2015年10月31日

《三位一体と教会-2》「父に祈る」エペソ3:14〜21


2015.6.14 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 梅雨に入りましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 お隣、韓国ではマーズ(MERS)が流行してしまいまして、韓国旅行を得意とする「にこまるツアー」も大打撃を受けております。
 ここ最近、日韓関係がギクシャクしてからは、旅行者が減少してきたんですが、ようやく少しは回復してきたかな〜という矢先に、ドーンですよ。
 実際のところ、通常の観光では、まず感染の心配はないとは言われていますが、旅行というのは、本当に平和産業なんだなと思います。
 ですが、そんな中でも、東方神起のコンサートだけは中止にならず、日本からも多くのファンが出かけているらしいです。それはそれで、さすがだな…と思いますよね。

 さて、前回、三位一体ということから、メッセージさせていただきましたが、父・子・聖霊は、決して三つの神様がいて、バラバラ単独に存在、活動しているわけではなく、一体にして分かれざる聖三者、唯一の神様の中に、三つの自由意志を持つ人格ならぬ神格があって、子なるキリストは父を指し示し、父は聖霊を送り、聖霊はイエス・キリストを指し示す、ちょうど三角形、トライアングルのようなリレーションを保ちながら存在、活動をしている…そんなお話をさせていただきました。

 なぜ、この三位一体が大切かというと、使徒信条にもあるように、私たちの信仰そのもの、キリスト教の核みたいなものなんですね。

 いわゆる異端の特徴のひとつは、この三位一体を否定してきます。
 三大異端と呼ばれるエホバの証人、統一教会は、三位一体を否定、つまりイエスは神ではないとしていますし、モルモン教の場合には、三位一体ではなく、多神論。父・子・聖霊、三つの神が単独バラバラに存在していると説いているんですね。
 これだけでも、聖書から逸脱しているわけですが、モルモン教が言うにはですね、復活したイエス・キリストは、実は古代アメリカ大陸に渡っていったんだというわけです。別のイエス・キリストの物語が作られて、名前は一緒でも、違う教えにすり替えられてしまったわけです。これではイエス・キリストの名の下で、いろんな教えが作れてしまいますよね。

しかし、2000年前にイスラエルに来てくださったイエス・キリストご自身の十字架と復活…、
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる。
これがキリスト教、これが福音です。それは今も昔も変わりません。聖霊も、聖書も、このイエス・キリストこそを指し示しているわけです。

ところがですね、今や正当とされるキリスト教会の中であっても、イエス・キリストの福音はどこへやら、
あーしなければならない、こーしなければならない、じゃなければ神様に裁かれる…かのような律法主義に陥ってしまったり、
そんなことしたらサタンや悪魔にやられる…、自発的な愛ではなく、恐怖によって人の行動をコントロールする、すなわちマインド・コントロールが行われてしまったり、
目には見えない、耳で聞こえない聖霊の名の下に、いかにも正しそうな、でも実は違う、新しい教えが説かれてしまったり、
そんなことが実際に起きてきています。

つい先日、神社仏閣に、油をかけて問題になったニュースがありましたよね。。。

容疑者となった彼はキリスト教系の宗教団体の「教祖」として報道されていますが、実際は、そうではないようです。
彼の作った団体は、信徒による伝道を促進させるための、いわば宣教団体なんですね。
彼は、そもそも正統な教会出身のクリスチャンでして、ただ熱心さのあまり、単なる自分の思いつきや考えまで、聖霊の導きだと信じきって、ある意味、真剣に神社仏閣に油をまいてしまったといえるんでしょう。

なぜ、このようなことがおきるのか。その大きな原因の一つは、聖霊を、父と子から切り離して捉えているからだと思うんです。
そしてもう一つの大きな原因は、イエス・キリストの福音に対する理解不足です。

