2008年01月15日

恵みによって強くなる 第2テモテ2:1〜13

◎2008/1/13 田園グレースチャペル

そこで、わが子よ…。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
第2テモテ2:1

みなさん、おはようございます。
今年は、初めてですよね。本年もよろしくお願いします。
お祈りいただいている静岡の父親ですが、クリスマスの時に入院したんで帰ったんですけれども、十何年ぶりに親子でのクリスマスとなりました。この親不孝者は、こういうことでもない限り、クリスマスに帰らないだろうと思うと、これもまた恵みなのかなと思います。

さて、今年から、あざみ野にある教会でも、奉仕させていただくことになったんですが、毎度のこと、新しい奉仕を引き受ける時なんかには、自分自身を見て、牧師とか、伝道師とか、そういった働きをする器なのかな…って思うんですよね。いや、一人の人間として、まだまだ青いな…と思うわけですよ。
そうするとですね、本当に自分はどうすべきなのかな…、俺なんかでいいんかな…、神様は俺に一体なにせいっていうんだろう…って、考えちゃったりすることも多いわけです。そのために、どこかで萎縮してしまったり、消極的になってしまうときもあるような気がします。

この第二テモテは、牢獄の中から、次世代の伝道者テモテへと書き送った、パウロ最後の手紙です。1章をみて見ると、どうもパウロが投獄されたことで、テモテはやや臆病風に吹かれていたようです。そんなテモテに、パウロは、呼びかけていきます。

2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

普通、人間的に強くなる、鍛えるというと、教育だとか、訓練だとか、鍛錬によって強くすると思います。それはそれで目的に応じて必要ではあるんですが、でも、それだけだと時として、弱さに対する配慮を失ってしまう時もあるんですね。それで、もし、脱落してしまったらドロップアウト、落ちこぼれになっていってしまうんです。
しかし、パウロはここで「恵みによって」と言っているんです。恵みとは、無代価・無条件に神から与えられる、よいもののことをいいます。

しかも、ここの「強くなりなさい」は、原文では受身です。
キリスト・イエスにある恵みによって「強くされなさい」「強くしていただきなさい」
もっと積極的に言えば、「キリスト・イエスにある恵みが、あなたを強くする」ということになります。それは、一体、どういうことなんでしょう。

この時、誰が弱さを感じていたかといえば、まずパウロ自身だったように思います。1章をみてみると、1:8パウロが「牢獄いることを恥じてはいけない」、1:12「私はそれを恥とは思っていません。」1:16「私が鎖につながれていることを恥とも思わず」、恥るという言葉が繰り返されています。

神や救いを説いていながら、牢にいれられ、その神は本当に実在するのか…、宗教家としては情けない、「恥ずかしい」そんな視線や評価が周囲にはあっただろうし、パウロ自身が感じていたはずなんですよね。逆説的ですが、だから「恥」という言葉が繰り返されているんです。

でも、そんなパウロを支えたものはなんだったのだろうか。。。。
それは、パウロの精神力でも、忍耐力でもないんです。
パウロを支えてきたもの、それが、まさに、キリスト・イエスにある恵みだったのです。

私たちから見ると、パウロというのは、スーパー伝道者、ザ・クリスチャンのように見えるじゃないですか。でも、案外、劣等感のかたまりでもあったようです。

そもそも、パウロという人は、バリバリの律法主義者、破壊的な教会の迫害者であって、そのことに負い目も感じていたようです。

その当時の自分を振り返って、ピリピ人への手紙あたりでは、
「律法による義についてならば非難されるところのない者」とまで言ってるんですが、そのくらいパウロ自身は非常に熱心に、律法、神の言葉に従っていたと言えるでしょう。

でも、それは、恵みの世界とは全くの正反対、出来ない人間はダメ、律法を守らない人間はダメ、それでは神に喜ばれない、マイナス、マイナス、マイナス…そういう価値観、評価の中で、パウロは生きてきたわけです。
その中で、打ち勝っていくためには、とにかく徹底して律法を厳守していくしかないんですよね。そういった律法を守る事が、自分の評価にもなり、優越感、裏を返せば、自分が抱えている劣等感を覆い隠すこともできたわけです。

