2007年02月12日

ただ、この一事に励む(ピリピ人への手紙 3:4〜14)

先々週くらいか、風邪を引いてしまして、はじめはいよいよ花粉症が始まったかな…と、のんきに構えていたら、セキが出始めまして、もうかれこれ一週間以上、セキが抜けないでいます。
今も、鼻も出るんですが、いまだに花粉症なのか、カゼなのか、ようわからん状態が続いています。皆さんも、ぜひ気をつけてくださいね。

さて、皆さんにも、クリスチャンとして、こうあるべき、あーあるべき、こうした方がいい…って、あると思うんですよね。それが素直に出来ればいいんだけど、どうでしょう…。できないことも、いっぱいあったりして、そんなことで悩んだり、いいのかな…って不安になったりすることはないでしょうか。

私も、今年から、勉強のために、川崎の教会にも月1〜2回、奉仕させていただくことにしたんですが、正直、自分自身を見たときに、牧師とか、伝道師とか、そういった働きをする器じゃないと思うんですよね。少なくとも、私自身には、そうは思えない。
別に、牧師、伝道師ではなくても、クリスチャンとしても、いや、一人の人間として、まだまだ青いな…と思うわけですよ。
そうするとですね、本当に自分はどうすべきなのかな…、神様一体なにせいっていうんだろう…って、考えちゃったりすることも多いわけです。
そのために、どこかで萎縮してしまっていたというか、消極的になっていたところもあるような気がします。

今日のみことば、「ただ、この一事に励む」、文語訳では「ただ、この一事を勤む」となっていますが、これは私が小学校を卒業する時に、父が贈ってくれた御言葉です。
当時はね、「ふーん」という程度、「それがどうした」位の勢いだったんですけども、ここにきて、この言葉が私自身にとって、励みになっている。今日は、それを分かち合えたらと思うわけです。

さて、この手紙を書いたのは、パウロです。
ここでは、その直前2節で「どうか犬に気をつけてください」と、かなり激しい言葉で書かれていますが、いわゆる律法主義に対して警告している場面です。
割礼といって、生まれてすぐに、男の子の、おちんちんの先の皮を切ってしまうわけですが、それをユダヤ人たちは誇りにしていました。私たちは律法に定められた割礼を受けている、だから、神に認められた、列記とした神の民である…、それに比べ、割礼のないクリスチャンは、2流、3流、亜流…そんな考え方です。

実は、パウロ自身も、生粋のユダヤ人、かつてはバリバリのパリサイ人、律法主義者、イエス様とは真っ向からぶつかる考えの持ち主だったわけですね。

ピリピ
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

「律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
そう言えてしまうのは、かなりすごいんですが、パウロ自身は非常に熱心に、律法、神の言葉に従っていたと言えるでしょう。

でも、それは何かというと、やれば、やるほど評価される世界、できればできるほど認められる世界、それが、自分の誇りにもなれば、名誉にもなったわけです。

逆に、出来ない人間はダメ、律法を守らない人間はダメ、それでは神に喜ばれない、神から愛されない、神の祝福を受けることができない…そういう価値観、評価の中で、パウロは、バリバリに生きてきたわけです。

だから、かつてのパウロも、とにかく愛だの赦しだのを説くキリスト教会がもう赦せなかったんですよね。
そんなものは神を冒涜している、赦せない、むしろ熱心なゆえに、神を愛するがゆえに、そんな教会は野放しに出来ない、だから、教会をも迫害していたわけです。

3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

でも、そのパウロに一大転機となる事件が起きるわけです。
まさにダマスコにある教会を迫害しにいく途中の出来事、そこでパウロ、当時はサウロと言ったわけですが、サウロは突然、目がくらむような光に包まれ、声を聞くわけですね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害するイエスである。」

