2014年12月21日

「『今日』という日のクリスマス」ルカ2:8〜20

(2014.12.21 聖望キリスト教会クリスマス礼拝)

みなさん。メリークリスマス。
今日、こうして皆さんとともに、クリスマスをご一緒にお祝いできること、心よりうれしく思います。

実は、3年前のイブ礼拝では、「『今日』という日クリスマス」と題して、お話させていただいているんですね。覚えていらっしゃる方、いるでしょうか?
おそらく、いない…だろうと思いながらお話してたりもするんですが、今日のタイトルは、一字違いでして、「『今日』という日クリスマス」。

時に、その「クリスマス」、「クリスマス」って…、何の日でしょう?

「イエス・キリストの誕生日」なのかというと、実は、違うんですよね。
イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけではないんです。
これは後の時代になって定められたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、9月か10月くらいじゃないかと言う人もいます。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?実際のところは、特定できないんですよね。

ですので、クリスマスというのは、イエス・キリストの「誕生日」ではなく、全世界規模で「キリストの誕生をお祝いする日」ということになろうかと思います。
以後、毎年、毎年、12月には、クリスマスが訪れるわけですが、「誕生日」でなければ、私たちは何を喜んでいるのでしょう。
クリスマスの出来事、その歴史的な事実は、およそ2000年前にイエス・キリストがお生まれになった「今日」というその日、1日の出来事です。
しかし、今日は、2000年前の今日だけではなく、今現在、私たちにとっての「今日」という日も意識しながら、この「クリスマス」について味わっていただけたらなと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。

ベツレヘムというのは、イスラエルに行った方は、わかると思うんですが、標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな町です。
しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が、ウォーー 遠吠えしていて、その寂しさを凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そりゃ、びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、おるんかなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれないんです。

聖書で「羊飼い」というと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、羊飼い同士で放牧する土地を争うこともあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神様から離れ、神からも見放された、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのです。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。
 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。

もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。
ごくごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもするわけですよね。
宿屋の主人に門前払い、入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、飼い葉おけ、家畜小屋で生まれた。
「これが、あなたがたのためのしるし。」
家畜小屋だったからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

ここでいう「御心にかなう人々」とは、いったい誰、どんな人たちのことなんでしょう。

「御心にかなう」なんていわれちゃうとですね。
自分は御心にかなっているのかな?、私は、だめかもしれん…なんて思ってしまう人もいらっしゃるかもしれません。

ですが、当時の羊飼いというのは、いわば、世のならず者だったわけですよね?
救い主の誕生は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためだけでもなければ、立派で正しくて、力や権力を持つ人間のためだけでもありません。

日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように思うんですね。。。
もちろん、そういう部分もあるとは思います。
ですが、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰であっても、間違うこともあるし、失敗することもあるんですよね。
夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいすると思います。うちではありますよ。
 自分は正しい、あなたが間違っている、お互いにそう言い合っては、けんかしたり、争ってみたり、実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言いながら、相手と戦うわけですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、決して、そうではないはずなのです。

もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。
「天に栄光」。
もしお互いに、お互いにですよ。
私たち人間的な基準ではなく、絶対なる神を基準にして、「自分にも間違いがある、ごめんなさい」と認め合うことが出来たなら、実は、夫婦喧嘩も、戦争も起きなくなる…のかもしれませんよね。

クリスマス、キリストの誕生は、この民全体のため…。
身分の低い人も、貧しい人も、あの人も、この人も、
そして決して、正しいとはいいがたい、むしろ、間違う自分、失敗する自分、そんな自分でさえも、
実は、神様から見たときには「救いの対象」「愛すべき対象」、すなわち「御心にかなう人」で、
「天に栄光、地には平和を」、
そんな自分のところにも、いや、そんな自分のためにこそ、救い主がやってきたというのであれば、驚きじゃないですか。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。羊飼いたちの心にも、神の平和が訪れた瞬間でした。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 たとえ、過ちがあったとしても、そんな過ちのある自分を認め、この救い主、イエス・キリストを喜び、迎える人は、みな「御心にかなう人」なんです。


