2007年12月09日

嵐の中のインマヌエル マタイによる福音書14:22〜33

07年12月9日 聖望キリスト教会

イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ…!! マタイ14:32,33

おはようございます。
12月となり、アドベントも第二週、いよいよクリスマスが近づいてきました。
皆さんは、今年のクリスマスを、どんな心持でお迎えになられることでしょうか。
クリスチャンにしてみれば、1年の終わりに、一大イベントを迎えることになるわけですけれども、その年、その年で、毎年違うクリスマスの味わいがあるものです。

今年1年を振り返った時に、仕事から、家族のことから、今年は、本当にいろんなことがありまして、1つの問題を解決したかと思えば、また次の問題が起きてくる、その連続だったんですね。
まあ、それは人生の先輩方の方が、百戦錬磨で、私なんかは、まだまだ、これからといったところかもしれませんが、クリスチャンになったからといって、人生ばら色、100%うまく行くわけではありませんよね。クリスチャンであっても、山あり谷あり、いろいろな出来事が起きてくる、それが現実ではないかと思うのです。
ですが、その中で、本当に思わされたのが、「インマヌエル」すなわち「神われらと共にあり」ということでした。

今日のこの箇所も、そんなこの世の人生を象徴しているような出来事かもしれません。

さて、今日のこの箇所、
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
「それからすぐ」とありますけれども、この直前では、5つのパンと2匹の魚が<男だけで5千人ですからね、もう1万以上の人たちに、分け与えられる、有名な奇跡の話が出ている箇所です。
それはそれは、すんばらしい、神様の栄光、神様の力が現された、輝かしい場面です。

一方で、今日お読みした箇所は、向かい風で、波の激しい、暗くて寂しい夜のガリラヤ湖。

弟子たちの中でも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなんていうのは、元々ガリラヤ湖で漁師をしていたわけですから、船の操作も、湖のことも知り尽くしているわけですよね。その4人がいて、なお苦戦していたわけですから、相当の向かい風、波もかなり荒れていたはずです。
こんな日に、船なんか出したくない。
弟子たちにしてみれば、大勢の群衆に囲まれ、パンと魚の奇跡で拍手喝さい、そんな輝かしい神の栄光の中に浸っていたい、せめて1泊、ここに泊まって、明日行けばいいじゃないか…そんな気分だったかもしれません。

でも、イエス様は、それからすぐ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませたんですね。

それで渋々、弟子たちは荒れたガリラヤの湖を渡ることになるわけです。
こんな日に他に船なんていない、あたりは真っ暗、ただ荒れ狂った風と波の音だけ。
そんな暗く寂しいガリラヤ湖に、12人が乗った弟子たちの乗った船だけが、荒波に揺られて、もまれている…。
そこへ遠くの方から、ぼんやりと何かか影が近づいてきました…。

俺たちの他にも船出してる奴いるんかな?
いや、なんか違うぞ。
あれは、なんだ…。人じゃないのか????
幽霊だー!!!
弟子たちはと叫ぶわけですけれども、そりゃあ驚くというか、怖いでしょう。ある意味、当然なんですよね。イエス様だろうが、普通、人は湖の上なんか歩かないんだから。

同じ奇跡でも、直前の奇跡とくらべると、ずいぶん違いますよね。まったく対象的な場所へと、強いて、弟子たちは押し出されたわけです。

これはいったい、何を意味をしているんでしょう。

私たちは、ある面、神様の奇跡を願う、神様の栄光を願う、神様の力が現されることを願うんだと思うんでよね。
それはそれで、もちろん、いいことなんですけれども、でも反面、心のどこかでは、何事も順風満帆、自分の思い通りに物事うまく行ってほしい、逆風、困難、苦労になんかあいたくない、そんな気持ちの裏返しもあるように思います。

でも、実際の現実はどうか。
思わぬところで、逆風が吹いてくる、波が押し寄せてくる、嵐が巻き起こってくる…
それが、この世の現実、リアリティだと思うんです。

うっかりするとですね、「信仰」の名のもとに、この現実を否定してしまうことがあるように思う。逆に言えば、信仰が現実からかけ離れてしまう、リアリティを失ってしまうことがあるようにも思います。

でも、私たちが、本当に何かを願い、何かを始めようとするならば、向かい風にもむかっていかなくてはならない、大きな波を乗り越えていかなくてはならない…、それが、現実なんですよね。その現実の中に、私たちは生きているわけです。
そこで、私たちは、悩んだり、恐れたり、苦しんだりもするんですが、でも、イエス様もまた、いや、イエス様こそ、その波風嵐のある現実の世界に立たれたお方なんです。

神のひとり子が、天の栄光を捨て人となる、それは、悲しみ、苦しみ、悩みがある、この世にこそ、神の救いを必要としている人たちがいるからなんですよね。そんなこの世こそ、まさに救い主として生きる現場だったからですよね。

