2016年06月10日

2017年2月予定のイスラエル聖地旅行のご紹介です。

ご存じない方もいらっしゃると思いますので…、伝道師しながら、普段は旅行会社で働いております。。。(^_^;)

で、せっかく旅行会社で働いているのだからと、クリスチャン向けのイスラエル聖地旅行も企画しております。

来年は米寿を迎える三森春生先生のイスラエル聖地旅行です(^^)

よく「また、行かれるんですか?」と尋ねられるそうですが、また行くそうです(笑)

今回は、珍しいイスラエル南部の荒野の世界から、基本のガリラヤ、ナザレ、地中海、ベツレヘム、エルサレムと周る、充実の11日間の行程です。
ガイドは、聖書にも精通した柿内ルツ師。
単なる旅行に留まらず、クリスチャンの方には、きっと満足の行く内容のはずです。

詳しくはホームページに掲載しております。ぜひ、ご覧ください(^O^)/


2017年イスラエル聖地旅行





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2015年10月31日

《三位一体と教会-1》「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜26


父・子・聖霊…三位一体の神様を、父なる神、子なる神、聖霊なる神、3つの神様かのように捉えていないでしょうか?
そもそも3つなのに1つ、「三位一体」がわからん…ということも多いかもしれません。
ですが、父・子・聖霊がワンセットになっているのが唯一の神様。
この神様に守られて、私たち人間があり、教会もあることを、イメージしていただければと思います。

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「三位一体の神に守られて」 ヨハネ14:6〜26

2015.5.24 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん。おはようございます。

今日は、教会の暦の上ではペンテコステ、弟子たちに聖霊が初めて降った日にあたるわけですが、今日がペンテコステであること、みなさん、知ってました?

いつも事前に説教題をお知らせしているんですが、お恥ずかしながら、その時点では全く忘れていたんですよね。。。
ですが、なぜか今回の説教は、もう、ほとんど前回のメッセージ終わった時から、次は、三位一体についてお話ししよう…と決めていたというか、強く思わされていたんです。
こういうのを聖霊の導きというんでしょうか。あるいは、聖霊の憐みというべきなのでしょうか。。。
とにもかくにも、今日は三位一体のお話ができること、感謝したいと思います。

 さて、今日は、聖霊だけではなく父・子・聖霊、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、使徒の働きには、こうあります。
イエス様が天に昇られる直前に、弟子たちに話したことですね。

使徒の働き1:8
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

ここで言われる聖霊の力って、なんでしょう?どんな力でしょうか?
大胆に宣教する力でしょうか?いやし、奇跡、何かミラクルを巻き起こす力でしょうか?
そもそも聖霊って、どういう存在で、どう働いてくれているんでしょうか?

父なる神様…なんとなく、わかります。
子なるキリスト。イエス様のことですよね、よくわかります…、
ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、耳で話す声が聞こえるわけでもなく、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、実は、よくわからなかったりしませんか?

なのに下手をすれば、「聖霊の働き」だとか「聖霊の導き」とか言われてしまうと、まるで水戸黄門の紋所みたいな?
はあ、そうですか…と納得せざるを得ないというか、それはちょっと違うんじゃないかな…と思いつつも、わかっていないのは自分だけなのかもしれないと思いつつ、どこか腑に落ちないというか…、そういうことってないですか?
それも、ちょっと嫌じゃないですか。

そこで大切なのが、聖霊単独ではなく、父・子・聖霊、三位一体であるというところから、聖霊についても理解する必要があるんです。

ただ正直な話、「三位一体」と言われると、もっとよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんです。
もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。
でも、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。

そこで、三位一体が、どうしてわかりにくいのか、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。
なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりすると思います。

でも、私の経験上、女性って、理屈っぽい話って苦手の方、多いような気がするんですよね。
三位一体っていうんだったら、三位一体でいいじゃない、これでOKだったりするんです。
反対に男性は理屈が通らないと先に進めなくなることが多いんじゃないかなと思うんです。私も、そんな男性の一人なんですが…。
ですので、前半は、そんな哀れな男性陣のために、少し理屈からお話ししますね。

 イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、いきなりイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人、ペテロや、ヨハネ、パウロもそうですが、ユダヤ人クリスチャンにとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、絶対不動の位置に、ドーンと存在しているわけですよね。

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 そして、イエス様、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

そこで、地図を見てほしいんですが、
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この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。

もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。
最初の海外拠点になったのは、今のトルコにあるアンテオケの教会です。
よく聞くところでエペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、テサロニケや、コリントといった教会は、隣のギリシャにある町です。

今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。
これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。
ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。
「1つの中に、三つある」
唯一の神様の中には3つの格が存在している…という理解のほうが、素直ということになるわけです。

さて、ここまでは、よろしいでしょうか。
理屈の話はここまでにてして、本題へと入りますが、神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でも、説教者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

つまり、神様ご自身については、どんな人よりも、まずイエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。
この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんです。
それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、

14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道」、「わたし」すなわち、イエス様が大事です。
まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。

必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 「…わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。
 わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様も、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。

その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

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イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…
この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。
これ全体で、唯一の神様なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に勝手に単独で動いているわけではありません。
父なる神様やイエス様抜きで「神」は語れないし、「聖霊」だけでは「神」全体ではないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして、目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」と言えてしまうということもありうるわけです。
ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

続くヨハネの福音書も見てみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします。

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わしますわたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って、わしが聖霊じゃあ〜って、自己主張しているわけではないんですよね。だから、聖霊の存在がわからないというのも、ある意味、正解なんです。

イエス様も残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、いつも「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」ひそかにイエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊という存在なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。
仮に、そういうことがあったとしても、すべてが否定されるわけではないですよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

反対に、イエス様の心、イエス様ご自身を理解できれば、本当にそれが聖霊の働きなのか、見分けも付くということにもなるわけです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる神を知ることになるわけですね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

私、最近、通勤の駅まで行く途中で、自然界の何かを感じようとしているんですよね。
つい都会には自然がないかのように思ってしまいがちですが、決して、そんなことはないんですよね。
日がのぼり、空が広がり、時に雨が降り、木々や草花が命を輝かせる。
そして、私たち人間も、誰一人例外なく、この自然界の中で生かされているんです。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ他の宗教、無神論であったとしても、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。
ただこの自然界、天地を作られた人格ある父という存在を感じることができるのは、クリスチャンだけです。

わたしたちが、そんな神様を知る、それは「わたしが道であり、真理である」イエス様がいればこそです。
しかし、イエス様だけではなく、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。
1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

今日、ここから外に出て行くときには、ぜひ、空を見上げて、自然界の何かを感じてみてください。
私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、この地球のあらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」

この聖霊の力ってなんでしょう?
イエス様を知る力、神の愛の力ではないでしょうか。
私たちが神の愛を知り、神様を愛し、自分自身を愛し、隣人を愛する、その愛の中にこそ、イエス様ご自身があらわされてくる、だからこそ、わたしの証人にもなりうるわけです。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

それが、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。
だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでありましょう。


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《三位一体と教会-2》「父に祈る」エペソ3:14〜21


2015.6.14 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 梅雨に入りましたが、お変わりなくお過ごしでしょうか。
 お隣、韓国ではマーズ(MERS)が流行してしまいまして、韓国旅行を得意とする「にこまるツアー」も大打撃を受けております。
 ここ最近、日韓関係がギクシャクしてからは、旅行者が減少してきたんですが、ようやく少しは回復してきたかな〜という矢先に、ドーンですよ。
 実際のところ、通常の観光では、まず感染の心配はないとは言われていますが、旅行というのは、本当に平和産業なんだなと思います。
 ですが、そんな中でも、東方神起のコンサートだけは中止にならず、日本からも多くのファンが出かけているらしいです。それはそれで、さすがだな…と思いますよね。

 さて、前回、三位一体ということから、メッセージさせていただきましたが、父・子・聖霊は、決して三つの神様がいて、バラバラ単独に存在、活動しているわけではなく、一体にして分かれざる聖三者、唯一の神様の中に、三つの自由意志を持つ人格ならぬ神格があって、子なるキリストは父を指し示し、父は聖霊を送り、聖霊はイエス・キリストを指し示す、ちょうど三角形、トライアングルのようなリレーションを保ちながら存在、活動をしている…そんなお話をさせていただきました。

 なぜ、この三位一体が大切かというと、使徒信条にもあるように、私たちの信仰そのもの、キリスト教の核みたいなものなんですね。

 いわゆる異端の特徴のひとつは、この三位一体を否定してきます。
 三大異端と呼ばれるエホバの証人、統一教会は、三位一体を否定、つまりイエスは神ではないとしていますし、モルモン教の場合には、三位一体ではなく、多神論。父・子・聖霊、三つの神が単独バラバラに存在していると説いているんですね。
 これだけでも、聖書から逸脱しているわけですが、モルモン教が言うにはですね、復活したイエス・キリストは、実は古代アメリカ大陸に渡っていったんだというわけです。別のイエス・キリストの物語が作られて、名前は一緒でも、違う教えにすり替えられてしまったわけです。これではイエス・キリストの名の下で、いろんな教えが作れてしまいますよね。

しかし、2000年前にイスラエルに来てくださったイエス・キリストご自身の十字架と復活…、
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる。
これがキリスト教、これが福音です。それは今も昔も変わりません。聖霊も、聖書も、このイエス・キリストこそを指し示しているわけです。

ところがですね、今や正当とされるキリスト教会の中であっても、イエス・キリストの福音はどこへやら、
あーしなければならない、こーしなければならない、じゃなければ神様に裁かれる…かのような律法主義に陥ってしまったり、
そんなことしたらサタンや悪魔にやられる…、自発的な愛ではなく、恐怖によって人の行動をコントロールする、すなわちマインド・コントロールが行われてしまったり、
目には見えない、耳で聞こえない聖霊の名の下に、いかにも正しそうな、でも実は違う、新しい教えが説かれてしまったり、
そんなことが実際に起きてきています。

つい先日、神社仏閣に、油をかけて問題になったニュースがありましたよね。。。

容疑者となった彼はキリスト教系の宗教団体の「教祖」として報道されていますが、実際は、そうではないようです。
彼の作った団体は、信徒による伝道を促進させるための、いわば宣教団体なんですね。
彼は、そもそも正統な教会出身のクリスチャンでして、ただ熱心さのあまり、単なる自分の思いつきや考えまで、聖霊の導きだと信じきって、ある意味、真剣に神社仏閣に油をまいてしまったといえるんでしょう。

なぜ、このようなことがおきるのか。その大きな原因の一つは、聖霊を、父と子から切り離して捉えているからだと思うんです。
そしてもう一つの大きな原因は、イエス・キリストの福音に対する理解不足です。

クリスチャンであってもですよ。
これって…おかしいじゃないですか。今、プロテスタントも、様々な教団に分かれ、それぞれに違いを主張しあっています。
そのために肝心要の部分が、どこかあやふや、見えにくくなっているのかもしれません。
これらは決して異端や、よその教会の問題としてではなく、私たちも含めた、キリスト教会全体の問題、身内に起きた問題、クリスチャン全体の問題として捉えてほしいんです。

そのためには、私たちがまず何よりもイエス・キリストの福音を一番にして、各教会がキリストの福音こそ、内でも外でも明確に発信していく必要があると思うわけです。

さて今日の聖書箇所、このパウロの祈りも、まさに、父・子・聖霊、三位一体なる神様、揃い踏み、トライアングルの関係を捉えた祈りになっていることが分かるかと思います。

天の父に祈ることを教えられたのは、主の祈りに代表されるように、イエス様ご自身であるわけですが、今日は、三位一体という観点を踏まえて、このパウロの祈りを味わっていきたいと思うわけです。

3:14 こういうわけで、

…とはじまるわけですが、「こういうわけで」とは、どういうわけなのか…、それは、この前、前半の1章から3章までがかかっています。
ですから、その1章からここまでを、まず、スーパー超ざっくりと見たいと思います。

1:5 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

ここで言われている「神」とは、3節から受けて、父なる神のことをさしています。
父なる神が、子なるイエス・キリストをこの世に遣わし、私たちをもご自身の子として迎えようとしてくださってるわけですね。

1:7 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。

この御子イエス・キリストの十字架の血潮のゆえに、私たちに罪の赦しを与えてくださっている。これは決してイエス様単独の意思ではなく、子を遣わした父の意思も、しっかりとあるわけです。

1:13 またあなたがたも、キリストにあって、真理のことば、すなわちあなたがたの救いの福音を聞き、またそれを信じたことによって、約束の聖霊をもって証印を押されました。

聖霊はその証印。しかも、それは、ただ福音を聞いて信じたことによって押されたわけというわけですよね。

1:17 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ここでも聖霊は、神を知るためだと出てきますよね。聖霊も、父によって遣わされ、イエス・キリストを指し示すのが、一番の働きです。ですから、その聖霊によって、救いの教えが変わることも絶対にありません。もしあったとしたら、それは、単なる自分勝手な思い込みか、別の霊の働きとなるわけです。

2章前半に行くと、その救いは神からの恵みの賜物であって、私たちの行ないではないことが語られます。

2:8 あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
 2:9 行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

つまり、何か私たち人間の考えや方法、行動によって、救いの道が切り開けるわけではないわけですよね。
ですから、「実は、聖書にはこんなことが書かれていて、救いにはこれが必要だったんです」…みたいな?、余計な新しい発見とか、啓示とか、油かけとかは、よういらんわけです。
私たちが救われるのは、ただ一方的に、イエス様によって与えられた救いの恵みを、そのまま、いただきますと、素直に受け取ることだけなんですよね。

2:18 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。

ここでも父・子・聖霊が揃い踏みです。この両者というのは、元々神の民であったユダヤ人と、そうではなかった私たちを含む異邦人のことを指しています。それも実は、敵対していた両者、今もイスラエルと周辺諸国は敵対関係にあったりしますが、14、15節あたりを見ますと、その敵対する両者の隔ての壁が打ち壊され、敵意も廃棄され、聖霊の助けを得ながら、キリストによって、父の身元にいくことができるんだよというわけですね。

2:19 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

つまり、ざくっと、まとめますと、父は、子であるイエス・キリストをこの世に送り、十字架の血潮のゆえに、私たちの罪を赦し、ユダヤ人も、異邦人もなく、ご自身の子、神の子として向かえてくださっているというわけですね。
さらには、聖霊によって、私たちに、それらを理解する力をも与えてくださっているというわけです。

これら全てが、神から出たこと、神から与えられた恵みであって、私たちの行ない、考え、方法によるものではありません。
ただ福音を信じる信仰によって、ユダヤ人もギリシャ人も、今は仲が悪い日本人も、韓国人も、キリストにあって同じ一つ神様の子供、すなわち兄弟姉妹、神の家族になれる、これぞ神の恵みの業、これが教会という集まりでもあるわけですね。

それは、この「田園グレースチャペル」という単位ではなく、全世界、あらゆる国民に広がるキリストの体なる教会、キリストを信じる群れ全体であるわけです。

クリスチャンの皆さんからすると、なんでもない、耳にたこができるくらい、繰り返し、聞いてきた、イエス・キリストの福音そのまんまかもしれません。

しかし、パウロは、これこそが天地万物を創造された時から秘められていた神の奥義であって、神の恵みによって、その福音に仕える者とされたんだと3章の前半で述べています。

それら全部を受けて、「こういうわけで…」

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、

ユダヤ人の元々の習慣では、立って祈るのが、普通でした。
ですが、ただ、この福音の恵みのゆえに、パウロは、思わず、ひざまづいたんです。

3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

私たちは、この福音を恵みを当たり前、クリスチャンなら常識のように思うでしょうか。いや、それとも、目新しい何かを必要としてしまうんでしょうか。
それとも、この福音の尊さ、ありがたみのゆえに、おのずと、ひざまずくのでしょうか。

パウロは、天でも地でも、ユダヤ人も、異邦人も、さらにはクリスチャン、ノンクリスチャンも超えて、家族と呼ばれるすべての名の元である「父」の前に、ひざまずいたのです。

この思いの中には、パウロがユダヤ人でありながら、異邦人宣教に取り組んできたということが、大きくあるように思います。

ユダヤ人にとっては、異邦人、つまりユダヤ人以外が救われるなんて、天と地がひっくり返っても、絶対にありえないような話だったんですよね。
まさに敵対関係。
しかし、その異邦人とも、イエス・キリストの福音のゆえに、神の子、ひとつの家族となれるというわけです。
パウロは、その家族の名の下である父の前に、ひざまずいたんです。

私たちクリスチャンが、父に願う祈り、奇跡って、どんなことがあるでしょうか。
さまざまな祈り、願いがあっていいと思うんですよ。

ですが、私たちも、イエス・キリストの十字架のゆえに罪が赦され、神の子として迎えられている。
私たち、自分自身をも神の家族、その一員として迎えられている…まずは、その福音の恵みのゆえに、ひざまずく。福音そのものを喜ぶ、感謝する、そういう者でありたいですよね。

3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

この「内なる人を強くする」とはどういうことなんでしょうか。
この2節は、新改訳では2つの文にわかれていますが、実際は、一続きで描かれていて、
「内なる人を強くする」と、「うちに住んでくださる」とは、同じことを言っています。

前にもお話しましたように、御霊、聖霊の力とは、霊的なスーパー、ウルトラマジック的な力というよりは、イエス・キリストを知る力、それも学問的な頭の理解ではなく、ハートで理解する力と言えるでしょう。

そのようにして、私たちの心のうちにも、イエス様の愛が築かれていく…イエス様なら、どう見るだろう、どう考えるだろう、イエス様の目で見、イエス様の心で人や物事を理解、判断する力を養っていく、そんなさまが描かれています。これが聖霊の働きなんです。

この「住んでいてくださいますように」は、出たり入ったり、アパートかホテルか、一時の仮住まいではなく、永住していてくださいますようにという言葉です。
しかも、日本語では表現しにくいんですが、過去形で書かれていて、最初に信じたその時に「永住した」キリストが、そのまま永住していてくださいますようにというわけです。

 3:17 ・・・。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、

もちろん、これは私たちが持っている愛ではなく、イエス・キリストの愛です。
愛に根ざし、愛に基礎をおく…どちらも完了形、すでに根ざしていて、愛に基礎を置いている様子が描かれています。

私たちクリスチャンが気をつけなくてはならないのは、時に愛よりも、ある一種の「正しさ」を基礎に置いてしまうことかもしれません。
もちろん、正しくあろうとすることが、いけないことではないんですよ。

でも、概して、私たち人間が考える「正しさ」というのは、神の正しさではなく、所詮、人間レベルの正しさなんです。
その正しさによって、人を悪く言ってしまったり、非難してしまったり、時には言い争い、やがては戦争まで生むんですよね。
その時に語られる「正義」とは、大義名分、実に、言い訳みたいなものかもしれないですよね。

夫婦喧嘩、一つとっても、そうじゃないですか。
けんかをするときには、必ず、自分は正しく、相手が間違っているという態度や姿勢で挑んじゃうんですよね。

私自身も、そうなんですよ。元々は父親譲りの瞬間湯沸かし器。普段は穏やかでも、カチンとくると、ボッと火がついて、怒りの蒸気がプシューと出てしまうんです。

その一番の被害者は、我が妻・静さんではないかと思うわけですが…、
二十代のころ、よく切れてました。
三十代の半ばころ、切れた後、なるべく早めに謝るようにしました。
40代になって、ようやく切れずに、怒りを収められるように…なったでしょうか。どうでしょうか。。。

でも、内心では、このやろ…って思うときも、あるんですけどね。

こうした愛を基準に置いて考えるとき、私たちも、まだまだ不完全、不十分、決して、自分が正しいといえるほど、正しい人間ではないこともわかると思うんです。

愛に根ざし、愛に基礎を置くというのは、なんでも、いいこ、いいこで、決して間違いや過ちに目を瞑るということではないと思います。
ですが、もし本当に相手に間違いや落ち度があったとしても、赦すということ、理解すること、では、どういったら相手が理解しやすいか、配慮する、総じて、「愛する」ということを忘れずにいたいものですよね。

 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、

十字架というのは、世界でもっとも残酷な死刑です。
俺が死ぬから、お前ら生きろよ。
イエス・キリストは、決して正しくない、罪人を赦すために、痛み、悲しみ、苦しみを背負い、命まで捧げるわけですよ。

もし私たちが、このキリストの愛基準で、自分自身の「正しさ」を問うたら、誰一人例外なく及びもつかないと思うんです。
しかし、私たちもまた、このキリストに愛され、赦されているからこそ、こうして神様の前に集えるわけですよね。
このキリストの愛が基礎にあるからこそ、この集まり、教会も、私もありうるわけです。

自分に愛せない人がいる時、それはキリストの愛の広さを知るときなのかもしれない。
自分が途中であきらめてしまう時、それはキリストの愛の長さを知るときでしょう。
自分の弱さや限界を感じる時、それはキリストの愛の高さを知る時、
自分の罪深さを思う時、キリストの愛の深さを知る時なのかもしれません。

3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。・・・

「人知を超えているものを理解する」、パウロも矛盾を承知で言っているかと思うのですが、それだけキリストの愛は、広く、長く、高く、深いんですよね。
その理解する力はどこから来るのか・・・、それこそが、父から遣わされている聖霊です。

パウロが、父に祈り求めているのは、その聖霊の助けを得ながら、私たちクリスチャン一人一人が、キリストの愛の理解を深め、確かにしていくことなんですよね。

 3:19 ・・・こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

当然なことながら、これは私たちが神と同等になれるというわけではありません。しかし、父・子・聖霊、三位一体の神の満ち満ちた、その豊かさ、愛を一身に受けて、私たちが満たされていくようにと祈るわけです。

最後は頌栄で締めくくられているわけですが、

3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン

私たちは、このように父だけでもなく、子だけでもなく、聖霊だけでもなく、父、子、聖霊、三位一体の神が一丸となった愛と救いの中に入れているわけですよね。
ただキリストを信じる信仰のゆえに、神の子とされ、子同士は、兄弟姉妹、神の家族。
それが教会です。

この祈りには、実に、パウロの宣教師としての愛、教会を愛する思いがあふれている祈りだと思います。
こうした祈りをもって、また世界へと福音が伝えられ、各地に教会が築かれ、この祈りの延長線上に、このグレースチャペルもあるんです。

私たち、一人一人をみたら、ともに不完全な者同士です。
しかし、このイエス・キリストの福音を大切に、霊的にも、また物質的にも、養い育ててくださる父なる父の元、聖霊の助けをいただいて、今も昔もとこしえまでも変わることがない、キリスト愛の広さ、長さ、高さ、深さを味わいながら、ともに歩んでいきたいものですよね。

 3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
 3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
 3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
 3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
 3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
 3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
 3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
 3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

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《三位一体と教会-3》「サタンよりキリスト」ルカ22:31〜34



みなさん、おはようございます。

先週あたり、梅雨らしく、冷え込む日が続きましたが、一転、急に暑くなりましたよね。
皆さん、体調のほどはいかがでしょうか。
こうして、1ヶ月に一回ですが、皆さんとお会いし、共に神様を賛美、礼拝できること、心からうれしく思います。
単純なようなんですが、本当に、純粋にうれしいというか、ありがたいことだな…って思うんですよね。
だって、そうじゃないですか。もしイエス様がいなかったら、まあ、おそらく会うこともなかったと思うんですよ。
一期一会…じゃないんですけどね。本当に、うれしく思うんです。
これから夏本番、霊肉ともに、神様に守られますように、心からお祈りしております。

さてさて、この2回、父・子・聖霊、三位一体の神様ということに主眼を置いて、お話を続けていたんですが、今日は、三位一体の神様に対して、「サタン」、「悪魔」という存在についても、少し取り上げてみようかな〜って思うんですね。
でも、サタン、悪魔って聞くと、あんまり気持ちいいもんじゃないですよね?

ここ注意が必要なんですが、気をつけないと、恐れや恐怖を抱いてしまうんです。

私もですね、いい加減なこと話せませんから、サタン、悪魔について、聖書や文献を、集中して調べるじゃないですか。正直、あんまり気分がいいもんではないですよね。

ですが、今日のこの話、結論から言えば、サタンよりキリストなんです。
もし私たちが自力でサタンや悪魔に立ち向かったら、負けるかもしれないですが、イエス・キリストは、すでに勝利しているんですよね。
このキリストを信じる信仰によって、私たちは、すでに神のもの、天の父に迎えられ、聖霊が注がれ、三位一体の神様に包まれているわけです。だから、安心なんです。

そこで、まず、「サタン」「悪魔」について、お話させていただきたいと思うんですが、私も、いろんな教会に行くじゃないですか。
だから感じるのかもしれないんですけれども、ちょくちょくサタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか、よく耳にするんですよね。
皆さんも言ったり、聞いたりするとも思うんです。

もちろん、そういう場合もあると思います。
決して、サタンの働きがないってわけじゃないですよ。

でも、サタンって、そんなに、いっぱい、あちこちにいて、いろんなところで働いているんでしょうか…。

皆さん、どう思います?

北は北海道、南は九州、沖縄まで、日本各地だけじゃないですよね?
おそらくアメリカでも、ヨーロッパでも、世界中にいるクリスチャンの口から、サタンに妨げられてとか、サタンの攻撃にあって…とか話が出ているんだろうと思うんです。

でも…、ちょっと、いっぱい、いすぎじゃね?…って、思うんですよね。

父、子、聖霊、三位一体の神様は、天にも地にも満ちておられるお方です。
でも、サタンは、霊的な存在とはいえ、あくまで、単体、単独、1個の存在なんですよね。
一般的には元天使、堕天使だと言われていますが、あちこち歩き周ってはいても、決して、全地に満ちているわけでもないんです。
決して、神様と対等に肩を並べて存在している存在ではないわけですよね。

仮に、たとえ本当にサタンに惑わされて、罪を犯すことがあっても、それは自分自身のうちに、罪があるからなんですよね?
何か物事が進まなくなるのも、必ずしもサタンの仕業とも限らないですよね。
単純に人間的な限界だったりもするわけです。何もそれらを、しかも、わざわざクリスチャンが、サタンの手柄にしたり、さも、いっぱい、サタンがいるかのように宣伝したりする必要もないだろうと思うわけです。

確かに、聖書にも「サタン」や「悪魔」が出てきます。無警戒というわけにも行きません。
でも、実は、サタンや悪魔という名前を、少し乱用しすぎてはいないかとも思うんです。

実に、聖書で、それほど多くは、サタンや悪魔は登場していないんです。
前にもご紹介したかもしれませんが、これは単純に、日本語の新改訳聖書の第二版で単語の数を調べただけなんで、参考までに留めてほしいんですが、

まず、イエス・キリスト。
「イエス」は2049箇所、
単独の「キリスト」(「イエス」「キリスト」と連記されているところは除いて)が461箇所。
しかも、イエス・キリストの名は新約だけですからね。
他にも「彼」とか、「小羊」とか、キリストを指し示している言葉はいっぱいあります。
「主」とか、「神」になると、数え切れません。

一方、「サタン」や「悪魔」はどうでしょう。
新約、旧約あわせても、「サタン」が58箇所、「悪魔」が38箇所、格下の小わっぱの「悪霊」で93箇所に過ぎません。
数でも、イエス様が圧倒的に勝利!…みたいな?
異質なものなんで目立つかもしれないですが、聖書でも、「サタン」「悪魔」について、それほど言及しているわけでもないんですよね。

しかも、よろしくないのが「悪魔」という日本語訳。
聖書では、「サタン」と「悪魔」は、同じ存在を指しているわけですが、
「サタン」というのは、ヘブル語で、反対する者、分離する者、非難する者、そういう意味の言葉です。
その「サタン」の音を、そのままギリシャ語で音をなぞったのが「サタナス」。
今日の箇所でもありますが、日本語訳聖書でも、そのまま「サタン」と出てきます。

でも、ギリシャ語圏の人にはそれでは意味がわからないんで、その意味を表すギリシャ語訳が「ディアボロス」。
やはり、誹謗中傷する者。訴える者。ヘブル語の「サタン」と同義語、同じ意味の言葉なんですね。
この「ディアボロス」が、日本語では、「悪魔」と訳されてはいるんですが、元々の意味をたどると、「悪」でも「魔」でもないんです。
「悪魔」と「訴える者」、ずいぶんイメージが違うと思いませんか?

