2012年08月05日

「何を学び、何を伝えていくのか」マタイ28:16〜20

みなさん、おはようございます。

先日、私の友人で、神学校で説教学の講師をしている牧師と話す機会があったんですが、説教で大切なのは何だ…という話題になりました。
…といっても、まじめな説教学の講義ではなく、友人との話なんで、半分、冗談なんですが、説教で大切なことって、皆さんは何だと思うでしょうか。

私とその友人との間では、お互い開口一番、そりゃあ、まず笑いでつかむことだろう…ということで一致したんですが、いや、実際、笑いって大切なんですよね。半分冗談なんですが、半分は本当なんです。

これは別に説教には限った話ではなく、こうして人前で話すときにはすべて言えることなんですが、
人は笑うことで緊張が解けて、相手の話に耳を傾ける準備ができるらしいんです。


「牧師殺すに刃物はいらぬ、あくびの三度もすればいい。」なんていった人もいましたが、
もう笑いさえ取れれば、その説教は80%成功したようなもの。
あとは、基本、聖書の話じゃないですか。でも、実は、毎回、その笑いのネタを考えるのが大変なんです。


今、テレビでロンドンオリンピック、やってますよね。
昨日も、説教の準備の間に見たりするんですが、なでしこが勝つか負けるかよりも、大体、そういう時は、なんかネタはないか…と思いながら、見てたりもするんですよ。


だから、芸人さんって、すごいな…と思うんですよね。特に若い芸人さんなんて、つまらないネタやりながら、必死で、がんばっていたりするじゃないですか。そういう姿を見ると、わしもキリストの芸人としてがんばらにゃあかん…と思ってみたりもするんです。

さて、今日は、「何を学び、何を伝えていくのか」、宣教命令として有名な箇所を取り上げているんですが、
もちろん、いかに笑いを取るか…ではありません。


宣教命令…、みなさんもここから説教を聞く機会があると思うんですが、どんなメッセージが多いでしょうか。おそらく宣教しましょう!と語られることが多いのかなという気がします。


ですが、宣教を考える前に、私たちが聖書やイエス様から、いったい何を学び、何を伝えていくのか…、私たち自身が確かに確認しておくってことが、実は、すごく大事なように思います。

現実に、数々の教団、教派に別れ、それぞれに特徴や主張があったりもするわけです。
それはそれで、もちろん何が正しいのか探求している結果ですので、決して否定もできないのですが、一方で、細かい部分で、それぞれのこだわりを主張しあっていては、私たちであっても、何が正しくて、どうすればいいのか、混乱もしてしまうわけですよね。

そんな傍らで、本当におかしな聖書解釈によって、カルト化してしまう教会も存在してしまうんです。

クリスチャン以外の人たちからしたら、どうでしょう。。。
「これだから、宗教は…」って話にもなるわけですよね。実際、そうなんですよ。
つまり、そのつもりはなくても、周りには違うものが伝わっているわけです。

ですが、イエス様が何を教え、何を伝えてほしいのか、これが本当に大切なことですよね。それがイコール、私たちが何を学び、何を伝えていくのかでもあるべきです。
今日は、この宣教命令を足がかりに、変な話、実際にキリスト教会で語られている、おかしな聖書解釈もご紹介しながら、本当に伝えるべき大切なことは何なのかを、ご一緒に考えることができればなと思います。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。


聖書って、本当に正直だと思うんですよね。
十一人の弟子たちが、復活の主に会ったときに、「ある者は疑った」というんです。
「疑う」といえば、トマスが有名ですが、トマスだけでもなかったようです。

弟子たちといえども、復活の事実を目の前にした時に、にわかに信じがたい…これも真実なことですよね。ですが、この疑うこと、疑う者がいるというのは、この事実が本当なのか、何が大切なのか、真実を見極める上では、非常に大切なことでもあるように思うんです。


疑うというと、信仰と相反するように思うかもしれませんが、もし疑うことがなかったら、それはマインドコントロールにもなってしまうわけです。
これは、みなさんにも知っておいてもらいたいんですよね。マインドコントロールというのは、まず、この疑うということを禁じていくんです。

「正当」とされるキリスト教会の内部にでもですよ、マインドコントロール的な教えが説かれて、カルト化してしまっていることが実際にあるんです。


たとえばですね…

疑うのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

そうやって疑問の声を、シャットアウトさせたりもするわけです。


これ、実際にあった例ですよ。私に言わせれば、これこそ、サタンの惑わしです。
いつの間にか、イエス様ではなく、悪魔だとか、サタンの名で縛られていくんですね…、残念なことに、これが正当とされるキリスト教会の中でも起こりうる、マインドコントロールの一つのパターンなんです。もちろん間違いです。


ですが、もし、こうした方法で、宣教が進められたら、どうでしょう?


