2015年10月31日

《三位一体と教会-3》「サタンよりキリスト」ルカ22:31〜34



みなさん、おはようございます。

先週あたり、梅雨らしく、冷え込む日が続きましたが、一転、急に暑くなりましたよね。
皆さん、体調のほどはいかがでしょうか。
こうして、1ヶ月に一回ですが、皆さんとお会いし、共に神様を賛美、礼拝できること、心からうれしく思います。
単純なようなんですが、本当に、純粋にうれしいというか、ありがたいことだな…って思うんですよね。
だって、そうじゃないですか。もしイエス様がいなかったら、まあ、おそらく会うこともなかったと思うんですよ。
一期一会…じゃないんですけどね。本当に、うれしく思うんです。
これから夏本番、霊肉ともに、神様に守られますように、心からお祈りしております。

さてさて、この2回、父・子・聖霊、三位一体の神様ということに主眼を置いて、お話を続けていたんですが、今日は、三位一体の神様に対して、「サタン」、「悪魔」という存在についても、少し取り上げてみようかな〜って思うんですね。
でも、サタン、悪魔って聞くと、あんまり気持ちいいもんじゃないですよね?

ここ注意が必要なんですが、気をつけないと、恐れや恐怖を抱いてしまうんです。

私もですね、いい加減なこと話せませんから、サタン、悪魔について、聖書や文献を、集中して調べるじゃないですか。正直、あんまり気分がいいもんではないですよね。

ですが、今日のこの話、結論から言えば、サタンよりキリストなんです。
もし私たちが自力でサタンや悪魔に立ち向かったら、負けるかもしれないですが、イエス・キリストは、すでに勝利しているんですよね。
このキリストを信じる信仰によって、私たちは、すでに神のもの、天の父に迎えられ、聖霊が注がれ、三位一体の神様に包まれているわけです。だから、安心なんです。

そこで、まず、「サタン」「悪魔」について、お話させていただきたいと思うんですが、私も、いろんな教会に行くじゃないですか。
だから感じるのかもしれないんですけれども、ちょくちょくサタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか、よく耳にするんですよね。
皆さんも言ったり、聞いたりするとも思うんです。

もちろん、そういう場合もあると思います。
決して、サタンの働きがないってわけじゃないですよ。

でも、サタンって、そんなに、いっぱい、あちこちにいて、いろんなところで働いているんでしょうか…。

皆さん、どう思います?

北は北海道、南は九州、沖縄まで、日本各地だけじゃないですよね?
おそらくアメリカでも、ヨーロッパでも、世界中にいるクリスチャンの口から、サタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか話が出ているんだろうと思うんです。

でも…、ちょっと、いっぱい、いすぎじゃね?…って、思うんですよね。

父、子、聖霊、三位一体の神様は、天にも地にも満ちておられるお方です。
でも、サタンは、霊的な存在とはいえ、あくまで、単体、単独、1個の存在なんですよね。
一般的には元天使、堕天使だと言われていますが、あちこち歩き周ってはいても、決して、全地に満ちているわけでもないんです。
決して、神様と対等に肩を並べて存在している存在ではないわけですよね。

仮に、たとえ本当にサタンに惑わされて、罪を犯すことがあっても、それは自分自身のうちに、罪があるからなんですよね?
何か物事が進まなくなるのも、必ずしもサタンの仕業とも限らないですよね。
単純に人間的な限界だったりもするわけです。何もそれらを、しかも、わざわざクリスチャンが、サタンの手柄にしたり、さも、いっぱい、サタンがいるかのように宣伝したりする必要もないだろうと思うわけです。

確かに、聖書にも「サタン」や「悪魔」が出てきます。無警戒というわけにも行きません。
でも、実は、サタンや悪魔という名前を、少し乱用しすぎてはいないかとも思うんです。

実に、聖書で、それほど多くは、サタンや悪魔は登場していないんです。
前にもご紹介したかもしれませんが、これは単純に、日本語の新改訳聖書の第二版で単語の数を調べただけなんで、参考までに留めてほしいんですが、

まず、イエス・キリスト。
「イエス」は2049箇所、
単独の「キリスト」(「イエス」「キリスト」と連記されているところは除いて)が461箇所。
しかも、イエス・キリストの名は新約だけですからね。
他にも「彼」とか、「小羊」とか、キリストを指し示している言葉はいっぱいあります。
「主」とか、「神」になると、数え切れません。