確かに、神様に反対する者なんで、悪魔といえば悪魔かもしれないんですが、ただ「悪魔」と聞けば、人によって、いろんなイメージが出ちゃうと思うんです。
ちなみに、日本語の「悪魔」は、元々は仏教から来ている言葉でして、聖書とはまったく別の世界で、いろんな、こわーい、こわーい悪魔の姿も描かれてしまってもいるわけです。

そんな私たちの言葉、それも無意識、潜在意識の中には、聖書とは違う、いろんな悪魔のイメージが、すでに、ついてしまっているわけですよね。
この潜在意識が曲者なんです。

私、先端恐怖症があるんですよね。
尖がった先の方が、こっち向くと、それだけで、いやなんです。
それは、なぜかと申しますと、小さいころ、食卓に箸たてを出したままであそんでいると、よく、ばあちゃんに、「そんなところで遊んだら、箸が目に刺さる」って、注意されたんです。
ですから、今でも、先のとがったものが、こっち向くと、目に刺さりそうでいやなんです。
ところがね、これが、不思議なんですよ。
自分、めがね、かけてるじゃないですか。
だから、絶対に刺さらない…ってわかっていても、嫌なんです。
これが潜在意識です。
頭で理解しても、自分の意思では、なかなか抜けきらないのが、潜在意識、無意識の領域なんですね。

ちなみに、そんな、ばあちゃん、クリスチャンだったんですが、「うそをつくと、閻魔様に舌を抜かれるよ」…とも申してました。。。
キリスト教の世界には、閻魔様はいなかったと思うんですが、それだけ、私たちの間には、そういう違う宗教の霊的な存在も描かれているわけです。
実は日本語で言う「悪魔」というのも、仏教、架空の存在から描かれているというわけです。

特に最近では、最近だけでもないかもしれませんが、「サタン」「悪魔」という名前をちらつかせながら、不安や、恐れを抱かせ、礼拝しなければ悪魔にやられるだとか、献金しなければ悪魔にやられるとか言って、組織の言うことをきかせる、いわゆるマインドコントロール、カルトに陥る教会も、ちらほらと、出てきているわけです。

確かにイエス様を信じたはずなのに、いつの間にか「サタン」「悪魔」の名前で動かされているんですよね。
私は、これこそ、サタンの惑わし、巧妙なトリックだと思うんですよ。

私たちは大丈夫だとしても、新たに教会に来た人たちが、どういうバックグラウンドを持っているかはわからないわけです。
もしかすると、その「サタン」「悪魔」という名前が、恐怖を呼び起こしてしまうのかもしれないですよね。

ですから、皆さん、私たちも「サタン」「悪魔」という言葉には、聞くにも、語るにも、注意が必要なんだと思います。人によって、いろんなイメージが起きちゃうんです。
もちろん「サタン」「悪魔」を無視はできないですが、安易に語ってもいけないですし、強調しすぎたら、もっといけないんです。

そこで、ぜひ、サタンの存在や目的を正しく理解していただければなと思うわけです。
サタンは、決して悪い魔物ではなく、「訴える者」という意味です。
単に人を罪に誘って、悪いことをさせるのが目的ではなく、それは手段。あの手、この手を駆使して、どうにかして神と人とを引き離したい、神様の愛、キリストの福音を否定させたい、これこそがサタンの究極の目的なんです。

アダムとエバがそうだったように、時に悪いことをさせるのかもしれません。それによって神様はお前たちを愛してないぞ…と訴える。
時には、御言葉まで使って、正しそう、決して正しくはないですよ、正しそうなことも言います。信じる信仰だけではだめなんだ、福音を否定させたり、それでもクリスチャンなのかと訴えてきたりすることもあるかもしれません。
神に反対する者、分離する者、誹謗中傷する者、訴える者、これがサタンの正体です。

こういう思い、考えが出てきたら、それこそ要注意。
まずはイエス様をみる。イエス様に頼る。これが先決です。

確かに、罪は罪なんです。それらを認めて、ごめんなさいすること、改めていくことも必要でしょう。
ですが、それで私たちの罪がきれいさっぱりなくなるわけではないんですよね。
私たちはどこまでも不十分、不完全な罪人なんです。
でも、だからといって、それで神様ご自身から、私たち、人間への愛がなくなってしまうわけでも…ないですよね。

むしろ、そんなサタンによってだまされ、罪によって分離させられた、人間と神様との関係を取り戻してくださるのが、我らがイエス・キリストであるわけです。
ですから、どこまでも、サタンよりキリストなんです。

さて、前置きが長くなっちゃいましたが、時は、十字架直前のシーンです。

ルカ22:31〜34
 22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。
 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
 22:33 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」
 22:34 しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」

ペテロや弟子たちも、それまでイエス様が一緒だから、安心。強気なことも言えてたんですよね。
「死んでもついていきますー」なんて言っていますが、本当のところ、死ぬなんて、ほとんど考えていなかったはずです。

なんてったって、死者をも生かす、イエス様が一緒ですもん。
たとえ死んでも生きる。向かうところ敵なし。
怖くなんか、ないですよね?第一、イエス様が負けるわけがない。

この直前を見ると、誰が偉いか、言い争いしているのがわかります。
さあ、いよいよ最終決戦。イエス様が政権を取ったら、誰が幹事長で、誰が官房長官か。
十字架を背負おうとしているイエス様に対して、弟子たちの理解は、その程度でした。

ところがイエス様は、そんな息巻く弟子たちに水を指すように、こう話しかけられたわけです。

22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

かがーん。
そんなこと願ってもほしくないですが、神に敵対する者の割には、律儀に、神様に願った…らしいです。
サタンといえど、決して、神様と対等に敵対できる存在ではなく、あくまで神様の許しの中で存在しているに過ぎないんですね。

でも、まあ、それはサタンのことだから仕方のないことだとしても、神様も神様ですよね。
そのサタンの願いを聞き届けたというんです。
ちょっと、勘弁してくださいよ…って話じゃないですか。

ですが、ここ注目してください。神様が、時にサタンを用いることがあるんです。

えーっ。そんなことがあろうことか…。あるんですね。

なぜ神様は、こんなサタンの願いを許されたんでしょうか。
それは、この先、初代教会の指導者として下に使えていくためには、誰が偉いか…、手柄や功績で、自分を上に立たせるのではなく、そんな誇りや高ぶり、それこそ余計な麦の籾殻が、砕かれ、振るい落とされる必要があったんではないでしょうか。

ですが、その後に注目してください。

 22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました・・・

単にサタンに揺さぶられて、全部、振るい落とされてしまうのではなく、ちゃんと純粋な信仰の麦粒が残るように、イエス様が祈っていてくださるんですよね。

やっぱり、サタンよりキリストなんです。

ペテロは決して、単に弱いだけではないように思います。
網を捨て、一番弟子として、真っ先に着いて来たペテロです。イエス様が捕まるや否や、他の弟子たちはあっという間に逃げた中、ペテロは、大祭司カヤパの官邸にまで行くんですよね?
本当にイエス様についていきたかったし、かんなり、がんばったんです。

しかし、イエス様と引き離されたとき、まさに、サタン、敵対する者、誹謗中傷する者が、彼を揺さぶり、恐ろしさのあまり、ついに三度知らないと否定してしまったわけです。

でも、実は、この後から本当の意味での、サタンの麦のふるいが本格化したように思うんです。

私たちは、歴史の後ろから、復活も知りながら、十字架をみることができるんですよね。
しかし、ペテロは、当時にあって、時間順にしかみれないわけです。
十字架から足掛け三日、中一日は待たなければ、復活に辿りつけないわけですよ。

誰が偉いか、言い争っていた自分。
死ぬまでついていくといいながら、予告どおりに三度知らないといってしまった自分。
その悔しさ、情けなさ、自己嫌悪、自己否定、俺は弟子として失格だ。。。
イエス様は死んだ。本当に復活なんてするのか。。。
内から、外から、いろんな声が聞こえてきたはずです。

「しかし、あなたの信仰がなくならないように祈った。」

しかも、ここは、信仰が強調されています。

「あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

ペテロ、お前は三度、私を否定するよ。だが、大丈夫。わかっている。
あなたの、その信仰をなくすな。信じて、待て。復活を待て。
ペテロには、このイエスの祈りこそが、ただただ、心の支えではなかったでしょうか。

 22:32 「・・・だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

自分の弱さを知ることは、自分だけではなく、人の弱さを知る時でもあると思います。
ペテロは、サタン、訴える者に揺さぶられ、自分の弱さをさらけ出し、惨めで、情けなくて、下の下にたどり着いてはじめて、そのさらに下、底辺で支える、キリストの愛を理解していくわけです。
これが、後々教会のリーダーになるペテロにとっては、必要不可欠なことでもあるわけです。

イエス様も、サタンの試みを受けたわけですが、実に、それも人間の弱さを知るため、それによって、憐れみを持つため、それが理由だったわけです。

ヘブル人への手紙では、こんな風に書かれています。

ヘブル人への手紙
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

すると、サタン自体は、決して望ましいとはいえないですけど、神様の手にある時に、試みを受けることも、時に必要、一概に全て悪とは言いきれない…のかもしれないですよね?

この後も、ペテロは、いろんなところを通るわけですけれども、やがてはローマで殉教を遂げます。
でも、それはいきなり強くなったわけではなく、この経験も一つ大きな経験としてありながら、いろんな経験も重ねて、やがて、そうなりえたんだと思います。

正直な話、私も、名前は力ですが、かなり弱い、ただの罪人に過ぎないんですよね。
こうして神様の言葉を語る役割を与えられてはいるわけなんですが、ほんと、恐れ多いことなんですよね。
サタンじゃなくても、自分で自分をふるいにかけちゃうことがあるんです。

自分なんかが、こんな働きしていいのか。
ただの自分の思い上がりじゃないのか…
ネガティブになりだすと、とことん落ち込んでしまうんです。
なにぶん、本当に罪人なんですから。
それこそ、サタンに惑わされているだけなんじゃないか…とか?

でも、そんな時に思い浮かぶのは、やっぱりイエス様の十字架なんですよね。

たとえ、どんなに自分が罪深くても、何であっても、イエス・キリストの十字架、このキリストの事実だけは、何があっても、否定できない、変わることがないんです。

ここまでくると、もう自分がどうとか、サタンがどうとか、ほとんど関係ないんですよね。
神学校で教わったある先生が、メッセンジャーというのは、ホテルでは、一番、身分の低い仕事なんだ。預かったメッセージを、ただ、お客様に届ける…それがメッセンジャーの仕事だ。本当に、そうなんだと思うんです。
自分がどうであれ、神を語る。キリストを語る。

主イエス・キリストを信じるならば、いつでも、どこでも、誰であっても救われます。
イエス・キリストは、私たちの全ての罪の身代わりに、十字架を背負い、罪と死と悪魔、サタンを打ち破って、事実として、よみがえったんです。すでに勝利を収めたんです。
イエス・キリストの福音は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

サタンが何をしても、この事実は変えられません。

皆さんの長い信仰生活の間にも、いろんな出来事があると思います。
失敗すること、悩むこと、思わず、自分の弱さがさらけ出ちゃうこと。
あるいは事故や病気や怪我、思わぬ問題で、本当に神様に愛されているのか、わからなくなること、自分はだめだと思うこと、クリスチャンとしてこれでいいのか…って思うようなこと、あるかもしれません。
時には、本当に訴える者、サタンに揺さぶられちゃうなんてことも、あったりするのかもしれないですよね。

「しかし、わたしは、あなたの、その信仰がなくならないように祈った。」

サタンがどんなに、誹謗中傷、訴えてきたとしても、サタンよりも、キリストです。

自分には、何にも誇ることがない、たとえ何の功(いさおし)、実績も功績もなかったとしても、神は、御子イエス・キリストの十字架と、ただ、あなたの、その信仰のゆえに、赦し、受け入れ、神の国へと向かえいれてくださるんです。

「だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」

私たちの大祭司、イエス様も、決して、私たちの弱さに同情できないお方ではありません。
むしろ、私たちの弱さを知って、あわれんでくださるお方なんですよね。
聖霊も絶えず、このキリストこそを指し示してくれています。

そんなイエス様、聖霊様の助けもいただきながら、弱さを覚えることがあっても、イエス様に習い、私たちもまた人の弱さを理解し、人を力づける力へと変えさせていただきたいものですよね。


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《三位一体と教会-4》「キリストと平和」コロサイ3:12〜17

2015.8.9 保守バプテスト 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

 ほんとに暑い日が続いていますよね。お変わりないですか。
 私は、さいわい食欲がなくなる…ということはないんですけれども、それでも日によっては朝から、体がだるいというか、重いというか、力が入らなくなる…、今まで、夏バテって意識したことはなかったんですけどね。
よく食べ、よく寝るようにしながら、体を保っていますが、皆さんも、ぜひお気をつけください。

 さて、ここしばらく、三位一体の神様について、前回はサタン、悪魔という存在についてお話させていただいたんで、今回は、人、人間かな…なんて思っているところなんですが、時は、8月、今日は9日、長崎に原爆が投下された日、今週末は15日、終戦記念日を迎えます。
 今年は、戦後70年の節目にもなっているわけですが、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案ですとか、皆さんも、それぞれに戦争や平和についても考えることが多い年ではないかと思います。

 方や、一方で、たまたま昨日テレビで見たんですが、NHKが20代、30代に調査したところ、広島、長崎に原爆が投下された日を正確に答えられたのは、わずか23%だったそうです。
 もちろん、いつの日かが問題ではありませんので、原爆の事実だけでも知ってさえいてくれればいいのかもしれませんが、それが、いいか悪いかではなく、だんだんと、この日本も、そういった戦争の記憶が薄らいでいるという、この現実は、しっかりと認識しておいたほうがいいのかもしれません。
 つまり、戦争によって受けた痛みが忘れられていく、それは、決して自分たちが受けた痛みだけではなく、戦争によって相手に与える痛みもわからなくなっていく…ということでもあるわけです。

そこで、今日は、「平和」ということも一つテーマとして念頭に置きながら、聖書を味わっていければな…と思っております。

さて、これは前回も少しお話したんですが、私たち人間には、思い込み、先入観、無意識の領域が約8割、9割以上、物を言っているわけです。

 これは笑い話なんですけどね。
 前回、サタンよりも、キリストと題して、サタン・悪魔と呼ばれる存在についてもお話させていただいたんですれども、サタンは神様とは違って、霊的な存在ではあっても、単体、単独であって、全国津々浦々、神様のように天地に満ちている存在ではないですし、悪いことすべてが、サタンの仕業でもないですし、私たちの思い込み、無意識、潜在意識の領域で、聖書が言っている「サタン」とは別の、まったく別世界で描かれた悪魔のイメージを描いてしまっていることもありえますよ…なんてお話をいたしました。

 むしろ、私たち自身のそういった思い込み、あるいは限界であったり、弱さ、あるいは罪が原因であったりするわけです。
 で、結論としては、サタンより、キリスト、イエス様に頼る、イエス様を信じることですよ…なんて、お話をしたんですが、そんなお話をしておきながらですよ。。。

 教会からの帰り道、ふと、ふとですよ。
 あんなふうに、サタンをこきおろして、サタンに狙われるんじゃないだろうか…なんて、ふと思ってみたりするんですよね。
私の頭の中にも、サタンや悪魔という存在に対する恐怖意識がどこかしらあるんですよね。

 これで、もし事故にでもあったら、「ほら、あんな話をするから、サタンにやられた」ということに話にもなるじゃないですか。
少なくとも今日の一日は、事故にはあえないぞ、家に帰って、ちょっと車を運転するにも、いつもよりも超慎重に、超安全運転ですよ。

 幸い、事故も、何事もなく、翌日の朝を迎えましたんで、これは私の思い込み、先入観、私の頭の中だけの架空のサタンの仕業であることが立証されたわけですが、それだけ、私たちの思い込み、先入観というのは潜在意識の中に染み付いて、理性的には違うと判別していても、言葉や行動、あるいは感情にも影響を及ぼすわけですよね。

 それらが総じて、私たちの罪、すなわち「的外れ」、欠けた部分となっているように思います。

 今日はコロサイ人の手紙から、信仰者の歩むべき道、方向性を示しているところから選んでいるわけですが、たとえ、今現在において、できていない、不完全であっても、それでクリスチャン失格ということは、絶対にありません。

これはクリスチャン、ノンクリスチャン問わず、私たちは、たとえ1割の顕在意識で正しいことがわかったとしても、残りの九割の無意識、潜在意識の中で的をはずした、欠けた部分を持っている罪人だということです。

…というとね。気をつけないといけないのが、罪人だと攻められているように感じてしまう人もいらっしゃるかもしれないですが、そうではないんですよ。

 お互い罪人同士。
 弱さもあります、罪も犯します、間違うこと、失敗すること、悩むこと、それで人間関係、こじれること、うまくいかなくなること、傷つくこと、痛むこと、争うこともあります。

 でも、そのままでいいの…っていったら、そうではないんです。
 悩んだまま、傷ついたままでいいのか、そんなことはないわけですよね。
 歩むべき、目指すべき方向性というのがあるわけです。もちろん、それを導いてくれるのは神様、イエス様であり、聖霊であり、父なる神様であるわけです。

3:12 それゆえ、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。

 「神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として」と書かれていますが、ぜひ勘違いしないでください。
 深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容な人たちを神様が選ぶ・・・、そういった人たちだけが選ばれて、あとは神様に捨てられるわけではありません。
 聖なる…というと、ピュア、クリーン、きよく、正しく、美しいイメージがありますが、私たち自身がピュアでも、クリーンでもないんです。私たちは本質的に罪人なんです。
 本当に「聖」と呼べるお方は神様だけです。その「聖である神様のものとされた」というのが、「聖なるものとされた」という意味です。
私たちは、元々、本質的に罪人であるにもかかわらず、神様は、その罪人である私をも選び、イエス・キリストを十字架で苦しめ、痛めつけても、聖なるご自身のもの、神の子として迎え入れ、愛してくださっているわけですよね。

 そういった意味として、神に選ばれた者、聖なる、愛されている者として、あなたがたは深い同情心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。
 この「身に着けなさい」は、身につくまで「繰り返しなさい」という意味合いです。

 つまりですね・・・。裏を返せば、今、現時点においては、身についているとは限らないんです。
 同情できないときもある、慈愛、謙遜、柔和、寛容じゃない時もある、失敗しても、でも、繰り返して、身に着けていきなさい…なぜならば、神に選ばれ、神の子とされ、神に愛されているから。イエス・キリストの十字架の命をかけて。

ですから、13「互いに忍び合い」、実を結んでいくまでには、忍耐も必要なのかもしれないですよね。

3:13 互いに忍び合い、だれかがほかの人に不満を抱くことがあっても、

 さっきの柔和、寛容とは全く正反対なんですが、私たちは、それで不満を抱くような者なんですよね。それでいて、自分は正しいと思い込む。
 あー、まあ、あるような気もするじゃないですか。でも、互いに赦し合いなさい。

 赦す…というと、罪が野放しにされるような気になってしまうかもしれないんですが、あくまで、罪、失敗を自覚している場合においてです。
方向はわかっていても、でも、失敗してしまうことは誰にでもあるわけですよね。

 しかも、この赦しは、ただの赦しではありません。

 主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたもそうしなさい。

 イエス様も、ただ罪を赦したわけではないんですよね。ここにはね、イエス様の十字架がかかっているわけですよ。
そのイエス様の愛と赦しの心をもって、あなたがたも赦しなさい。そして14節、愛しなさい…と語られています。

3:14 そして、これらすべての上に、愛を着けなさい。愛は結びの帯として完全なものです。

 もちろん、この愛も、愛は愛でも、キリストの愛です。

 この箇所は、よくガラテヤ書の5章に出てくる「御霊の実」、とも比較されます。
御霊の実…木になる「実」の実ですね。

ガラテヤ人への手紙
5:22 御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はありません。

 総じていえば、「愛する」ということになります。
あくまで、御霊の実ですから、私たちの努力だけで結ばれていく実でもないんです。
御霊は、絶えずイエス様を指し示してくれています。
その聖霊の助けをいただきながら、イエス・キリストの愛を受けて、繰り返し、繰り返し、失敗しながらも、身に着けていくものなんですよね。
できないから駄目ではないんです。
むしろ、できないのに、キリストに赦されているからこそ、その愛を知るからこそ、私たちのうちに結ばれていく実、心です。

3:15 キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。そのためにこそあなたがたも召されて一体となったのです。また、感謝の心を持つ人になりなさい。

 さて、ここで「平和」という言葉が出てきましたが、本当に、十字架の痛みを負った、キリストの愛と赦しを知ったとき、ただ愛される、赦されるだけではなく、自らも痛みを負ったとしても、愛する、赦す方向に変えられていきます。
 このキリストの福音が、お互いの共通理解として保たれている教会であれば、皆さんもまさにキリストの平和、心も平安でいられるのかもしれません。

 ところが、一度、世に出れば、荒波に、もまれるわけですよね。
 決して、人々の心に愛や赦しが全くないわけではありません。
 でも、まあ、ぐちゃぐちゃぐちゃと、いろんな問題もあったりして、様々な争いごとや、闘争、だまし、だまされ、うらみ、憎しみ、欲の絡みあい、怒り、悲しみ、赦せない心、それで、罪人たる自分の本性も刺激されたりしちゃうわけですよね。

なので、キリストの平和が、あなたがたの心を支配するように、私たち自身が、自分自身の心を守る必要もあるわけです。

今、ちょうど日本も、集団的自衛権の容認ですとか、安保法案で、物議を醸している最中ですけれども、平和というのにも、二種類あると思うんですよね。

武力だけに限ったことではないんですが、力による平和と、力によらない平和です。

この世、この現実社会にあって、罪人が築く社会ですから、戦争がなくなることはないと思います。
国の利益を維持、拡大するために、力でねじ伏せようとする、武力を行使してしまうものがいる以上、自らも武力を手にしてしまう、使わざるを得なくなる。これも、かなしかな、確かな現実なのかもしれません。

ですが、武力による平和には、必ず、新たに痛みを負う者が生まれてしまいます。
その痛みがまた新たな武力、戦いを生んでしまったりもしているわけですよね。

そこで、一見、現実的ではない、理想過ぎる理想かもしれないけれども、武力によらない平和、これを目指すことは忘れてはならない、大切なことなんです。

「剣を取るものは、みな剣で滅びる。」(マタイ26:52)

キリストは、弟子たちに、剣を捨てさせて、
王、自らが痛みを負い、王、一人の命と引き換えに民を救う。
キリストの平和と勝利は、ここにあるわけですよね。

ニューヨークの国連広場の壁には、こんな言葉がきざまれているそうです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

 これは、旧約聖書のイザヤ書、またミカ書にも出てくる預言の言葉なんですが、実に、この後に、救い主、つまりイエス・キリストの誕生の預言が続くんです。

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

まるで、憲法9条のようじゃありません?
ちなみに、憲法9条はこうです。

「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

「彼らは、その剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。」

クリスチャン人口1%足らずの日本といえど、この点に関していえば、実に聖書的なんですよね。
もちろん、99%の日本人は、そんなふうには捕らえてはいないとは思いますよ。
でも、日本は敗戦を機に、奇しくも、まるでイザヤの預言のような、この憲法9条、平和憲法を得たんです。
本当に、奇しくも、敗れて、得たんです。

アメリカによって制定されたという批判はありますが、こういっては何ですけど、何の後ろ盾もなく、国家が自ら、武力、軍隊を捨てるのは容易なことではないですよ。
だったら、どうやって国民を守るんだという話にもなるわけですよね。
しかし、そんな憲法9条が制定されて以後、戦後70年間、これを維持、守ってきたのは、紛れもなく、戦争の痛みを知る日本国民に他なりません。それで今の日本もあるわけですよね。

クリスチャンが多い国も数多くある中、世界が理想としては掲げながらも、現実的には、武力による平和が当たり前、武力によらなければ平和は築けない、そう思い込んでしまっている中、日本は、武力によらない平和を目指してやってきた。
先進国の中で、今、これができているのは、日本だけなんですよ。すごいじゃないですか。

しかし、その日本も、次第に戦争を忘れ、痛みを忘れ、この価値が見えにくくなってきているのかもしれません。
一度、国内に目を向けたときに、「誰でもいいから、殺してみたかった。」そういう殺人事件もあるわけですよね。
人、一人の命の価値すら、薄らいできている・・・。それは他者はもちろん、その犯人、自分自身のことですら、命のありがたみ…というものが薄らいでいるように思うんです。

まして、国々が武力で物をいわせようとしている中、何の後ろ盾もなく、武力を持たないというのは、武力を持つ以上に勇気のいることかもしれません。

そこで、いま、日本国民は、武力による平和なのか、武力によらない平和なのか、その選択を迫られているわけですが、結果、どっちに転んだとしてもですよ。私たちがどこを目指すべきか…といえば・・・

3:15 「キリストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。」

キリストの平和、「力によらない平和」、もっと積極的に言えば、キリストの愛と赦しによる平和なんです。

もし私たちの宣教も、ただ神様との関係だけの平和であって、人と人、国と国との平和には、なんら関係がない、結びつかないものだとしたら、それは、ちょっと、むなしいものですよね。

3:16 キリストのことばを、あなたがたのうちに豊かに住まわせ、知恵を尽くして互いに教え、互いに戒め、詩と賛美と霊の歌とにより、感謝にあふれて心から神に向かって歌いなさい。

日本も、かつては戦争も引き起こしてきましたし、私たちも、世にあっては、本質的に、同じ罪人なんです。
だからこそ、キリストのことばを、私たち、自分自身のうちに豊かに住まわせていく必要もあるわけですよね。
キリストは、私たちを命がけで愛してくれている、これが十字架の言葉です。

 日本語の感謝の言葉、「ありがとう」というのは、よくできた言葉で、あるのが難しいと書いて、「ありがとう」なんですよね。
イエス様が命を捨てたのは、クリスチャンのためだけではなく、全世界、全人類のためですよ。
今は仏教徒だろうが、今はイスラム教徒だろうが、無宗教だろうが、今はイエス様にとって、私たち一人一人が、世界の一人一人が、「ありがたい」存在なんです。
 私自身、皆さん、自分自身も「ありがたい」存在として、今、生かされているんですよね。

3:17 あなたがたのすることは、ことばによると行ないによるとを問わず、すべて主イエスの名によってなし、主によって父なる神に感謝しなさい。

その主イエスの名によって…クリスチャンは、何をしますか?
「ありがたい」存在に、何をしますか?
ことばによると行ないによるとを問わず、すべてです。

そう思うとですね。。。まあ、自分自身、本当に罪人ですよ…。だと思いません?

 私たちもまた不完全なる罪人ですが、にもかかわらず、先に神に選ばれた者、キリストの愛を知らされた者、またキリストに赦された者として、いかなる時にも、赦す心、愛する心、平和を願う心、感謝する心を忘れない。
もちろん、失敗やできない時もあります。
でも、自分なりに、自分らしく、自分にできる方法をもって、キリストの愛や平和を広げていく、このような生き方を目指していきたいものですね。


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《三位一体と教会-5》「どうしても必要なこと」ルカ10:38〜42

2015.9.27 田園グレースチャペル

 みなさん。おはようございます。

 8月の暑さから一転、急激に涼しくなり、秋が猛ダッシュしてやってきたように感じてしまいますが、皆様、お変わりなく、お過ごしでしょうか。

 今日は「マルタとマリヤ」のエピソードを取りあけているんですが、この話というか、マルタさんの姿って、私たちにとって、すごく身近な話だと思うんですよね。

 うちも夫婦共働きなんで、私も家事をするんですが、でも、どちらかが家事をしている時に、どちらかが休んでいるということはありえないというか、まあまあまあ、夫婦喧嘩の火種みたいなもんですよね。

 昨日は、昨日で、メッセージの用意してるじゃないですか。
 その傍で、いろんなことを話かけてくるんですよね。。。
 「SMAPの中居くんって、結婚する気あるのかな…」
って、知らんがなって思うんですが、あれ、不思議ですよね。
きっと、多分、思ったことを口に出してるんだと思うんですが、決して、どちらが…というわけではなく、どちらもマルタであったりするものです。

 さて、そんな「マルタとマリヤ」の話なんですが、この箇所を読んだとき、皆さんはどのように受け止める、あるいは、どんな風に聞いているでしょうか。

 10:38 さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
 10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
 10:40 ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
 10:41 主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
マルタさんの何がよくなくて、マリアさんの何がよかったのでしょうか。。。
どう捉えていますか…?

 なんて質問を投げかけるということは、竹下がまた何かを覆そうとしているかのように聞こえるかもしれませんが、正しい、間違い、関係なく、皆さんが、どう読んでいるか…、まず、ちょっと意識してみてもらいたいんですね。

たいていは・・・、
「奉仕も大切。でも、マルタのように、心を乱しては駄目。
 それよりも、なによりも、マリアのように、まず御言葉を聞く、いや聞くだけではなく、御言葉に聞き入る…これが大切です。」
…なんてふうに、読んだり、聞いたりしているのではないかと思います。

どうでしょうか・・・。大体、こんな感じで、合ってますか?
いや、いいんですよ。大体は、これで合っていると思います。
結論として、イエス様が、「どうしても必要なこと」というのも、「まずは御言葉を聞く」それで、よろしいでしょうか。どうでしょう?

