2015年10月31日

《三位一体と教会-6》「キリストの体なる教会」Tコリント12:12〜27

2015.10.25 保守バプテスト 田園グレースチャペル

 みなさん、おはようございます。

 すっかり秋らしい秋になりましたが、皆さん、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか。
 私は先週、ちょっと気管支を痛めてしまったようでして、もしかしたら、お話の途中にも少し咳が出てしまうかもしれません。ご容赦ください。
 だいたい、この季節になると、乾燥してくるせいか、いつも大なり小なり、痛めてしまうんですが、先々週くらいから、少し疲れもたまっていたようでして、市川の教会での大きなイベントがありまして、その取り纏めと、奉仕とで、少しおかしかったんですよね。
とにもかくにも、それが一段落したところで、気が抜けたのか、一気に疲れも出てしまったようです。 
 空気も大分、乾燥してきているんではないかと思いますので、皆さんも、気をつけていただければと思います。

 さてさて今年は、まず三位一体の神様、父・子・聖霊という存在が一丸となって、私たちを取り囲むように、抱くように、守り、導いてくださっていることをお話ししてきました。
 子なるイエス・キリストは、父の愛を指し示し、父なる神は私たちに聖霊を送り、その聖霊は絶えずイエス・キリストを指し示す。
 私たちはイエス・キリストによって、父なる神様の元、神の子どもとされ、子ども同士は、神の家族、それを証してくれているのが聖霊です。

 しかし、一方で、私たち人間というのは、とかく不完全、足りないところだらけでありまして、決して完璧ではありえません。
 前回のマルタとマリヤの話のように、本当の家族、姉妹であっても、片方で、マルタさんのように、忙しさのあまり愛することを見失ってしまうこともありますし、一方、マリヤさんも御言葉には熱心、夢中になっていたかもしれませんが、その御言葉の中心の「愛する」ということで考えれば、実は気が利かない、どこか抜けていることもあります。
 しかしイエス様は、どちらがいいか悪いか、正しいか間違っているか…、比較したり、非難したりするのではなく、マリヤはマリヤ、マルタはマルタで、それぞれのいいところを、いいところとして受け止めてくださっていたわけです。

 私たちは、そのイエス様のところに集まってきた、そんな不完全な人の集まり、その集合体が、この「教会」という集まりということにもなります。

 そこで、今日は、「キリストの体なる教会」という有名な箇所を取り上げさせていただきましたが、だいぶ前、私も、ここから取り上げさせていただいたことがあったかと思うんです。
 ですが、もう、すっかり、そんなことは忘れているだろうと思いまして、選んでいるわけですが、いいんですよ。説教なんて、そんなもんなんです。
 ですが、ここで「からだ」といわれているとおり、この体には感覚がありますよね。
 手があり、足がある。
 頭というより、その体の感覚で、ぜひ身に着けておいていただければと思うんです。

 まず、そもそもパウロが、なぜ教会を「キリストのからだ」として捉えたのかといえば、そこには主に2つの理由があるといえます。どちらも体験的、この体の感覚的なんです。

 一つは、パウロがまだサウロという名前だったころ、いわゆるダマスコ途上での出来事。
キリスト教に反対し、ダマスコにある教会を迫害しに行く途中、突然、強烈な光に照らされて、ある声を聞くわけですよね。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。」
「主よ、あなたは、どなたですか。」
「わたしは、あなたが迫害するイエスである。」
この体験を通して、パウロは回心するわけですけれども、その時に、感覚的に、教会はキリストご自身であるという理解、感覚ができたと考えられます。

 もう一つは、聖餐式の聖餐です。
 実は、この前の11章では、その聖餐が取り上げられているんですよね。聖餐式の式文は、ここから引用されていたりもするんですが、私たちが普段行う聖餐式になりますと、すでに小さなサイコロサイズに切り分けられたパンが用意されているわけですが、本来は、1つのパンであったわけです。