ところが、そこへ持ってきて、新しくできたキリスト教会という奴は、愛だの赦しだのを説いて、もう赦せなかったんですよね。多くの教会を迫害していたわけです。

そんなパウロ、当時は、サウロと言ったわけですが、そのサウロに一大転機となる事件が起きるわけです。それが、ダマスコ途上の出来事です。
ダマスコにある教会を迫害しにいく途中の出来事、そこでパウロは突然、目がくらむような光に包まれ、声を聞くわけですね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害するイエスである。」

サウロこと、パウロにとっては、衝撃的な出来事だったわけです。

イエスは、死んだのではなかったのか…
イエスは、よみがえったのか…
イエスは、神なのか…

だとすれば、私は神を迫害していたことになる
ならば、なぜ、神は、私を裁かないのか…、滅ぼしてしまわないのか…

律法主義というのは、そういう世界、神観念だったわけです。

ですが、
神に従っていると思っていながら、実は、神を迫害していた自分…
自分は正しいと信じていながら、実は、とんでもない罪人だった自分…
その本当の自分の姿がさらけ出されても、なお、その私を、赦し、愛し、受けいれてくれているキリスト・イエスの存在、また「恵み」ということを、そこではじめて理解した得たわけです。

教会の迫害者から、キリストの愛に生きる使徒パウロへ。

それから、パウロは目が悪くなります。
これもまた、当時の感覚からいえば、神の祝福を失った証拠、神から裁きを受けた証拠、やっぱりマイナスの評価でしかなかったわけですよね。
パウロにとって、肉体のトゲ、心のトゲとなり、非常に苦しんだようです。
でも、そこに与えられたキリストの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。なぜなら、わたしの力は、弱さの中にこそ働くからである」
自分の弱さを知ればこそ、理解できる人の弱さがあり、自分が弱さを負ったからこそ、受け取れることのできたキリスト・イエスにある恵みが、確かにあったわけです。
それから、パウロは、自分の弱さをも誇れるようにさえなったのです。

でも、そんなパウロのことを決して認めることの出来ない人たちもいたわけですね。
まずは、かつてのパウロがそうだったように、バリバリの律法主義者だったユダヤ人たち。
その次は、自分自身を崇拝させようとするローマの皇帝です。
パウロは、彼らによって投獄されるわけですが、でも、それでも、パウロはこの自分を変えてくださったキリスト・イエスを否定することなどできなかったわけです。

2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

パウロの語る福音を受け取らない人たちもいましたが、そればかりではなく、本来ある福音を曲げて、違った教えを伝えてしまう人も多く現れていました。

そこで、「他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
「委ねる」ということが出てきています。
投獄され、死をも予期していただろうパウロにとって、テモテにまず、委ねたかったのかもしれません。キリスト・イエスにある恵みの福音は、ただスピーカーのように伝えられるものではなくて、人から人へと、恵みから恵みを、バトンタッチのように渡されていくものなのかもしれないですね。

2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

…と書かれていますが、パウロは、苦しみではなく、その恵みのバトンをテモテに託したかったんだと思います。
それにしても、苦しみというと、なんか嫌じゃないですか。
パウロは、もともと優秀でもあっただろうし、情熱や忍耐強さもあったかもしれない。
ですが、パウロは、ここで三つのたとえを持ち出して語っていますけれども、この苦しみというのは、一言でいうと「愛する」ということになるかと思います。

1番目に 2:4徴募した者を喜ばせるため。

教会の迫害者、いや神の迫害者である自分を、招き、そればかりではなく、使徒として、異邦人宣教という使命まで与えてくれた。それは、もうパウロにとって、天と地とがひっくり返るような出来事だったわけですよ。
それは、まさにキリスト・イエスにある恵みによるものだったのです。

そんな本当に取るに足りない自分を徴募してくれた者…、イエス・キリストを喜ばすため。
その与えられた使命を、とにかくまっとうしたかったんですよね。
これは、神様への愛だと思います。