クリスチャンであってもですよ。
これって…おかしいじゃないですか。今、プロテスタントも、様々な教団に分かれ、それぞれに違いを主張しあっています。
そのために肝心要の部分が、どこかあやふや、見えにくくなっているのかもしれません。
これらは決して異端や、よその教会の問題としてではなく、私たちも含めた、キリスト教会全体の問題、身内に起きた問題、クリスチャン全体の問題として捉えてほしいんです。

そのためには、私たちがまず何よりもイエス・キリストの福音を一番にして、各教会がキリストの福音こそ、内でも外でも明確に発信していく必要があると思うわけです。

さて今日の聖書箇所、このパウロの祈りも、まさに、父・子・聖霊、三位一体なる神様、揃い踏み、トライアングルの関係を捉えた祈りになっていることが分かるかと思います。

天の父に祈ることを教えられたのは、主の祈りに代表されるように、イエス様ご自身であるわけですが、今日は、三位一体という観点を踏まえて、このパウロの祈りを味わっていきたいと思うわけです。

3:14 こういうわけで、

…とはじまるわけですが、「こういうわけで」とは、どういうわけなのか…、それは、この前、前半の1章から3章までがかかっています。
ですから、その1章からここまでを、まず、スーパー超ざっくりと見たいと思います。

1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

ここで言われている「神」とは、3節から受けて、父なる神のことをさしています。
父なる神が、子なるイエス・キリストをこの世に遣わし、私たちをもご自身の子として迎えようとしてくださってるわけですね。

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

この御子イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに、私たちに罪の赦しを与えてくださっている。これは決してイエス様単独の意思ではなく、子を遣わした父の意思も、しっかりとあるわけです。

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

聖霊はその証印。しかも、それは、ただ福音を聞いて信じたことによって押されたわけというわけですよね。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ここでも聖霊は、神を知るためだと出てきますよね。聖霊も、父によって遣わされ、イエス・キリストを指し示すのが、一番の働きです。ですから、その聖霊によって、救いの教えが変わることも絶対にありません。もしあったとしたら、それは、単なる自分勝手な思い込みか、別の霊の働きとなるわけです。

2章前半に行くと、その救いは神からの恵みの賜物であって、私たちの行ないではないことが語られます。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

つまり、何か私たち人間の考えや方法、行動によって、救いの道が切り開けるわけではないわけですよね。
ですから、「実は、聖書にはこんなことが書かれていて、救いにはこれが必要だったんです」…みたいな?、余計な新しい発見とか、啓示とか、油かけとかは、よういらんわけです。
私たちが救われるのは、ただ一方的に、イエス様によって与えられた救いの恵みを、そのまま、いただきますと、素直に受け取ることだけなんですよね。

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

ここでも父・子・聖霊が揃い踏みです。この両者というのは、元々神の民であったユダヤ人と、そうではなかった私たちを含む異邦人のことを指しています。それも実は、敵対していた両者、今もイスラエルと周辺諸国は敵対関係にあったりしますが、14、15節あたりを見ますと、その敵対する両者の隔ての壁が打ち壊され、敵意も廃棄され、聖霊の助けを得ながら、キリストによって、父の身元にいくことができるんだよというわけですね。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

つまり、ざくっと、まとめますと、父は、子であるイエス・キリストをこの世に送り、十字架の血潮のゆえに、私たちの罪を赦し、ユダヤ人も、異邦人もなく、ご自身の子、神の子として向かえてくださっているというわけですね。
さらには、聖霊によって、私たちに、それらを理解する力をも与えてくださっているというわけです。

これら全てが、神から出たこと、神から与えられた恵みであって、私たちの行ない、考え、方法によるものではありません。
ただ福音を信じる信仰によって、ユダヤ人もギリシャ人も、今は仲が悪い日本人も、韓国人も、キリストにあって同じ一つ神様の子供、すなわち兄弟姉妹、神の家族になれる、これぞ神の恵みの業、これが教会という集まりでもあるわけですね。

