2008年03月23日

命がけの福音 ガラテヤ書2:11〜21

2008年3月16日 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

暖かくなりまして、いよいよ花粉症のシーズンも到来といったところなんですが、私も花粉症なんですね。
毎年、この季節が近づくと、まだ、くしゃみがでない、今年こそ治ってるんじゃないか、そういう淡い期待をもちながら過ごしていたんですが、やっぱり、はじまっちゃいました。
 おかげさまで、くしゃみと共に、春を体感している今日この頃です。

 さて、キリスト教の暦の上では、今日は、いよいよイエス様が最後にエルサレムへと入城した日でして、十字架を経て、来週のイースター、復活の日を迎えるわけですね。

今日は、ガラテヤ書を通しながら、その十字架の恵みを味わっていきたいと思うわけですけれども、私たちが救われるのは、信じる信仰による、それはイエス・キリストの受じかと復活によって成し遂げられた、神様の恵みであるわけですよね。

ところが、イエス様が天に昇られて、まだ間もない、初代教会の時代にあって、信じる信仰による救いを覆すような教えが登場していました。
信じる信仰だけでは、救われない。割礼も必要である。
信仰に、プラス アルファーが付いてしまったわけですね。ガラテヤの諸教会は、そういった教えに振り回されてしまったわけです。

今日の箇所は、そのガラテヤの教会に向け、パウロは過去の出来事を振り返りながら、福音の真髄を説き明かしていく場面です。

ところが、ケパが、アンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

ユダヤ人には、律法で食べてはいけないものが決められていて、いかとか、たことか、豚肉だとか、一切、食べないんですね。
 時に、ケパこと、ペテロは、アンテオケに来ていたとき、異邦人と同じものを食べていたんです。 この豚肉おいしいですね…とか言いながら、豚肉を食べていたのかもしれません。
 ところが、ユダヤ色の強い割礼派の人が来たときに、その食卓から離れていったんです。
そして、あたかも、私は異邦人のようでありません、豚肉なんか食べていません、いかも、たこも食べていません…、そういう振りをしたんですね。

ユダヤの食事そのものが問題ではありません。
律法で禁じられているものは、傷みやすい、食あたりを起しやすい、そういう食べ物です。私たちも豚肉はよく火を通すように、冷蔵庫などない当時にあって、そういった食べ物を避けるというのは、理にかなった話、ある意味、正しいことでもあるんです。

 しかし、その、たった1つの食べ物によって、神に喜ばれるとか、汚れるとか、あがったり、さがったり、人の評価が決まるわけではありません。その他にも、数多くの律法、事柄はあるわけですよね。
 でも、ペテロは、ユダヤ人からの攻撃を恐れるあまりに、その食卓から身を引いた。そればかりか、パウロと行動を共にしていたバルナバまでもが偽善に引き込まれた。

 そこで、パウロは猛然と抗議するわけです。
 パウロは、今でこそ有名ですが、十二弟子でもない、下っ端の使徒です。一方、ペテロといえば総本山エルサレム教会のトップですよ。その下っ端が、エルサレム教会のトップに面と向かって抗議するというのは、ただごとではありません。

2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

 ペテロも、別に言葉で、異邦人に、ユダヤ的な生活を強いたり、救いを否定したりしたわけではありません。
たかが食事です。しかし、されど食事だったんです。
ペテロたちの行為によって、異邦人がワンランク下かのような、あたかも律法を守ってないことが不完全、不十分であるかのような錯覚を起させたんですね。
結果として、神の恵み、福音の真理を分からなくさせてしまっていたんですね。

そこにパウロは、猛然と抗議したわけです。まして、律法を大切にするユダヤ人がいる前で、律法を否定するようなことを言うのは、まさに命がけです。神を冒涜する者、まさに死刑に値します。ですが、パウロは、キリストの使徒として、命を懸けて、宣言するんです。それが、16節、福音の大憲章です。

2:16 人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

もし私たちが、自分の行ないによって義と認められる、正しいと認められようとするならば、律法の全て、いや、それ以上のことを守る必要があります。
たかだか割礼1つ、食事1つではないんですよ。

日本にも、いくつも法律があるわけですが、例えば道路交通法、どこまで把握して、守っていますか。ある教習所で、ベテランのドライバーを集めて、運転免許を取る時の試験を受けさせたんですね。だいたい正解率は7割くらいだそうです。
 まあ70点くらい取れれば上出来かな…って思うじゃないですか。でも、本来、免許取るには90点以上必要なんですね。
しかも、○×式での試験ですからね。全くわからなくても、確率的に50点は取れる試験なんですよ。すくなくとも、3割は、違反していても気づいてもいないということになりますよね。

