2008年02月10日

系図に始まる福音書 マタイ1:1〜17

2008年2月10日 聖望キリスト教会

みなさん、おはようございます。
今日は、マタイの福音書のはじめ、イエス・キリストの系図そのものを取り上げてみたのですが、実際に、読んでみていかがでしたでしょうか。
正直、つまらない。それが一番の印象ではないかと思います。
初めて、新約聖書を開く人が、初めに目に付くのが、このマタイの福音書の系図だったりするわけですよね。なんじゃこりゃ。
なぜ、マタイは、この系図から始めたんでしょうね…。

こうして、メッセージのご奉仕をさせていただいていると、今年は、何をテーマにメッセージをしていこうかとか、皆さんに何をどう伝えようかとか、いろいろ考えるわけですよね。その時に、なぜか気になりだしたのが、この系図の存在なんですね。
もう少し、興味を引くような出だしはなかったものでしょうか。

注解書を見れば、一応の答えはすぐに出てきます。
1番目に、まず、このマタイの福音書は、まずユダヤ人に向けて書かれた福音書であることが挙げられています。
私たちにしてみれば、あまり関心のない系図なんですけれども、ユダヤ人にとっては、非常に関心のある事柄であったわけです。

なるほど。。。という気がしますよね。

でも、マタイが、素直に、系図を取り上げているのかというと、決してそうではないんですよね。普通、こういったユダヤの系図には女性の名前は出てこないんですか、マタイは、マリヤを除いて4人の女性を挙げています。それは、いわば曰く付きの女性たちばかりです。
タマルは、ユダの息子の嫁、舅と嫁の関係です。
ラハブは、遊女。
ルツも、モアブの異邦人。
そして、ウリヤの妻、バテシェバですが、ようするに不倫の関係です。

それにも一応、答えがあって、注解書では、イエス・キリストが罪人の家系に生まれた、まさに罪人の中に来られたということを、マタイは伝えたかったと解釈されています。

なるほど。。。確かに、そうかもしれない、そうなんでしょう。
しかし、1番目と2番目の理由は、どこか矛盾しているような気がします。
マタイは、ユダヤ人の誇りである系図を尊重しているのか、それとも否定的なんでしょうか…。なんか、腑に落ちないんですよね。

もし、マタイが、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人の関心のある系図を書いたとすれば、福音書の冒頭で、いきなりユダヤ人の誇りに挑戦するような、しかもイスラエルの英雄・ダビデの系図ですよね、そこに、わざわざ、この4人の女性たちを取り上げるでしょうか。

しかも、マタイの頭の中には、少なからず、この福音書の最後、世界宣教命令があったはずです。そこに、ユダヤ人にしか興味のない系図を、冒頭でぶつけてくるだろうか。

マタイは、この28章に渡るマタイの福音書、イエス・キリストという一大テーマを書くにあたって、なぜ、アブラハムの系図から始めたんでしょう…。

そこには、もっと何かマタイなりの訳、マタイ自身にとっての系図の持つ意味があったんではないだろうか…。なんてことを、考えちゃったりしてたわけですね。

そんな時も時、ちょうど、この前、堅固さんが取り上げてくれたアブラハムに与えられた神の約束に触れた時に、マタイのこだわりも、ここにあるんじゃないかと思うのです。

創世記
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

このアブラハムに与えられた祝福の約束。
「あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」…という、アブラハムの祝福の約束とですね。
マタイ 28:19「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」…という世界宣教命令。

この二つ、すごく似ていると思いませんか。

マタイは、アブラハムに与えられた祝福の約束の実現を、このイエス様によってもたらされた世界宣教命令に見ているんではないだろうか。

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

この系図というのは単に、単にユダヤ人としての血統、血筋、家系を現しているのではなく、そのアブラハムと、その子孫とに与えられた、神様の祝福の約束の継承、その系図、歴史を表しているといえるのではないでしょうか。
そこにこそ、本質的なユダヤ人として系図のあるべき意味もあるはずです。

今日は、そういった視点で、この系図を辿ってみようと思うわけですが、アブラハムから、実に、イエス様の誕生まで2000年ですよ。あー、長いですね。ガンバって、その2000年を見てみたいと思います。

まず、アブラハムに与えられた祝福の約束ですが、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ…、子、またその子へと、受け継がれていくわけですね。
でも、その過程の中には、あるまじき行為や、ユダヤ人たちが嫌っていた異邦人の血も含まれていたわけです。

3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、
タマルは、舅と嫁の関係です。まさか…のような関係でしょ。
 それでも、その本来あってはならない関係の中で、生まれた子に祝福の約束は継承されていくわけです。

