2015年10月31日

《三位一体と教会-4》「キリストと平和」コロサイ3:12〜17

2015.8.9 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 ほんとに暑い日が続いていますよね。お変わりないですか。
 私は、さいわい食欲がなくなる…ということはないんですけれども、それでも日によっては朝から、体がだるいというか、重いというか、力が入らなくなる…、今まで、夏バテって意識したことはなかったんですけどね。
よく食べ、よく寝るようにしながら、体を保っていますが、皆さんも、ぜひお気をつけください。

 さて、ここしばらく、三位一体の神様について、前回はサタン、悪魔という存在についてお話させていただいたんで、今回は、人、人間かな…なんて思っているところなんですが、時は、8月、今日は9日、長崎に原爆が投下された日、今週末は15日、終戦記念日を迎えます。
 今年は、戦後70年の節目にもなっているわけですが、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案ですとか、皆さんも、それぞれに戦争や平和についても考えることが多い年ではないかと思います。

 方や、一方で、たまたま昨日テレビで見たんですが、NHKが20代、30代に調査したところ、広島、長崎に原爆が投下された日を正確に答えられたのは、わずか23%だったそうです。
 もちろん、いつの日かが問題ではありませんので、原爆の事実だけでも知ってさえいてくれればいいのかもしれませんが、それが、いいか悪いかではなく、だんだんと、この日本も、そういった戦争の記憶が薄らいでいるという、この現実は、しっかりと認識しておいたほうがいいのかもしれません。
 つまり、戦争によって受けた痛みが忘れられていく、それは、決して自分たちが受けた痛みだけではなく、戦争によって相手に与える痛みもわからなくなっていく…ということでもあるわけです。

そこで、今日は、「平和」ということも一つテーマとして念頭に置きながら、聖書を味わっていければな…と思っております。

さて、これは前回も少しお話したんですが、私たち人間には、思い込み、先入観、無意識の領域が約8割、9割以上、物を言っているわけです。

 これは笑い話なんですけどね。
 前回、サタンよりも、キリストと題して、サタン・悪魔と呼ばれる存在についてもお話させていただいたんですれども、サタンは神様とは違って、霊的な存在ではあっても、単体、単独であって、全国津々浦々、神様のように天地に満ちている存在ではないですし、悪いことすべてが、サタンの仕業でもないですし、私たちの思い込み、無意識、潜在意識の領域で、聖書が言っている「サタン」とは別の、まったく別世界で描かれた悪魔のイメージを描いてしまっていることもありえますよ…なんてお話をいたしました。

 むしろ、私たち自身のそういった思い込み、あるいは限界であったり、弱さ、あるいは罪が原因であったりするわけです。
 で、結論としては、サタンより、キリスト、イエス様に頼る、イエス様を信じることですよ…なんて、お話をしたんですが、そんなお話をしておきながらですよ。。。

 教会からの帰り道、ふと、ふとですよ。
 あんなふうに、サタンをこきおろして、サタンに狙われるんじゃないだろうか…なんて、ふと思ってみたりするんですよね。
私の頭の中にも、サタンや悪魔という存在に対する恐怖意識がどこかしらあるんですよね。

 これで、もし事故にでもあったら、「ほら、あんな話をするから、サタンにやられた」ということに話にもなるじゃないですか。
少なくとも今日の一日は、事故にはあえないぞ、家に帰って、ちょっと車を運転するにも、いつもよりも超慎重に、超安全運転ですよ。

 幸い、事故も、何事もなく、翌日の朝を迎えましたんで、これは私の思い込み、先入観、私の頭の中だけの架空のサタンの仕業であることが立証されたわけですが、それだけ、私たちの思い込み、先入観というのは潜在意識の中に染み付いて、理性的には違うと判別していても、言葉や行動、あるいは感情にも影響を及ぼすわけですよね。

 それらが総じて、私たちの罪、すなわち「的外れ」、欠けた部分となっているように思います。

 今日はコロサイ人の手紙から、信仰者の歩むべき道、方向性を示しているところから選んでいるわけですが、たとえ、今現在において、できていない、不完全であっても、それでクリスチャン失格ということは、絶対にありません。

これはクリスチャン、ノンクリスチャン問わず、私たちは、たとえ1割の顕在意識で正しいことがわかったとしても、残りの九割の無意識、潜在意識の中で的をはずした、欠けた部分を持っている罪人だということです。

…というとね。気をつけないといけないのが、罪人だと攻められているように感じてしまう人もいらっしゃるかもしれないですが、そうではないんですよ。

 お互い罪人同士。
 弱さもあります、罪も犯します、間違うこと、失敗すること、悩むこと、それで人間関係、こじれること、うまくいかなくなること、傷つくこと、痛むこと、争うこともあります。