 よろしければ、今日の説教は、これにて、おしまいということになるわけなんですが…、そうはならないんですけどね。

 もし「御言葉に聞く」ことが大切と語られながら、ここで終わってしまえば、実に、御言葉を聞いたことにならないのではないかと思うんです。
 これは決して否定する意味ではなく、私たちは聖書を読んでいるつもりでも、実は、読めていないことがある…、それを、ちょっと意識してみてほしいんです。

 イエス様が、何が「どうしても必要なこと」だと語っているのか、ぜひ、そこに耳を傾けてみてほしいんですよね。

 時に、聖書に限らず、どんな文章であっても、その一文の意味というのは、必ず、前後の文脈、その背景によって、意味が規定されます。これが文章読解の基本です。
 報道や何かでも、インタビューで、1箇所だけが取り上げられて、そこだけが強調されてしまう時、本人が言わんとしていたこととは、違っていることもあるものですよね。
 聖書も、気をつけないと、一部だけを取り出して、読まれてしまいやすいんです。ですので、聖書も前後の文脈から、極端な話、聖書全体から考える必要があります。

 そこで、その前を見てみますと、有名な「良きサマリア人」のたとえ話がでているかと思いますが、実は、ごめんなさい。
 今日は、まず、私たちが聖書をいかに読み違えるかを理解してもらうために、あえて聖書朗読では、このたとえ話の部分は、はずしていたんです。
 実に、先ほどの答えも、このたとえ話に書かれていることなんです。

 このサマリア人のたとえや、この10章、その前も後も、イエス様が、まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が書かれています。
 ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムのすぐ東側、オリーブ山を越せば、エルサレムというところにあります。
違う場所なんですね。
おそらく、もっと後での出来事、本来ならば、19章あたりで出てくる話なのです。

 つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを挿入したんです。

 良きサマリア人のたとえでは、ある意味、理想的な愛の形が説かれているかと思います。
ところが、あまりにも理想的過ぎて、実際問題、自分自身はどうかといったら、現実とは程遠い、雲の上のような話で終わってしまいやすいように思います。

 しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、きわめて現実味のある出来事です。
 つまり、サマリア人のたとえ話で語られた理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示すのに、このマルタとマリアの話が、ぴったりだったわけです。

 そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

 私たちが、もし同じ質問を誰かにされたら、普通、どう答えるでしょうか。
「ただイエス・キリストを信じれば、救われる」そう答えると思います。

 しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があります。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
「こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…」、即その場で捕まえて、石打ちにでもされかねない、そういう話です。

 でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、

10:26 「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」

と、うまく切り返しているわけです。

 彼は律法の専門家ですので、その答えは知っているわけですよね。仕方なく、答えます。

 10:27 「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」

 これが最も大切な戒め、これが律法であり預言者、イエス様自身もそう語った、まさしく大正解なのです。

10:28 「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」

 イエス様もちょっと冷たいですよね。「わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
 ところが、実は、たとえ正しい答えは知っていたとしても、それが実行できないのが、私たち人間、罪人の現実なんだと思います。
それが律法の限界でもあったわけです。

 でも、ここで、イエス様は二つの質問をしているんです。
一つは、律法には、何と書いてあるか。客観的に、聖書にどう書いてあるか…です。

 しかし、もう一つ、「あなたはどう読んでいますか。」
主観的に、あなた自身の現実問題として、どう理解していますか。どう受け止めていますか。その問いかけでもあったんです。
 もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は全く変わっていたと思います。

 みなさん。聖書を読むとき、ある意味、自分の正しさを現すために、聖書を読んでも、あまり意味がないんですよ。
 むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。
「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味があるんですよね。

 ですが、彼は、正しい答えも知っていましたし、本人的には、実行しているつもりでした。しかし、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気づかず、自分は正しいと主張してしまう…そこに盲点があるのです。

10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」

 私は、家族も、友人も愛している、ついでに向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。さあ来い。私の隣人とは誰だ…。自分は正しいと思っていますから、自信満々です。

 そうしたやり取りがあって、イエス様が語ったのが、良きサマリア人へのたとえです。

 エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。次に通りかかったレビ人も、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。

 ユダヤの律法では、もし血に触れたら、身を清める期間をおかなくてはなりません。その間、仕事ができなくなる。彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。

「誰が、私の隣人なのか…」

 彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。

 その後に通りかかったのが、サマリア人です。

 サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血で、外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった人たちです。そんな彼らをユダヤ人たちは、何百年もの間、妥協の産物、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別、侮蔑していたんです。

 もちろん、サマリア人自身も、そんなユダヤ人たちが大嫌いでしたから、そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、ありえないような徹底した介護ぶりです。
 そんなこと、絶対に、ありえない。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、この人の隣人になったのか」。

10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」

 彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。「その人にあわれみをかけてやった人です。」、そう答えているわけです。

 ですから、これは、単に、隣人を愛しましょうとか、傷ついた人を助けましょうとか、そういうレベルの話ではないのです。
 何世代もの怒り、憎しみ、恨みを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。

やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
私たちには、なかなかどうして、できない。
「誰が、その人の隣人となったのか…」なり得たのか。
このサマリア人の姿は、まさに、イエス様の姿なんですよね。

罪人を赦すがゆえに、その責めを身代わりに負って、十字架を背負う愛。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに、これから十字架によって示されようとしている愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。
その宣言でもあるわけです。

 10:37 ・・・するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」

 果たして、できるでしょうか。私たちには、正直、難しいことですよね。

 自分の嫌いな相手。自分のことを悪く言ってくる人。その人を自分自身のように理解して、愛せるのか。その人の隣人になれるのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。
 にもかかわらず、私たちも、この律法の専門家のように、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。
 それも身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。それが、私たちの現実、日常。それがマルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているわけです。

 さて、このマルタとマリヤの話。
 もし、単純に、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
 御言葉を読んでいない人は駄目。マリヤのように「まず御言葉に耳を傾けましょう」と読んでしまうとしたならば、実は、聖書を読んでいるようで、読めていない、この律法の専門家と同じになってしまうと思います。

 実に、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたはずなんですよね。
 イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、自ら、もてなしの準備をはじめたはずだったんです。それは、マルタの愛からきたこと、実際、誰かが食事の用意をする必要もあったんです。

 ところが、まあ、イエス様だけならともかく、ペテロに、ヤコブに、ヨハネだの、その他大勢、ナタナエルだか、ガマガエルだか、名前も、よう覚えていないような弟子たちまで一緒にいたわけでしょ。あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう大忙しで、大変だったわけですよ。
そんな時、ふと目をやれば、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかり聴いている…。
 マルタはマルタで、自分も、イエス様の話を聞きたかったのかもしれません。

 なんだか自分ばっかりが苦労して、マリヤはずるい。まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。空気読んでよ…みたいな?わかるじゃないですか。
 挙句の果てには、その矛先がイエス様に、向いちゃったわけです。

10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」キィーッ!!! みたいな?

「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にはならない高周波ノイズも、絶対、乗っかっていますよね。

 マルタの失敗は、ついつい、マリヤを気にしてしまった、自分とマリヤを比べてしまったところにあるように思います。
 はじめは、自らの愛する思いで、はじめたこと。マリヤは全く関係なかったんです。
 本当に手助けが必要なら、普通に、ちょっと手伝ってくれる?とお願いすることもできたはずですし、もしマリヤが別の用事で出かけていたら、全く腹も立たなかったことでしょう。
 ところが、マリヤのことが気になり、イエス様がどう思っているのか気になり、自分がなおざりされている気がして、愛ではなく、嫉妬や怒りに変わってしまったわけですよね。

10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」

 あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。最初はマルタの愛だったんです。
 マリヤも、気が利かないといえば気が利かない、不十分といえば、確かに不十分。しかし、マルタが正しくて、完璧だったわけでもないんですよね。
 マリヤはマリヤで、今この時、イエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
マルタは、自分とマリアを比べる必要もなければ、ましてマリヤを否定、非難する必要もなかったんです。

ですが、反対に、もしマリヤが「先生。マルタに、もてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」なんて言ったとするならば、どうだったんでしょうか。イエス様はマリヤに同じように言ったはずです。

「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」

どうしても必要なこと、イエス様の願いは、ただ一つ。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

これが律法であり、預言者、聖書全体。これがイエス様の願い、生き様、心。まさに、THE御言葉です。
私たちが「愛する」という事、その心、その1点に集約されています。

 ですが、愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけのことをしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。

 私たちができること、今していることは、良きサマリア人のたとえ話でわかるように、イエス様の愛と比べたら、まだまだ、ずっと下ですし、その時、その時で、今の自分にできる範囲、そのレベルのことでしかないはずなんですよね。
 ですが、その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。
イエス様は、その不十分、不完全なものを喜んで、受け取ってくださるんですよね。

 ここが一番大切なのですが、そんな自分自身の不十分、不完全さを認めることができる時、その自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさも見えてくるのではないでしょうか。

 誰が、この私、自分自身の隣人となったのか…

 あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、イエス・キリストは、この私の良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけです。

 どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
 私たちにできることなんて、限りがあって当然。あれも、これもとはいきません。
 しかし、この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、自分なりに、自分らしく、一つ、また一つと、神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。
 この3つの愛に生きる。

 もちろん失敗は、多々あると思います。しかし、このキリストの愛に育まれながら、一つ一つ、自分を愛し、隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。


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《三位一体と教会-6》「キリストの体なる教会」Tコリント12:12〜27

2015.10.25 保守バプテスト 田園グレースチャペル

 みなさん、おはようございます。

 すっかり秋らしい秋になりましたが、皆さん、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか。
 私は先週、ちょっと気管支を痛めてしまったようでして、もしかしたら、お話の途中にも少し咳が出てしまうかもしれません。ご容赦ください。
 だいたい、この季節になると、乾燥してくるせいか、いつも大なり小なり、痛めてしまうんですが、先々週くらいから、少し疲れもたまっていたようでして、市川の教会での大きなイベントがありまして、その取り纏めと、奉仕とで、少しおかしかったんですよね。
とにもかくにも、それが一段落したところで、気が抜けたのか、一気に疲れも出てしまったようです。 
 空気も大分、乾燥してきているんではないかと思いますので、皆さんも、気をつけていただければと思います。

 さてさて今年は、まず三位一体の神様、父・子・聖霊という存在が一丸となって、私たちを取り囲むように、抱くように、守り、導いてくださっていることをお話ししてきました。
 子なるイエス・キリストは、父の愛を指し示し、父なる神は私たちに聖霊を送り、その聖霊は絶えずイエス・キリストを指し示す。
 私たちはイエス・キリストによって、父なる神様の元、神の子どもとされ、子ども同士は、神の家族、それを証してくれているのが聖霊です。

 しかし、一方で、私たち人間というのは、とかく不完全、足りないところだらけでありまして、決して完璧ではありえません。
 前回のマルタとマリヤの話のように、本当の家族、姉妹であっても、片方で、マルタさんのように、忙しさのあまり愛することを見失ってしまうこともありますし、一方、マリヤさんも御言葉には熱心、夢中になっていたかもしれませんが、その御言葉の中心の「愛する」ということで考えれば、実は気が利かない、どこか抜けていることもあります。
 しかしイエス様は、どちらがいいか悪いか、正しいか間違っているか…、比較したり、非難したりするのではなく、マリヤはマリヤ、マルタはマルタで、それぞれのいいところを、いいところとして受け止めてくださっていたわけです。

 私たちは、そのイエス様のところに集まってきた、そんな不完全な人の集まり、その集合体が、この「教会」という集まりということにもなります。

 そこで、今日は、「キリストの体なる教会」という有名な箇所を取り上げさせていただきましたが、だいぶ前、私も、ここから取り上げさせていただいたことがあったかと思うんです。
 ですが、もう、すっかり、そんなことは忘れているだろうと思いまして、選んでいるわけですが、いいんですよ。説教なんて、そんなもんなんです。
 ですが、ここで「からだ」といわれているとおり、この体には感覚がありますよね。
 手があり、足がある。
 頭というより、その体の感覚で、ぜひ身に着けておいていただければと思うんです。

 まず、そもそもパウロが、なぜ教会を「キリストのからだ」として捉えたのかといえば、そこには主に2つの理由があるといえます。どちらも体験的、この体の感覚的なんです。

 一つは、パウロがまだサウロという名前だったころ、いわゆるダマスコ途上での出来事。
キリスト教に反対し、ダマスコにある教会を迫害しに行く途中、突然、強烈な光に照らされて、ある声を聞くわけですよね。
「サウロ、サウロ、なぜ、わたしを迫害するのか。」
「主よ、あなたは、どなたですか。」
「わたしは、あなたが迫害するイエスである。」
この体験を通して、パウロは回心するわけですけれども、その時に、感覚的に、教会はキリストご自身であるという理解、感覚ができたと考えられます。

 もう一つは、聖餐式の聖餐です。
 実は、この前の11章では、その聖餐が取り上げられているんですよね。聖餐式の式文は、ここから引用されていたりもするんですが、私たちが普段行う聖餐式になりますと、すでに小さなサイコロサイズに切り分けられたパンが用意されているわけですが、本来は、1つのパンであったわけです。

「主イエスは渡される夜、パンを取り、感謝をささげてのち、これを裂き…」

つまりイエス様は、一つのパンを取って、裂いたんです。自ら、裂いたんです。
そして、こう言われた。「これは、わたしの体です。」

 もちろん、これは十字架を指し示しているわけですが、実に、聖餐というのは、もともと一つのパン、つまりイエス様が「からだ」としてのパンを自ら裂いて、その裂かれたパン、つまりイエス・キリストの体の部分が、私たち一人一人に分け与えられるといるんですよね。

 そして、この二つに共通しているのは何かといえば、イエス・キリストの「痛み」であるわけですよね。
 私たちも、この体を打たれれば痛みますよね。

 それと同じように、教会の痛みは、キリストにとっての体の痛み。パウロは、ダマスコ途上の出来事と、聖餐すなわち十字架を通して、その痛みを認識したわけです。
 そこから生まれているのが、「教会は、キリストの体である」という理解なんです。

 ですから、私たちが、このキリストの体なる教会ということを理解するということは、単に頭の理解ではなく、キリストの「痛み」を私たちの「痛み」として共有する、神経を繋ぐということでもあるわけです。

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。
12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

 とかく教会で「キリスト・イエスにあって、一つ」ですとか、「御霊の一致」という時に、よもすると、ある一つの同じ考え、同じ意見、同じやり方、同じ働き…、みなが「おなじ」になるという意味合いで受け止められてしまうこともあるのかもしれません。
 でも、「違う」んです。
 何が「違う」かって、私たち一人一人は、そもそも与えられた能力、個性、やり方、得意不得意、みな違うはずなんですよね。

 確かに御霊は一つ、バプテスマも一つ、おなじです。
 ですが、私たち一人一人が「同じ」になるということが言われているわけではありません。
もし、お互いに「違う」ものを、「同じ」にしようとすれば、それは、どこかで無理が出てきて当然なこと。
 ですが、からだが一つでも、多くの部分がある。もし、能力も、個性も、働きも、「違う」ということを、お互いにですよ、お互いに理解できれば、逆に一つにもなりうるんです。

 実に、これは家庭でも、会社でも、ある程度、同じことが言えるのかもしれませんね。
 夫婦だって、もとは生まれも育てられ方も違う。うちら夫婦もそうですよ。
 私も、結婚して最初のころは、歯磨き粉のキャップの閉め方から文句をいわれましたもん。もちろん、喧嘩も多かったです。
 ですが、お互いに違いを理解しながら、一つの家庭を築いていくというところで、一つになりうるわけです。
 教会の場合には、「一つの御霊」、御霊は絶えず、イエス・キリストを指し示すわけですから、言い換えれば、イエス・キリストのスピリットによって、一つになるというわけです。

12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

 パウロは、まず、私たち自身が持つ、この体になぞらえて、説明していくわけですが、まあ、当たり前といえば、当たり前のような話、自分のこの足がですよ。
「俺は足だぜ。手とは違う。どこにでも自由に歩いていけるんだ。」…って、どっかに勝手に歩いていたら、困るというか、そんなことはないわけです。

 教会の中にも、中には、石橋をたたいて渡る、慎重かつ几帳面な人もいれば、まず渡ってから考える、大胆かつ積極的な人もいるかもしれません。
 何かと新しいアイデアが浮かぶ人もいれば、より堅実、確実な方法を好む人もいます。
 そのために、時に、意見が分かれる…ということもありうる、それ自体はあっていいと思うんです。
 もし、同じ一つの体の中に、それぞれの器官があるように、私たち一人一人は「同じ」ではなく、手と足のような違いはあるということを理解できれば、当然なことですよね。

 私たちが前に歩こうとする時、両手両足が同時に前に進もうとしても、前に進めないんですよね。右手が前のときは、左手は後ろ、左足が前に出て、右足は後ろです。それでバランスを取りながら、前に進めるんですよね。

12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

 どちらが正しいわけではなく、どちらにも長所短所があったり、欠けた部分も、間違うこともありうるわけです。
 だすが、実は、どちらも、神の御心。
 イエス・キリストのスピリットに従って考えていることであれば、考え方や方法に違いはあっても、その心、目的には、いいも悪いもないわけですよね。
 むしろ、どちらの見方、考え方も必要で、かえって自分とは違う反対意見こそ大切、耳を傾けることができれば、その両方の見方、意見を調整していくことで、実は、全体としての、バランスが取れていたりもするわけです。

12:19 もし、全部がただ一つの器官であったら、からだはいったいどこにあるのでしょう。
12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。

 田園グレースの場合には、口から生まれてきたんじゃなかろうか…言う人が多いよう気もしますが、もちろん、おしゃべりじゃなければ、教会に属せないということにはなりません。

 ですが、私、思うんですが、比較的、多くの教会で、言った見れば「口」の働き、すなわち「伝道」の働きが重んじられることって多いように思うんですよね・・・。確かに伝道の働き、大事なんです。
 でも、うまく伝道ができないために、劣等感を抱くクリスチャンが少なくないように思うんです。ですが、ウルトラ異教国の日本にあって伝道が難しいのは、ある意味、当然なこと。決して、伝道が、全てではないんです。

「信仰は聞くことから始まる」…って言葉がありますが、聞く耳を持つって、本当に大切ですよね。聖書は、この手でめくり、この目で見て読むんですよね。
そんな聞く「耳」を持ち、さまざまな物事に見る「目」を持つ、これも必要、すごいことではないですか。
仕事をしたり、料理をするこの「手」、この「手」の働きも大切です。
「よい知らせを告げる足は、なんと立派なことか」なんて言葉もありますが、直接、口で語るばかりがすべてではありません。

 人と人、その出会い、人間関係の中から伝わるものもあるんですよね。
 クリスチャンになった証を聞くと、かつて教会学校に通っていたとか、職場の先輩がクリスチャンだったとか、決していきなり信じたわけではなく、いろんなクリスチャンとの出会いもあって、最終的に信じていることが多いんだと思うんです。
 福音を直接語っていなくても、その出会いが、実は知らないところで、ある人にとっての「救い」へと繋がっているとしたら、決して馬鹿にはできないんです。
 すると、口にはなれないけれども、足にはなれてるのかもしれないですよね。

12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

 もちろん、面と向かって「必要としない」なんて言う人もいないと思うんですが、時として、私たちは、自分自身に対して、同じ感覚に陥ってしまうことはあるのかもしれません。
 なぜ、あの人は、あんなふうにできるんだろう…、私には、こんなことも出来ない…といって、人と比べては自分で自分のことを否定してしまうことはあるように思います。
 ある時には、自分とは違う人に対して、思わず不平不満か、愚痴となってこぼれてしまうこともあるのかもしれませんね。

 でも、冷静になれば、自分の目が見てることが全てではないんですよね。
 自分と人とは違って当然。役割、働き、できること、できないこと、みな違うんですよね。
 私たちは、自分と他の人が「違う」ということを、本当に認識する必要があるんだと思います。自分と同じ人間はいないんです。

 いや、以前、実際に、うちの会社にいたんですよね。
 その人は、もともと独立して一人でやっていたんですが、その「一人」ということに耐えられなくなって、うちの会社に入ってきたんです。ですが、しばらくすると、あれが悪い、これが悪い、会社や周りの非難や悪口を言いはじめたんです。
 はじめは新人の女の子なんか、言われてみれば確かにそうだなんて同調しちゃったみたいなんですね。
 でも、あまりに非難、悪口ばかり言うものだから、お断り入れたらもう大変。今度は、その子自身に、裏切られただの、信用できない、態度が悪い、一緒に仕事は無理…、攻撃の矢が向いてしまったんです。
 確かにできる営業マンではあったんですが、決して、会社は営業だけで成り立つわけではないんですよね。経理や総務、事務的な仕事もあります。
 彼にしてみれば、自分が他より優れていると認められたい一心だったようなんですが、ところが、その周りを非難する言葉で、どんどん人が離れていってしまったわけです。

 これは、極めて極端な例だと思うんですが、でも、もし自分が「目」だとしたら、自分とは違う「手」が同じ働きができなかったとしても、それは否定、非難に値するんだろうか…。
 そうではないですよね。
 否定や非難したところで、何が変わりますか。手が目になれるわけではないんですよね。
 目には目の役割があり、手には手の、目にはできない特技があるんです。
 どんなに目が、手を非難したとしても、では、自分自身が、自分自身の手を切り落とすのか…って、そんなことはしないわけですよね。

 なぜでしょう・・・。
 「痛む」からです。その痛みは、キリストのからだとしての痛みであるわけですよね。
 その「痛み」を共有していくのが、神の家族であり、教会なんです。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。

 実際に、パウロが、どの器官を弱いと思っていたかは分からないわけですが、パウロ自身は、目に病を抱えていたようです。
 でも、それまで当たり前だと思っていた視力が落ち、その目に弱さを抱えたとき、はじめて、目の存在の大きさ、尊さが見えたのかもしれませんね。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。

 このからだというのは、実に、理想的なようで、理想的ではなかったりするんです。
 疲れるときもあります。病気にもなります。腰が痛くなったり、肩が痛くなったり、思うように動くようで、実は、思ったように動かなかったりすることも多々あるわけです。

 私も、姿勢が悪いじゃないですか。
 忙しくなって、仕事をつめすぎると、肩が痛くなって、首が回らなくなるんですよね。
 それで、たまに整骨院に行くんですが、実際に悪いのは、どこかというと、この胃の裏辺り。ここが硬くなってくると、胃腸の調子も悪くなって、肩、首、腰とくるんです。不思議ですよね。体は全て、繋がっているんです。
 イエス様も、私たちと一緒の、この限界がある、この肉体、この体を有してくださったわけですよね。

 ですから、この「キリストの体なる教会」ということを考えるときに、「キリストの」は付いていても、私たち人間の集まりである「体なる教会」というものは、決して完璧ではありえないし、ある意味、理屈や理想どおりには行かないこともありうるわけですよね。

考えても見てくださいな・・・。ここに、どれだけ完璧な人がいますか。誰もいないんです。
私たちは、まず、それを素直に認めることなんです。

 実に、弱さも抱えています。欠点もあります。ですから問題が起きることもあれば、どんなにがんばっても、どこかで限界はきます。
ですが、その現実の中で、確かに生きていて、存在しているのが、私たちでもあり、教会なんですよね。

もし、教会の弱さや欠点、あるいは痛みを感じたならば、それは否定したり、非難すべきところではなく、労わるべきところ、自分自身が補うべきところであるわけです。

12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

そこで大切なのが、「キリストの…」ということになるわけです。

ひとりひとり、個性が違います。生まれてきた環境、性格、能力、役割もみな違います。
自分と同じ人はいないし、完璧な人もいません。言ってみれば、みな不完全な罪人です。
でも、一人一人、キリストによって赦され、キリストに愛され、集められた各器官。
もし、私たちの誰か一人でも痛むとき、イエス様も痛みます。
みな違う。だから、みな大切。この中で、いらない人は、ひとりもいません。

一人で一人前ではないんですね。
一つの教会でも一人前にはならないのかもしれない。
時や場所を超え、全世界に広がるキリスト教会、
みなが集って、ようやく一人前、それがキリストの体なる教会です。

最後に、
12:31 …また私は、さらにまさる道を示してあげましょう。

さらに、まさる道といわれています。「さらにまさる道」って何でしょう。
それがこの後に続く、愛の賛歌、やっぱり、愛するということなんですよね。

しつこいようですが、聖書の中心も「愛する」ということ。しかも、ただの愛ではないんですよね。

13:7 (愛は、)すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます。

ああ、私たちも、そこまでには、まだまだ程遠いような気がしますよね。
だから、道なんですよ。

それが、イエス・キリストの歩まれた道であり、私たちが歩くべき道なんですよね。
そこに、キリストの体なる教会の成長もあるのではないでしょうか。

互いに労わり合い、助け合いながら、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛を目指して、歩んでいきましょう。

 12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
 12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。


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2015年04月26日

創造主なる神を知る イザヤ45:1〜8

2015年04月26日 聖望キリスト教会

 4月も最後の週になりまして、本当に暖かくて、春らしい季節になりましたね。
桜は散りましたが、これから新緑が芽生えて、やがて梅雨、夏へと向かっていくのかと思います。
 別に、私が思わなくても、自然とそうなるんですけどね。

今日の招きの言葉は、伝道者の書12:1を選ばせていただきました。

伝道者の書12:1 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。…」

 教会学校では暗証聖句の定番みたいな聖句の1つで、私も小さな頃から嫌というほど聞いてきた言葉なんですが、ここでの「覚える」とは、単に頭の記憶として「覚える」、暗記するという意味ではありません。

 それこそユダヤ人たちは代々、創造主なる神様のことは聞いてきましたし、信じてもいたわけですよね。改めて、覚えるも何もないわけです。
ですが、自分という存在を愛し、生かし、育んでくださっている創造主の存在をもっと深く知る、もっと深く感じ取る、これがこの「覚える」の意味するところです。

「…わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」

 聖書って正直だと思うんですが、決して、災いがないとは決していわないんです。
 これは被災地に行かせていただいて実感するんですが、本当に大きな「わざわい」がある前に、神様を信じているのと、そうでないのとでは、違うんですよね。
クリスチャンですら、神様なんで!と思ってしまう、これが正直なところだとは思うんです。でも、それでも、自ら被災しながらも、人を助けようとする…これが被災地のクリスチャンの姿でした。
 でも、そうでない人はどうかというと、本当にショックを受けて、心にも多くの傷を負ってしまうんですよね。それは、本当に今もなおなんです。

 私自身、4年前に起きた震災、また、それに続く福島の原発事故という大きな「わざわい」を通して、この自然界というもの、その恵み、また、それらを創られた創造主の父なる神様の存在を深く思う、感じるようになったように思うんです。

 もちろん、これまでも、この天地を神様が創られたとは信じてはいましたよ。
ですが、どちらかといえば、花より団子の世界です。
道端に花が咲いていてもスルーでしたし、雨が降れば、嫌だなと思いますし、夏、暑ければ、不満を言っていたようにも思うんです。
 ですが、実に、信仰あるなし関係なく、現実に、私たち人間は間違いなく、この自然環境があって、生かされているんですよね。
にもかかわらず、じゃあ、この与えられている自然環境に、どれだけ感謝していたんだろうというと、それまで、私自身、さほどでもなかったように思うんです。

 そこで、今日は、このイザヤの預言に導かれましたので、この箇所からみていきたいと思うのですが、この箇所を正しく理解するために、ちょっと簡単に、歴史背景から見ておきたいと思います。

 この預言者イザヤが活動していた当時には、南北に分かれたイスラエルは共に衰退、まず先に北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、やがて南のユダ王国も、次に台頭してきた新バビロニア帝国に侵略され、多くの労働者や技術者、またダニエルのような将来有望な人材が、バビロニアへと強制連行されていく、いわゆるバビロン捕囚が起きます。

 その原因は、王をはじめとする民たちの偶像礼拝だったわけですが、エレミヤ書、エゼキエル書を見ますと、民たちは、仕事が終われば、すぐにでも、またイスラエルの地に帰れるくらいに、楽観視していたようです。
 ところが、やがてエルサレムが陥落、神殿も崩壊、その希望は砕かれ、長い年月、バビロニアに拘束されたわけです。

 40章以降は、そのバビロン捕囚に囚われたイスラエルの民が、いかにして、再びイスラエルの地に戻り、国の再興、すなわち平和な暮らしを取り戻せるのか、そういった意味での「救い」について書かれている、これが第一義的な預言です。
 ですが、聖書の預言というのは、さらに後に起きることも重ねて預言されていまして、700年後に誕生する本当の救い主、イエス様についても預言されているわけですね。
 それゆえ、イザヤ書は旧約聖書の福音書とも言われています。
イザヤ書45:1〜8

 45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
 45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
 45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
 45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
 45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
 45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 45:8 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 1節に出てくる「油そそがれた者」というのは、まさにメシア、救い主の代名詞的な言葉で、ギリシャ語の「キリスト」も油をそそがれた者という意味を含んでいるんですね。

…と、ここまでは、ここまでなら、今日の聖書箇所も、すばらいしい救いを知らせている福音的な預言のように思えるかもしれません。

 ですが、このクロスという人物は、のちに起きるペルシアの王様だったんです。
 本来、「油そそがれた者」「メシア」といえば、まずはイスラエルの英雄、ダビデ王のことであり、救い主も、当然、ダビデの子孫から起こされるはずのもの、ですから、イエス様もダビデの子孫です。

 しかし、ここでは、その「油そそがれた者」という肩書きが、なんと異国の王様に、しかも名指しで与えられているわけです。
もちろん、このクロス王は、聖書の神様を信じていないどころか、まったく違う別の宗教を信じていた人物なんですよね。

神様は、そのペルシア王クロス王に

45:1…「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
といいます。つまり向かうところ敵なし。事実、ペルシアがバビロニアを攻略する時は、バビロニアは、そのまま城門を開ける、ほぼ完全降伏状態だったようです。

45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなた(…クロス王のことですが)、あなたをあなたの名で呼ぶ。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。

 ペルシア王クロスは、この預言を知ってか知らずか、バビロニアがエルサレムの神殿から持ち出した神殿の器具、用具、宝を、イスラエルの民に全部持たせて、エルサレムに帰還させ、それでエルサレムの神殿は再建されていきます。

 ですが、さあ、これがイスラエルの民の立場からしたら、どうでしょう。
もちろん、この預言が成就して、イスラエルの地に帰れるのは、希望であり、喜びです。

 しかし、なぜ、よりによって、異国の王によって救いがもたらせるのか、どこか腑に落ちない、どこか情けない、そんな気分にもなるかもしれません。

 まあ、自分たちは偶像礼拝に走ってもいたわけですから、言えた義理ではないんですが、続く9節以下を見ますと…

45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

…と、こうした疑問や反発心も、実際、あったんだろうと思います。

しかし、そのペルシアの王を油注がれた者、メシア、救い主として立て、イスラエルの民をバビロニアから救い出す、これを創造したのも「わたし」、創造主のわたしだ…というわけです。

45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。

 イスラエルの民は、昔から、創造主のことを知ってはいました。偶像礼拝に走っていたとはいえ、一応、信じてもいたはずです。
 ですが、どこかで自分たちは創造主なる神様を知っている、自分たちこそ選ばれた民だという誇り、思い上がり、実は、神様ではなく、自分たち自身のことを過信、楽観していたところもあったかと思うんです。
 ところが、バビロン捕囚が起き、エルサレムの神殿が崩壊し、こうした「わざわい」の中から、異教国の王によって救われる、そのことによって自分たちのうちにあった優越感、高ぶりは見事に砕かれていったわけです。謙虚にさせられたわけですね。

 「わたしが、これを創造した」。
 このことを通して、創造主なる神を知りなさい…というのが、この箇所のまず第一のメッセージです。

 私たちは、どうでしょうか…。こうした信仰者としての高ぶり、誇りはないでしょうか?
 どこかで、あるようにも思うんです。
 教会の敷居が高い…といわれてしまう所以も、こうしたところにあるのかもしれません。

 これは日本の教会ということではないですが、キリスト教会全体の歴史を見たときに、十字軍やユダヤ人迫害に代表されるような他宗教に対する過剰な攻撃、決して他宗教でも構わないということではありませんよ。
 でも、「人」に対する尊重、最低限の礼儀や敬意を失うこともあるように思うんです。

 こと私たち日本のクリスチャンは、圧倒的多くのクリスチャンではない人たち、多くの未信者、他宗教の人たちにも、助けられながら生きているわけですよね?
 「わたしが、これを創造した。」
 決して偶像礼拝を肯定するわけではないですが、たとえ偶像礼拝をしている人たちであったとしても、また神様が創った人であることに変わりはありません。たとえ、まだ神様のことを信じていなくても、その人にも優れた面、その人から学ぶこともありますよね。
 そうした人に対する礼儀や感謝を忘れずにいたいものです。

45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 クロスの信じていたペルシアの宗教では、善か悪か、善の神と悪の神が対立して世界を作り上げていると考える、善悪二元論でした。
 よいことは全て神様の業で、悪いことはすべて悪魔のしわざ…みたいな?
 もちろん、神様が二人存在しているわけではありませんので、そこに釘を指すための言葉とも捉えられていますが、「わざわい」もまた、神様が造ったというんです。

 なんで、神様「わざわい」まで創るんだろうと思うわけですが、私たちが「わざわい」や試練から、学ぶこと、そこであえて神様が気づいて欲しいこともあるんですよね。それはもちろん、神の御手の中にあってのことです。

 みなさん、「神様の奇跡」と言うときに、何を思い浮かべるでしょうか?

