2013年10月31日

鳥の鳴き声

…空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイ6:27

つい先日の朝ですが、駅に向かう途中で、ふと鳥の鳴き声に気づきました。

鳥には詳しくないので、名前はわからないのですが、ちょっと珍しい鳴き声。

チチチッ、ヒュー

ヒューってなんだ?って気になったのですが、おもしろいですよね。
きっと、その鳥なりの訳もあるんでしょう(笑)

毎日歩いている道ですので、今までも鳴いてたはずなのですが、全く意識できていなかったんですよねー。

都会では、アスファルトに、コンクリート、人工物に囲まれて、車のエンジン音や、人のせわしない足音ばかりが聞こえてきますが、実は、その中にも自然界は息づいているんですよね。

都会に自然がない…わけじゃなく、自然に気づけなくなっているんだなあって気がします。
神様の愛や存在も似たようなものかもしれないですね。

空の鳥を見よ…
天の父が養ってくださっている…
だから、心配するな。。

私たちも、同じ自然界の一員。
神が造られた自然界の中で活かされているわけです。

私たちはどこか無理して、一生懸命、「不自然さ」が普通、常識、必要不可欠、なくてはならないもの、あたかもそれが「自然」かのように固辞しようとしてしまっているのかもしれません。
いや、そうせざるを得ない…と言った方が適切かもしれないですね(^^;;

実際に、私自身、電車に乗り、ビルの中で、パソコンに向かいながら仕事をし、糧を得ているわけですから…。
それを否定することもできません。

それがまた、疲れにも、ストレスにも、不安にもなってくるような気がします。

でも、これは「自然」ではなく、あくまで「不自然」だと言う事も、どこかで覚えておきたいものです。

疲れやストレス、将来に不安を感じる時、ふと「不自然」の中にもある「自然」に目や耳を傾けてみたいものですね(^^)

…私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
詩篇121:1〜2

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2013年08月07日

1人のために…

「あなたがたのうちに羊を百匹持っている人がいて、そのうちの一匹をなくしたら、その人は九十九匹を野原に残して、いなくなった一匹を見つけるまで捜し歩かないでしょうか…。」
ルカ15:4

ここしばらく、ちょっと掲載をお休みしてました。

いろんな出来事があったんですが、その中でもショックだった出来事の一つに、高校時代の友人が突然、行方がわからなった事件がありました。
釣り好きということもあって、地元静岡の友人たちが懸命に探したのですが、どうやら事故ではなさそうです。

奴なりに悩みもあったのかもしれないな〜と、少なからず伝道師やってる自分としては、力不足を感じずにはおれません。

今は、どこかで無事にいて、ひょっこり現れるんじゃないかと、待っているところです。

しかし、懸命に探してる友人たちの状況報告を聞きながら、本当にいい仲間たちだなと思いました。
ジーザスも、神はそのようなお方だといいます。

特に都会では、大勢の中の一人に埋れてしまいやすいかもしれません。
周りには、いっぱい人はいても、なぜか孤独を感じてしまうことがあると思います。

しかし、バイブルの神は、1人を大切にする神です。

私もその1人。
自分もまた一人を大切にする心を忘れずにいたいものです。

「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。」
ルカ15:7

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2013年04月26日

ただ、この一事に努む

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます…。」ピリピ3:13

「ただ、この一事に努む」

これは古い方の訳なんですが、小学校6年の時に、父親から座右の銘として与えられた聖書の一節です。

…って、父親の座右の銘だったってわけじゃないですよ。
私の座右の銘として、父が決めて与えられたんです。。(^_^;)

座右の銘って、自分で決めるもんだと思うんですけどね。。
もちろん、その時まで、こんな言葉は私の右にも左にもいらっしゃいませんでした(笑)

うちの父親は、よくいえば信念が強い、悪くいえば強引。
今、思えば、面白いキャラですけどね(^_^;)

おかげで、この一節は非常に印象深く脳裏に刻まれ、いまやしっかり座右の銘に近くなっているのでした(笑)

えーい、くそ!

それはそれとして、新年から始めたこの聖書の小話ですが、最近、土日も外部奉仕が続き、普段は会社ですから、なかなか打てずにいました。
こうした文章書くだけの時間…というか、ゆとりというか、思考能力、頭が回らなくなってしまうんですよね。。
そうこうしていくうちに、1日1日過ぎちゃいます…(^_^;)

そんな時に思い起こすのが…

「ただ、この一事に努む」

うお、出やがった!

…というわけで、この言葉について書いてます(笑)

ま、自分という小さな器には、能力、体力、時間…様々な限界は付き物です。
それで自分を否定する必要は全くありません。

「ただ、この一事に努む」

たとえ理想通りに、完璧にはできていなくても、今の自分にできること、そこに懸命に取り組めているか…なんだと思うんです。
ただ、この一事に努めていきたいものですよね(^^)

「兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕らえたなどと考えてはいません。
ただ、この一事に励んでいます。
すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。」
ピリピ3:13〜14




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2013年04月06日

高ぶることなく

…同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。
みな互いに謙遜を身に着けなさい。
神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。
1ペテロ5:5

先日、メッセージをインターネットで動画配信しようという試みで、初めてカメラを相手にメッセージをしてみました。
やってみると、人前で話すのとは、全く違うものですね〜。
ただいま教会のメンバーが、編集してくれているのですが、動画だと自分のアラもよく見えます。。(^^;;

その辺、超ベテラン宮村牧師は、さすがです。童謡から手短かに聖書を語っちゃうんです。

ですが、これもいい経験。
習うより慣れろで、やってなんぼなんだろうと思います。

…が、二つの怖さを感じました。

まずは、そんな未熟な者なのに、ネット上で配信するということ。。
恥ずかしさ半分、なんだか恐れ多くも感じてしまいます(^_^;)

それと同時に、もし、これが、うまくできるようになった時に自分に起こるであろう驕り、高ぶり、高慢です。

今は全然なのですが、カメラの前でもうまく話せるようになったら、つい、
どうだ、大したもんだろう!
…って、思っちゃうと思うんですよね(^^;;

でも、この「高ぶり」こそが、要注意。
福音の本質まで失わせてしまうんです。

私たちの罪が赦されているのは、あくまで神の恵み、あわれみです。
自分の努力、行ない如何ではありません。
クリスチャンになっても、伝道者になっても、しかりです。私たちは、あくまで赦された罪人にすぎません。

ところが、ちょっと何かうまくできるようになっただけで、すぐ鼻が高くなってしまう…(^^;;
はあ、なんと高慢な者でしょう(笑)

