2013年03月31日

「信じない者にならないで」ヨハネ20:19〜31

 みなさん。ハッピー・イースター!
毎度、千葉市川から、思い出したかのようにやってくる伝道者、竹下力です。みなさん、お元気でしたでしょうか。

 今日は「イースター」ということで、暦の上では、イエス・キリストが、死んで葬られ、三日目によみがえったその日にあたるわけですが、死んだはずの人間がよみがえるというのは、まず信じられない出来事だと思うんです。

もし私が、今日の帰り、交通事故か何かで死んだとするじゃないですか。
すごい、たとえですけど。。。
皆さんも、きっと悲しんでくれるに違いない。そう信じたい(笑)

でも、三日目に葬儀に出かけていったら、棺おけに遺体がない、竹下が蘇った!
そう聞かされたとしたら、信じられるかというと、皆さん100%間違いなく、疑うと思うんです。それ普通です。

今日の聖書箇所は、前半の部分がイエス様が復活した日曜日、つまり今日の出来事です。そして後半は「八日後」の出来事、ユダヤ式の数え方では、その当日を含めて、足掛け八日後となりますから、ちょうど一週間後に当たる来週の日曜日となるわけですが、ここにキリストの復活について疑いを抱いたトマスが出てきます。
私、結構、彼が好きというか、親近感がわくんですよね。

「見ずに信じる者は幸いです。」とは語られていますが、イエス・キリストがよみがえった…、それは決して、科学が未発達の昔の人だから信じられたというような話ではなく、当時の人たちであっても、常識ではありえない、信じがたい出来事であったわけです。

 もし、このイエス・キリストの復活が作り話で、それを見ずに信じろ…というのであればですよ。かんなり信じることの難しい、無茶な宗教、作ったものですよね。
 
ですが、実に、トマスばかりではなく、この現場にいた弟子たち全員、見ずに信じたわけではなかったんですね。
「見て、信じた」んです。
実際に見ちゃったものだから、「見た」もんは「見た」という他なくなってしまったわけです。彼らは、目撃者となったわけです。

実に、このヨハネの福音書では、「見た」という言葉が、非常によく出てきています。

20章から復活の記述が始まっているのですが、少し拾い上げてみますと…

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

この「もうひとりの弟子」とはヨハネのことですが、やはり「見て、信じた」んですよ。

でも、じゃあ、それで100%、復活の事実を、信じられたのかといえば、それでも、復活の主イエスご自身を見ていなかった弟子たちは、まだ、信じ切れなかったようです。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。

弟子たちが、この時、一番に不安だったのは、イエス様が死に、次はわが身、ユダヤ人たちがいつ自分たちを捕らえに来るか、いつ殺されるのか、その恐怖でいっぱいだったんです。
十字架の死の恐怖、空の墓を見ても、イエスがよみがえった…という知らせを聞いても、その恐れは、消えることはありませんでした。

しかし、その恐怖の中に、復活の主イエスは、現れたんですね。

「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

それは、もう本当に、言葉にはならない衝撃、感動だったはずです。

弟子たちも、「主を見て喜んだ。」こうして自分の目で見て、ようやく復活の事実を理解しはじめていくんです。

しかし、そんな弟子たちも、すぐに、もう1つの不安がよぎるわけです。それは、主イエスとの関係においてです。

主イエスの手には紛れもなく、釘の跡、さらに、わき腹には槍で突かれた刺し傷もあったわけですね。弟子たちは、その傷跡も、確かに見たんですよね。

弟子たちは、もうイエス様に死んでも着いて行きますと言いながら、いざ十字架が迫ると、とたんに逃げてしまったんです。そんな自分たちを、イエス様は赦してくれるのだろうか、認めてくれるのだろうか…。そんな不安も心には残っているわけです。

十字架の傷跡というのは、ただ単に、主イエスだけが負った傷ではないんです。
十字架を前にして逃げ出した弟子たちの心の傷でもあったんですよね。
しかし、

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

彼らは、決して、見捨てられたわけでも、弟子として失格でもなかったわけです。

そして、今日、一番の注目株、トマスさんです。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

彼は、ある見方をすれば、確かに不信仰なのかもしれません。
ですが、私個人としては、彼を非難することは出来ないし、いや、ある面、むしろ、立派にすら思うんですよね。

他の弟子たちが、復活した主を見た、主を見た、といっているわけですよ。ついつい、なんだか自分ばかりが見てないのが悔しいような気がして、俺も見たと言ってしまいたくなるような気がするじゃないですか。でも、彼は、そこで妥協しないんですよ。

彼は、良くも悪くも、人の話をそのまま信じない。鵜呑みにしないんですよね。
ちゃんと事実を、この眼、この手で、確かめようという姿勢…、それはそれで、ある面、大切なことですよね。
ですが、彼は、決してイエス様の復活を否定しようとしたのではなく、もし本当に復活したと言うのであれば、その事実を確かめたかった、自分も復活の主に会いたかった、むしろ求めていたと思うんです。実は、会えなくて、ちょっと寂しかったのかもしれませんね。

そして主イエスもまた、そのトマスを否定したのか…というと、決して、そうではなかったんです。

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。」

その差し伸べられた手には、紛れもなく、やはり十字架の釘の跡があったわけです。

トマスもまた確かに、その傷跡を見たんです。
トマスが、その差し伸べられた手の傷跡を見、手で触り、そこに主イエスのぬくもり、愛と赦しを確かに感じたときに、トマスの心の中にあった傷も癒されていったのではないでしょうか。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