「地には平和を」。
時に、先週は、衆議院選挙がありましたが、今年は、みなさん、多かれ少なかれ、「平和」ということを意識させられた1年でもあったかと思います。

平和というのは、二種類あると思います。
1つは、武力をはじめ、経済、政治…、力によって支配することで生まれる「平和」です。
もう1つは、愛と赦しの心から生まれる「平和」です。

イエス様が生まれた時も、イスラエル、ユダヤの地域にローマ帝国の支配がやってきた頃でした。少し前を見ていただいて、2章1節

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

何気なく書かれていますが、皇帝アウグストゥスというのは、帝国化したローマの、初代ローマ皇帝です。
そのローマ帝国から、ローマ軍とともに、イスラエルの北、シリアに総督が派遣され、やがてはユダヤにも、かのポンテオ・ピラトが派遣されてくるわけですね。

実に、ルカ自身が、この福音書を書いていた時期も、実は、ローマ帝国によって、だんだんキリスト教会への圧力が加わり、迫害の時代に差し迫っていた、そういう時期でもあったんです。

このローマの皇帝が成し遂げようとしていたのは、言うなれば、まさしく力による平和と言えるのかもしれません。武力により、反逆分子を制して、地域を平定する…。
それが、ゆえに、ローマの皇帝も、「救い主」とも、「主」とも呼ばれていたんですね。それは、まさに2章11節と同じ「救い主」「主」という言葉、同じ称号であったんです。

しかし、ローマに支配された国々の人々、ユダヤの民にしてみても、そういう風に呼ばされていた…というのが正解かもしれません。
力による平和は、片方にとって都合のいい平和であって、虐げられる者を生み、数々の反発や敵対心、力によって対抗するものも生んでいきます。

ルカは、このローマ皇帝や、帝国による力による支配を意識しながらも、でも、その中にあって、天使たちの言葉を使いながら、「この方こそ主キリストです。」と伝えている、宣言しているわけです。

ですが、ルカは、決して、クリスチャンたちに、ローマに力で立ち向かえ…と言いたいわけではありません。むしろローマ帝国のテオピロという高い役職の人に、この福音書を書き送り、皇帝とは違う、キリストが示している平和の道を理解してもらいたかったんですよね。

今日の招きの言葉は、イザヤ書から選ばさせていただいたんですが、

イザヤ2:4
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

一見すると、クリスマスらしくない言葉かもしれませんが、実に、これも「メシア預言」、救い主の預言なんです。
しかも、同じくアドベントで読まれるミカ書にも、まったく同じ預言が出てきます。
この預言に続いて、救い主の誕生の預言はなされていくんです。
いうなれば、これがメシア、救い主によって成し遂げられる「平和」の約束、目的なんです。

11月の終わりには、牧野先生から、イザヤ書のお話があったかと思います。
このイザヤの当時、イスラエルは南北に分かれていたわけですが、南のユダ王国は、周辺諸国から軍事的圧力を受け、アッシリア帝国の軍事力に頼ってしまうわけですね。
しかし、頼ったがゆえに、アッシリア帝国の従属国のようになり、やがては次に起きたバビロニア帝国に呑まれていくわけなんですが、そのときに立てられていた預言者がイザヤであり、また、ミカだったんです。

実に、メシア、救い主、キリストの預言も、またその成就も、帝国による支配が近づいてきた時になされていることがわかります。
その中で、クリスマス、救い主の誕生は、平和の訪れを示すものでもあるんです。

では、その救い主、キリストは、どういう平和をもたらしてくださったんでしょうか。。。

イエス様は、軍事力を傘に、軍隊を引き連れて、やってきたわけではありません。
完全無防備の赤ん坊として生まれました。
この世的な政治活動や権力を握ったわけでもない、羊飼いのように身分の低い者や、貧しき者に寄り添い、病を癒し、友なき罪人たちと友となり、やがては十字架を背負う。