宣教しないのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

どんなに福音が語られて、人が集まったとしても、その中身、実態は全く異質なものになってしまうわけです。

聖書にも確かに、悪魔や悪霊が出てきます。サタンの惑わしもあるかもしれません。
ですが、私たちには、イエス・キリストへの信仰によって、聖霊が与えられているわけです。聖霊は、悪魔やサタンより、弱いんでしょうか。いいえ、何億万倍も強いんです。
その聖霊は、私たちのうちにあって、絶えず絶えず、イエス・キリストを指し示してくれています。ここが、ポイントです。
ですから、サタンにビビることではなく、聖霊の声に耳を傾ける、すなわち、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様に聞く、それが大切なんですよね。


ところがこうして「聖霊」を持ち出すと、今度は、聖霊によって導かれた教会や指導者に間違いがない…なんて話にもなるんです。


自分であれ他者であれ、教会は人の集まり、私たちはあくまで人間です。
「聖霊が導いている教会や指導者に間違いがない」ということは、絶対にありません。
人間である以上、どんな教会でも指導者でも、時には間違いや失敗もあります。


私たちも、ひとつ注意したいのは、自分自身の思い込み、先入観かもしれません。
その意見や考えが、どんなに正しいと思ってみても、どこかで疑いを持ち、広い視野でよく吟味してみる。これは私たちにも、一つ必要な姿勢かもしれませんね。


疑うことを禁じるのは、バレてはいけない何かがあるからなんでしょう。もし本当に本物だったら、どんなに疑っても本物なんです。

ところが、実際に間違いが明かされたとしてもですよ。
ローマ13章には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…権威はすべて、神によって立てられたもの。…そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」なんて言葉が書かれています。
ここだけを取り出して、「だから、牧師やリーダーには逆らってはいけない。たとえ間違っていても従うべき。」なんてことが、実際に、まことしやかに語られていたことがあります。

これ本当に、ちらほらと語られていたりするんですよ。これも、もちろん、全くの間違った解釈です。


でも、聖書には、確かに、そう書いてあったりもするんですよね。
下手に逆らえば、もしかしたら、さばきをまねきくかもしれないじゃないですか。
明確な根拠がないと、ちょっと怖くもなりますよね。
こうして聖書や神の「権威」を利用して、間違っていることにも従うことが正しいことになってしまう…まさにマインドコントロールなんです。


しかし、このローマ書でいう「上に立つ権威」というのは国家権力であって、一般論です。
文脈を追えば、すぐわかります。イエス様が王だから、皇帝には従わないというのではなく、払うべき税金を払い、法律を守りましょうという話なんです。
ですが、仮に、もしその国家が、信仰を禁じたとするならば、それにも従うべきなんでしょうか。。。
違いますよね。
そうであっても、私たちはテロリストではない、牢に入れと言うのなら、甘んじてそれを受ける、義をもって悪に勝つ…これが主旨です。

ところが何度も、繰り返し、少しずつ、恐怖や脅しをかけながら、「疑う」思考を止めさせ、聖書や神の権威を借りて従わせていく、これがマインドコントロールの手口であるわけです。

実に、これらは特殊なカルトではない、どれもキリスト教会の中で起きた実例なんです。


ですので、聖書は一部を抜き出すのではなく、必ず文脈から、もっと言えば、聖書全体を見て解釈する必要がありますし、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様だったらどう考えるだろう…、この視点を忘れないようにしたいものです。


「しかし、ある者は疑った。」

実に、ここにこそ、聖書の真実の眼があります。

イエス様も、まだ疑いの眼で見ている弟子たちを、決して、拒んではいないんです。


28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた…。

半分疑いの眼で見ている弟子たちに、イエス様のほうから、近づいてこられたんですよね。


28:18 …「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

いっさいの権威あるお方は、特定の誰かでも、私たちでもなく、イエス・キリストです。
このお方にこそ、権威があります。

でも、なぜイエス様は、ここで「権威」ということを持ち出したのでしょう。
イエス様の生涯を見たときに、上に立って権威を振うのではなく、しもべとなって、下に仕えたお方ですよね。
そのお方が、なぜここでは突然「権威」を主張したのか…、ちょっと不思議ではありませんか?
そこには、何か訳もあるような気がしますね。


