2013年01月13日

「あなたはわたしのしもべ」イザヤ44:21〜28

2013.1.13 聖望キリスト教会

皆さん、おはようございます。
あらためまして、今年もよろしくお願いします。

2013年、皆さんそれぞれに新しい年を迎えて、それぞれ希望や目標を向かってスタートを切っていらっしゃるかと思います。

私は昨年、神学校卒業10年、結婚10年、年は39歳、まさにサンキューの1年だったんですが、今年は、なんとなんと40になるんですよね。

最初、私がこの聖望教会に訪れた時、まさに貧乏神学生、いや、とても神学生には見えない、もしかしたら江戸川か公園からやってきたんではなかろうか…いうような出で立ちだったと思うんですよね。

ですが、こうして皆さんに食わせてもらい、いや、受け入れてもらいまして、このくらいには成長させてもらいまして、本当にありがとうございます。まずは、感謝の意を表させてください。この聖望教会がなければ、今の私はなかったかもしれないですよね。


今年の2013年は、もし許されるなら、聖望教会で得たこと、学んだことをもって、さらに外への活動を広げていきたいなと思っています。
とはいえ、私にとって、また静にとってもなんですが、この聖望教会が、大切なホームグラウンド、帰るべき家になっているんですよね。
ですので、ぜひ、祈りをもって、応援していただければと思っています。


さて今日は、その聖望教会の皆さんと、私たちの原点、基を、もう一度、確認させてもらえればと思うんです。


今日のイザヤ書の箇所で、神様は、イスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけですが、「しもべ」というと、普通に考えれば、主人に従うものですよね。

ところが、この時のイスラエルというのは、直前にも描かれているとおり、従うどころか、こともあろうに、偶像礼拝をしているんですよ。
他の神様の方にいっちゃっているわけです。
にもかかわらず、神様は、そんなイスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと語りかけているわけです。


44:21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。
 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。
 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。


神様は、決して、イスラエルが従順だったから、律法に従っていたから、「しもべ」と呼んだわけではなかったんです。
「しもべ」と呼ぶ理由は、一つ。「わたしが、あなたを造り上げた。」これだけです。


私たちクリスチャンも、時に勘違いしてしまうことがあるのかもしれません。
聖書を読み、礼拝し、奉仕をし、さまざまな御言葉に従う中で、いつのまにか、そうした数々の行為によって、自分を神様の「しもべ」として認めよう、認められようとしてしまう時があるように思うんですよね。

しかし、それは反面、御言葉に従っていなければ、「しもべ」とは言えない、「しもべ」ではなくなる…というふうにもなってしまいかねません。


ですが、結論から言えば、そうではない…ということなんです。


どうでしょう。。。
すんなり納得できるでしょうか。それとも、えーっ…と思いますか?
新年早々、竹下が、また変なことを言い始めているのでしょうか。。。


もしかすると、イザヤも預言しながら、わけがわからなかったかもしれません。
だって、この時のイスラエルは、まさに偶像礼拝に走り、国はバラバラ、事実、神様も咎めて、バビロンに強制連行されていくわけでしょ。
どこが「しもべ」なんですか。神様、今のイスラエルは、「しもべ」どころじゃありませんよ…。そう思ったかもしれません。

あるいは、それでは、いったい、罪はどうなるんですか、十戒は、律法はどうなるんですか…当然のように湧き上がってくる疑問だと思います。

まさに、その疑問に答えるかのごとく、神様は続けてこう語るわけです。


44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
 わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」


これが「恵み」というもの。
私たちが、神様のしもべになりうるのも、一方的な神様の恵みなんです。

ぜひ、愛する聖望キリスト教会のみなさん。今日は、まず、このことを、改めて、しっかりと掴んでください。ぜひ、覚えてください。


なぜ、このようなことを話すかといいますと、私、外部の教会や、クリスチャンとの接点が多いでしょ。。。

すると、必ずしも、このことが明確にされていない、ぼかされている、いや、実際、正直な話、歪められていることもあるんですよ。


献金しないのは、神様に従っているとはいえない…
伝道しないのは、神様に従っているとはいえない…
それは悪魔の働き、たっぷり脅しまでかけられて、
聖書読まなければならない、御言葉に従わねばならない、「ねばならない」でがんじがらめになっていたりとかね。