 病気が癒されること。問題や悩みが解決されること。必要が満たされること…。

 もちろん、そういったこともあるとは思います。
 でも、これも気をつけないと、無病息災、家内安全、商売繁盛…、お札かお守りに書いてありそうな、ご利益宗教とおんなじになってもしまうかもしれないんです。

 ですが、今日も太陽が昇り、時に雨も降りながら、大地が潤い、四季折々の草花が息吹き、あらゆる動植物たちが住み、この自然界の中で、私たち人間も生かされている。
「わたしがこれを創造した。」
 これが、まず何よりも、一番、まず最大の奇跡で、感謝すべきことではないでしょうか。

45:8
「天よ。上から、したたらせよ。
 雲よ。正義を降らせよ。
 地よ。開いて救いを実らせよ。
 正義も共に芽ばえさせよ。
 わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 天地創造という時、聖書と科学、…というよりは、クリスチャンと科学と言ったほうがいいかもしれないですが、どこか無用な喧嘩もしてきたようにも思うんです。
 これが私には、残念だな…って思うんですよね。そのために逆説的ですが、聖書が語る天地創造、創世記1章の記述が、現実離れしたような、ひとつの「神話」かのような印象を与えてしまっているように思うんです。

 確かに聖書では、神が7日で創った、7日目は安息、お休みですから、実質6日で創ったということになるわけですが、ところが科学では、地球誕生46億年だとか、宇宙誕生138億年だとか、桁外れな数字が出てくるわけですよね。
 これだけを取り上げてしまうと、まったく違うことが書かれているように思ってしまうかもしれません。ある人にとっては、6日で創ったなんて信じられないことでしょうし、クリスチャンにしてみれば、聖書を否定しているように聞こえてしまうかもしれません。

 ですが、科学の計算というのは、あくまで創造主、神という存在や力を計算に入れなかった場合での計算なんです。
それだけでも、けしからん…なんて思う方もいるかもしれないですが、でも、もし神様の力を抜きで計算したら、確かに、この地球の自然環境が形成されるには、46億年くらいかかるような代物、神様は6日で作られたとしても、46億年に匹敵するような価値あるものなんですよね。
 これは聖書を否定しているわけでも、なんでもないんです。
 むしろ、科学は、この創造の「6日」の価値の大きさ、偉大さ、また、いろんな多くの不思議さを教えてくれているわけです。
 もちろん、こうした科学のすべてが、正しいというわけではないですし、多くの科学者が、聖書の神様、創造主を知らないし、知っていても信じていないかもしれませんが、決して、まったくの出鱈目を言っているわけではなく、神様が創られた被造物を熱心に調べているわけです。

 創世記で描かれているのは、きわめて概略、大雑把ではあるんですが、よく見れば、ちゃんと1日、1日、一つ、一つ、物理的な段階を踏んで、この地球を創っていることがわかります。その順番も、決して、あながち科学の見解と矛盾しているわけでもないんです。
 そして、私たち人間は、決して1日目でもない、2日目でもない、6日目の自然環境の中で創られ、生かされているわけです。

 この地球が、こうした生物が生息できる環境にあるというのも不思議ですよね。
 地球がほんとのちょっと太陽よりに位置したら、灼熱地獄、水は蒸発して、気体になってしまい、雨にはならないんです。当然、生物は生息できません。
 また逆に、ほんのちょっと離れていても、全面凍りついて、やっぱり私たちは生きてはいけない。
この水が気体、液体、固体…ちょうどいい位置にいるから、私たち人間も、動植物たちも生息できます。

それ以外にも多くのことを、科学は教えてくれているわけですが、
大切なのは、「わたしが、これを創造した」
それは、まさに、今、私たちが住んでいる、この自然界です。

 前にもお話したことがありますが、ここ1年か2年前くらいからなんですが、毎朝、市川駅まで行く道すがら、意識して、空でも、風でも、鳥のさえずりでも、自然界の何かを感じるようにしているんですね。これが、なかなか、私の場合、意識していないと難しいんですが、仕事で悩み事があると、そのことばかり考えながら、いつの間にか市川駅についてしまうんですよ。
 それで、あわてて、ホームから空を見上げてみたりすることもあるんですが、私も仕事をしていますから、ストレスが溜まったり、ついついイライラしてしまったり、心配事で頭がいっぱいになったりしてしまうわけですよね。

 ところが、この自然界の何かを感じられると、今日もこの自然界の中で生かされている…、そのこと自体、そのことだけでも、神様の愛に包まれているような、自然と、まず何よりも感謝だなと思えるんです。
 それで、仕事の問題か悩みが解決されるわけではないですが、まず最初に、その感謝があることで、心にゆとりが生まれ、人への感謝、接し方であったり、よっしゃ、今日もがんばろう!と仕事への取り組み方も変わってくるんですよね。

 皆さんも、今日の帰り道、空を仰ぎ見、風を感じ、草花や鳥のさえずりでも、何でもかまいません。
 何気なく目の前を横切る猫やんも、そして自分自身も、この自然界の中で、今日も生かされている、そして、周りには多くの人たちがいて、助けられながら生きている、生かされていることを感じてみてください。

 イザヤもまた、特に荒野の自然界、そこに生きる動植物たちの姿を描きながら、わたしがこれを創造した…と繰り返しています。

 時に、確かに、この自然界は厳しくもあります。
 日本には荒野こそありませんが、地震や津波、火山、ついでに台風もあって、時に、災害をもたらします。でも、この自然があって、この日本は存在し、豊かな自然の恩恵を受けながら、私たち日本民族は生かされてきたわけです。

 当たり前のようで、決して、当たり前ではない。
 日本語の感謝の言葉「ありがとう」って、よくできた言葉だと思うんですよね。有るのが難しいと書いて、「ありがとう」なんです。私たちが生きている、生かされている…というのは、本当にありがたい話なんです。

 ところが、今日の現代社会を見たときに、この日本に原発を作り、あれだけの被害を出し、多くの人々が故郷を追われているにもかかわらず、今もなお原発に依存しようとしているわけです。
 片方で年間自殺者3万人、自ら命を経つ人がいれば、もう片方では「誰でもいいから殺してみたかった」…なんていう殺人事件も起こっています。
 人と人とが殺しあう戦争もそうかもしれませんが、実に、人一人という存在がないがしろにされてしまう、「いのちのありがたみ」というものが薄らいできているように思います。

 誰かを非難したり、国を非難したりするのは簡単です。
 でも、その前に、こんな時代だからこそ、まず、私たちクリスチャン自身が、天と地、この自然界、そして私たちを創られた創造主を覚える、畏敬の念と感謝の心をもって深く知る、味わっていく、ということが大切だと思うのです。
 その創造主の畏敬と感謝の念が、自分であり、周りであり、人の命を大事にする心、価値観にもつながってくるでしょうし、そうした価値観を広めていくことにもつながるのではないでしょうか。

 私たち自身もまた、神様、創造主について、まだまだ知らないこと、わかっていないことも多いんだと思うんです。
ですが、まったく神様を知らなかった、異教徒のクロスに語られているように、

 あなたはわたしを知らないが、
 わたしはあなたに力を帯びさせる。

 実は、私たちにも名指しで語られているのではないでしょうか。

 天地を創られた神様がいて、事実として、今日も私たちを生かし、力を帯びさせてもくださるわけです。
 与えられている役割は、人それぞれです。
決して、私たちが、メシア、救い主になるわけではありませんが、真の救い主、イエス・キリストを知っています。
いきなりは信じてはもらえないかもしれませんが、家庭において、職場において、地域社会の中において、まずは神が創られた人々に、日本の民に、感謝と敬意、愛を持って、あなたも愛されている、かけがいのない存在であることを伝えていけたらいいですよね。


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2014年12月21日

「『今日』という日のクリスマス」ルカ2:8〜20

(2014.12.21 聖望キリスト教会クリスマス礼拝)

みなさん。メリークリスマス。
今日、こうして皆さんとともに、クリスマスをご一緒にお祝いできること、心よりうれしく思います。

実は、3年前のイブ礼拝では、「『今日』という日クリスマス」と題して、お話させていただいているんですね。覚えていらっしゃる方、いるでしょうか?
おそらく、いない…だろうと思いながらお話してたりもするんですが、今日のタイトルは、一字違いでして、「『今日』という日クリスマス」。

時に、その「クリスマス」、「クリスマス」って…、何の日でしょう?

「イエス・キリストの誕生日」なのかというと、実は、違うんですよね。
イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけではないんです。
これは後の時代になって定められたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、9月か10月くらいじゃないかと言う人もいます。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?実際のところは、特定できないんですよね。

ですので、クリスマスというのは、イエス・キリストの「誕生日」ではなく、全世界規模で「キリストの誕生をお祝いする日」ということになろうかと思います。
以後、毎年、毎年、12月には、クリスマスが訪れるわけですが、「誕生日」でなければ、私たちは何を喜んでいるのでしょう。
クリスマスの出来事、その歴史的な事実は、およそ2000年前にイエス・キリストがお生まれになった「今日」というその日、1日の出来事です。
しかし、今日は、2000年前の今日だけではなく、今現在、私たちにとっての「今日」という日も意識しながら、この「クリスマス」について味わっていただけたらなと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。

ベツレヘムというのは、イスラエルに行った方は、わかると思うんですが、標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな町です。
しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が、ウォーー 遠吠えしていて、その寂しさを凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そりゃ、びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、おるんかなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれないんです。

聖書で「羊飼い」というと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、羊飼い同士で放牧する土地を争うこともあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神様から離れ、神からも見放された、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのです。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。
 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。

もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。
ごくごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもするわけですよね。
宿屋の主人に門前払い、入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、飼い葉おけ、家畜小屋で生まれた。
「これが、あなたがたのためのしるし。」
家畜小屋だったからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

ここでいう「御心にかなう人々」とは、いったい誰、どんな人たちのことなんでしょう。

「御心にかなう」なんていわれちゃうとですね。
自分は御心にかなっているのかな?、私は、だめかもしれん…なんて思ってしまう人もいらっしゃるかもしれません。

ですが、当時の羊飼いというのは、いわば、世のならず者だったわけですよね?
救い主の誕生は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためだけでもなければ、立派で正しくて、力や権力を持つ人間のためだけでもありません。

日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように思うんですね。。。
もちろん、そういう部分もあるとは思います。
ですが、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰であっても、間違うこともあるし、失敗することもあるんですよね。
夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいすると思います。うちではありますよ。
 自分は正しい、あなたが間違っている、お互いにそう言い合っては、けんかしたり、争ってみたり、実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言いながら、相手と戦うわけですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、決して、そうではないはずなのです。

もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。
「天に栄光」。
もしお互いに、お互いにですよ。
私たち人間的な基準ではなく、絶対なる神を基準にして、「自分にも間違いがある、ごめんなさい」と認め合うことが出来たなら、実は、夫婦喧嘩も、戦争も起きなくなる…のかもしれませんよね。

クリスマス、キリストの誕生は、この民全体のため…。
身分の低い人も、貧しい人も、あの人も、この人も、
そして決して、正しいとはいいがたい、むしろ、間違う自分、失敗する自分、そんな自分でさえも、
実は、神様から見たときには「救いの対象」「愛すべき対象」、すなわち「御心にかなう人」で、
「天に栄光、地には平和を」、
そんな自分のところにも、いや、そんな自分のためにこそ、救い主がやってきたというのであれば、驚きじゃないですか。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。羊飼いたちの心にも、神の平和が訪れた瞬間でした。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 たとえ、過ちがあったとしても、そんな過ちのある自分を認め、この救い主、イエス・キリストを喜び、迎える人は、みな「御心にかなう人」なんです。


「地には平和を」。
時に、先週は、衆議院選挙がありましたが、今年は、みなさん、多かれ少なかれ、「平和」ということを意識させられた1年でもあったかと思います。

平和というのは、二種類あると思います。
1つは、武力をはじめ、経済、政治…、力によって支配することで生まれる「平和」です。
もう1つは、愛と赦しの心から生まれる「平和」です。

イエス様が生まれた時も、イスラエル、ユダヤの地域にローマ帝国の支配がやってきた頃でした。少し前を見ていただいて、2章1節

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

何気なく書かれていますが、皇帝アウグストゥスというのは、帝国化したローマの、初代ローマ皇帝です。
そのローマ帝国から、ローマ軍とともに、イスラエルの北、シリアに総督が派遣され、やがてはユダヤにも、かのポンテオ・ピラトが派遣されてくるわけですね。

実に、ルカ自身が、この福音書を書いていた時期も、実は、ローマ帝国によって、だんだんキリスト教会への圧力が加わり、迫害の時代に差し迫っていた、そういう時期でもあったんです。

このローマの皇帝が成し遂げようとしていたのは、言うなれば、まさしく力による平和と言えるのかもしれません。武力により、反逆分子を制して、地域を平定する…。
それが、ゆえに、ローマの皇帝も、「救い主」とも、「主」とも呼ばれていたんですね。それは、まさに2章11節と同じ「救い主」「主」という言葉、同じ称号であったんです。

しかし、ローマに支配された国々の人々、ユダヤの民にしてみても、そういう風に呼ばされていた…というのが正解かもしれません。
力による平和は、片方にとって都合のいい平和であって、虐げられる者を生み、数々の反発や敵対心、力によって対抗するものも生んでいきます。

ルカは、このローマ皇帝や、帝国による力による支配を意識しながらも、でも、その中にあって、天使たちの言葉を使いながら、「この方こそ主キリストです。」と伝えている、宣言しているわけです。

ですが、ルカは、決して、クリスチャンたちに、ローマに力で立ち向かえ…と言いたいわけではありません。むしろローマ帝国のテオピロという高い役職の人に、この福音書を書き送り、皇帝とは違う、キリストが示している平和の道を理解してもらいたかったんですよね。

今日の招きの言葉は、イザヤ書から選ばさせていただいたんですが、

イザヤ2:4
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

一見すると、クリスマスらしくない言葉かもしれませんが、実に、これも「メシア預言」、救い主の預言なんです。
しかも、同じくアドベントで読まれるミカ書にも、まったく同じ預言が出てきます。
この預言に続いて、救い主の誕生の預言はなされていくんです。
いうなれば、これがメシア、救い主によって成し遂げられる「平和」の約束、目的なんです。

11月の終わりには、牧野先生から、イザヤ書のお話があったかと思います。
このイザヤの当時、イスラエルは南北に分かれていたわけですが、南のユダ王国は、周辺諸国から軍事的圧力を受け、アッシリア帝国の軍事力に頼ってしまうわけですね。
しかし、頼ったがゆえに、アッシリア帝国の従属国のようになり、やがては次に起きたバビロニア帝国に呑まれていくわけなんですが、そのときに立てられていた預言者がイザヤであり、また、ミカだったんです。

実に、メシア、救い主、キリストの預言も、またその成就も、帝国による支配が近づいてきた時になされていることがわかります。
その中で、クリスマス、救い主の誕生は、平和の訪れを示すものでもあるんです。

では、その救い主、キリストは、どういう平和をもたらしてくださったんでしょうか。。。

イエス様は、軍事力を傘に、軍隊を引き連れて、やってきたわけではありません。
完全無防備の赤ん坊として生まれました。
この世的な政治活動や権力を握ったわけでもない、羊飼いのように身分の低い者や、貧しき者に寄り添い、病を癒し、友なき罪人たちと友となり、やがては十字架を背負う。

見方によっては、無力な敗北者の姿なのかもしれません。
しかし、王が力によって民を封じ込めるのではなく、王自らが、民のために、命を差し出す…。
その王の姿を見た民が、その心を理解することによって生まれる平和。

 彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

これが「平和の君」のやり方、愛と赦しによる平和です。

この御言葉は、国連にも掲げられているらしいですが、クリスチャンの多い国が数ある中で、どれだけ実現できているかと言うと、実は、できていないわけですよね。
奇しくも、クリスチャン人口1%のこの日本にあって、憲法9条「戦争の放棄」が掲げられ、戦後69年間、保たれてきたわけですが、残念なことに、それも今、崩されようとしています。
ある意味、私たち人間たちにとっては、当然のように生まれてきてまう発想なのかもしれないです。
現実的にはなかなか難しい。武器を持つものがいる以上、武器を持たざるを得ない、力を求めてしまう。
実際に実現するには、イエス様が再びこられて、王となる日を待たなくてはならないのかもしれません。

ですが、そうであったとしても、私たちはどうあるべきなのか。
力による平和なのか、愛による平和なのか…。

私たちは、この世の権力者がどうであれ、現実がどうであれ、あくまで「愛と赦しによる平和」を目指す。
私たちに力はないかもしれません。でも、まずは、身近なところから。
それが「平和の君」を王の王、主の主を、救い主、主とするということではないでしょうか。


十字架というのは、ローマ帝国が編み出した、世界で最も苦しいといわれる、極めて残酷な死刑です。
それゆえ、ローマの市民権を持つものには執行されず、支配した国の者、属国の反逆分子を防ぐために行われた公開処刑なんです。

イエス様は、十字架に架せられた時、その十字架に釘打つ者、ローマの兵隊のためにも、「父よ。彼をお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、そう祈られました。
一方で、横で、一緒に十字架につけられていた強盗の一人に向かっても、「今日、わたしと一緒にパラダイス、天国に行くよ。」と語られたんです。
この両者…、このローマの兵隊と、この強盗は、いわば敵同士。
でも、イエス様にとって、どちらが正しくて、どちらが間違っているとか、敵とか味方とかは、なかったわけですよね。
どちらも救いの対象、愛すべき存在であったわけです。
どちらにも平和であってほしい…その願いも込められていたんではないでしょうか。

イエス様は、強盗に向かって、「今日だ。」と言いました。「今日、わたしと一緒にパラダイスに行く。」今日、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

私たちにとっての「今日」という日、今、まさに、私たちのうちにどれだけ、クリスマスの喜び、心の平和が保たれているでしょうか。
ここは正直であっていいと思うんですよ。

私たちの人生の中では、様々なシーンの中で、誰かに傷つけられること、誰かを傷つけてしまうこと、様々な痛みもあると思います。
その痛みがゆえに赦せなくなること、怒りが湧き上がってしまうこと、反対に、そんな自分を責めてしまうこともあるかと思うんです。
でも、イエス様は、その痛みや苦しみも、貧しい馬小屋にも、十字架の上でも、イエスは来てくださるお方です。
もし、今、心のうちにそうした痛みがあるならば、ぜひ、そのまんまをイエス様に打ち明けてみてください。
イエス様は、その痛みにも寄り添ってくださるお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス。

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 今日、あなたは私と一緒にパラダイスに行く。

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

私たちもまた、今日というこの日に、改めて、平和の君、救い主なるイエス・キリストを喜び迎え、「この方こそ主キリストです」と告白、賛美するものであろうではありませんか。

来年は、戦後70年という節目の時も迎えます。
二度と戦いのことを習わない。
真の平和を祈りつつ、キリストの福音、平和の福音、愛と赦しによる平和を目指していきたいものですね。



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2014年01月19日

「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜28

みなさん。おはようございます。

今年最初の説教当番になりますが、本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、東北被災地を中心に活動を展開してまいりましたが、静もCDを出しまして、今年は、さらに活動を広げていきたいと願っています。

使徒の働きには、こうありますよね。
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
 使徒たちによって伝えられた福音は、エルサレムに始まり、いまや東の果て、日本、この市川三丁目にも届けられているわけです。
 しかし、教会というのは、内向きに、この建物の内側ばかりを意識するのではなく、地の果て、外に向かって、外に発信していく。市川三丁目にはじまり、関東、さらには地の果てに向けて発信していく、そうした性質も帯びているわけですよね。

 …といっても、みなが伝道者ではありません。みなが静のような歌うたいではありません。それは私たちの働き、役目として担っているわけですが、ホームグラウンドは、あくまで聖望教会だと思っておりますので、よろしくお祈りをもって、応援していただけましたら幸いです。

 さて、今日は、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、三位一体なる神様というのは、今朝も告白しました使徒信条にも表されるキリスト教の中でも極めて重要かつ中心的な信仰内容の一つです。

ですが、正直な話、「三位一体」と言われても、なんだかよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんですよね。
 父なる神様と、子なるキリスト、そして聖霊、確かに3つ存在しているのに、三つの神様ではなく、1つだというわけですよ。なんちゃあ、よう、わからん。これで、私たちの頭は、完全に「?」になるわけですよね。

 なぜ、大切かというと、今朝もお読みしましたイザヤの預言からしても、救い主は神ご自身、「わたしのほかにはいない」わけですよね。

 ところが、この「わからない」「わかりにくい」ところ突かれて、たとえば、イエス様をキリスト(救い主)だとは言いながら、神様ではない…、エホバの証人や、異端的な教えが忍び込んでしまうわけです。それは、すなわち「三位一体」を否定した考えなんです。

 あるいはですね、父なる神様…なんとなく、わかります。イエス様、よくわかります…、ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、よくわからなくて、下手をすれば、「聖霊の働き」といえば、なんでも「正しい」ことになってしまうなんてことも、世の中では起きているわけですね。

 それも、ちょっと嫌じゃないですか。
ですが、この「三位一体」、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。
 
 もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。聖書66巻、全部を把握したとしてもですよ。神様は、人知をはるかに超えているわけですよね。神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 にはこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

つまり、神様ご自身については、人ではなく、イエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。

そこで、今日は、イエス様がなんと言っているか、そこを見ていきたいと思うわけですが、その前に、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりします。
 
イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、たいていイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。
3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人にとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、ドーンと存在しているわけですよね。
 そして、イエス・キリスト、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。1つが先に来て、「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

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この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。
もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。

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最初の海外拠点になったのは、今のトルコ南部にあるアンテオケの教会です。

よく聞くところでカパドキアもトルコですし、エペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、コリントや、テサロニケといった教会は、隣のギリシャにある町です。今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。

これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。

ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。「1つの中に、三つある」という理解のほうが、素直ということになるわけです。

この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんですよね。それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。


14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道、真理、いのち」、必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 …わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様は、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 
その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。

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「父・子・聖霊」全部揃って、全体で「唯一の神様」なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に単独で動いているわけではありません。

たとえば、父なる神様やイエス様抜きで、「神」は語れないし、「聖霊」だけで「神」全体でもないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして―本当に曲者なのは、私たち人間なんですが―、
目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」などと、なんでも正しいかのように言えてしまうという危険もありうるわけです。

ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

このヨハネの福音書の続きを少しみてみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

決して、聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って自己主張しているわけではないんですよね。
「父」から遣わされて、必ず、道であり、真理、いのちである「わたし」すなわち「イエス様」を指し示しているんです。

イエス様は残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」イエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊様なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。

仮に、そういう勘違いあったとしても、すべてが否定されるというわけではないでよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

ですが、聖霊も神様なんですから、間違いのある人間がむやみやたらに「聖霊」の名を用いてもいけないはずですよね。。?