見方によっては、無力な敗北者の姿なのかもしれません。
しかし、王が力によって民を封じ込めるのではなく、王自らが、民のために、命を差し出す…。
その王の姿を見た民が、その心を理解することによって生まれる平和。

 彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

これが「平和の君」のやり方、愛と赦しによる平和です。

この御言葉は、国連にも掲げられているらしいですが、クリスチャンの多い国が数ある中で、どれだけ実現できているかと言うと、実は、できていないわけですよね。
奇しくも、クリスチャン人口1%のこの日本にあって、憲法9条「戦争の放棄」が掲げられ、戦後69年間、保たれてきたわけですが、残念なことに、それも今、崩されようとしています。
ある意味、私たち人間たちにとっては、当然のように生まれてきてまう発想なのかもしれないです。
現実的にはなかなか難しい。武器を持つものがいる以上、武器を持たざるを得ない、力を求めてしまう。
実際に実現するには、イエス様が再びこられて、王となる日を待たなくてはならないのかもしれません。

ですが、そうであったとしても、私たちはどうあるべきなのか。
力による平和なのか、愛による平和なのか…。

私たちは、この世の権力者がどうであれ、現実がどうであれ、あくまで「愛と赦しによる平和」を目指す。
私たちに力はないかもしれません。でも、まずは、身近なところから。
それが「平和の君」を王の王、主の主を、救い主、主とするということではないでしょうか。


十字架というのは、ローマ帝国が編み出した、世界で最も苦しいといわれる、極めて残酷な死刑です。
それゆえ、ローマの市民権を持つものには執行されず、支配した国の者、属国の反逆分子を防ぐために行われた公開処刑なんです。

イエス様は、十字架に架せられた時、その十字架に釘打つ者、ローマの兵隊のためにも、「父よ。彼をお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、そう祈られました。
一方で、横で、一緒に十字架につけられていた強盗の一人に向かっても、「今日、わたしと一緒にパラダイス、天国に行くよ。」と語られたんです。
この両者…、このローマの兵隊と、この強盗は、いわば敵同士。
でも、イエス様にとって、どちらが正しくて、どちらが間違っているとか、敵とか味方とかは、なかったわけですよね。
どちらも救いの対象、愛すべき存在であったわけです。
どちらにも平和であってほしい…その願いも込められていたんではないでしょうか。

イエス様は、強盗に向かって、「今日だ。」と言いました。「今日、わたしと一緒にパラダイスに行く。」今日、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

私たちにとっての「今日」という日、今、まさに、私たちのうちにどれだけ、クリスマスの喜び、心の平和が保たれているでしょうか。
ここは正直であっていいと思うんですよ。

私たちの人生の中では、様々なシーンの中で、誰かに傷つけられること、誰かを傷つけてしまうこと、様々な痛みもあると思います。
その痛みがゆえに赦せなくなること、怒りが湧き上がってしまうこと、反対に、そんな自分を責めてしまうこともあるかと思うんです。
でも、イエス様は、その痛みや苦しみも、貧しい馬小屋にも、十字架の上でも、イエスは来てくださるお方です。
もし、今、心のうちにそうした痛みがあるならば、ぜひ、そのまんまをイエス様に打ち明けてみてください。
イエス様は、その痛みにも寄り添ってくださるお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス。

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 今日、あなたは私と一緒にパラダイスに行く。

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

私たちもまた、今日というこの日に、改めて、平和の君、救い主なるイエス・キリストを喜び迎え、「この方こそ主キリストです」と告白、賛美するものであろうではありませんか。

来年は、戦後70年という節目の時も迎えます。
二度と戦いのことを習わない。
真の平和を祈りつつ、キリストの福音、平和の福音、愛と赦しによる平和を目指していきたいものですね。



posted by holyhope at 18:06| Comment(1) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
平和というテーマをより平易に説いておられ、小難しく専門用語を連ねるより好感が湧きます。有難うございました。
Posted by 佐々木誠 at 2014年12月21日 21:35
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