一方、「サタン」や「悪魔」はどうでしょう。
新約、旧約あわせても、「サタン」が58箇所、「悪魔」が38箇所、格下の小わっぱの「悪霊」で93箇所に過ぎません。
数でも、イエス様が圧倒的に勝利!…みたいな?
異質なものなんで目立つかもしれないですが、聖書でも、「サタン」「悪魔」について、それほど言及しているわけでもないんですよね。

しかも、よろしくないのが「悪魔」という日本語訳。
聖書では、「サタン」と「悪魔」は、同じ存在を指しているわけですが、
「サタン」というのは、ヘブル語で、反対する者、分離する者、非難する者、そういう意味の言葉です。
その「サタン」の音を、そのままギリシャ語で音をなぞったのが「サタナス」。
今日の箇所でもありますが、日本語訳聖書でも、そのまま「サタン」と出てきます。

でも、ギリシャ語圏の人にはそれでは意味がわからないんで、その意味を表すギリシャ語訳が「ディアボロス」。
やはり、誹謗中傷する者。訴える者。ヘブル語の「サタン」と同義語、同じ意味の言葉なんですね。
この「ディアボロス」が、日本語では、「悪魔」と訳されてはいるんですが、元々の意味をたどると、「悪」でも「魔」でもないんです。
「悪魔」と「訴える者」、ずいぶんイメージが違うと思いませんか?

確かに、神様に反対する者なんで、悪魔といえば悪魔かもしれないんですが、ただ「悪魔」と聞けば、人によって、いろんなイメージが出ちゃうと思うんです。
ちなみに、日本語の「悪魔」は、元々は仏教から来ている言葉でして、聖書とはまったく別の世界で、いろんな、こわーい、こわーい悪魔の姿も描かれてしまってもいるわけです。

そんな私たちの言葉、それも無意識、潜在意識の中には、聖書とは違う、いろんな悪魔のイメージが、すでに、ついてしまっているわけですよね。
この潜在意識が曲者なんです。

私、先端恐怖症があるんですよね。
尖がった先の方が、こっち向くと、それだけで、いやなんです。
それは、なぜかと申しますと、小さいころ、食卓に箸たてを出したままであそんでいると、よく、ばあちゃんに、「そんなところで遊んだら、箸が目に刺さる」って、注意されたんです。
ですから、今でも、先のとがったものが、こっち向くと、目に刺さりそうでいやなんです。
ところがね、これが、不思議なんですよ。
自分、めがね、かけてるじゃないですか。
だから、絶対に刺さらない…ってわかっていても、嫌なんです。
これが潜在意識です。
頭で理解しても、自分の意思では、なかなか抜けきらないのが、潜在意識、無意識の領域なんですね。

ちなみに、そんな、ばあちゃん、クリスチャンだったんですが、「うそをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」…とも申してました。。。
キリスト教の世界には、閻魔様はいなかったと思うんですが、それだけ、私たちの間には、そういう違う宗教の霊的な存在も描かれているわけです。
実は日本語で言う「悪魔」というのも、仏教、架空の存在から描かれているというわけです。

特に最近では、最近だけでもないかもしれませんが、「サタン」「悪魔」という名前をちらつかせながら、不安や、恐れを抱かせ、礼拝しなければ悪魔にやられるだとか、献金しなければ悪魔にやられるとか言って、組織の言うことをきかせる、いわゆるマインドコントロール、カルトに陥る教会も、ちらほらと、出てきているわけです。

確かにイエス様を信じたはずなのに、いつの間にか「サタン」「悪魔」の名前で動かされているんですよね。
私は、これこそ、サタンの惑わし、巧妙なトリックだと思うんですよ。

私たちは大丈夫だとしても、新たに教会に来た人たちが、どういうバックグラウンドを持っているかはわからないわけです。
もしかすると、その「サタン」「悪魔」という名前が、恐怖を呼び起こしてしまうのかもしれないですよね。

ですから、皆さん、私たちも「サタン」「悪魔」という言葉には、聞くにも、語るにも、注意が必要なんだと思います。人によって、いろんなイメージが起きちゃうんです。
もちろん「サタン」「悪魔」を無視はできないですが、安易に語ってもいけないですし、強調しすぎたら、もっといけないんです。

そこで、ぜひ、サタンの存在や目的を正しく理解していただければなと思うわけです。
サタンは、決して悪い魔物ではなく、「訴える者」という意味です。
単に人を罪に誘って、悪いことをさせるのが目的ではなく、それは手段。あの手、この手を駆使して、どうにかして神と人とを引き離したい、神様の愛、キリストの福音を否定させたい、これこそがサタンの究極の目的なんです。