宮村先生も、徹底した聖霊信仰は、徹底した聖書信仰だと語られていますが、その聖書を通して、子なる神、イエス様ご自身が、繰り返して語られているのは、助け主、聖霊は「わたしについて教え、わたしについて証をする」ということなんですよ。

ヨハネは、手紙の中でも「霊だからといって、みな信じてはいけません。」(Tヨハネ4章)と忠告しているわけですが、受肉、十字架、復活、歴史的事実として「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」これこそ、聖霊です。
反対に、イエス様の心、イエス様を理解できれば、聖霊様のことも、わかるということになるわけです。

これが、イエス様ご自身が、最後の晩餐のときに、口を酸っぱくして語られた、助け主、聖霊というお方なんです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる創造主を知ることになるわけですね。

14:28 …あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

イエス様は肉体を有して、私たち人間に、目に見える姿、形をもって、神ご自身について、説き明かしてくださったわけですよね。
しかし、肉体を有するということは、ある時間、場所に限定されてしまうことにもなります。それが、神ご自身のすべてかというと、そうではないわけですよね。

イエス様と同じような父なる神様、天の父が、目には見えませんが、イスラエルにも、この日本にも、何億万光年離れた宇宙のはての果てにも、時間と空間をはるかに越えて、存在しているわけです。

私たちは、この天の父に抱かれるように、命をはぐくみ、事実、今、生かされているんです。つまり、父なる神様に愛されて、存在しているわけですよね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

今年も正月三日目に、ようやく、うちら的、初日を見に行ったんですけどね。特に、冬の寒い朝ほど、太陽の光って暖かく感じるんですよね。
この絶妙な熱によって、私たちは、間違いなく、生かされているんですよ。

地球がもう少し太陽に近かったら、地球は灼熱地獄、海の水も蒸発してしまうわけです。ほんのちょっとでも離れていたら、海の水は凍り付いて、人間をはじめとする生物は、やはり生きられないんです。それは、この地球上にも、わずかの違いで、日本には春夏秋冬が存在し、水のない砂漠も、万年凍りついたような南極が存在していることでも察しがつきますよね。
実に、絶妙なバランスのところで、この地球という環境は創られているわけですよ。
すごいと思いませんか。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ偶像礼拝者であったとしても、太陽は昇り、地には雨が降り、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。

わたしたちが神様を知る、救いに預かる、それは「わたしが道であり、真理」イエス様を通してだけです。
しかし、イエス様だけに守られているわけではなく、私たちは、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。

1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、ここから外に出て行くときにも、あらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

ここで言う「わたしの戒め」って何でしょう。

それは、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

また、この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでいきましょう。



タグ:三位一体
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2013年12月30日

「朝明けには喜びの叫びがある」詩篇30篇


(2013.12.29 シャローム福音教会)

クリスマス終わって、急にまた一段と寒くなりましたね。
今年一年、皆様、どんな一年でしたでしょうか。

いよいよ、今年、最後の礼拝になりました。今日は、歌と説教で半々とさせていただきました。

実は、今回、静のCDは、この詩篇から、インスピレーションをいただいて、タイトルをつけているんですね。

30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

1枚が、賛美歌を集めた、Before the Dawn 夜明け前。
もう1枚が、オリジナルソングを集めたBrightest Morning 明るい朝。

1枚1500円、2枚で3000円、ちゃっかり宣伝しているんじゃないかと思われそうですが、長い話を短くすれば、まあ、そうなんですけどね。

今回のCDには、静なりの東北への思いが込められているようです。

来年の3月には、東日本大震災から満3年を迎えようとしていますが、被災地では、まだまだ復興途上にあるのが現状です。
12月には、福島の南相馬に行ってきましたけれども、警戒立入禁止区域の浪江町境にある牧場では、およそ3マイクロシーベルト〜4マイクロシーベルト。
それは、このあたりの50倍〜100倍くらいの放射線量となるわけです。

そのあたりは立入は許されていますが、居住、住むことは許されていません。
牛たちは放牧ではなく、半ば放置、草が食べられるように、放たれたままにされています。
でも、牛たちはやせ細っているのが現状です。

もう1日は、もう少し北の相馬市の仮設住宅を訪問もさせていただきましたが、そこには、やはり放射線量の高い飯館村の方々が、集団避難されているんですよね。
子供もいる働き盛りの若い世代は、県外へ職を求め出て行き、残されている多くは高齢者が中心。お年寄りがお年寄りの手を引き、車椅子を押している状況です。

何もなかったら、自分が手に負えるくらいの畑仕事でもしながら、自分の慣れ親しんできた土地で、残りの余生を暮らすはずだったのかもしれません。
ところが今や、アスファルトの上に立てられた、プレハブの仮設住宅の暮らし。
生活環境があまりに変わって、楽しみも、少ないわけです。

そこに静が歌を歌い、一時は、楽しんでももらえるわけですが、帰るころには、「帰り際がさみしいんだよね」と語る方もいらっしゃるわけですよね。
単に、生活ができるか、できないかだけの問題ではないんですよね。

東京オリンピックの選考会では、わが国の首相いわく、福島の原発は「アンダーコントロール」、管理されているらしいですが、これが「コントロール」されているというのであれば、ほとんど見て見ぬ振り、無視に近いんじゃないかと思うわけです。

私たちは、まやかしの言葉で、「コントロール」されてはいけないな…と思うわけです。

私たちができることは、小さなことかもしれないですが、しっかりと現実を見据えた上で、自分たちにできることをしていきたいものですよね。

さてさて、決して、東北のみならず、私たちの人生は山あり、谷あり。
いいことも、悪いこともあるものですよね。

クリスチャンになったら、いいこと尽くめ。すべてが、うまくいく…なんてことはないわけです。
クリスチャンになっても、ならなくても、災害に会うこともあります。病気になることもあります。思わぬトラブルに巻き込まれることもあります。

あの…残念なお話ながら、東北の震災を、まじめに神の裁きだという、クリスチャンもいたりするわけですよ。はっきりいいますが、100%、聖書的間違いですからね。
ただ単に自分が災難にあっていないから言える、自信過剰のこれぞ罪。

言葉が悪くて、本当に申し訳ないですが、ほんと、私がクリスチャンじゃなかったら、俺がお前に災難、神の裁きを下してやろうか…って話なんですよ。

日本は地震でできた国。いつかは、関東にも大きな地震はきます。
私の実家、静岡なんて、近いうちに必ず大きな地震が来ると言われ続けているんですから。
それが日本の自然。でも、その自然界の恩恵もたくさん受けて、私たちは生かされているわけですよね。
私たちも、この日本、地球に暮らしている限り、こうした災害、災難に会うことは、十分、ありえるわけですよね。

私たちは、その日本の自然の中で生活していることを前提にしておくべきなんですよね。
だとすれば、福島の事故に至っては、言うまでもなく、地震や津波、日本の自然を甘く見た、100%人災なんですよね。。。

この詩篇30篇は、ダビデは大きな危険からの救いを主に感謝している詩です。
2節、3節を見ると、死を予期させるような、重い病気にかかったのではないかと考えられます。
信仰深かったダビデもまた病気になるんです。

ですが、単に、病気にかかったに終わらず、

30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

ダビデは、神にあって生かされていることを感じ取っているわけです。

私も、クリスマス直後ですね、首の左側のリンパ腺がはれてしまって痛かったんですよね。特に風邪も引いてないのに、こうなるのは、はじめてだったんで、最初ちょっと、何の病気かと思って、内心、びびったりもしたんですけどね。

しかし、私たちには、感謝なことに、イエス・キリストにあって、すでに永遠の命が保証されているわけです。
死は、瞬間、恐れはあっても、絶望ではない…、死の先にすら希望がある、
これは、信じる信仰によって与えられる、クリスチャン特有のものでしょう。

30:4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
30:6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」

「まことに、御怒りはつかの間、」
神様は、人間ほどには、怒ったり、裁いたりしないのかもしれない。
逆に言えば、私たち人間のほうが、人を裁いたり、怒ったりしてしまうのかもしれないですよね。
実に、神様は、クリスチャンであっても、そうでなくても、恩寵、恵みのうちに、生かしてくださっているわけです。

この聖書の神様を信じるということは、人間が自力で生きているのではなく、この神様の恩寵、恵みのうちに生かされているものであるということを認める、受け入れるということなんです。

毎年、年末には、よくお話をさせていただいているんですが、初日じゃなくても、ぜひ、皆さん、機会があれば、日の出を見に行ってみてください。

私たちは、天地万物を創られた、もちろん太陽も、この日の本、日本も作られた神様を信じているんですよね。
日本人は、太陽そのものに神を感じて、知らずに拝んでしまったわけですが、私に言わせれば、これは惜しいことなんです。実に、太陽の向こうに、太陽を創られた神がいるわけですよね。

八百万の神を信仰するということで、キリスト教会では否定的に語られてしまうわけですが、でも、見方を変えればですよ。この自然界、森羅万象、あらゆる被造物の中に、直感的に「神」という存在を感じ取ってきた民族でもあるわけです。

反対に、クリスチャン、聖書学者、私みたいな伝道者も、つい、うっかりすると、聖書そのものばかりに集中してしまい、この自然界に疎くなってしまうことがあるように思います。
でも、この聖書そのもの、本そのものの中に、神様がいるわけではないですよね。

この全宇宙、大自然の中で、これらを創られた神様によって、わたしたちは、生かされている…、そのことを伝えてくれているのが、聖書だったりするわけです。

ですからね、ぜひ、みなさん、機会があれば、日の出、見てきてください。
夜明け前、まだ日が出る直前というのは、一番、寒かったりするんですよね。。。

ところが、暗闇を引き裂くように、太陽が顔を見せる瞬間、強烈な光とともに、熱を感じるわけですよ。
鳥たちは飛び立ち、生命が喜びの声を上げる。

30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

繰り返しになりますが、人生は山あり谷ありです。
今年一年、この終わりのときに、あるいは苦しみの中にある方、悲しみの中にある方いらっしゃるかもしれません。

しかし、今日も自然界の恵みのうちに生かしてくださる神様がいます。

今は涙があっても、明けない夜もありません。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

嘆きを踊りに、荒布を喜びに、変えてくださる神様がいます。

共に喜び、共に泣く…、そういう仲間、神の家族もいます。

あのカルバリの十字架を背負われたイエス・キリストもまた、あなたの苦しみ、病、悩みを共に背負ってくださる、そういうお方です。

30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
30:12 …私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

2014年もまた、皆様にとって、喜びと感謝にあふれた一年になりますように、お祈りしております。


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2013年12月24日

家畜小屋で生まれた救い主

(2013年12月24日 聖望キリスト教会 イブ燭火礼拝)

メリークリスマス!

今日は蝋燭の明かりの中で、静かにクリスマスを思うときが与えられているわけですが、皆さんはどのような思いでお迎えでしょうか。
それぞれに感じるところがあるのではないかと思います。


今年のクリスマスに当たって、私個人が考えさせられたのは、イエス様がお生まれになったのが、実に、家畜小屋だったということなんですよね。。。
それは、ただ単に宿屋がいっぱいでとか、そのほうがお涙ちょうだいできる…ということではないんです。


ルカの福音書
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。


これが、「あなたがたのためのしるし」だったんです。

よくメッセージでは、家畜小屋だったからこそ、羊飼いも救い主の元に行くことができた…なんてお話したりもするんですが、羊飼いたちは、当時、最も身分が低く、人々から大変、嫌われる職業だったんですね。そんな羊飼いたちは、救い主知らせを受けて、急いで行き、喜んで帰っていったと聖書では書いてあります。

でも、自分だったら、どうでしょう。。。
家畜小屋で生まれた赤ん坊を、果たして、救い主として受け入れられるでしょうか?
あるいは、反対に、もし自分が救い主の立場だったら、あえて家畜小屋で生まれたいって思うでしょうか。正直ね、そうは思えないような気がするんですよね。

先にお読みしたミカ書の預言では、こうあります。


5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

ベツレヘムは昔からある丘陵地帯にある農村地帯です。
ダビデの町、ダビデ王の出身地ではありましたが、この預言者ミカの時代になると、ベツレヘムは、小さなもの、小さな村となっていたようです。

でも、その小さなベツレヘムから、イスラエルの支配者が出る。しかも、それが昔から、永遠の定めであると言うわけです。

その小さなベツレヘムの、しかも家畜小屋。当時は、洞窟を改造して作られた家畜小屋であったとも考えられています。
その家畜小屋に主イエスは、お生まれになったわけです。


私たちは、ついつい大きなもの、立派なものに目が向いてしまいがちかもしれません。

キリスト教会も、何人の教会になったとか、立派な会堂が建ったとか、そちらの方に目が向きやすいし、その方が説得力もあるのかもしれない。
でも、神様は、目立たず、弱い、小さな者の方へと目を注がれているわけです。

かつて、私が神学校時代に、講師に来た先生が、こんな風に言ったんですよね。
「私は、1000人の人たちが集う日本で最も祝福された教会の牧師をさせていただいてるものです。」


私も、高慢というか、鼻っ柱だけは強い、生意気な若造でしたからね。。。
「何を〜!。聖望教会は30人だけど、世界でもっとも祝福されている教会の一つじゃ」と、口には出さないまでも、そのくらいには思ったりしたもんです。

決して、大きいこと、人数が増えることがいけないわけではないです。むしろ、目指すべきかもしれない。でも、小さな者、小さな群れ、小さな教会を軽んじてもいけないんです。


聖望教会も最初5人から始まったと聞いています。その最初の5人の小さな群れの中にも、主は共にいてくださり、祝福してくださっていたんですよね。世界でもっとも祝福されている教会の一つだったんです。だから、今もあるわけですよね。

仮にこの先、聖望教会が100人、1000人になったとしても、その大きさを誇るのではなく、最初の5人の小さな群れを軽んじなかった主を忘れない、そんな主を誇るものでありたいものですよね。


私たち自身は、どうでしょう。。。
私たちもまた、クリスチャン、5年、10年やっていると、小ささを忘れて、大きなものになってしまうことがあるのかもしれない。私なんか要注意ですよね。元々、高慢なものですから。外部でいろいろ活動していけば、もっと高慢になっちゃうかもしれないですよ(笑)。

逆に言えば、心のうちには、そういう罪の性質もしっかり抱えているんですよね。

どんなに綺麗に掃除していても、実は、今もなお、醜いもの、汚い言葉も出てくる、まさに家畜小屋。いろんな欠点や弱さ、罪もある、小さな者かもしれません。

先日の宮村先生の説教から借りれば、今もなお、闇がある…それが真実でしょう。
クリスマスは、自分自身の内にある、そんな家畜小屋を思い起こす時なのかもしれない。

でも、いいでしょうか。ここがポイントです。

主イエスは、私たちの心の綺麗で立派な部分というよりは、その家畜小屋にこそ、来てくださるお方なんですよね。


 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
 これが、あなたがたのためのしるし…


クリスチャンになったばかりの時も、もしかしたら今もなお、家畜小屋同然のような私たちの心に、命を宿し、そればかりか十字架の愛によって、洗い流してくださっているのがイエス・キリストです。

家畜小屋のような私たちの心にも来てくださる救い主を、感謝と喜びをもってお迎えする、そんなクリスマスでありたいものですよね。
最後に、ヨハネの福音書1章4節、5節を共に味わいたいと思います。

…この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

タグ:クリスマス
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2013年08月31日

最もたいせつな戒め マタイ22:35〜40

2013.8.31 TPC東京プレヤーセンター

みなさん、こんにちは。
今日は、またまた岩井家庭集会の皆さんもおよびして、勝手に合同礼拝にさせていただいております。
今、家庭集会の方では第2列王記、預言者エリシャの時代になっておりまして、そこからメッセージをしようかな…と思ったんですが、どうも、今ひとつ、インスピレーションがわかないんですよね。。
正直、語りたくないな…というか。
伝道師がこんなことを言っていいのか、わかりませんが…(笑)

イスラエル史上最悪と呼ばれる女帝、イゼベルが君臨し、預言者エリシャによって立てられた新たな王、エフーがそれを打つ…。
では、そのエフーはというと、結局は、神様から離れてもいってしまうわけです。

そこから何を語るのか…って言うと、何か、ちょっと違和感を感じずにはいられなかったんですよね。
もちろん、第2列王記も聖書、神のことばです。話そうと思えば話せなくはないし、学ぶべきことはあると思います。

でも、それよりも、何よりも、単純明快、私たちが一番大切にしなくてはならないことは何か、聖書が神様が最も伝えたいことは何か、もう今日のこの箇所に尽きてしまうと思うんです。

マタイ
22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:38 これがたいせつな第一の戒め…
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
「この二つの戒めに、律法全体と預言者とが、かかっているのです。」

マルコの福音書では、
「この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

いずれにしても、この2つの戒めが、聖書全体、一番大事、もっともたいせつな戒めと言って問題はないと思います。
戒め…というと、ただ私たちが守るべき命令かのように捉えてしまいがちかもしれませんが、私たち人間が愛し合ってほしい…これが神様の一番の願いであるわけですよね。

ちょっと調べてみたところ、第2列王記には、あくまで単語としてですが「愛」と言うことばが一つも出てこないんですよね。

もちろん愛が、全くなかったわけではないと思います。
でも、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…「私たちが愛すること」、これが最も大切な戒め、最も大切な事柄とされてこなかった時代、歴史、これが第2列王記といえるのかもしれません。
そもそも律法自体が忘れられていましたから無理もないのですが、結果、イスラエルは衰退の道を歩んでいったわけです。

では、私たちはどうでしょうか。。

もちろん、愛がないわけではないと思います。
ここに集っている皆さんは、確かに神様を愛してらっしゃると思うんです。
だから、こうして集まって、礼拝したり、賛美したりもしますし、お互い助け合ったり、祈りあったり、交わりも持つと思うんです。
ですが、それを承知で、あえて尋ねるんですが、
本当に、みな等しく、的確に、隣り人を愛せるか…というと、なかなかどうして、実は、私自身も含めてできていない、足りない、失敗も多いと思うんですよね。

この愛は愛でも、キリストの愛だったりするわけじゃないですか。
汝の敵を愛せよ。迫害するもののために祈れ。
人がその友のために、命を捨てるこれほど大きな愛はない…
聖書の愛は、無限大なんですよね。

ちなみに、この2つの戒め、私は100%完璧に守れています…という方、いらっしゃるでしょうか。

はい、誰もいません。

よかったです。
これで、できてます…と言われちゃうと、この先、どう話していいか、わからなくなってしまうんですが、私もできているとは、お世辞にもいえません。
100%完璧にできているのは、誰もいないはずなんです。
もし、いるとしたら、イエス様だけです。

ですが、ちょっと注目して欲しいんですが、ここでイエス様は、隣人を愛するということは、神様を愛することと同じように大切な戒めだとおっしゃっているんですよね。。。

この2つの戒め、言うなれば、最高法規、憲法みたいなものですよ。
もし、この2つの戒めが守れていない…、ここから外れていたとしたならですよ。

その他、多くの部分で、どんなに聖書に忠実だったとしても、どんなに見た目、立派な働きをしたとしても、聖霊様から、どんなに、すんばらしい賜物いただいたとしても、それで優れているとか、それが正しいなんてことにはならないはずですよね。。
早い話、憲法違反なんですよ。

…の、割にはですよ。
この2つの戒め以外の部分で、あれこれ優劣を付けたり、批判しあったりしてしまうようなことが、皆さんとは言いませんが、実際問題、正直な話、キリスト教会の中では、あったりするんじゃないでしょうか。。

いいんですよ。
ぜひ、ここは、正直であって、欲しいんです。
正直、キリスト教会、私たちの間にはあり…ますよね。。?

22:36 「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」

この質問をしてきた律法、聖書の専門家は、イエスを試そうとして…と書かれています。
彼らは、聖書を徹底的に調べ上げて、徹底して律法に反しないような生活をする、プロ中のプロだったわけですよね。
それで、神様を愛している…、さらには律法に定められた隣人愛も行っていると思い込んでいた人たちだったわけです。
でも、それで律法を守っていない罪人たちを見下したり、非難したり、裁いたり、逆に、そんな罪人を赦していたイエスを敵対視、実際、揚げ足をとろうと試していたわけなんですよね。

人のふりみて、我が振りなおせ…なんです。

果たして、今日の教会で、また自分自身にとって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛が、他の何よりも大切な戒めとして、本当に、今、私たちの目標として、私たち自身、私自身のうちに掲げられているでしょうか。。。

ここは、気をつけて欲しいんですが、決して、できていないから、駄目…ではないんですよ。
誰かを否定、非難することではないんです。

ここが律法主義と、キリストの福音の分かれ道なんです。
律法主義では、律法を守らなければ、神様に愛されない、裁かれる…と考えますから、他人を裁くがゆえに、自分の落ち度や、できていないことを認められなくもなっていくんです。

キリストの福音では、できていないものは、できていませんと認めていい世界なんです。

なぜならば、そんな不完全な私たちを赦すために、キリストは十字架を背負い、私たちのことを愛してくれているんですよね。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

この生き方、この愛を、100%実現したのは、イエス様だけ。
実に、そんなイエス様の愛によって生かされているのが、私たち、クリスチャンなんです。

できていないから、駄目ではなく、できていないにもかかわらず、愛されているからこそ、私たちも、この3つの愛を目指すんです。

書かれた当時、小学校1年生の作文があります。

「おかあさんのたからもの」

せんせい あのね
おかあさんのたからものはね
ぼくだって

おかあさんのたからものは
ぜったい ゆびわだと
おもって いたけど
ゆびわは 2ばんめだった

ぼく
たからものになっちゃってこまるよ

たからものって
はめたり つめたり
かけたりするものなのに
でも
なんか いいきぶん

ぼくは
そとへでて はしりまわったよ


…なんだか、かわいらしいというか、いいですよね。
大人になるにしたがって、宝物だといわれても、こうも純粋には受け止められないというか、そうは単純に喜べないような気がします。それだけ私たちは、多くの傷も受けてきたのかもしれませんね。
しかし、愛が喜びを与え、心にどんな変化をもたらすか、その気分は、よくわかると思います。

どれだけのことができるか、どれだけのことをしているかは問題ではないんです。
この小学生の作文ですが、ただ愛されていることを喜んでいるだけなのに、私達の心にまで、何か暖かなものを与えてくれていますよね。

イエス・キリストに愛されていることを喜んでいるお父さんがいる、キリストに愛されて喜んでいるお母さんがいる、子供がいる、仲間がいる、それだけでも実は周囲に何かを与えているんです。

神様の宝物はね、ぼくだって
神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、僕だった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

 本当に、外へ出て走り回りはじめたら、逆に心配されますんで、やめといた方がいいかと思いますが、イエス・キリストに愛されている喜びこそが、クリスチャンにとっての最大の原動力であり、原点です。
礼拝や賛美、クリスチャンの愛も、すべてこの感動から、湧き出るものです。

愛するって、単なる行為ではなく、心が伴うものですよね。
ですから、単に「愛しなさい」と言われるだけでは、できないんですよね。愛するためには、愛されることも必要なんです。

今、巷では、体罰やいじめ、家庭内でも幼児虐待、様々な悲しいニュースが流れていますが、必要なものは、なんでしょう。
「体罰はいけない」「いじめてはならない」…という律法や処罰でしょうか。
それとも、愛されている喜び、愛する心、愛そのものでしょうか。

日本では、年間3万人の人たちが自ら命を絶っています。
必要なものは、何でしょうか。やっぱり愛です。

東日本震災では、多くの人たちが津波に巻き込まれ、命を落としました。
誰かを亡くした深い悲しみや傷…、そこに慰めや癒しを与えてくれるものは何でしょうか。。。
やっぱり、愛です。

22:37 …「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
22:39 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』

これが、もっとも大切な戒め…、
これが律法、聖書全体、預言者。これがメッセージです。

これこそが、私たちを創られた神様の、最初からの願いです。
イエス様は、できない私たちをも愛してくださいました。
聖霊様も、このためにこそ、私たちのうちに宿り、働いてくださっているんですよね。
この戒めを実行可能にしてくれるのも、神様の愛です。

人は変えられませんから、まず自分自身からです。

私たちはどこまでも不完全、完璧はありません。
失敗することも、愛せないことも、まだまだ、いっぱいあると思います。
しかし、けれども、にもかかわらず、
こんな私をも、キリストが愛してくださっているというので、
自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…
この3つの愛に生きる。

神様の宝物はね、ぼくだって。
あなたです。私です。

神様の宝物は、絶対イエス様かと思っていたけど、ぼくだった

ぼくは外に出て、走り回ったよ!

できないものであるからこそ、まず自分自身が、神様の愛を感じ取りながら、3つの愛を表せていけたら、いいですよね。

…イエスは彼に言われた。

「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
これがたいせつな第一の戒めです。

『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。

律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」

マタイ 22:36〜40



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2013年03月31日

「信じない者にならないで」ヨハネ20:19〜31

 みなさん。ハッピー・イースター!
毎度、千葉市川から、思い出したかのようにやってくる伝道者、竹下力です。みなさん、お元気でしたでしょうか。

 今日は「イースター」ということで、暦の上では、イエス・キリストが、死んで葬られ、三日目によみがえったその日にあたるわけですが、死んだはずの人間がよみがえるというのは、まず信じられない出来事だと思うんです。

もし私が、今日の帰り、交通事故か何かで死んだとするじゃないですか。
すごい、たとえですけど。。。
皆さんも、きっと悲しんでくれるに違いない。そう信じたい(笑)

でも、三日目に葬儀に出かけていったら、棺おけに遺体がない、竹下が蘇った!
そう聞かされたとしたら、信じられるかというと、皆さん100%間違いなく、疑うと思うんです。それ普通です。

今日の聖書箇所は、前半の部分がイエス様が復活した日曜日、つまり今日の出来事です。そして後半は「八日後」の出来事、ユダヤ式の数え方では、その当日を含めて、足掛け八日後となりますから、ちょうど一週間後に当たる来週の日曜日となるわけですが、ここにキリストの復活について疑いを抱いたトマスが出てきます。
私、結構、彼が好きというか、親近感がわくんですよね。

「見ずに信じる者は幸いです。」とは語られていますが、イエス・キリストがよみがえった…、それは決して、科学が未発達の昔の人だから信じられたというような話ではなく、当時の人たちであっても、常識ではありえない、信じがたい出来事であったわけです。

 もし、このイエス・キリストの復活が作り話で、それを見ずに信じろ…というのであればですよ。かんなり信じることの難しい、無茶な宗教、作ったものですよね。
 
ですが、実に、トマスばかりではなく、この現場にいた弟子たち全員、見ずに信じたわけではなかったんですね。
「見て、信じた」んです。
実際に見ちゃったものだから、「見た」もんは「見た」という他なくなってしまったわけです。彼らは、目撃者となったわけです。

実に、このヨハネの福音書では、「見た」という言葉が、非常によく出てきています。

20章から復活の記述が始まっているのですが、少し拾い上げてみますと…

20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。
20:5 そして、からだをかがめてのぞき込み、亜麻布が置いてあるのを見た
20:7 イエスの頭に巻かれていた布切れは、亜麻布といっしょにはなく、離れた所に巻かれたままになっているのを見た。
20:8 そのとき、先に墓についたもうひとりの弟子もはいって来た。そして、見て、信じた。

この「もうひとりの弟子」とはヨハネのことですが、やはり「見て、信じた」んですよ。

でも、じゃあ、それで100%、復活の事実を、信じられたのかといえば、それでも、復活の主イエスご自身を見ていなかった弟子たちは、まだ、信じ切れなかったようです。

20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。

弟子たちが、この時、一番に不安だったのは、イエス様が死に、次はわが身、ユダヤ人たちがいつ自分たちを捕らえに来るか、いつ殺されるのか、その恐怖でいっぱいだったんです。
十字架の死の恐怖、空の墓を見ても、イエスがよみがえった…という知らせを聞いても、その恐れは、消えることはありませんでした。

しかし、その恐怖の中に、復活の主イエスは、現れたんですね。

「平安があなたがたにあるように。」

20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

それは、もう本当に、言葉にはならない衝撃、感動だったはずです。

弟子たちも、「主を見て喜んだ。」こうして自分の目で見て、ようやく復活の事実を理解しはじめていくんです。

しかし、そんな弟子たちも、すぐに、もう1つの不安がよぎるわけです。それは、主イエスとの関係においてです。

主イエスの手には紛れもなく、釘の跡、さらに、わき腹には槍で突かれた刺し傷もあったわけですね。弟子たちは、その傷跡も、確かに見たんですよね。

弟子たちは、もうイエス様に死んでも着いて行きますと言いながら、いざ十字架が迫ると、とたんに逃げてしまったんです。そんな自分たちを、イエス様は赦してくれるのだろうか、認めてくれるのだろうか…。そんな不安も心には残っているわけです。

十字架の傷跡というのは、ただ単に、主イエスだけが負った傷ではないんです。
十字架を前にして逃げ出した弟子たちの心の傷でもあったんですよね。
しかし、

20:21 イエスはもう一度、彼らに言われた。「平安があなたがたにあるように。父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします。」

彼らは、決して、見捨てられたわけでも、弟子として失格でもなかったわけです。

そして、今日、一番の注目株、トマスさんです。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。

彼は、ある見方をすれば、確かに不信仰なのかもしれません。
ですが、私個人としては、彼を非難することは出来ないし、いや、ある面、むしろ、立派にすら思うんですよね。

他の弟子たちが、復活した主を見た、主を見た、といっているわけですよ。ついつい、なんだか自分ばかりが見てないのが悔しいような気がして、俺も見たと言ってしまいたくなるような気がするじゃないですか。でも、彼は、そこで妥協しないんですよ。

彼は、良くも悪くも、人の話をそのまま信じない。鵜呑みにしないんですよね。
ちゃんと事実を、この眼、この手で、確かめようという姿勢…、それはそれで、ある面、大切なことですよね。
ですが、彼は、決してイエス様の復活を否定しようとしたのではなく、もし本当に復活したと言うのであれば、その事実を確かめたかった、自分も復活の主に会いたかった、むしろ求めていたと思うんです。実は、会えなくて、ちょっと寂しかったのかもしれませんね。

そして主イエスもまた、そのトマスを否定したのか…というと、決して、そうではなかったんです。

20:26八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。」

その差し伸べられた手には、紛れもなく、やはり十字架の釘の跡があったわけです。

トマスもまた確かに、その傷跡を見たんです。
トマスが、その差し伸べられた手の傷跡を見、手で触り、そこに主イエスのぬくもり、愛と赦しを確かに感じたときに、トマスの心の中にあった傷も癒されていったのではないでしょうか。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

このあと主イエスは、「見ずに信じる者は幸いだ」とも語られているわけですが、決して叱責しているわけではなく、「見ずに信じられるくらいなら、幸せだよな。」と苦笑いしているようにも思うんですよね。
主イエスは、決して見ないで信じろと言うのではなく、傷跡を差し出し、見てでも、手を差し入れてでも、信じない者にならないで、信じるものになれと語りかけているわけです。
私なんか、この復活を疑ったトマスが、ちゃんと復活の主を見て、信じたというが故に、信じられるような気がしますね。
トマスばかりではなく、弟子たちは、誰しも、見て、触って、信じる事ができた、最も幸いな人たちだとはいえないでしょうか。

さて、私たちも、確かに、その手の傷跡を見、触れさせていただく必要もあるのかもしれません。

…と言っても、残念ながら、今は、復活の主イエスを、この目で見ることも、手で触ることもできないわけですが、「人の優しさに触れる」…という言い方をしますよね。
優しさも、確かに、この目では見えないし、この手で触ることも出来ないわけですが、確かにあって、私たちは、心で何かを見て、心で何かに触れることがあるわけです。

主イエスが差し出した、手の傷跡。。。
それは、まさに歴史的な主イエスの十字架の事実に触れていくことなんです。
両手両足に傷跡のあるイエス・キリストこそが、よみがえって、今、生きて働いておられるというわけですよね。

私は両親ともにクリスチャンだったわけですが、まだ小さいころは素直で、父親から教えられるがままに「イエス様は私の罪のために十字架に着いた」とは言えちゃうわけですよね。それが信仰告白となり、洗礼ということにもなったわけですが、じゃあ、私の罪ってなんなの、実際の十字架ってどうだったの…って、まったくわかっていなかったと思います。

ですが、大きくなるにつれ、反抗期にもなるわけですよね。親元から離れるついでに、教会からも離れ、いつしか罪を重ね、その罪が重く感じられるようになっていたんですよね。
ちょうど大学4年のこと。正直、自分はクリスチャン失格だと思っていました。この先、何を目指して生きていけばいいのかもわからず、生きる活力も失いかけていたような時期があったんです。

でも、そんなある日、はっきりと目の前に十字架が描き出されたんです。

それは、もちろん、この眼で見たわけではありませんが、頭の中に描き出されたんですよね。
しかも、よく宗教画にあるような、カンナで削ったような十字架に、無抵抗に十字架に着けられているような姿ではなく、曲がりくねった荒削りの十字架に釘つけられ、苦しみと戦うキリストの姿だったんです。

また、この耳で聞いたわけではないですが、その姿から、はっきりとこういうメッセージを受け取ったんです。

「力、俺は、お前のその罪のために、十字架を背負ったんだよ。私が死ぬから、お前は生きなさい」

事実として、イエス・キリストは、多くの罪人たちを赦したがゆえに、その赦した罪の非難や責めを負って、十字架を背負われたわけです。

十字架を背負われた主は、2000年という時を越えて、今日も傷ついた手を差し出し、人々の心に向けて「見なさい。」「触りなさい。」「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」そう語り続けています。それが復活の主イエス・キリストです。

その傷跡に触れる時、どんなに罪深くても、どんな弱さがあっても、どんなに失敗があっても、シャローム、心には平安、与えられた生涯を自分らしく精一杯生きるだけ、神がすべてを受け入れてくださるわけです。

私自身も、決して清く正しく美しい、お世辞にも立派な人間などとはいえません。やっぱり罪人ですよ。
でも、この主イエスの愛と赦しを知って、だから今、生きている、自分なりに懸命に生きているにすぎないんですよね。
やっぱり罪人みたいな?