実に、この時、イエス様もまた、悲しみの現実のただ中にあったんです。
14章の初めを見たときに、バプテスマのヨハネが処刑されたことが知らされています。
イエス様にとって、バプテスマのヨハネといえば、先駆者であり、同労者でもあり、また親族でもあるわけです。そのヨハネの死。もしかしたら、このあと自らも背負うことになる十字架のこも連想させたかもしれません。イエス様も、そんな深い悲しみの嵐の中にいたんです。そこで、イエス様は、ひとり身を置いて祈りたかったのですが、それでも人々をあわれみを求めてきた時、救いの手を差し伸べ、食べ物を与えていたわけです。

パンと魚の奇跡、それはそれで、すばらしいことなんです。
さらに、ヨハネの福音書では、このパンと魚の奇跡のあと、イエスを王にしようとした人達がいたことが書かれています。もしイエス様が王となって、この世を治めてくれれば、もっと素晴らしいかのように思えますよね。
そしたら、もう弟子たちは、側近中の側近ですよ。いいじゃないですか。
でも、現実はそうではない。これだけの力を持ち、5千人以上の男達、見方を変えれば5千の軍勢がすでに集まっているわけです。時の権力者たちは、そのイエスと群衆による反乱を恐れたわけです。この栄光の裏側に、実に、十字架の現実も待ち構えているわけです。

そのイエスに従う弟子たち。彼らは、そんなイエスの悲しみも十字架も露知らず、その場にいたわけですけども、彼らもまた、これから輝かしい神の栄光につつまれて、輝かしい未来をスキップしながら生きていけるわけではないんですよね。彼らはまさにこれから、波風嵐のあるこの世で生きていく人たちだったわけです。
人々は神の救い、助け、ある意味、神の栄光を求めて集まってくるかもしれない。でも、彼らは、それらを必要としている救いの現場、まさに波風嵐の中へと出て行く人たちだったわけです。

でも、その波風嵐に、自分が怖がっていては、自分が恐れをなしていては、誰も助けることは出来ないんですよね。平常心を失い、自分自身が溺れてしまうことにもなるわけです。
向かい風を受けても、波が高くても、そこに立ち向かう勇気と力が必要なんですよ。

さて、そんな中、ペテロが立ち上がるわけです。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
ある意味、お調子者のペテロだから行けたのかもしれませんが、水の上を歩きだします。でも、そのペテロも風を見て、やっぱり怖くなってしまった。ある意味、失敗しちゃうわけですよね。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか…」

この言葉、皆さんは、どう聞こえますか…?
あー、もう、お前は信仰の薄いやっちゃな。何で疑うんだ?はあ、もう、わしゃ知らん。
そんなイエス様の嘆きのように聞こえるか
それとも、そんな信仰じゃ、弟子とはいえん。そんなじゃ、ダメだ!
というような、責めの言葉に聞こえるか。
どうでしょう????

いや、実際、ペテロはすごいですよね。船から出て、少なからず、水の上を歩いたわけですから。すごいんですよ。他の弟子たちは、どうかというと、ずっと船の中にいたままなんですから。
でも、そのペテロなんですけれども、目の前にイエス様がいるにも関わらず、実際、少なからず水の上を歩けたにもかかわらず、やっぱり怖くなる、そこにペテロの弱さがあったわけです。それが、ペテロの現実だったと思います。

でも、そのペテロや弟子たちを、イエス様が否定しているのか…というと、決してそうではないんです。「お前、漁師なんだから、泳げるだろ。ちょっとは反省しろ!」って、放っておいたわけではないんですね。ペテロが、助けを求めた時、イエス様は、まずすぐに、ペテロの腕をしっかりと掴んでいるんです。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか…。ここに、わたしがいるじゃないか。」
その時、ペテロは、自分の弱さと同時に、その自分を守ってくれている、力強い神の右手の感触、神が共にいる…インマヌエルを体感していたはずです。

私にとって、今年、大きな一つの波だったのが、父親の病気のことでした。
父親に対しては、かつては対立というのか、反発した時期もあったんですけどね。でも、その分、大きな存在でもあったわけです。

その父親が、家で、だんだん動けなくなってきた知らせがありまして、足腰が弱くなっているんかな…と思って帰ってみたらですね、箸が思うように使えない。右側に軽い麻痺を起していたんです。結果としては、2年前に患った大腸がんが、脳に転移したんですよね。
そんな医師からの説明を、冷静に受け止めようとする自分がいる一方で、やっぱり、動揺している自分もいるんですよね。
正直言えば、最初はどう祈っていいのかも、わからなかったですよ。
もちろん癒されてほしい、奇跡が起きてほしい、そう願いながらも、誰であれ、いつかはこの世の終わりの時は必ず迎えるわけです。それが現実ですよね。そしたら残されている時間、何かをしたいと思うじゃないですか。