アダムとエバがそうだったように、時に悪いことをさせるのかもしれません。それによって神様はお前たちを愛してないぞ…と訴える。
時には、御言葉まで使って、正しそう、決して正しくはないですよ、正しそうなことも言います。信じる信仰だけではだめなんだ、福音を否定させたり、それでもクリスチャンなのかと訴えてきたりすることもあるかもしれません。
神に反対する者、分離する者、誹謗中傷する者、訴える者、これがサタンの正体です。

こういう思い、考えが出てきたら、それこそ要注意。
まずはイエス様をみる。イエス様に頼る。これが先決です。

確かに、罪は罪なんです。それらを認めて、ごめんなさいすること、改めていくことも必要でしょう。
ですが、それで私たちの罪がきれいさっぱりなくなるわけではないんですよね。
私たちはどこまでも不十分、不完全な罪人なんです。
でも、だからといって、それで神様ご自身から、私たち、人間への愛がなくなってしまうわけでも…ないですよね。

むしろ、そんなサタンによってだまされ、罪によって分離させられた、人間と神様との関係を取り戻してくださるのが、我らがイエス・キリストであるわけです。
ですから、どこまでも、サタンよりキリストなんです。

さて、前置きが長くなっちゃいましたが、時は、十字架直前のシーンです。

ルカ22:31〜34
 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロや弟子たちも、それまでイエス様が一緒だから、安心。強気なことも言えてたんですよね。
「死んでもついていきますー」なんて言っていますが、本当のところ、死ぬなんて、ほとんど考えていなかったはずです。

なんてったって、死者をも生かす、イエス様が一緒ですもん。
たとえ死んでも生きる。向かうところ敵なし。
怖くなんか、ないですよね?第一、イエス様が負けるわけがない。

この直前を見ると、誰が偉いか、言い争いしているのがわかります。
さあ、いよいよ最終決戦。イエス様が政権を取ったら、誰が幹事長で、誰が官房長官か。
十字架を背負おうとしているイエス様に対して、弟子たちの理解は、その程度でした。

ところがイエス様は、そんな息巻く弟子たちに水を指すように、こう話しかけられたわけです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

かがーん。
そんなこと願ってもほしくないですが、神に敵対する者の割には、律儀に、神様に願った…らしいです。
サタンといえど、決して、神様と対等に敵対できる存在ではなく、あくまで神様の許しの中で存在しているに過ぎないんですね。

でも、まあ、それはサタンのことだから仕方のないことだとしても、神様も神様ですよね。
そのサタンの願いを聞き届けたというんです。
ちょっと、勘弁してくださいよ…って話じゃないですか。

ですが、ここ注目してください。神様が、時にサタンを用いることがあるんです。

えーっ。そんなことがあろうことか…。あるんですね。

なぜ神様は、こんなサタンの願いを許されたんでしょうか。
それは、この先、初代教会の指導者として下に使えていくためには、誰が偉いか…、手柄や功績で、自分を上に立たせるのではなく、そんな誇りや高ぶり、それこそ余計な麦の籾殻が、砕かれ、振るい落とされる必要があったんではないでしょうか。

ですが、その後に注目してください。

 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました・・・

単にサタンに揺さぶられて、全部、振るい落とされてしまうのではなく、ちゃんと純粋な信仰の麦粒が残るように、イエス様が祈っていてくださるんですよね。

やっぱり、サタンよりキリストなんです。

ペテロは決して、単に弱いだけではないように思います。
網を捨て、一番弟子として、真っ先に着いて来たペテロです。イエス様が捕まるや否や、他の弟子たちはあっという間に逃げた中、ペテロは、大祭司カヤパの官邸にまで行くんですよね?
本当にイエス様についていきたかったし、かんなり、がんばったんです。

しかし、イエス様と引き離されたとき、まさに、サタン、敵対する者、誹謗中傷する者が、彼を揺さぶり、恐ろしさのあまり、ついに三度知らないと否定してしまったわけです。

でも、実は、この後から本当の意味での、サタンの麦のふるいが本格化したように思うんです。

私たちは、歴史の後ろから、復活も知りながら、十字架をみることができるんですよね。
しかし、ペテロは、当時にあって、時間順にしかみれないわけです。
十字架から足掛け三日、中一日は待たなければ、復活に辿りつけないわけですよ。

誰が偉いか、言い争っていた自分。
死ぬまでついていくといいながら、予告どおりに三度知らないといってしまった自分。
その悔しさ、情けなさ、自己嫌悪、自己否定、俺は弟子として失格だ。。。
イエス様は死んだ。本当に復活なんてするのか。。。
内から、外から、いろんな声が聞こえてきたはずです。