でも、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

これこそ復活の主イエスの願いであるわけです。

20:30 この書には書かれていないが、まだほかの多くのしるしをも、イエスは弟子たちの前で行なわれた。
20:31 しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである。

ヨハネは、イエスが、他にも多くのしるしを行ったと言いますが、具体的には、その多くを書きませんでした。その出来事の中にも、もしかしたら私たちにとって教えられることや益になることも実はあるかもしれないですよね。でも、書かなかったんです。

なぜならば、それら細かいことを逐一書き記すことで、本来の目的、私たちが信じて、イエスの御名によって命を得るということが、ぼやけては意味がないからです。

どれだけ聖書を読んだとか、理解したとか、どのくらい教会に通ったかとか、もちろん、この世の生涯を生きていく間には、力にも役にも立ちますが、およそ「救い」ということに関していえば、まったく関係ありません。

主イエス・キリストは、私のためにも、あなたのためにも、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その責めを身代わり、十字架を背負い、死にも打ち勝った。
ここに希望があり、愛があり、いのちがあります。

この主イエス・キリストを信じるなら、いつでも、どこでも、誰ででも、救われます!

イエス・キリストの十字架は、ありがたい救いの教えではなく、歴史の事実です。

ぜひ、私たち自身も、この主イエスの手の傷跡を、しっかりと心で見て、事あるごとに触れさせていただきましょう。
この復活の主イエスを喜び、素直に信じるものでありたいですよね。

「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」

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2013年03月01日

「エリヤを養ったカラス」T列王記17:1〜9

(2013年2月23日 東京プレヤーセンター)

みなさん、こんにちは。
今日は、聖望教会の面々で、月一回、岩井家の家庭集会を行っておりまして、勝手に合同集会とさせていただきました(笑)。

今、この家庭集会では、創世記から始まり、大胆なくらいに、ざっくりと、聖書になにが書いてあるか見てみようということでやっておりまして、今、列王記になったところなんですね。今日は「エリヤのカラス」の場面というわけでして、無理矢理でして、TPCのみなさんにも、お付き合いいただこうというわけです。

さて、サウル、ダビデ、ソロモンと王朝が続いたわけですが、ソロモンが外国の女性に、はまりまして、偶像のための神殿まで作ってしまったんですね。

結果として、混乱をもたらし、南北に分断してしまうわけです。
南のユダ王国では、エルサレムの神殿があったからか、神様に立ち返る王も出ます。
しかし、北王朝では、南との対立もあって、ことさら偶像礼拝が続いてしまうわけです。

T列王記 17:1
…ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

エリヤの記事は、いきなりアハブ王に喧嘩を売っているところから始まるわけですが、この預言者エリヤの時代、アハズ王は最悪というくらいな王だったんですね。

T列王記16:31
…彼にとっては、ネバテの子ヤロブアムの罪のうちを歩むことは軽いことであった。
それどころか彼は、シドン人の王エテバアルの娘イゼベルを妻にめとり、行ってバアルに仕え、それを拝んだ。

この奥さんがまた、強烈な偶像礼拝者でして、イスラエルの預言者を迫害し、後々まで、女君主として君臨していくわけです。
そこで、身が危ないというわけで、神様からエリヤに次のことばがあったわけです。

T列王記17:3〜4
…「ここを去って東へ向かい、ヨルダン川の東にあるケリテ川のほとりに身を隠せ。
そして、その川の水を飲まなければならない。わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」

皆さん、どう思いますか。。。

カラスですよ、カラス。
日本の真っ黒なカラスとは違って、もう少し小ぶりで、グレーのチョッキみたいな模様が入って、かわいらしいんですが、やっぱりカラスです。
普通は、飛んできて、食べてっちゃうのが、カラスなんですよね。。。

人とは言わないまでも、もう少し、犬でも、猫でも、まともな動物はいなかったのでしょうか。。。よりに寄ってのカラスなんです。

しかし、エリヤは、神様の言葉通りに身を隠すんですね。

17:6 幾羽かの烏が、朝になると彼のところにパンと肉とを運んで来、また、夕方になるとパンと肉とを運んで来た。彼はその川から水を飲んだ。

なんと、けなげに、カラスがせっせと運んでくるんです。
神様の言葉に従うエリヤもすごいですが、このカラスたちも偉いじゃないですか。

もちろん、これは単なる偶然ではありません。
偶然どころか、普通は、カラスが運んできてくれるなんてことはありえないわけですよね。むしろ自分が食べるために、人のものも奪ってしまうのがカラスです。

そこは、やっぱり神様が命じて、神様が働いているからこそ、カラスは運んでくるんですが、それにしても、なぜ、神様は、この時、カラスに運ばせたんでしょうか。なぜ、カラスを選んだんでしょう。

実に、このエリヤを養うカラスの姿を見たときに、まず、私自身が、このカラスのようであるべきだな…って思うんです。

私が神学校時代、いのちのことば社でバイトしながら、学校に通っていたんですが、なんせ、一人暮らしのバイト暮らしじゃないですか。大して、ろくなものを食べていなかったんですよね。

すると、同じ職場にいたおじさん…、聖望教会の小林さんなんですが、だったら家の近くに住んで、たまに、ご飯でも食べにきなよ…ということで、それで市川に住み、今の聖望教会にも集うようになったんですね。
まあ、早い話、餌付けされたようなものですよね。

さらには、なんと小林さんの奥さんが、お昼のお弁当まで毎朝、届けてくれるようになったんですよ。
それを聞いた、同じ職場の人が、まさに「エリヤのカラスだね」と言ったんですが、まさに、それは本当に、有り難い話です。

ここで終われば、すんばらしい話で終わるんですけど、間髪いれずに、そのご主人、小林さんが…、なんて言ったと思います?

「うちの場合、カラスが飛んできて食べてっちゃう…。」

さもありなん。。
私こそ、本来の、まさにカラスみたいなものなんですよね。

そのほかにも、今日は聖望教会の面々が来てくれましたが、これまで、私も、静も、多分に聖望教会の一人一人に養われてきたんだよな…って思うんです。
それは、食べ物ばかりではなく、慰めであったり、励ましだったり、時には笑い話、冗談も含めて、さまざまな助けを受けながら、養われてきたわけです。

では、そんなカラスみたいな私が、聖望教会に、あるいはTPCに、また、ほかの人々に、何を与えることができるんだろう、何を運べと命じられているんだろう…って考えるとですね、私の場合には、やっぱり一番は聖書の言葉、いのちのパンを運ぶことだと思うんです。
ついつい、メッセンジャーと言うとね、えらくなりがち、高くなりがちなんですが、でも所詮、カラスですから。
せっせと御言葉を運ぶカラスになれたら、いいんじゃないかな…って思うんですよね。
これが静だったら、歌になるかもしれないですよね。与えられた音楽の才能を持って、歌を届ける。

私たち一人一人、与えられているものには違いがあるだけで、お互いに自分が持っているものを、必要な人のところに運び、時には、運んでもらいながら、お互いに養いあっていく…、実に、これこそ聖書、神様の求めている「愛し合う」という姿なんですよね。

カラスでさえ、神様が命じられると食物を運んでくるというのに、人間は何をしているかというと、さらに貪欲で、与えられたものでは飽き足らず、イスラエル人は偶像礼拝に走っていたわけです。
でも、これは、決して、人事ではなく、私たち、自分自身も含めて、人間の一面でもあるわけです。

預言者エリヤも、このカラスに養われながら、何かを感じ取っていたんではないだろうか。。。

このあと、川が枯れてしまうと、神様は、やもめ、未亡人のところに行けと言うんですよね。今度は、カラスではなく、やもめです。
しかも、このやもめは、もう最後一握りの粉で、息子と一緒にパンを食べて死のうとしている…、そんな極貧状態のやもめだったんです。
でも、それは、あくまで神様のみことばが、先にあったからです。

17:9…「さあ、シドンのツァレファテに行き、そこに住め。見よ。わたしは、そこのひとりのやもめに命じて、あなたを養うようにしている。」

神様の言葉、何もなくして、やもめから、最後の粉を奪えば、間違いなく、甕の粉はなくなりますんで、絶対に真似はできません。
我が家の米も、食べれば、普通に減ります。これは特別な事柄ですので、良い子は絶対にマネしてはいけません。
しかし、今日は、このやもめが、シドンにいるやもめということに注目したいと思います。

最初に、シドン…って出てきましたよね…。
そう、まさにこれからエリヤが対決しようとしているアハズ王の妻、悪妻イゼベルのお膝元がシドン(今のレバノン)なんです。まさに敵陣なんですよ。もちろん、このやもめも偶像礼拝者であったことでしょう。

なんと、本来、エリヤが本来一番嫌っていた偶像礼拝者のところに、神様のことばを運んでいくわけです。
もう一度、1節を見ていただけますか。

17:1 ギルアデのティシュベの出のティシュベ人エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」

この時のエリヤには、「私の仕えている」、「私のことば」、「私」が先行していて、ほかの箇所に見られるような、「主のことば」がないんですよね。

実に、エリヤも神様が遣わされたカラスに養われ、カラスから学んだように思うんですよね。。。エリヤもまた、カラスのように、命じられるまま、御言葉を運んでいったんです。

それで、偶像礼拝をしていた家族のところにも、救いがもたらされ、偶像礼拝の地にあっても、天地を造られたこの神こそが神であることが明らかにされたわけです。
そして、いよいよバアルの預言者への対立と向かうわけです。

私たちにも、神様が送ってくださるカラス的な存在が、実は多くいるように思います。
必ず誰かに助けられながら存在しているんですよね。
ならば、私たちも、人それぞれに運ぶものは違いがあっても、神様が命じられる時、このカラスのように、必要なものを必要な人へ、せっせと運ぶ存在でありたいものですよね。

17:4「…わたしは烏に、そこであなたを養うように命じた。」
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2013年01月13日

「あなたはわたしのしもべ」イザヤ44:21〜28

2013.1.13 聖望キリスト教会

皆さん、おはようございます。
あらためまして、今年もよろしくお願いします。

2013年、皆さんそれぞれに新しい年を迎えて、それぞれ希望や目標を向かってスタートを切っていらっしゃるかと思います。

私は昨年、神学校卒業10年、結婚10年、年は39歳、まさにサンキューの1年だったんですが、今年は、なんとなんと40になるんですよね。

最初、私がこの聖望教会に訪れた時、まさに貧乏神学生、いや、とても神学生には見えない、もしかしたら江戸川か公園からやってきたんではなかろうか…いうような出で立ちだったと思うんですよね。

ですが、こうして皆さんに食わせてもらい、いや、受け入れてもらいまして、このくらいには成長させてもらいまして、本当にありがとうございます。まずは、感謝の意を表させてください。この聖望教会がなければ、今の私はなかったかもしれないですよね。


今年の2013年は、もし許されるなら、聖望教会で得たこと、学んだことをもって、さらに外への活動を広げていきたいなと思っています。
とはいえ、私にとって、また静にとってもなんですが、この聖望教会が、大切なホームグラウンド、帰るべき家になっているんですよね。
ですので、ぜひ、祈りをもって、応援していただければと思っています。


さて今日は、その聖望教会の皆さんと、私たちの原点、基を、もう一度、確認させてもらえればと思うんです。


今日のイザヤ書の箇所で、神様は、イスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけですが、「しもべ」というと、普通に考えれば、主人に従うものですよね。

ところが、この時のイスラエルというのは、直前にも描かれているとおり、従うどころか、こともあろうに、偶像礼拝をしているんですよ。
他の神様の方にいっちゃっているわけです。
にもかかわらず、神様は、そんなイスラエルに「あなたはわたしのしもべ」だと語りかけているわけです。


44:21 ヤコブよ。これらのことを覚えよ。イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。
 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。
 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。


神様は、決して、イスラエルが従順だったから、律法に従っていたから、「しもべ」と呼んだわけではなかったんです。
「しもべ」と呼ぶ理由は、一つ。「わたしが、あなたを造り上げた。」これだけです。


私たちクリスチャンも、時に勘違いしてしまうことがあるのかもしれません。
聖書を読み、礼拝し、奉仕をし、さまざまな御言葉に従う中で、いつのまにか、そうした数々の行為によって、自分を神様の「しもべ」として認めよう、認められようとしてしまう時があるように思うんですよね。

しかし、それは反面、御言葉に従っていなければ、「しもべ」とは言えない、「しもべ」ではなくなる…というふうにもなってしまいかねません。


ですが、結論から言えば、そうではない…ということなんです。


どうでしょう。。。
すんなり納得できるでしょうか。それとも、えーっ…と思いますか?
新年早々、竹下が、また変なことを言い始めているのでしょうか。。。


もしかすると、イザヤも預言しながら、わけがわからなかったかもしれません。
だって、この時のイスラエルは、まさに偶像礼拝に走り、国はバラバラ、事実、神様も咎めて、バビロンに強制連行されていくわけでしょ。
どこが「しもべ」なんですか。神様、今のイスラエルは、「しもべ」どころじゃありませんよ…。そう思ったかもしれません。

あるいは、それでは、いったい、罪はどうなるんですか、十戒は、律法はどうなるんですか…当然のように湧き上がってくる疑問だと思います。

まさに、その疑問に答えるかのごとく、神様は続けてこう語るわけです。


44:22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。
 わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」


これが「恵み」というもの。
私たちが、神様のしもべになりうるのも、一方的な神様の恵みなんです。

ぜひ、愛する聖望キリスト教会のみなさん。今日は、まず、このことを、改めて、しっかりと掴んでください。ぜひ、覚えてください。


なぜ、このようなことを話すかといいますと、私、外部の教会や、クリスチャンとの接点が多いでしょ。。。

すると、必ずしも、このことが明確にされていない、ぼかされている、いや、実際、正直な話、歪められていることもあるんですよ。


献金しないのは、神様に従っているとはいえない…
伝道しないのは、神様に従っているとはいえない…
それは悪魔の働き、たっぷり脅しまでかけられて、
聖書読まなければならない、御言葉に従わねばならない、「ねばならない」でがんじがらめになっていたりとかね。

一方、それについていけなくなった人は、脱落者扱い、人格が否定され、その人自身も、あー、私は駄目、クリスチャンは無理です、神様は信じられません…にもなってしまうんです。


その昔、そんな教会の、ある牧師先生とお話をしたら、「私は、地獄に行くのが怖いから、イエス様に従っているんです」そう、おっしゃるんですよね。。。


どうして、こういう話になってくるのか、私には、そっちの方が、よくわかりません。
信じる信仰によって救われる、救いは恵みによるのであって、行ないによるのではない。
これは福音の大原則、クリスチャンとしての信仰の中心ですよね。

しかし、実際に、ごくごく一部ですが、そういう教会、牧師先生、クリスチャンたちもいるんです。

そういった教会から逃げてきた人たちと話したりもするんですが、そこで受けた傷や、恐怖感は、なかなかすぐには、消えないようなんですよね。。。


しかし、主人が、誰を「しもべ」にするか、しないか、その判断、決定は、「しもべ」の側にではなく、まず主人にあるわけですよね。
神様は、形作られた全ての人に向かって、「あなたはわたしのしもべ」だと呼びかけているわけです。
これが御言葉であり、まさしく福音なんです。


私も大学時代、教会から離れていたこともありましたけど、たとえ今、教会から離れて、放蕩中だったとしても、「あなたはわたしのしもべ」、クリスチャンとして失格ということはないわけです。

私たちの罪は、神様ご自身が、その罪の代償、代価を支払って、贖ってくださる。それが具現化したのが、イエス・キリストの十字架であるわけですよね。
私たちは、ただ信じて、受け取るだけなんです。


実に、ここに父なる神の愛、主イエス・キリストの恵みがはっきりと描き出されているわけです。
そして、そのことをイザヤを通して、伝えてくれているのが、聖霊です。


私たち人間は、どこかで「正しさ」というものを履き違えているのかもしれません。
私たち人間が考える正しさというのは、正しいか間違っているか、○か×か、白か黒かだけで判断してしまうことがあります。
ですが、律法の中心は、「愛する」ということ。これが神様がいう正しさなんです。

決して、ただ聖書の文字だけを捉えて、正しいか間違っているかで決まるような正しさではなく、愛するというそのハート、スピリットが、中心に加わっているわけです。


これが、ただの愛なら、別に聖書でなくても、この世の巷にもあるわけですよね。
でも、その多くは、「だから」の愛、条件付の愛です。私を愛してくれるから、愛する愛。
それは、条件次第で、「だから」愛せなくもなる愛なんですよね。

私たちが持っているのも、普段接しているのも、「〜だから」愛する愛です。
それで、神様の愛まで、いつの間にか「だから」の愛の感覚で考えてしまうのかもしれません。


しかし、神様の愛は、「にもかかわらず」の愛。
偶像礼拝しているにもかかわらず愛する愛、罪人にもかかわらず愛する愛、罪人のために十字架を背負ってもなお愛する愛。
「にもかかわらず」愛する愛なんです。


実際問題、私たちは、どのくらい御言葉に従っているといえるでしょうか。。。
もし本当に、聖書の御言葉にしたがって、100点満点で点数をつけるとしたら、何点くらい、御言葉に従っていると言えますか。

自分は100点満点、いつも完璧に御言葉に従っています!という方、いらっしゃいますか?
はい、誰もいません。

80点くらいでしょうか。60点くらいでしょうか。30点、赤点ぎりぎりでしょうか。

ちなみに、マザーテレサ、
インドのカルカッタで、路上で死に掛けているホームレスたちを献身的に救済活動をしていた彼女でさえ、自分たちの働きを「大海原の海の水、一滴程度に過ぎない」と言っているんですよね。


あー、マザーの働きが「大海原の海の水、一滴ほど」だとしたら、私たち、私のしていることなんて、一滴にもならない、水の分子一個程度のものかもしれませんよね。
それよりも、圧倒的に多くのできていないこと、多くの罪があるわけですよね。


でも、ところが、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ」だ…と神様は語り続けてくれているわけです。

だから、私も、こんな欠けだらけ、罪人にもかかわらず、神様のしもべでいられるんですよね。
すごいじゃないですか。感謝じゃないですか。
私たちが「しもべ」でいられるのも、ただただ、恵みなんです。
だから、みなさんも、間違いなく、神様の「しもべ」なんです。


44:23 天よ。喜び歌え。主がこれを成し遂げられたから。
 地のどん底よ。喜び叫べ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。
 林とそのすべての木も。
 主がヤコブを贖い、イスラエルのうちに、その栄光を現わされるからだ。


愛された喜びこそが、私たちの、最大の原動力です。

「ねばならない」ではなく、礼拝したい、賛美したいんですよね。
地のどん底よ。喜び叫べ。たとえ罪人であっても、たとえ大きなことはできなくても、立派とはいえなくても、地のどん底にも、喜びの叫びがあるんです。


先ほどの続き、マザーテレサは、こういいました。
「私たちの働きというのは、大海原の海の水、一滴ほどのことかもしれない。でも、もしその一滴がなくなってしまったとしたら、この海から、間違いなく、一滴分の水がなくなってしまうのです」

私たちの働きは、水分子1個だとしても、その水分子1個を忠実に果たしていくことなんですよね。


44:24 あなたを贖い、あなたを母の胎内にいる時から形造った方、主はこう仰せられる。
「わたしは万物を造った主だ。わたしはひとりで天を張り延ばし、ただ、わたしだけで、地を押し広げた。…」


この前も、静とお正月に静岡に帰ったときに、清水の三保の松原で、初日を見に行きました。
残念ながら、まんまる太陽の姿では見れなかったわけですが、寒空の中で待ちながら、昇り来る太陽に光や熱さを感じる…、私たちが、この世で生きている、生かされているのは、この自然界の恵みが存在しているからなんですよね。
毎年、夫婦で、新年のはじめに、それを肌で感じ取るようにしているんです。
 
 聖書では、神様が6日、安息日まで入れても7日で、この自然界を創り上げたと書かれているわけですが、その造られたこの自然界は、決して、簡単にポンポンポンと出来上がっているわけでもありません。
これを天文学的に言えば、地球46億年、宇宙誕生137億年という桁外れの数字にもなる代物なんですよね。
それだけ、すごいものなんです。いうなれば、神様が1日ではなく、6日もかけて創り上げた自然界なんです。

それが、まず、はじめに、私たちが生きていく生命の土台として与えられているわけですよね。
この土台がなければ、私たちも生きてはいけない、存在すらしえないんです。


44:25 わたしは自慢する者らのしるしを破り、占い師を狂わせ、知恵ある者を退けて、その知識を愚かにする。


 ここで言われている、自慢する者、占い師、知恵ある者とは、前に出てきている偶像礼拝者のことでしょう。
ですが、実際に、知恵や知識があるわけではありません。


彼らは、もともとは神様が作られた木を切って…


44:16 その半分は火に燃やし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで神を造り、自分の偶像とし、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。


これを現代日本に置き換えれば、木ではなく、ウラン、核になるのかもしれないです。
ためしに、置き換えてみます。


44:16 その半分は「電気」を起こし、その半分で肉を食べ、あぶり肉をあぶって満腹する。また、暖まって、『ああ、暖まった。熱くなった。』と言う。
44:17 その残りで「機械を作って、売って、お金」を造り、それにひれ伏して拝み、それに祈って『私を救ってください。あなたは私の神だから。』と言う。

これが、正直、今の日本の姿だと思いません?
別に、核やお金を、神として拝んでいないかもしれませんが、それが生活の基盤、拠り所にしているのなら同じですよね。

私たちは違いますか。。。
いいえ、私たちも、また、その日本社会で生活している一員なんですよね。


12月の総選挙で、自民党が政権をとった訳ですが、いまや自民党の公約が、日本の政策と変わったわけです。
今は景気対策のみですが、やがて原発も再開、憲法改正へと進むんでしょう。
自民党の公約と、憲法改正案は、よく読んでおいた方がいいかもしれないです。

これは、決して自民党が悪いというわけではありません。
よくも悪くも、それも選択肢の一つ、選んだのは国民なんです。その結果は、私たち国民にも責任があるわけなんですよね。


よくね、政治家の人たちのために祈ったりもするじゃないですか。
ですが、今回、私自身、つくづく思わされたのは、まず私たち国民がまずちゃんと判断できるように祈らないといけないな…と思うんですね。

小選挙区制を考えたら、もしも自民党に反対するのならですよ、対抗できうる民主党に固めるしかない選挙だったんですよね。
票がバラければ、自動的に自民党が勝てる制度だったんです。
でも、その選挙制度を黙って見過ごしたのも国民、私自身もわからなかった、その一人です。

しかし、にもかかわらず、「あなたは、わたしのしもべ。」なんです。

44:26 わたしは、わたしのしもべのことばを成就させ、わたしの使者たちの計画を成し遂げさせる。
エルサレムに向かっては、『人が住むようになる。』と言い、ユダの町々に向かっては、『町々は再建され、その廃墟はわたしが復興させる。』と言う。

昨年12月にも南相馬に行ってきました。

南相馬というのは、いくつかの小さな町が合併してできた市なんですよね。
おそらく過疎化を防ぐ意味もあって、市となって、がんばってもいたのでしょう。

聖望教会でサポートしている原町聖書教会の隣には、小高という町があります。
ここは原発20km圏内なんですが、今は出入りは許されるようになったんですね。
いくつかの古い建物こそ倒壊していますが、でも、それ以外の建物は、被害も少なく、しっかり残っているんです。

しかし、まだガスも水道も止まったまま、目に見えない放射線のために、復旧も進まず、そこで寝泊り、生活することは許されていません。
駅前の商店街、町では一番のメインストリートですよ。
たまに車は通っても、誰一人として歩いている人はいません。まさに誰もいない町です。

ところが、その通りにある1軒のお宅では、クリスマスのイルミネーションが飾られていました。
それこそ夜なんて誰もいない、見る人なんて誰もいません。
でも、そこにクリスマスのイルミネーションを飾るんです。その気持ち、わかるでしょうか。。。


また、あるお菓子屋さんの店舗には、「必ず小高で復興します!」という看板が掲げられていました。
この町が好きで、本当は、この町で暮らしたいんですよね。


実際問題の話、いつ戻ってこられるのか、何人戻ってこられるのかもわからない、戻ってきても、もともとが小さな町です。
商売が成り立つのかもわかりません。
いや、現実的には、きわめて、難しいとは思いますよ。
でも、なんとかして、復興してもらいたいではないですか。


福島の電気は東北電力、福島の原発は東京電力です。
これまで、その電気を使い、その豊かさを享受し、結果、3.11、福島を放射線で汚し、この神様が造られた、少なくともクリスチャンはそう信じている、この自然界を人が住めない場所にしてしまったのは、関東に住む私たちなんですよね。。。
少なくとも私は、私自身もその責任の一旦があると思っています。


それでも、「神のしもべ」と言えるんでしょうか。。。


それでも、「神のしもべ」なんです。にもかかわらずの愛です。


「あなたはわたしのしもべ。」理由は、ただ一つ。「わたしが、あなたを造り上げた」から。
「わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。」

これこそが、私たちの基、絶対なる基盤、イエス・キリストの福音です。

どうでしょう。。。皆さん。決して、私たちの努力、行ないによるのではありません。
ただただ、神様からの恵みです。

44:28 ・・・エルサレムに向かっては、『再建される。神殿は、その基が据えられる。』

今、まず、私たちの心の中に、その基、基盤がしっかりと据えられているでしょうか。
その基盤を、しっかりと確かなものにしてください。

この基の上にこそ、信仰生活も、教会も築かれていくものなんです。

もちろん、私たちには、南相馬を復興させる力は、到底ありません。
でも、この自然界を創り上げられた神様なら、復興させる力もあるわけです。
私たちは、そんな神様のしもべにさせてもらっているんですよね。。。


助けが必要なのは、南相馬だけではありません。
この市川でも、家庭、職場でも、様々な必要があると思います。
その中で、私たちにできるのは、水分子1個、本当に小さな小さなことかもしれない。

でも、この私も、神様のしもべ…、神様が形作ってくれたから。。。

どれだけできるか、何ができるかが、勝負ではありません。
一人一人にできること、個性、能力、やるべきことも、みな、みな違います。

その自分にできる、その小さな小さな働きを、懸命にやらせてもらおうではありませんか。



…ヤコブよ。これらのことを覚えよ。

 イスラエルよ。あなたはわたしのしもべ。

 わたしが、あなたを造り上げた。あなたは、わたし自身のしもべだ。

 イスラエルよ。あなたはわたしに忘れられることがない。 イザヤ書44:21


 

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2012年12月26日

「闇の中に輝く光」ヨハネ1:1〜5,14

(2012年12月9日 南相馬・原町聖書教会)

恒例のあいさつとなりつつありますが、改めまして、みなさん、ただいま。

千葉市川から帰ってきました竹下 力です。

私も静も、働きながらの活動している関係で、なかなか帰ってこられなかったんですけれども、ようやく帰ってくることができました。
今回で4回目、まだまだ全然、南相馬のこともよく知らないのに、不思議と、本当に実家に帰るのと同じ感覚なんですよね。本当ですよ。

名は体を現すとも申しますけれども、通称「ただいまの教会」という名前が、この教会の体を現し、また私たちの心にも実家のような思いを与えてくれているのかもしれないです。

「ことば」というものには、不思議と、そういう力があるんですよね。

…と半ば無理やり、不思議と今日の聖書箇所へとつながる訳ですが、この12月、クリスマスシーズンということで、ヨハネの福音書からお話してみようかなと思っています。


1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
 1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


いきなり、この箇所を読めば、わかるようで、なんだか、ちっともわからん…という感じなんですが、このヨハネという人の文章は、非常に文学的というか、芸術的なんですよね。
この「ことば」とは、もちろん、イエス・キリストのことを指しているのですが、これを学問的、理屈で捉えようとすると、かえって難しいかもしれないです。


試しに、ある聖書注解の一部を読んでみたいのですが、


 〈初めに,ことばがあった〉(1).〈初めに〉は,創1:1を想起させるものであるが,ここでは創造の初めではなく,〈ことば〉(〈ギ〉ロゴス)が創造に先立って存在していたこと,すなわちロゴスの先在性をうたっている.
 
