2013年03月28日

単純シンプルに

…キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマ(洗礼)を授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。
それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1コリント1:17

先日の日曜には、教会で洗礼式があったのですが、一人の人が救われるというのは、やっぱりうれしいことですよね。
人生の中には、様々な苦難や失敗があります。時に自己否定にも陥ってしまいがち。
しかし、「はじめに神が…」(創世記1:1)いてくださる。

私たち人間は、何かと難しく考え、時に無理してまで幸せなり、自分自身の人生なりを築きあげようと、あくせくしてしまうことがあるような気がします。

それはそれで、成長という観点では必要なことかもしれないのですが、しかし、根本では、誰しも自分の意思や努力で生まれてきたわけではないんですよね。

はじめに神があって、この世に生まれ、今、生かされている。。

単純シンプルに、今、生かされていることを喜び、感謝できたら、もっと自然体で、自分らしく、有意義な人生をおくれることも多いように思います。
もちろん頭でそう思っても、なかなか、そうはいかないこともあるんですけどね。。(^^;;

キリスト教会内でも、時に同じような現象が起きてしまうように感じます。

はじめは単純にイエス・キリストを信じたはずなのに、やがて難しいことが言われたり、難しく考えたりしてしまう。。
難しいことの方が、優れているように見えるのかもしれません。
単純なものが複雑になり、枝葉の細かい部分が大きくなって、本質的な部分を見えにくくしてしまう…
そんなことはないでしょうか。。。

時には、本質的な部分が損なわれているにも関わらず、目もくれず、周辺の事柄ばかりが大きく取り上げられる…そんなこともあるように思います。

冒頭の聖句は、パウロという伝道者が、コリントの教会に書き送った手紙です。

信仰の始まりであるはずのバプテスマ(洗礼)でさえ、私はあの先生から受けたい、いや、こっちの先生の方がいい…なんてことがあったようです。

パウロは、決してバプテスマを軽視しているわけではありません。
しかし、たとえバプテスマであったとしても、そのためにキリストの十字架がぼやけたり、影が薄らいだりしないように細心の注意を払っていたことがわかります。
当然、自分の宣教の言葉であっても、しかりです。

十字架は、世界で最も残酷な死刑。決して、たやすいものではありません。
主イエスは、事実として、罪人を赦し、友となり、その罪の責めを身代わりに負って、十字架の死にも挑み、釘付けにされました。
そんなイエスの生涯、生き様を通して、神の愛と赦しがいかなるものかを人々に見せてくれたわけです。

この十字架を背負うこのイエスの生涯、生き様を見た時に、この方こそ神の子、キリスト、神ご自身と信じるなら、いつでもどこでも誰であっても、神の愛と赦しを受け取ることができます。

信じる信仰によって救われる…
私たちの努力や行ない、勉学、訓練…何かではないのです。

今週は受難週。この金曜は、イエス・キリストは十字架につけられた日にあたります。

パウロも、また後世に生きる私たちも、この十字架につけられたキリストを語り伝えてはいるのですが、いかなる言葉も、宣教手段も、また神学的なこだわりも、この事実として十字架を背負われたキリストには、決して及ぶものではないことを心に刻み込んでおきたいものです。

単純シンプルに、私たちの救いのはじめに、まずキリストの十字架の事実があったことを、しっかりと覚えたいものですね(^^)

イエス・キリストは、あなたのことも、命がけで愛しています!

…しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1コリント1:23〜24

 


ラベル:受難週 十字架
posted by holyhope at 09:53| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。