 でも、そのままでいいの…っていったら、そうではないんです。
 悩んだまま、傷ついたままでいいのか、そんなことはないわけですよね。
 歩むべき、目指すべき方向性というのがあるわけです。もちろん、それを導いてくれるのは神様、イエス様であり、聖霊であり、父なる神様であるわけです。

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」と書かれていますが、ぜひ勘違いしないでください。
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な人たちを神様が選ぶ・・・、そういった人たちだけが選ばれて、あとは神様に捨てられるわけではありません。
 聖なる…というと、ピュア、クリーン、きよく、正しく、美しいイメージがありますが、私たち自身がピュアでも、クリーンでもないんです。私たちは本質的に罪人なんです。
 本当に「聖」と呼べるお方は神様だけです。その「聖である神様のものとされた」というのが、「聖なるものとされた」という意味です。
私たちは、元々、本質的に罪人であるにもかかわらず、神様は、その罪人である私をも選び、イエス・キリストを十字架で苦しめ、痛めつけても、聖なるご自身のもの、神の子として迎え入れ、愛してくださっているわけですよね。

 そういった意味として、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
 この「身に着けなさい」は、身につくまで「繰り返しなさい」という意味合いです。

 つまりですね・・・。裏を返せば、今、現時点においては、身についているとは限らないんです。
 同情できないときもある、慈愛、謙遜、柔和、寛容じゃない時もある、失敗しても、でも、繰り返して、身に着けていきなさい…なぜならば、神に選ばれ、神の子とされ、神に愛されているから。イエス・キリストの十字架の命をかけて。

ですから、13「互いに忍び合い」、実を結んでいくまでには、忍耐も必要なのかもしれないですよね。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、

 さっきの柔和、寛容とは全く正反対なんですが、私たちは、それで不満を抱くような者なんですよね。それでいて、自分は正しいと思い込む。
 あー、まあ、あるような気もするじゃないですか。でも、互いに赦し合いなさい。

 赦す…というと、罪が野放しにされるような気になってしまうかもしれないんですが、あくまで、罪、失敗を自覚している場合においてです。
方向はわかっていても、でも、失敗してしまうことは誰にでもあるわけですよね。

 しかも、この赦しは、ただの赦しではありません。

 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 イエス様も、ただ罪を赦したわけではないんですよね。ここにはね、イエス様の十字架がかかっているわけですよ。
そのイエス様の愛と赦しの心をもって、あなたがたも赦しなさい。そして14節、愛しなさい…と語られています。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 もちろん、この愛も、愛は愛でも、キリストの愛です。

 この箇所は、よくガラテヤ書の5章に出てくる「御霊の実」、とも比較されます。
御霊の実…木になる「実」の実ですね。

ガラテヤ人への手紙
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はありません。

 総じていえば、「愛する」ということになります。
あくまで、御霊の実ですから、私たちの努力だけで結ばれていく実でもないんです。
御霊は、絶えずイエス様を指し示してくれています。
その聖霊の助けをいただきながら、イエス・キリストの愛を受けて、繰り返し、繰り返し、失敗しながらも、身に着けていくものなんですよね。
できないから駄目ではないんです。
むしろ、できないのに、キリストに赦されているからこそ、その愛を知るからこそ、私たちのうちに結ばれていく実、心です。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 さて、ここで「平和」という言葉が出てきましたが、本当に、十字架の痛みを負った、キリストの愛と赦しを知ったとき、ただ愛される、赦されるだけではなく、自らも痛みを負ったとしても、愛する、赦す方向に変えられていきます。
 このキリストの福音が、お互いの共通理解として保たれている教会であれば、皆さんもまさにキリストの平和、心も平安でいられるのかもしれません。

 ところが、一度、世に出れば、荒波に、もまれるわけですよね。
 決して、人々の心に愛や赦しが全くないわけではありません。
 でも、まあ、ぐちゃぐちゃぐちゃと、いろんな問題もあったりして、様々な争いごとや、闘争、だまし、だまされ、うらみ、憎しみ、欲の絡みあい、怒り、悲しみ、赦せない心、それで、罪人たる自分の本性も刺激されたりしちゃうわけですよね。

なので、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するように、私たち自身が、自分自身の心を守る必要もあるわけです。

今、ちょうど日本も、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案で、物議を醸している最中ですけれども、平和というのにも、二種類あると思うんですよね。

武力だけに限ったことではないんですが、力による平和と、力によらない平和です。

この世、この現実社会にあって、罪人が築く社会ですから、戦争がなくなることはないと思います。
国の利益を維持、拡大するために、力でねじ伏せようとする、武力を行使してしまうものがいる以上、自らも武力を手にしてしまう、使わざるを得なくなる。これも、かなしかな、確かな現実なのかもしれません。