一方、それについていけなくなった人は、脱落者扱い、人格が否定され、その人自身も、あー、私は駄目、クリスチャンは無理です、神様は信じられません…にもなってしまうんです。


その昔、そんな教会の、ある牧師先生とお話をしたら、「私は、地獄に行くのが怖いから、イエス様に従っているんです」そう、おっしゃるんですよね。。。


どうして、こういう話になってくるのか、私には、そっちの方が、よくわかりません。
信じる信仰によって救われる、救いは恵みによるのであって、行ないによるのではない。
これは福音の大原則、クリスチャンとしての信仰の中心ですよね。

しかし、実際に、ごくごく一部ですが、そういう教会、牧師先生、クリスチャンたちもいるんです。

そういった教会から逃げてきた人たちと話したりもするんですが、そこで受けた傷や、恐怖感は、なかなかすぐには、消えないようなんですよね。。。


しかし、主人が、誰を「しもべ」にするか、しないか、その判断、決定は、「しもべ」の側にではなく、まず主人にあるわけですよね。
神様は、形作られた全ての人に向かって、「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけです。
これが御言葉であり、まさしく福音なんです。


私も大学時代、教会から離れていたこともありましたけど、たとえ今、教会から離れて、放蕩中だったとしても、「あなたはわたしのしもべ」、クリスチャンとして失格ということはないわけです。

私たちの罪は、神様ご自身が、その罪の代償、代価を支払って、贖ってくださる。それが具現化したのが、イエス・キリストの十字架であるわけですよね。
私たちは、ただ信じて、受け取るだけなんです。


実に、ここに父なる神の愛、主イエス・キリストの恵みがはっきりと描き出されているわけです。
そして、そのことをイザヤを通して、伝えてくれているのが、聖霊です。


私たち人間は、どこかで「正しさ」というものを履き違えているのかもしれません。
私たち人間が考える正しさというのは、正しいか間違っているか、○か×か、白か黒かだけで判断してしまうことがあります。
ですが、律法の中心は、「愛する」ということ。これが神様がいう正しさなんです。

決して、ただ聖書の文字だけを捉えて、正しいか間違っているかで決まるような正しさではなく、愛するというそのハート、スピリットが、中心に加わっているわけです。


これが、ただの愛なら、別に聖書でなくても、この世の巷にもあるわけですよね。
でも、その多くは、「だから」の愛、条件付の愛です。私を愛してくれるから、愛する愛。
それは、条件次第で、「だから」愛せなくもなる愛なんですよね。

私たちが持っているのも、普段接しているのも、「〜だから」愛する愛です。
それで、神様の愛まで、いつの間にか「だから」の愛の感覚で考えてしまうのかもしれません。


しかし、神様の愛は、「にもかかわらず」の愛。
偶像礼拝しているにもかかわらず愛する愛、罪人にもかかわらず愛する愛、罪人のために十字架を背負ってもなお愛する愛。
「にもかかわらず」愛する愛なんです。


実際問題、私たちは、どのくらい御言葉に従っているといえるでしょうか。。。
もし本当に、聖書の御言葉にしたがって、100点満点で点数をつけるとしたら、何点くらい、御言葉に従っていると言えますか。

自分は100点満点、いつも完璧に御言葉に従っています!という方、いらっしゃいますか?
はい、誰もいません。

80点くらいでしょうか。60点くらいでしょうか。30点、赤点ぎりぎりでしょうか。

ちなみに、マザーテレサ、
インドのカルカッタで、路上で死に掛けているホームレスたちを献身的に救済活動をしていた彼女でさえ、自分たちの働きを「大海原の海の水、一滴程度に過ぎない」と言っているんですよね。