二番目には
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

競技だけではなく、仕事でも勉強でも、何かを成し遂げようとする時には、必ず通らなくてはならないプロセスってありますよね。
でも、なぜ、わざわざ苦労するのか。それは、その苦労の先に、希望があるからですよね。

伝道者パウロにとっての栄冠って何だったのかな…と考える時に、自分自身が受けたキリスト・イエスにある恵み、その喜びを手にしてもらうことだったように思います。
2:10 ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

このことが、まさにパウロ自身にとっての希望、喜びにもなっていたんです。
これは自分自身への愛でしょう。

3番目に 2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。

農夫というのは、まず土地を耕し、種を撒き、水をやり、雑草を抜き…、とにかく与えて、与えて、与えて…、農作物を育てていくじゃないですか。それは愛だと思います。

伝道も同じ。福音を話すだけで、一発で、信じてもらえるんだったら、どんなに楽か。
でも、そうじゃないんですよね。土地を耕し、種を撒き、水を撒き…、いろんなことを通して、実を結んでいくんですよね。これは、隣人を愛する愛だと思います。

神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…、この3つの愛。
でも、それで愛せるか…。なかなかどうして、愛せなかったりもするじゃないですか。
その愛はどこから来るのか…、その一番の本家本元、根源は、パウロ自身、自分自身にあるのではなく、やっぱりイエス・キリストという存在にあるんです。

2:8 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

まず、イエス・キリストの生き様こそが、まさにそういう生き方だったでしょう。

人々から嫌われていた病人や、取税人や遊女、罪人と呼ばれる人たち、当時の社会では存在価値すら認められない人たちを、赦し、受け入れ、愛したわけですよね…。
そのために多くの非難を浴びるわけですよ。その行き着く先が十字架であったわけです。
でも、その十字架まで背負ってもなお、愛を貫き、愛に生きた、これがイエスの生き様です。
でも、決して、死んで終わったわけではない。
「死者の中からよみがえったイエス・キリスト」
その神の愛は、2000年を超えた今でも語り継がれ、イエス様ご自身、今もなお生きているわけです。

その神の愛が、パウロしかり、私たちの心の中に注がれていく時、この私たちの人生にも、何らかの影響、様々な変革をもたらしているはずなのです。

口語訳ではこんな風に訳されているんですね。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。
これがわたしの福音である。

これこそが私の伝えた福音。他ではない。私でもない。
すべてがイエス・キリストご自身にある。これが、私の伝える福音です。

2:9 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

かつてはユダヤ教の世界では、エリート中のエリート。
しかし、福音を伝えたがために、そのように鎖で繋がれてしまった。身動きが取れない。
伝道者としては、決定的な出来事。見方を変えれば、人生の落伍者ですよ。
ローマに行くと、パウロが投獄されていた牢屋だといわれている牢獄跡があるんですね。
暗い冷たい地下室の天井に、パンを落とす穴があけられているだけ…。

でも、その牢獄の中にあって、パウロは断言するんです。
しかし、神のことばは繋がれてはいない…!!
パウロには、牢獄の苦しみの中にあっても、主イエスの存在がはっきりと見えていたんでしょうね。
そして、この手紙は、新約聖書として編集され、まさに神のことばとして世界に広められている。でも、この時、パウロは、まさか、そうなろうとは、思っても見なかったでしょう。

私たちはどうか。
私たちもまた、目には見えない、いろんな鎖に繋がれていますよね。
テモテは臆病という鎖であったのかもしれません。
自分の弱さや、問題、それは罪と呼ばれるものかもしれません。
または、社会的なしがらみ、世間体、いろんな人の評価、人間関係
あるいは過去に受けた傷、劣等感、挫折感…

人それぞれ、違いはあっても、私たちは、結構、いろんな鎖に繋がれていますよね。
私も、いろんなものに縛られていますわ。でも、だから駄目ではないんです。神のことば、キリスト・イエスご自身は繋がれてはいないんですよ。