5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、

ラハブは、エリコを攻める時にイスラエルに協力した女性ですけれども、元々エリコの街に住んでいた遊女であり、ユダヤ人でもないでしょう。

ルツもまた、モアブの異邦人です。
律法では、特に、このモアブ人との結婚は硬く禁じられていました。それは、異国の宗教、偶像礼拝が持ち込まれてしまうからですが、でも、ルツはモアブ人ながら、ユダヤ人にとっても1つの模範として存在してもいるんですよね。
実は、血統、血筋が問題ではなく、信仰こそが大切ではなかったのか…そんな問いかけも含まれているのかもしれませんね。アブラハムの祝福の約束は、しっかりと、その子どもたちへと受け継がれていったわけです。
ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
そして、エッサイによって、かのダビデ王が登場するわけですが、ダビデもまた罪を犯してしまいます。ウリヤの妻、バテシェバとの不倫です。

悲しいかな、これが罪人としての人間の本質ですよ。
しかし、ここで注目したいのは、でも、その決して、あってはならないような関係、罪がある関係、その間で生まれた子供にも、祝福の約束は継承されていったという点です。

こういった関係を、神が認めているのかというと、決して、そういうことではありませんよ。しかし、もしここで、神様がダビデを切ったら、この系図も、ここでおしまいなんですよね。
バテシェバとの最初の子供は、命を落としてしまうんですが、しかし、ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、祝福の約束は、その子へと継承されていったんです。なぜでしょう。

子供には、罪がなかったかというと決して、そんなことはありません。子供には、子供で、自分自身の罪があるんですね。

ソロモンの時代に、イスラエルは栄華を極めるわけですが、ソロモンには、700人の妻と300人の側室がいたと記録されています。それも、外国の女性たちが多かったようです。次に出てくるレハベアム(旧約聖書では、レハブアム)は、アモン人の女性との間に生まれた子です。

それにしても、この700人の妻と300人の側室…、数が異常だと思いませんか?
ソロモンは、実は、家族の愛に、非常に枯渇していたのではないかと思うのです。
罪を犯したのは、あくまで親であるダビデとバテシェバです。
しかし、小さい時から、そのソロモンに向けられていた目というのは、どんな目だったでしょうか。まして、その子が王位を継承していくのです。その裏では、ねたみや、嫉妬、言葉ではいわれなくても、「ソロモンは不倫の子」、そんな視線が、実は、あったんではないでしょうか。それが及ぼす人格への影響って、必ず、あるはずですよね。
私たちも、ここは注意したいところです。罪に対して責めるばかりで、そこにある神の赦し、神の恵みを見逃してしまうことがあるように思う。
主はソロモンを愛したと、聖書にはあります。そして、そのソロモンに、アブラハムの約束は受け継がれたわけですね。それは、まさに、神様の恵みでしょう。

しかし、そうはいっても、あまりに奥さんが多かったものだから、国家の財政は破綻していきます。しかも、ソロモンは、彼女たちの持ち込む異国の宗教まで取り入れてしまうわけですね。それが、後々、混乱の元にもなります。
その息子レハブアムの時、イスラエルは南北に分裂し、国は徐々に衰退していきます。系図上では3代ほどカットされていますが、やがて滅ぼされ、バビロニアへの強制連行・バビロン捕囚を迎えるわけです。

そして、この捕囚以後になると、これらの人物というのは、聖書に、他の記録はありません。かつては栄華を極めたダビデ・ソロモンの王家も、歴史から名前を消していくことになったわけなんです。でも、その間も、人知れず、アブラハムへの約束は継承されていたんです。

そして、16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

あまり、ヨセフについての記事も多くはないし、語られることは少ないんですが、このヨセフ、すごいと思いませんか。
結婚前に、婚約者が、自分に身に覚えのない子供を宿したっていうんですよ。実に、ヨセフとイエス様は繋がっていないんですよね。
いくら聖霊によって、身ごもったと言われても、誰が、信じられるか!という話じゃないですか。ヨセフも、ひそかに離別しようとしていたことが、このあとに書かれています。

しかし、ヨセフは、結果として、イエスを宿したマリヤを迎えいれるんです。マリヤの嘘かもしれないし、天使が現れたといっても、ただの夢かもしれないじゃないですか。しかし、このヨセフは、それを信じるんですよね。マリヤの夫ととして、またイエスの父として家族を守る、その大きな役割を担うわけですよ。こうして、救い主の誕生の用意が整うわけです。

こうして、見ていったときに、アブラハムに始まったこの系図に描かれているものは、本来、あるべきではない関係、時に罪の関係にあってさえも、その間に生まれた子、また子へと、神の祝福の約束が受け継がれていき、マリアの夫ヨセフという存在を生み出しているわけですね。もし、これが、途中で否定、断絶されてしまえば、この「ヨセフ」という存在もありえないんです。