まして、聖書の教えをどこまで把握して、事細かに覚えていますか。分からないですよね。

それなのに、たかだか割礼一つ、ユダヤ的な食事一つで、自分は正しいとしてしまう。
ほんの、ごくごく一部の行為によって、自分は正しいとしてしまう。

ありえない。それが、いかに独善的、自己満足的な正しさか分かると思います。
 
 その律法そのものが悪いわけではないんです。むしろ、正しいことだったりします。
 「主義」が問題。
ある律法の行ないによって、自分を正しいと主張する…それが律法「主義」というものです。律法によって、自分を評価し、また人を評価し、上げたり、下げたりしてしまう…
そればかりか、本来、無条件に注がれている神の恵みに、勝手に条件を付けさせる、自分の手柄にしてしまう、やがて「恵み」であることをわからなくさせてしまう…そこに問題があるわけです。
ガラテヤの教会もまた、信仰プラス アルファーをつけて、神の恵みが分からなくなってしまっていたわけですね。

 私たちも、そもそもユダヤの律法を守っているわけではありません。
でも、どこか自分たちの独自の判断基準や、価値観、律法を作っては、それによって自分の正しさを主張する、自分が正しくあることによって身を立てようとする、なんとか主義を掲げてしまう、そんな性質もあるように思うんですよ。
もちろん、正しいことをすること自体はいいんですよ。でも、そういった自分の正しさを打ち立ててみては、できない人を責めてみたり、逆に、その自分の正しさが崩れると今度は落ち込んでみたり、あがってみたり、下がってみたり、忙しかったりするんですよね。実際、私も、そうですわ。

しかし、本当は上も下もない、罪という点では五十歩百歩、実は、それ以上に多くの面で罪があって、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められただけのもの、すなわち赦されている罪人にすぎないんですよね。

2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

信じる信仰だけで救われるというと、罪が野放しになるかのように思われがちですが、そうではありません。
キリスト・イエスを信じるということは、まず私たち、自分自身の罪を認めるということから始まるんですね。もし、自分の罪が分からなければ、罪の赦しを求めることなんて、ありえないですよね。

2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。

でも、それを、あれをしてはいけない、これをしてはいけない…と、再び律法的な規制によって罪を犯さないようにしようとするなら、それこそ違反者だというわけです。

では、私たちは、どうあるべきなのか。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。

よくこの箇所は、自分を殺す、自我が死ぬ。自我が死んで、神に全てを捧げきる信仰の極意か、悟りの境地みたいに語られることがありますが、決して、そうではありません。それは完全なる間違いというか、勘違いです。
「私」という言葉は、ギリシャ語でエゴーですから、まあ確かにパウロはエゴが死んだと言っているわけですが、自我は決して死なない…というか、殺してはいけないんです。
 なぜなら、イエス・キリストは命を懸けて、この「私」を愛してくれているんですよね。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

 律法主義の世界では、自分が罪人であるということを認められません。
もし自分が罪人だということを認めようものなら、その時点で、自分自身の評価が下がる、存在すら否定されてしまうですよ。仮面を被って、本来抱えている罪人として姿を隠し通さなければならない世界。すなわち自分を殺す、これこそ、律法主義の実情です。

パウロも、そんな律法主義の世界で、ひたすら律法を守ってきた人です。
しかし、あのダマスコ途上の出来事。
サウロよ、サウロ、なぜ私を迫害するのか、わたしはあなたの迫害するイエスである…。
熱心さのあまり教会を迫害していた私。
自分は正しいと思いながら、実は、律法によって裁かれるべき罪人だった私。
まさに、そんな私をも愛し、十字架を背負うキリストと出会うわけです。

私はキリストとともに十字架につけられました。
かつての教会迫害者であったサウロは、十字架の身代わりの死によって、罪人として、すでに裁かれ、すでに死んだものとされた。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

仮面を被って、自分を殺す「私」から、
キリストの愛によって生かされている「私」へ…。

ここに、クリスチャンとしての自我、どう生きるのか、行ないもあるとおもいます。
イエス・キリストの愛を受け止めることが出来た時、心に何の変化もないということはないんですね。そんなイエス様のことを礼拝したい、そんなイエス様のことを賛美したいという気持ちや、この貧しい心にも、多少なりとも愛なり、喜びなり、やさしさなりも生まれてくるんですね。そこから自然と出てくる行動、行ないがあるはずなんですよね。

もちろん、生まれながらの罪人としての自分も、実際には、まだ生きていますから、多くの面で、失敗もすれば、罪も犯しますよ。誰かを、赦せない、愛せなくなることもある。
でも、十字架があったなら、復活もまたあるんです。
そこには、イエス・キリストに愛されて生きる「私」も、確かに存在しているんですよね。

パウロが使徒として異邦人に伝道したのも、キリストの愛に迫られて、内側から湧きでてきたものなんです。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。
無駄死にです。
犬死にです。

パウロの叫びは、ここにこそあります。

信じる信仰によって救われる…。私たちは、普段、その福音の真髄を、どのくらい大切に、どのくらい価値あるものだと感じているでしょうか…。
信じるだけというと、何か物足りないような、簡単すぎるかのような気もするのかもしれません。多少なりとも、自分の努力か行ないがあった方が、安心できるというか、いかにもクリスチャンとして、信仰的に優れているかのような気がするのかもしれません。