それは、当時、ユダヤ人的な常識として、ユダヤ人以外が救われるなんて、天地がひっくり返っても、考えられない話だったんです。
このときの弟子たちも同じ。彼らもまたイスラエルの独立、復興を願っていましたし、それがユダヤ人にとっての救いでした。
この世界宣教命令があるにもかかわらず、使徒の10〜12章では、ペテロが異邦人にバプテスマを授けたというので、エルサレム教会では大論争にもなっているわけです。
そのくらいユダヤ人にとっては、異邦人が救われるというのは衝撃的な出来事だったんです。


28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

なんの権威があって、そのようなことが言えるのか?

よくパリサイ人たちが言っていたことですよね。「何の権威があって、罪を赦すのか」
イエス・キリストの権威によってです。


 ユダヤ人じゃないから駄目だとは言わず、割礼がないから駄目だといわず、
 ギリシア人であっても、日本人であっても、
 国境、国籍、国語、文化を超えて、あらゆる人々をわたしの弟子としてください。
 認めてください。加えてください。

これが宣教命令の中心、イエス様のこころです。


その方法として、二つ。

 28:19 …父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…


まず、一つ目のバプテスマ。
時に、水に浸けるのか、垂らすのか、その方法にも論議があったりますが、どういったスタイルにしても、この時、イエス様は、そういったバプテスマという一つの形、儀式そのものを、大切に守って欲しかったんでしょうか…。

それも、ちょっと違うような気もしますよね。

実際、イエス様が、直接、人々を救っていった時には、バプテスマの有無は関係なかったし、求めていないんですよ。

「あなたの信仰が、あなたを救った。だから、安心していきなさい。」

救いを求めてきた人たちに、イエス様自身は、水のバプテスマの有無は問わなかったし、必要としなかったんです。
あくまで信仰のみです。では、なぜ、ここでバプテスマを授けるように命じたんでしょう。

それは、イエス様が必要としたのではなく、私たち、人間に必要だったんだと思います。

クリスチャンにとってのバプテスマの意味は、キリストの死にあずかるバプテスマ、つまり、キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、復活のいのち、永遠のいのちにあずかることです。
これは、バプテスマの意味であるより前に、福音そのもの、信仰そのものですよね。
ところが、その信仰も、言葉も、救いも、目には見えません。
またイエス様自身も天に昇られた後は、目には見えなくなるわけです。
すると、どこか救いの事実も、曖昧にもなってしまうんだと思います。それを歴史の事実として、目に見える形で、公に表現できるのが、バプテスマです。


授ける側からすれば、十字架と復活、イエス・キリストの権威によって、この人も救われる。あなたの信仰のゆえに、イエス・キリストが、あなたを救う。その公の宣言としてのバプテスマとなります。

反対に、授かる側からすれば、十字架と復活のイエス・キリストを信じて、この時、間違いなく、私は救われたという公の証にもなるわけです。


ちなみに聖餐式も意味は同じですよね。キリストの死を告げしらせるもの。
私たちの信仰告白も、バプテスマや聖餐も、表現方法がちがうだけで、どれも意味は同じ。
当然伝えるべきメッセージも一緒、キリストを信じる信仰によって救われる、福音です。


28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

イエス様も、実に、いろんなことを教えているわけですが、聖書全体を指して教えた最も大切な戒めがあります。
なんでしょうか…。
それが、「愛する」ことです。

マタイの福音書22:37〜40
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

  これがたいせつな第一の戒めです。
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

さらに、ヨハネの福音書によれば、最後の晩餐で「新しい戒め」として、教えられたんですよね。

ヨハネ13:34
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。


なぜ、イエス様は、これを「新しい戒め」として教えられたのでしょうか。。。
この戒めは、旧約律法の時代から、古くからある戒めなんですよね。


私たちは「愛する」という戒め自体は忘れなかったとしても、書類が積み重なるように、あれやこれやといろんなことが舞い込んで来たときに、いつの間にか下のほうに隠れてしまうことがあるように思うんですよね。


宣教命令も、実は、そんな上に積み重なってしまう、命令の一つかもしれません。
時に「世界大宣教命令」なんて「大」までつけられて、教会のスローガンにまで掲げられ、宣教第一、どれだけ伝道しているか、数で評価されてしまうこともあるように思います。
確かに宣教命令も大切なんですよ。でも、一部です。もっとも大切な戒めは、これです。