なんだか、わからないものが、余計に分からなくなってくるというか…、
こんな説明を、1分も続けていれば、うちの奥さんだったら、容赦なく、寝てしまうかもしれない…。

わからないものを、いかに、わかりやすく、静さんが寝ないように語るかが、伝道者としての腕の見せ所、使命、役割かもしれないですが、こうして「言葉」で何かを伝える、聞いてもらう、表現するということの中には、さまざまな創意工夫や、人知れぬ苦労があったりもするものですよね。

これは福音書ですから、ヨハネは、イエス・キリストについて伝えたいわけですよ。
そのヨハネが、出だしから、いきなり、「ロゴス」の先在性だとか、小難しい哲学的な説明したくて、こういう表現を使ったのか…というと、ちょっと疑問なんですよね。

1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

この表現なんて、何か絵が浮かんできそうな、まさに芸術的な表現じゃないですか。

あたかも芸術家が、何に感動し、それをどうにか伝えたくて、でも、それがうまく説明できずに、絵や歌や音楽、様々な表現手段を駆使しながら言い表していくように、ヨハネも、イエス・キリストという存在を、見て、聴いて、触れた時に、ことばを駆使しながら、どうしても伝えたい感動があったんではないでしょうか。

私たちも、もっと感覚的に、シンプルに捉えていっていいように思うんですね。

1:1 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

神は、光あれといわれた。すると、光があった…。
神様はことばで、この全宇宙、全世界を創り、私たち人間もことばで造られた…、そう聖書は語るわけですが、ユダヤ人たちも、それをことばで聞き、当時は印刷ないわけですから、多くは口伝、ことばで伝えてきたわけです。

神様も、ことばで、人間たちにご自身を表してきたんですよね。

アブラハムも、はじめに神のことばを聞き、イサク、ヤコブ、子、また、その子へと、ユダヤ人たちは、ことばで伝え、ことばで聞いてきたんです。実に、ヨハネ自身も、はじめにことばで、神様のことを聞いているのです。

1:2 この方は、初めに神とともにおられた。
1:3 すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。


ちょうど金曜日にも大きな地震がありましたが、自然界は時に厳しくもあります。
ですが、一方で、自然に癒されたり、自然の恵みをいただいて、私たちは生かされてもいるわけですよね。

少し話はそれるかもしれませんが、年末年始に静岡に帰った時には、夫婦で、よく日の出を見にいくんです。太陽が昇ってくる前というのは、これまた寒かったりするわけですよ。
ところが、やがて暗かった空が赤ばんで来て、暗闇を引き裂くように、太陽が強烈な光をもって、顔をのぞかせる。その時の太陽の光って、ものすごく暖かいんですよね。
そこに熱さ、いのちを感じるわけですよ。

古くから日本人の場合には、そんな太陽そのものだったり、海でも、森でも、果ては鰯の頭まで、一つ一つのものを神として拝んでしまっているのかもしれませんが、でも、あくまで考えようによってはですよ、自然界のあらゆる森羅万象、八百万の中に、「神」という存在、「神」の性質を感じる感性には優れたものがあるのかもしれない。

…なんてこというと、偶像礼拝を肯定しているみたいですが、決して、そうではないですからね。

パウロもまた、「神の、目に見えない本性…は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知」られていると語っていますが、ただ知らない、わからないがゆえに、太陽そのものを拝んでいるだけで、その感性自体は、必ずしも否定されるものではないと思うんです。
実にその延長線上、その先に、太陽も山も海も創造した「神」という存在がいるわけです。

昇り来る太陽にエネルギーを感じ、飛び立つ鳥たちに美しさを覚え、自然界の全てのいのちあるものに感動する…、それはまさに、それらを創り上げた神を賛美し、まさしく霊とまことによって神を礼拝するということにもなるわけです。

 1:4 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。

私たちも、また、間違いなく、この自然界で生かされている一員です。
それは、今、南相馬、福島で暮らす皆さんが一番、肌で実感していることかもしれない。

冗談抜きに電気や原発がなくたって、人間は生きていけます。ですが、事実として、太陽や海や山、この自然界が生み出す様々な恵みがなければ、誰一人として、私たちは生きてはいけないんですよね。

ところが、とかく人間は、自分の力で生きていこうとするのかもしれない。自分ひとりと言わなくても、人間たちの力で生きているかのように錯覚してしまうのかもしれません。

しかし、どんなに技術が発展しても、多くの人がストレスや悩みを抱え、年間自殺者3万人以上、自らいのちを絶ってしまう…これが今の日本社会の実情でもあるわけです。

事実、私たちは、誰一人として、自分ひとりの力で生きている人などいないし、誰しもが神が生み出した自然界の恵み、いのちを受けて、いかされているわけです。

そんな、いのちを生み出し、光を生み出す神の言葉であり、神ご自身。
それをヨハネは、どこに見出しているかというと、闇の中で見出したというわけです。


1:5 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 

時に、私たちは、漠然とでかまいません…、神様のことを、どこに見出しているでしょうか、
どんなところにいる存在として捉えているでしょうか。

そりゃ神様ですからね。
なんとなく、はるか上の方で、一点の曇りもない、まばゆい光の中で暮らしている、そんなふうに感じている部分があるように思うんです。
でも、実は、それは私たちが神様をどこか遠くに離してしまっているだけで、実は、私たちを取り巻く自然界と同じように、私たちのごくごく身近、隣り合わせに、神は存在しているんではないのでしょうか。

少なくとも、ヨハネは、ここに光はない、ここにいのちはない、ここに神などいないと思えるような「闇」の中で、光は輝いている…すなわち神は存在しているというわけです。

私たちにとっての闇とは、どんな闇でしょうか。。。

様々な人生の苦しみ、悲しみ、不幸と呼べる出来事かもしれません。
あるいは、過去の失敗や後悔であったり、自分でも嫌いな自分、まさに、罪人と呼べる自分かもしれません。
私たちは、そんな自分の闇に対して、ここに神はいない、こんな自分は愛されない…、と勝手に思い込んでいる部分があるかもしれません。

しかし、その「闇」の中にこそ、神の光が輝いているというんです。
闇は、これに打ち勝たなかった…!

本当でしょうか。そんなことがあるんでしょうか。。。

ことばは、目には見えません。神様も目には見えません。
ところが、その、ことばが人となり…、私たちの間に住まわれた。
すなわち、イエスキリストです。


ことばが人となるって、これもまた、わかるようで、なんじゃあ、わからん…言う気もしますが、実は、私たちも、言葉で考え、言葉で行動します。ある意味、私たちも、言葉が、からだを有していると言えると思うんですよね。

でも、私たちの中には、いいことばばかりではなく、悪い言葉、嫌なことば、偽りの言葉もあったりもするわけですよね。
しかし、正真正銘、完全、神のことばが肉体を持った人。それが、イエス・キリストです。


しかも、その神のことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちの間…、わかりやすく例えて言うなら、この南相馬、原町に住まわれたんです。


住まわれたと言うのは、天幕、幕屋を張るということばです。
幕屋というと旧約時代の礼拝所ですので、何か特別なように思えてしまうかもしれないですが、遊牧民たちの一般的な住宅形式でもあるわけですよね。早い話、移動式の仮設住宅なんです。決して、神様の為に建てられた立派な神殿でも、豪華な宮殿でも、一流ホテルのスイートルームでもなく、私たちの間、隣の敷地にテントを建てたというわけですよね。


実は、私自身、クリスマスという時に、今ひとつ、ピンと来ない部分もあったんです。
それは何かと言いますと、救い主の誕生、それはすばらしいことなんですけど、クリスマスというときには、イエス様も、まだ赤ん坊じゃないですか。

何もできないどころか、マリヤとヨセフがいなければ、生きてはいけないんですよね。
ところが、その赤ん坊のイエス様は、神の栄光を捨て、貧しい家庭に生まれ、しかも十字架で死ぬために、生まれてきた…なんて言われてしまうと、なんだか、かわいそうというか、あわれというか、悲しい話に聞こえてくるんですよね。
そんな赤ん坊に、何を期待するねん…みたいな。


しかし、ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

ことばが人なると言うとき、神様の特権で、いきなり完成形の大人としての体を持って現れたのではく、赤ん坊から、さらに言うならマリアのおなかの中から、はじめるわけです。

さらに、イエス様が公に活動し始めたのも、30になってからです。若くて体力バリバリの20歳ではなかったんですよね。
実は、ここに神様、イエス様の意思、選択があったのではないでしょうか。


当時のベツレヘムの馬小屋も、ナザレの住居も洞窟を改造して造られたものです。
日本で洞窟というと、じめじめしていて、こうもりか何かが住んでいそうですが、日本と違って、雨も少なく、当時のイスラエル、貧しい一般庶民の間では、それがスタンダードな暮らしだったんです。


事実、イエス様時代のナザレには、洞窟の住居跡しか発掘されていないんです。
ですので、ナザレでは洞窟の家が普通。その中で大工というのは、洞窟を住めるように改造する家具職人、おそらく近くの町へ出稼ぎにも行っていたと考えられています。


肉体を持つ以上、食べるためには、働かなくてはなりません。
イエス様も、少年になり、働けるくらいの歳になったとき、父ヨセフを手伝いながら、大工として働きはじめるわけです。
そこには私たちと同じように、苦しいこと、辛いこともあったかもしれませんが、楽しいこと、嬉しいこともあったはずでず。


…ことばは人となり、私たちの間に住まわれた。

私たちと同じ暮らし、同じ生活、ごくごく平凡な暮らし、貧しいといえば貧しいかもしれない。でも、そこには、人としての喜びや幸せがあったはずですよね。

聖書では、この時の生活については伝えていないわけですが、イエス様は、間違いなく、家族や仲間と喜びも分かち合いながら、30までは、ナザレで暮らしていたんです。ここにはイエス様の望み、イエス様の意思があったはずです。
しかし、人としての人生経験もそれなりに積んで、30になり、時が満ちて、家族だけ、ナザレだけではなく、全世界に光をもたらすために、活動を開始したわけです。


イエス様は、事実として、遊女、取税人(言うなればやくざですよね)…多くの罪人たちと共に食事をし、時に笑い、時に涙もしながら、彼らを赦し、神の愛を伝えたんです。当時の宗教家たちから反感を買っても、なお愛したがゆえに、ついには十字架を背負うことになっていくわけです。

確かに十字架は、世界で最も苦しい死刑、苦しみそのものです。

でも、イエス様は、あえて、その十字架に挑んだわけですよね。逃げようとすれば、逃げられる状況だったにもかかわらず、そこに踏みとどまるわけです。
それが、ゲッセマネの祈りです。

なぜか。。。
もし逃げてしまえば、多くの罪びとたちが、また神から愛されない、闇の世界にもどらなくてはならないからです。

そんな中、ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
一見すれば、正しくも、立派にも見えるかもしれません。

ですが、このヨハネの福音書をよく見てみると、この時のヨハネは、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたことが書かれています。(ヨハネ18章)。

イエス様が捕らえられて、大祭司カヤパの官邸に連れて行かれたとき、ペテロは周りにイエスの弟子だと言われて否定してしまうんですよね。ところが、一緒にいたヨハネは、門番とも顔パス、お咎めなしですんだんです。
なぜならば、イエスを十字架につけた張本人、「大祭司の知り合い」だったからです。

ユダは、公然と裏切り、ペテロは、公然と否定してしまいました。
しかし、ヨハネは、影で裏切り、影で否定していたんです。

これが闇の自分…、それでいて真実なヨハネの姿だったんです。

でも、イエス様は、十字架の上から、ヨハネを見つけると、母マリヤを託すんですよね。
イエス様だって、馬鹿じゃない。ヨハネが、まともにイエスの弟子だとわかれば、何事もなく、その場になんていられないはずなんです。何かが裏がある。

でも、イエス様は、黙って、赦すんです。そんなヨハネを信じるんです。それでも、ヨハネを愛するんです。

ここに実は、言葉にならないことばが、イエス様とヨハネの間にはあったんです。

…わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

これはイザヤ書にある神様の言葉ですけれども、まさに神のことばが人となり、人を生かす、いのちの光が、闇の中で確かに輝いていたんです。

沈黙の中にも、ことばってあるんですよね。。。
ヨハネも、自分が大祭司と知り合いだったなんて、黙っていれば、誰にも知られずにすんだのかもしれない。でも、マタイ、マルコ、ルカと福音書が書かれ、伝えられていく中で、伝え切れていないことばがある、ヨハネには語らずにおれないことば、いのちのことばがあったのではないでしょうか。


私たちの「闇」って、どんな「闇」でしょうか。それは、人それぞれ違うと思います。
どんな場所で、闇を感じているでしょうか。。。

いや、実は、私たちが勝手に闇だと思い込んでいるだけかもしれないですよね。
その闇の中にこそ、光は輝き、沈黙の中にも、ことばがあるんです。

…私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。
この方は恵みとまことに満ちておられた。


イエス・キリストは、残念ながら、今は目で見ることはできません。
でも、闇もある私たちの人生の中で、今日も私たちの間に、イエスはおられます。

たとえ、私たちが闇だと思う唯中にあったとしても、すぐそばに、イエスがおられます。

イエス・キリストは、ありのまま、真実な私たちの姿を見たうえで、
表で格好付けることはない、背伸びをすることもない、
わたしは、あなたを愛しているよ、この場、ここから、一緒に歩いていこう。。。
そう語りかけてくれるお方です。


…初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。

 この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
 光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった…!!


そんな闇の中に輝く光、イエス・キリストと出会えるクリスマスとなりますように、お祈りしています。
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2012年11月25日

福音のスパイラル(Tヨハネの手紙 4:1〜2, 9〜12)

(11/25 シャローム福音教会 他)

みなさん、おはようございます。

さて、今日で11月最後の日曜日になりました。日に日に寒くなってきていますが、皆さん、お変わりないですか?


いよいよ今週土曜からは12月、クリスマスシーズンを迎えようとしています。
この前の休み、妻の静と一緒にショッピングモールに出かけたんですが、早いもので、もう大きなクリスマスツリーとか飾られているんですね。妻の話では、もう今月のはじめから出てるよって言うんですが、商魂たくましいというか、教会より早いな…なんて思うんですが、教会でよく本当のクリスマスを知ってください…なんて呼びかけるじゃないですか。でもその前に、世の中、すでにクリスマスみたいな?日本って、そういう意味では不思議な国かもしれませんね。

でも、実は、私自身、クリスマスって、今ひとつピンと来ない部分もあったんですよね。

だって救い主といったって、生まれた時には、赤ん坊じゃないですか。確かに、救い主の誕生、それはそれで、すばらしいんですけど、赤ん坊のイエス様が何をしたわけでもないんですよね。むしろ、マリヤとヨセフ、大人が世話しなきゃならんのですよ。
でも、その意味を教えてくれているのも、今日の箇所でもあるのかなって思います。


さて、今日は、福音のスパイラルとタイトルを付けさせていただきましたが、「スパイラル」とは、螺旋、渦巻きのこと。また渦巻状に連鎖して上昇していく様を表しています。
「負のスパイラル」なんていうと逆ですね。報復の連鎖のように、マイナスにマイナスを重ねて言ってしまう様子を表します。
もちろん、今日の話は、「負のスパイラル」ではなく、「福音のスパイラル」。神様の愛の中で、私たちが上昇していく、愛のスパイラルと名づけてもいいのかもしれません。


実に、このヨハネの手紙では、言葉を変えながら、同じことが繰り返されているんです。それは、イエス・キリストの十字架であり、神の愛、そして、私たちが愛し合うということ…、それを一番端的に表しているのが、今日の箇所かなと思い、代表的に選ばせていただいたんですが、クリスチャンの皆さんにしてみれば、きわめて基本中の基本、ある意味、当然のように思う内容かもしれません。

しかし、ヨハネは、決して、信仰の入門書や、伝道メッセージを書いているわけではなく、紛れもなく、クリスチャン、教会に向けて、この手紙を書いているわけです。
それはなぜなのかと言うと、もうひとつヨハネが繰り返している、異端への警戒があったわけです。


2:21 このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。

私たちは、まず、このことを真摯に受け止めておく必要があると思います。
つい、私たちは「異端」と言われても、私たちとは関係がない、私たちは大丈夫と思ってしまいがちなのかもしれません。でも、ヨハネは真剣に警戒しているわけです。

この手紙の一番最後は、5:21 「子どもたちよ。偶像を警戒しなさい。」と締めくくられているわけですが、手紙なんだから、もっと気の利いた挨拶もあるだろう…って気がするじゃないですか。

でも、それだけヨハネは切実に危機感を感じていたのだと思います。自分は大丈夫でも、周りが、同じ危険に巻き込まれる可能性は、決してゼロではなかったわけです。


4:1「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません。」

と、出てきますが、事実として、イエス・キリストを信じているようで、福音の原点から外れていくクリスチャン、教会もあったんですよね。


ごくごく簡単に言うと、ヨハネがこの手紙を書いた当時には、「グノーシス主義」と言って、霊と肉とに分けて、霊魂こそが善で、この肉体は全て悪だと考える思想があったんです。そのグノーシス主義の思想が、キリスト教会の中にも入り込んできたんです。


…なんて、「グノーシス主義」だなんて説明が始まると、うちの奥さんなんか、すぐに眠くなり始めるらしいんですよ。
皆さんは大丈夫でしょうか。。。
これを、いかに、わかりやすく、奥さんが寝ちゃう前に、説明できるかが伝道者としての役割、使命なのかもしれませんが、この手紙を理解する上で、手がかりになることなんで、ちょっとお付き合いくださいね。


この「グノーシス主義」では、肉体は悪だと考えますから、キリストも肉体を有したのではなく、ごく普通の人間、ナザレのイエスがバプテスマを受けた時に、キリストの霊が乗り移り、十字架で死ぬ直前に肉体から離れた…と考えたわけですね。
私たちからすると、かえってわからん…という話になるかもしれませんが、ギリシア哲学の影響もあって、当時のギリシア世界の人たちには、妙に説得力があったんです。

ですので、キリストを信じているようで、実はイエス・キリストの受肉(誕生)はもちろん、十字架、復活も否定してしまったんです。
 
 このグノーシス主義では、霊だけが高められ、霊だけが救われればいいわけです。そこで、肉体のすることはろくでもないと極端な禁欲主義に走るか、あるいは、逆に、罪は所詮肉体のもの、何をしてもかまわない…極端な快楽主義に走る人たちもいたようです。
 ほんのちょっとした狂いが、実は、大きな違いをもたらしていく結果にもなるわけです。


 そうした背後があって、ヨハネは、福音の原点を語っているわけです。
 
 4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。


 この前の節では、「愛のない者には、神はわからない」とまで出てきますが、でも、ここで言われているのは、愛は愛でも、無差別無償に与える神の愛です。決して、ヨハネも最初からそんな愛を理解していたわけでもなければ、自らが持っていたわけでもありません。それがイエス・キリストによって示されたんだというわけです。

たとえ人間に罪があるとはいえども、本来、この人間の肉体も、神が造られたものです。
イエス・キリストもまた、肉体をもって生まれ、その肉体をもって、肉体を持つ人を愛したわけです。言葉を変えれば、人として生まれ、人として人を愛したんですよね。
決して、霊とか、思想とか、概念だけの世界ではありません。


目に見えない神が、目に見える形で、人を愛するためには、借り物ではない、完全オリジナル、ご自身の肉体を持つ必要があったわけです。
それがゆえに、人間に養われなければならない赤ん坊から、母マリヤのお腹のなから、人をはじめたんですよね。

当然、肉体を持つというのは、食べていかなくてはなりません。
ナザレという小さな村で、大工として働き、そこで私たちと同じように、人生の痛みや悲しみ、苦労も含めて、人としての様々な経験を積むわけです。そういった経験と体力が一番バランスが取れたような30歳で活動を開始したわけです。

そして、事実として、罪人の友となり、共に食事をし、時に笑い、時に涙を流しながら、罪人たちを赦し、愛したがゆえに、その罪の責めを負い、その肉体を持って、十字架を背負ったわけです。



 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

ヨハネは、十字架のふもとにまで行った唯一の弟子です。
ペテロはイエスを知らないと三度否定し、他の弟子たちはとっくに姿をくらましている中、一見すれば、最も忠実な弟子かのように見えると思います。
でも、彼は、この時、「イエスの弟子」としてではなく、「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。そのことは、ヨハネの福音書で告白されています。ユダは公然と裏切り、ペテロは公然と否定しました。でも、ヨハネは、影で裏切り、ひそかに否定していたんです。


私たちが神を愛したのではない 

…実は、ここに、ヨハネ自身の完膚なき自己否定、罪の告白もあるわけです。

しかし、けれども、にもかかわらず、イエス・キリストは愛してくださった。

神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
ここに愛がある。


 4:11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。


…とはいっても、ところが、ところがなんですよ。

この愛は、愛は愛でも、キリストの愛、無限大なんですよね。
神が、どんな自分を、どれほどまでに愛してくださっているか、知れば知るほど、決して、自分にはできないことも見えてくると思います。
であるがゆえの「愛し合うべき」、「べき」の愛なんです。


4:12 いまだかつて、だれも神を見た者はありません。もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

愛という点では、私たちは、まだまだ成長過程だと思います。今、できていなくてもいいんです。むしろ、できないからこそ、私たちには、赦しが必要で、十字架が必要なわけですよね。
ただ、その「愛すべき」、愛するという方向に向かっているかどうか、ここが大切なんです。


もしも、何か心が責められることがあるなら、やっぱり十字架のもとに行き、そこで、しっかり神の赦し、神の愛を受け取ることなんですよね。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

「光の中を歩む」というと、どこか聖人君主のように、清く正しく美しく歩んでいるかのようにと思ってしまうかもしれませんが、でも、そうじゃないんです。もし私たちが、本当に神様の光の中を歩んでいるなら、罪も、穢れも、ついでにシミも、そばかすも、よう見えるはずなんですよ。
実は、それが正真正銘、「ありのままの私」なんですよね。

しかし、そんな神様の光の中を歩んでいるなら、私たちは父なる神と、御子イエス・キリストとの交わりを保ち、私たちの行ない、努力、訓練によるのではなく、ただ御子イエスの血が、すべての罪から私たちを清めてくださるというんです。


「罪」というと、なんだか悪いことのイメージが強いと思うんですが、元の言葉の意味は、「的外れ」。野球のストライク、ボールで言えば、ボールです。愛から的をはずす、要するに失敗です。これが聖書の言う「罪」なんですね。たとえ的はわかっていても、的をはずしてしまうことはありうるわけですよね。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

ともありますが、「罪」や「失敗」のない人なんて、当然、いないわけです。


しかし、そんな失敗を隠すのではなく、本当のありのままの自分のまま、神様の前に「罪」を認め、そんな自分をも愛する神の愛を知って、再び愛に向かって生きる。実に、私たちの信仰生活とは、実に、この繰り返しなんだと思います。
ですが、この繰り返しは、決して、ただの繰り返しではなく、そこに学ぶべきことがあり、成長があり、神の愛が渦となって、螺旋階段のように、少しずつ登っているわけです。


ところが、この繰り返しが、ただの繰り返しのように感じて、クリスチャンとしてこれでいいんだろうかとか、このままでは駄目だとか、何かが足らないかのように思えてしまうことがあるのかもしれません。
そんな心の隙に、すーっと異端の罠は忍び込んでくるように思います。


私の周りでも、知らず知らずのうちにカルト的になっていた教会に巻き込まれて、何かおかしいと思いながらもわからず、様々な傷を負ったり、心身ともに疲れ果ててしまったりした友人、知人がいます。決して、私たちに関係ない話ではないんです。
自分は大丈夫かもしれません。でも、家族が、友達が、知人が、そうした罠にはまってしまうことはありうるわけですよね。


まずひとつ多いのは、信仰だけでは不十分、こうでなくてはならない…というような、律法主義的な考え方だと思います。その罠にはまった代表例が、ガラテヤの教会です。
この考え方、発想は、実に、私たちに入り込みやすいのかもしれません。なぜなら、私たちの社会自体、法律や規則で行動を規制したり、評価したりすることが多いからです。


今、うちの会社でも、新人ちゃんを入れて、教育しているんですが、旅行業としてやるべきことは教えられたとしても、個々のお客様にどう対応していくかは、マニュアルで教えられない部分があるんですよね。
新人ちゃんも、失敗したくないものだから、これでいいですか、あれでいいですか…と聞いてはくるんですが、教えるほうも大変です。お客様にどうすれば喜んでもらえるか…、それはお客様によって、みな違うわけです。実際に、そのお客様の要望を聞きながら、自分で考え、悩み、時には失敗もしながら、いろんな経験していくことだと思うんですよね。


愛するということも同じ。決して、こうすれば正しいということもないし、自己満足では終わらないんです。命令やマニュアルで決めてしまえば、ある意味、正しいことはできるかもしれないし、失敗することも、責任を負うこともないかもしれないですが、「愛する」ということは、そういうものではないですよね。

愛は、自らの意思と責任で行うからこそ、愛になるわけです。だからこそ、私たちには、愛だけではなく、キリストにある自由も与えられているわけですよね。この愛と自由はセットです。自由というとね、なんだかいいなあと思うかもしれないんですが、そこには、ちゃんと自己の判断と責任が伴うわけです。でも、それは、私たちが自ら愛するため、その愛する心を育てていくために、この自由というものが欠かせない、大切な要素なんです。


そして、もう一つ陥りやすいう誤りが、霊的な成長、霊的な力を求めるあまり、違う霊、違うスピリット、違う発想まで取り込んでしまうことです。

4:2「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

聖霊は、あれやこれや自己主張をするのではなく、間違いなく、イエス・キリストを指し示し、イエスこそが、キリスト・救い主だと告白、証言しているわけですよね。

ただ、気をつけてほしいのは、偽預言者たちも、「キリスト」の名前を使うということです。残念ながら、私は偽者ですなんて自己紹介してくれないわけですよ。
しかし、聖霊は、ただ名前だけ「キリスト」ではなく、あるいは概念や知識、霊的なほにゃららではなく、人となってこられたイエス・キリスト、すなわち歴史上の事実として、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえった、受肉、十字架、復活のキリストご自身を指し示してくれているわけです。


事実として、私たちを愛し、その肉体をもって、十字架までをも背負われたイエス・キリスト、ここにこそ愛があります。
このイエス・キリストを信じる信仰によって救われる、これ以上も以下もありません。


ところが、偽預言者というのは、それでは足りないかのように語ってくるわけですよね。
十字架だけでは不十分、信仰だけでは不十分、実はこれが必要、実はこれが隠された奥義なんですよ〜ってな感じで、忍び寄ってくるんです。

ですので、絶えず、仮に私が言うことであってもですよ、「本当にイエス様は、そんなこと言うだろうか」「イエス様だったら、どう考えるだろうか」どこかで吟味する、この視点を、私たち一人一人が持っておく必要があるわけです。

ある意味、悪魔だって、聖書の言葉を使うんですよね。たとえ、どんなに聖書から語られていても、福音の原点、イエス・キリストから外れた聖書の解釈は、神の言葉ではないわけです。

ヨハネも、2:24では、このように忠告しています。

「あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうちにとどまるのです。」


ヨハネは、その「初めから聞いたこと」、すなわち、キリストの十字架であり、神の愛であり、そして、私たちが愛し合うということ、それらをこの手紙の中で、1章の初めから、「初めからあったもの、私たちの聞いたこと」として、繰り返し、繰り返し、しつこいくらいに語っているわけです。ぜひ、一度、その視点で、この手紙全体を読んでみてもらえれば、より理解も深まると思います。

45歳で今も現役でがんばっている、有名なサッカー選手の三浦和良、ロス疑惑の三浦和義ではないですよ。サッカー選手の方の三浦和良がこんなことを言っています。

学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

チームが負けた時、何か失敗したとき、謙虚に自分の未熟さを認めて、そこで何か得られるものはないかと学ぶことを知っている、そういう人は、誰のせいにもしないと言うわけですよね。
彼は、それこそ日本を代表をする、一時は世界のトップレベルでプレーしていた選手です。正直、プライドや誇りもあると思うんです。でも、そんな彼が、「僕は学ぶ者でいたい。」というわけです。

昔は、かなり負けん気の強い選手だったと思うんですけどね。実際には、彼にも、人のせいにしてしまうこともあれば、自分を責めてしまうこともあるはずなんです。でも、そんな彼も今、45歳。プロのサッカー選手としては、肉体的には衰え、とっくに引退してもおかしくない年齢です。でも、「僕は学ぶ者でいたい。」今でも、現役で続けています。

私たちは、どうでしょうか。。。

私たちも、自分自身を振り返った時、まだまだ未熟な不完全なものだと思います。


学ばない者は人のせいにする。
学びつつある者は自分のせいにする。
学ぶことを知っている者は誰のせいにもしない。
僕は学ぶ者でいたい。

私も、若いときには、かなり人のせいにし、最近は、自分のせいにしてしまうことも多くなったかな…と言う気がするんですが、やはり、学ぶ者でありたいですよね。
私たちは、この生涯、最後まで、現役のクリスチャンなんです。


神がどれほどまでに愛しているかを知り、そして、自らが愛することを学ぶ。

聖書も、イエス・キリストを中心に、この視点で読んでいくときに、いろんな気づき…、
様々なアイデアや知恵、時に、励ましや慰めまで、与えてくれるはずです。


時に失敗することはあると思います。たまには、疲れて、立ち止まってしまうこともあっていいと思います。人を愛せなくなること、赦せなくなること、罪を犯してしまうこともあるかもしれません。
しかし、私たちがどんなに不完全であったとしても、神の愛は、完全です。


ことあるごとに、十字架のもとで、どんな自分が、どれほどまでに愛されているか…、
キリストの愛の深さ、広さ、高さを繰り返し、繰り返し、味わいながら、この福音の螺旋階段、神の愛の渦の中を1歩1歩、登っていくものでありたいですよね。
その行き着く先は、間違いなく、天の御国へと繋がっているのです。



「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。」


 

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2012年08月05日

「ハートに金メダル」マタイ25:14〜30(タラントのたとえ話)

(2012.8.5 茅ヶ崎シオンキリスト教会)

みなさん、おはようございます。

毎年8月になりますと、悟先生の代打として登場する、自称8月の男、竹下 力です。
「8月の男」というと、年一回の登板でも何だかすごそうじゃないですか。ただの男なんですけどね。
「8月の男」勝手に気に入っているんですが、おそらく来年も8月には登場しますので、ぜひ、よろしくお願いいたします。


さて、今、ロンドンオリンピックが行われていますが、メダルを取るって大変なことですよね。
思うんですが、水泳とか、体操だとか、なかなかメダルが取りにくい競技というのは、たとえ銀や銅でも、メダルが取れれば、大喜びできると思うんですよ。

ところが、柔道…、私も見かけによらず、かつて柔道をやっていたこともありまして、柔道を、よく見るんですが、金が当たり前、金メダル以外はメダルじゃないなんて言われたりもして、銀や銅だとなんだか残念…のような、なんだか緊迫感と悲壮感に漂っているんですよね。


オリンピックに出られることですら、本来、すごいことだと思うんですよ。ところがオリンピックで試合できる喜びよりも、金へのプレッシャーでなんだか選手たちも萎縮しているような。むしろ金にこだわらず、チャレンジ精神で、日本の柔道で、世界のJUDOに挑んでもらえたらなと思うんですけどね。

さて、今日は、そんなロンドンオリンピックから、インスピレーションというか、かこつけて「ハートに金メダル」なんてタイトルをつけてみたんですが、神様も私たち一人一人に、金メダルを用意してくれています。

えっ、私にですか…?、何に対してですか…?と思うかもしれませんが、皆さん、一人一人に、この8月の男にですら、ちゃんと金メダルを用意してくれているんです。
果たして、どんなメダルなんでしょうか?