サウロこと、パウロにとっては、衝撃的な出来事だったわけです。

イエスは、死んだのではなかったのか…
イエスは、よみがえったのか…
イエスは、神なのか…

だとすれば、私は神ご自身を迫害していたことになる
ならば、なぜ、神は、私を裁かないのか…
ならば、なぜ、神は、私を滅ぼしてしまわないのか…

律法主義的価値観の中にあって、神に敵対して赦されるなんて事はあり得ない、滅ぼされて当然なのです。

そこで初めて、パウロは、自分が決して正しくはないことと同時に、実は神の愛と赦しの中で生かされていることを理解するわけですよね。

神に従っていると思っていながら、実は、神を迫害していた自分。
律法を完璧に守っていると思いながら、律法の中心である愛を失っていた自分。

その私を、赦し、愛し、受けいれてくれている神という存在、キリスト・イエスの存在に出会うわけです。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

自分の誇りくそくらえ、自分の名誉くそ食らえ、
そんなものは、ちりあくた。
律法主義というのは、律法の行ないによって、自分の義、自分の正しさを打ち立てていく世界です。そこで、生まれてくる自分の誇り、自分の名誉と言うものが、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する心を失わせてしまっていたのです。

 でも、それは別に、律法主義や宗教の世界に限った話ではないと思います。
 学校であれば、成績で評価され、スポーツでも、仕事でも、そう。できるか出来ないかで評価されやすいし、私たちもしているんですよね。
 私もそうですが、自分は仕事で頑張っている、頑張れば頑張るほど、自分の誇りにもなってくるんですよね。もちろん、誇りに思える仕事ができる、それはそれで幸せなことだと思います。
でも、一方で「自分はこれだけ頑張っている」という誇りがあるがゆえに、若手が努力もせんとトロい事をしていれば「なにやってんだ」と腹を立てたり、あの人は怠けているとか、自分だけが損をしているとか、損な思いもしているわけです。それも自分の誇りが言わせるのです。

それら対し、イエスの生き方は、全くの逆だったといえます。
自分が受けることよりも、人に与える。
それも、人々から嫌われていた病人や、取税人や遊女、罪人と呼ばれる人たち、当時の社会では存在価値すら認められない人たちを、赦し、受け入れ、愛したわけですね…。
そのために非難を浴びて、十字架まで背負ってもなお、愛を貫き通した、これがイエスの生き様です。

これまで神様のためと言いながら、所詮は、自分の誇りのために生きてきたパウロが、そのイエスの生き様、本当の意味での十字架の意味を知った時、それは全くあり得ない、衝撃的なことだったはずです。
人のために、それも罪人のために、自分の命までを与えるなんてことは考えられなかったわけです。

でも、そのキリストの愛に触れた時、その愛によって、自分が赦され、生かされているということを知った時に、自分を誇り、人を裁く生き方から、人を愛し、人に与える心がパウロの中にも芽生えたのです。

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

自分が受けるよりも、自分の命を捨ててまで、人に尽くす、人に与える…。そんな生き方。

私たちは、どうでしょう…。
できるかな…と考えると、どこかで、やっぱり、自分を守ってしまうもんだと思うんですよね。命どころじゃないですよ、その1歩どころじゃない、100歩も手前で、自分を守っているような気がするじゃないですか。

このあとにも賛美に入れさせていただいた「今こそ、キリストの愛に応えて」という歌がありますが、これは私のかつて行っていた教会でも歌われていまして、大好きな賛美の1つだったんですが、サビの部分で、「いのちを、すべてを捧げよう…」ってありますよね。ある人は、この歌は何か脅迫されているようで、好きじゃないって人もいたんですよね。

なるほどな…と思います。
私たちが、いのちを、すべてを捧げられるか…というと、そう簡単に、捧げられるわけではないんです。

それは、パウロも言っているんですよね。

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

あー、あのパウロでさえ、すでに得たのではなく、完全でもないといっているわけですから、私たちは全然でしょう。

でも、この歌は、決して、みなが殉教覚悟で命がけで宣教しようという歌ではないと思う。

2番「なんの力もないけれど、何かをして行こう。こんな小さな者だけど、何かを捧げよう…」

ここにこそ、真意があると思います。

むしろ、自分を誇り、自分を大事にしてしまう。
自分を誇るがために、人を見下げたり、非難や悪口を言ってしまう…そんな私たちかもしれません。
でも、そんな私たちをも、愛して、そんな小さな私たちのためにも、命まで与えてくれたのがイエス・キリストなんです。