 …あなたがたは互いに愛し合いなさい。

この戒めを、絶えず、新しく、一番上において置け…ってことだ思うのです。

私たちは、ついつい聖書のある一部だけをとりあげて、正しいか、間違っているかという論議をしてみたり、人を評価したりしやすい傾向があるように思います。
でも、そういった聖書のごく一部を大切に守ったからと言って、それで他よりも正しくなる、優れている、特別に神様に評価されるということはありません。
これこそが行ないによる義、行ないによって正しいと認められようとすること、パウロがガラテヤ書で全面否定していることです。
もし行ないによって義と認められるのなら、キリストの死は無意味である、無駄死にである、実に、全く真逆のことを伝えてしまうことにもなるわけですよね。


ただ、信じる信仰によって救われる。
キリスト・イエスにあっては、愛をもって働く信仰こそ大事なんです。


では、私達に、どれほどの愛があるのか…というとですね。。。。
なんと、まあ…、それほどには、なかったりするわけですよね。

ヨハネの福音書では「わたし(イエス様)が愛したように…」といわれているんですよね。
汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ。友のために、命を捨てるほどにです。
いやいや、私たちにはどうして、なかなかできることではありません。


しかも、愛に方程式ってないんですよね。
こうすれば正解ということも、十分ということもないんです。
人それぞれが、もてるもの、得意不得意、やり方も違うでしょうし、相手によっても、状況によっても、ケースバイケースです。


私たちには、ある意味、ある程度の「正しい」ことはできるのかもしれません。
でも、「愛する」というのは心が伴うものじゃないですか。
自分自身を振り返った時に、正しさで人を責めてみたり、感情的に無理だったり、「愛する」ということになると、誤魔化しがきかないんですよね。
いいんですよ。できないんです。神様の前では、自分に、正直でいいんですよ。

私たちも、「愛する」という点では、まだまだ発展途上、生涯、一求道者といえるかもしれないですよね。


でも、ここが大切なんですが、そんな足らない、不完全な者を、キリストは愛してくださっているんです。
十字架の命をかけて…。

このキリストに愛された喜びこそが、宣教の力、教会の力、すべての原動力になります。
キリストがどれほどまでに、愛してくださっているか、そして、いかにして私たちが愛していくのか、これがまず弟子のとして最も学ぶべきこと、そして伝えるべきこと、実は、それが聖書の中心なんですよね。


聖書は、細かい枝葉の違いで、正しいか、間違っているかを論じるためのものではなく、私たちが信仰によって、聖書から、神の愛を汲み取り、愛に生きようとする時に、いろんな知恵や力、時には慰めや励ましを与え、私たちの人生のいたるところで、豊かな実を結んでくれる、それが神の言葉、聖書なのではないでしょうか。

 28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

感謝なことに、私たちがイエス様に着いていかないと置いていかれるわけではないんです。
イエス様が、わたしたちと、いつでも、ともにいてくださるんです。これは約束です。


すべてのクリスチャンが、直接、宣教や伝道の働きをするのかというと、そうではありません。
宣教命令が一番大事な命令かというと違います。命令の一部です。

中には宣教の働きをする人もいれば、その働きをサポートする人もいます。
人の悩みを聞く人もいれば、その場を盛り上げて楽しませてくれる人もいる。
人それぞれ、個性や能力に応じて、いろいろな愛し方、いろんな弟子がいるわけです。

そういうわけで、私達は、愛において、お互いにまだまだ不完全な者だと思います。


しかし、この小さな者をも、キリストが愛してくださるというので、
自分らしく、自分なりに、自分にできることを持って、
神様を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛する。この三つの愛に生きる。

私たちが愛に生きるとき、キリストの愛も、おのずと広がっていくのではないでしょうか。

お互い不完全な者同士、愛を学び、愛を伝え、愛に生きる群れとして、成長していきたいものですよね。


…ユダヤから、世界へ。
 外国人だから駄目と言わず、律法を守っていないから駄目だと言わず、
 文化が違うから駄目だと言わず、わたしの弟子として受け入れて、バプテスマを授けてください。
 どうか、国境、国籍、文化を超えて、あなたがたは、愛し合ってください…。


これが、宣教命令の心、イエス様の心。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。



【参考】教会で起きるマインドコントロール




posted by holyhope at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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