あー、マザーの働きが「大海原の海の水、一滴ほど」だとしたら、私たち、私のしていることなんて、一滴にもならない、水の分子一個程度のものかもしれませんよね。
それよりも、圧倒的に多くのできていないこと、多くの罪があるわけですよね。


でも、ところが、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ」だ…と神様は語り続けてくれているわけです。

だから、私も、こんな欠けだらけ、罪人にもかかわらず、神様のしもべでいられるんですよね。
すごいじゃないですか。感謝じゃないですか。
私たちが「しもべ」でいられるのも、ただただ、恵みなんです。
だから、みなさんも、間違いなく、神様の「しもべ」なんです。


44:23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。
 地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。
 林とそのすべての木も。
 主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ。


愛された喜びこそが、私たちの、最大の原動力です。

「ねばならない」ではなく、礼拝したい、賛美したいんですよね。
地のどん底よ。喜び叫べ。たとえ罪人であっても、たとえ大きなことはできなくても、立派とはいえなくても、地のどん底にも、喜びの叫びがあるんです。


先ほどの続き、マザーテレサは、こういいました。
「私たちの働きというのは、大海原の海の水、一滴ほどのことかもしれない。でも、もしその一滴がなくなってしまったとしたら、この海から、間違いなく、一滴分の水がなくなってしまうのです」

私たちの働きは、水分子1個だとしても、その水分子1個を忠実に果たしていくことなんですよね。


44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。
「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。…」


この前も、静とお正月に静岡に帰ったときに、清水の三保の松原で、初日を見に行きました。
残念ながら、まんまる太陽の姿では見れなかったわけですが、寒空の中で待ちながら、昇り来る太陽に光や熱さを感じる…、私たちが、この世で生きている、生かされているのは、この自然界の恵みが存在しているからなんですよね。
毎年、夫婦で、新年のはじめに、それを肌で感じ取るようにしているんです。
 
 聖書では、神様が6日、安息日まで入れても7日で、この自然界を創り上げたと書かれているわけですが、その造られたこの自然界は、決して、簡単にポンポンポンと出来上がっているわけでもありません。
これを天文学的に言えば、地球46億年、宇宙誕生137億年という桁外れの数字にもなる代物なんですよね。
それだけ、すごいものなんです。いうなれば、神様が1日ではなく、6日もかけて創り上げた自然界なんです。

それが、まず、はじめに、私たちが生きていく生命の土台として与えられているわけですよね。
この土台がなければ、私たちも生きてはいけない、存在すらしえないんです。


44:25 わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。


 ここで言われている、自慢する者、占い師、知恵ある者とは、前に出てきている偶像礼拝者のことでしょう。
ですが、実際に、知恵や知識があるわけではありません。


彼らは、もともとは神様が作られた木を切って…


44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。


これを現代日本に置き換えれば、木ではなく、ウラン、核になるのかもしれないです。
ためしに、置き換えてみます。


44:16 その半分は「電気」を起こし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで「機械を作って、売って、お金」を造り、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。

これが、正直、今の日本の姿だと思いません?
別に、核やお金を、神として拝んでいないかもしれませんが、それが生活の基盤、拠り所にしているのなら同じですよね。

私たちは違いますか。。。
いいえ、私たちも、また、その日本社会で生活している一員なんですよね。


12月の総選挙で、自民党が政権をとった訳ですが、いまや自民党の公約が、日本の政策と変わったわけです。
今は景気対策のみですが、やがて原発も再開、憲法改正へと進むんでしょう。
自民党の公約と、憲法改正案は、よく読んでおいた方がいいかもしれないです。

これは、決して自民党が悪いというわけではありません。
よくも悪くも、それも選択肢の一つ、選んだのは国民なんです。その結果は、私たち国民にも責任があるわけなんですよね。


よくね、政治家の人たちのために祈ったりもするじゃないですか。
ですが、今回、私自身、つくづく思わされたのは、まず私たち国民がまずちゃんと判断できるように祈らないといけないな…と思うんですね。