ですが、武力による平和には、必ず、新たに痛みを負う者が生まれてしまいます。
その痛みがまた新たな武力、戦いを生んでしまったりもしているわけですよね。

そこで、一見、現実的ではない、理想過ぎる理想かもしれないけれども、武力によらない平和、これを目指すことは忘れてはならない、大切なことなんです。

「剣を取るものは、みな剣で滅びる。」(マタイ26:52)

キリストは、弟子たちに、剣を捨てさせて、
王、自らが痛みを負い、王、一人の命と引き換えに民を救う。
キリストの平和と勝利は、ここにあるわけですよね。

ニューヨークの国連広場の壁には、こんな言葉がきざまれているそうです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

 これは、旧約聖書のイザヤ書、またミカ書にも出てくる預言の言葉なんですが、実に、この後に、救い主、つまりイエス・キリストの誕生の預言が続くんです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

まるで、憲法9条のようじゃありません?
ちなみに、憲法9条はこうです。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

クリスチャン人口1%足らずの日本といえど、この点に関していえば、実に聖書的なんですよね。
もちろん、99%の日本人は、そんなふうには捕らえてはいないとは思いますよ。
でも、日本は敗戦を機に、奇しくも、まるでイザヤの預言のような、この憲法9条、平和憲法を得たんです。
本当に、奇しくも、敗れて、得たんです。

アメリカによって制定されたという批判はありますが、こういっては何ですけど、何の後ろ盾もなく、国家が自ら、武力、軍隊を捨てるのは容易なことではないですよ。
だったら、どうやって国民を守るんだという話にもなるわけですよね。
しかし、そんな憲法9条が制定されて以後、戦後70年間、これを維持、守ってきたのは、紛れもなく、戦争の痛みを知る日本国民に他なりません。それで今の日本もあるわけですよね。

クリスチャンが多い国も数多くある中、世界が理想としては掲げながらも、現実的には、武力による平和が当たり前、武力によらなければ平和は築けない、そう思い込んでしまっている中、日本は、武力によらない平和を目指してやってきた。
先進国の中で、今、これができているのは、日本だけなんですよ。すごいじゃないですか。

しかし、その日本も、次第に戦争を忘れ、痛みを忘れ、この価値が見えにくくなってきているのかもしれません。
一度、国内に目を向けたときに、「誰でもいいから、殺してみたかった。」そういう殺人事件もあるわけですよね。
人、一人の命の価値すら、薄らいできている・・・。それは他者はもちろん、その犯人、自分自身のことですら、命のありがたみ…というものが薄らいでいるように思うんです。

まして、国々が武力で物をいわせようとしている中、何の後ろ盾もなく、武力を持たないというのは、武力を持つ以上に勇気のいることかもしれません。

そこで、いま、日本国民は、武力による平和なのか、武力によらない平和なのか、その選択を迫られているわけですが、結果、どっちに転んだとしてもですよ。私たちがどこを目指すべきか…といえば・・・

3:15 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」

キリストの平和、「力によらない平和」、もっと積極的に言えば、キリストの愛と赦しによる平和なんです。

もし私たちの宣教も、ただ神様との関係だけの平和であって、人と人、国と国との平和には、なんら関係がない、結びつかないものだとしたら、それは、ちょっと、むなしいものですよね。

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

日本も、かつては戦争も引き起こしてきましたし、私たちも、世にあっては、本質的に、同じ罪人なんです。
だからこそ、キリストのことばを、私たち、自分自身のうちに豊かに住まわせていく必要もあるわけですよね。
キリストは、私たちを命がけで愛してくれている、これが十字架の言葉です。

 日本語の感謝の言葉、「ありがとう」というのは、よくできた言葉で、あるのが難しいと書いて、「ありがとう」なんですよね。
イエス様が命を捨てたのは、クリスチャンのためだけではなく、全世界、全人類のためですよ。
今は仏教徒だろうが、今はイスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、今はイエス様にとって、私たち一人一人が、世界の一人一人が、「ありがたい」存在なんです。
 私自身、皆さん、自分自身も「ありがたい」存在として、今、生かされているんですよね。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

その主イエスの名によって…クリスチャンは、何をしますか?
「ありがたい」存在に、何をしますか?
ことばによると行ないによるとを問わず、すべてです。

そう思うとですね。。。まあ、自分自身、本当に罪人ですよ…。だと思いません?

 私たちもまた不完全なる罪人ですが、にもかかわらず、先に神に選ばれた者、キリストの愛を知らされた者、またキリストに赦された者として、いかなる時にも、赦す心、愛する心、平和を願う心、感謝する心を忘れない。
もちろん、失敗やできない時もあります。
でも、自分なりに、自分らしく、自分にできる方法をもって、キリストの愛や平和を広げていく、このような生き方を目指していきたいものですね。


posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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