「しかし、あなたの信仰がなくならないように祈った。」

しかも、ここは、信仰が強調されています。

「あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

ペテロ、お前は三度、私を否定するよ。だが、大丈夫。わかっている。
あなたの、その信仰をなくすな。信じて、待て。復活を待て。
ペテロには、このイエスの祈りこそが、ただただ、心の支えではなかったでしょうか。

 22:32 「・・・だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

自分の弱さを知ることは、自分だけではなく、人の弱さを知る時でもあると思います。
ペテロは、サタン、訴える者に揺さぶられ、自分の弱さをさらけ出し、惨めで、情けなくて、下の下にたどり着いてはじめて、そのさらに下、底辺で支える、キリストの愛を理解していくわけです。
これが、後々教会のリーダーになるペテロにとっては、必要不可欠なことでもあるわけです。

イエス様も、サタンの試みを受けたわけですが、実に、それも人間の弱さを知るため、それによって、憐れみを持つため、それが理由だったわけです。

ヘブル人への手紙では、こんな風に書かれています。

ヘブル人への手紙
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

すると、サタン自体は、決して望ましいとはいえないですけど、神様の手にある時に、試みを受けることも、時に必要、一概に全て悪とは言いきれない…のかもしれないですよね?

この後も、ペテロは、いろんなところを通るわけですけれども、やがてはローマで殉教を遂げます。
でも、それはいきなり強くなったわけではなく、この経験も一つ大きな経験としてありながら、いろんな経験も重ねて、やがて、そうなりえたんだと思います。

正直な話、私も、名前は力ですが、かなり弱い、ただの罪人に過ぎないんですよね。
こうして神様の言葉を語る役割を与えられてはいるわけなんですが、ほんと、恐れ多いことなんですよね。
サタンじゃなくても、自分で自分をふるいにかけちゃうことがあるんです。

自分なんかが、こんな働きしていいのか。
ただの自分の思い上がりじゃないのか…
ネガティブになりだすと、とことん落ち込んでしまうんです。
なにぶん、本当に罪人なんですから。
それこそ、サタンに惑わされているだけなんじゃないか…とか?

でも、そんな時に思い浮かぶのは、やっぱりイエス様の十字架なんですよね。

たとえ、どんなに自分が罪深くても、何であっても、イエス・キリストの十字架、このキリストの事実だけは、何があっても、否定できない、変わることがないんです。

ここまでくると、もう自分がどうとか、サタンがどうとか、ほとんど関係ないんですよね。
神学校で教わったある先生が、メッセンジャーというのは、ホテルでは、一番、身分の低い仕事なんだ。預かったメッセージを、ただ、お客様に届ける…それがメッセンジャーの仕事だ。本当に、そうなんだと思うんです。
自分がどうであれ、神を語る。キリストを語る。

主イエス・キリストを信じるならば、いつでも、どこでも、誰であっても救われます。
イエス・キリストは、私たちの全ての罪の身代わりに、十字架を背負い、罪と死と悪魔、サタンを打ち破って、事実として、よみがえったんです。すでに勝利を収めたんです。
イエス・キリストの福音は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

サタンが何をしても、この事実は変えられません。

皆さんの長い信仰生活の間にも、いろんな出来事があると思います。
失敗すること、悩むこと、思わず、自分の弱さがさらけ出ちゃうこと。
あるいは事故や病気や怪我、思わぬ問題で、本当に神様に愛されているのか、わからなくなること、自分はだめだと思うこと、クリスチャンとしてこれでいいのか…って思うようなこと、あるかもしれません。
時には、本当に訴える者、サタンに揺さぶられちゃうなんてことも、あったりするのかもしれないですよね。

「しかし、わたしは、あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

サタンがどんなに、誹謗中傷、訴えてきたとしても、サタンよりも、キリストです。

自分には、何にも誇ることがない、たとえ何の功(いさおし)、実績も功績もなかったとしても、神は、御子イエス・キリストの十字架と、ただ、あなたの、その信仰のゆえに、赦し、受け入れ、神の国へと向かえいれてくださるんです。

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちの大祭司、イエス様も、決して、私たちの弱さに同情できないお方ではありません。
むしろ、私たちの弱さを知って、あわれんでくださるお方なんですよね。
聖霊も絶えず、このキリストこそを指し示してくれています。

そんなイエス様、聖霊様の助けもいただきながら、弱さを覚えることがあっても、イエス様に習い、私たちもまた人の弱さを理解し、人を力づける力へと変えさせていただきたいものですよね。


posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は1年以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。