2012年08月05日

「ハートに金メダル」マタイ25:14〜30(タラントのたとえ話)

(2012.8.5 茅ヶ崎シオンキリスト教会)

みなさん、おはようございます。

毎年8月になりますと、悟先生の代打として登場する、自称8月の男、竹下 力です。
「8月の男」というと、年一回の登板でも何だかすごそうじゃないですか。ただの男なんですけどね。
「8月の男」勝手に気に入っているんですが、おそらく来年も8月には登場しますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。


さて、今、ロンドンオリンピックが行われていますが、メダルを取るって大変なことですよね。
思うんですが、水泳とか、体操だとか、なかなかメダルが取りにくい競技というのは、たとえ銀や銅でも、メダルが取れれば、大喜びできると思うんですよ。

ところが、柔道…、私も見かけによらず、かつて柔道をやっていたこともありまして、柔道を、よく見るんですが、金が当たり前、金メダル以外はメダルじゃないなんて言われたりもして、銀や銅だとなんだか残念…のような、なんだか緊迫感と悲壮感に漂っているんですよね。


オリンピックに出られることですら、本来、すごいことだと思うんですよ。ところがオリンピックで試合できる喜びよりも、金へのプレッシャーでなんだか選手たちも萎縮しているような。むしろ金にこだわらず、チャレンジ精神で、日本の柔道で、世界のJUDOに挑んでもらえたらなと思うんですけどね。

さて、今日は、そんなロンドンオリンピックから、インスピレーションというか、かこつけて「ハートに金メダル」なんてタイトルをつけてみたんですが、神様も私たち一人一人に、金メダルを用意してくれています。

えっ、私にですか…?、何に対してですか…?と思うかもしれませんが、皆さん、一人一人に、この8月の男にですら、ちゃんと金メダルを用意してくれているんです。
果たして、どんなメダルなんでしょうか?

今日は、それを「タラントのたとえ話」から見ていこうと思っているんですが…、その前に、このたとえ話、皆さんは、どのように受け止めているでしょうか。

話の内容をざっといいますと、

ある金持ちの主人が、遠くへ行くというんで、僕(しもべ)たちに財産を託していくんですよね。
能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりに2タラント、そして、もうひとりには1タラントを預けていくわけです。

5タラント預けた僕は、その5タラントを元手に、さらに5タラント儲けるわけですね。
2タラント預かった僕も、やっぱり2タラント儲けます。
帰ってきたときに、主人は、喜ぶわけですな…。「よくやった、忠実な僕じゃ。」

ところが、1タラントの男は、地面に埋めてしまうわけですよ。それを知った主人は、その1タラントの男を放り出してしまうお話です。


どう思います?

この1タラントしかもらえんと、この男が、なんだか、かわいそうにも思えたりするわけですが、
いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる…、
やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救いも取り消されてしまうんじゃなかろうか…、
そんなふうにも、読めると思います。


しかし、福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救い、ただこれ一本です。
聖書全体から見れば、そうです。

でも、このタラントのたとえ話、何もしないで怠けていれば、神様に裁かれる…そんなふうに誤解されていることも多いんじゃないか…と思うのです。


ですが、実は、この1タラントの男が、1タラントを地面に埋めておいたことが問題ではないんです。
この男が、お金を稼ぐ能力に乏しかったのでもありません。この男の主人に対する理解が圧倒的におかしいんです。


よく教会で「タラント」 といえば 「能力」、教会用語でいえば神様から与えられた「賜物」として使われることがあると思います。
確かに英語でも「タレント」といえば、「才能」とか「有能」という意味になりますし、日本で「タレント」といえば、芸能人のことを指したりもしますよね。それらもすべて、この「タラントのたとえ話」から派生してきた意味です。


なんですが、この当時、この「タラント」という言葉に、「能力」という意味はないんです。
これが大きな誤解の元かもしれません。
「タラント」とは、元々重さを量る「はかり」のことで、そこから、金の重さ、つまり金額をあらわすようになりました。
ですので、この時、イエス様が語られている「タラント」も「能力」を意味しているわけではなく、単純に金の量、金額です。

