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
  この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

この「イエスが愛された弟子」とは、まさにヨハネ自身のことです。
ですが、ヨハネ自身がこの福音書を書いているわけで、自分のことを「イエスが愛された弟子」と紹介するなんて、なんだか生意気のような気がするじゃないですか。でも、実は、そうではないんです。

イエス様が捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に連れていかれたとき、ペテロは、周りの人から「イエスの弟子だ」と責められ、三度知らないといってしまうわけですよね。
ところが、一緒にいたヨハネは、誰からもとがめられることもなく、無事、十字架の元にまで行くことができたんです。
それは、なぜでしょう。。。

このヨハネの福音書の18章を見ると、実にヨハネが「大祭司の知り合い」だったことが記されています。
大祭司といえば、イエス様を十字架に着けた張本人でしょ。
ヨハネは、門番とも顔パス、誰にも責められることなく、だから十字架のもとにまで行けたんです。

一見すると、ヨハネは、弟子の中で唯一、十字架のふもとにまでいった弟子。いかにも従順で、立派なようにも見えると思います。
ですが、この時、ヨハネは「イエスの弟子」としてではなく、実は「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。
この事実を書いているのは、ヨハネの福音書だけです。

 ユダは公然と裏切り、ペテロは公に三度知らないと言った。
 でも、私は、影で裏切り、背後で否定していた…。

ヨハネは、そんな自分の裏切りを、この福音書でひそかに告白しているのです。

当然、イエス様にもわかっていたはずです。
状況からして、イエスの弟子でありながら、何事もなく無事に十字架の元まで来れるわけがないんですよね。
そこには、何か裏がある。
でも、イエス様は、そんなヨハネに母マリアを託し、復活の食卓へと招いたのでした。

だから「イエスを愛した弟子」ではなく、「イエスが愛された弟子」。
この時のヨハネには、ペテロのように「イエス様を愛しています」なんて、とても言えなかったのかもしれません。

●私たちの現実

さて、私たちは、「イエスを愛する弟子」でしょうか。
それとも「イエスが愛された弟子」なのでしょうか。。。

もし私たちが、できない自分の姿を見たときには、「はい、主よ、あなたを愛しています」…そういえるかというと、やはり、言えなくなってしまうときもあるかもしれません。

ですが、私たちは「イエスを愛する弟子」であると同時に、実に「イエスが愛された弟子」でもあるわけです。

できない自分もイエス様が愛してくださっているのなら、私たちも「それでも、イエス様のことを愛しています」…それでいいんですよね。

晩年、ヨハネは手紙の中で、こう記しています。
1ヨハネ 4:10〜11
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

愛は、競争ではありません。
できないことではなく、できるところでもって、持たないところではなく、持てるものでもって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…。

「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従ってきなさい」

「わたしの羊」「イエス様の羊」って…、実に、自分自身のことでもあるんですよね。
ペテロも、イエス様の羊。ヨハネも、イエス様の羊。皆さんも、イエス様の羊。
私たち、一人一人、みな、イエス様が愛する羊たちなんです。だから、愛しあうべき。

もし、私たちが、他に言うべきことがあるとしたなら、できなかったときの「ごめんなさい」かもしれません。
ところが、私たちは、特に大人になってくると、プライドが邪魔をするのか、「ごめんなさい」の一言が、素直に言いにくくなるときがあるような気がします。
もし自分の子供が、何か悪さをすれば、「なぜ、ごめんなさいって言えないの!」なんて、怒りそうな気もするんですが、いざ自分が、何か失敗や間違いをしても、誰かのせいにしてみたり、言い訳をしてみたり、自分の過ちにすら気づかなかったりして、「ごめんなさい」…って、いいづらい。そんな時も、ありますよね。

ペテロや弟子たちも、そうでした。自分たちの失敗を気にしている割には、実に言っていないのが「ごめんなさい。」の一言なんですね。
でも、イエス様は、彼らに「ごめんなさい」って言えないの!なんて言わず、そっと、和解のしるしであるパンを与えたのでした。

クリスチャンになってからも、この先、失敗すること、間違えること、多々あると思います。
深い傷を負って、自分はもうクリスチャンとして失格だなんて思うことも、あるかもしれません。
ですが、すべての罪、一切の罪が、イエス・キリストの十字架に釘付けられたんです。

 自分は失格だと思って、船に乗り込んだ夜…、
 漁をしても、何をしてもうまくいかず、失望に沈む夜…
 そんな暗い寂しい夜もあるかもしれません。

 しかし、夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立っておられた…。
 彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火と、その上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
  「さあ来て、朝の食事をしなさい。」

残念ながら今は目に見ることはできませんが、復活の主は今日も生きていて、私たちを和解の食卓、赦しの食卓、「復活の食卓」へと招いてくださっているのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった…。
 


ラベル:赦し 福音 復活
posted by holyhope at 22:20| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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