2:11 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

毎年、年末に、その年を現す一字の漢字が選ばれるらしいんですが、去年2007年の漢字は、「偽」だったらしいです。
本当にいろんな偽装事件やら、偽りの証言、嘘が多かったですよね。
いや、実は、別に突然偽りが増えたわけではなくて、あれも嘘だ、これも嘘だ、嘘を暴いて、非難することが流行した年だったのかもしれないです。

比内地鶏でしたっけ。あの社長なんか、なんだか本当に東北の田舎の親父さんじゃないですか。ただ、なんだか普通の鶏だったんだけど、「比内地鶏」とつけると、よく売れるもんだから、売っちゃってたみたいな。
でもね、考えて見てくださいね。たとえ本当に比内地鶏であったとしてもね、化学調味料でしっかり味付けされて、保存料も入れられて、真空パックにされた比内地鶏って、おいしいと思います?いや、普通の鶏でも変わらないと思いません?
本物の比内地鶏の美味しさって、その土地に言って、ちゃんと調理した比内地鶏を食べないとわからないと思うんですよ。

新幹線の中で「静岡名物安倍川もちはいかがですか〜」って売られている安倍川もちも、本当のお餅は使っていないんですけどね。日持ちしないから。あれは、偽装にはならないんですかね…。って、別に偽装しているわけじゃないんですよ。でも名前は安倍川「もち」ってついているけど、本当のお餅じゃないわけですよ。
ちなみに、本当の安倍川餅は、安倍川にかかっている安倍川橋のふもとで売られていまして、本当のお餅が使われています。

嘘だ、嘘だと、非難ばかりが多くて、じゃあ本物って何?という時に、あまり語られていなかったり、実は、知らなかったりもするわけですよね。
もちろん騙すのはよくないんですけれども、私たちにも本物を見る目、表のラベルだけではなく中身、真実を見る目も必要な気がしますよね。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

私たちの真実って、何でしょう。
それは私たちの肩書きや、ラベル、あるいは建前、恥ずかしさ…そういったものを取り外した時に、内側にある真実の私の姿って、どうなんでしょう。
弱さがあり、罪があり、悩みや問題を抱え、時に虚栄を張り、劣等感や傷を背負っている
それは、自分でも嫌な、恥ずかしい自分、醜い自分の姿かもしれないですよ。
かつて、パウロは律法を守ることによって、正しい自分という仮面を被ってきたわけです。
私たちも、クリスチャンみたいな仮面を被って、誤魔化しているような時もあるのかもしれないですよね。

でも、一度、その仮面を取り外して、その真実の私、その真実の自分に対して、イエス・キリストは何て語りかけてくれるんでしょう。
わたしは、お前を愛してるよ…
たとえそのために十字架を背負ったとしても、その愛を絶対に曲げない、それがイエス・キリストの真実です。

この第二テモテでは、テモテも伝道者ですから、伝道という視点で描かれていますが、みなが、みな伝道者であるわけではありませんし、伝道がすべてではありません。
みなさん、それぞれに、会社であったり、家庭であったり、いろんな役割や使命が与えられていると思うんですよね。

その中で、本当に、欠点があり、罪があり、いろんな失敗もある。決して、完璧じゃない。
それが真実の私たち。
わたしなんて、本当、もう、ボロボロですよ。
でも、この小さな者をも、キリストが愛してくれているというので、
自分なりに、自分らしく、自分ができることをもって、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛に生きる
ここにクリスチャンとしての真実があるのではないでしょうか。

それは、一歩一歩、本当に小さいことの積み重ねかもしれないです。
でも、たとえどんなに小さくても、その真実の愛を1つ1つ積み重ねていきたいものですよね。
恵みで始まった信仰は、最後まで恵みなんです。

恵みとは、受けるにふさわしくない者が、無代価・無条件に与えられるもののことをいいます。
その恵みを受けるに値しないにも関わらず、無代価・無条件に受け取る時に、はじめて「恵まれた」となります。

そこで、わが子よ…。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。


posted by holyhope at 01:40| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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