ですので、今日は一旦「タラント」=「能力」「賜物」という公式ははずしてみてもらいたいんです。


さて、その1タラントは、新改訳聖書の注釈では、6000デナリになります。
1デナリは、当時、労働者の一日分の給料に相当します。
仮に1日の日当を5000円と見積もったとしても、およそ3千万円という金額になります。


ですから、15節を読み替えますと、

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円(5タラント)、ひとりには6千万円(2タラント)、もうひとりには3000万円(1タラント)を渡し、それから旅に出かけた。」


なんだか、途端に、すごい話に変わったような気がしませんか。
話を聞いている弟子たちにしてみても、手にしたことも、見たこともないお金だったと思います。

確かに、5タラントや2タラントに比べれば、1タラントしか与えられていないように思うかもしれませんが、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。


もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ではないでしょうか。誰でもいいという額ではありません。
どうでしょうか。
もし皆さん、自分が社長だとして、留守の間、3000万円任せられる部下という人って、どういう人でしょう。
たとえ、どんなに能力があっても、若手の新人に任せられますか?
絶対にできないですよね。決して、誰でもいいというわけではないはずです。


この1タラントの男は、決して能力に乏しい男ではなく、3000万円の資金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もありました。
だからこそ、この主人は、この男に1タラント、3000万円を託して安心、彼を信頼して預けているわけです。


ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。

25:24 『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』


いったい、どういうことなんでしょう?
なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない…そういう話なんです。

3000万円あれば普通の会社なら十分に立ちます。
私も普段は旅行会社で働いているんですが、無担保で3000万円の融資が受けられるとしたら、こんなありがたい話はないですよ。
主人は、決して蒔いていないわけではないのです。


この1タラントの男は、単に怠けていたわけではありません。
だからといって、持ち逃げしたり、使い込んだり、悪いことはしていない、確かに1タラントを返すのです。

ですが、面と向かって「あなたは散らさない所から集めるひどい方だ」と言い放つわけです。
もし、この主人が本当に「ひどい方」で、この男が主人を恐れていたら、そんなことも言えないはずですよね。
主人が「こわくて」、地面に埋めたというのは、嘘なんです。

むしろ積極的な意思で、この「ひどい」主人のために、あえてリスクや苦労を背負って、一文たりとも稼ごうなんて思わない。
あなたが預かれといったから、預かっただけ。これ以上も、これ以下もありません、これがあなたものです。
私は言われたように預かりました。そのままお返しします。

主人の信頼や愛情を全く理解しようとはせず、ある種の敵意すらあるのです。

この主人は、決して、1タラントで何の利益が得られなかったことで、腹を立てたわけではないんです。
地面に埋めて置いたことが気に入らなかったわけでもありません。

あなたは、わたしのことをそのように思っていたのか…、この男の思いにショックを受けているのです。


この男にしてみれば、1タラントでも、5タラントでも変わりはありません。
金でも銀でも銅でも、石ころと同じ。地面の中に埋めてしまうのです。


25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

当時、イスラエルの宗教家たちも、確かに律法は守り、神様のことも信じていました。

しかし、彼らは、律法を守らなければ神からは祝福を受けられない、律法守らなければ神から裁かれる…、
極端な話、とにかく朝から晩まで、律法に反しないような1日のスケジュールを考えて、そのとおりに行動をしていたんです。
そうしなければ、神様にやられる、祝福を失う、まさに、彼らにとって神様は、まるで「蒔かない所から刈り取るひどい方」かのようでしたし、そう教えていたんです。
だから、律法を守らない民を裁いたり、さげすんだりもしていたんですよね。