先日ですね、会社からの帰り道。
それも、ちょっとシステムにトラブルがあって、終電ギリギリまで粘って、残業した帰り道に、いたずらで、生卵をぶつけられましてね。
はー、弱り目に祟り目、システムも結局、その日は復旧できず、終電まで頑張ったところで、誰も褒めてくれるわけでもなし、で、挙句の果てに、生卵ですよ。
 気分は、げんなりですよ。もう怒る気にもようならん。何やってるんだろ、俺…みたいな。

 でも、その時にふーと思わされたのは、イエス様の十字架はこんなものではなかったんだよな…そう思わされましたよね。
 生卵どころじゃない、あざけられ、鞭打たれ、血を流し、茨の冠を被り、あの十字架までをも背負った。
 それに比べ、生卵でげんなりしているわけですから、自分はまだまだというか、本当に小さな器だな…と思うんですよね。
 って、腹も立つんですよ、げんなりもするんですよ…、決してだからといって綺麗さっぱり、赦せるかというとそうではないんですが、私も罪人ですから。でも、一方で、キリスト・イエスを知っているがゆえに、そういうふうに怒りだけで終わらないのも、やはり恵みかなって思うんですよね。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ただ、この一事に励む。

私たちには、いろんな意味で限りがあります。
それは肉体的な限界、精神的な限界、能力的な限界…、さまざまな限界があって、本当に限られているんですよね。
決して、完全にも、完璧にもなれない。
でも、その限りある中でも、できる事があると思います。
人に与えられるものがあると思います。
決して、どれたけできるか、どんなに優れているかではありません。
私は常々思うんですが、私たちが人を愛する…という時に、私たちにできることは、せいぜいコップ一杯の水を与える程度のことなのかもしれません。でも、コップ一杯の水が与えられるのであれば、それを与えていくことじゃないかなって思うんです。

命って、何かといえば、生きる…ってことじゃないですか。
本当の意味で、いのちを捧げるというのは、キリストにあって、人を愛し、人のために、生きるってことだと思います。

イエス様も、決して十字架の上で、ただ死んだわけではないと思う。
人を愛するがゆえに、十字架をも背負って、最後まで生きたんだと思うんですよね。

そのキリストの愛を、私たちも受けている。

この小さな者をも、キリストが愛してくれるというので
自分なりに、自分らしく、自分ができることをもって、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…
ただ、この一事に励む

ウルトラ伝道者、ザ・クリスチャンとも言えるパウロもまた、優れた人ではあったと思いますが、ひたむきに前に向かって、ただ、この一事に励んできた人ではなかったかと思います。

私たちは、全然及びもつかない、もっと小さな小さな者かもしれません。でも、私たちは私たちで、この一事に励む、ひたむきに前を向って、走る者でありたいですよね。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
posted by holyhope at 00:52| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
はじめまして。
長尾美穂子と申します。
クリスチャンです。今、仕事で虐めを受けていて、「やってられるか」と思いましたが、
私を攻撃してくるその方の為に祈ろうと思いました。そうしたら、
「気がすむまで虐めて下さい〜♪」と思えるようになり、そんな毎日の中で何時か聞いたことのある、
「今こそキリストの愛に応えて」が
賛美したくなったのです。
しかし、楽譜が探すことが困難なのです。
この曲が載っている本のタイトルなどや、
楽譜を手にする方法をがお解りでしたら教えて下さい。
ピアノ伴奏で練習し、賛美したいのです。
宜しくお願い致します。
私もイエス様を愛し、自分を愛し、人を愛する
三つの愛で生きて行きたいと思います。
イエス様が私を愛して下さっていることが分るからです。
God Bless You!!
長尾美穂子
Posted by 長尾美穂子 at 2014年05月02日 06:02
長尾さん。
コメントありがとうございます(^^)

「今こそキリストの愛に応えて」なんですが、元々の楽譜が出ていた歌集は、絶版になっているかと思います。
手元にあったものも、今はどこへやらでして…。
申し訳ありません。。。
でも、いい歌ですよね(^^)
Posted by りっきー at 2014年05月08日 09:51
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