小選挙区制を考えたら、もしも自民党に反対するのならですよ、対抗できうる民主党に固めるしかない選挙だったんですよね。
票がバラければ、自動的に自民党が勝てる制度だったんです。
でも、その選挙制度を黙って見過ごしたのも国民、私自身もわからなかった、その一人です。

しかし、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ。」なんです。

44:26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。
エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。

昨年12月にも南相馬に行ってきました。

南相馬というのは、いくつかの小さな町が合併してできた市なんですよね。
おそらく過疎化を防ぐ意味もあって、市となって、がんばってもいたのでしょう。

聖望教会でサポートしている原町聖書教会の隣には、小高という町があります。
ここは原発20km圏内なんですが、今は出入りは許されるようになったんですね。
いくつかの古い建物こそ倒壊していますが、でも、それ以外の建物は、被害も少なく、しっかり残っているんです。

しかし、まだガスも水道も止まったまま、目に見えない放射線のために、復旧も進まず、そこで寝泊り、生活することは許されていません。
駅前の商店街、町では一番のメインストリートですよ。
たまに車は通っても、誰一人として歩いている人はいません。まさに誰もいない町です。

ところが、その通りにある1軒のお宅では、クリスマスのイルミネーションが飾られていました。
それこそ夜なんて誰もいない、見る人なんて誰もいません。
でも、そこにクリスマスのイルミネーションを飾るんです。その気持ち、わかるでしょうか。。。


また、あるお菓子屋さんの店舗には、「必ず小高で復興します!」という看板が掲げられていました。
この町が好きで、本当は、この町で暮らしたいんですよね。


実際問題の話、いつ戻ってこられるのか、何人戻ってこられるのかもわからない、戻ってきても、もともとが小さな町です。
商売が成り立つのかもわかりません。
いや、現実的には、きわめて、難しいとは思いますよ。
でも、なんとかして、復興してもらいたいではないですか。


福島の電気は東北電力、福島の原発は東京電力です。
これまで、その電気を使い、その豊かさを享受し、結果、3.11、福島を放射線で汚し、この神様が造られた、少なくともクリスチャンはそう信じている、この自然界を人が住めない場所にしてしまったのは、関東に住む私たちなんですよね。。。
少なくとも私は、私自身もその責任の一旦があると思っています。


それでも、「神のしもべ」と言えるんでしょうか。。。


それでも、「神のしもべ」なんです。にもかかわらずの愛です。


「あなたはわたしのしもべ。」理由は、ただ一つ。「わたしが、あなたを造り上げた」から。
「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

これこそが、私たちの基、絶対なる基盤、イエス・キリストの福音です。

どうでしょう。。。皆さん。決して、私たちの努力、行ないによるのではありません。
ただただ、神様からの恵みです。

44:28 ・・・エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』

今、まず、私たちの心の中に、その基、基盤がしっかりと据えられているでしょうか。
その基盤を、しっかりと確かなものにしてください。

この基の上にこそ、信仰生活も、教会も築かれていくものなんです。

もちろん、私たちには、南相馬を復興させる力は、到底ありません。
でも、この自然界を創り上げられた神様なら、復興させる力もあるわけです。
私たちは、そんな神様のしもべにさせてもらっているんですよね。。。


助けが必要なのは、南相馬だけではありません。
この市川でも、家庭、職場でも、様々な必要があると思います。
その中で、私たちにできるのは、水分子1個、本当に小さな小さなことかもしれない。

でも、この私も、神様のしもべ…、神様が形作ってくれたから。。。

どれだけできるか、何ができるかが、勝負ではありません。
一人一人にできること、個性、能力、やるべきことも、みな、みな違います。

その自分にできる、その小さな小さな働きを、懸命にやらせてもらおうではありませんか。



…ヤコブよ。これらのことを覚えよ。

 イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。

 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。 イザヤ書44:21


 



posted by holyhope at 19:07| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。