これも言ってみれば、自己中心的な罪人である証拠ですよね。

高ぶりに対する注意は、聖書に度々でてきますが、実際、高ぶりというのは、自分の身の丈、本質を見失わせてしまうのです。
上から目線で人を見下したり、虐げたりしてしまいます。

怖いのは、その高ぶっている最中は、本人も高ぶりであることに気づかないのです。

時折、教会内でのカルト化、信仰的なハラスメントが問題になることがあります。
最初は純粋な動機で始めたことであっても、実績が積まれてきた時に、指導者が力を持ちすぎて、不当な形で信徒を支配してしまうなんてこともあるんです。
これらは、時に金銭トラブルや、パワハラ、セクハラ問題となって、はじめて実態が表面化するのですが、それらがどういうふうに現れるか、一つ一つの事例は、表面的な結果にすぎないと思っています。
指導者といえど、やっぱり罪人だというだけの話なんですよね。

にもかかわらず、いつのまにか、そんな罪人が力を持ち、狭い世界で自分を絶対化させてしまう。
それは本人ばかりではなく、周囲に取り巻く人たちも含めてです。

これこそが問題の本質、その根本には、やはり高ぶりがあるのではないでしょうか。

ところが、当の高ぶる本人は、気がづかない。周りの忠告にも耳を貸さない。だって、高ぶってるんですからね。
むしろ、忠告や反対する人たちに、被害者意識で敵対していくのです。

だから、怖い。。

ですが、正直、素直に告白してしまいますが、私も、同じ高ぶる要素を抱えている罪人だということです。

わー、やだやだ(^_^;)

皆さんは、どうでしょうか。。

いいんですよ、正直で(^^)

主は高ぶる者を退け、へりくだるものに恵みを注がれる…

へりくだるというのは、ありのままの自分を認めることなんですよね。
高い自分を低く見せることでも、高ぶっていない振りをすることでもありません。
低い自分を、そのまま低いと、蔑むことなく、素直に認められる、これこそが、へりくだるということです。

些細なことで高ぶり、人より優れた者だと勘違いしてしまう…
自分がそんな小さな罪人であることに気がつき、素直に認められたら、仮に高ぶってしまっても、自慢にもならなくなりますよね。

アホだよな…で終わるんです(笑)

むしろ、そんな高ぶるアホをも愛してくださる神に感謝!
注がれている恵みを受け取ることができるのです。

わお!(^^)

だから、あらかじめ皆さんにはお断りしておきますが、私は些細なことで、高ぶるアホなんです(笑)
ま、本当に高ぶってたら、ハエたたきか何かで落としてください。

ですが、そんなアホもアホなりに、神の恵みを恵みとして伝えていこうと思うのです。

ちなみに、メッセージ動画。
ただいま、なんとか見れるレベルになるように、一生懸命、編集してくれていますので、しばらくお待ちくださいませ(^_^;)


…そこで、イエスは彼らを呼び寄せて、言われた。
「あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。
しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。…」
マルコ10:42〜43

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2013年03月28日

単純シンプルに

…キリストが私をお遣わしになったのは、バプテスマ(洗礼)を授けさせるためではなく、福音を宣べ伝えさせるためです。
それも、キリストの十字架がむなしくならないために、ことばの知恵によってはならないのです。
1コリント1:17

先日の日曜には、教会で洗礼式があったのですが、一人の人が救われるというのは、やっぱりうれしいことですよね。
人生の中には、様々な苦難や失敗があります。時に自己否定にも陥ってしまいがち。
しかし、「はじめに神が…」(創世記1:1)いてくださる。

私たち人間は、何かと難しく考え、時に無理してまで幸せなり、自分自身の人生なりを築きあげようと、あくせくしてしまうことがあるような気がします。

それはそれで、成長という観点では必要なことかもしれないのですが、しかし、根本では、誰しも自分の意思や努力で生まれてきたわけではないんですよね。

はじめに神があって、この世に生まれ、今、生かされている。。

単純シンプルに、今、生かされていることを喜び、感謝できたら、もっと自然体で、自分らしく、有意義な人生をおくれることも多いように思います。
もちろん頭でそう思っても、なかなか、そうはいかないこともあるんですけどね。。(^^;;

キリスト教会内でも、時に同じような現象が起きてしまうように感じます。

はじめは単純にイエス・キリストを信じたはずなのに、やがて難しいことが言われたり、難しく考えたりしてしまう。。
難しいことの方が、優れているように見えるのかもしれません。
単純なものが複雑になり、枝葉の細かい部分が大きくなって、本質的な部分を見えにくくしてしまう…
そんなことはないでしょうか。。。

時には、本質的な部分が損なわれているにも関わらず、目もくれず、周辺の事柄ばかりが大きく取り上げられる…そんなこともあるように思います。

冒頭の聖句は、パウロという伝道者が、コリントの教会に書き送った手紙です。

信仰の始まりであるはずのバプテスマ(洗礼)でさえ、私はあの先生から受けたい、いや、こっちの先生の方がいい…なんてことがあったようです。

パウロは、決してバプテスマを軽視しているわけではありません。
しかし、たとえバプテスマであったとしても、そのためにキリストの十字架がぼやけたり、影が薄らいだりしないように細心の注意を払っていたことがわかります。
当然、自分の宣教の言葉であっても、しかりです。

十字架は、世界で最も残酷な死刑。決して、たやすいものではありません。
主イエスは、事実として、罪人を赦し、友となり、その罪の責めを身代わりに負って、十字架の死にも挑み、釘付けにされました。
そんなイエスの生涯、生き様を通して、神の愛と赦しがいかなるものかを人々に見せてくれたわけです。

この十字架を背負うこのイエスの生涯、生き様を見た時に、この方こそ神の子、キリスト、神ご自身と信じるなら、いつでもどこでも誰であっても、神の愛と赦しを受け取ることができます。

信じる信仰によって救われる…
私たちの努力や行ない、勉学、訓練…何かではないのです。

今週は受難週。この金曜は、イエス・キリストは十字架につけられた日にあたります。

パウロも、また後世に生きる私たちも、この十字架につけられたキリストを語り伝えてはいるのですが、いかなる言葉も、宣教手段も、また神学的なこだわりも、この事実として十字架を背負われたキリストには、決して及ぶものではないことを心に刻み込んでおきたいものです。

単純シンプルに、私たちの救いのはじめに、まずキリストの十字架の事実があったことを、しっかりと覚えたいものですね(^^)

イエス・キリストは、あなたのことも、命がけで愛しています!

…しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。
ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。
1コリント1:23〜24

 
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2013年03月11日

口の前に手を開きたい

貧しい者が国のうちから絶えることはないであろうから、私はあなたに命じて言う。
「国のうちにいるあなたの兄弟の悩んでいる者と貧しい者に、必ずあなたの手を開かなければならない。」
申命記15:11

今日は、311ですね。
皆さん、それぞれに思うところがあるのではないかと思います。

私も、いつも通り仕事だったのですが、震災後、最初に東北に行った時のことなどを思い出していました。
でも、今もなお現地で復興途上にある人たちのことを思うと、今日この日ばかりは、うまく言葉が見つからず、なんだか口を開くと、まるで嘘のようになってしまいそうで、言葉が出てきません。

冒頭の言葉は、旧約聖書に出てくる古代イスラエルの律法です。
律法の事細かな教え1つ1つは、もはや守る必要はありませんが、律法の精神は学ぶべきところがあります。

まだまだ現地では、様々な助けが必要な人たちがいます。
しかし、今日この日に何もできない自分がいます。

口の前に、手を開きたい。
たとえ口は開けなくても、手だけは閉じず、開き続けるようにしたいものです。。(^_^;)

でも、その点、日本はすごいと思います。
今日この日も、まだまだ手を開く人たちがいます。

一人ができること、私自身にできることも、本当に顕微鏡レベルの小さな小さなことでしかないのですが、今日でなくても、どんなに小さな手でも、開いていきたいものですね!

あなたのパンを水の上に投げよ。
ずっと後の日になって、あなたはそれを見いだそう。
伝道者の書 11:1
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2013年03月08日

何も思い煩わないで…

…何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
ピリピ4:6〜7

昨年夏からの竹島問題の影響で、韓国旅行の需要は、前年に比べ、およそ半減しています。
韓国旅行を基盤とする、うちの会社もかなりの打撃を受けておりまして、3月の給料から20%カットすることが決まりました。

ま、旅行業界というのは、こういう波は付き物なので、なんとかなると思います。
むしろ去年までが、韓流ブームに乗っかって好調だったというのが、正解でしょう。
決して、うちの会社だけではありません。
何事も捉えようで、今の状況でもなお80%は得られるわけですから、感謝なことなんですよね。

…とは言え、決して少ない額ではありません。
奥様になんてお知らせしようか…、少し気がかりだったのですが、さすがは、我が奥様。
その程度では動じません。
これまでの方が、よほど苦労をかけているからかもしれませんけど…(笑)

内心は心配もあるとは思いますが、理解を示してくれました。
それだけでも助かります。。(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、パウロという伝道者が投獄された時に書かれた手紙です。

パウロの場合、給料20%ダウンどころじゃないんですよね。。
投獄です。
さすがに、のんきな私も牢に入れられてまで、こうも落ち着いていられる自信などはございません。。(^_^;)

ですが、パウロは、そのような状況の中で、パウロのことで心配しているピリピの教会の人たちを思い、語りかけるのです。

「何も思い煩わないで…」

私たちは、その時折の境遇によって、気持ちがアップダウンしてしまうことは避けられないと思います。
人生の中には、ピンチや岐路に立たされること、迷うこと、悩むこともあります。
時には、立ち止まり、自分を省みて、何がベストか、じっくり考えることも必要でしょう。

ですが、それが決して解決に向かうことがない否定的な思い…、
度を超えた不安や落ち込み、不満や愚痴になったり、あるいは自己嫌悪、後悔だったり、
「思い煩い」になってきたら要注意です。

そんな「思い煩い」が続けば、自分にあるよいものや、可能性まで否定するばかりではなく、周りにまでマイナス的な影響を及ぼしてしまうことがあります。
心だけではなく体にも影響を与えて、「重い患い」にもなってしまいかねません。

しかし、状況がどうであれ、ただ、その時、その時に、自分自身にできる最善を尽くすことでしかないんですよね。。
そのためにも、いかに心の平安を保つかです。

このパウロの場合は、半端ありません。
これまでに病を負い、死ぬほど鞭打たれたり、遭難したり、生死を分けるような数々のピンチもありましたが、その中を掻い潜ってきました。

お世辞にも決して順風満帆とは言えない、思いっきり逆境に立たされていながらも、その只中で神に祈り、神が共にいて、神が守ってくださる…、
その都度、その都度、ピンチを乗り越えてきた、その経験が物を言うんでしょう。
誰よりも、イエス・キリストは、十字架にも挑み、乗り越えたお方です。

「何も思い煩わないで…」

まあ、今の私レベルですと、鞭1発だけで思いっきり思い煩いそうですが(笑)、この給料20%OFFは一つの経験。

さて、どこを節約して、どう打開していくかな…(^_^;)
決して思い煩わずに、前向きに励んでいきたいと思います。

1日1日、自分なりに、自分らしく、精一杯いきましょう!

…あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。
神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。
むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。
1コリント10:13
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2013年02月09日

心のバロメーター

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
1テサロニケ5:16〜18

前回、心の内にどんな言葉が占めているかで、捉え方が変わるという話をしましたが、この1週間、仕事が忙しく、女性陣のおしゃべりに、ちょっとイライラ…。
ったく!…と思いながも、自分の書いた文章思い出して、とりあえず我慢(^_^;)

うーん。。ためになる…自分の(笑)

でも実際、このおしゃべりを止めてしまうと、いい意味でのコミュニケーションまで止めてしまうんですよね〜。
そこが難しいところです(笑)

しかし、そんな私も、仕事帰りに欲しかったビデオカメラをゲット!
それで、もう、ちょーご機嫌(^^)
イライラは、どこかに吹っ飛んでいました。

我ながら、現金というか、単純というか、ある意味、感心しちゃいました(^_^;)

さて、冒頭の聖書箇所は、竹下家の親族の間では、実家のお便所に掛けられている有名な言葉です。

実家にいる頃は、なんも思わなかったのですが、今は、心のバロメーター的な言葉になっています。

もちろん、人生、喜べることばかりではないと思います。時には、嫌なことも、辛いことも起こります。
逆に、いつもは喜んでいられることばかりではないから、「喜びなさい」ってことも勧められているんですよね。

もし、これを「命令」(律法)として受け止めたら、この上もない苦痛だと思います。
少なくとも、私は嫌ですね(笑)

ですが、喜べない状況の時にも、ただ悲観するだけ、不満でいっぱい、あるいは落ち込みっぱなしではなく、どうしたら喜べる状態になれるか、自分も周りも喜べる方向に心を向けていく事ができたなら、心の持ちようは、ずいぶん違うのではないでしょうか。