このあと主イエスは、「見ずに信じる者は幸いだ」とも語られているわけですが、決して叱責しているわけではなく、「見ずに信じられるくらいなら、幸せだよな。」と苦笑いしているようにも思うんですよね。
主イエスは、決して見ないで信じろと言うのではなく、傷跡を差し出し、見てでも、手を差し入れてでも、信じない者にならないで、信じるものになれと語りかけているわけです。
私なんか、この復活を疑ったトマスが、ちゃんと復活の主を見て、信じたというが故に、信じられるような気がしますね。
トマスばかりではなく、弟子たちは、誰しも、見て、触って、信じる事ができた、最も幸いな人たちだとはいえないでしょうか。

さて、私たちも、確かに、その手の傷跡を見、触れさせていただく必要もあるのかもしれません。

…と言っても、残念ながら、今は、復活の主イエスを、この目で見ることも、手で触ることもできないわけですが、「人の優しさに触れる」…という言い方をしますよね。
優しさも、確かに、この目では見えないし、この手で触ることも出来ないわけですが、確かにあって、私たちは、心で何かを見て、心で何かに触れることがあるわけです。

主イエスが差し出した、手の傷跡。。。
それは、まさに歴史的な主イエスの十字架の事実に触れていくことなんです。
両手両足に傷跡のあるイエス・キリストこそが、よみがえって、今、生きて働いておられるというわけですよね。

私は両親ともにクリスチャンだったわけですが、まだ小さいころは素直で、父親から教えられるがままに「イエス様は私の罪のために十字架に着いた」とは言えちゃうわけですよね。それが信仰告白となり、洗礼ということにもなったわけですが、じゃあ、私の罪ってなんなの、実際の十字架ってどうだったの…って、まったくわかっていなかったと思います。

ですが、大きくなるにつれ、反抗期にもなるわけですよね。親元から離れるついでに、教会からも離れ、いつしか罪を重ね、その罪が重く感じられるようになっていたんですよね。
ちょうど大学4年のこと。正直、自分はクリスチャン失格だと思っていました。この先、何を目指して生きていけばいいのかもわからず、生きる活力も失いかけていたような時期があったんです。

でも、そんなある日、はっきりと目の前に十字架が描き出されたんです。

それは、もちろん、この眼で見たわけではありませんが、頭の中に描き出されたんですよね。
しかも、よく宗教画にあるような、カンナで削ったような十字架に、無抵抗に十字架に着けられているような姿ではなく、曲がりくねった荒削りの十字架に釘つけられ、苦しみと戦うキリストの姿だったんです。

また、この耳で聞いたわけではないですが、その姿から、はっきりとこういうメッセージを受け取ったんです。

「力、俺は、お前のその罪のために、十字架を背負ったんだよ。私が死ぬから、お前は生きなさい」

事実として、イエス・キリストは、多くの罪人たちを赦したがゆえに、その赦した罪の非難や責めを負って、十字架を背負われたわけです。

十字架を背負われた主は、2000年という時を越えて、今日も傷ついた手を差し出し、人々の心に向けて「見なさい。」「触りなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そう語り続けています。それが復活の主イエス・キリストです。

その傷跡に触れる時、どんなに罪深くても、どんな弱さがあっても、どんなに失敗があっても、シャローム、心には平安、与えられた生涯を自分らしく精一杯生きるだけ、神がすべてを受け入れてくださるわけです。

私自身も、決して清く正しく美しい、お世辞にも立派な人間などとはいえません。やっぱり罪人ですよ。
でも、この主イエスの愛と赦しを知って、だから今、生きている、自分なりに懸命に生きているにすぎないんですよね。
やっぱり罪人みたいな?

でも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

これこそ復活の主イエスの願いであるわけです。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

ヨハネは、イエスが、他にも多くのしるしを行ったと言いますが、具体的には、その多くを書きませんでした。その出来事の中にも、もしかしたら私たちにとって教えられることや益になることも実はあるかもしれないですよね。でも、書かなかったんです。

なぜならば、それら細かいことを逐一書き記すことで、本来の目的、私たちが信じて、イエスの御名によって命を得るということが、ぼやけては意味がないからです。

どれだけ聖書を読んだとか、理解したとか、どのくらい教会に通ったかとか、もちろん、この世の生涯を生きていく間には、力にも役にも立ちますが、およそ「救い」ということに関していえば、まったく関係ありません。

主イエス・キリストは、私のためにも、あなたのためにも、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その責めを身代わり、十字架を背負い、死にも打ち勝った。
ここに希望があり、愛があり、いのちがあります。

この主イエス・キリストを信じるなら、いつでも、どこでも、誰ででも、救われます!

イエス・キリストの十字架は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

ぜひ、私たち自身も、この主イエスの手の傷跡を、しっかりと心で見て、事あるごとに触れさせていただきましょう。
この復活の主イエスを喜び、素直に信じるものでありたいですよね。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

posted by holyhope at 09:00| Comment(2) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
こんにちは。東京に住んでいる、21歳の不信心なクリスチャンです。幼児洗礼で生まれた時からクリスチャンですが、イエスの復活とか、ラザロが生き返ったとか、嘘だろ!と思っていました。
それで先生のこの記事を読ませていただき、とても参考になりました!ありがとうございますm(_ _)mm(_ _)m
とても親近感が湧き、facebookでリンクを紹介させていただきました。
ありがとうございますm(_ _)m
Posted by 広瀬 at 2017年03月14日 23:51
コメント、ありがとうございます(^^)
FBへのリンクもありがとうございます。

信じている振りをしても意味はないわけで、ある意味、信じられないものは、信じられない、正直さも大切かと思います。
ただ、求め続けていただければと思うんですね。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

これは私の言葉ではなく、復活の主の言葉です。
復活の主ご自身が語りかけているのかも(!?)しれないですね

来月はイースターを迎えますが、今年のイースターは、復活の主を感じられるイースターとなりますようにお祈りしています(^^)
Posted by りっきー at 2017年03月17日 09:54
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