しかし、彼らも、決して神様から愛されていなかったわけではありません。

…わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

旧約聖書のイザヤ書にある有名な言葉ですが、これは、まずイスラエルに、しかも名指しで語られている言葉です。

しかし、彼らは、神の愛が理解できず、イエス・キリストを地面に埋めるどころじゃない、十字架に釘付けにしようとしてしまうのです。

時は、まさに、そんな十字架が迫っていました…。

 本当に神は、蒔かない所から刈り取るようなひどいお方だと思いますか…。
 それは、大いなる誤解です。
 どうか、父の愛を受け取ってください…。
 わたしは、これから十字架を背負います。これが神の愛です。
 どうか受け取ってください。
 そうしなければ、与えられている愛まで、なくなってしまう、失っていくのです。


表現は厳しく語られていますが、これがイエス様の心です。

私たちは、能力の点で言えば、1タラント以下かもしれません。
誰か、私に無担保で3000万円融資してくれる人はいるでしょうか…。
誰もいません。
300円か、3000円か、せいぜい、がんばって3万円くらいだと思います。私なんか、0.001タラントの男ですよ。


ですが、これは、たとえ話。
商売やスポーツの世界では、能力や結果で評価されるかもしれませんが、福音の世界ではそうではありません。
信仰に応じて、誰にでも与えられる、神様の愛を受けとって生きる世界です。


神さまは、私たちにどれほどの「タラント」を与えてくれているんでしょうか。
初めに言いましたが、「タラント」は、「能力」ではありません。元々は金額です。
イエス・キリストの命を、もし金額に換算するとしたら、いくらになるんでしょうか。。。

1タラントでしょうか。2タラントでしょうか。5タラントでしょうか…

実に、私たちには、ものすごい「タラント」が注がれているんですよね。


私たちにとって、愛された喜びこそが、すべての原動力です。

ですが、その神様の愛に比べたら、私たちが神様のためにできる一つ一つは、実に小さなことかもしれません。
そんな自分に勝手に×をつけてみたり、これじゃあ駄目だと否定してしまったりすることはないでしょうか。。。

ある五歳の男の子が、お父さんの誕生日に、お箸をプレゼントしました。

ところが、それは料理で使う、長いお菜ばしだったんですね。
お父さんもそのお菜ばしをもらって、これお父さんになの?お母さんにじゃないの?
たまには、料理の一つくらいしなさい…ってことなのかななんて、
最初は戸惑ったらしいんですが、話を聞いてみるとですね、
はじめ、お店に行ったとき、その子が持っているおこずかいで買えるようなお箸がなかったらしいんですね。

それでも、その男の子は、お父さんにお箸をプレゼントしたくて、いろいろお店を探していると、他のよりも長くて立派なお箸が眼に留まったんです。
しかも、自分のおこずかいでも買える。それが、お菜ばしだったんですよね。
その子には、それがお菜ばしだなんてわかりませんから、もう喜んで、お菜はしを買ってきたわけです。


そのお菜ばし。それは、五歳の男の子の愛だと思います。
愛というのは、形ではありません。立派なことでも、大きなことでなくてもいいんですね。
能力でもない、成果でもない、ハートです。


一方、五歳の息子が、自分のためにお箸をプレゼントしようとして買ってきたお菜ばしだとわかって、嫌がるお父さんはいません。
その日の夕飯は、がんばって、その長いお箸で食べたそうです。
これはお父さんの愛だと思います。
このお父さん、私の恩師で巡回伝道者の福沢満雄先生なんですが、今でも、そのお菜ばしを取っておいてあるそうです。


神様の眼から見たとき、私達のしていることも、とんちんかん。抜けているところ、足りないところも、大いにあると思うんですね。
しかし、それを愛として、受け止めてくれるのも、神様の愛だと思います。

神様は、決して「蒔かない所から刈り取るひどい方」ではありません。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。


私たちがその愛に答えようとするとき、…能力や成果は関係ありません。

小さな者が、小さな者にする、小さなことにも眼を留めて、
そのハートを評価して、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』そう言って喜んでくださる。


私たちに、最高のタラントを与え、私たちのハートに最高の金メダルを用意してくださっているのではないでしょうか。



…よくやった。良い忠実なしもべだ。
  あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
  主人の喜びをともに喜んでくれ。



ラベル:たとえ話 マタイ
posted by holyhope at 19:51| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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