たとえ喜べない状況の中でも、クリスチャンは神に祈ることができます。
自分一人では絶望だったとしても、神様は無限大です。
祈る…というアクションを起こす限り、心は絶望へとは向かいません。

今の私自身、振り返れば、いいことも悪いこともありながら、それら一つ一つが経験となって、今があります。
無駄な経験などありません。
そう考えれば、本当はどれも感謝なこと。今があるということだけでも、実際、とても感謝なことなんですよね。。

…とは言いながら、渦中にある時は、なかなか全てを感謝することなど、正直、難しいのですが(^_^;)
でも、人間の脳には不思議なところがあって、何も感謝することがなくても、繰り返し「ありがとう」と口に出していると、自然と脳は、何がありがたいんだろう…とを探し始める習性があるというんです。

ないもので不満を抱いているより、感謝できることを探していく方が、自分にとっても周りにとっても、幸せへの近道なのかもしれないですよね。

本当にすべてのことに、感謝できるとしたなら、それは本当に幸せなことだと思います。
だって、感謝なんですから。。(^_^;)

この聖句の続きには、大切な一句があります。

「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。」

これが神の望み、神のみこころだというわけです。
つまり、私たちが、そうなれるようにイエス・キリストは存在し、助けてくれているのが聖書の神様なんです。

人生、悩みや困難は多々ありますが、
いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことに感謝する…
この言葉を胸に、そんな幸せを目指していきたいものですよね(^^)

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。
これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
1テサロニケ5:16〜18

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2013年02月04日

私の内にある言葉

…一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。
彼らの思い計ることはみな、私にわざわいを加えることです。
詩篇56:5

今、皆さんのうちには、どんな言葉があるでしょうか。
それは日によってもいろいろだと思うんですね。

私も、調子がいい時には、肯定的、前向きな言葉、明るい言葉が多く心を占めています。
ところが忙しかったり、落ち込むようなことがあると、批判的、否定的な言葉が心を占めてきます。
不思議なもので、同じ物事に接しても、その時の自分のうちに、どんな言葉が占めているかで、捉え方も気の持ちようも変わってくるんですよね。

冒頭の詩篇の一節は、イスラエルの英雄ダビデの作ですが、彼はこの時、宿敵のペリシテに捕まった時とされています。
この時のダビデは、サウル王の嫉妬を買い、命を狙われ、なんと敵国に逃げこむわけですが、ダビデだとバレてしまったわけです。まさに四面楚歌。

ここで興味深いのは、ダビデは、この時の自分の状態を「彼らは私のことばを痛めつけています」と表現しているところです。
味方にも敵にも命を狙われ、恐怖や不安、あるいは惨めさ、孤独感、否定的な言葉が、ダビデの心の内にも占めてきたんでしょう。

そこに気づいたダビデは、自分の味方である神様の言葉を慕い求めるのです。

…神にあって、私はみことばをほめたたえます。主にあって、私はみことばをほめたたえます。
私は、神に信頼しています。それゆえ、恐れません。人が、私に何をなしえましょう。
詩篇56:10〜11

こうしてダビデは、人ではなく、神のことばの方を信じて、自分のうちに湧き上がる否定的な言葉から、自分自身を守っていくんです。

私たちも、この社会で生きている間には、いろんな言葉を聞きます。
そこには、いい言葉も多くありますが、否定的、批判的な言葉も多く耳にしているわけです。
また時には、過去の嫌な出来事が思い出されて、もう昔の話なのに、思いが言葉となって、自分で自分を傷つけてるなんてこともありそうですよね。。。

知らないうちに、自分自身の内に、否定的な言葉が溜まっているんです。

その言葉が、自分にむけば自己否定的になりますし、他者に向けば、批判的、攻撃的にもなります。

やがて、自分自身の内にある言葉が、自分だけに留まらず、周りの人にも伝播するんですよね。

会社の上司や仲間にも批判的な態度で接してしまったり、さらに余裕がなくなると、普段は聞いてあげられる奥様の愚痴も、はあ、面倒くせえ奴だな〜と思ってみたり?(笑)
たとえ口では言わなくても、内側にある言葉が、表情や態度になって思いっきり出てきます(^_^;)

普通は、ここで奥様も察してくれるんですが、お互いに余裕がない時には、そこで留まらず、愚痴は続き、私の言葉も荒くなり、売り言葉に買い言葉、ついには爆発するわけですね…、私が(汗)

まさに否定的な言葉の連鎖です。

実は、周りの状況ではなく、自分の内にどんな言葉が多く占めているか…の方が重要なのかもしれません。

いつも思うのですが、否定だけでは何も生み出しません。むしろ、いいものまで壊してしまいます。
自分から出た否定的な言葉は、結局は自分自身に帰ってくるんですよね。
完全に否定的な言葉を避けることもできないでしょうが、なるべくなら肯定的な言葉を蓄えられた方が自分自身も周りも幸せです。

クリスチャンにとって、自分のうちにある否定的な言葉から、身を守ってくれるのが、まさに聖書、神のことばでしょう。

私たちを愛し、私たちを生かしてくださる、いのちのことばを、せっせと蓄えていきたいものですね(^^)

…あなたは、私のいのちを死から、まことに私の足を、つまずきから、救い出してくださいました。
それは、私が、いのちの光のうちに、神の御前を歩むためでした。
詩篇56:13

 
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2013年01月21日

果たすべき使命

すると、主は私に仰せられた。
「まだ若い、と言うな。
わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。」
エレミヤ1:7

私の場合、もう今年40ですから、「若い」と言える歳ではないんですが、もし死を基準にすれば、死ぬにはまだ若すぎる年代にあたるんだと思います。
言うなれば、中途半端な中年かもしれませんが。。

実は、先週末、高校の同期が亡くなったという知らせが入りました。
在学中にほとんど話した記憶もなく、それ程親しい間柄ではなかったのですが、それでも、まるで自分の一部がもぎ取られたような気分でした。

おそらく、同じ学び舎で学び、それぞれ歩む道は違っても、同じ39歳。
私もそうですが、これまでに身につけたものを活用して、次の40代をどう生きるか…、そんな、まさにこれからの時だったと思うのです。
悲しいと同時に、どこか悔しいような、私に限らず、同期の仲間は、みな同じような心境ではなかったかと思います。

「まだ若い、と言うな。…」

「若い」というのは、本当に未熟な場合もあるのですが、よもすると、それを言い訳にもできてしまいます。

しかし、この世での命には限りがあり、私も例外なく、死という時を迎えます。
それは、明日かもしれないし、まだ先かもしれない、いつかはわかりませんが、確実に1日1日、近づいてもいるわけですよね。
その同期の死から、この自分の命をどう使うか、しっかり使えているか、改めて考えさせられました。

「使命」とは、命を使うと書きます。
人それぞれに違いはあっても、与えられている役割があって、ちゃんと使命があります。
私の場合には伝道者ですから、神様からのメッセージを語ることが一番の使命となるわけですが…
いつまでも「若い」と言わず、この限りある命、自分の使命を、きっちり果たしていきたいものですよね。
そのことを強く思わされました。

また、私や同期の仲間が、そうして生きていくことが、その亡くなった同期の命も無にしないということにもなるのだと思うのです。

…神は、みこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行わせてくださるのです。
すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行いなさい。

ピリピ 2:13〜14
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2013年01月18日

荒野に道…?