しかし、すべてはイエス・キリストの十字架によって、成し遂げられたこと。大きな大きな神の恵みなんです。
それは、皆さん一人一人を神がどれほどまでに愛しているのか、神の愛の現われでもあるわけです。
 
なぜ、主イエスは十字架を背負ったのか…。

クリスチャン的模範解答で言えば、「イエス様は、私たちの罪の身代わりになるために、十字架を背負われた」と言うことになるわけですが、言葉にしてしまえば簡単です。

でも、十字架というのは、世界で最も残酷だといわれる死刑です。それは、決して、簡単ではないし、宗教的、教理的な思想、頭の中だけでの事柄ではないんですよね。

イエス様は、実際に、遊女、取税人、多くの罪人たちを赦し、受け入れ、友となれたわけですが、一方で、祭司、パリサイ派、律法学者、いわば宗教的な正しさを身にまとった律法主義者たちから、罪を赦していいのか、それでは秩序が保てない…そういった反発、非難も、強く強く受けていくわけです。
しかし、それでも、なお、神はこの人たちも愛していると、主イエスは罪人たちをかばうかのように、赦し続けたんですよね。
そんな主イエスの周りには大勢の群集が集まるようにもなっていきます。そこで、政治家でもあった祭司たちは、このイエスの名によってテロやクーデターが起きることを強く警戒しはじめたんです。実際に、ヨハネの福音書には、このイエスを王として担ぎ上げよう、つまりクーデターを狙っていた人達がいたことも書かれています。そのイエスが、首都エルサレムに入るということは、どういうことになりますか。一気に緊張が高まるわけです。
もちろん、主イエスにテロだのクーデターだの、そんな意図は全くありません。
でも、この時、この段階で、エルサレムに入るということが、必然的に十字架を意味していたんです。それでも、主イエスは、そこから逃げなかった。わかっていながら、神の都エルサレムへと向かうわけですよ。それでも、なお愛を貫き通したんですよね。
 その結果としての十字架。

「イエス様は、私たちの罪を赦すために、いや赦したからこそ、十字架を背負われた」これは、決して、ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。

今日は、このあと聖餐式があるわけですが、
最後の晩餐で、ぶどう酒に象徴された主イエスの血潮。あれは、単に血液そのものを意味しているわけではないんです。ユダヤ人的な感覚では、血は命を意味しているんですね。
ですから、あの杯に注がれているのは、主イエスの命そのものなんですわ。
「この杯から、取って、飲みなさい。これは、わたしの契約の血、いのちそのものです。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです…。」

私たちは、そんなイエス・キリストの生き様、命の中に、神の愛や、神の赦しを知り、ただ受け取っているにすぎません。「信じる」ということは、神から与えられた愛や赦しを信じて、そのままに、ただ受け取ることなんです。

特に今週は、イエス様が十字架を背負って成し遂げてくれた神の恵みの大きさ、深さ、広さを味わいつつ、来週のイースターを迎えたいものですよね。

神は、実に、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである…!! ヨハネ3:16


posted by holyhope at 22:57| Comment(3) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
この記事へのコメント
竹下さん、始めまして。
私は今、台湾に住んでいます。
2008年3月に台湾でバプテスマを受けました。
私たちの教会は福音派の教会で、異言による祈りも行っています。

私は日本の教会についてまったく知識がないんですが、竹下さんは異言の祈りをどう思われますか?
日本ではまだまだ聖霊様と異言を通して祈るという教会が少ないと聞いたことがあるんですが。

差し支えなければ、ご意見を聞かせてください。よろしくお願いいたします。

川崎瑞穂
Posted by 川崎 瑞穂 at 2009年10月06日 12:38
瑞穂さん

コメントありがとうございます。

日本の「福音派」では一部を除き、異言についてはほとんど語られず、
逆に、異言を大切にしているのは「聖霊派」です。

不思議といえば不思議ですが、
異言で祈る人も、どちらの派の教会に属しているかで、見事に分かれています。

決して異言を否定するわけではなく、
うーん。。。意識の差というか、
ここまで綺麗に分かれるというのは、
言い方は悪いですが、「異言」も、半分は思い込み、
つまり、どのように教えられたかの影響…も強いかなという気もしますよね。

でも、心のうちにある言葉にならない思いを、言葉にならない言葉、一種の「うめき」で言い表すということは、あっていいように思います。

異言の祈りについては、ここでは書ききれないくらい、いろいろと考え方があります。

もしよろしければ、以下にメールください。

chi-t(at)holyhope.net

※(at)をアットマークに置き換えてください。

Posted by りっきー(こと竹下) at 2009年10月06日 23:57
竹下様
メッセージを書きましたが、
上記のメールアドレスに届かないのですが…
Posted by 川崎瑞穂 at 2009年10月07日 19:09
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