「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげてのち、これを裂き…」

つまりイエス様は、一つのパンを取って、裂いたんです。自ら、裂いたんです。
そして、こう言われた。「これは、わたしの体です。」

 もちろん、これは十字架を指し示しているわけですが、実に、聖餐というのは、もともと一つのパン、つまりイエス様が「からだ」としてのパンを自ら裂いて、その裂かれたパン、つまりイエス・キリストの体の部分が、私たち一人一人に分け与えられるといるんですよね。

 そして、この二つに共通しているのは何かといえば、イエス・キリストの「痛み」であるわけですよね。
 私たちも、この体を打たれれば痛みますよね。

 それと同じように、教会の痛みは、キリストにとっての体の痛み。パウロは、ダマスコ途上の出来事と、聖餐すなわち十字架を通して、その痛みを認識したわけです。
 そこから生まれているのが、「教会は、キリストの体である」という理解なんです。

 ですから、私たちが、このキリストの体なる教会ということを理解するということは、単に頭の理解ではなく、キリストの「痛み」を私たちの「痛み」として共有する、神経を繋ぐということでもあるわけです。

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

 とかく教会で「キリスト・イエスにあって、一つ」ですとか、「御霊の一致」という時に、よもすると、ある一つの同じ考え、同じ意見、同じやり方、同じ働き…、みなが「おなじ」になるという意味合いで受け止められてしまうこともあるのかもしれません。
 でも、「違う」んです。
 何が「違う」かって、私たち一人一人は、そもそも与えられた能力、個性、やり方、得意不得意、みな違うはずなんですよね。

 確かに御霊は一つ、バプテスマも一つ、おなじです。
 ですが、私たち一人一人が「同じ」になるということが言われているわけではありません。
もし、お互いに「違う」ものを、「同じ」にしようとすれば、それは、どこかで無理が出てきて当然なこと。
 ですが、からだが一つでも、多くの部分がある。もし、能力も、個性も、働きも、「違う」ということを、お互いにですよ、お互いに理解できれば、逆に一つにもなりうるんです。

 実に、これは家庭でも、会社でも、ある程度、同じことが言えるのかもしれませんね。
 夫婦だって、もとは生まれも育てられ方も違う。うちら夫婦もそうですよ。
 私も、結婚して最初のころは、歯磨き粉のキャップの閉め方から文句をいわれましたもん。もちろん、喧嘩も多かったです。
 ですが、お互いに違いを理解しながら、一つの家庭を築いていくというところで、一つになりうるわけです。
 教会の場合には、「一つの御霊」、御霊は絶えず、イエス・キリストを指し示すわけですから、言い換えれば、イエス・キリストのスピリットによって、一つになるというわけです。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

 パウロは、まず、私たち自身が持つ、この体になぞらえて、説明していくわけですが、まあ、当たり前といえば、当たり前のような話、自分のこの足がですよ。
「俺は足だぜ。手とは違う。どこにでも自由に歩いていけるんだ。」…って、どっかに勝手に歩いていたら、困るというか、そんなことはないわけです。

 教会の中にも、中には、石橋をたたいて渡る、慎重かつ几帳面な人もいれば、まず渡ってから考える、大胆かつ積極的な人もいるかもしれません。
 何かと新しいアイデアが浮かぶ人もいれば、より堅実、確実な方法を好む人もいます。
 そのために、時に、意見が分かれる…ということもありうる、それ自体はあっていいと思うんです。
 もし、同じ一つの体の中に、それぞれの器官があるように、私たち一人一人は「同じ」ではなく、手と足のような違いはあるということを理解できれば、当然なことですよね。

 私たちが前に歩こうとする時、両手両足が同時に前に進もうとしても、前に進めないんですよね。右手が前のときは、左手は後ろ、左足が前に出て、右足は後ろです。それでバランスを取りながら、前に進めるんですよね。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