見よ。わたしは新しい事をする。
今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。イザヤ43:19

聖書を読んでいくと、いい言葉のようで、えっと思うような言葉に出くわす時があります。
この言葉も、その一つです。

神様が道を造ってくださる。
いいようで、「荒野」に道なんです。ようは、荒野を通れってことなんですよね?

荒野といえば、年間降水量30mm以下の過酷な環境。
荒野を旅行する際、必ず30分に1度は水を口に含んでくださいと案内しています。そうしないと、日本人は特に、脱水症状を起こしてしまいます。

以前、荒野のジープツアーに参加しましたが、石をどけると、猛毒をもったサソリやヘビが本当にいるんです。

聖書の他の個所でも「あの恐ろしい荒野」と表現されています。

旅行であれば、エアコン付の車に、水も血清も積まれ、専門ガイドが案内してくれますが、当時は歩きです。
あえて、そんな荒野を通りたいでしょうか。。

正直、ちと勘弁と言う気がするじゃないですか。

でも、神様は、その荒野に道を造るって言うんです。
荒野にいったい何があるというんでしょう。。

昨日、地元の静岡に行って来たんですが、親戚の家は、静岡でも山の山の、さらに山の中にあります。

集落と集落の間は、すれ違いも危うい、本当に狭い道の連続。
それでも、大分、道がよくなって、車で行けますが、昔の人はよく住んだもんだなと思うんですよね。

ですが、それは現代の都市生活になれてしまっているからかもしれません。
そんな山の中には、お店や娯楽的な楽しみもほとんどないですが、山には山の良さがあって、木々があり、動物が住み、川には魚がいて、実は豊かなんですよね。

今、住んでいる市川に戻ってきたとき、家の帰り道、何かついさっきまでと違う、不思議な違和感すら覚えたんです。
帰ってきた感じがしないというか…。

家では奥さんが待ってるのに、そんなことを言おうものなら大変ですが…(^^;;

いやいや別に家に帰るのがいやだったのではなく、多分、無機質なコンクリートに囲まれ、人は大勢いても、繋がりは極めて希薄なんですよね。
都市生活は、便利でモノにあふれてはいますが、得られないことで不満になったり、不幸にすら感じてしまったりすることがあります。
田舎では、特別なものはない代わりに、きっと人との繋がりは濃くなるんですよね。

荒野も似たようなことがあるかもしれません。
荒野に行けば、モノを求めようにも何もなく、私たちが知らずに身につけてしまった余計なもの一切を削ぎ落としてくれるように感じます。
かなりの強制排除ですけど(笑)

しかし、その厳しい環境の中にも、野ヤギ(アイベックス)たちは、水を飲むため、子ヤギまでもが断崖絶壁を登り下りしながら暮らしています。
アカシアの木は何十メートルと根を下ろし、そこから水を得ながら緑の葉を茂らせているんです。
年に1回あるかないかの雨が降ると、待っていたかのように、たちまち草花が芽生えます。
その一見、死に面した世界で、ちゃんと命が輝きを放っているのです。

私たち人間も同じ、この自然界で生かされている一員なんですよね。
聖書的にいえば、現に今、この自然界で神様が生かしてくれているわけです。

私たちの人生には図らずも、いろんな出来事が起きてきます。
時には「荒野」と呼べるようなところを通ることもあると思います。

しかし、そこを通らなければわからないこと、通ったからこそ気づくこと、何時の間にか忘れていた大切な何かも、その「荒野」にはあるのかもしれませんよね。

今までも振り返れば、あの時のあの経験があったから…ということはあると思います。

荒野を通るのにも、ちゃんと意味があって、実は、そこに神様からのメッセージもあるのではないでしょうか。

…野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。
わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
イザヤ43:20〜21








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2013年01月14日

経験と不慣れ

神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。
彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。
ヘブル13:7

今日は関東でも雪。
特に静岡人の私は、歩くのも大変です。
こんな時、東北人の奥様は、強い味方。
足を垂直に上げ下げするように、指導?してもらっています。

普段は反抗的な私も、今日ばかりは従順です(笑)
転びたくないし…(^^;;

不慣れなこと、わからないことは、まず経験者に聞いてみるのが一番ですね。

漠然とでも、誰しも抱えている不安の一つは、死だと思います。
何で死ぬのか、いつ死が訪れるのか、その時、自分がどう振舞うのか、全くわかりません。

クリスチャンのゴールは、極めて明確です。
やがては、天の御国、イエス様の元に行きます。
…とは言っても、いざ死に面した時に、自分はどうなのかなと、ふと思ったりもします。
なんせ、まだ未経験なんで(^^;;

これまで何人かのクリスチャンの最期の時を見させてもらいましたが、一番、身近で見させてもらったのが父親です。

父が癌の余命宣告を受けた時、冷静さを装いながらも、父の手が震えていたのを覚えています。
しかし、それも、つかの間、あとは、それがどうした…くらいの勢いで、家族も本人も最期までまったく死を意識しないほどでした。

最期の1年は認知症も進んで、まるで子供のよう。。
ある意味、遠慮なく、素直に感情そのままを出すようになって、わがままの言い様も、イラっとするタイミングも、笑っちゃうほどに自分と同んなじなんですよね〜。
元は頑固な父親で散々反発もしてきたのですが、すっかり仲のいい友達のようになってしまいました(笑)

最期も死んだという気がせず、そのまま天国へ旅立って行ったような感覚です。

…なんて父親ネタを書いていると、天国から、今でも父親が何か余計な口を挟んで来そうな気分なんですよね〜。
きっと今、「何、言ってるだ!」と言ってます(笑)

クリスチャンにとって死は終わりではなく、その先にも希望があります。
それは本人だけではなく、遺された家族にとっても希望になるものなんですね。。

私自身、もう一度、父と語りあえる時がくると思うと、なんだか楽しみになるのです。
喧嘩するかもしれませんが…(笑)

自分がどういう死に方をするのかわかりませんが、死を悲観することなく、父のように家族や周りに希望と笑いをもたらせたら最高ですよね。

自分自身ではまだ経験できない死なのですが、父から、死に様=生き様を通して、一番、貴重なことを教えてもらえたように思います。

…イエスは言われた。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。
わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。」
ヨハネ11:25〜26

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2013年01月11日

がんばってんのに!