それは、この「田園グレースチャペル」という単位ではなく、全世界、あらゆる国民に広がるキリストの体なる教会、キリストを信じる群れ全体であるわけです。

クリスチャンの皆さんからすると、なんでもない、耳にたこができるくらい、繰り返し、聞いてきた、イエス・キリストの福音そのまんまかもしれません。

しかし、パウロは、これこそが天地万物を創造された時から秘められていた神の奥義であって、神の恵みによって、その福音に仕える者とされたんだと3章の前半で述べています。

それら全部を受けて、「こういうわけで…」

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

ユダヤ人の元々の習慣では、立って祈るのが、普通でした。
ですが、ただ、この福音の恵みのゆえに、パウロは、思わず、ひざまづいたんです。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

私たちは、この福音を恵みを当たり前、クリスチャンなら常識のように思うでしょうか。いや、それとも、目新しい何かを必要としてしまうんでしょうか。
それとも、この福音の尊さ、ありがたみのゆえに、おのずと、ひざまずくのでしょうか。

パウロは、天でも地でも、ユダヤ人も、異邦人も、さらにはクリスチャン、ノンクリスチャンも超えて、家族と呼ばれるすべての名の元である「父」の前に、ひざまずいたのです。

この思いの中には、パウロがユダヤ人でありながら、異邦人宣教に取り組んできたということが、大きくあるように思います。

ユダヤ人にとっては、異邦人、つまりユダヤ人以外が救われるなんて、天と地がひっくり返っても、絶対にありえないような話だったんですよね。
まさに敵対関係。
しかし、その異邦人とも、イエス・キリストの福音のゆえに、神の子、ひとつの家族となれるというわけです。
パウロは、その家族の名の下である父の前に、ひざまずいたんです。

私たちクリスチャンが、父に願う祈り、奇跡って、どんなことがあるでしょうか。
さまざまな祈り、願いがあっていいと思うんですよ。

ですが、私たちも、イエス・キリストの十字架のゆえに罪が赦され、神の子として迎えられている。
私たち、自分自身をも神の家族、その一員として迎えられている…まずは、その福音の恵みのゆえに、ひざまずく。福音そのものを喜ぶ、感謝する、そういう者でありたいですよね。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

この「内なる人を強くする」とはどういうことなんでしょうか。
この2節は、新改訳では2つの文にわかれていますが、実際は、一続きで描かれていて、
「内なる人を強くする」と、「うちに住んでくださる」とは、同じことを言っています。

前にもお話しましたように、御霊、聖霊の力とは、霊的なスーパー、ウルトラマジック的な力というよりは、イエス・キリストを知る力、それも学問的な頭の理解ではなく、ハートで理解する力と言えるでしょう。

そのようにして、私たちの心のうちにも、イエス様の愛が築かれていく…イエス様なら、どう見るだろう、どう考えるだろう、イエス様の目で見、イエス様の心で人や物事を理解、判断する力を養っていく、そんなさまが描かれています。これが聖霊の働きなんです。

この「住んでいてくださいますように」は、出たり入ったり、アパートかホテルか、一時の仮住まいではなく、永住していてくださいますようにという言葉です。
しかも、日本語では表現しにくいんですが、過去形で書かれていて、最初に信じたその時に「永住した」キリストが、そのまま永住していてくださいますようにというわけです。

 3:17 ・・・。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

もちろん、これは私たちが持っている愛ではなく、イエス・キリストの愛です。
愛に根ざし、愛に基礎をおく…どちらも完了形、すでに根ざしていて、愛に基礎を置いている様子が描かれています。

私たちクリスチャンが気をつけなくてはならないのは、時に愛よりも、ある一種の「正しさ」を基礎に置いてしまうことかもしれません。
もちろん、正しくあろうとすることが、いけないことではないんですよ。

でも、概して、私たち人間が考える「正しさ」というのは、神の正しさではなく、所詮、人間レベルの正しさなんです。
その正しさによって、人を悪く言ってしまったり、非難してしまったり、時には言い争い、やがては戦争まで生むんですよね。
その時に語られる「正義」とは、大義名分、実に、言い訳みたいなものかもしれないですよね。