そして、イエス・キリストにあって、世界へ。

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

私たちは世界宣教命令というと、普通、「宣教」に重きを感じてしまうのですが、ここでは、もっと「世界」が強調されるべきなのような気がします。

イエス様のこの時代、ユダヤ人たちは、まさに家系、血統、系図そのものに縛られていました。2000年という歴史の間に生まれた誇り、自負のようなものもあったんでしょう。
ユダヤ人こそ、神に選ばれた民である。ユダヤ選民思想。神を知らない異邦人が、神に愛され、神に祝福されることなどありえない…そういう感覚です。系図によって壁を作ってしまったんですよね。そのために、逆に、異邦人を排除するようにもなり、なんとイエス様まで拒んでしまったんですね。
しかし、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
アブラハムにはじまり、約2000年の時を超えてユダヤ人に受け継がれきた、神の祝福の約束は、あらゆる国の人々へ、すべての民族へ、祝福を注ぐものであったはずなのです。

系図を超えて、世界へ。
 民族、血統、国境を超えて、世界へ。
 歴史、文化、伝統を超えて、世界へ。

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

それが、イエス・キリストの十字架と復活によって実現し、さらに2000年という時を超えて、今や、イスラエルから遠く離れた私たちのところにまで、神の祝福が訪れているわけです。
私たちも、そういう意味では、イエス・キリストにあって、アブラハムの祝福の約束を受け継ぐ者でもあるわけなんですね。

さて、そこで、私たちにとって、ユダヤ人がこだわってしまった系図に値するようなものはないでしょうか。

1つには、キリスト教も、この2000年という間に築かれた、歴史、文化、伝統、それに対する誇りもあるような気がします。
その歴史や、文化、伝統もあって、今の私たちも存在しているのも確かです。ですから、それを否定することはできません。
しかし、一方で、その歴史には、人間的な誤りもあったわけですよね。
でも、そこを超えて、神の祝福の約束が、人から人へと受け継がれてきたわけですよ。それは、まさに、神様の憐れみ、恵みでしょう。

歴史、文化、伝統を超えて、世界へ。
今までに築かれてきたキリスト教の文化、伝統というのは、多くは西洋で築かれてきたものだと思います。それはそれで大切にする一方で、これまでの文化や伝統にのっとる事が、正統であるということではないはずです。日本人のための、日本人によるキリスト教文化もあっていい。大切なのは、ヨセフのように、救い主を迎え入れるということでしょう。
時には、伝統を塗り替える、乗り越えていくことも必要なのかもしれませんよね。

聖望教会は、その点、かなり自由のある教会だと思います。他の教会に奉仕に行くじゃないですか。乗り越えなければならない壁みたいのを感じますよ。
しかし、その聖望教会にも、今までに築いてきたスタイルや、伝統にもなるものもあると思うんです。それが聖望教会の聖望教会たる所以である一方で、そこに固執してしまうのではなく、さらに新しい聖望キリスト教会流を発信していくことだと思うんですね。これから会堂建設も控えているわけですが、この市川の地から、世界に向けて発展し続ける聖望教会でありたいですよね。

さて、もう1つ、私たちにとっての系図、それは自分自身の生まれ、育ちにおいてです。
わたしもまあ、よくも悪くも父親から、いろんなものを受け継いでいますよね。
父親だけではなく母親もそうだし、これまでの人生の中で、いろんな人の出会いや経験の中から、いいことも、悪いことも含めて、築いてきた歴史、価値観、人格があるんです。

私の弱点の1つは、時に、マイナス的な評価に捉われ過ぎてしまうことがあるんです。それも、いつもではなく、何かあるパターンの時に必要以上に極端にガクーンと落ち込んでしまう時があるんですよね。また、そうなるのを恐れて、臆病に成ってしまう事がある。
あるいは、苦手なタイプができたり、嫌いなタイプの人が出来たり、それは自分自身の内に壁みたいなものができてくるわけですよ。
それも、今までの経験の中で築かれた何かが、そういう風にさせているはずなんです。

よく誰かに何かを言われて「傷ついた」という感情ってありますよね。あれも、恐らくその時に傷ついているわけではないと思うんですよ。それまで過去の人生の中で、どこかで経験した傷があって、それが反応しているんだと思うんですよね。

そういった今までの人生の中で築かれてきた性質、性格…、今の自分に至るまでの歴史、系図が、私たち人それぞれあるわけですが、そういう生まれ、育ち、環境にあったから、仕方がないのか。それが、すべてなのか。いや、決して、そうではない。
欠点や罪があるから、ダメなのか…そうではありません。

系図を超えて、世界へ。

イエス・キリストにあるとき、そこには癒しと回復もあるはず。
今ある自分自身という壁、自分という枠組、過去の生い立ち、系図を越えて、ほんの一歩でも進み出る事ができたとき、きっと、新しい世界がそこにはあるはずです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

これは、命令ではなく、約束です。
私たちは、今や、アブラハムの約束も受け継いでいる者なのです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」



posted by holyhope at 22:39| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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