…主はアベルとそのささげ物とに目を留められた。
だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。
それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。 創世記4:4〜5

皆さん、人それぞれ違うと思うんですが、つい怒ってしまうパターンってないでしょうか。
私にある一つのパターンは、「頑張ってんのに!」です。

例えば、会社でいろいろな仕事を抱えて、いっぱいいっぱいなところに、別の頼まれ仕事が来たりとか…。
そんな仕事から帰り、一生懸命、夕飯作っているところで、O型マイペース奥様が帰ってきて、あーでもない、こーでもないと言われちゃったりとか…(笑)

まあ言われてしまうのにも、ちゃんと、それなりの理由もあるわけなんですが、積りに積もると、ぼっと火がついちゃったりして。。(^^;;
それで夫婦喧嘩になってしまう時もあります。。(笑)
私の怒りは父親譲りの瞬間湯沸かし器型なんですよね〜。
ったく、似ないでもいいところが似ていたりもして、すぐに冷めもするんですが、一番の被害者は奥さんかもしれないです(笑)

さてさて、そんな怒りが湧き上がってしまった時に、よく思い出すのが聖書に出てくる初兄弟喧嘩であり、殺人事件、兄カインと弟アベルの記事です。

弟アベルが捧げたものだけが受け入れられて、兄カインの捧げたものは受け入れられなかったんですよね。
そこで兄カインは憤り、怒りの鉾先は弟アベルに向かってしまったんです。

それにしても、なぜ神様は、カインの捧げ物を受け止めなかったんでしょう。。
アベルは最上のものを持ってきたとも書いてありますが、二人の捧げ物を比較して、カインの捧げ物を拒否したのでしょうか。
どうも、そういうことではなさそうです。

神様は決してカインを拒んでいるわけでもなく、怒りで顔を伏せているカインに語りかけるのです。

「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。
…あなたは、それを治めるべきである。」

なぜ、カインが弟アベルを殺してしまうほどに怒ったのかを考えると、カインはカインなりに、頑張っていたんだと思うのです。
カインは決して粗品を持ってきたわけでもありません。
まさに、「がんばってんのに!」の怒りなんです。

ですが、何を頑張っていたのかというと、神様に喜んでもらおうという気持ちよりは、アベルに負けたくない、自分が認められたいという気持ちが大きかったのかもしれないですね。

同じく私も、自分が認められたい気持ちがあるように思います。
でも、なんらかの形で自分が頑張りが理解されないような時、「がんばってんのに!」という怒りが湧き上がっていそうです。

怒りの感情自体は自然な感情ですし、起きてしまった感情は外に出すことも大切なんですが、一方、行き過ぎれば人間関係を破壊していってしまいます。

もともとは喜んでもらいたいという気持ちがあっても、結果として、全く逆のことをしてしまうのです。
これでは本末転倒ですよね。

もし、カミさんに喜んでもらいたいなら、自分の頑張りよりも、カミさんが喜ぶようなことをしていくことなんですよね。。(^^;;

神様は、自分への捧げ物よりも、カインが内側に抱える、その負の力に気づいてもらいたかったのかもしれません。
それは、弟アベルを殺してしまうほどのものだったのです。

その怒りの感情がどこから来ているか、どうして怒りが湧いたのか、自分自身で見つめてみると、実はそれ程の怒ることではなかったり、溜まったストレスや過去のトラウマ…、別のことが原因だったり、怒りの感情も少し治まって冷静になれたりもします。

認められないことに腹を立てるのではなく、結局のところ、本来、やるべきことを成していくことでしかないんですよね。。。

「なぜ、あなたは憤っているのか。…」

瞬間湯沸かし器の私ですが、お湯沸かしちゃう前に、この言葉を思い起こしたいものですね。。

そう、スイッチ入れて、カチッ、ボッ!の、ボッの前にね…(^^;;

湯沸かし器…、もう知らない世代もいるかな(笑)


そこで、主は、カインに仰せられた。
「なぜ、あなたは憤っているのか。
なぜ、顔を伏せているのか。
あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。
ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。
だが、あなたは、それを治めるべきである。」
創世記4:7
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2013年01月05日

創造のステップ

神は第七日目に、なさっていたわざの完成を告げられた。
すなわち第七日目に、なさっていたすべてのわざを休まれた。
創世記2:2

昨日から仕事がはじまりました。
今年の1番の課題は、時間の使い方です。

これまで平日は会社で働きながら、休みの日に伝道活動をしてたんですが、最近は体力的にも無理がではじめてきました。集中力が持たないんですよね…、仕事中(笑)

いえいえ、これは説教準備にもいえることで、平日はまず無理。
このままだとどちらも中途半端になってしまうので、今後は、もっと積極的に有給休暇を活用して、活動していきたいと思っています。
でも、ちゃんと計画しないと…(^^;;

創造の7日間の記事を読んでいった時、ほんと神様は、計画的に創っているなと思います。
なんせ6日間でこの天地万物を創造し、最後7日目でちゃんと休みまで取るんですからね(笑)

さすがに、この創造の「7日」は科学と一致しないと思うかもしれませんが…、ところが、どっこい。

そもそも「時間」、時の流れというのは、絶対的なものではないんです。

それを証明したのが、かの有名なアインシュタイン大先生の「相対性理論」ってやつですね。
もし光の速さくらいで動く高速宇宙船ができたとすると、地球上の時計より高速船の時計の方が遅くなるというのですが、残念ながら、それを紐解く程の時間も学力も私にはありませんので、ご容赦のほどを。。。(笑)

少なくとも、私たち人間にとっての1日24時間と、天地に臨在する神の1日とでは、同じ1日でも全く違う次元の話だと私は考えています。

そんな時間的な問題よりも、創造の過程を見た時に、神様も、1日目、2日目、3日目…と、きっちりと必要な行程、ステップを踏みながら、この地球を創っているところに、注目したいなと思うんです。
いきなりポーンと完成形を創ったとは書いていないんです。

科学的にいえば…

初期地球には、溶岩ドロドロ状態で形がなく、暗雲のスモッグと水蒸気が立ち込めていました。
そこに隕石が衝突。
スモッグと熱が一緒に分散。
地上に光が差し込み、冷えた水蒸気が雨となって、初期の海ができます。
地表が冷やされ固くなり、内部圧力で陸地が隆起。ほぼ時同じくして、植物が誕生、光合成が始まり、大気がクリアに。
さらに冷え固まり、自転が今の1日24時間に定まっていきます…

