2015年10月31日

《三位一体と教会-1》「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜26


父・子・聖霊…三位一体の神様を、父なる神、子なる神、聖霊なる神、3つの神様かのように捉えていないでしょうか?
そもそも3つなのに1つ、「三位一体」がわからん…ということも多いかもしれません。
ですが、父・子・聖霊がワンセットになっているのが唯一の神様。
この神様に守られて、私たち人間があり、教会もあることを、イメージしていただければと思います。

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「三位一体の神に守られて」 ヨハネ14:6〜26

2015.5.24 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん。おはようございます。

今日は、教会の暦の上ではペンテコステ、弟子たちに聖霊が初めて降った日にあたるわけですが、今日がペンテコステであること、みなさん、知ってました?

いつも事前に説教題をお知らせしているんですが、お恥ずかしながら、その時点では全く忘れていたんですよね。。。
ですが、なぜか今回の説教は、もう、ほとんど前回のメッセージ終わった時から、次は、三位一体についてお話ししよう…と決めていたというか、強く思わされていたんです。
こういうのを聖霊の導きというんでしょうか。あるいは、聖霊の憐みというべきなのでしょうか。。。
とにもかくにも、今日は三位一体のお話ができること、感謝したいと思います。

 さて、今日は、聖霊だけではなく父・子・聖霊、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、使徒の働きには、こうあります。
イエス様が天に昇られる直前に、弟子たちに話したことですね。

使徒の働き1:8
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

ここで言われる聖霊の力って、なんでしょう?どんな力でしょうか?
大胆に宣教する力でしょうか?いやし、奇跡、何かミラクルを巻き起こす力でしょうか?
そもそも聖霊って、どういう存在で、どう働いてくれているんでしょうか?

父なる神様…なんとなく、わかります。
子なるキリスト。イエス様のことですよね、よくわかります…、
ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、耳で話す声が聞こえるわけでもなく、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、実は、よくわからなかったりしませんか?

なのに下手をすれば、「聖霊の働き」だとか「聖霊の導き」とか言われてしまうと、まるで水戸黄門の紋所みたいな?
はあ、そうですか…と納得せざるを得ないというか、それはちょっと違うんじゃないかな…と思いつつも、わかっていないのは自分だけなのかもしれないと思いつつ、どこか腑に落ちないというか…、そういうことってないですか?
それも、ちょっと嫌じゃないですか。

そこで大切なのが、聖霊単独ではなく、父・子・聖霊、三位一体であるというところから、聖霊についても理解する必要があるんです。

ただ正直な話、「三位一体」と言われると、もっとよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんです。
もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。
でも、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。

そこで、三位一体が、どうしてわかりにくいのか、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。
なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりすると思います。

でも、私の経験上、女性って、理屈っぽい話って苦手の方、多いような気がするんですよね。
三位一体っていうんだったら、三位一体でいいじゃない、これでOKだったりするんです。
反対に男性は理屈が通らないと先に進めなくなることが多いんじゃないかなと思うんです。私も、そんな男性の一人なんですが…。
ですので、前半は、そんな哀れな男性陣のために、少し理屈からお話ししますね。

 イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、いきなりイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人、ペテロや、ヨハネ、パウロもそうですが、ユダヤ人クリスチャンにとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、絶対不動の位置に、ドーンと存在しているわけですよね。

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 そして、イエス様、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

そこで、地図を見てほしいんですが、
trinty3.jpg

この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。

もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。
最初の海外拠点になったのは、今のトルコにあるアンテオケの教会です。
よく聞くところでエペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、テサロニケや、コリントといった教会は、隣のギリシャにある町です。

今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。
これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。
ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。
「1つの中に、三つある」
唯一の神様の中には3つの格が存在している…という理解のほうが、素直ということになるわけです。

さて、ここまでは、よろしいでしょうか。
理屈の話はここまでにてして、本題へと入りますが、神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でも、説教者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

つまり、神様ご自身については、どんな人よりも、まずイエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。
この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんです。
それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道」、「わたし」すなわち、イエス様が大事です。
まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。

必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 「…わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様も、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

triangl.jpg

イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…
この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。
これ全体で、唯一の神様なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に勝手に単独で動いているわけではありません。
父なる神様やイエス様抜きで「神」は語れないし、「聖霊」だけでは「神」全体ではないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして、目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」と言えてしまうということもありうるわけです。
ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

続くヨハネの福音書も見てみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わしますわたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って、わしが聖霊じゃあ〜って、自己主張しているわけではないんですよね。だから、聖霊の存在がわからないというのも、ある意味、正解なんです。

イエス様も残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、いつも「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」ひそかにイエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊という存在なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。
仮に、そういうことがあったとしても、すべてが否定されるわけではないですよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

反対に、イエス様の心、イエス様ご自身を理解できれば、本当にそれが聖霊の働きなのか、見分けも付くということにもなるわけです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる神を知ることになるわけですね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

私、最近、通勤の駅まで行く途中で、自然界の何かを感じようとしているんですよね。
つい都会には自然がないかのように思ってしまいがちですが、決して、そんなことはないんですよね。
日がのぼり、空が広がり、時に雨が降り、木々や草花が命を輝かせる。
そして、私たち人間も、誰一人例外なく、この自然界の中で生かされているんです。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ他の宗教、無神論であったとしても、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。
ただこの自然界、天地を作られた人格ある父という存在を感じることができるのは、クリスチャンだけです。

わたしたちが、そんな神様を知る、それは「わたしが道であり、真理である」イエス様がいればこそです。
しかし、イエス様だけではなく、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。
1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

今日、ここから外に出て行くときには、ぜひ、空を見上げて、自然界の何かを感じてみてください。
私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、この地球のあらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この聖霊の力ってなんでしょう?
イエス様を知る力、神の愛の力ではないでしょうか。
私たちが神の愛を知り、神様を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛する、その愛の中にこそ、イエス様ご自身があらわされてくる、だからこそ、わたしの証人にもなりうるわけです。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

それが、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。
だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでありましょう。


posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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