夫婦喧嘩、一つとっても、そうじゃないですか。
けんかをするときには、必ず、自分は正しく、相手が間違っているという態度や姿勢で挑んじゃうんですよね。

私自身も、そうなんですよ。元々は父親譲りの瞬間湯沸かし器。普段は穏やかでも、カチンとくると、ボッと火がついて、怒りの蒸気がプシューと出てしまうんです。

その一番の被害者は、我が妻・静さんではないかと思うわけですが…、
二十代のころ、よく切れてました。
三十代の半ばころ、切れた後、なるべく早めに謝るようにしました。
40代になって、ようやく切れずに、怒りを収められるように…なったでしょうか。どうでしょうか。。。

でも、内心では、このやろ…って思うときも、あるんですけどね。

こうした愛を基準に置いて考えるとき、私たちも、まだまだ不完全、不十分、決して、自分が正しいといえるほど、正しい人間ではないこともわかると思うんです。

愛に根ざし、愛に基礎を置くというのは、なんでも、いいこ、いいこで、決して間違いや過ちに目を瞑るということではないと思います。
ですが、もし本当に相手に間違いや落ち度があったとしても、赦すということ、理解すること、では、どういったら相手が理解しやすいか、配慮する、総じて、「愛する」ということを忘れずにいたいものですよね。

 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

十字架というのは、世界でもっとも残酷な死刑です。
俺が死ぬから、お前ら生きろよ。
イエス・キリストは、決して正しくない、罪人を赦すために、痛み、悲しみ、苦しみを背負い、命まで捧げるわけですよ。

もし私たちが、このキリストの愛基準で、自分自身の「正しさ」を問うたら、誰一人例外なく及びもつかないと思うんです。
しかし、私たちもまた、このキリストに愛され、赦されているからこそ、こうして神様の前に集えるわけですよね。
このキリストの愛が基礎にあるからこそ、この集まり、教会も、私もありうるわけです。

自分に愛せない人がいる時、それはキリストの愛の広さを知るときなのかもしれない。
自分が途中であきらめてしまう時、それはキリストの愛の長さを知るときでしょう。
自分の弱さや限界を感じる時、それはキリストの愛の高さを知る時、
自分の罪深さを思う時、キリストの愛の深さを知る時なのかもしれません。

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。・・・

「人知を超えているものを理解する」、パウロも矛盾を承知で言っているかと思うのですが、それだけキリストの愛は、広く、長く、高く、深いんですよね。
その理解する力はどこから来るのか・・・、それこそが、父から遣わされている聖霊です。

パウロが、父に祈り求めているのは、その聖霊の助けを得ながら、私たちクリスチャン一人一人が、キリストの愛の理解を深め、確かにしていくことなんですよね。

 3:19 ・・・こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

当然なことながら、これは私たちが神と同等になれるというわけではありません。しかし、父・子・聖霊、三位一体の神の満ち満ちた、その豊かさ、愛を一身に受けて、私たちが満たされていくようにと祈るわけです。

最後は頌栄で締めくくられているわけですが、

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン

私たちは、このように父だけでもなく、子だけでもなく、聖霊だけでもなく、父、子、聖霊、三位一体の神が一丸となった愛と救いの中に入れているわけですよね。
ただキリストを信じる信仰のゆえに、神の子とされ、子同士は、兄弟姉妹、神の家族。
それが教会です。

この祈りには、実に、パウロの宣教師としての愛、教会を愛する思いがあふれている祈りだと思います。
こうした祈りをもって、また世界へと福音が伝えられ、各地に教会が築かれ、この祈りの延長線上に、このグレースチャペルもあるんです。

私たち、一人一人をみたら、ともに不完全な者同士です。
しかし、このイエス・キリストの福音を大切に、霊的にも、また物質的にも、養い育ててくださる父なる父の元、聖霊の助けをいただいて、今も昔もとこしえまでも変わることがない、キリスト愛の広さ、長さ、高さ、深さを味わいながら、ともに歩んでいきたいものですよね。

 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
 3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
 3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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