2008年02月24日

パリサイ人の食卓 ルカによる福音書7:36〜50

2008年2月24日 シャローム福音教会

イエス様が活動した場所を見ていくと、神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な場所よりも、その多くを日常的な空間で語られています。その1つが、「食卓」という場所です。

今日は、「パリサイ人の食卓」というタイトルでお話させていただくんですが、皆さんにとって、普段の食卓というのは、どういう場所でしょう。
いろんな食卓があると思うんですよね。私の普段の昼飯といえば、会社の机で、カップラーメンとおにぎり一個が定番なんですが、そんな落ち着かない食卓もありますし、仲間同士、大勢で食べる食卓もあります。楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。

そんな私たちの日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんですよね。
でも、その「食卓」にもイエス様は来てくださる。それは、まさに恵みだと思います。

今日の箇所の直前、34節を見ると、イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。

ところが、同じ食卓でも、今日の箇所は、ちょっと珍しい食卓かもしれません。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

 さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちです。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人です。

そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。背後には、緊迫した空気も流れているのです。

 しかも、そこへもってきて、すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た…と言うわけです。
 この「すると」と訳されている言葉。他の訳では、「見よ」と訳されている言葉、「見よ、罪深い女性がやって来た」注意、注目を示す言葉です。おそらく、遊女、売春婦だったと思われます。

 パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、絶対、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。

何も起こらずには済まないような状況。いったい、どうなってしまうというのか。
…なんていうまもなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけですね。

当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。
しかも、ここは、未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…のです。

さあ、皆さんは、この光景をどんなふうに見ますか。どんな情景として、想像していますか。

 私たちは、この女性のしていることを、美しい礼拝の姿の1つとして見てしまうのかもしれません。しかし、実際に、現場にいた人から見れば、いったい何が、起こったんだろう…、あの女は、一体、何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。

そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」

 聖書では丁寧な日本語で、「この方が…」なんて書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。
「この女が誰で、どんな女であるか…」
そんなことは、一目瞭然、見た目一発でわかる、その町で有名な罪深い女性なんです。よっぽど鈍感じゃない限り、誰でもピンとくること、別に預言者の証明になると言うことではありません。

 シモンが何を思っているかというと、「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

 しかし、それがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていきます。

 まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。
 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。日本円で、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

多く赦されたものが、多く愛するということ。
単純に受け取れば、この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。
でも、パリサイ人シモンと、この女性、どちらが罪深いと思いますか?

この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。でも、生まれた時から、そうなりたくて、そうなった訳じゃない。この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく、勇気が要ることだったと思います。周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。
しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。この女性の真心を受け止めた。赦されていたんです。
だから、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多く愛があふれてとまらなかったのです。

では、このパリサイ人シモンという男は、赦されていなかったのでしょうか。
 やっぱり赦されていたんですね。

当時、未舗装の道路をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も誇りで汚れ、乱れます。そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは、最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、お茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。ここでイエス様のことを、心から歓迎しているわけではなかったことがわかります。
 にもかかわらず、この女性のことを、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。

「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。「真心」というもの。どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の愛するということは見失っていたのです。

そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、その「パリサイ人の食卓」にも着かれたんですよね。この、たとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。

 ところが、このシモンは、律法を守るという、自分自身の宗教的行為に安心して、自分は「正しい」と思っていた。自分の落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。これが、パリサイ人シモンの真実でした。
その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、いや実際に赦されていたのに、それを受け取ることも、味わうこともできなかったのです。

 イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます

 この女を見ましたか…。現在形。
 …この女を見ているかい。
  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…
  あなたも、また、できていないんだよ。
  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。

多く赦されるか、少ししか赦されないか…、
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されることがない…というわけではないんですね。
 自分の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。
罪というのは、軽くても重くても、単純にしてはいけないことでしょ。そのしてはいけないことを、してしまうのが私達の罪深さなんですね。シモンは、それを自覚していなかったわけです。
実に、私たちは、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が不利になるような気がして、中々認めにくい時があります。
 人のせいにしてみたり、言い訳してみたり、どうせ罪人なんだからと開き直ってみたり…でも、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいことなんです。

「あなたの罪は赦されている!」

49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし、巷で話題になっている罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」「いったい何様のつもりなんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。

もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。彼女もユダヤ人。罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…

一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負っているのです。

「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言いまわしなんですよ。なので、少し意味がぼけてしまっているんです。どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思います?
もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」になるところなんです。イエス様が救ってくれるんですよね。

あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。だから、安心していきなさい。
キリストは、十字架での命と引き換えに、罪を赦しているのです。

 私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。みなさんなら、よく理解されているかと思います。
ところが、ところがなんですよ。私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。っていうか、あるんですわ。
私達は「自分が正しい」と思っている時ほど、人を上から見下したり、非難したり、裁いていたりするんですよね。高ぶりというもの。それもまた、実は、罪なんです。
 パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれません。

しかし、ここが今日の一番のポイントです。
イエス様はそんな「パリサイ人の食卓」にも着いてくださっているんですよね。

イエス様は、その両方とも、赦しているんです。両方とも、イエス様に赦された罪人の食卓だったんです。ですが、シモンとこの女性の違いは、自分の罪を自覚しているかどうか、ただ、それだけだったのです。でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、なんとこの罪深い女性なんですよね。

 みなさんが、今日、家に帰って、また日常の食卓につくと思います。
 そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない食卓かもしれません。でも、今日、その食卓に付いた時に、ぜひ思い出してほしい。イエス様も、その食卓についてくださっているんです。そこには赦しがあり、そこに、恵みがあるんです。
 ぜひね、その食事と同時に、その恵みも味わってみてほしいと思います。

恵みとは、受けるに値しないのに、無代価、無条件に神が与えてくださるよいもののことをいいます。そして、そのよいものが、自分は受けるにふさわしくないにもかかわらず、無代価、無条件に受け取る時に、はじめて「恵まれた」となります。

 見よ、罪深い女がいた。 見よ、罪深い男がいた。 見よ、罪深い自分がいた…。

 「あなたの罪は赦されている…。」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。
 
 しかし、イエスは言われた…。

「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して…行きなさい…!!。」



posted by holyhope at 22:48| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前: [必須入力]

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: [必須入力]

認証コード: [必須入力]


※画像の中の文字を半角で入力してください。

この記事へのトラックバック
×

この広告は180日以上新しい記事の投稿がないブログに表示されております。