と、これ以上は、長くなるのでやめますが(^^;;、ぜひ、創世記の記述とも見比べてみてくださいね。
一致している部分が見えてくると思います。

こうした一つ一つのステップが、全て自然現象、偶然、偶発的に起きたとすれば、それは宇宙誕生137億、地球誕生46億年をかけた超ウルトラ奇跡でしょうし、聖書では、その超ウルトラ奇跡が、創造主なる「神」の業として伝えているわけです。

少しは創造の「神話」ではなく、「現実」のことてして見えてくるでしょうか…(^^;;

聖書の話は、決して宙に浮いたような空想的な物語ではなく、しっかりと現実の上に結び付いたものなんですね。

この自然界を目の前にした時、地球物理学では46億年の奇跡、聖書では神が7日間「も」かけて創った、壮大ないのちの絶景が拡がっているわけですよ。
これが、はじめに備えられた、神の恵みです。

すごいと思いません??

福島の原発事故を思う時、その自然界をたちまち人の住めない世界へと変えてしまったわけですから、やっぱり考えさせられますよね。

さて、そんなわけで…

神様ですら、1日目、2日目…、しっかり6日かけて、この地球環境を創ったわけです。

ローマは一日にしてならず。。

決して、マジックのようにジャジャーンと出てきたわけではありません。
その7日間は、人間の科学的な目では46億年もかかる代物です。

仕事も伝道も、実は同じだと思うんです。
神様にたのんでみても、いきなりポーンとはできないものですよね。

私もまた、1日目、2日目…と、しっかりと必要なステップを踏んでいくことなんだと思うわけです。

あ、このブログも…ね(^^;;(笑)


あなたは知らないのか。聞いていないのか。
主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
疲れることなく、たゆむことなく、その英知は測り知れない。
イザヤ書 40:28


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2013年01月03日

天地創造と科学

初めに、神が天と地を創造した。創世記 1:1


新年の思いつきで書き始めてから気づいたのですが、どんな順番で書いていくのがいいのかな…と。
はい、全くノープランで始めています(笑)



ですが、初回、自然界の話が出たので、少し天地創造の話をしてみようかと。。。

キリスト教界と科学は、ダーウィンの進化論以来、どこか半ば喧嘩別れしているようなところがありますが、私は非常に残念なことだと思っています。

…ってな話をいきなりすると、クリスシャンの方の中には、びっくりしてしまう方もいるかもしれません。
でも別に、進化論を認めようって話ではないですから、ご安心を。。。

しかし、決して聖書と科学が矛盾、対立しているばかりでもないんです。
クリスチャンの間にも誤解があるんではないでしょうか。
今回は、そんなことを知ってもらえたらな…と思っています。



さて、時に科学の世界では、前提として、方程式に「神」を持ち出さない、持ち出せないということがあるんです。

たとえば医学。

クリスチャンでも、お医者さんにはなりますし、病院に受診もしますよね。。。

クリスチャンがお医者さんの治療を受けることは不信仰でしょうか。

そうではないですよね。


クリスチャンも、お医者さんが万全を着せるように神様に祈ります。

ですが、そのお医者さんが、もし手術で患部に手を当て、「神様、どうぞ癒してください。信じます。アーメン」で終了したらどうでしょうか。。。



おいおい、ちょっと待ってよ…って話になるじゃないですか(笑)。

別に医学が、神の癒しを否定しているわけでもありません。
実際、医学的には余命3か月と宣告された癌患者が、医師が認める事実として、直ってしまうこともありうるんです。(私の叔父がそうだったんですが、その話はまた今度…)



しかし、そんな神や奇跡が働かないことを前提に、病気を治療する方法を探るのが医学、神が働かないことを前提に人命救助に最善を尽くすのが医療なんです。

実はこれは説教も同じなんですよ。
もちろん神様の導きを求め、信じつつ挑むわけですが、説教準備に当たっては、神の助けが得られないつもりで最善を尽くして準備するんです。
当たり前ですよね、畏れ多くも、神の言葉を取り次ぐわけですからね。
そこに間違いや自分の勝手な思い込みがあってもならんのです。
少なくとも、私の場合には、説教準備なしに語ることなんて、よほど突発的な必要が発生しない限り、ありえません。



進化論も同様です。

この地球上には、気候風土によって、様々な多種多様の生物が生息していますよね。
また地球が形成されるステップにおいては、今とは違う、様々な環境が存在していました。
これは地球物理学的にはもちろん、創造論的にも、今の地球環境がいきなり最初から出来上がってはいないことは明らかだと思います。



そういった多種多様の生物を調べていったときに、
仮に神が働かないとしたら、生物は環境の変化に応じて、自力で変化していった…と考えたのが「進化論」です。

繰り返しますが、あくまで仮に神が働かなかったとしたら…の前提での仮説、仮定です。



どうぞ、クリスチャンのみなさん。
神が創ったと聖書が書いているのに、神が働かないなんて失礼だ!!なんて怒らないでくださいね。。。(>_<)



これが私にとって、非常に残念なことなのです。

もし皆さんの教会に、まだ神様を信じていない人が来たら、失礼なのでしょうか。。。
いやいや大歓迎の話ですよね。

「信じられない」ことに憤りを覚えますか?
いえいえ、信じられるように、神様の導きを求めて、祈ると思います。



創造主の「神」という存在が信じられない人が、生物が自力で進化したと考えても、ある意味、不思議ではないですよね。

これならクリスチャンの方にも、十分、納得できるかと思います。



しかし、一方で、進化論が科学的に証明されているわけでもないんです。
本物の科学は証明されていないことを、これが正しいと結論付けるような横暴は振るいません。



その一番の証拠になっている生物が、実は、私たち人間なんです。

つい最近まで人間に最も近い生物として、かつて「旧人」と称された「ネアンデルタール人(ホモ・ネアンデルターレンシス)」が、人類の祖先として有力視されていました。
ところがDNAの研究が進み、この「ネアンデルタール人」と今の私たち人間とのDNAを比較したところ、似ていても、突然変異で変化するにはあまりにも差がありすぎて不可能という科学的な結論が出ています。ですので、今は「旧人」とは呼ばれなくなったわけですね。