 どちらが正しいわけではなく、どちらにも長所短所があったり、欠けた部分も、間違うこともありうるわけです。
 だすが、実は、どちらも、神の御心。
 イエス・キリストのスピリットに従って考えていることであれば、考え方や方法に違いはあっても、その心、目的には、いいも悪いもないわけですよね。
 むしろ、どちらの見方、考え方も必要で、かえって自分とは違う反対意見こそ大切、耳を傾けることができれば、その両方の見方、意見を調整していくことで、実は、全体としての、バランスが取れていたりもするわけです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

 田園グレースの場合には、口から生まれてきたんじゃなかろうか…言う人が多いよう気もしますが、もちろん、おしゃべりじゃなければ、教会に属せないということにはなりません。

 ですが、私、思うんですが、比較的、多くの教会で、言った見れば「口」の働き、すなわち「伝道」の働きが重んじられることって多いように思うんですよね・・・。確かに伝道の働き、大事なんです。
 でも、うまく伝道ができないために、劣等感を抱くクリスチャンが少なくないように思うんです。ですが、ウルトラ異教国の日本にあって伝道が難しいのは、ある意味、当然なこと。決して、伝道が、全てではないんです。

「信仰は聞くことから始まる」…って言葉がありますが、聞く耳を持つって、本当に大切ですよね。聖書は、この手でめくり、この目で見て読むんですよね。
そんな聞く「耳」を持ち、さまざまな物事に見る「目」を持つ、これも必要、すごいことではないですか。
仕事をしたり、料理をするこの「手」、この「手」の働きも大切です。
「よい知らせを告げる足は、なんと立派なことか」なんて言葉もありますが、直接、口で語るばかりがすべてではありません。

 人と人、その出会い、人間関係の中から伝わるものもあるんですよね。
 クリスチャンになった証を聞くと、かつて教会学校に通っていたとか、職場の先輩がクリスチャンだったとか、決していきなり信じたわけではなく、いろんなクリスチャンとの出会いもあって、最終的に信じていることが多いんだと思うんです。
 福音を直接語っていなくても、その出会いが、実は知らないところで、ある人にとっての「救い」へと繋がっているとしたら、決して馬鹿にはできないんです。
 すると、口にはなれないけれども、足にはなれてるのかもしれないですよね。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

 もちろん、面と向かって「必要としない」なんて言う人もいないと思うんですが、時として、私たちは、自分自身に対して、同じ感覚に陥ってしまうことはあるのかもしれません。
 なぜ、あの人は、あんなふうにできるんだろう…、私には、こんなことも出来ない…といって、人と比べては自分で自分のことを否定してしまうことはあるように思います。
 ある時には、自分とは違う人に対して、思わず不平不満か、愚痴となってこぼれてしまうこともあるのかもしれませんね。

 でも、冷静になれば、自分の目が見てることが全てではないんですよね。
 自分と人とは違って当然。役割、働き、できること、できないこと、みな違うんですよね。
 私たちは、自分と他の人が「違う」ということを、本当に認識する必要があるんだと思います。自分と同じ人間はいないんです。

 いや、以前、実際に、うちの会社にいたんですよね。
 その人は、もともと独立して一人でやっていたんですが、その「一人」ということに耐えられなくなって、うちの会社に入ってきたんです。ですが、しばらくすると、あれが悪い、これが悪い、会社や周りの非難や悪口を言いはじめたんです。
 はじめは新人の女の子なんか、言われてみれば確かにそうだなんて同調しちゃったみたいなんですね。
 でも、あまりに非難、悪口ばかり言うものだから、お断り入れたらもう大変。今度は、その子自身に、裏切られただの、信用できない、態度が悪い、一緒に仕事は無理…、攻撃の矢が向いてしまったんです。
 確かにできる営業マンではあったんですが、決して、会社は営業だけで成り立つわけではないんですよね。経理や総務、事務的な仕事もあります。
 彼にしてみれば、自分が他より優れていると認められたい一心だったようなんですが、ところが、その周りを非難する言葉で、どんどん人が離れていってしまったわけです。

