2015.9.27 田園グレースチャペル
みなさん。おはようございます。
8月の暑さから一転、急激に涼しくなり、秋が猛ダッシュしてやってきたように感じてしまいますが、皆様、お変わりなく、お過ごしでしょうか。
今日は「マルタとマリヤ」のエピソードを取りあけているんですが、この話というか、マルタさんの姿って、私たちにとって、すごく身近な話だと思うんですよね。
うちも夫婦共働きなんで、私も家事をするんですが、でも、どちらかが家事をしている時に、どちらかが休んでいるということはありえないというか、まあまあまあ、夫婦喧嘩の火種みたいなもんですよね。
昨日は、昨日で、メッセージの用意してるじゃないですか。
その傍で、いろんなことを話かけてくるんですよね。。。
「SMAPの中居くんって、結婚する気あるのかな…」
って、知らんがなって思うんですが、あれ、不思議ですよね。
きっと、多分、思ったことを口に出してるんだと思うんですが、決して、どちらが…というわけではなく、どちらもマルタであったりするものです。
さて、そんな「マルタとマリヤ」の話なんですが、この箇所を読んだとき、皆さんはどのように受け止める、あるいは、どんな風に聞いているでしょうか。
10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
マルタさんの何がよくなくて、マリアさんの何がよかったのでしょうか。。。
どう捉えていますか…?
なんて質問を投げかけるということは、竹下がまた何かを覆そうとしているかのように聞こえるかもしれませんが、正しい、間違い、関係なく、皆さんが、どう読んでいるか…、まず、ちょっと意識してみてもらいたいんですね。
たいていは・・・、
「奉仕も大切。でも、マルタのように、心を乱しては駄目。
それよりも、なによりも、マリアのように、まず御言葉を聞く、いや聞くだけではなく、御言葉に聞き入る…これが大切です。」
…なんてふうに、読んだり、聞いたりしているのではないかと思います。
どうでしょうか・・・。大体、こんな感じで、合ってますか?
いや、いいんですよ。大体は、これで合っていると思います。
結論として、イエス様が、「どうしても必要なこと」というのも、「まずは御言葉を聞く」それで、よろしいでしょうか。どうでしょう?
よろしければ、今日の説教は、これにて、おしまいということになるわけなんですが…、そうはならないんですけどね。
もし「御言葉に聞く」ことが大切と語られながら、ここで終わってしまえば、実に、御言葉を聞いたことにならないのではないかと思うんです。
これは決して否定する意味ではなく、私たちは聖書を読んでいるつもりでも、実は、読めていないことがある…、それを、ちょっと意識してみてほしいんです。
イエス様が、何が「どうしても必要なこと」だと語っているのか、ぜひ、そこに耳を傾けてみてほしいんですよね。
時に、聖書に限らず、どんな文章であっても、その一文の意味というのは、必ず、前後の文脈、その背景によって、意味が規定されます。これが文章読解の基本です。
報道や何かでも、インタビューで、1箇所だけが取り上げられて、そこだけが強調されてしまう時、本人が言わんとしていたこととは、違っていることもあるものですよね。
聖書も、気をつけないと、一部だけを取り出して、読まれてしまいやすいんです。ですので、聖書も前後の文脈から、極端な話、聖書全体から考える必要があります。
そこで、その前を見てみますと、有名な「良きサマリア人」のたとえ話がでているかと思いますが、実は、ごめんなさい。
今日は、まず、私たちが聖書をいかに読み違えるかを理解してもらうために、あえて聖書朗読では、このたとえ話の部分は、はずしていたんです。
実に、先ほどの答えも、このたとえ話に書かれていることなんです。
このサマリア人のたとえや、この10章、その前も後も、イエス様が、まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が書かれています。
ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムのすぐ東側、オリーブ山を越せば、エルサレムというところにあります。
違う場所なんですね。
おそらく、もっと後での出来事、本来ならば、19章あたりで出てくる話なのです。
つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを挿入したんです。
良きサマリア人のたとえでは、ある意味、理想的な愛の形が説かれているかと思います。
ところが、あまりにも理想的過ぎて、実際問題、自分自身はどうかといったら、現実とは程遠い、雲の上のような話で終わってしまいやすいように思います。
しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、きわめて現実味のある出来事です。
つまり、サマリア人のたとえ話で語られた理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示すのに、このマルタとマリアの話が、ぴったりだったわけです。
そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。
10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」
私たちが、もし同じ質問を誰かにされたら、普通、どう答えるでしょうか。
「ただイエス・キリストを信じれば、救われる」そう答えると思います。
しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があります。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
「こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…」、即その場で捕まえて、石打ちにでもされかねない、そういう話です。
でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、
10:26 「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」
と、うまく切り返しているわけです。
彼は律法の専門家ですので、その答えは知っているわけですよね。仕方なく、答えます。
10:27 「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」
これが最も大切な戒め、これが律法であり預言者、イエス様自身もそう語った、まさしく大正解なのです。
10:28 「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」
イエス様もちょっと冷たいですよね。「わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
ところが、実は、たとえ正しい答えは知っていたとしても、それが実行できないのが、私たち人間、罪人の現実なんだと思います。
それが律法の限界でもあったわけです。
でも、ここで、イエス様は二つの質問をしているんです。
一つは、律法には、何と書いてあるか。客観的に、聖書にどう書いてあるか…です。
しかし、もう一つ、「あなたはどう読んでいますか。」
主観的に、あなた自身の現実問題として、どう理解していますか。どう受け止めていますか。その問いかけでもあったんです。
もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は全く変わっていたと思います。
みなさん。聖書を読むとき、ある意味、自分の正しさを現すために、聖書を読んでも、あまり意味がないんですよ。
むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。
「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味があるんですよね。
ですが、彼は、正しい答えも知っていましたし、本人的には、実行しているつもりでした。しかし、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気づかず、自分は正しいと主張してしまう…そこに盲点があるのです。
10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」
私は、家族も、友人も愛している、ついでに向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。さあ来い。私の隣人とは誰だ…。自分は正しいと思っていますから、自信満々です。
そうしたやり取りがあって、イエス様が語ったのが、良きサマリア人へのたとえです。
エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。次に通りかかったレビ人も、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。
ユダヤの律法では、もし血に触れたら、身を清める期間をおかなくてはなりません。その間、仕事ができなくなる。彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。
「誰が、私の隣人なのか…」
彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。
その後に通りかかったのが、サマリア人です。
サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血で、外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった人たちです。そんな彼らをユダヤ人たちは、何百年もの間、妥協の産物、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別、侮蔑していたんです。
もちろん、サマリア人自身も、そんなユダヤ人たちが大嫌いでしたから、そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、ありえないような徹底した介護ぶりです。
そんなこと、絶対に、ありえない。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。
10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」
「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、この人の隣人になったのか」。
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」
彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。「その人にあわれみをかけてやった人です。」、そう答えているわけです。
ですから、これは、単に、隣人を愛しましょうとか、傷ついた人を助けましょうとか、そういうレベルの話ではないのです。
何世代もの怒り、憎しみ、恨みを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。
やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
私たちには、なかなかどうして、できない。
「誰が、その人の隣人となったのか…」なり得たのか。
このサマリア人の姿は、まさに、イエス様の姿なんですよね。
罪人を赦すがゆえに、その責めを身代わりに負って、十字架を背負う愛。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに、これから十字架によって示されようとしている愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。
その宣言でもあるわけです。
10:37 ・・・するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」
果たして、できるでしょうか。私たちには、正直、難しいことですよね。
自分の嫌いな相手。自分のことを悪く言ってくる人。その人を自分自身のように理解して、愛せるのか。その人の隣人になれるのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。
にもかかわらず、私たちも、この律法の専門家のように、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。
それも身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。それが、私たちの現実、日常。それがマルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているわけです。
さて、このマルタとマリヤの話。
もし、単純に、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
御言葉を読んでいない人は駄目。マリヤのように「まず御言葉に耳を傾けましょう」と読んでしまうとしたならば、実は、聖書を読んでいるようで、読めていない、この律法の専門家と同じになってしまうと思います。
実に、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたはずなんですよね。
イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、自ら、もてなしの準備をはじめたはずだったんです。それは、マルタの愛からきたこと、実際、誰かが食事の用意をする必要もあったんです。
ところが、まあ、イエス様だけならともかく、ペテロに、ヤコブに、ヨハネだの、その他大勢、ナタナエルだか、ガマガエルだか、名前も、よう覚えていないような弟子たちまで一緒にいたわけでしょ。あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう大忙しで、大変だったわけですよ。
そんな時、ふと目をやれば、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかり聴いている…。
マルタはマルタで、自分も、イエス様の話を聞きたかったのかもしれません。
なんだか自分ばっかりが苦労して、マリヤはずるい。まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。空気読んでよ…みたいな?わかるじゃないですか。
挙句の果てには、その矛先がイエス様に、向いちゃったわけです。
10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」キィーッ!!! みたいな?
「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にはならない高周波ノイズも、絶対、乗っかっていますよね。
マルタの失敗は、ついつい、マリヤを気にしてしまった、自分とマリヤを比べてしまったところにあるように思います。
はじめは、自らの愛する思いで、はじめたこと。マリヤは全く関係なかったんです。
本当に手助けが必要なら、普通に、ちょっと手伝ってくれる?とお願いすることもできたはずですし、もしマリヤが別の用事で出かけていたら、全く腹も立たなかったことでしょう。
ところが、マリヤのことが気になり、イエス様がどう思っているのか気になり、自分がなおざりされている気がして、愛ではなく、嫉妬や怒りに変わってしまったわけですよね。
10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。最初はマルタの愛だったんです。
マリヤも、気が利かないといえば気が利かない、不十分といえば、確かに不十分。しかし、マルタが正しくて、完璧だったわけでもないんですよね。
マリヤはマリヤで、今この時、イエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
マルタは、自分とマリアを比べる必要もなければ、ましてマリヤを否定、非難する必要もなかったんです。
ですが、反対に、もしマリヤが「先生。マルタに、もてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」なんて言ったとするならば、どうだったんでしょうか。イエス様はマリヤに同じように言ったはずです。
「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」
どうしても必要なこと、イエス様の願いは、ただ一つ。
『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』
これが律法であり、預言者、聖書全体。これがイエス様の願い、生き様、心。まさに、THE御言葉です。
私たちが「愛する」という事、その心、その1点に集約されています。
ですが、愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけのことをしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。
私たちができること、今していることは、良きサマリア人のたとえ話でわかるように、イエス様の愛と比べたら、まだまだ、ずっと下ですし、その時、その時で、今の自分にできる範囲、そのレベルのことでしかないはずなんですよね。
ですが、その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。
イエス様は、その不十分、不完全なものを喜んで、受け取ってくださるんですよね。
ここが一番大切なのですが、そんな自分自身の不十分、不完全さを認めることができる時、その自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさも見えてくるのではないでしょうか。
誰が、この私、自分自身の隣人となったのか…
あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、イエス・キリストは、この私の良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけです。
どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
私たちにできることなんて、限りがあって当然。あれも、これもとはいきません。
しかし、この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、自分なりに、自分らしく、一つ、また一つと、神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。
この3つの愛に生きる。
もちろん失敗は、多々あると思います。しかし、このキリストの愛に育まれながら、一つ一つ、自分を愛し、隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。