あ、これは科学での話ですよ。
科学の世界は、科学の言葉で立証する必要もあるんですよね。



科学的にいうなれば、私たち人間(ホモ・サピエンス)は、人間に最も近い生物より桁を外れて、ずば抜けた存在といえるかと思います。



一方、創造論的に言えば、それだけ私たち人間は、非常に巧みに創られていると言い換えることもできると思います。
反面、これは「進化論」という一つの仮説が打ち出されて、科学が熱心に研究を進めてきた成果でもあるわけです。



聖書では、「人は土から生まれ、土に帰る」とも書かれていますが、もしも神様の働きを計算に入れないで考えるとすれば、土の成分と微生物から「進化していった」という表現にもなってくるわけですよね。
あくまで神がいなかったとしたらの仮定、仮説の話ですよ。

そんな進化論を前提にしている科学者は、今もなお、なんと「土」の中に、人間のルーツになりうる生物の化石を懸命に探し求めていたりもするんです。



これも、なんか奇妙というか、不思議じゃありませんか。。。

クリスチャンは聖書には精通しているかもしれません。
でも、科学者も決して机上の空論を述べているのではなく、真摯に、聖書がいう神様が創られた被造物を研究しているんですよね。

この両者が対立してしまうのは、非常に残念な話。お互いにとって損のように思うんです。

私も科学を専攻したわけではないので、聞きかじりの知識であり、諸説もあるんだと思います。

ですがお互いに、よく見もせず、聞きもせず、ただ否定するだけでは、何も生まれてはきません。
必要なのは、対立ではなく、対話だと思うんですよね。

その橋渡しをするのが、伝道者としての使命の一つかな…と勝手に思っています。(笑)



聖書では、かなり大胆に生物の種類が省略されてしまっていますが、その大胆に省略されていることを念頭に置けば、実に出てくる順番は、進化論とあまり変わらなくなります。

要するに、創造主なる神の存在を信じているか、いないかだけの違いなんです。

そればかりか初期の地球が形成されていく行程や、環境の変化、その環境に応じて、まず植物が登場し各生物が登場してくる絶妙なタイミングは、よく見比べれば、少なからず科学と一致してきます。

なんとなんと、どんなに少なく見積もっても、科学の「か」の字もない3000年以上昔に書かれた創世記の記述と、現代科学の研究が一致してくるなんて、すごいと思いません???



神が創造されたこの世界が、どれだけすごいかを教えてくれているのが、被造物を研究している科学ということにもなるわけです。

残念ながら科学(人間の力)で全てを見極めることもできないと思いますが、究極の科学は、聖書と一致すると私は思います。

あっ…、念のため申し上げておくと、聖書の創世記で書かれていることも、全部ではないですからね。
それは、この自然界を見渡せば一目瞭然。
そんなに単純には創られていないし、とても創世記の1章では語りつくせない、私たちの理解や想像を絶するような規模の話なのです。
まさに神のなせる業。
満天の星の数を数えれないように、もし、まともに説明したら、聖書よりも分厚い本になるでしょう。




実に、この自然界には、本当に多くの生物が存在しています。
知れば知るほど、これはまさに神秘です。



そして創造論と進化論、どちらにしても、最後に登場してくるのが人間なんです。
その前提として、この全宇宙、地球という星の自然環境が形成され、その星に生息するあらゆる動植物、生物達、今のこの自然界が存在していなければ、人間も決して存在しえないのです。

進化論的に考えても、宇宙誕生から人間が誕生するまでには単なる偶然では済まされない、超、超、ウルトラミラクル、天文学的な確率で起きたスーパー奇跡の連続がなければ、誕生しえない存在であり、創造論的に言っても、これまた神の超、超、ウルトラ的なスゴ業によって創られた特別な存在なんですよね。
どちらも変わりない、本当に紙一重なんです。



…というわけで、長い話を短くすれば、
そう、たとえ、どんなに自分が平凡な存在に思えたとしても、私もあなたも、決してなんとなく生まれた存在ではなく、この全宇宙の中で、超、超、ウルトラミラクル的に生まれた存在なのです。

それを聖書では、神がこの世界も人間も創り、神に愛された存在だと伝えてくれているわけです。



…神はお造りになったすべてのものを見られた。見よ。それは非常に良かった。創世記 1:31

 
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2013年01月02日

はじめに…


初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。ヨハネ1:1

今年は一つの試みとして、聖書のことばから感じることを、少しずつ配信してみようかと思います。
…と言っても、はじめからなんですが、毎日は無理だと思うんで、あしからず(笑)。
聖書を読むことはできても、なかなか書くことは難しいものだったりします。

でも、感謝なことに、「初めにことば」があるんですよね。
私が完全自力で、人を励ましたり、慰めたり、力付けたりする言葉を書いて行くとしたら、えらいことです。というか、本当に無理だと思います。
なので、毎日必要だと思う人は、ぜひ聖書を読んでください(^^;;

「初めにことばがあった」
それは、聖書のいうところでは、神のことばであり、またイエスキリストという存在にもなってくるわけですが、まず、聖書では、神がことばで、この自然界、宇宙も、地球も、またあらゆる動植物も、そして人間も創ったと書かれています。

そんなことを言われても、いきなり信じられない人も多いとは思いますが、
ですが、信じていても、信じられなくても、人間が登場する「初め」には、この自然界は存在していたのは頷けるんじゃないかな…と思うんです。

自然界は、時に厳しくもありますが、暖かな太陽の光を浴び、風を感じ、その中をたくましく飛び立つ鳥たちの姿、また、繰り返して押し寄せているようで、決して同じではない波の織りなす造形美を見ていると、不思議と力が抜け、安らぎや癒しを感じるんですよね。
この自然界によって私たち人間も生かされている一員なんです。

少々お金がなくたって、何が足りなくたって、私たちはどうにか生きていけますが、この自然界なしに私たち人間は誰一人として、生きてはいけません。
どんなに優れた人であっても、たとえ、どんなに科学文明が発達しても、誰一人として自分一人の力で存在している人もいなければ、生きている人もいないのです。

この現代社会でストレスを抱えていない人は少ないと思います。人生には、時として、自分一人でどうにかしなきゃと、悩み、あくせくしてしまうこともあるわけですが、そんな悩みや問題も、実は、自分一人で解決できるわけでも、もしかしたら一人で解決しようとする必要もないのかもしれません。
ただ、ごく身近に「初め」からある恵み、助け手、存在を忘れているだけなのかもしれないですよね。

「初め」にある恵みを受けて、私たちは生かされている存在である覚えたいものです。

…すべてのものは、この方によって造られた。
造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。
この方にいのちがあった。
このいのちは人の光であった。
光はやみの中に輝いている。
やみはこれに打ち勝たなかった…!

ヨハネ1:3〜5
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