 これは、極めて極端な例だと思うんですが、でも、もし自分が「目」だとしたら、自分とは違う「手」が同じ働きができなかったとしても、それは否定、非難に値するんだろうか…。
 そうではないですよね。
 否定や非難したところで、何が変わりますか。手が目になれるわけではないんですよね。
 目には目の役割があり、手には手の、目にはできない特技があるんです。
 どんなに目が、手を非難したとしても、では、自分自身が、自分自身の手を切り落とすのか…って、そんなことはしないわけですよね。

 なぜでしょう・・・。
 「痛む」からです。その痛みは、キリストのからだとしての痛みであるわけですよね。
 その「痛み」を共有していくのが、神の家族であり、教会なんです。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

 実際に、パウロが、どの器官を弱いと思っていたかは分からないわけですが、パウロ自身は、目に病を抱えていたようです。
 でも、それまで当たり前だと思っていた視力が落ち、その目に弱さを抱えたとき、はじめて、目の存在の大きさ、尊さが見えたのかもしれませんね。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

 このからだというのは、実に、理想的なようで、理想的ではなかったりするんです。
 疲れるときもあります。病気にもなります。腰が痛くなったり、肩が痛くなったり、思うように動くようで、実は、思ったように動かなかったりすることも多々あるわけです。

 私も、姿勢が悪いじゃないですか。
 忙しくなって、仕事をつめすぎると、肩が痛くなって、首が回らなくなるんですよね。
 それで、たまに整骨院に行くんですが、実際に悪いのは、どこかというと、この胃の裏辺り。ここが硬くなってくると、胃腸の調子も悪くなって、肩、首、腰とくるんです。不思議ですよね。体は全て、繋がっているんです。
 イエス様も、私たちと一緒の、この限界がある、この肉体、この体を有してくださったわけですよね。

 ですから、この「キリストの体なる教会」ということを考えるときに、「キリストの」は付いていても、私たち人間の集まりである「体なる教会」というものは、決して完璧ではありえないし、ある意味、理屈や理想どおりには行かないこともありうるわけですよね。

考えても見てくださいな・・・。ここに、どれだけ完璧な人がいますか。誰もいないんです。
私たちは、まず、それを素直に認めることなんです。

 実に、弱さも抱えています。欠点もあります。ですから問題が起きることもあれば、どんなにがんばっても、どこかで限界はきます。
ですが、その現実の中で、確かに生きていて、存在しているのが、私たちでもあり、教会なんですよね。

もし、教会の弱さや欠点、あるいは痛みを感じたならば、それは否定したり、非難すべきところではなく、労わるべきところ、自分自身が補うべきところであるわけです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そこで大切なのが、「キリストの…」ということになるわけです。

ひとりひとり、個性が違います。生まれてきた環境、性格、能力、役割もみな違います。
自分と同じ人はいないし、完璧な人もいません。言ってみれば、みな不完全な罪人です。
でも、一人一人、キリストによって赦され、キリストに愛され、集められた各器官。
もし、私たちの誰か一人でも痛むとき、イエス様も痛みます。
みな違う。だから、みな大切。この中で、いらない人は、ひとりもいません。

一人で一人前ではないんですね。
一つの教会でも一人前にはならないのかもしれない。
時や場所を超え、全世界に広がるキリスト教会、
みなが集って、ようやく一人前、それがキリストの体なる教会です。

最後に、
12:31 …また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

さらに、まさる道といわれています。「さらにまさる道」って何でしょう。
それがこの後に続く、愛の賛歌、やっぱり、愛するということなんですよね。

しつこいようですが、聖書の中心も「愛する」ということ。しかも、ただの愛ではないんですよね。

13:7 (愛は、)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

ああ、私たちも、そこまでには、まだまだ程遠いような気がしますよね。
だから、道なんですよ。

それが、イエス・キリストの歩まれた道であり、私たちが歩くべき道なんですよね。
そこに、キリストの体なる教会の成長もあるのではないでしょうか。

互いに労わり合い、助け合いながら、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛を目指して、歩んでいきましょう。

 12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


posted by holyhope at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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