とりあえず、入院を1日待ってもらって、家で、風呂に入る時に、背中を流してやったりとかしたわけですが、親父のピンチの時に、こんなことしか出来ないのかよ…って、そんな自分がふがいないというか、どうにもできない自分がいるわけですよ。

そんな時に、導かれたのが、「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…」という言葉でした。

これで、信じて、癒されたとなったら、話はすごいんですが、残念ながら、そういうわけではないんです。
あ、でも、そういうこともあるんですよ。父の兄なんかは、やはり癌で、手術はしたものの手遅れで全身に転移していたんですね。
余命3か月ということで、じゃあ自宅で最期を…ということで、退院することになりました。
でも、この時、治療の影響で耳も聞こえなくなってしまっていて、本人にはそんな医師の説明聞こえなかったんですね。でも、退院できたものだから、本人は神様が治してくれたと信じきっちゃったんですわ。
そしたらね、本当に癌がなくなっちゃったんですよ。
うーん、なんだか、それでいいのかという気もしますが、そういうこともあるんです。

父の場合は、そういうわけではないんですけれども、でも、病気が治る、治らないというところを超えて、「すべてが神の御手にある」という平安を見せてもらっています。
医学的に、CTでスキャンすれば悪いところはあるし、右手に麻痺も残っているんですけれども、それが父の場合には、「それがどうした」ぐらいの勢いでして、ただ一つの現象でしかないんですわ。

でも、そんな親父もね、ただ信仰が強いばっかりではないんですよ。実際、医師から告知を受ける瞬間は、緊張した面持ちで、やっぱり動揺した表情を見せたんです。でも、次の瞬間から、その不安をかき消すかのように、すべては神様の御手にあることだから…と切り替えていくんです。
親父もこれまでの人生の中で、不安や、恐れ、失敗もあったと思います。いろんな荒波の中で、やっぱり、イエス様が腕を掴んできてくれた、その経験、体験をしてきたからだと思うんですね。

で、本当に、今、のんきに生活していますよ。もともと前向きな性格なんですが、さらに物忘れも手伝いまして、病気のことすら忘れてる時もありますからね。そうすると、物忘れも恵みです。

「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…」
父のことは、すでにイエス様がしっかりと握っていてくれてたんですよね。
動揺していたのは、誰かというと自分自身でしかないことに、気づかされたわけです。そこで平常心に戻れたわけですが、私は私で、父のためにしたいこと、自分にできることを、していけばいいんですよね。

私たちが、この世の人生の中で、生きていく間では、思わぬ波風嵐に合う事があります。

その時に、私たちは、時にペテロや弟子たちのように、悩んだり、怖くなったり、時には、人や周りのせいにして怒りとなったり、すなわち「平常心」というものを失ってしまうんですよね。
ペテロも、風を見て怖くなったと書いてあるんですが、不思議なことに波じゃないんです。風って、怖いですか?でも、目の前の現実以上に、心の中が嵐になってしまうんですよね。それゆえに平常心を失って、失敗もすれば、判断を過ってしまうこともあるかもしれません。それらはすべて、「恐れ」から来るんでしょう。
でも、その波風嵐の中にあっても、それに立ち向かう勇気や、力、「平常心」を与えてくれるのが、インマヌエルなる神、イエス・キリストです。

それも信仰が強くなってからじゃない、何か立派になってからじゃない、信仰の薄い私たち、恐れてしまう、それが現実の弱い私たちの腕を、しっかりと掴んでいてくれるのが、イエス・キリストです。

今、イエス様は、目には見えません。手で触れるわけではありません。でも、今も生きていて、私たちの腕をしっかりと握っていてくれています。今、私たちは、そのイエス様の右の手の感触を、どれだけ感じているでしょうか。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…。ここにわたしがいるじゃないか。」

ペテロも、いきなり強くなったわけではない。聖書の中でも、繰り返し、繰り返し、時には逃げ、イエス様を知らないといい、弱さをさらけ出しているわけですけれども、それでもイエス様が掴んでいてくれているんですよね。

私なんかもね、弱い人間ですから、すぐにへこたれるし、些細なことでも落ち込むんですよ。でも、振り返って見ると、なんだかんだと言いながら、イエス様に腕を掴まれて、助けられてきたんだな…とおもうわけですよ。イエス様いなかったら、とうに溺れて、とうに沈んでいるかもしれないです。

インマヌエル、神われらと共にあり。

そんな救い主と出会う時、その日その時が、まさに「クリスマス」となるのです。

イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。


posted by holyhope at 10:00| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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