今日は、それを「タラントのたとえ話」から見ていこうと思っているんですが…、その前に、このたとえ話、皆さんは、どのように受け止めているでしょうか。

話の内容をざっといいますと、

ある金持ちの主人が、遠くへ行くというんで、僕(しもべ)たちに財産を託していくんですよね。
能力に応じて、ひとりには5タラント、ひとりに2タラント、そして、もうひとりには1タラントを預けていくわけです。

5タラント預けた僕は、その5タラントを元手に、さらに5タラント儲けるわけですね。
2タラント預かった僕も、やっぱり2タラント儲けます。
帰ってきたときに、主人は、喜ぶわけですな…。「よくやった、忠実な僕じゃ。」

ところが、1タラントの男は、地面に埋めてしまうわけですよ。それを知った主人は、その1タラントの男を放り出してしまうお話です。


どう思います?

この1タラントしかもらえんと、この男が、なんだか、かわいそうにも思えたりするわけですが、
いっくら信じる信仰による救いといっても、何もしなければ神様に裁かれる…、
やっぱり神様のために、ある程度は何かをしないと救いも取り消されてしまうんじゃなかろうか…、
そんなふうにも、読めると思います。


しかし、福音の大原則は、行ないによるのではなく、イエス・キリストを信じる信仰による救い、ただこれ一本です。
聖書全体から見れば、そうです。

でも、このタラントのたとえ話、何もしないで怠けていれば、神様に裁かれる…そんなふうに誤解されていることも多いんじゃないか…と思うのです。


ですが、実は、この1タラントの男が、1タラントを地面に埋めておいたことが問題ではないんです。
この男が、お金を稼ぐ能力に乏しかったのでもありません。この男の主人に対する理解が圧倒的におかしいんです。


よく教会で「タラント」 といえば 「能力」、教会用語でいえば神様から与えられた「賜物」として使われることがあると思います。
確かに英語でも「タレント」といえば、「才能」とか「有能」という意味になりますし、日本で「タレント」といえば、芸能人のことを指したりもしますよね。それらもすべて、この「タラントのたとえ話」から派生してきた意味です。


なんですが、この当時、この「タラント」という言葉に、「能力」という意味はないんです。
これが大きな誤解の元かもしれません。
「タラント」とは、元々重さを量る「はかり」のことで、そこから、金の重さ、つまり金額をあらわすようになりました。
ですので、この時、イエス様が語られている「タラント」も「能力」を意味しているわけではなく、単純に金の量、金額です。

ですので、今日は一旦「タラント」=「能力」「賜物」という公式ははずしてみてもらいたいんです。


さて、その1タラントは、新改訳聖書の注釈では、6000デナリになります。
1デナリは、当時、労働者の一日分の給料に相当します。
仮に1日の日当を5000円と見積もったとしても、およそ3千万円という金額になります。


ですから、15節を読み替えますと、

「彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには1億五千万円(5タラント)、ひとりには6千万円(2タラント)、もうひとりには3000万円(1タラント)を渡し、それから旅に出かけた。」


なんだか、途端に、すごい話に変わったような気がしませんか。
話を聞いている弟子たちにしてみても、手にしたことも、見たこともないお金だったと思います。

確かに、5タラントや2タラントに比べれば、1タラントしか与えられていないように思うかもしれませんが、実は3000万円、1タラントも与えられているんですね。


もし会社で、社長が留守にする間、3000万円の決済を一任するとしたら、かなりの実力と実績がある人ではないでしょうか。誰でもいいという額ではありません。
どうでしょうか。
もし皆さん、自分が社長だとして、留守の間、3000万円任せられる部下という人って、どういう人でしょう。
たとえ、どんなに能力があっても、若手の新人に任せられますか?
絶対にできないですよね。決して、誰でもいいというわけではないはずです。


この1タラントの男は、決して能力に乏しい男ではなく、3000万円の資金を管理、運用できるだけの能力もあったし、十分な実績もありました。
だからこそ、この主人は、この男に1タラント、3000万円を託して安心、彼を信頼して預けているわけです。


ところが、主人が戻ってくると、この男は、こういうのです。

25:24 『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。』


いったい、どういうことなんでしょう?
なんで、この男が、そんなことをいうのか、全くわからない…そういう話なんです。

3000万円あれば普通の会社なら十分に立ちます。
私も普段は旅行会社で働いているんですが、無担保で3000万円の融資が受けられるとしたら、こんなありがたい話はないですよ。
主人は、決して蒔いていないわけではないのです。


この1タラントの男は、単に怠けていたわけではありません。
だからといって、持ち逃げしたり、使い込んだり、悪いことはしていない、確かに1タラントを返すのです。

ですが、面と向かって「あなたは散らさない所から集めるひどい方だ」と言い放つわけです。
もし、この主人が本当に「ひどい方」で、この男が主人を恐れていたら、そんなことも言えないはずですよね。
主人が「こわくて」、地面に埋めたというのは、嘘なんです。

むしろ積極的な意思で、この「ひどい」主人のために、あえてリスクや苦労を背負って、一文たりとも稼ごうなんて思わない。
あなたが預かれといったから、預かっただけ。これ以上も、これ以下もありません、これがあなたものです。
私は言われたように預かりました。そのままお返しします。

主人の信頼や愛情を全く理解しようとはせず、ある種の敵意すらあるのです。

この主人は、決して、1タラントで何の利益が得られなかったことで、腹を立てたわけではないんです。
地面に埋めて置いたことが気に入らなかったわけでもありません。

あなたは、わたしのことをそのように思っていたのか…、この男の思いにショックを受けているのです。


この男にしてみれば、1タラントでも、5タラントでも変わりはありません。
金でも銀でも銅でも、石ころと同じ。地面の中に埋めてしまうのです。


25:29 だれでも持っている者は、与えられて豊かになり、持たない者は、持っているものまでも取り上げられるのです。

当時、イスラエルの宗教家たちも、確かに律法は守り、神様のことも信じていました。

しかし、彼らは、律法を守らなければ神からは祝福を受けられない、律法守らなければ神から裁かれる…、
極端な話、とにかく朝から晩まで、律法に反しないような1日のスケジュールを考えて、そのとおりに行動をしていたんです。
そうしなければ、神様にやられる、祝福を失う、まさに、彼らにとって神様は、まるで「蒔かない所から刈り取るひどい方」かのようでしたし、そう教えていたんです。
だから、律法を守らない民を裁いたり、さげすんだりもしていたんですよね。

しかし、彼らも、決して神様から愛されていなかったわけではありません。

…わたしの目にはあなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している

旧約聖書のイザヤ書にある有名な言葉ですが、これは、まずイスラエルに、しかも名指しで語られている言葉です。

しかし、彼らは、神の愛が理解できず、イエス・キリストを地面に埋めるどころじゃない、十字架に釘付けにしようとしてしまうのです。

時は、まさに、そんな十字架が迫っていました…。

 本当に神は、蒔かない所から刈り取るようなひどいお方だと思いますか…。
 それは、大いなる誤解です。
 どうか、父の愛を受け取ってください…。
 わたしは、これから十字架を背負います。これが神の愛です。
 どうか受け取ってください。
 そうしなければ、与えられている愛まで、なくなってしまう、失っていくのです。


表現は厳しく語られていますが、これがイエス様の心です。

私たちは、能力の点で言えば、1タラント以下かもしれません。
誰か、私に無担保で3000万円融資してくれる人はいるでしょうか…。
誰もいません。
300円か、3000円か、せいぜい、がんばって3万円くらいだと思います。私なんか、0.001タラントの男ですよ。


ですが、これは、たとえ話。
商売やスポーツの世界では、能力や結果で評価されるかもしれませんが、福音の世界ではそうではありません。
信仰に応じて、誰にでも与えられる、神様の愛を受けとって生きる世界です。


神さまは、私たちにどれほどの「タラント」を与えてくれているんでしょうか。
初めに言いましたが、「タラント」は、「能力」ではありません。元々は金額です。
イエス・キリストの命を、もし金額に換算するとしたら、いくらになるんでしょうか。。。

1タラントでしょうか。2タラントでしょうか。5タラントでしょうか…

実に、私たちには、ものすごい「タラント」が注がれているんですよね。


私たちにとって、愛された喜びこそが、すべての原動力です。

ですが、その神様の愛に比べたら、私たちが神様のためにできる一つ一つは、実に小さなことかもしれません。
そんな自分に勝手に×をつけてみたり、これじゃあ駄目だと否定してしまったりすることはないでしょうか。。。

ある五歳の男の子が、お父さんの誕生日に、お箸をプレゼントしました。

ところが、それは料理で使う、長いお菜ばしだったんですね。
お父さんもそのお菜ばしをもらって、これお父さんになの?お母さんにじゃないの?
たまには、料理の一つくらいしなさい…ってことなのかななんて、
最初は戸惑ったらしいんですが、話を聞いてみるとですね、
はじめ、お店に行ったとき、その子が持っているおこずかいで買えるようなお箸がなかったらしいんですね。

それでも、その男の子は、お父さんにお箸をプレゼントしたくて、いろいろお店を探していると、他のよりも長くて立派なお箸が眼に留まったんです。
しかも、自分のおこずかいでも買える。それが、お菜ばしだったんですよね。
その子には、それがお菜ばしだなんてわかりませんから、もう喜んで、お菜はしを買ってきたわけです。


そのお菜ばし。それは、五歳の男の子の愛だと思います。
愛というのは、形ではありません。立派なことでも、大きなことでなくてもいいんですね。
能力でもない、成果でもない、ハートです。


一方、五歳の息子が、自分のためにお箸をプレゼントしようとして買ってきたお菜ばしだとわかって、嫌がるお父さんはいません。
その日の夕飯は、がんばって、その長いお箸で食べたそうです。
これはお父さんの愛だと思います。
このお父さん、私の恩師で巡回伝道者の福沢満雄先生なんですが、今でも、そのお菜ばしを取っておいてあるそうです。


神様の眼から見たとき、私達のしていることも、とんちんかん。抜けているところ、足りないところも、大いにあると思うんですね。
しかし、それを愛として、受け止めてくれるのも、神様の愛だと思います。

神様は、決して「蒔かない所から刈り取るひどい方」ではありません。
神は、その一人子イエス・キリストを与えたほどにこの世を愛された…愛なる神です。


私たちがその愛に答えようとするとき、…能力や成果は関係ありません。

小さな者が、小さな者にする、小さなことにも眼を留めて、
そのハートを評価して、『よくやった。良い忠実なしもべだ。』そう言って喜んでくださる。


私たちに、最高のタラントを与え、私たちのハートに最高の金メダルを用意してくださっているのではないでしょうか。



…よくやった。良い忠実なしもべだ。
  あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。
  主人の喜びをともに喜んでくれ。

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「何を学び、何を伝えていくのか」マタイ28:16〜20

みなさん、おはようございます。

先日、私の友人で、神学校で説教学の講師をしている牧師と話す機会があったんですが、説教で大切なのは何だ…という話題になりました。
…といっても、まじめな説教学の講義ではなく、友人との話なんで、半分、冗談なんですが、説教で大切なことって、皆さんは何だと思うでしょうか。

私とその友人との間では、お互い開口一番、そりゃあ、まず笑いでつかむことだろう…ということで一致したんですが、いや、実際、笑いって大切なんですよね。半分冗談なんですが、半分は本当なんです。

これは別に説教には限った話ではなく、こうして人前で話すときにはすべて言えることなんですが、
人は笑うことで緊張が解けて、相手の話に耳を傾ける準備ができるらしいんです。


「牧師殺すに刃物はいらぬ、あくびの三度もすればいい。」なんていった人もいましたが、
もう笑いさえ取れれば、その説教は80%成功したようなもの。
あとは、基本、聖書の話じゃないですか。でも、実は、毎回、その笑いのネタを考えるのが大変なんです。


今、テレビでロンドンオリンピック、やってますよね。
昨日も、説教の準備の間に見たりするんですが、なでしこが勝つか負けるかよりも、大体、そういう時は、なんかネタはないか…と思いながら、見てたりもするんですよ。


だから、芸人さんって、すごいな…と思うんですよね。特に若い芸人さんなんて、つまらないネタやりながら、必死で、がんばっていたりするじゃないですか。そういう姿を見ると、わしもキリストの芸人としてがんばらにゃあかん…と思ってみたりもするんです。

さて、今日は、「何を学び、何を伝えていくのか」、宣教命令として有名な箇所を取り上げているんですが、
もちろん、いかに笑いを取るか…ではありません。


宣教命令…、みなさんもここから説教を聞く機会があると思うんですが、どんなメッセージが多いでしょうか。おそらく宣教しましょう!と語られることが多いのかなという気がします。


ですが、宣教を考える前に、私たちが聖書やイエス様から、いったい何を学び、何を伝えていくのか…、私たち自身が確かに確認しておくってことが、実は、すごく大事なように思います。

現実に、数々の教団、教派に別れ、それぞれに特徴や主張があったりもするわけです。
それはそれで、もちろん何が正しいのか探求している結果ですので、決して否定もできないのですが、一方で、細かい部分で、それぞれのこだわりを主張しあっていては、私たちであっても、何が正しくて、どうすればいいのか、混乱もしてしまうわけですよね。

そんな傍らで、本当におかしな聖書解釈によって、カルト化してしまう教会も存在してしまうんです。

クリスチャン以外の人たちからしたら、どうでしょう。。。
「これだから、宗教は…」って話にもなるわけですよね。実際、そうなんですよ。
つまり、そのつもりはなくても、周りには違うものが伝わっているわけです。

ですが、イエス様が何を教え、何を伝えてほしいのか、これが本当に大切なことですよね。それがイコール、私たちが何を学び、何を伝えていくのかでもあるべきです。
今日は、この宣教命令を足がかりに、変な話、実際にキリスト教会で語られている、おかしな聖書解釈もご紹介しながら、本当に伝えるべき大切なことは何なのかを、ご一緒に考えることができればなと思います。

28:16 しかし、十一人の弟子たちは、ガリラヤに行って、イエスの指示された山に登った。
28:17 そして、イエスにお会いしたとき、彼らは礼拝した。しかし、ある者は疑った。


聖書って、本当に正直だと思うんですよね。
十一人の弟子たちが、復活の主に会ったときに、「ある者は疑った」というんです。
「疑う」といえば、トマスが有名ですが、トマスだけでもなかったようです。

弟子たちといえども、復活の事実を目の前にした時に、にわかに信じがたい…これも真実なことですよね。ですが、この疑うこと、疑う者がいるというのは、この事実が本当なのか、何が大切なのか、真実を見極める上では、非常に大切なことでもあるように思うんです。


疑うというと、信仰と相反するように思うかもしれませんが、もし疑うことがなかったら、それはマインドコントロールにもなってしまうわけです。
これは、みなさんにも知っておいてもらいたいんですよね。マインドコントロールというのは、まず、この疑うということを禁じていくんです。

「正当」とされるキリスト教会の内部にでもですよ、マインドコントロール的な教えが説かれて、カルト化してしまっていることが実際にあるんです。


たとえばですね…

疑うのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

そうやって疑問の声を、シャットアウトさせたりもするわけです。


これ、実際にあった例ですよ。私に言わせれば、これこそ、サタンの惑わしです。
いつの間にか、イエス様ではなく、悪魔だとか、サタンの名で縛られていくんですね…、残念なことに、これが正当とされるキリスト教会の中でも起こりうる、マインドコントロールの一つのパターンなんです。もちろん間違いです。


ですが、もし、こうした方法で、宣教が進められたら、どうでしょう?


宣教しないのは、信仰がない証拠、悪魔に惑わされている、救われているとはいえない…

どんなに福音が語られて、人が集まったとしても、その中身、実態は全く異質なものになってしまうわけです。

聖書にも確かに、悪魔や悪霊が出てきます。サタンの惑わしもあるかもしれません。
ですが、私たちには、イエス・キリストへの信仰によって、聖霊が与えられているわけです。聖霊は、悪魔やサタンより、弱いんでしょうか。いいえ、何億万倍も強いんです。
その聖霊は、私たちのうちにあって、絶えず絶えず、イエス・キリストを指し示してくれています。ここが、ポイントです。
ですから、サタンにビビることではなく、聖霊の声に耳を傾ける、すなわち、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様に聞く、それが大切なんですよね。


ところがこうして「聖霊」を持ち出すと、今度は、聖霊によって導かれた教会や指導者に間違いがない…なんて話にもなるんです。


自分であれ他者であれ、教会は人の集まり、私たちはあくまで人間です。
「聖霊が導いている教会や指導者に間違いがない」ということは、絶対にありません。
人間である以上、どんな教会でも指導者でも、時には間違いや失敗もあります。


私たちも、ひとつ注意したいのは、自分自身の思い込み、先入観かもしれません。
その意見や考えが、どんなに正しいと思ってみても、どこかで疑いを持ち、広い視野でよく吟味してみる。これは私たちにも、一つ必要な姿勢かもしれませんね。


疑うことを禁じるのは、バレてはいけない何かがあるからなんでしょう。もし本当に本物だったら、どんなに疑っても本物なんです。

ところが、実際に間違いが明かされたとしてもですよ。
ローマ13章には「人はみな、上に立つ権威に従うべきです。…権威はすべて、神によって立てられたもの。…そむいた人は自分の身にさばきを招きます。」なんて言葉が書かれています。
ここだけを取り出して、「だから、牧師やリーダーには逆らってはいけない。たとえ間違っていても従うべき。」なんてことが、実際に、まことしやかに語られていたことがあります。

これ本当に、ちらほらと語られていたりするんですよ。これも、もちろん、全くの間違った解釈です。


でも、聖書には、確かに、そう書いてあったりもするんですよね。
下手に逆らえば、もしかしたら、さばきをまねきくかもしれないじゃないですか。
明確な根拠がないと、ちょっと怖くもなりますよね。
こうして聖書や神の「権威」を利用して、間違っていることにも従うことが正しいことになってしまう…まさにマインドコントロールなんです。


しかし、このローマ書でいう「上に立つ権威」というのは国家権力であって、一般論です。
文脈を追えば、すぐわかります。イエス様が王だから、皇帝には従わないというのではなく、払うべき税金を払い、法律を守りましょうという話なんです。
ですが、仮に、もしその国家が、信仰を禁じたとするならば、それにも従うべきなんでしょうか。。。
違いますよね。
そうであっても、私たちはテロリストではない、牢に入れと言うのなら、甘んじてそれを受ける、義をもって悪に勝つ…これが主旨です。

ところが何度も、繰り返し、少しずつ、恐怖や脅しをかけながら、「疑う」思考を止めさせ、聖書や神の権威を借りて従わせていく、これがマインドコントロールの手口であるわけです。

実に、これらは特殊なカルトではない、どれもキリスト教会の中で起きた実例なんです。


ですので、聖書は一部を抜き出すのではなく、必ず文脈から、もっと言えば、聖書全体を見て解釈する必要がありますし、イエス様だったら何て言うだろう、イエス様だったらどう考えるだろう…、この視点を忘れないようにしたいものです。


「しかし、ある者は疑った。」

実に、ここにこそ、聖書の真実の眼があります。

イエス様も、まだ疑いの眼で見ている弟子たちを、決して、拒んではいないんです。


28:18 イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた…。

半分疑いの眼で見ている弟子たちに、イエス様のほうから、近づいてこられたんですよね。


28:18 …「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」

いっさいの権威あるお方は、特定の誰かでも、私たちでもなく、イエス・キリストです。
このお方にこそ、権威があります。

でも、なぜイエス様は、ここで「権威」ということを持ち出したのでしょう。
イエス様の生涯を見たときに、上に立って権威を振うのではなく、しもべとなって、下に仕えたお方ですよね。
そのお方が、なぜここでは突然「権威」を主張したのか…、ちょっと不思議ではありませんか?
そこには、何か訳もあるような気がしますね。


それは、当時、ユダヤ人的な常識として、ユダヤ人以外が救われるなんて、天地がひっくり返っても、考えられない話だったんです。
このときの弟子たちも同じ。彼らもまたイスラエルの独立、復興を願っていましたし、それがユダヤ人にとっての救いでした。
この世界宣教命令があるにもかかわらず、使徒の10〜12章では、ペテロが異邦人にバプテスマを授けたというので、エルサレム教会では大論争にもなっているわけです。
そのくらいユダヤ人にとっては、異邦人が救われるというのは衝撃的な出来事だったんです。


28:19 それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。

なんの権威があって、そのようなことが言えるのか?

よくパリサイ人たちが言っていたことですよね。「何の権威があって、罪を赦すのか」
イエス・キリストの権威によってです。


 ユダヤ人じゃないから駄目だとは言わず、割礼がないから駄目だといわず、
 ギリシア人であっても、日本人であっても、
 国境、国籍、国語、文化を超えて、あらゆる人々をわたしの弟子としてください。
 認めてください。加えてください。

これが宣教命令の中心、イエス様のこころです。


その方法として、二つ。

 28:19 …父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、
 28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。…


まず、一つ目のバプテスマ。
時に、水に浸けるのか、垂らすのか、その方法にも論議があったりますが、どういったスタイルにしても、この時、イエス様は、そういったバプテスマという一つの形、儀式そのものを、大切に守って欲しかったんでしょうか…。

それも、ちょっと違うような気もしますよね。

実際、イエス様が、直接、人々を救っていった時には、バプテスマの有無は関係なかったし、求めていないんですよ。

「あなたの信仰が、あなたを救った。だから、安心していきなさい。」

救いを求めてきた人たちに、イエス様自身は、水のバプテスマの有無は問わなかったし、必要としなかったんです。
あくまで信仰のみです。では、なぜ、ここでバプテスマを授けるように命じたんでしょう。

それは、イエス様が必要としたのではなく、私たち、人間に必要だったんだと思います。

クリスチャンにとってのバプテスマの意味は、キリストの死にあずかるバプテスマ、つまり、キリストの十字架の贖いによって、罪が赦され、復活のいのち、永遠のいのちにあずかることです。
これは、バプテスマの意味であるより前に、福音そのもの、信仰そのものですよね。
ところが、その信仰も、言葉も、救いも、目には見えません。
またイエス様自身も天に昇られた後は、目には見えなくなるわけです。
すると、どこか救いの事実も、曖昧にもなってしまうんだと思います。それを歴史の事実として、目に見える形で、公に表現できるのが、バプテスマです。


授ける側からすれば、十字架と復活、イエス・キリストの権威によって、この人も救われる。あなたの信仰のゆえに、イエス・キリストが、あなたを救う。その公の宣言としてのバプテスマとなります。

反対に、授かる側からすれば、十字架と復活のイエス・キリストを信じて、この時、間違いなく、私は救われたという公の証にもなるわけです。


ちなみに聖餐式も意味は同じですよね。キリストの死を告げしらせるもの。
私たちの信仰告白も、バプテスマや聖餐も、表現方法がちがうだけで、どれも意味は同じ。
当然伝えるべきメッセージも一緒、キリストを信じる信仰によって救われる、福音です。


28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。

イエス様も、実に、いろんなことを教えているわけですが、聖書全体を指して教えた最も大切な戒めがあります。
なんでしょうか…。
それが、「愛する」ことです。

マタイの福音書22:37〜40
  「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

  これがたいせつな第一の戒めです。
  『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。
 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」
 

さらに、ヨハネの福音書によれば、最後の晩餐で「新しい戒め」として、教えられたんですよね。

ヨハネ13:34
 あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。
 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。


なぜ、イエス様は、これを「新しい戒め」として教えられたのでしょうか。。。
この戒めは、旧約律法の時代から、古くからある戒めなんですよね。


私たちは「愛する」という戒め自体は忘れなかったとしても、書類が積み重なるように、あれやこれやといろんなことが舞い込んで来たときに、いつの間にか下のほうに隠れてしまうことがあるように思うんですよね。


宣教命令も、実は、そんな上に積み重なってしまう、命令の一つかもしれません。
時に「世界大宣教命令」なんて「大」までつけられて、教会のスローガンにまで掲げられ、宣教第一、どれだけ伝道しているか、数で評価されてしまうこともあるように思います。
確かに宣教命令も大切なんですよ。でも、一部です。もっとも大切な戒めは、これです。


 …あなたがたは互いに愛し合いなさい。

この戒めを、絶えず、新しく、一番上において置け…ってことだ思うのです。

私たちは、ついつい聖書のある一部だけをとりあげて、正しいか、間違っているかという論議をしてみたり、人を評価したりしやすい傾向があるように思います。
でも、そういった聖書のごく一部を大切に守ったからと言って、それで他よりも正しくなる、優れている、特別に神様に評価されるということはありません。
これこそが行ないによる義、行ないによって正しいと認められようとすること、パウロがガラテヤ書で全面否定していることです。
もし行ないによって義と認められるのなら、キリストの死は無意味である、無駄死にである、実に、全く真逆のことを伝えてしまうことにもなるわけですよね。


ただ、信じる信仰によって救われる。
キリスト・イエスにあっては、愛をもって働く信仰こそ大事なんです。


では、私達に、どれほどの愛があるのか…というとですね。。。。
なんと、まあ…、それほどには、なかったりするわけですよね。

ヨハネの福音書では「わたし(イエス様)が愛したように…」といわれているんですよね。
汝の敵を愛せよ、迫害する者のために祈れ。友のために、命を捨てるほどにです。
いやいや、私たちにはどうして、なかなかできることではありません。


しかも、愛に方程式ってないんですよね。
こうすれば正解ということも、十分ということもないんです。
人それぞれが、もてるもの、得意不得意、やり方も違うでしょうし、相手によっても、状況によっても、ケースバイケースです。


私たちには、ある意味、ある程度の「正しい」ことはできるのかもしれません。
でも、「愛する」というのは心が伴うものじゃないですか。
自分自身を振り返った時に、正しさで人を責めてみたり、感情的に無理だったり、「愛する」ということになると、誤魔化しがきかないんですよね。
いいんですよ。できないんです。神様の前では、自分に、正直でいいんですよ。

私たちも、「愛する」という点では、まだまだ発展途上、生涯、一求道者といえるかもしれないですよね。


でも、ここが大切なんですが、そんな足らない、不完全な者を、キリストは愛してくださっているんです。
十字架の命をかけて…。

このキリストに愛された喜びこそが、宣教の力、教会の力、すべての原動力になります。
キリストがどれほどまでに、愛してくださっているか、そして、いかにして私たちが愛していくのか、これがまず弟子のとして最も学ぶべきこと、そして伝えるべきこと、実は、それが聖書の中心なんですよね。


聖書は、細かい枝葉の違いで、正しいか、間違っているかを論じるためのものではなく、私たちが信仰によって、聖書から、神の愛を汲み取り、愛に生きようとする時に、いろんな知恵や力、時には慰めや励ましを与え、私たちの人生のいたるところで、豊かな実を結んでくれる、それが神の言葉、聖書なのではないでしょうか。

 28:20 見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

感謝なことに、私たちがイエス様に着いていかないと置いていかれるわけではないんです。
イエス様が、わたしたちと、いつでも、ともにいてくださるんです。これは約束です。


すべてのクリスチャンが、直接、宣教や伝道の働きをするのかというと、そうではありません。
宣教命令が一番大事な命令かというと違います。命令の一部です。

中には宣教の働きをする人もいれば、その働きをサポートする人もいます。
人の悩みを聞く人もいれば、その場を盛り上げて楽しませてくれる人もいる。
人それぞれ、個性や能力に応じて、いろいろな愛し方、いろんな弟子がいるわけです。

そういうわけで、私達は、愛において、お互いにまだまだ不完全な者だと思います。


しかし、この小さな者をも、キリストが愛してくださるというので、
自分らしく、自分なりに、自分にできることを持って、
神様を愛し、隣人を愛し、自分自身を愛する。この三つの愛に生きる。

私たちが愛に生きるとき、キリストの愛も、おのずと広がっていくのではないでしょうか。

お互い不完全な者同士、愛を学び、愛を伝え、愛に生きる群れとして、成長していきたいものですよね。


…ユダヤから、世界へ。
 外国人だから駄目と言わず、律法を守っていないから駄目だと言わず、
 文化が違うから駄目だと言わず、わたしの弟子として受け入れて、バプテスマを授けてください。
 どうか、国境、国籍、文化を超えて、あなたがたは、愛し合ってください…。


これが、宣教命令の心、イエス様の心。

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。



【参考】教会で起きるマインドコントロール


posted by holyhope at 19:26| Comment(0) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする