2012年05月07日

復活の食卓 ヨハネ21章

(2012年5月6日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会)

みなさん。おはようございます。

先月についで、2回目のご奉仕になりますが、いかがお過ごしでしたでしょうか。

前回はちょうど受難週のはじまりだったんですが、その後、復活祭、イースターを迎えられたと思います。


最近、クリスチャンの友達と話題になったのが、この「イースター」という言葉でして、テレビで「イースター」が「春を祝うお祭り」として紹介されていたらしく、「これだから日本のテレビは…」と、憤慨していたんですよね。

でも、クリスチャン人口1%なんだから、まあまあ。。。というところなんですが、そもそも、なぜ「イースター」と呼ぶのか気になりまして、調べてみたところ、なんと、もともとは、ヨーロッパ、ゲルマン民族の春の女神「エオストレ(Eostre)」に由来しているんだそうです。
ちょうど、このエオストレに由来する春のお祭と、キリストの復活が暦の上で同じだったようで、やがて「イースター」が、復活祭を意味するようになったようです。
ですので、「春のお祭」というのも、あながち間違いではないわけです。

もう、ややこしいたら、ありゃしないですよね。
日本的に言えば、「春のお彼岸」が、いつのまにか復活を祝う日になっちゃったみたいなもんですよ。

考えてみれば、「イースター」なんて言葉を使わずに、日本語で「復活祭」と呼べばいいんですよね。私たちには、わかっているようで、わかっていないこと、また、自分たちの常識を、さも世間一般でも常識かのように思い込んでいることもあるのかもしれませんね。
さてさて、そんな復活祭から1ヶ月が経とうとしていますが、今日は21章全体から「復活の食卓」を皆さんと味わってみたいなと思っています。

● 失意の中で…

時に、復活というと、実は、そうは簡単に信じられないような話なんだと思います。
それは、一番身近にいた弟子たちでさえも、そうだったように思うのです。

21:3 シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」


イエス・キリストの復活という、天と地がひっくり返るような、ありえない出来事を目撃した割には、なんだか拍子抜けてしているような感じがしませんか。


ペテロは、もともと漁師です。イエス様の弟子になった時、網を捨てたのですが、再び、漁へと出かけていくのです。

ある人は、ペテロは、もう一度、イエス様に会うために出かけていったんだ…という人もいますが、「よし、もう一度、イエス様に会いに行こう!」というような、喜び勇んだ前向きな姿勢のようにも見えませんよね。

実に、イエス様とはいえ、死んだ人間がよみがえる、1度や2度、見ても信じられない…、
目の前に姿があるときはともかく、時間がたつにつれ、夢か幻か…、
そんな気分にもなってくるものかもしれません。
それは、ペテロだけではなく、ほかの弟子たちも一緒でした。

彼らは、主イエスを探すというよりも、本当に夜通しかけて漁をするんです。
イエス様が現れても、彼らはわからなかったようです。

21:4 夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。
 けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。

私たちも、もし、この当時、この現場で、復活した姿を見たとしたら、なかなか、その現実を理解しきれないのかもしれません。

例えばですね。。。
仮に、私が先週の金曜日、亡くなったとしましょう。なんだか、すごい、たとえですが…。
皆さんにも知らせが届いて、悲しみのうちに今日の日曜を迎えたとするじゃないですか。
ところが、死んだはずの私が、今日、何事もなかったかのように、おはようございます!と現れたら、みなさんどうします?
まず、自分の目を疑う、次に、死んだという話がデマだったかと疑う、ついには自分の頭を疑う…、とにもかくにも疑う、信じられないと思うんですよね。

弟子たちは、確かに、復活の主を見て喜んだんです。
1週間後、疑いを抱いたトマスの前にも現れ、トマスも見て、信じたんです。
でも、その時がすぎれば、それで終わってしまう。。。

しかも、十字架を目前に裏切ってしまった弟子たちです。弟子として失格じゃないのか…。
復活の主と出会っても、今の自分と、どんな関係があるというのか…、わからない。

どこか現実感もなく、どこかわからないまま、彼らは、漁へと出かけていったのではないでしょうか。

ところが、夜通しかけても魚一匹とれない、あー俺たちは漁師としても、だめだぁ〜!!
そんな失意の中にあったように思います。
そんな失意の中に、復活の主は再び姿を現したのでした。

21:5 イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」

少々、言葉が丁寧に訳されすぎているんですね。
このとき岸辺からおよそ100m近く離れているわけですから、「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」「はい。ありません。」そんな声なんか届きやしないんですね。まるで、現実感がないんです。

おーい、食べるものがないのか〜
あー、ないよ、ない。今日は、全然、駄目だ。
だったらさあー、右の方に網を降ろしてみろよ。

まったく何いってんだ。俺たちは、夜通しかけて一匹も取れなかったんだぞ。
…なんて言いながら、半分投げやりで、網をバサ〜っと、投げたんだと思います。

21:6 …すると、おびただしい魚のために、網を引き上げることができなかった。

その異様さに、ヨハネが、気がつきます。あれは主だ!
21:7 …シモン・ペテロは、主であると聞いて、裸だったので、上着をまとって、湖に飛び込んだ。


上着なしに、イエス様の前に出られない、そう思ったんだと思いますが、ペテロらしいといえば、ペテロらしい。普通、上着を脱いで、湖に飛び込むんですよね…。
上着を着て、湖に飛び込んじゃったら、イエス様の前に出るときには、もう、びしょぬれ。ボタボタ水なんかたれちゃって。冷静なんだか、そそっかしいのか、よくわからない。
もし、私がおんなじことしたら、静から、もうちょっと、やめてよ…って、いわれてしまいそうです。


21:8 しかし、ほかの弟子たちは、魚の満ちたその網を引いて、小舟でやって来た。
21:9 こうして彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火とその上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
21:10 イエスは彼らに言われた。「あなたがたの今とった魚を幾匹か持って来なさい。」


そこでは、食事の準備がなされていました。
ユダヤの世界で、一緒に食事をすることは、赦しや和解を意味しています。
逆に言えば、ユダヤでは、仲の悪い人、敵対する人、赦せない人とは、食事をしないんですね。
ですから、それは、まさに弟子たちにとって、赦しと和解の食卓が用意されていたんです。

21:11 …シモン・ペテロは舟に上がって、網を陸地に引き上げた。
   それは百五十三匹の大きな魚でいっぱいであった。それほど多かったけれども、網は破れなかった。


普通、漁師が、取れた魚をわざわざ1匹、2匹…153匹とは数えないと思うんですね。
100匹以上はいるぞ、大体、150くらいかな…、漁師だったら、そのぐらいはわかるはずなんです。
でも、弟子たちは、これが本当に現実のことなのか…、あたかも確かめるような気持ちで、1匹1匹、数えたんだと思います。
著者ヨハネ自身も、あの時の網の重さ、魚の感触、153匹は153匹、その時のことを一つ一つを描写しながら、あれは夢の中の出来事ではない。幻を見ていたんじゃない。確かに、現実の出来事なんだ。そう言いたかったんだと思います。
確かに現実の中に、イエスがおられた。

21:12 「さあ来て、朝の食事をしなさい。」
 弟子たちは主であることを知っていたので、だれも「あなたはどなたですか。」とあえて尋ねる者はいなかった。

 このときになって、ようやく弟子たちもイエス様の復活が現実のこととして受け止められるようになってきたのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった。また、魚も同じようにされた。

そのパンや魚を手渡した主イエスの手には間違いなく、あの十字架で負った傷の跡がありました。彼らは、現実に、その手から、パンを受け取って食べたんですね。
それは彼らにとって、正真正銘、主イエスの赦しを現実として味わった瞬間でした。

● 三度の失敗、三度の赦し

21:14 イエスが、死人の中からよみがえってから、弟子たちにご自分を現わされたのは、すでにこれで三度目である。

さて、ここで、三度目、「3」という数字が出てきました。
かつて「3」という数字で馬鹿になる芸人がいましたが、「3」で心にグサってくる弟子がいますよね。
十字架の直前で、三度、イエス様を知らないといってしまったペテロです。

21:15 彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。
  「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」
  ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

以前のペテロだったら、迷わず、「はい主よ、ほかの誰にも負けません。私はあなたを、誰よりも、一番に愛してます」そういったように思います。
でも、イエス様のことを知らないと言ってしまったペテロには、そんなことはいえなくなっているんですね。

「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」

私があなたをどれだけ愛しているか、どのくらい愛せるか、あなたが一番ご存知のはずです。
このときのペテロは、自分自身の現実、限界も、しっかりと自覚していたんだと思います。

ところが、なぜかイエス様は、同じ質問を三度繰り返します。
ペテロも、その「3」に、心を痛めるんですね。あたかも自分が、三度知らないと言ったから、イエス様から責められて、三度、尋ねてられているような、そんな感じがしてしまったんでしょうね。

でも、イエス様は、三度、嫌味ったらしく、わざわざ三度、尋ねたんでしょうか…。
そうではないはずですよね。

ペテロの心が傷つき痛んだのは、決して、三度、尋ねられた時からではないんです。
三度、イエス様のことを知らないと言ってしまったその時…、その時に負った心の傷が、まだ癒えていなかったんですね。
死んでも従うと言った自分、でも従えなかった自分。だから痛むんです。
そんな三度失敗し、三度の傷を負っているペテロだったからからこそ、イエス様は、三度、赦しの言葉をかけていくんですね。


21:15 …イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」


 ペテロ、あなたは、決して失格ではないんだよ。
 あなたは、今でも列記とした私の弟子だよ。
 どうか、わたしの羊を養ってください…。

それでも、心の傷の痛みは、すぐには消えないのかもしれません。
でも、イエス様は、失敗した分だけ、3度失敗したペテロには3度、5度失敗したら5度、100回失敗したら、100回でも、何度でも語りかけてくださるのではないでしょうか。

「わたしの羊を飼いなさい。」 そして、「わたしに従いなさい。」

●もう一人の弟子

さて、実は、ここにもう一人、ペテロの背後で隠れて痛んでいた弟子が出てくるんです。
ペテロが三度「知らない」と言った大祭司カヤパの官邸に一緒にいた「もう一人の弟子」ヨハネです。

21:20 ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。
  この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。

この「イエスが愛された弟子」とは、まさにヨハネ自身のことです。
ですが、ヨハネ自身がこの福音書を書いているわけで、自分のことを「イエスが愛された弟子」と紹介するなんて、なんだか生意気のような気がするじゃないですか。でも、実は、そうではないんです。

イエス様が捕らえられ、大祭司カヤパの官邸に連れていかれたとき、ペテロは、周りの人から「イエスの弟子だ」と責められ、三度知らないといってしまうわけですよね。
ところが、一緒にいたヨハネは、誰からもとがめられることもなく、無事、十字架の元にまで行くことができたんです。
それは、なぜでしょう。。。

このヨハネの福音書の18章を見ると、実にヨハネが「大祭司の知り合い」だったことが記されています。
大祭司といえば、イエス様を十字架に着けた張本人でしょ。
ヨハネは、門番とも顔パス、誰にも責められることなく、だから十字架のもとにまで行けたんです。

一見すると、ヨハネは、弟子の中で唯一、十字架のふもとにまでいった弟子。いかにも従順で、立派なようにも見えると思います。
ですが、この時、ヨハネは「イエスの弟子」としてではなく、実は「大祭司の知り合い」として、その場にいたんです。
この事実を書いているのは、ヨハネの福音書だけです。

 ユダは公然と裏切り、ペテロは公に三度知らないと言った。
 でも、私は、影で裏切り、背後で否定していた…。

ヨハネは、そんな自分の裏切りを、この福音書でひそかに告白しているのです。

当然、イエス様にもわかっていたはずです。
状況からして、イエスの弟子でありながら、何事もなく無事に十字架の元まで来れるわけがないんですよね。
そこには、何か裏がある。
でも、イエス様は、そんなヨハネに母マリアを託し、復活の食卓へと招いたのでした。

だから「イエスを愛した弟子」ではなく、「イエスが愛された弟子」。
この時のヨハネには、ペテロのように「イエス様を愛しています」なんて、とても言えなかったのかもしれません。

●私たちの現実

さて、私たちは、「イエスを愛する弟子」でしょうか。
それとも「イエスが愛された弟子」なのでしょうか。。。

もし私たちが、できない自分の姿を見たときには、「はい、主よ、あなたを愛しています」…そういえるかというと、やはり、言えなくなってしまうときもあるかもしれません。

ですが、私たちは「イエスを愛する弟子」であると同時に、実に「イエスが愛された弟子」でもあるわけです。

できない自分もイエス様が愛してくださっているのなら、私たちも「それでも、イエス様のことを愛しています」…それでいいんですよね。

晩年、ヨハネは手紙の中で、こう記しています。
1ヨハネ 4:10〜11
 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。
 ここに愛があるのです。
 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。

愛は、競争ではありません。
できないことではなく、できるところでもって、持たないところではなく、持てるものでもって、神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…。

「わたしの羊を飼いなさい。」「わたしに従ってきなさい」

「わたしの羊」「イエス様の羊」って…、実に、自分自身のことでもあるんですよね。
ペテロも、イエス様の羊。ヨハネも、イエス様の羊。皆さんも、イエス様の羊。
私たち、一人一人、みな、イエス様が愛する羊たちなんです。だから、愛しあうべき。

もし、私たちが、他に言うべきことがあるとしたなら、できなかったときの「ごめんなさい」かもしれません。
ところが、私たちは、特に大人になってくると、プライドが邪魔をするのか、「ごめんなさい」の一言が、素直に言いにくくなるときがあるような気がします。
もし自分の子供が、何か悪さをすれば、「なぜ、ごめんなさいって言えないの!」なんて、怒りそうな気もするんですが、いざ自分が、何か失敗や間違いをしても、誰かのせいにしてみたり、言い訳をしてみたり、自分の過ちにすら気づかなかったりして、「ごめんなさい」…って、いいづらい。そんな時も、ありますよね。

ペテロや弟子たちも、そうでした。自分たちの失敗を気にしている割には、実に言っていないのが「ごめんなさい。」の一言なんですね。
でも、イエス様は、彼らに「ごめんなさい」って言えないの!なんて言わず、そっと、和解のしるしであるパンを与えたのでした。

クリスチャンになってからも、この先、失敗すること、間違えること、多々あると思います。
深い傷を負って、自分はもうクリスチャンとして失格だなんて思うことも、あるかもしれません。
ですが、すべての罪、一切の罪が、イエス・キリストの十字架に釘付けられたんです。

 自分は失格だと思って、船に乗り込んだ夜…、
 漁をしても、何をしてもうまくいかず、失望に沈む夜…
 そんな暗い寂しい夜もあるかもしれません。

 しかし、夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立っておられた…。
 彼らが陸地に上がったとき、そこに炭火と、その上に載せた魚と、パンがあるのを見た。
  「さあ来て、朝の食事をしなさい。」

残念ながら今は目に見ることはできませんが、復活の主は今日も生きていて、私たちを和解の食卓、赦しの食卓、「復活の食卓」へと招いてくださっているのです。
21:13 イエスは来て、パンを取り、彼らにお与えになった…。
 
ラベル:赦し 福音 復活
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2012年04月06日

「赦しの食卓」ルカの福音書 7:36〜50

2012年4月1日 保守バプテスト・船岡聖書バプテスト教会(宮城県)

みなさん。おはようございます。

千葉、市川からやってまいりました竹下 力です。
普段は旅行会社で働いておりまして、その名も「にこまるツアー」。

おかしな名前でしょ?

そう、おかしな名前なんです。
普段は韓国旅行と、たまにイスラエル聖地旅行を手がけているんですが、教会の先生によっては、たまに、「ん?」とかいわれちゃうんですよね。
なぜ、こんな名前になったかというと、旅行を通じて、皆さんに笑顔になってもらえたらという願いを込めて、笑顔の「にこまる」なんです。
あー、そう考えると、いい名前じゃないですか。
そんな旅行業をしながら、教会でこうしたメッセージ、伝道活動をしております。

さて、教会の暦では、今週は受難週、イエス様が最後にエルサレムに入り、まさに金曜には十字架を背負われる日に当たります。

受難週で「食卓」といえば、聖餐式の原点になった、いわゆる最後の晩餐が、一番思いつくところかもしれません。
ですが、それはある意味、究極のゴール、まさに最後の晩餐でして、イエス様は、今週になって、突然、十字架を背負うことになったわけではないんですよね。

イエス様は、これまでにも多く「食卓」という場で語られています。

ちょっと、皆さんご家庭の食卓を思い浮かべてみてください。。。

そこは神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な空間というわけではなく、生活のにおいがプンプンする、極めて日常的な空間、それが「食卓」という場所ではないでしょうか。

いろんな「食卓」があると思うんですよね。
楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。
そんな私たちの極々日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんです。

ですが、イエス様は、そんな多くの「食卓」に着き、様々なことを語られていたわけです。


今日の箇所の直前、34節を見ると、
イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。

ユダヤの社会では、同じ食卓を囲む、一緒に食事をするというのは、それ自体が、赦しや和解を意味します。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。
つまり、その行為自体が、罪人と仲間同士、赦しを意味していたわけです。

それは誰かの家だったかもしれないし、大衆居酒屋のような場所だったのかもしれない。
でも、そんな罪人の「食卓」にもイエス様は来てくださる。そこにも「救い」をもたらしてくださる。
これが、まさに恵みなわけです。

ところが、今日のこの箇所の食卓は、同じ食卓でも、ちょっと珍しい食卓のような気がします。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちですよね。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人たちです。

ところが、そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。
背後には、不穏な空気も流れているのです。


しかも、そこへもってきて、「すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た」…と言うわけです。
おそらく、見た目、一発で罪深いとわかる女性、遊女、売春婦だったと思われます。

この「すると」と訳されている言葉。
他の訳では、「見よ」と訳されている注意、注目を示す言葉です。
「見よ」、よりによって、そんな「罪深い女性がやって来た」というわけです。

パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。
もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。
ある意味、イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。


これはもう、何が起こるに違いない。一触即発…
なんていう間もなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけです。


当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。しかも、ここはギリシャ語で未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…というわけです。


さて、皆さんは、この女性の行為、この光景をどんなふうに見えるでしょうか。どんな風に想像していますか。。。

私たちは、対象のイエス様を知るがゆえに、この女性のしていることを美しい礼拝の姿として見てしまうかもしれません。
しかし、実際に、現場にいれば、いきなり来るや否や、お客さんの足元で泣き始めて、口付けしているわけですから、あの女は、なぜいきなり泣き出したんだろう、いきなり何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。


そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」


日本語の聖書では「この方が…」なんて丁寧な言葉で書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。

「この女が誰で、どんな女であるか…」そんなことは、一目瞭然、その町で有名な罪深い女性なんです。
それがわかったからといって、別に預言者の証明になると言うことでもありません。

シモンが何を思っているかというと、
「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから…。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
彼は、一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

しかし、これがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていくことになります。

そこで、まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。

 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。
 日本円で言えば、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

 多く赦されたものが、多く愛するということ。。。

この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。


この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。
いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。
でも、生まれた時から、そうなりたくて、こうなった訳じゃない。
この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく勇気が要ることだったと思います。
周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。
もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。

しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。
見た目や評判にかかわらず、この女性の真心を受け止めた。この女性自身、その全人格を受け止めたんです。
すなわち、この女性は赦されたんです。

だから、この女性も、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多くの涙と愛があふれてとまらなかったのです。


では、このパリサイ人シモンという男には、罪がなかったんでしょうか。。。
いいえ、そんなことはなかったわけです。


当時、当然アスファルトで舗装なんかされていない道をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も砂埃で汚れます。
ですから、そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、頼まれなくてもお茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
ところが、このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。
そのことでもイエス様のことを、歓迎しているわけではなかったことがわかります。

にもかかわらず、この女性のことは、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。


「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、単なる表向きの行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。
それは、どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
「真心」というもの。

このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の「愛する」ということは見失っていたのです。

しかし、そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、このパリサイ人シモンの食卓にも着かれたわけですよね。

それは決して、シモンが赦されていなかった、イエス様が足を洗う水も出さんと、礼儀知らずなやつだと根に持っていたわけでもなく、このたとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。
だから、そのままこのパリサイ人シモンの食卓にもついたんですよね。

ところが、このシモンは、自分の正しさのゆえに、落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。
これが、パリサイ人シモンの真実でした。

その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、実際に赦されていたのに、その赦しを感じることも、味わうこともできなかったのです。


イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます


 この女を見ましたか…。現在形。

 …この女を見ているかい。

  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…

  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。


多く赦されるか、少ししか赦されないか…
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されない…というわけではないんですよね。

自分自身の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。

罪というと、つい犯罪だとか、倫理的に悪いこと…のように感じてしまうと思うんですが、聖書がいう「罪」というのは「的外れ」という言葉なんです。言葉を変えれば、失敗。野球のストライクかボールかで言えば、ボールです。

律法の中心「愛」から的を外す、失敗する。
誰かを愛せない、愛さない、愛していても失敗してしまう…それが、日本語の聖書で「罪」という言葉で表されているもの、すなわち「的外れ」ということになるわけです。

では、私たちが、誰でも、どんな人にでも、偏りなく、同じように愛せるか…というと、なかなか、そうは、できなかったりするじゃないですか。
実に、私たちも、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が劣っているような気がして、中々認めにくい時があります。
案外、私達は、自分が正しくありたいのかもしれません。

ですが、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいこと

「あなたの罪は赦されています!」


49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
  「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」


こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし何か事件を起こした罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」とか、「いったい何様なんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。


もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。
彼女もユダヤ人。
罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…、そう思ったかもしれません。


実に、一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負ったわけです。


「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言い方だと思います。
なので、少し意味がぼけてしまっているんです。

どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思いますか?

もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、あなたは救われた。」
「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」となるところなんです。
当たり前のような話ですが、自分の信仰が救うのではなく、イエス様が救ってくれるんですよね。


 あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
 私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。
 だから、安心していきなさい…


イエス・キリストの十字架は、決して、ありがたい救いの教え、「宗教」ではありません。
イエス・キリストは、歴史の事実として、多くの罪人を赦し、その罪の責めを身代わり、
やがて、ついには十字架まで背負った、
十字架を背負ってもなお、その愛と赦しを貫いたわけです。


私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。
クリスチャンのみなさんなら、よく理解されていることかと思います。

ところが、ところがなんですよ。
私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。
っていうか、ありますよね。ここは正直でいいんですよ。

パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれませんね。

しかし、ここが一番のポイントです。

イエス様は、そんなパリサイ人の食卓にも着いてくださっているんですよね。
パリサイ人シモンも、この罪深い女性も、両方とも、赦しているんです。
両方にとって、赦しの食卓だったんです。

でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、
なんと、自他共に罪深いことを認める、この女性だけだったというわけです。


みなさんが、今日も家に帰り、また今週も、さまざまな食卓につくと思います。
そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない罪人の食卓かもしれません。
でも、イエス様は、その食卓にもついてくださっているんです。

そこには赦しがあり、そこに恵みがあるんです。
その究極が十字架直前の最後の晩餐、主の食卓、すなわち聖餐になるわけです。


 主イエスは、渡される夜、祝福して後、パンを割き、弟子たちに言われた。
 これは、あなたがたのために割かれる、わたしの体です。
 また杯も同じようにして言われた。
 これは、あなたがたの罪のために流される、わたしの血です。
 取って、食べよ。分けて、飲め…。


それは聖餐式のあの小さなパン…
物質的な意味でのパンそのものや、小さな杯に入ったぶどうジュースを、食べるか飲むかではありませんよね。

そこに込められた主イエスの「真心」、まさに十字架で肉を裂き、いのちをかけた愛と赦しです。

ぜひね、食卓に並んだ料理とともに、主イエスの十字架の赦しと恵みを味わってみてはいかがでしょうか。

 見よ、罪深い女がいた…。
 見よ、罪深い男がいた…。
 見よ、罪深い私がいた…。

 「あなたの罪は赦されています!」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。

 しかし、イエスは言われた…。
 「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して行きなさい…!!。」

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2012年03月03日

「弱さの中に働くキリスト」マルコ4:35〜41, Uコリント12:8〜10

みなさん。おはようございます。

今日は、教会学校と大人の礼拝とのダブルヘッダー、2度目の登板となるんですが、
ある意味、いろんな経験を積んでいる大人の皆さんに語るのと違って、
子供たちに教える…というのは、私自身、いろいろと学ぶことも多かったような気がします。

今日の教会学校では、先のマルコの福音書の「嵐を静める」シーンが聖書箇所でした。
大人の皆さんには、もう一歩、深く踏み込んでお話させていただければと思っているんですが、
もし皆さんだったら、この箇所から、子供たちに、どのようなお話をするでしょうか…、
それを、ちょっと考えてみてほしいんですよね。

普通にパッと考えると、嵐を恐れた弟子たちの信仰の弱さを指摘して、
イエス様を信じれば大丈夫、弟子たちのようではなく、イエス様を信じましょう…というような
お話をしたくなるような気がします。
もちろん、これ自体が間違いというわけでもありません。

でも、そこをグッと堪えて、1歩踏み込んで考えてみると、自分自身がこの状況に置かれたら、
果たして何ら恐怖を感じないだろうか…というと、決して、そうではないんですよね。

私たちが、子供たちに何を伝えようと考えたときに、こうした聖書の記事から、つい瞬間的に、
理想的なお話、ある意味、いいお話に、まとめてしまうことがあるような気がします。
もちろん、それは、子供たちに信仰を継承してほしい、健全に成長してほしいという願い
からくるわけですが、実は、大の大人も怖がる、自分にもできないようなことを、
子供たちに要求してしまうことにもなるんじゃないか…、そんな気がします。

ですので、子供たちや誰かに教えるという前に、一歩身を引いて、自分自身のことに
置き換えて考えてみるのがいいと思います。

イエス様を信じていても、困難にぶつかること、怖くなること、不安になること、悩むこと…って、
実は、ありますよね。
それは私なんかより、人生のベテランの方々なら、よくご存知だと思います。
イエス様を信じていれば、地震や津波は襲ってこないんでしょうか。
タイタニック号は、沈まなかったんでしょうか。
決して、そうではないんですよね。

子供たちも、将来、いろんな波風嵐、困難にぶつかります。
不安になること、恐怖に襲われること、あるかもしれません。
たとえイエス様を信じていても、そういう患難があることを前提にしていないと、
実は、そうした恐れに襲われたとき、逃げ場がなくなる…、
どうすればいいのか、わからなくなってしまうような気がしますよね。

マルコ4:37 すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。

みなさんだったら、どうでしょうか。怖くありませんか。
よくよく状況を考えてみれば、この弟子たちの中には、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネ…
少なくとも、ガリラヤ湖出身の4人の漁師さんたちがいたはずなんです。
船の操縦も慣れたもの、湖のことも知り尽くした、この道のプロが4人も乗っていたんですよね。

そのプロたちですら、恐ろしくも、怖くもなってしまう、実際に身の危険を感じる程、
ものすごい嵐だったんです。
単に弟子たちが弱いのではなく、この状況の中にあっても動じない、冷静さを保つというのは、
実は、かなりレベルの高い話ではないでしょうか。

どうでしょう。。。みなさんだったら、どれだけ冷静に保っていられるでしょうか?
イエス様みたいに寝てられますか?とても寝てなんか、いられないと思うんですよね。

寝るといえば、うちの静さんも、夜、テレビ見ながら、リビングで寝始めると、もう起きられなく
なっちゃうんですよね。
声をかけても、「あ゛」。話しかけても「ん゛〜」。
ホットカーペットがあるとはいえ、この冬でも、そのまま4時、5時、下手をすれば、朝まで寝てしまう…。
それだけ、強い信仰の持ち主といえるのかもしれませんが…、
そんな静さんであっても、さすがに、この嵐の中では寝てなんかいられない、
きっと、ぎゃーぎゃー騒ぐと思うんです。

4:38 ところがイエスだけは、とものほうで、枕をして眠っておられた。

静も騒ぐこの嵐の中をですよ、どうして、イエス様は、寝ていられたんでしょう…。
むしろ、その方が、すごいというか、不思議なくらいではありませんか。

所詮、小型の木造漁船です。
もちろん大きく揺れていたし、弟子たちも大騒ぎしているわけです。
しかも、この時、波をかぶって、船に水が入って、沈みかけていたわけですよね。
弟子たちは、必死になって、水をかき出していたんでと思うんです
ところが、振り向けば、イエス様、寝てるんです。弟子たちも、びっくりです。

4:38 …弟子たちはイエスを起こして言った。
 「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか。」

弟子たちは、イエス様が寝ているのを見て、半分、憤慨もしているようです。
もし、これが一番年下のヨハネが寝ていたらどうでしょう。
ペテロあたりが、蹴っ飛ばして、たたき起こしているような気がしますよね。
私たちは、恐れや心配事が募ると、実は、怒りの感情も巻き起こってしまいがちなんですよね。

イエス様は、よっぽど疲れていたのか、はじめは本当に眠り込んでいたんだと思います。
ですが、どこからかは、この嵐の中、弟子たちが、どう対処するのか…、
半分寝ながら、様子を見守っていた…ような気もしますよね。
あたかも弟子たちの弱さが浮き彫りになってくるのを待っているかのようです。

4:39 イエスは起き上がって、風をしかりつけ、湖に「黙れ、静まれ。」と言われた。すると風はやみ、大なぎになった。
4:40 イエスは彼らに言われた。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」

「どうして、そんなに怖がるのか…。」
私たちにも、何かのピンチに遭遇したとき、多くの心配や、恐怖心がおきる。
それは、ある意味、当然ありうることです。
でも、そのような中で、無制限に恐れっぱなしではなく、いかに冷静な判断を保ち、
適切な対処ができるかが勝負ですよね。

実は、この時の弟子たちには、そんな自分の弱さ、限界を知るということが、まず大切だったのかもしれません。
なぜなら、弟子たちは、この先、福音宣教のために、
もっと、もっと多くの困難、身の危険も乗り越えていかなくてはならなかったわけです。

「信仰がないのは、どうしたことです。」
そうはいっても弟子たちは、仕事を捨て、イエス様についてきた人たちです。
決して、信仰が全くなかったわけではありません。
しかし、恐怖心のあまり、信仰なんて、どこかに吹っ飛んでしまったわけですよね。
冷静さを失ってしまったんです。そこに問題があったんではないでしょうか。

実に、イエス様は、助けを求めてやってきた異邦人や女性には「あなたの信仰は立派だ」とか、
「あなたの信仰があなたを救った」など信仰を認めています。
その割りに、ところが弟子たちには、「信仰がどこにあるのか」「信仰が薄いものだ」とか
弱さを指摘することが多いんですよね。

ですが、イエス様も、そうは言いながらも、そんな弟子たちを、助けていくんです。
それも、この時ばかりではありません。何度も、何度も、繰り返しです。

4:41 彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った、「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

実は、この弱さの中に働くキリスト体験、実体験の積み重ねこそが、
いかなる恐怖や困難にぶつかっても、冷静さを失わないで対処できる、
揺るがない信仰を作り上げていくために、弟子たちに必要なことだったんではないでしょうか。

今日の招きのことばに取り上げましたが、
イエス様は、決して、私たちの弱さに同情できない方ではありません。

私たち大人も、まず自分の弱さを認めるということが必要なような気がします。
そして、その弱さに働くキリストの存在を知ることになるわけです。

そのことを一番、明確に証しているのが、次に上げたコリントの手紙に記された
パウロの証であるように思うんですね。
パウロは、いわゆるダマスコ途上の出来事、教会を迫害に行く途中、強い光を浴びて、
その時以来、視力が弱くなったようです。
前の節では「肉体のとげ」という表現が出てきますが、おそらく、ここでも、その目のことで
祈っているのではないかと思われます。

なぜなら、こうして目が悪い、病気があるというのは、当時の社会通念上、神からの
祝福を失っている証拠、罪がある証拠かのように見られていましたし、
見方を変えればですよ、パウロの信仰が弱いかのようにも見られたかもしれません。
パウロ自身も、心のどこかで、否定的に考えていたと思います。
「肉体のとげ」のようで、実は、「心のとげ」となって、ずっと突き刺さっていたわけですよね。

Uコリント
 12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。

三度も祈るというのは、文字通りの三回かもしれませんが、象徴的に人間的な限界を
表す数でもあるんです。いずれにしても、パウロのことですから、それは真剣に切なる祈りを
捧げていたことでしょう。
しかし、それでも、この「肉体のとげ」、目が癒されることはなかったわけです。

12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。
 というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。…

もともとパウロは、ユダヤ教のエリート中のエリートだったわけですよね。
ある意味、怖いもの知らず、弱さとは縁がなかったかもしれません。
だから、愛だの、罪の赦しを解くキリスト教会が許せなくて、迫害していたわけです。
ですが、そのダマスコ途上の出来事で、「わたしは迫害するイエスである」という声を聞き、
視力を失い、自らが弱さを負うことで、人の弱さを理解するようになり、
キリストの愛の素晴らしさをも知るようになったわけですよね。

パウロにとっての、この「肉体のとげ」、弱さというのは、決して不幸なものではなく、
パウロの実体験上も、キリストの恵みを受け取るために必要かつ十分なもの、
なくてはならないものだったわけですよね。

「わたしの恵みは、あなたに十分である。わたしの力は、弱さのうちに完全に現われる」

このことばは、直接、パウロの心に響いてきた言葉であると思われますが、そのことを思い出させてくれたわけです。

12:9 …ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。

私たちも、自分の弱さや罪を知るからこそ、イエス・キリストを信じたんだと思うんですよね。
もし私たちが、自分の弱さを誇ることができたなら、これほど強いものはないと思います。
そうでしょ。弱さが誇れちゃうんですから。

12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。
 なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

これは、ある意味、究極ですよね。
なかなかパウロの境地にはたどり着けないかもしれません。

私たちには、いろんな弱さがあります。
時には、弱さがゆえに、恐れること、不安になることもあるともあると思います。
それ自体は、ある面、避けられない、あってもかまわないと思います。

でも、その時に、ただ恐れるのではなく、落ち着いて、私たちの内に起こりうる心の嵐を静めることの
できるお方、イエス・キリストに、いかに頼れるかでしょう。

私たちが不安や恐れ、あるいは怒りの感情に捕らわれているときには、
私たちの脳は、否定的な言葉で、ぐるぐる、いっぱいになっているはずです。
自分に向えば「どうして自分は駄目なんだろう」、他者に向えば「どうして、こうなんだ!」と怒りの言葉にもなります。
そんな時に、軌道修正してくれるのが、まさに神の言葉ですよね。

そこで今日は、聖書の中から、そんなことばを、いくつかピックアップしてみました。
これはあくまで単純に、私の独断と偏見で選んだだけなんで、皆さんそれぞれに、
この言葉の方が心に響くという御言葉もあると思います。

どれも有名な言葉ですから、よくご存知の方もいらっしゃるとは思うんですが、
イエス様も嵐をことばで静めたように、こういう言葉を意識して、見返したり、頭の中に刻んでおいたりすると、
神の言葉が私たちを守ってくれるんじゃないかな…と思うわけです。


〜弱さを感じたときに読みたい神のことば〜
 (まだまだ、いろいろあります。自分なりに作ってみるといいと思います)

ヨハネ16:33 「…あなたがたは、世にあっては患難があります。
しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」

 これは、今日の教会学校での暗証聖句にさせていただきました。
 「あなたがたは、世にあっては患難があります。」…実際に、あるんですよね。
 「しかし、勇敢でありなさい。」…勇気を持って、行動しなさい。挑戦しなさい。
 「わたしはすでに世に勝ったのです。」
 …イエス様もまた、弱さを負いながらも、十字架の苦しみ、恐怖に打ち勝ったわけです。
 そのイエス様が、わたしたちと一緒にいてくださるわけですよ。

 子供たちには、これからの将来、たとえ恐れを感じたとしても、
 勇気をもって、チャレンジしてもらいたいという願いを込めて、
 この言葉を選んでみました。

ヨハネ 20:19 …「平安があなたがたにあるように。」 

 イエス様が復活したときの弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸を閉めていたわけですが、
 その弟子たちの中に入ってきて、イエス様が語られた言葉です。

 これはヘブル語でいう「シャローム」、挨拶の言葉です。
 朝でも夜でも、出会ったときも、別れる時にも使えます。
 朝には「ボーケルトーヴ」という朝の挨拶がありますが、いつでも使える、
 日本語で言えば「どーも」に相当するかもしれません。
 でも日本語の「どーも」は、何が「どーも」なのか、あまり意味はないんですが、
 ヘブル語では「平安があるように」という言葉が交わされているんですよね。

 「平安があるように…」
 これは、自分に対しても、他者に対しても、持ち続けたい、祈りの言葉でもあるように思います。


マルコ5:36 「恐れないで、ただ信じていなさい。」

 これはヤイロという人が娘が死にそうなので助けてほしいと、イエス様にお願いし、
 家に向う途中、娘が亡くなったという知らせが入った…、その時、イエス様が語られた言葉です。

 単純、シンプルな言葉ですけどね。
 ちょっとしたときに思い出せて、「恐れることはないんだ」と勇気付けてくれるのではないのでしょうか。

マタイ11:28〜30
「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。
 わたしがあなたがたを休ませてあげます。
 …わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

以前から疑問だったのが「休ませてあげよう」…といっても、結局、荷は負うわけじゃないですか。
どうして休まるのか、荷が軽くなるんだろうって、思っていたんですよね。
でも、自分ひとりで負うのではなく、「わたしのくびきは負いやすく…」
実は、イエス様が一緒に負ってくださるんですよね。

詩篇23:4  
 たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません。
 あなたが私とともにおられますから。

 有名な詩篇23篇ですが、なぜ恐れないのかといえば、やはり神様がともにいてくださる、
 ともに歩いてくださる…、その実感、安心感からですよね。

 詩篇の中にも、いろいろと、いい言葉が出てきますよね。

詩篇  30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

 いつまでも、悲しみや、不幸が続くわけではないんですよね。

詩篇 103:2 わがたましいよ。主をほめたたえよ。主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。
        
 「わがたましいよ…」というのは、詩篇によく出てくるフレーズですよね。
 これは詩篇の作者自身が苦しみにあるとき、悲観的な言葉で心がとらわれているとき、
 自分の魂、心、脳みそに言い聞かせているように思うんです。

イザヤ41:14 恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしはあなたを助ける。
――主の御告げ。――あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者。

 神さまは、繰り返し「恐れるな」と語りかけていますが、特に、このイザヤ書には多く出てきます。
 それだけ私たちは、恐れるからでしょう。
 その中でも、この「虫けらのヤコブ…」って、好きなんですよね。なんか、いいじゃないですか。

 たとえ「虫けら」のような私たちであったとしても、神様は助けてくださるんです。

申命記8:16 …あなたを苦しめ、あなたを試み、ついには、あなたをしあわせにするためであった。

 神様は、イスラエルの民を、厳しい荒野を通らせたんですが、
 「ついには、しあわせにするためであった」というわけですよ。
 私たちも試練の中を通るときもあるわけですが、それも「ついには、しあわせにするため」とはいえないでしょうか。

ローマ8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
 神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。


 この言葉も同様ですよね。
 一時は、なぜこんなことが起きるんだろうということって人生には度々あるわけですが、
 後から振り返ってみると、あの経験があったから…ということって、多分にありますよね。
 たとえ不幸や失敗に思えるようなことでも、実は、無駄な経験は何一つもない、
 そこから学ぶこと、受け止め方一つで、すべては「益」になっていくんです。

Uコリント 12:9 「わたしの恵みは、あなたに十分である。
  というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」

先ほども取り上げましたが、自分の弱さがゆえに、自分が嫌になったり、
苦しくなったりすることもありますが、弱さがあるがゆえに、人の弱さも理解できれば、
キリストの愛も知ることができたわけです。
そう考えれば、弱さもまた、実は、「恵み」の一つなのかもしれないですよね。

■誰かが弱っているときには…

ローマ 12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。 

これはおまけですが、わたしたちは、弱っている人に、無理に励ましたり、
すぐに元気になってもらおうとしてしまうことがあります。
でも、まずは、喜ぶものと喜び、泣くものと一緒に泣く…、
心に寄り添うことの方が先決なのかもしれません。

■クリスチャンのライフスタイル

Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

最後に、クリスチャンのライフスタイルとしてみましたが、
この言葉は、何をするにしても、私たちの人生全般にわたっての生き方、
一つの指針ではないかな…って思うんです。

静岡の実家のお便所に掲げられていることで有名な御言葉なんですが、

もし、これができたとすれば、実は、しあわせですよね。

とはいえ、決して、いつも喜べることばかりではないと思います。
でも、まったく逆を考えてみてください。
いつも悲観的に捉え、誰のことも信頼できず、すべてのことに不満に思っているとしたら…
これって、ものすごく不幸なことですよね。

決して、いつも喜んでいられるわけではないし、回りの環境や他人を変えられなかったとしても、
自分自身は変えられます。
いつも喜ぶことを心がけ、心の不安は神にゆだねて祈り、わずかなことでも感謝するように
心がけていけば、実は、しあわせな自分に変わっていけるんではないんでしょうか。

そして、この最後の一文が大事なんです。
実に、「これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられること。」、
神様も、それを望んでいる、それが、御心だというわけです。

まだまだ、そのほかにも、いっぱい、いろんな御言葉があると思います。
私は、こっちの方がいい、この言葉に支えられた…ということばがあると思います。

ですので、赤線引くなり、手帳やカードでも、自分なりに、そんなことばをピックアップして、
心、脳みそに刻み込んでおくと、いざ人生の嵐に遭遇したときにも、
そんな神の言葉が、心の嵐も静めてくれるのではないでしょうか。


Tテサロニケ 5:16〜18
 いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。
 これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
 

ラベル:マルコ
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2012年02月05日

振り向いたキリスト マルコ5:25~34

2月4日 TPC 東京プレヤーセンター 昼の礼拝

みなさん、こんにちは。竹下 力です。
私は、普段、月曜から金曜までは、旅行会社で働きながら、
こうした聖書のメッセージをお届けする働きもさせていただいています。

私の妻もゴスペルシンガーみたいなことをやっておりまして、
本当は、今日は、特別賛美でもと思っていたんです。
ですが、日曜からインフルエンザになってしまいまして、
もう直ってはいるんですけれども、念のため、お休みさせていただきました。

こういう時に限って、私の仕事も忙しくて、仕事に、家事に、看病でしょ。
でも、2人で倒れるわけにはいかないですから、
ウィルスなんかに負けねえ〜という信仰か、気合か、意地で乗り切るような1週間でした。
本当にはやっているようなので、みなさんもぜひ、気をつけてくださいね。

さて、イエス様もいろいろなところを旅しながら、各地を周っていたわけですが、
この時には評判が広がり、もう人気絶好調、
あそこに、イエスがいるぞ!とわかると、たちまち多くの人たちが集まってきました。

テレビもラジオもない時代ですからね。
何か珍しいものでも見れるんじゃないだろうか…。何か、ご利益があるかもしれん。
いわゆる野次馬たちも、大勢、集まってくるんです。

 5:25 ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。
 5:26 この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。
 5:27 彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。
 5:28 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る。」と考えていたからである。

この長血をわずらっていた女性もその群衆の中にいた一人です。
病気なのに、意気のいい群衆を掻き分けていくわけですから、
それはもう大変だった思います。

 「お着物にさわることでもできれば…。」なんて、言ってたら、触るどころか、跳ね飛ばされちゃうんですね。

「着物に触って、きっと直るんじゃ〜!」

こんぐらい勢い(?)、とにかく必死だったと思うんです。

あたかも、ヨン様か、最近ではグンチャンかもしれませんが、
あわよくば握手してもらおうと押し寄せる、おば様方のように、
やっとの思いで、つかんでみたら、ペテロだったりしてね。

「あんた、もう、邪魔!」

なんか言いながら、とにかく、必死で、イエス様の着物に触ったんだと思うんです。
すると、その瞬間、直った!!!というんです。

 5:29 すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。

私たちは、このような話を見聞きするときに、
いやー、そんなこと、あるんかな…とか、いやいや、そう信じることこそ信仰だ…とか、
彼女の病気が癒された「奇跡」そのものや、その「奇跡」を呼び起こした彼女の信仰とかに注目していくことが多いような気がします。

ですが、こうした病気が治ることは、実際、ままあるんです。
私たちは、普段、西洋医学的な考え方にどっぷり浸かっていますから、こうして病気が治ってしまうのは、まさに「奇跡」のように思えるかもしれません。

でも、東洋医学の世界ではどうか。
「きっと直る」、まず、その気になることが、治療の核だというんです。
その気になることで、本当に免疫力や自然治癒力も上がるらしいんですよ。

もうだいぶ前ですが、私の叔父も、癌の手術をしたんです。
でも、取りきれなくて、全身転移、医者からは余命3ヶ月の宣告を受けたんです。
それを聞いた私の父が、だったら最期は自宅で…と、退院させたんです。

でも、本人は、その告知を聞いていなかったんです。
というのも、手術をした後、ひどい感染症を引き起こしまして、耳が聞こえなくなったんですね。
一時は、顔がパンパンにはれ上がり、呼吸も3回止まるほど。
その度ごとに、私の父親や牧師が駆けつけては、これまた大きな声で祈るわけですよ。
半分、逝きかけていたのを、無理やり引き戻されて、今度は退院でしょ。

それまでの叔父は、神様も何も、一切、信じようとしなかった人だったんですが、神様が救ってくれた!そう信じきっちゃったんです。

そしたら、どうでしょ。。。

全身に転移していたはずの癌が、本当に、きれいになくなっちゃったんです。

なんだか、半分、ずるいような話なんですけどね。
なんせ、本人は告知されていないんですから。
ですが、とにもかくにも、こうした病気が治ることは、実際にありうるんです。

しかし、本当の奇跡は、実は、この後から起きていったんです。


 30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。

「誰か」と言われても、もう、その他大勢の群集たちが、押し寄せているわけですよね。


弟子たちにしてみれば、
「先生、変なこと、言わんといてください。
 誰か…って、みな触っています。私だって触っていますよ。」
そんな感じだったと思うんです。

この時、実は、ヤイロという人が、娘が死にそうだから、助けてほしいっていうんで、先を急いでいたんですよね。
ヤイロも、「先生、お願いですから、急いで、娘のところに来てください。」
もう、必死で、先を急いでいたと思います。


ところが、それでも、イエス様は、動こうとしない…

 32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


なぜイエス様は、この状況の中、この一人の女性のことに、こだわったのでしょう…。
そこに、何か隠された訳があるような気がしますよね。

そこで今日は、この女性が病気を患っていた「12年」という時。

この「12年」という時…というものを考えてみたいと思うのですが、皆さん、12年前は、何をしていましたか。

私は今38です。12年前といえば、26歳になります。
26歳といえば、われらがJTJ神学校で2年生の時だったんですね。
この時、生活のために、昼間、アルバイトをしながらたったんですが、
社員並みに働かせてもらいまして、「いのちのことば社」っていうんですけどね。
同期のカイク加藤さんが3月見事に卒業していく中、もう1年余計に勉強させていただける恵みを与えられたわけです。

ま、それでバイトを辞めまして、とにかく卒業し、
その後、結婚もし、働きながらの伝道活動を行い、1社、2社と渡り歩いて、
今、「にこまるツアー」で、5年目です。

皆さんもそうだと思いますが、12年の間には、いいことも、悪いことも、いろいろなことがあるものですよね。

でも、この長血の女性、彼女の場合には、そういった12年という時、ずーっと病気のために苦しんでいたんです。
それは、それは、長い長い12年間だったはずです。

「長血」という病気が、今でいうなんという病気かは断定できないんですが、出血を伴う婦人科の病気だと思われます。
そうすると、ユダヤの社会では、彼女に触れば、汚れる…、忌み嫌われてしまうんですよね。
その病気のために、仕事も結婚もできなかったかもしれません。
そんな彼女が、人ごみ、群衆の中にいることなんて、もっと赦されない、非常識なことだったんです。

だから、群衆の中に「紛れ込み」、うしろから、ばれない様に触っていたんですよ。
実に、12年もの間、社会も、また彼女自身も、彼女の人格を否定し続けていたのです。


「イエス様に触ったなんて言えない!」
まず彼女は、そう考えたと思います。ですが、イエス様は捜し求めて、先に進もうとしない。

そこで彼女も、覚悟を決めて、恐る恐るイエス様の前に進み出ていくのです。

 33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。

彼女の真実ってなんだったんでしょう。
それは、単に病気が治ったということだけではないはずです。

12年もの間「長血」という病気だったこと、
いろんな医者にかかっても駄目、ひどいめにもあわされ、
全財産使いはたしてしまったこと、絶望に陥ったこと、涙に暮れる日もあったと思います。
その悔しさや悲しみ、あるいは憎しみといった感情もあったかもしれません。

たとえ病気が治ったとしても、「よかったね!」だけでは、すまないことってあるじゃないですか。
あの医者たちは一体なんだったのかとか、私の12年間は一体なんだったのかとか…、
もし彼女がそっちの方に考えが行ってしまうとしたなら、彼女が納得できるような答えは見つからないんですよね。
そこに、救いもないんです。
心に傷を負ったまま、結局、病んだままになってしまうんです。

「12年」という時…。これが、彼女の真実です。

彼女は、イエス様に、その真実を余すところなく打ち明けたのです。

その悲しみや、苦しみ、12年間の真実を、全部、余すところなく打ち明けた、その後に、
イエス様は、彼女に語りかけたわけですね。


 「娘よ…。」

それは、まさに、彼女の全人格に向けて、呼びかけられた言葉でした。

 34 「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。…」

こうしてはじめて、彼女の全人格に対して、本当の奇跡、「救い」が訪れたんですね。
体だけではなく、心にも「元の気」、元気を取り戻せたんです。

 34 「…安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」

この先、彼女が、まったく病気にかからなかった…わけではないと思います。
クリスチャンになったら、カゼ一つ引かない、虫歯一本ならないという人は、まずいません。
カゼにもなれば、虫歯にもなります。
私の父も、癌だったわけですが、父は癌が消えることはなかったわけですね。
人間、いつかは、何らかの理由で、この世の生涯を閉じる時が来ます。
彼女もまた、同じです。


しかし、たとえ死を迎えるような病気になったとしても、
もし、心は平安、すこやかにその時をすごすことができたとしたなら、
それは、病気といえるでしょうか。
病気も、もはや病気ではなくなっているような気がします。


 先ほど紹介した、余命3ヶ月と宣告された叔父ですけど、
もともと脳卒中で半身不随がありまして、ひどい劣等感の固まり、お酒を飲んでは、わめき散らしてしまう…そんな人だったんですよね。

教会に行くようになってからも、しばらくは、あの人は嫌いとなれば、嫌な顔して、握手もしない…、そういうタイプの人だったんです。
でも、徐々に、徐々に、変えられていきまして、いつしか、誰にでも、笑顔で接するようになっていったんです。

退院してから3年、ある日、肺炎になりまして、病院に行く途中、眠るように天国へと旅立っていきました。
とっても穏やかな最期だったようです。
叔父が、その生涯を、健やかに幕を閉じるためには、その3年という時も、また必要だったのかもしれませんね。

時に、私たちは、先を急ぐあまり、立ち止まって振り向くことができないことがあるような気がします。

 5:31弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか」

特にこの現代、次から次へと情報が流れていて、時代は瞬く間に変化していきます。
忙しいという字は、心を亡くす…と書きますが、
立ち止まってなんかいられない、振り向いてなんかいられない…、
一人の人のために、もしかしたら自分自身のことですら、振り向く余裕を失ってしまうのが、この現代なのかもしれません。

しかし、イエス・キリストは、そうではありません。

 …イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。
 …イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


イエス・キリストは、目には見えません。耳で言葉を聞くことはできません。
しかし、今日も、ここにいて、私たち一人一人の声を聞きたいと願っている。

信じて救われておしまいではなく、信じた時から、本当の奇跡、
全生涯、全人格をかけた救いが始まっていくんですよね。

私たちが、心も体も元気であるために、たった一人のためにも、振り向いて、
その人のことを知ろうとしてくださる…、それがイエス・キリストです。


 彼女は、イエスに真実を、余すところなく打ち明けた・・・。



いま少し、イエス様の前に、私たちの真実を打ちあけて行く時を持ちたいと思います。


今、皆さんが、人には言えない、一人、心に抱え込んでいる悩みはないでしょうか。
もしかしたら、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
過去に負った傷、まだ癒されていない傷なのかもしれません。
でも、真実なそのままの私を、イエス様に打ち明けてみましょう。


あなたの信仰があなたを救った…!! 病気にかからず、すこやかでいなさい。

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2011年12月12日

「王として生まれたキリスト」ヨハネ18:33〜40

2011年12月11日 キリスト教会「石巻祈りの家」

石巻祈りの家 石巻祈りの家
 (個人宅で行われている正真正銘アットホームな家の教会です。)

 みなさん、おはようございます。
 今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

 さて教会の暦では、クリスマスを前にして、アドベント、まさに救い主がお生まれになるのを
待ち望む時期にあたるわけですが、私たちは一体どんな救い主を待ち望んでいるのだろう、
クリスマスには何を喜び、何を祝おうとしているのか…って考える時なわけです。

 …と言いながら、今日の箇所は、クリスマスとは全くかけ離れた、イエス様が十字架に
着けられる直前、ピラトの裁判のシーンだったりするんですが、私たちは、幸いなことに、
イエス・キリストがどういうお方であるか、イエス様がお生まれになった後の出来事、
その生涯全体をよく見て、そのイエスが、神の子、救い主かどうか、じっくり判断することが
できるわけですよね。
 その上で、イエス様を救い主としてお迎えし、イエス様がお生まれになったことも祝う。
 これが私たちにとってのクリスマスです。

 しかし、当時のユダヤ人たちは、歴史の順番通りにしか見ることが出来ないわけです。
つまり、救い主が実際どんなお方で、どんな風に救いをもたらしてくれるのか、見ることなく
待ち望み、そして迎えることになるわけです。その違いって、あるような気がします。

 この裁判では、「ユダヤ人の王」ということが焦点になっているわけですが、ユダヤ人たちは、
王と名乗るこのイエスという男を死刑にしろというわけです。
 ところが、このピラトはローマ総督ですから、なぜ死刑にしなくてはならないのか、まるで
見当もつかないわけです。

18:33 そこで、ピラトはもう一度官邸にはいって、イエスを呼んで言った。
     「あなたは、ユダヤ人の王ですか。」
18:34 イエスは答えられた。
     「あなたは、自分でそのことを言っているのですか。それともほかの人が、
      あなたにわたしのことを話したのですか。」
18:35 ピラトは答えた。
     「私はユダヤ人ではないでしょう。あなたの同国人と祭司長たちが、
      あなたを私に引き渡したのです。あなたは何をしたのですか。」

もし、例えば私がですね「私は王だ」と名乗ったとしても、「お前は馬鹿か」で終わるじゃないですか。
例えば、政治的なテロでも起したなら別ですが、ただ単に、自分は王だと名乗っただけなら、
死刑にまではならないですよね。

今、ピラトの目の前にいるイエスという男は、縛られて、なんら抵抗するわけでもない、
ローマを冒涜したわけでも、政治的な活動をしてきたわけでもない、
たとえローマに刃向かったとしても、ローマの軍隊にかなうわけがない。

なぜユダヤ人たちが、これほどまでにイエスを十字架刑にしろというのか、その理由が
わからないんですね。私たちにも、わからないところがあるのかもしれません。
 
そこで、ユダヤ人たちにとっての「王としての救い主」とは、どんな意味を持つのか、
まずは歴史の順番どおりに、少し見ていきたいと思います。

イザヤ書 9:6
 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
 主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

これを預言したイザヤは、実にイエス・キリストの誕生から700年以上前に活躍した預言者です。
イスラエル自体もともと小さな国なのですが、それが南北に別れてしまい、外国の脅威に
さらされていたですね。その時に、救い主の誕生が預言されたのです。

それから700年という間、彼らは、救い主を待ち続けることになるわけです。
 
クリスマスまで、あと700年。待てますか?
誰も待てん…というか、誰も生きていません。
それどころか、ただ「700年」といわれても、あまりピンと来ないまま、話が流れてしまうと思うんですね。

今から700年前というと…、西暦1300年、日本でいえば鎌倉時代の末期になります。
1333年に鎌倉幕府が倒れて、足利尊氏によって室町幕府が建てられたわけですね。
それから戦国時代、織田、豊臣、そして徳川によって江戸幕府…
ちょうど今年はNHKの大河ドラマで「江」がやっていましたけど、その江戸時代が15代、
260年続いた後に大政奉還、明治、大正、昭和、平成へと…気が遠くなりそうですが、
これが700年という時です。

その700年間、何世代にも渡って、いつ来るかもわからないまま救い主を、ずーっと
待ち続けていたわけですよ。

イスラエルは、イザヤが預言してから間もなく、まず北のイスラエル王国がアッシリア
という国によって滅ぼされます。
その後、新バビロニアによって南のユダ王国も滅ぼされ、バビロン捕囚、外国に囚われの
身になったこともありました。
その後もペルシア、ローマ帝国と、常に外国の脅威にさらされて、ほぼその支配下に
あったわけです。


彼らは、周辺諸国と戦って、イスラエルの独立を果たしてくれる王としての救い主、
まさにイスラエルにとっての「平和の君」が現れるのを、ずーっと待ち続けていたわけです。

 実にイエス様の弟子たちも、またそうだったんですね。
 彼らもまたイエス様がイスラエルの独立を果たしてくれると信じていたんです。
使徒の働きの1章を見てもわかります。

使徒1:6 「主よ。今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」

十字架、復活の後も彼らは、イスラエルの独立を求めていたのです。

一方で、ユダヤ人の中には、王としての救い主が来られては困る人たちもいました。

まず、その一人はヘロデ大王です。
もし自分以外に王がいるなら、彼にとっては自分の座を奪う敵ですよね。
実際に、彼は、東方の博士から「ユダヤ人の王が生まれた」という話を聞いて、
2歳以下の男の子を皆殺しにしています。

そして、もう一人は実質的な政治を行っていた大祭司をはじめとする祭司たちです。
彼らは、群集がイエスのことを、待ち望んでいた救い主だと信じて、暴動が起きることを
何よりも恐れていました。
もしそうなればローマが黙っていない。本当に、イスラエルは潰されてしまう。
彼らは彼らなりに、イスラエルの国のことを考えていたんですね。
彼らは、イエスの人気や力も知っていましたから、それだけにイエスを非常に危険視したわけです。
そして、ついにイエスを捕らえて、ローマの手に引き渡すことができたわけです。

さて、あとは群衆たちですよね。
皆さん、どうでしょう…。
よく群集たちが、あれだけイエス様を大歓迎してエルサレムに迎え入れておきながら、
1週間も経たないうちに十字架につけろと叫ぶようになったのか…。
疑問としてあがるところだと思うんですよね。

でも、今の日本、まさに、これと同じだとおもうんです。内閣支持率なんてそうでしょ。
民主党政権になりました。それまでは、わっーと盛り上がっていたと思えば、批難の嵐です。
子ども手当て一つだけみて、政権や内閣の是非って問えますか。
野田内閣になって、また少し盛り上がったかと思えば、引いていくわけですよね。

まして、神様から約束された「王なる救い主」のはずが、今、まさに敵国ローマの手によって
捉えられている、もし、その姿を見たとしたなら、皆さんなら、どう思いますか…。

私なら、がっかりするというか、正直、偽者だと思ってしまうと思う。
だから、あれほど集まっていた大勢の群集たちも、みな一斉に引いていったわけです。
それどころか、期待が大きい分、何だ、偽者じゃないか、十字架につけろと叫ぶようにもなったのです。

日本は、いまだかつて世界地図の上からなくなったことのない国ですから、その心情は理解し
得ない部分もあるかもしれません。
でも、ユダヤ人にとっての「王としての救い主」というのは、それは待ち続けた700年という時の
重さでもあったわけです。

一方、イエス様の方です。
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。
     もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、
     戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

イエス様は、実際に、この世の国のこと、政治的活動をしてきたわけではありません。
イスラエルという国を守ろうとするとき、そこには必ず戦いがある。それは旧約聖書の歴史が嫌というほど物語っていることです。
イエス様は、そういったこの世の国と国の壁、民族、部族を越えた、神の国へと招こうとしていたんですね。

イエス様が、捕らえられるときにも、弟子の一人が剣をとったわけですが、「剣を持つものは、みな剣で滅びる。」
イエス様はすぐにやめさせました。神の国は、そうやって勝ち取るものではなかったからです。

18:37 そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」
     イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。
     わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。
     真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。

イエス様は、これまでご自身のことを「王」として公に語ったことはありません。
むしろ、弟子たちに救い主であることを隠すようにも言われて来たほどです。

ところが、この裁判の席上では、公に自らを「王」として名乗ります。
まして、この状況、場面で公にすることは、必然的に十字架を意味していたわけです。
でも、その死を目の前にした場面で、イエス・キリストはこう語るわけです。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

ピラトには、まるで、その真理が死をもたらすかのような、死ぬために生まれてきたかのように
聞こえたかと思います。

ピラトは言います。「真理とは何か。」

真理とは何でしょう。皆さんなら、なんて答えますか。「真理とは何か。」


真理にも、いろいろあると思いますが、この時、この場面で言われるところの真理とは何か…。
岩波国語辞典によれば、真理とは、本当のこと、間違いでない道理、正当な知識内容だそうです。

たとえば、もし本気で平和を実現しようとするならば、それは単純に、せーので、武器を捨てる
ほか道はない。平たく言えば、愛し合うということ。これも一つの真理だと思います。

でも、人間は武器を持ってしまう。必ず武器を使ってしまう人間がいる。
これも真理といえば真理でしょう。

武器をとり、それを使う人間がいる中で、武器を持たないということは、まさに命がけです。
平和を願いながら、やはり武器を取ってしまう。あるいは、武器を持たせてしまう。
これもまた、私たち人間のもつ真理なのかもしれません。

しかし、武器を持って戦わせるのではなく、国民を救うために、王自らが命を捨てる。
普通は、王を守るために、国民が戦います。王が死ぬとき、その国家は敗北です。
かつてのイスラエルもそうでした。王が死んでは、一見すると、無意味のような気がします。
あり得ない。
しかし、それが、平和への道だとしたら…。

王自らが、十字架で命を捨てる代わりに、イスラエルも、ローマも、日本も、あらゆる国民を
神の国へと招き入れる。
これが、「王」であり「救い主」としての使命、生きる道であり、真理だったのではないでしょうか。

この後、19章のところを見ると…
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。
するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。

「さあ、この人です。」と訳されていますが、昔の訳では、「この人を見よ」。

やや差別的な言葉が使われていて、ピラトにしてみれば、この無力で哀れな男を見てみろ、
これでも死刑を望むのか…そういう意味で、言ったと思います。

ピラトにしてみれば、バラバの方が、よっぽど危険人物に見えたに違いありません。

このバラバこそ、強盗と書かれていますが、ローマからの独立を目指して、取税人や
ローマの兵隊を襲って強盗働く革命家、つまり自称「救い主」の一人ではなかったかと
言われています。
当時、そうやって本当にテロ的な活動をして、十字架刑に処せられていた人たちも多くいたんです。

ですが、先ほども言いましたが、イエス様は政治的な活動をしてきたわけではありません。

この人を見よ…!! 

しかし、この時のユダヤ人たちには、イエスの方が、神の名を語る偽者のように見えてしまったのです。

十字架の死というと、なんとなく気分も重たくなると思うんですね。
ですが、イエス様は、決して、死ぬために生まれてきたわけではないと思うんです。
この場面で、十字架を背負ってしまう、それがイエスという男ではないでしょうか。

わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。

イエス様の罪状書きは、「ユダヤ人の王」
十字架に釘打たれる中、こう叫びます。
「父よかれらをお赦しください。彼らは何をしているのかわからずにいるのです。」

少なくとも彼は、あらゆる国民を守るため、王自らが命を捨てる。
それはユダヤ人に限らず、私たち人間が誰しも抱えている咎、エゴ、罪がもたらした
結果かもしれません。
イエス・キリストは、私たちの「罪」のために十字架につけられたというのは、
ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。
その十字架を背負い、最後の最後まで「王なる救い主」として生きたんですよね。

今日の交読文、イザヤ53章を選ばせていただきましたが、まさにイエス・キリストの
預言と言われている箇所です。その中にこう出てきます。

イザヤ53:11
 彼は、自分のいのちの激しい苦しみのあとを見て、満足する。
 わたしの正しいしもべは、
 その知識によって多くの人を義とし、
 彼らの咎を彼がになう…。

これが神の御心であり、王としての姿。この「受難のしもべ」とも呼ばれるお方を
「王なる救い主」として迎えるとき、イエス様も喜んで私たちの王として、私たちを
神の国の一員として迎え入れてくださるんですよね。

この人を見よ。
この人を見たとき、何を感じ、どこに真理を見出すか。

哀れな人だと見るか、ただの馬鹿だと見るか、それともこの方こそ神の子、
王なる救い主と見るのか。それは、もう人それぞれだと思います。

この時、多くのユダヤ人たちは、イエス様を救い主としては認めることができず、
その後も救い主を待ち続けることになりました。

このあと、イスラエルは、ローマによって滅ぼされ、それから、さらに1900年の間、
差別や迫害も受けながら、ただ救い主を待ち望み、その信仰のみで、ユダヤ人と
しての自分たちを守ってきた民族です。

今でこそ、彼らは国家を持ち、軍隊も持っています。
ユダヤ人にもいろいろいるわけですが、でも敬虔なユダヤ教徒たちの中には、
今のイスラエルは人の力、暴力によるもので、神のイスラエルではないと言う人もいるんですね。
彼らは、まさに今もなお「王としての救い主」、平和の君を待ち望んでいるわけです。


さて、私たちは、今、どんな救い主を待ち望んでいるでしょうか。
救い主に、どんな期待を持って待ち望んでいるでしょうか。。。

誰しもが家内安全、商売繁盛、健康で、いつまでも幸せを願うと思います。

ところが人生、山あり、谷ありです。決して順風満帆ばかりではありません。
特に今回の震災では、皆さん、本当に多くの悲しみ、痛み、苦しみを負って
こられたかと思います。
正直、救い主、神様がいるなら、なぜ?と思うこともあると思います。

しかし、イエスキリストは、私たちの貧しさの中へ、悲しみの中へ、
その痛みの中に来てくださるお方です。

 イザヤ53:3 彼は、悲しみの人で病を知っていた…。

2000年前、イエス・キリストは、貧しい大工の家庭の子供として、馬小屋で生まれました。
私たちと同じように、何も出来ない、赤ちゃんとして生まれたんですね。
何も出来ないどころか、世話をしなければ、生きていけないんですよ。

それが、世界で最初のクリスマス。これが「王として来られた救い主」の姿です。

ですが、馬小屋だったからこそ、野にいた羊飼いたちも、救い主のもとに駆けつけることができました。
あたたかな布団はなくても、マリアとヨセフがいて、愛とぬくもりがあったと思います。
貧しいかもしれないけれども、そこには確かに「平和」があったのではないでしょうか…。

そんな王としての神のひとり子、イエス様をお迎えするクリスマスになったらいいですね。

イザヤ 9:6
  ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。
  主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。


 

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2011年12月06日

「『今日』という日がクリスマス」ルカ2:8〜20 

2011年12月4日 原町聖書教会(南相馬市)

DSC00613.jpg 
(午後の歓談風景。礼拝も食卓を囲んで行なっております。)

みなさん。おはようございます。

今日はお招きいただいて、ありがとうございます。千葉、市川から帰ってきました竹下 力です。

前回7月にはじめてお邪魔させていただいたんですが、この教会は通称「ただいま」の教会ということで、
私も、すっかり気に入ってしまったんですよね。
そんなわけで、はじめましての方もいらっしゃるんですが、皆さん、ただいまーと挨拶させていただきます。

私たちの教会も元々家の教会なんですね。
ですから、元々は本当に家の食卓で礼拝をしていましたし、今は会堂も与えられたんですが、
やはり、その名残で今もテーブルを囲んで礼拝をしています。
今日は、一応、スーツを着ているんですが、普段、うちの教会で、こうしたお話をする時には
普段着でして、先生なんて呼ばれたことなどないんですよね。
「竹下君」や「竹ちゃん」、がんばって「力さん」ですから、みなさんも同じように呼んでいただ
ければと思います。


さてさて、今日は、クリスマスのお話をということだったので、クリスマスのお話をさせていた
だきたいと思っているのですが、クリスマスって…何の日でしょう?


12月25日と言うと、最近の子どもたちに聞けば、時にサンタクロースの誕生日…といわれて
しまう時もあるんですが、イエス・キリストの誕生「日」をお祝いしているのかというと、
それも違っていて、イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけでもないんですね。

これは後の時代に定めらたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、
9月か10月くらいじゃないかとも言われています。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?
実際のところ、特定できないんですね。

では、誕生日でもないのに、何をお祝いしようとしているのだろう…、
クリスチャンは、一体、何を喜んでいるのだろう…、
今日はクリスマスの喜びについてご一緒に分かち合えたらと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。


世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。
ベツレヘムは標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな村。しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が遠吠えしていて、その寂しさを
凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。
 「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そんな、いきなり御使いだの天使だのが現れたら、そりゃ、
びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、いるんかいなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、
彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれません。


聖書で羊飼いというと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、どちらかといえば、羊飼い
同士で放牧する土地を争う、やくざまがいの部分もあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神から離れ、神からも見放された者、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのかもしれません。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
    この方こそ主キリストです。
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
    これが、あなたがたのためのしるしです。」


 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。

 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。


もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、
見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。

ごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもする
わけですよね。宿屋の主人に入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、ナザレという田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、
飼い葉おけ、馬小屋で生まれた。
だからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

「御心にかなう人々」とはどんな人たちなんでしょう。
日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように
思うんですね。

でも、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰しも間違うこともあるし、失敗することもありますよね。
クリスチャンであっても、夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいします。
私も平日は旅行会社で働いているわけですが、まあ仕事をしていれば、ストレスは溜まるし、
イライラすることもあるし、失敗すれば落ち込みもします。
クリスチャンであっても、病気にもなれば怪我もするし、人間関係で悩むこともあります。

それなのに、自分は正しい…と思い込んでみたり、言い訳をしてみたり、誤魔化そうとしたりもしてしまうんですよね。

とかく人間というのは、自分が正しいと思いたい…そんな性質があるように思う。
でも、自分は正しい、自分は間違っていない、そうお互いに言い合っては、争ってみたり、
時に人を殺してしまうことすらあるわけです。
実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言い張って、起きるんですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、
決して、そうではないはずなのです。
もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。

「天に栄光、地には平和を」

神が正しく、自分には間違いがある。
もしお互いに、お互いにですよ「自分が間違っていました、ごめんなさい」と認め合うことが
出来たなら、夫婦喧嘩も戦争なんて起きないのかもしれませんよね。

確かにある瞬間、ある部分は正しいこともあるかもしれません。
でも、実際には、どこかで間違っている自分もいるはずなんですよね…。
隠しておきたい、いわば「闇」の自分かもしれません。

しかし、救い主は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためでもなければ、立派で正しい人間のためでもない。
いや、むしろ、誰しもが抱えているはずの、間違う自分、誤ちを冒す自分、普段は隠している
闇の自分、人から見れば間違いだらけの自分のところにこそ、救い主はやってきたというのです。

こんな私のところにも、救いがやってきた。

こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。

ある殺人強盗で捕まった男が、十字架に釘つけられていました。
十字架というのは、世界で最も苦しい死刑です。それは自業自得とはいえ、まさに人生最悪の日。

でも、彼にとって特別だった事が一つあって、横に、あの救い主と呼ばれたイエスという男も
一緒に十字架につけられていたことでした。

もう、周りではローマの兵隊やら野次馬たちが野次を飛ばして、あざけっている中、
この強盗はこう思うんです。
「自分が十字架につけられたのは自業自得、でも、この人は何も悪いことなどしていない。」
そして、こう言うんです。

イエスよ、天国に行ったら、俺のことも思い出してほしい…。

すると、イエス様は彼にこう語りかけるんです。
「今日、あなたはわたしと一緒にパラダイス、天国に行く。」


こんな俺のところに、救いがやってきた。
こんな俺でも、イエスは愛してくれていた…。


彼にとって人生最後の最悪の日は、人生最初のクリスマスへと変わったのです。

イエス様は一番目に、「今日」、今日だと言いました。
どれだけ正しいことをしたか、どれだけ聖書読んだか、最低1年くらい教会に通ってからでもありません。
強盗であっても、今までどんな罪や傷があったとしても、「今日」、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

2番目に、「わたしと一緒だ。」そう言ったんです。
ただ単に「あなたは天国に行くよ」じゃないんですね。「わたしと一緒に、天国に行く。」
もし、イエス様がなんら苦しみを負わず、ただ十字架の下にいただけなら、
彼の心に、その声は届かなかったかもしれません。
でも「私が一緒だ。」イエス様も一緒に、同じ苦しみを負っている…。
だから、彼は十字架の苦しみの中にありながら、そこに慰めが与えられ、救いの希望まで
持つことが出来たんですね。

イエス様の弟子ヨハネは、イエスのことをこう表現しています。

 光は、闇の中で輝いている…。闇はこれに打ち勝たなかった。


皆さんにとっての、「闇」とは何でしょう…。


本当に人生は山あり谷ありです。
今までの人生の中にも、様々な傷、失敗、後悔…、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
特に今回の震災では、皆さん、本当の本当に辛い思いもしていらっしゃると思います。
少しでも理解しようと、こうしてやって来たりもするんですが、でも、実際に生活しているわけでは
ないから、本当のところは、やっぱり理解しきれないんだと思うんです。

でも、イエス・キリストは違います。
その悲しみ、苦しみ、「闇」の中にこそ、イエスは来てくださるお方です。

たとえ一人孤独のうちに叫ばざるを得ない、そんな夜が来たとしても、
イエス・キリストは、あなたの傍にいて、私が一緒だ、俺はお前のことを愛しているよ…、
そう語りかけてくる、そういうお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 きょう、あなたはわたしと一緒にパラダイスに行く…。

こんな私のところに、救いがやってきた。
こんな私でも、イエス様は愛してくれていた。

私たちが、そんな救い主に出会うのは、夏の晴れ渡った青空の下というよりは、
やっぱり冬の寒い夜、暗い星空の下での出来事なのかもしれませんね。

…恐れることはありません。
 今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。
 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。
 この方こそ主キリストです。

ラベル:クリスマス ルカ
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2011年11月17日

「神の家族である教会」エペソ 3:14〜21 

皆さん、おはようございます。

早いもので、11月、この会堂が出来てから、もう1年が経とうとしているんですね。
1年が早いのは、歳を取った証拠なのでしょうか。
すると、私より、もっと早く感じている方も、中にはいらっしゃるのかも!?しれませんね。。。


さて、先日は15周年のコンサートが催されましたが、15年前大竹家のまさに「家」でスタートした家の教会も、こうして会堂が与えられたわけです。
でも、会堂が与えられたから、「家の教会」ではなくなるのか…というと、それは違うように思うんですね。いや、もし違ってしまうとしたら、私にとって、非常に寂しいというか、残念なことだと思います。


この中には、すでにこの会堂が出来てから、いらっしゃっている方もいるわけですが、もはや「家」で礼拝しているわけでもないのに、「家の教会」になりうるのか…。
いや、私たちが「神の家族」であれば、ここの建物は「神の家」なんですよね。


この会堂を設計するときも、どこか「家」の雰囲気を残したいというのが、ほとんど皆さんの総意であったわけですけれども、私たちが「神の家族」であると言う意識がある時に、その家族が共に生活をする場所は、「会堂」というよりも、「家」と呼ぶ方が自然なのではないかなと思うんです。


今日の箇所は、パウロがエペソにある教会へ書き送っている手紙ですが、その中で、パウロが「祈り」を込めている箇所です。
それは、エペソ人への手紙全体を集約しているパウロの思いともいえるでしょうし、学問や神学を超えて、エペソの教会、さらにはキリストにある教会がこうであってほしい…というパウロの願い、すなわち祈りであると思うわけです。
今日はこの箇所から、私たちが、いかにして「神の家族」となり、それが「教会」であるということを、皆さんと一緒に再確認できたらな…と思うわけです。


3:14 こういうわけで、私はひざをかがめて、
3:15 天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。

さて、早速、「家族」と出てきましたが、2章では、「他国人でも寄留者でもなく…、神の家族」なんだということが出てきます。
その家族の名の元である「父」の前に祈るというわけです。

当然の話ながら、「父」と呼ばれるためには、「子」という存在も必要になるわけですよね。

例えば、私には、まだ子どもがいませんから、当然、私一人がどんなに頑張っても「父」にはなれないわけです。

はじめに「父」という存在があって、次に「子」があるようで、実は、「子」という存在があって、はじめて「父」にもなれるわけです。
つまり、父と子という存在は、どっちが後先ではなく、お互いに同時にはじまる関係です。

この「父」に対し、「子」といえば、まずイエス・キリストになるわけですよね。
もし父なる神がはじめから存在すれば、子なる神もはじめから存在しているということになります。私たちは、その子なるイエス・キリストと言う存在を通して、神様の事を「父」と呼ぶようにもなったわけです。


それが、まず「天にいます、私たちの父よ。」とはじまる主の祈りです。
イエス様は、こう祈るようにと教えられたわけです。
神様のことを「父」と呼ぶ、しかも、「お父様」とか「お父上」ではないんです。
「アバ」…小さい子どもが父親を呼ぶ呼び方、「パパ」「ちゃん」「おとう」こういう呼び方で、読んだんです。
これは当然、当時のユダヤ人にとって、許しがたいことであって、パーだの、ちゃんだの、もう許せん!まさに、ここにはイエス様の命も掛かっているわけですね。

そのイエス・キリストを信じる信仰のゆえに、私たちも神の子とされ、神様のことを「父」として知るようになったわけです。
そして、さらに、もうひとつ、聖霊という存在が登場してきます。


3:16 どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。


私たちは、御子イエス・キリストを通して、父なる神という存在も知り、神の子とされ、父に祈るということも知りえたわけですよね。
その父なる神は、どうするかというと、御霊、聖霊という存在を、私たちに送ってくださるというわけです。

さて、聖霊というと、正直な話、本当にいるんかな、よくわからないな…という方もいらっしゃると思うんですね。でも、わからなくてもいいと思うんです。
なぜならば、聖霊は、「わしが聖霊じゃ〜」というような、自己主張をせず、絶えず絶えずイエス様であり、父なる神を指し示します。

中には、聖霊の働きを強調する教会もありますが、聖霊の特殊な働きばかりが強調されすぎると、かえって聖霊の存在がわからなくなってしまう人もいるように思います。
実際、イエス様がなんと言っていっているかというと、「御霊はわたし(つまりイエス様)について教え、わたしについて証をする」、そう言っているんですよね。
また、ガラテヤ人への手紙などでは、『私たちは「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊を受けた』とも言われているわけです。

3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。


この「こうして」というのは、まさに前節の御霊の働きでして、この御霊によって、御子イエス・キリストは、私たちのうちに語り掛け、ともに住んでくださり、だからこそ、私たちも「アバ父」、天のお父様と祈れるというわけですね。
私たちがイエス・キリストに心を傾け、「天の父よ」と祈る…、その時、その瞬間、これ自体が聖霊の働きに他ならないわけです。
まさに、「アバ、父」と呼ぶ御子の御霊です。

このように、父、子、聖霊…三位一体の神様が、働いてくださっているわけですが、これをはじめて聞けば、唯一の神といいながら3つの神様がいるかのように思うでしょうし、「3つだけど、一つじゃ」という、なんちゃあ、よう分からんゆう話にもなるんだと思います。


ここで、今日は、ちょっとだけ、三位一体についてお話しておきたいと思うわけですが、
私たちは「三位一体」、すなわち父なる神、子なる神、聖霊なる神がいて…三つで一つ、唯一の神だと考えると思います。これはローマ・カトリックから受け継いでいる考え方で、どちらかというと異邦人的な受け止め方なんです。

でも、西のローマに対し、東の東方正教会では、唯一の神の中には、父、子、聖霊…「三つある」という考え方があるんですね。

そもそもパウロをはじめ、ユダヤ人のクリスチャンにとってはどうだったんでしょうか。
彼らは、もともと唯一の神を信じているわけですね。最初に、唯一の神様がガツンと存在しているわけですよ。
そこに、イエス様が現れて、その唯一の神の中には、実は父という存在があり、子という存在、そして聖霊という存在がいるということが明らかになったわけです。神様ですので「人格」というとおかしいんですが、言うなれば、三つの神格が存在している。つまり、唯一の神様の中に父、子、聖霊…、三つがいる…こういう捉え方をします。

父だけでは存在しえないし、子なるイエス様だけ、また聖霊だけでも存在していないんです。どれか一つに偏ってもいけないし、どれか一つが欠けることもありえないんです。

父がいるなら、子もいる。さらに父と子の関係をつなぎ、さらには神と人とを繋ぐ聖霊の存在、この3つが全部が揃って唯一の神でありうるし、唯一の神の中に3つある。

私たちも、この父、子、聖霊…この3つが揃った唯一の神様の関係、交わりの中にすっぽり覆われるかのように、神の子として、受け入れられているわけです。

私たちが、もしお互い神の子どもであれば、その横の繋がりは兄弟姉妹、神の家族であるわけですよね。
これは決して、キリスト教の風習でも、誰かが言ったような「人類みな兄弟」的なスローガンのようなものではなくて、神様ご自身の性質、父と子、聖霊、3つが関係あるがゆえに、必然的に私たちも神の子、兄弟姉妹、神の家族となりうるわけです。


3:17 …また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。


私たち教会、神の家族の基盤は、愛だというわけです。
いつしか志保子さんも、組織としての教会と家族としての教会の違いについてお話してくれたことがありましたが、私たちが、一つ気をつけなくてはならないのは、教会を運営していく時に、ついつい会社組織の感覚で、物事を運んでしまうことかもしれません。
私もビジネスをしていますので、注意しなくてはならないんですが…。


教会にも会計や、様々な事務的なことも発生するわけですが、会社の基盤になっているのは、売上であり、利益です。そのために宣伝、営業もするわけですよね。同じ感覚が教会に入り込むと、献金が売上となり、奉仕は仕事、伝道が宣伝、営業となって、会員数獲得、成績が問われるようにもなるわけですよね。
人数が増えれば、自社ビルならぬ、会堂を建てて、「立派な教会ですね」と評価をうけたりするわけです。実際、こういう教会もあったりするわけですよ。
でも、これは会社的なあり方が、いつしか教会に持ち込まれてきた結果のように思います。


もし会社であれば、社員は、ある意味、やめてもいいんですよね。必要であれば、人員補充、代わりの人材を見つければいいのかもしれない。
でも、家族はそうではありません。家族の一人は、代わりになる人はいないんです。この人は、この人でしかない。これが家族ですよね。

愛に根ざし、愛に基礎を置くあなたがた…それは、私たちは神の家族であるからです。

一言で、「愛」というと、なんだかいいなあ…とも思うわけですが、この愛は人間の兄弟愛、家族愛をさらに超えて、キリストから来る、キリストの愛なんですよ。
自分が受ける愛ではなく、時に自分の命でさえも与える愛というわけです。

言うは安し、行なうは難し…、なかなか、できることではないですよね。
できること、できないことも、人それぞれ違うと思いますが、自分自身の事を思えば、よくわかると思います。はあ、足りないことだらけです。

自分がやるべきことに気づきもしない時もあれば、失敗することもある。そのくせ、人の足りないところにはカチンと来て、怒りの感情すら起きることもあるわけです。
実際にそういうこと、ありません? 実は、関係の近い家族であるほど、ありえますよね。

でも、家族であれば、そういうこともあってもいいんだと思うんです。
もちろん、いつもであっては困りますが、時にぶつかることがあっても、どこかで理解し、赦せるのも、「家族」という間柄だからではないでしょうか。

私の父親もご存知のとおり、癖のある男でしたから、散々ぶつかりましたけどね。完璧な親もいなければ、完璧な子どももいない。でも、反発して家を出たとしても、しゃあしゃあと戻ってきて、また一つ屋根の下で暮らしていけちゃうのも、家族ですよね。
もし会社であれば、クビかもしれないですよね。
実に、有名な放蕩息子のたとえ話がありますが、父なる神と私たちの関係も同じなのかもしれませんね。

また、愛だからと言って、なんでも、ただ与えればいいのか…、そんなこともありません。
実際に、家族、親子という関係で考えて見ると、よくわかると思います。
乳飲み子には、必要最大限のものを与えていくと思うんですね。しかし、ある年代からは、必要最小限を与えていくと思うんです。
なぜならば、いつまでも親の家にいて、親のすねをかじって、親に頼らなくては生きていけないようでは困るわけです。
その子も、自立していかなくてはならないからですよね。

でも、何から何まで子どもに我慢させればいいのかというと、そういうわけでもないですよね。
人を愛すると言うこと、人に与える心というのは、まず自分が受けることによって、学ぶようにも思うのです。


天のお父さん、父なる神も、必要な時に必要なだけ、必要最大限かつ必要最小限のものを私たちに与える神ではないでしょうか。

 ヨハネ3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。…実に、最大限に与える神です。

しかし、一方で、神様を信じれば、家内安全、商売繁盛、病気一つせず、至れり尽くせり、全てが順風満帆かというと、決してそうではない。
人それぞれ、人生の様々な悲しみや痛みを自分が受けることによって、人の悲しみや痛みを知るからこそ、人を愛することも学んでいくわけですよね。

そんなわけで、一言で「愛」と言っても、いろんな要素があると思います。今の私たち一人一人は、決して完璧ではないと思うんです。
それは、エペソの教会もそうでした。パウロ自身もそうでした。
ですが、お互い完璧ではないがゆえに、いや、自分の不完全さを知れば知るほど、キリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さを理解するようになるのではないでしょうか。
それらを、全ての聖徒とともに…すなわち神の家族とともに、その横の繋がりの中で、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように…とパウロは祈るわけです。


3:19  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。


ああ、どんどん、スケールが大きくなっていきますよね。

礼拝という時が、神と人との関係、イエス様を通し、聖霊の働きによって、父なる神様と神の子という関係を結ぶ時であるとするならば、礼拝後の食事の時は、今度は神を中心とした子と子の関係、兄弟姉妹、神の家族として関係を深める時であるはずです。

実に、聖望教会では、毎週、一緒に食事をする。
これは、実に大切なことで、聖書的でもあると思うんです。私たちが、家族であればです。イエス様も、その多くを食卓で語られたわけですよね。一緒に食事をしたんです。その中心が聖餐でもあるわけです。

私たちが週一回、集まったときには、一緒に食卓を囲む…これは、もし私たちが家族だとしたら、ごくごく自然なこと、当たり前のことなんですよね。


そこで、日常にあった様々なことを分かち合いながらも、神の家族としての関係を深め合っていくことによって、実は、父と子と聖霊…神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされていく…ということにもなっていくのではないでしょうか。


3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。


今日は、父と子と聖霊、この三位一体の神様によって、私たちも神の子どもとされていて、その子供同士は神の家族、礼拝後の食事も実は大切であって、家族であれば実は自然な姿なんだというお話をさせていただきました。


なぜ、聖望教会では、これらが、ごく自然とできてしまったのか。
それは、もちろん大竹ファミリーという実際の家族を中心に、本当の家で始まった教会で、しかも奥様、登巳子さんは料理の先生、得意中の得意だったということもあったかもしれないです。
でも、その背後には、やっぱり確実に父と子と聖霊、この三位一体の神様の働きがあったからではないでしょうか。だからこそ、私たちは神の家族になりうるわけです。

今日は、わがままを言って、礼拝の最後に頌栄、父、御子、御霊の三位一体の神様を、純粋かつ端的に褒め称える賛美を取り入れさせていただきました。
結婚式や葬儀の時には、歌われる賛美ですので、皆さんもご存知かと思います。
父・御子・御霊の大御神に〜という賛美です。


この歌、私が小さい頃は、わけもわからず、不思議な歌だったんですよね。
「ちち・みこ・みたまの・おおみかみ」ですよ。ひらがなで並べたら、なんちゃあ、わからん。でも、礼拝の最後になぜかお約束のように歌う、でも短いから好き、これで礼拝も終わるぜ…みたいな。
でも、決して、儀式でも、形式でも、おまじないでもないわけですよね。

今日は、ぜひ、この聖望教会という私たち神の家族と一緒にですね、父、子、聖霊なる三位一体の神が、この家族を15年間守り、そして、今も、とこしえまでも守ってくださるという感謝と祈りを込めて、厳かに、でも元気よく、心から賛美したいと思うわけです。

最後にもう一度、パウロの祈りをお読みしますので、一言一言、味わいながら、皆さんの祈りとしていただければと思います。

 …こういうわけで、私はひざをかがめて、
  天上と地上で家族と呼ばれるすべてのものの名の元である父の前に祈ります。
  どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
  あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
   こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、
  あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

  また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
  すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
  人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。
  こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

  どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて
  豊かに施すことのできる方に、
  教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。


愛する天のお父様、感謝します。
これまでの15年という時、三位一体、父・子・聖霊なる神様が、この聖望教会という神の家族を守り、養い育ててくださっていることを覚えて感謝します。
あなたが与えてくださったこの会堂も、私たちが神の家族としての関係を深めることによって、さらに神の家族の集まる家、神様、あなたご自身の家として、ますます用いられていきますように。
また、さらに、この先も、まさに、このパウロの祈りのように、私たち、神の家族の上にも、現実として、豊かに、あふれるばかりに、現されていきますように。

今週一週間、私たちのそれぞれの歩みがありますけれども、あなたがともにいて、守ってください。
そして、また来週、神の家族として、この家で集うことができまように、お祈りいたします。

愛する主イエス・キリストのお名前を通して、お祈りいたします。 アーメン。
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2011年09月18日

「復興の中での戦い」ネヘミヤ記4:1〜23

(2011年9月11日 聖望キリスト教会)

みなさん。おはようございます。

今日は、9月11日です。
9月11日というと、まず思い起こされるのが、ちょうど10年前、
2001年のアメリカ同時多発テロかもしれませんが、それと同時に、
東日本の大震災が起きてからも6ヶ月、ちょうど半年が経ったところなんですよね。

今日は、まず7月に行った東北、復興に向かう石巻と、特に南相馬の様子もご覧いただこうと
考えているわけですが、南相馬というのは、地震、津波、原発…いわば、三重苦を負っている町です。
その光景というのは、まるで焼け野原、この土地のおばあさんからすると、「見たくない」光景なんです。

こうした戦争だの、地震だの…そういう話になると、聖書を読んでいる皆さんの頭にも、
ふと、よぎるのが、「世の終わり」ということかもしれません。
まさに津波に遭った地域の被害にあった人たちには、まさに「世の終わり」かのように感じた出来事で
あったかと思うんです。


ですが、みなさんにも、注意しておいてほしいのが、こうした出来事があったとしても、それが、聖書が
伝える「世の終わり」に直結しているのか…というと、必ずしも、そういうわけではないんですね。

確かに、マタイの福音書には、イエス様が世の終わりについて語られた箇所で、戦争や地震の話も出てきます。
ですが、それら災難が仮に起きたとしても、決して、終わりではない。
これらのことは必ず起こること、むしろ、そのために動揺しないように、人に惑わされないように、
偽預言者に気をつけなさい…そう聖書は告げているわけです。

世の終わりも多少は近づいているかもしれませんが、少なくとも、今、生きている。
まだ終わりではないから、復興もあるわけですよね。

この日本にいる以上、私たちにも、同じような地震、津波の被害にあう可能性はゼロではありません。
私たちも同じ災害に遭うことは十分ありえます。

今日は、ネヘミヤ記を選んでいますが、旧約聖書の中にあって、まさに復興の物語、歴史であるのが、
このネヘミヤ記です。
これから写真をご覧いただきますが、まずは、もし実際に、自分の身の回り、
もし、この市川で起きたら…というつもりでご覧になってもらえたら、いいのかなと思います。

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◎石巻 新館地区 (2011.7.17)

震災時、周辺住宅は家の1階部分は完全に浸水しました。
家の外観こそ無事のようにも見えますが、中はヘドロで住めない状態になっています。
こういった場所は、報道にも出てこない場所かもしれません。

石巻 新館地区

ここに震災直後から、「サマリタンズパース」という宣教師を中心とするボランティアスタッフや、
石巻祈りの家の阿部さんたちがボランティアとして、支援してきました。
当初は、この道もヘドロや瓦礫で埋まっていたそうです。それらを一から除去してきました。

石巻 ヘドロ被害の現状
家の内部の状況です。
7月の段階で、ようやく床下内部まで、ヘドロの除去が完了したところです。内装の作業はこれからという段階でした。
この家の家族は、昼間、復興の作業をし、夜は避難所で寝泊りする生活を続けています。

石巻 ヘドロ被害にあった畑 石巻 ヘドロ被害を受けた畑
この近くのヘドロを被った畑です。灰色の乾いてひび割れしている部分は全てヘドロです。

石巻 畑からヘドロの除去作業
石巻の祈りの家の阿部さんや、宣教師のボランティアチームが、ヘドロを丁寧に除去。
絶望にしか思えなかった畑の持ち主にとって、大きな励ましと、希望になっています。
(この写真のみ、後日撮影のものです)

石巻 復興支援野外コンサート
この日は、竹下 静の野外コンサートとカキ氷のパーティを。近隣の方々約90名が集ってくれました。

石巻 復興支援 カキ氷で
こうした人たちが集るのも、震災当初から、この地区でボランティアをしていた阿部さんたちの活動があればこそです。

◎南相馬 原町聖書教会訪問 (2011.7.20) ~原発から22Kmにある教会。今回、初訪問。

福島県南相馬市 原発20km地点 
原発から20Km地点。ここから先は立ち入り禁止です。
何もないのどかな農村地帯のようで、放射線という実に目に見えない被害を受けています。

南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況 南相馬 津波被害状況

海岸沿いに行くと、一見、見渡す限り何もない野原か畑の跡かのように見える地帯が広がっていました。
…が、南相馬は、古くからの漁村の町。このあたりにも漁業施設や民家があったんだそうです。
瓦礫が撤去され、雑草が生えていますが、津波で全てが流された跡なのです。

かつての南相馬を知らない私たちには、まったく想像もできません。

ですが、土地のおばあさんにとっては「見たくない」光景。戦後の焼け野原と同じ状態なのです。
特に南相馬は、原発の被害も受けて、復興作業も遅れている地域です。

南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船 南相馬 流された漁船
国道6号線近く。海岸線からは、だいぶ離れた場所です。
しかし、こうした漁船が、漁港から流されてきて、右に左に至るところで残されていました。
車と違い、こうした船の移動には重油を抜き、特殊車両で運ばなくてはならないため、費用がものすごく掛かってしまうんだそうです。

南相馬 原町聖書教会 南相馬 原町聖書教会
そんなところを通るとき、教会にたどり着くと、実感として、ものすごく、ほっとするんです。
原町聖書教会は10人足らずの教会です。ですが、どんなに小さくても、そこに教会がある存在意義を感じます。
ここにはぬくもりがあり、失望に終わらず、希望に満ちた笑顔と団欒がありました。

一言で「復興」といっても、それが、ものすごい気が遠くなるような、長い時間の掛かることであることがわかると思います。

しかも、ゼロからの新規開拓とは違う、「復興」というのは、今まであった多くのものが失われた失望感、
残骸が残る、まさにマイナスからのスタートなんです。

石巻でも、庭先に遺体が流されてたいたとか、自分の娘と孫が、この先の場所に流されていたとか、
その地に、悲しい記憶として、刻み込まれているのです。

私たちが支援しようとしているのは、こうした被災地で復興を目指す人たちの生活面だけではなく、
あらゆる失望にも負けない、あの笑顔でもあるような気がします。

画像 021-s.jpg 
(津波で会堂が全壊したシーサイドバイブルチャペル。現在、元喫茶店での活動展開中)

それが、この地での希望にもなるんですよね。


今日の聖書のネヘミヤ記というのも、まさに旧約聖書の中に出てくる復興の物語、その歴史です。
かつてイスラエル(南ユダ王国)が、新バビロニアに滅ぼされて、ユダヤの民はバビロニアに
強制連行されていたわけですが(いわゆるバビロン捕囚ですね)、やがてペルシャが起こり、
再びエルサレムへと帰ってきたわけです。

まず、神殿は再建されました。
ところが、その後70年経っても、エルサレムの城壁は崩れたままだったんです。

そこに起こされたのが、ネヘミヤです。

ネヘミヤももちろんユダヤ人ですが、この時、ペルシャ王に仕えていたわけですね。
ところが、ある時、エルサレムの城壁が崩れたままだと聞いて、ペルシャ王の許しを得て、
エルサレム復興のために派遣されてきました。

彼は、民たちと立ち上がり、エルサレムの城壁の再建に取り掛かったのが、この前の3章までの話です。


ところがネヘミヤたちが城壁の修復に着手して、面白くなかったのは、周辺の部族たちです。

イエス様のたとえ話に「良きサマリヤ人」が出てきますが、ここに出てくるサヌバラテというのが、
サマリヤ人の一人で、ユダヤ人にとって、まさに大嫌いなサマリヤ人の一人です。


4:1 サヌバラテは私たちが城壁を修復していることを聞くと、怒り、また非常に憤慨して、ユダヤ人たちをあざけった。
4:2 彼はその同胞と、サマリヤの有力者たちの前で言った。「この哀れなユダヤ人たちは、いったい何をしているのか。
  あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。一日で仕上げようとするのか。
  焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


私たちが、ゼロから何かを成し遂げようとする時にも、様々な障害があると思うのですが、その中で、
私たちが一番気をつけなければならないのは、「言葉」かもしれません。
その言葉によって、復興がすすむも、中座することもあるように思います。


野田新内閣になって早々、経済産業大臣の発言が問題になりましたよね。
今日のこのメッセージの原稿作っている間に、辞任してしまったんですが、残念なことに、
今の日本では、敵ではなく、同じ日本国内、同胞同士で、言葉の揚げ足取りをしているのが
現実かもしれません。

みなさんも、ニュースで「死の町」だとか「放射能つけたぞ」とか発言した問題をご覧に
なっていると思うのですが、どう思われたでしょうか。


その発言を取り上げた、毎日新聞の9月9日の報道です。

「鉢呂吉雄(はちろ よしお)経済産業相は9日の閣議後会見で、野田佳彦(のだ よしひこ)首相に
同行して8日に東京電力福島第1原発などを視察した際の印象について「残念ながら周辺市町村の
市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」と述べた。」

「死の町」という言葉だけを取り上げてしまえば、ひどいとも思うのかもしれませんが、
皆さんは、今、南相馬の様子もご覧いただきましたよね。
あの先、20km圏内は、本当に誰も住めず、もっと、ひどい状態、一切、手が付けられない、
放置された状態のままですよ。

どう思いますか?

「残念ながら周辺市町村の市街地は人っ子一人いない、まさに死の町という形でした」
この言葉に何か周辺住民に対する悪意か、侮蔑か、否定的な要素があるでしょうか?
少なくとも、私には読み取れません。

原発の影響で、本当に誰も住めなくなって、放置されている現実があって、その原因である
放射性物質こそが問題なんですよね。
そのために、いまや本当に「死の町」、掛け値なしで、思わず、そう表現してしまうほど、
そこまで悲惨な状態になっているというわけですよ。

続けて、この記事には、こうあったんです。

「会見では、事故現場で収束作業に当たる作業員らについて『予想以上に前向きで明るく、
活力を持って取り組んでいる』と印象を語り、放射性物質の除染対策に関しては『政府として
全面的にバックアップしたい』とも述べた。」

同じ会見の場で、その「死の町」と化した現場を見てきた結果、除染対策を「全面的にバック
アップしたい」と発言しているんですよね。しかし、肝心のことは補足です。

次第に「死の町」というたった一言だけがピックアップされて、それを聴いた野党が非難し、
さらに、その部分だけが被災地にも伝えられ、がっかりしたようなコメントを拾ってくるわけですよね。
その対応に追われていく間に、放射能の対策も遅れていくことになるわけです。
そうしている間にも、本当に放射線の影響を少なからず受けていくわけですよね。

もちろん閣僚級の人は、そこまで言葉に注意しなくてはいけないのかもしれませんが、
そんな言葉の端々を、重大な問題かのように大きく偏って国民に伝えた結果、早々に辞任せざるを
得なくなったわけです。
せっかく現地にまで視察に行ったのにもかかわらず、これでまた一つ、復興対策は遅れたわけです。

これは政治家やマスコミだけの問題ではないですよ。
別に、民主党を擁護しようというわけでもないですし、時に、問題や過ちを指摘する必要もあるわけですが、
今、この日本が一番優先すべき事を忘れて、小さなことで非難、中傷して、全てを否定していってしまう、
それが、今の国民全体、日本の風潮だと思うのです。


試しに、2節のサマリヤ人の言葉の「ユダヤ人」を「民主党」に置き換えてみましょうか。

「この哀れな民主党は、いったい何をしているのか。
 あれを修復して、いけにえをささげようとするのか。
 一日で仕上げようとするのか。
 焼けてしまった石をちりあくたの山から生き返らせようとするのか。」


今のこの日本、どこからともなく聞こえてきそうな気がしませんか?
実に、リアルに伝わってくると思います。

今の日本の現実が、ここにあるような気がするんですよね。
しかも敵ではなく、同じ日本人同士がやっているんです。


「この哀れな日本は、いったい何をしているのか。」
「彼らの建て直している城壁なら、一匹の狐が上っても、その石垣をくずしてしまうだろう。」


まさに、本当に、その通りかもしれません。実際に敵がいれば、そう中傷されそうです。
でも、だとしたら、本当に悔しい話ですよね。まさに、ネヘミヤもそうでした。

ネヘミヤは、サマリヤ人や周辺部族に対して、猛然と抗議することも、戦うこともできたと思います。
しかし、ネヘミヤは、その悔しさ、怒りを、人にぶつけるのではなく、神へと訴えるわけです。


4:4 「お聞きください、私たちの神。私たちは軽蔑されています。彼らのそしりを彼らの頭に返し、
  彼らが捕囚の地でかすめ奪われるようにしてください。
4:5 彼らの咎を赦すことなく、彼らの罪を御前からぬぐい去らないでください。
  彼らは建て直す者たちを侮辱したからです。」


この祈りの言葉からして、ネヘミヤも相当、怒り心頭であることが分かると思います。
でも、ネヘミヤは、その悔しさを怒りで報いたり、敵と争うことをせずに、とにかく、そのままの
気持ちを神に祈り、復讐は神に任せたわけです。

なぜならば、彼がエルサレムに来た目的は、サマリヤ人と戦うことではなく、城壁を築くことだったからです。
彼は、祈る事で、本来、自分が成すべき目的を見失わなかったわけですよね。


今日の交読文、詩篇にもこんな言葉がありましたよね。

56:5 一日中、彼らは私のことばを痛めつけています。


私たちは、誰かが発する否定的な言葉や行動の影響を受けて、実に「わたしのことば」が痛んでしまう、
自分自身までが否定的な考えに巻き込まれていってしまうことがあるように思います。

それを気づかずにいると、売り言葉に買い言葉、言い争いになったり、今度は自分が発する否定的な
言葉によって、また他の誰かを痛めつけていたりすることもあるかもしれません。

私たちが復興を目指していくときに、本来、一番やるべき目的を見失わないために、まず自分自身が
否定的な考え、言葉から身を守るために、必要なのが、まず、祈りということでしょう。

4:6 こうして、私たちは城壁を建て直し、城壁はみな、その高さの半分まで継ぎ合わされた。民に働く気があったからである。

ネヘミヤは、神に祈ることによって、民の働く気をも守ったともいえるのではないでしょうか。

しかし、敵の誹謗中傷や攻撃が、それでやむわけではありません。
これだけやって、まだ半分の高さしか、築けないのか…
そんな言葉が、内から外から、聞こえてくる。そんな状態が続くわけです。


4:10 そのとき、ユダの人々は言った。
 「荷をになう者の力は衰えているのに、ちりあくたは山をなしている。私たちは城壁を築くことはできない。」

70年崩れたままの城壁が、なんと高さ半分まで継ぎ合わされたわけですよね。
これって、すごい話じゃないですか。いきなり100%の完璧や、完成もありえないわけですよね。
どんな事柄でも、一段、また一段と築き上げていくわけですよ。
ある人が10段積み上げた時、ある人はまた5段目かもしれない。
でも、5段目があるから、10段目もあるんですよね。
ところが、見方によっては、まだ半分の高さしか築けていないかのようにも、なってしまうわけです。


民は、目の前にある崩された現実と、非難する人たちの言葉や攻撃によって、
徐々に、前向きな気持ちや力も失っていったわけです。

仮に自分自身の言葉でも、こういったマイナス的な発言が、人々に、どんな影響を及ぼすかを、
私たちは自ら注意する必要もあるように思います。

さらに、言葉だけではなく、実際に陰謀や工作が企てられるようになります。


4:13 そこで私は、民をその家族ごとに、城壁のうしろの低い所の、空地に、
  剣や槍や弓を持たせて配置した。
4:14 私は彼らが恐れているのを見て立ち上がり、おもだった人々や、代表者たち、
  およびその他の人々に言った。
  「彼らを恐れてはならない。大いなる恐るべき主を覚え、自分たちの兄弟、
  息子、娘、妻、また家のために戦いなさい。」

私たちが実際に剣を取って戦うことはないとは思いますが、否定的な言葉や思いと戦うすべ、
剣になるのが、まさに、神の言葉ではないでしょうか。

エペソ6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。

皆さんが、聖書を読んでいくとき、好きな言葉、いいなと思う言葉、慰められたり、励まされたりする
言葉に出会うと思います。
そしたら、ぜひ、その言葉に赤線でも何でも引いて、どんどん蓄えるようにしてみてください。

自分や人の言葉と、神の言葉と、どちらが強いでしょうか…。
私たちがどんなに弱くても、その神の言葉が、私たちの心の内側にある言葉をも守ってくれるんですよね。


4:17 城壁を築く者たち、荷をかついで運ぶ者たちは、片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握っていた。

とっくに神殿は再建させたにもかかわらず、70年間もの間、エルサレムの城壁は、復興されずにいました。
それは、なぜでしょう。
もちろん被害の大きさや、敵の妨害があったかもしれませんが、「神殿」という宗教的な空間だけで
神様を捉えて、市民の実生活、城壁には考えが及ばなかったのかもしれません。
しかし、神さまは、私たちの生活空間を守り、復興させる神さまでもあるんですよね。

私たち人間の側も、宗教的な行為だけで考える、反対に実生活だけを捉えて考えるのではなく、
片手で仕事をし、片手に投げ槍を堅く握る、片方で生活面、片方で信仰面、
その両輪が必要なのかもしれません。

4:20 「どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
  私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。」


私たちが、週に一度、集まる理由もここにあると思います。
もちろん私たちが礼拝することを、神様は喜んでくれると思います。
ですが、礼拝は、私たちが神様のために「守る」ものではなくて、
日常生活の中でも様々な問題や戦いがある中で、実は、神様が私たち自身を守るために、
教会という集まり、礼拝の時を与えてくれているのではないでしょうか。


それがゆえに、どんなに小さくても、被災地に教会があるということに希望がありますし、
ここにこそ、私たちが教会として、まず現地の教会を支援する理由もあるんです。

落ち込んだとき、苦しみのとき、一人では祈る気にもなれない、聖書を読む気にもなれない時でも、
教会に来さえすれば、誰かが祈り、主にある希望、御言葉も聞こえてくるわけですよね。

私たちにとっての角笛は賛美の歌声、私たちの神が私たちのために戦ってくださるわけです。


今回の地震や津波ばかりではありません。
私たちの人生の中でも、大波、小波、津波…、様々な困難が訪れることがあります。
その時、いろんなダメージ、心の傷を負うこともあるかもしれません。

そんな時、とかく否定的、悲観的な言葉が漂いがちですが、神に祈り、御言葉の剣を取り、共に集い
励まし合いながら、復興に向け、石を一つ一つ積み上げていきたいものですよね。

…どこででも、あなたがたが角笛の鳴るのを聞いたら、私たちのところに集まって来なさい。
 私たちの神が私たちのために戦ってくださるのだ。

 

 
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2011年08月27日

「人と比較しない生き方」ルカ10:25〜42

(8/21 シャローム福音教会にて。「良きサマリア人のたとえ話」と「マルタとマリヤ」の話から ) 

みなさん。おはようございます。

うちの奥さんの歌どうですか?
身内なんで、あんまり褒めるのもどうかと思うんですが、なかなか、いいでしょ。
もっと、やればいいのに…と思うのですが、それはそれで、ご本人様のペースもございますので、
旦那の身分では、下手なことはいえないんですけれども、今日は午後、東北支援のための
チャリティーコンサートをさせていただくことになっておりますので、ぜひ、ご参加いただければと思います。

先週も福島、宮城で大きい地震もありましたが、特に津波があった地域では、ようやく瓦礫が
撤去されたばかり。本当の意味での復興は、まだまだ、これからなんですよね。

午後には、写真もお見せするつもりでおりますが、石巻では本当に市街地の奥深くまで津波の水が
入り込んできたんですよね。
ですから海から離れた、津波の直撃を受けていないような地域でも、床下やら家の内側には、
魚の腐ったようなヘドロがいっぱい入り込んでしまっているわけですよ。
それらを、ようやくきれいに片付けて、これから内装をリフォームさせていくという段階。
…といっても、業者にやってもらおうとすると、多額の費用がかかるわけですよね。
なので、昼は手作業で少しずつ修復して、夜は避難所へ戻るような生活をされている方も大勢います。

そういうわけで、まだまだ、これからです。それも地域全体を含めた、経済的な復興が必要です。
長い長い時間がかかります。

それに対して、私たちに何ができるのか…。
出来ることは、本当に極々わずかだと思います。
でも、自分に出来る、そのわずかなことをしていくことが、大切なんじゃないかなと思うわけです。


さて、今日は、「マルタとマリヤのエピソード」に焦点を当てていきたいと思うのですが、
その前の「良きサマリア人」のたとえ話から見ていきたいと思うんですよね。

…というのは、このサマリア人のたとえや、この10章、その前後一連の話は、イエス様が、
まだイスラエルの北部、ガリラヤ地方で活動していた時期の出来事が描かれているんです。

ところが、マルタとマリヤの住んでいた場所というのは、エルサレムの東側、約3qの
ベタニヤというところでして、あとオリーブ山を越せば、エルサレムというところなんですね。
おそらく、エルサレムへ入る直前の出来事、本来ならば、19章あたりで出てくるような話なのです。

つまり、ルカは、このサマリア人のたとえ話のあとに、あえて、このマルタとマリヤのエピソードを
挿入しているんです。

サマリア人のたとえでは、誰もが惚れ惚れするような、ある意味、理想的な愛の形が説かれている
かと思うんですね。
ところが、それが、私たちには理想で終わってしまいやすいんです。
ああ、いい話だな…、素晴らしい教えだな…、
子供相手だったら「良きサマリア人のようになりましょう」と教えられたとしてもですよ。

実際問題、自分自身はどうかといったら、あまりに理想的過ぎて、程遠い出来事のまま終わってしまいやすいのです。

しかし、ここに挿入されたマルタとマリヤのエピソードは、なんだか身に覚えがあるというか、
昨日か、おとついかにも見たような、私たちの間でも起きそうな非常に現実味のある出来事ですよね。

理想的な愛を、私たちの現実レベルにまで下げていった時に、私たちがどうあるべきなのか、
何を大切にしていくべきなのか、そのポイントを指し示してくれているような気がします。


そんなわけで、サマリア人のたとえ話から見ていきますね。

10:25 すると、ある律法の専門家が立ち上がり、イエスをためそうとして言った。
「先生。何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」

同じ質問を、もし、私たちが答えるとしたら、なんですか。
もし誰かに、「何をしたら永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」と
質問されたとするならば、皆さんだったら、なんと答えるでしょうか。。。。

クリスチャンの皆さんなら、「ただ、イエス様を信じさえすれば、救われるんだよ」そう答えると思います。


しかし、ここでは、「イエスをためそうとして」でわかるように、この質問には罠があるんです。
もし、ここでイエス様が「わたしを信じなさい。そうすれば救われます。」なんて答えようもんなら、もう大変。
こいつは律法を無にしている、神を冒涜している…、お前は神なのか、即その場で捕まえて、石打ちにでも
されてしまいかねない、そういう話です。

でも、イエス様もそんなことは百も承知、千も承知でして、
「律法には、何と書いてありますか。あなたはどう読んでいますか。」と、うまく切り返したわけです。


当然のことながら、彼は、律法の専門家ですので、律法的な答えを知っていたわけなんですよね。
仕方なく、答えるわけです。

「『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
 また『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』とあります。」


これが、最も大切な戒め、イエス様自身も、そう語った、旧約聖書の律法の世界では、まさしく大正解なのです。

「そのとおりです。それを実行しなさい。そうすれば、いのちを得ます。」


「正解!わかってんなら、やればいいじゃん。」みたいな?
ところが、実は、たとえ正しい答えを知っていても、それが実行できないのが、私たち人間の現実なんですよね。
それが律法の限界でもあったわけです。

でも、ここで、イエス様は二つの質問をしていたんです。

一つは、律法には、何と書いてありますか。客観的に、聖書にはなんて書いてあるか…です。

しかし、もう一つは、あなたはどう読んでいますか。あなた自身の現実問題として、どうなのかです。
その問いかけ。

もし、ここで彼が、「聖書にはこう書いてあります。しかし、私にはそれを実行することはできません。
どうすればいいのか、教えてください。」、そんなふうに答える事ができたならば、話は変わっていた
かもしれませんね。


しかし、彼は、正しい答えを知っていました。本人的には、実行しているつもりだったんでしょう。
でも、実際には、目の前にいるイエスという存在を愛していないことにも気がつかず、自分は正しいと
主張している…そこに盲点があるのです。

みなさん。聖書を読むとき、変な話、自分が正しくなるために、聖書を読んでも、実はあまり意味がないんですよ。
むしろ、聖書を読めば読むほど、自分の正しさよりも、足りないところ、欠けたところが見えてくるはずです。
でも、聖書の前、神の前では、そんな自分を認めていいんです。

自分が正しくある必要は全くありません。
それどころか、「私にはそれを実行することはできません。無理です。どうすればいいのか、
教えてください。」という姿勢で読んではじめて見えてくる答え、意味もあるんですね。


10:29 しかし彼は、自分の正しさを示そうとしてイエスに言った。
「では、私の隣人とは、だれのことですか。」


私は、家族も愛している、友人も愛している、向こう三軒両隣、隣人たちを愛しているぞ。
さあ、私の隣人とは誰だ…。と待ち構えているわけですね。
自分の正しさを示そうとして言っているわけですからね。自信満々です。


そこで、イエス様が語ったのが、この良きサマリア人へのたとえというわけです。


エルサレムからエリコヘ降る途中、ある人が強盗に襲われます。
このエリコヘの道は、荒野の山岳地帯、曲がりくねっていて、死角が多く、強盗が多いことでも有名でした。
はじめに通りかかかったのは、ユダヤ人の祭司です。
次に通りかかったレビ人というのも、神殿で仕えるやはりユダヤ人のことです。


ユダヤの律法では、もし血に触れたら、律法の定めでは身を清める期間をおかなくてはなりません。
その間、仕事ができなくなる。
彼は、顔見知りの隣人ではないし、悪いけど、そのままにしておこう…、そういうことは十分にありえたのです。


「誰が私の隣人なのか…」
彼らは、自分の隣人でなければ愛さなくても、律法には反しないと考えていました。
いや、そうすることで、自分を正当化させていたのかもしれません。
これが彼らの考えていた律法を守るということ、彼らの言っていた正しさだったのです。


その後に通りかかったのは、サマリア人です。


サマリア人というのは、半分ユダヤ人、半分異邦人の混血の人たちです。
外国の神々、偶像礼拝を取り入れてしまった、そんな彼らを何百年もの間、ユダヤ人たちは、
口も聞かなければ、触っただけでも汚れる、犬さん、豚さん扱いして、差別していました。


「強盗に襲われたある人」も、普通に考えてユダヤ人という設定です。


そのサマリア人が、ユダヤ人を助ける…。ありえない。
しかも、傷の手当てをし、宿屋に預け、代金を支払い、足りなければあとで私が払う、
ありえないような徹底した介護です。ここが、このたとえ話の最大のポイントです。

10:36 この三人の中でだれが、強盗に襲われた者の隣人になったと思いますか。」

「誰が、私の隣人なのか」ではなく、「誰が、隣人になったのか」。
10:37 彼は言った。「その人にあわれみをかけてやった人です。」


彼は、やっぱり差別意識から、サマリア人とはいえないわけですよね。
「その人にあわれみをかけてやった人です。」と答えるわけです。


これは、単に、隣人を愛しましょうとか、いい事をしましょうとかいう、そういうレベルの話ではないのです。
 
何世代もの恨み、憎しみを超えて、人を赦し、人を愛する愛…。


やってみれば、わかります。このサマリア人と同じ事が、できるのか…。
なかなかどうして、できない。

「誰が、その隣人となったのか…」、なり得たのか。

これは、まさに、イエス様なんですよね。

「父よ、彼らをお赦しください。彼らは何をしているかわからずにいるのです。」
自らの両手両足に釘を打ちつける者のためにも祈る愛。
律法では成し得ない、まさに十字架によって示された愛が、今、あなたの目の前にある、もう来ている。その宣言でもあるわけです。

するとイエスは言われた。「あなたも行って同じようにしなさい。」


私たちにも正直、難しいことですよね。

それも自分の嫌いな相手。自分の苦手な人。自分のことを批判したり、悪く言ってくる人。
その人を自分のように愛せるのか。隣人になっているのか…。なれるというのか…。
決して、自分はできているとか、自分は正しいなどとはいえなくなると思います。

それにもかかわらず、私たちも、自分の正しさを主張して、誰かを非難してしまうことって大いにあるように思います。

それも、非常に身近な相手に対して、日常的な小さなことのなかで、おきてくる。
それが、私たちの現実、日常の姿。マルタとマリヤの姉妹のエピソードに繋がっているんです。


このマルタとマリヤの話。みなさんは、どう読んでいるでしょうか。

もし、マルタとマリヤを比べて、マルタはダメで、マリヤが正しい。
マリヤのように御言葉を聴く事が大事、マリヤのようになりましょう…と読んでしまうとしたならば、
実は、この律法の専門家と同じになってしまうように思います。


でも、ここで、最初、マルタは、マルタでよいことをしていたんです。
イエス様が家に来た時、マルタは、もう喜んで、もてなしの準備をはじめた。
それは、イエス・キリストの愛を受けて、マルタの自主的、自発的な愛であったはずだったんです。

ところがまあ、イエス様だけならともかく、ペテロだの、ヨハネだの、その他大勢、名前もよく覚えて
いないような有象無象の弟子たちも一緒にいたわけでしょ。
あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、それはもう忙しくて、大変だったわけですね。

そんな時に、ふと目をやると、妹マリヤは何もせんと、イエス様の話ばかりを聴いている…。


なんだか自分ばっかりが苦労しているような…、マリアは、怠けている、マリヤは、おかしい…。
そりゃ、ないんじゃないんの、空気読めよ…的な?
まあ、だんだんと腹が立ってくるわけですね。

挙句の果てに、ちょっとイエス様も、なんとも思わないの!

こういう感情って、私たちのうちにも、起こりがちですよね。


10:40「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。
私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
キィーッ!!! みたいな?

「キィーッ!!!」とまでは、聖書には書いてないんですが…、文字にもならない高周波ノイズも、
十分、乗っかっているような気がしますよね。


マルタは、どうして、こうした感情が起きてしまったんでしょうか…。

はじめは、イエス様をもてなす気持ち、愛する気持ちからしていたことなんです。
マルタの失敗は、自分とマリヤを比べて、自分ばかりが苦労を負わされているかのような、
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまったのかもしれません。
私たちは、ついつい自分と人とを比べてみたり、人から自分が認めてもらいたかったりしてしまうんですよね。


でも、聖書がいっているのは、ただ「隣り人を愛しなさい」ではないんですね。
あなたの隣り人を、あなた自身を愛するようにしなさい。
つまり、ここには「自分自身を愛する」ということも含まれているんです。人よりも前に、まず、自分なんです。

自分を愛するというと、ナルシストみたいな?自己中心的に思えるかもしれませんが、そうではないんですよ。
ナルシストというのは、自分だけが愛されたいんです。
実は、自分で自分を愛してあげることが出来ていないから、人から必要以上に愛されることを要求するわけです。

もし、マルタ自身が、人との比較ではなく、自分で自分自身のことを認める、愛することが出来ていたなら、どうだったでしょう。

自分が、この時、これが必要だと判断し、自分がしようと決めてした、よいことであれば、
マリヤが何をしていたとしても、それは構わないはずなんです。
実際問題、もしマリヤが、この時、用事で出かけていたとしたら、なんとも思わなかったはずなんです。
本当に助けが必要なら、普通に手伝ってくれる?とお願いすることも出来たと思います。


ところが、マルタは、ついつい傍にいたマリヤと比べてしまった。
あるいはイエス様がどう思っているのか、イエス様の評価を気にしてしまった…、
その時、自分で自分のことが、認められていないような錯覚に陥ってしまったんでしょうね。

どうでしょう。人を非難する自分と、人を愛する自分…。
自分を上から客観的に見たときに、どちらの自分の方が、自分で自分のことを好きになれそうでしょうか。
私たちが、人を非難し始めるとき、実は、自分で、自分自身のことを傷つけ始めているんです。

はじめの愛する気持ちから、いつの間にか、嫉妬や怒りの感情へと変わっていってしまったわけです。

10:41 主は答えて言われた。
「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
 10:42 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。
マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」


あくまで、マルタはマルタで、よいことをしていたんです。
でも、マリヤはマリヤで、この時にはイエス様の話を聴くことが必要だと判断し、よいほうを選んでいたわけです。
それを非難したり、変えさせたり、奪ったりする必要までは、マルタにはなかったはずなんです。

でも、これでもし、マルタが非難されてしまうのだとしたら、それも違います。
逆に、もしマリヤが「ちょっと先生。マルタにもてなしの準備ばかりしていないで、少しはお話を聞くように言ってください。」
なんて言ったとするならば、イエス様はマリヤに同じように言ったのではないでしょうか。
「マルタはマルタで、良いほうを選んだのだ。」


どうしても必要なこと、キリストの願いは、ただ一つ。

『心を尽くし、思いを尽くし、力を尽くし、知性を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』


私たちが愛するという事、その心、その1点に集約されてくるように思います。


愛するという事には、こうすれば正しいという方程式はありません。
これだけしていれば、もう十分だとか、完璧だということもないんですよね。
あれもできたらいい、これもできたらいい、そう思ったとしても、自分自身の器の限界を超えて、
多くのことを抱えてしまえば、結局のところ、できずじまい、それが怒りや非難に変われば、本末転倒になります。

人との比較や、人からの評価でもありません。人がどうかよりも、まず自分です。
マルタはマルタで、よくやっていたんです。マリヤもマリヤで、よくやっています。
私も私で、私なりに、よくやっているのなら、それでいいのです。

私たちが本当に自分自身を見つめていくとき、決して完璧なわけではないし、またまだ発展途上。
失敗もすれば、足りないところも、大いにあると思います。
決して、良きサマリア人のようには、できていないはずなんです。

私だってそうですよ。今だって、こうしてメッセージ用意していながら、会社で誰かの事をコノヤローって
思ったりしちゃうんですから。

私たちができること、今していることというのは、その時、その時、今の自分にできる範囲、レベルのことで
しかないんですよね。それ以上も以下ありません。
その自分を、ぜひ自分自身で、良くも悪くも、しっかりと認めてあげてください。


でも、ここが一番大切なのですが、そんな小さな欠けだらけの自分自身のことを認めることができる時、
そんな自分をも愛するイエス・キリストの愛の大きさ、偉大さも見えてくるのです。

誰が、そんな私の隣人となったのか…
あの良きサマリア人のように、いや、それ以上に、歴史の事実として、イエス・キリストは、この私の
良き隣り人として、命を懸けて愛してくれているわけですよね。

その愛を感じるとき、人の足りないところも、また赦せてくるのではないでしょうか。


どうしても必要なことはわずか、いや、一つだけ。
この小さな私をもキリストが愛してくれているというので、だから自分なりに、自分らしく、
神様を愛し、自分を愛し、そして隣人を愛する…。この3つの愛に生きる。


このキリストの愛によって支えられ、守られ、育まれながら、一つ、また一つと、自分を愛し、
隣人を愛する人生へと変えられていけたらいいですね。


 

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2011年08月09日

「もう一年」の愛 ルカ13:1〜9

(8/7 茅ヶ崎シオンキリスト教会 主日礼拝)

みなさん、おはようございます。
はじめましての方もいらっしゃるかと思いますが、千葉・市川からやってきました竹下 力と申します。
この教会は、前回も8月に来させていただいて、ちょうど1年ぶりになりますが、皆さんと礼拝を
ご一緒させていただいて、うれしく思っています。

今年の夏は、夏らしくない涼しい日も多くて、節電という意味では助かるかもしれませんが、
セミの鳴き声ってあんまり聞いていないような気がしません?
私の周りでは、あんまり鳴いていなくて、心配なくらいだったんですが、ようやく夏らしい暑さに
なってきましたよね。

急に暑くなると、今度は体が大変だったりするかもしれないんですが、食べ物も、何かと痛み
やすいと思います。
実は、ついこないだも、炊いていたお米を一晩で腐らせてしまったんですけどね…(笑)。

お米を炊いて、コップか何かに入れて、そのまま放置しておいたとします。
今の時期なら、普通、一晩か、二晩かで腐りはじめ、1〜2週間もすれば、当然、茶色く溶けて、
腐っていくと思います。

…これが、普通だと思いますよね?私も、そうでした。

ところが無農薬・無肥料という自然栽培で作ったお米を、同じように放置しておくとどうなるか…?

やがて発酵しはじめ、アルコールになり、さらに酢に変わっていくんだそうです。
考えてみれば、実は、これが本来の自然の姿なんですよね。
その植物が持つ自然の力をしっかり身につけた、健康で丈夫な作物がとれるというわけです。


一方、農薬や化学肥料を使って育てた作物というのは、見た目は立派に育っても、
病気になりやすく、腐りやすい。本来、その植物がもつ自然の力、生命力やら、抵抗力やらを
奪われてしまっているというんです。


私たちも、病気になったら、薬を飲む…これが当たり前になってくる。
なぜならば、それが手っ取り早いからですよね。
決して、薬を100%否定するわけではないですよ。
でも、その前に、私たちの間でも、失っている自然の力もあるのかもしれませんね。


実に、この自然界を創ったのが、私たちの信じている神さまです。
パウロは、ローマ人への手紙の中で、「神の目に見えない本性、神の永遠の力と神性は、
被造物によって認められる」と書いていますが、私たちもまた、同じ神様によって創られた
自然界の一員なんですよね。


でも、私たちは、自然から離れた生活をしていることで、本当は不自然な状態を常識だと
思い込んでいたり、本来あるべき自然の姿や、強いては神様のことも見失っていたりする
部分があるような気がします。


さて、今日のたとえ話も、そんな人間の常識を覆す話なのかもしれません。


今日のこの聖書の記事を読んだ時、皆さんは、どのように感じたでしょうか…。
単純に読んでしまえば、「悔い改めなければ、いつかは滅びるぞ〜。」
神様も3年は辛抱…、がんばって、もう1年、4年目で成果が出なければ、滅ぼされる…
そんな話にも聞こえなくはありません。


でも、聖書全体から見たらどうか、イエス・キリストの十字架と復活、信じる信仰によって
救われる…この福音の大原則から考えると、その解釈では、それらを根底から覆すことに
なるわけです。

だとすると、何かが違っているわけですよね。。。?


皆さんが、この先、聖書を読む上で、いろんな解釈にもあたると思います。
でも、本当に、イエス様が言いたいことはなんだろう…、
本当に、聖書が伝えようとしていることはなんだろう…
決して、ただ鵜呑みにせず、自ら読み取っていく力も身に付けていっていただければと
思うんですね。この時に、カギになる一つが前後の文脈です。

さて、今回の話には、前振りがあります。
エルサレムの神殿で、とんでもない事件が起こったというんです。


…ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜた


あるひとたちが、そのニュースを知らせに来たというわけですね。
このニュースを聞いたのが皆さんだとしたら、普通、どう感じますか?


ピラトのやつ、けしからん。なんて、ひどいことをするんだ!…
非難の矛先は、まずピラトに向くように思いません?

ところがです。イエス様が、ここで奇妙な返事をしていることに、お気付きでしょうか。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、
ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。…」

そんなことは、誰も、一言も、言っていませんよね。。。?
ガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。
罪深いとか、関係ないじゃないですか。

でも、ここに描かれていないだけで、実際に、その場にいた人たちは、そういうふうに思って
いたからこそ、そう答えているんですよね。


…神様の住まいである神殿で、
 神様を礼拝しにきたガリラヤ人たちが、
 こともあろうに、ローマ人のピラトに殺され、
 しかも、神様に捧げられた、いけにえの血に混ぜられた…


 これは、よっぽどガリラヤ人の罪が深かったに違いない。
 じゃなければ、神様がピラトの行為を放っておくわけがない。


当時のユダヤ、律法主義的な考え方では、こんな災難に遭うのは、罪が深かった証拠、
神様からの祝福を失っている、神の裁きに違いない…これが常識だったんです。


そういうふうに考えていたから、釘を刺すかのように、イエス様が答えたわけです。


13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、
みな同じように滅びます。

この「悔い改め」という言葉。
「悔い改め」というと、ひたすら罪を悔いて、行動を改める…というふうに思いがちですが、
ギリシア語で「メタノイア」。
心と体の向きを変える。考え方を変える。そういう意味の言葉です。

つまり、方向の転換、発想の転換をしなさい…ということなんですよね。


…あなたがたは罪が深いから、このような災難に遭う。神が裁きが下る。
 そのように考えていますが、そうではない。
 あなたがたは、天の父を誤解しています。
 悔い改めてください。考え方を変えてください。
 あなたがたの身にも、似たような災難は起こるものです。
 もしそのまま同じ考え方で行くなら、同じように、神に滅ぼされることになりませんか?


これが、イエス様が言いたいことなんです。
さらに、シロアムの塔で起きた事故の話を持ち出すわけですが、これも当時、人々の話題になっていたんでしょうね。


13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。


私たちの感覚では、偶然、偶発的な事故だと考えると思います。
罪が深いかどうかという発想にすら、結びつかないと思うのです。


ところが、あんなことが起きるのは、何か罪を犯していたに違いない、祝福を失っている、
きっと神様の裁きに違いない…、そんな話が、本当に話題になっていたから、イエス様が
持ち出しているわけです。


本当に、罪が深かったから、神様の裁きがあったからなんでしょうか。
その事故の犠牲になった18人の周りには、その突然の死を悲しむ家族や友人たちも
当然いたわけですよね。にもかかわらず、そんな話が、まことしやかに、ささやかれて
いたとしたら、どうでしょうか。


東日本大震災では、多くの人たちが被害に遭い、今もなお避難所生活を余儀なくされて
いる人もいるわけです。
他の誰かよりも、罪が深かったのでしょうか。クリスチャンは、被害に遭わなかったので
しょうか。神様からの祝福や守りを失ったのでしょうか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」


そもそも、日本は、地震で形作られたような国なんですよね。
ついでに、火山もあれば、台風もあります。これが、そもそもある日本の自然です。
私たちは、その自然界の上で生きている人間です。

自然は時に厳しくもありますが、私たちは、この日本の自然界の中で、四季折々、
いろんな恩恵もしっかり受けながら、命を育まれ、暮らしてきたわけです。

関東にいる私たちにも、この日本にいる限りどこででも、この先、同じような地震や
津波に遭う可能性は十分にありえます。
私の実家は静岡なんですけれども、静岡では東海地震なんて、私の小さい頃から、
近い将来必ず起きると言われ続けているわけです。


でも、いざ、もし、それらが起きた時に、それは神の裁きなんでしょうか。
神様に守られなかった、神様の祝福を失ったのでしょうか。
そうではない。


この前、7月に東北に行ってきましたけどね。
石巻では、海から離れた市街地まで、津波の水を押し寄せていて、今もなお、
ヘドロを家の中から、懸命に取り除いているんですよね。
しかし、まさに、こういうところにこそ、キリストの力は働くわけですよ。

それまでは存在すら知られていない、見向きもされなかったような本当に小さな教会にも、
国内ばかりか海外からも、そこに教会があるということで、やれ物資は送られてくる、
ボランティアはやってくる、また彼らの懸命な奉仕の姿に、地域の人たちにとっては、
教会が不思議な存在として光っているんですよね。

家ばかりではありません。中には、家族や友人をなくした人もいます。
でも、そういった助けや励ましを受けながら、多くの失望感に負けず、復興に向けて、
懸命に生きているわけです。


私たちが、同じような事故や災難、自然災害に遭うことも、当然ありえます。
怪我もすれば、病気にもなります。この世にあっては、誰にでも、いつか死という時も訪れます。
罪という点でいえば、50歩100歩です。
もしこれが、特別、罪が深かった、神の裁きというのなら、みな同じように滅ぼされた…と
いうことになってしまいます。
これでは、いざ何か自分の身に降りかかった時、希望も、救いもなくなってしまいますよね。

イエス様は、そういう因果応報的な考え方を、真っ向から否定したんです。

そんな話があったあとに語られたのが、次のたとえ話となるわけです。
よろしいでしょうか。

たとえ話を読み解くポイントは、よくある話の中で、ありえないような話が出てくるところがあります。
そこがイエス様のオリジナルの部分、つまり一番語りたいところにもなります。


13:6 イエスはこのようなたとえを話された。
「ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。

13:7 そこで、ぶどう園の番人に言った。
『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。
これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』

ぶどう園に限らず、自分で食べる用に、他の作物を植えるのは、よくある話です。
収穫を期待しているこの主人は、腹を立てます。3年もの間、実らず、この土地をふさいでしまっている。
これでは雑草と一緒。切り倒して、他の作物に切り替えよう…生産性を考えれば、当然の話、常識です。


13:8 番人は答えて言った。
『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。

これも理解できます。
土地の持ち主はこの主人かもしれませんが、このイチジクの世話をしてきたのは、この農夫です。
せめて、もう一年…。そう願う気持ちも分かります。ところがです。


 13:9 もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』」


実は、ここで、おかしな話が出てきているんです。
日本語では分かりにくいんですが、この農夫が言っているのは、
「それでもだめなら、来年には、切り倒しますから…。」ではなかったんですよね。
直訳的に訳せば、「あなたが切り倒せ。」命令形で書かれているんです。

それでもだめなら、切り倒してください。
私には、切れない。あなたが、切り倒せ。自分で切ればよかろう。。。そう言っているんです。

この農夫も、主人に雇われて、生活している身です。
本来ならば、主人が切れというなら、切るのが仕事です。
ところが「あなたが切れ」、そんなことを主人に言おうものなら、下手すりゃ、自分がクビ。
イチジクの前に、自分が切られても不思議ではありません。

でも、この農夫は、自分の首や生活まで賭けて、このイチジクを守るのです。ありえない。
たかがイチジク、しかも、ぶどう園の脇にある、実を結ばないイチジクをです。

もし来年、また駄目だったら、この農夫はどうするでしょうか…。

私には切れない。もう一年、それでも駄目なら、もう一年…、頼み込むに違いないのです。


…あなたがたは、天の父を誤解しています。
 3年もたって、実を結ばなければ、罪を悔い改めなければ、切り倒してしまう、
 この主人のように、神様は、厳しくて、恐ろしい方。
 それが当然、それが常識だと勘違いしています。

 しかし、そうではない。

 天の父は、この農夫のように、もう1年、もう1年…
 実を結ばないイチジクの木でも、なんとか養い、育て、実を結ばせようと努力する
 そういう、やさしいやさしい農夫のようです。


これが、イエス様の言いたいこと、イエス様の心です。


たとえ話で、「主人」だからといって、必ずしも、神様のことを指しているとは限りませんよ。
むしろ神様よりも、人間の勝手な思い込み、常識のほうが主流、まさしく「主人」のように
なっていたりもしますよね。


私たちは、どうでしょうか…。
私たちの心にも、この主人のように、2年、3年で結果を求めてしまう、そんな心も出て
こなくもないですよね。

何のために土地をふさいでいるのか。切り倒した方がいいじゃないか…。
会社だって、営業マンが3年も成果ゼロだったら、間違いなくクビです。
経営者であれば、たとえ、どんなに切りたくなくても、時に、雇えなくなる、切らざるをえない、
そういう状況に追い込まれることもあると思います。

私たちの人間関係の中において、時に、人を非難する言葉を耳にしたり、自らも口にしたり、
切ってしまおうという心が、起きてくることもあるのではないでしょうか。。。

この社会に暮らす私たちにとって、主人の考えの方が、常識に近いんです。
だから、神様も同じだと思い込みやすいんです。


本当は神様も、ある意味、神であるからこそ、私たちを裁かなくてはならない、そういう立場
なのかもしれません。私たちも、本来なら、裁かれて当然の罪人でしょう。

でも、わたしには切れない。
もう一年、もう一年…、と養い、育てようとするのが天の父、この自然界すべてを創った
創造主なる神様なんです。
イエス様は、そのために本当に命をかけて、十字架まで背負った。


…神は、実に、そのひとり子を与えたほどに、この世を愛された。
 それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠の命を得るためである。

今、どのくらい、その心、愛が、私たちの心で感じ取れているでしょうか。。。


たとえ私たちが、畑の脇の、実を結ばないイチジクの木であったとしても、
神様は、もう一年、もう一年…と、あきらめず、永遠に、愛を注いでくれているわけです。


私たちのこの人格、この心を本当に養い、育てるのは、「切り倒してしまおう」の心ではなく、
もう一年、もう一年…と、養い育てようとする、まさに、この神様の「もう一年」の愛なのでは
ないでしょうか。

私たちも、「切り倒してしまおう」の心ではなく、「もう一年」の愛を心にいっぱい蓄えながら、
歩んでいきたいものですよね。



…番人は答えて言った。
 ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。
 木の回りを掘って、肥やしをやってみますから…。

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2011年05月11日

最も小さな者にしたこと マタイ25:31〜46

皆さん、おはようございます。

今日は、母の日、女性の日…ということでして、本来なら、女性に関連した箇所から、お話する方が、ふさわしいのかもしれないのですが、せっかく被災地にも行ってきたということもあって、こちらの話題を取り上げさせていただきました。

先ほど、実際に写真を見ていただきましたが、いかがでしたでしょうか。

石巻南部20110430 石巻市街地20110430 石巻市街地20110430-2
荒野の十字架 

テレビや何かでは、あの津波が押し寄せてくる衝撃的な映像は、皆さんも、よくご覧になっているかと思うんですね。
しかし、震災から50日経った今も、建物の瓦礫や車の残骸が残されたままの、まさに荒野と化した、静かなる現実がここにはあるように思います。

まさに、この世の終わり…かと思うような出来事。実際に、あの津波を経験した人にとっては、そうだったと思うんです。
正直な心情として、神様は何故このようなことをしたのか…、神様がいるなら、なぜ、こんな地震や津波があるんだろう…という思いも起きなくはないと思うんです。あるいは、神様の計画の中で、何かの意味が合って起きたとか、そこに意味づけしようとしたりとかね。

ですが、私たちは、ここで考えなおさなくてはならないのは、どんなに大規模で、被害が大きかったとしても、決して、あの地震や、津波そのものが、何らかの神の警告だったり、裁きだったり、まして、世の終わりではないということなんです。

今回の箇所も、前の24章から続く、終末、世の終わりについて書かれた一連の箇所なわけですが、まず簡単に、聖書が言う、終末、世の終わりについて考えてみたいと思います。

確かに、聖書には、世の終わりの前に、地震が起きることも書かれています。
24:7 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。
確かに書かれています。ですが、
24:8 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。
産みの苦しみのはじめであったとしても、「終わりではない」…というわけですね。

では、世の終わりとは、なんなのか…

聖書が言う、世の終わりに起きること、それは戦争や地震そのものではなく、そういった事で起きる、人々の不安や恐怖に乗じて、片方で反キリストや、偽預言者がおきてくる、一方で、不法がはびこり、人々の愛が冷えていく…。こちらです。
この前、ちょっと雑談していた時に出てきたんですが、早速、「わしゃあ、今回の地震を予測していた」だとか、預言が当たっただとか言いおる、自称預言者も出ているというじゃあ、ありませんか。

今回の地震や津波に恐怖を感じた人の中には、飛びついてしまう人もいるかもしれないですよね。
私たちは、こういったところに、目を光らせなきゃいけないんです。

この日本では、地震も津波も、ある意味、この世のはじめからあることなんですよね。
おまけに火山や台風、大雪もあって、この日本という島々の地形や自然界は形作られ、その恩恵を受けながら、様々な生物、私たち人間の命もはぐくまれてきたわけですよね。

つまり、私たちが住んでいる場所に、新たな「地震」や「津波」という災害が起こされたわけではなく、こういった地震も津波もある日本の上に、私たちは、生を受け、暮らしているわけですよね。東北ばかりじゃない、日本全国、どこにでも起こりうることです。

私の実家、静岡ですけれども、小さな頃から、東海大地震、起きれば、津波が来ると言われ続けてるわけですよ。
幸い、まだ来ていないだけで、いつかはくる。
ある意味、静岡の人間と言うのは、はじめから地震や津波が来ることを前提で暮らしているんですよね。
だから、備えもしているし、震度5や6ぐらいじゃあ、驚いても、動じない。
むしろ、まだ、足りない、まだ、こんなもんじゃない…、わけわかんないこと言いますから。
うちの母親なんかすごいですよ。今回の余震の中でも、静岡震度6ってあったじゃないですか。
すぐには電話も繋がらなかったんですが、繋がった時には、もう寝てましたから。
うちのいとこも「おばさん、すごいね。」なんて、驚いていましたからね。

世の終わりも、多少は、近づいているのかもしれないけれども、決して、終わったわけではない。
少なくとも、今、私たちは生きている。また被災地に生きる彼らは、あの被災地にあっても、懸命に生きているわけですね。
決して終わりではない。希望はある。
それを、いわば勝手に、神様の計画がどうとか意味付けしてみたり、むやみやたらに、終わりにしてはいけないな…と思うわけです。
それこそ、何の根拠もない話なんです。

ただね、地震に限らず、私たちの人生と言うのは、いつ、どのように、終わりがくるかはわからないわけです。
それは、30年後かもしれないし、明日かもしれない。
今回みたいな自然災害かもしれないし、事故や病気、本当に、世の終わりの日かもしれない。
分からないですが、いつか、自分とこの世との関係が終わる時もくるわけですよね。
「だから、目を覚ましていなさい。」、今を大切に生きる、今できることをする…ということは、いつでも大切なわけです。

では、私たちが、今、すべきことは、何でしょう…。
そう考えるときに、こうした人々が、不安や恐怖、失望のどん底にある時にこそ、与えていくこと、愛していくこと、まだまだ希望はある、主にある希望を伝えていくこと、これが私たちに与えられている使命ではないだろうか。
それこそ、本当の本当に、世が終わるその瞬間までです。
それこそが「聖なる望み」、聖望キリスト教会でありたいと思うわけですよね。

さて、今日の箇所を見ていきます。

25:31〜 人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。

まあ、実際に世の終わりが来て、裁きの座に着くときにですね。
右側に羊さんグループ。左側に山羊さんグループに分けられると言うわけですよ。

まあ簡単に言えば、羊さんグループは、よくやった人たち。山羊さんは、やらなかった人たちというわけですよね。
では、私たちは、どっちに分けられるんでしょうか。

ここで、自信を持って、堂々と、私は間違いなく羊グループです…と言える人は、よっぽどの人だと思います。
よっぽど本当に誰にでも尽くしてきた人か、よっぽど自分が見えていないか…どちらかでしょう。
本質的に、私たちは、山羊さんだと思うんですよね。

では、永遠の裁きを受けるんですか…?って、そうではない。
イエス・キリストの十字架のゆえに、罪赦されて、山羊にもかかわらず、羊として迎え入れられているわけですよ。
ですから、私たちが救われるのは、あくまで信仰による、恵みによるんです。

では、なぜ、このようなことが言われているかというと、祭司、パリサイ、律法主義者といった、自分たちは正しいつもり、出来ているつもり、羊のつもりの人たちも、背後にいたからですね。
彼らは正しいつもりでいますから、自分の罪を認めなければ、イエス様の救いも必要としなかったわけです。
しかし、最も小さな者どころか、イエス・キリストご自身に対しても敵対し、十字架に付けていくわけです。
実に、羊のつもりで山羊なんです。

でも、私たちも、注意しなくてはならないのは、「やっている(つもり)」、「できている(つもり)」かもしれません。
実に、出来ていないことは間々あるわけですよね。

ここで言われているのは、ごく普通の兄弟姉妹に対してでもなければ、ただの小さな者でもない、
「最も小さな者たちのひとり」に対してだというんですよ。

25:37〜 その正しい人たちは、答えて言います。
『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、
飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、
着る物を差し上げましたか。
また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか。』

25:40 すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。
あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです。』

「わたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ」

私たちは、偉い人、一目置く人、尊敬できる人には、敬意を払い、最善を尽くすかもしれません。
でも、「最も小さな者」ってどんな人でしょうか…。

具体的に、どんな人でしょう…って考えるのも失礼な話かもしれないですけど、ぜひ、ちょっと考えてみてください。
そうしないと、なんとなく、いい話で、右から左へ、スルーしていくんです。

社会的な弱者ということばかりではないと思いますよ。
決して偉くはない人、出来ない人、劣っている人、普段、目にも気にも留めないような人、
あるいは、尊敬なんかとってもできない嫌いな人、そういった自分が「最も小さな者」と思ってしまう「一人」です。

そんなふうに人を見る時点で、もうOUTなんですが、下手をすれば、悪く言ったり、非難したりしているかもしれないですよね。
でも、たとえ、その人が、どんな人であったとしても、誰に対してでも、それはイエス様にしているのと同じことだ…というわけなんですよ。
私たちは、できるているでしょうか…。できていません。これが、正直な、現実だと思うんです。正直でいいんです。
それができていない、私たち自身もまた「最も小さな者たちの一人」なんですよね。

実に、困っていることにすら、気づかないことも、ありそうな気がしますね。
皆さんにも、お配りした「東北支援プロジェクト」ですが、すでに、いろんな支援、ボランティア活動がなされているわけですよね。

「…両手に荷物を抱え、他の避難所を巡り、必要以上に物資集めをしている人がいる一方で、停電のため夜は真っ暗、わずかな灯油で暖を取っているお年寄りがいる。」

誰でも、いっぱい上げて、いっぱい喜ばれたら、うれしいわけですよね。
なんだか自分がすんごく、いいことしているかのように思うわけですよ。
だから、震災当初、物資の配給という時に、ティッシュくださいと言われると、ティッシュの箱を、5箱も10箱も上げたりしていることが、実際にあったそうなんです。
でも、あるお年寄りの夫婦がいて、大丈夫ですか?と声をかけても、大丈夫ですと答える。
でも、心配になって、家に言ってみたら、津波の浸水で、片付けもままならないままの状態でいるわけですよ。
灯油あるのって聞いてみると、あるって答えるんですけど、見てみたら、ほんとうにわずかにしかない灯油で暖を取っている、夜、行ってみれば、真っ暗の中で、すごしていたというのです。

特に2番目のなんか、ひどい話でしょ。
「被災した自宅の泥掻きをしてもらう代わりに、某団体のボランティア拠点として自宅を提供したところ、思い出の品までが泥と一緒に捨てられ、親戚知人が送ってくれた個人宛の支援物資まで配られてしまった…。」

決して、否定は出来ないですよ。それ以上に、各地で大きな活動もしているし、助けられている人たちも大勢います。
某団体と濁しているんですが、実は、クリスチャンで構成された救援団体です。
でも、実際、隠れたところでは、こういうことも起きているわけです。

それで、石巻祈りの家の方が、そのボランティアチームを引率していた先生に、抗議したところ、
「これは神様の働きだから」って言ったというんだから、すごい話じゃですか。
どんな神様でしょう。本当ですか?

これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。

それは、おそらく「最も小さな者」に対し、自分も「最も小さな者のひとり」として、同じ立場、同じ目線で物事を考え、接することができるか、どうかなんだと思うんですよね。

実際、私たちが、助ける側にもなれば、助けられる側にもなると思います。
地震、津波、原発もあります。今、ビンラディンの問題もありますよね。病気も老後も、数々の不安要素というのは、この先も多かれ少なかれ、ありますよ。
写真で見たような、あのような見渡す限り、荒野になった中で、私たちは、自分を守ることに必死になってしまうのだろうか。
それとも、その中でも、なお希望を持ち、人々に与えることを考えていけるのだろうか。
もしかしたら、少しでも安心を得るために、ついつい大きなことを求め、大きな働きに目を留めてしまうのかもしれません。
そこで与えていく、助けていくためには、大きな力がなければ、無意味かのようにも思ってしまうかもしれません。

ですが、ここに出てきているのは、実は、それほど大きくない、小さなことの集まりなんですよね。

 食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…

イエス様は、「最も小さな者」が「最も小さな者の一人」にした、最も小さなことに目を留めてくださるというわけです。
実は、これこそが必要な心ではないだろうか。

さて、思い出したかのように申し上げますが、今日は、母の日、女性の日です。
最近でこそ、男女平等なんて言われまして、社会で活躍する女性も増えてきたわけですが、それでも仕事の上では、男性のほうが、大きく目立つことが多いわけです。
ですが、主婦の働きもまた、食べ物や飲み物を与え、旅人をもてなし、病を見舞い、人を訪ねる…、どこか通じるところがありますよね。
それで今日は、最も小さな男性陣たちが、日ごろの感謝を込めて、さも自分で創ったかのように、焼きそばを作らせていただくわけですが、その背後にも、しっかり女性の下ごしらえがあったりもするわけですね。

私の父も、出るなといっても出てくる、何か目立つタイプでしたけどね。
父は父で、社会福祉の現場で貢献した人ではあったんですが、家庭の中では、圧倒的に母の働きの方が、すごかったですよ。
寝たきりになった祖母が5年以上かな介護をし、私から見て叔父…父の兄ですよね、その介護が3年、さらに80近くになって、父の面倒も見てきたんですよね。
その間、ずっと家を空けられなくなるわけです。決して、真似して、できることではないと思います。
決して表彰も受けなければ、大きく取り上げられることもないわけですが、父が外で、好きなように働けたのも、実は、背後に、こうした母の献身的な働きがあればこそだったわけです。
イエス様は、そういった隠れた働きに、目を留めていてくださるわけですよね。

私たちには、それぞれできること、できないこと、得意不得意があると思います。
私たちは、どちらかというと、できないこと、不得意なことで、自己否定や、他者を非難してしまいがちです。
ですが、一人一人与えられた、個性、能力は違います。

被災地に対しても、私たちにできることというのは、限りがありますよ。
本当に焼け石に水かのような、小さなことかもしれないですけどね。でも、それは、イエス様にするのと同じことです。

最も小さな者たち全てにはできないかもしれない。でも、最も小さな者の一人にでも与えていく…。
たとえ、どんなに小さくとも、できないことではなく、できることをもって、最も小さな者のひとりに、与えていく者でありたいですよね。

…すると、王は彼らに答えて言います。
 「あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのだ。」

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2011年01月31日

この岩の上に… マタイ16:13〜28

みなさん。おはようございます。
今年、はじめてになりますね。1月ももう最後の週となりまして、いまさら、あけましておめでとうという感じではないんですが、みなさん、新しい1年をどのように迎えられたでしょうか。

前回、年末のメッセージでは、初日を見に行くという話もさせていただきましたけど、今年も行ってきました。
やっぱり初日はいいですよ。なんか好きなんですよね。
真っ赤に燃えた太陽が昇ってくる瞬間に、美しさと同時に、その熱、エネルギーを感じるわけですよ。
これは何も、初日に限ったことではないんですが、私たちは、太陽をはじめ、この自然界のあらゆる恵みの上に、今日も生かされているんですよね。
創世記の1章では、はじめに神が天と地とを創造された…と出てくるわけですが、このね、「はじめに、神が…」、この「はじめに、神が…」あって、今現代にいる私たちも、本当に生かされているんですよね。
私たちの努力や行ない、何をどうして生活するか…、これらも重要なことではあるんですが、でも、それよりも何よりも前に「はじめに、神が…」、はじめに、神様からの恵みがあるんです。聖書は明確に、そのことを宣言しているんですよね。
今年もね、早速、実生活の上で乗り越えなくてはならない課題があがっていたりするんですが、大丈夫、光は輝いている。そんなことを実感させられた次第です。

さて、今日のお話は、ピリポ・カイザリアでの出来事。
ピリポ・カイザリアというのは、イスラエルの北端になりまして、ヘルモン山のふもと、言うなれば、イエス様の宣教の折り返し地点となります。

この場所は、ヘルモン山の雪解け水が湧き上がっている場所でして、イスラエルには珍しく水が豊富で、糸杉のような木々の緑も豊富なところ、ヨルダン川の源流となっているような場所です。

そこに、ヘロデ大王の息子ピリポが町を作り、ローマ皇帝カイザル(英語でいうところの、ジュリアス・シーザーになるんですが)、両方の名前を取りまして、ピリポカイザリアという街になっていました。
今では遺跡のみが残っているんですけれども、この街の中心には、高さ100mくらいかな、岩というより崖がそびえていまして、そこにギリシアの神様「パン」が祭られ、神殿が建てられていたんですね。

言うなれば、他の神々、偶像礼拝中心の街です。そこでイエス様が弟子たちに尋ねられているシーンです。
「人々は人の子をだれだと言っていますか。」
まあ当時の人たちは、バプテスマのヨハネだとか、エリヤだとか、いろいろなことを言っていたようですが、

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか。」
16:16 シモン・ペテロが答えて言った。「あなたは、生ける神の御子キリストです。」

ここでペテロは、「生ける神の子キリスト」だと告白するわけですが、ただ「神の子キリスト」ではなく、「生ける神の子」、岩に刻まれたような死んだような神ではない、あなたこそ、正真正銘、生きとし生ける神の子、キリストである…ということなんです。

もちろん、このとき初めて、ペテロや弟子たちがキリストを信じたというわけではないと思います。イエス様に、何か特別なものを感じたからこそ、これまで彼らはついてきたわけでですよね。でも、彼らもユダヤ人ですから、実際に、神が人になる、あるいは人を神として信じることは、ある意味、恐ろしい、違っていれば死にも値する、怖いことでもあったはずなんです。
ですが、この直前にも、7つのパンを4千人に与えていく奇跡を目の当たりにしたわけですが、そんなイエス様が成すことを見、また人格的な交流もありながら、この方こそ、100%人でありながら、100%神、まさに天地万物を創り、荒野でマナを降らせ、人々を救い、人々を生かす神ご自身であるという確信へとなっていったわけです。

16:17 するとイエスは、彼に答えて言われた。「バルヨナ・シモン。あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です。

ペテロもそうですし、私たちもまたそうですが、私たちの信仰というものも、私たちが信じるようで、実は「はじめに、神が…」なんですよね。
はじめに神が、天と地とを創造された。はじめに神が、イエス・キリストをお遣わしになる。はじめに神が、聖霊を送ってくださる。実に信仰というものも、私たちが信じているようで、はじめに、神が与えてくださっている恵みなんですよね。

16:18 ではわたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
ここでは、聖書が書かれたギリシア語と、当時、実際に話されていたアラム語が混ざっているので、ちょっと、ややこしくなっています。

先に出た「バルヨナ」というのはアラム語で、ヨナの子という意味、シモンが本名です。
ぺテロは、あだ名なんですが、これは、ギリシア語に訳したもの。
アラム語では ケパ…、岩という意味です。パウロは、手紙の中では、よく「ケパ」と呼んでいますが、これが本来のアダ名なんですね。
イエス様も、当然、このとき、アラム語でしゃべっていたはずですから、

あなたは、ケパ、岩だ。この岩の上に、わたしの教会を建てる。これが順当なところだと思います。
ここからが、今日の本題なんですが、先ほどお話したように、このピリポカイザリアには、崖のような、本当に巨大な岩があるわけです。

そこで、あえて、イエス様から、あなたは岩だと言われたとしたら、どうでしょう。
ぜひ、高さ100mはあるような巨大な岩が目の前にあることを想像してみていただければと思うわけですが、それに比べたら、人間なんて小さな存在です。
自分の何が岩だって言うんだろう??そんな感じもしませんか?

ぺテロというと、おっちょこちょいで、イエス様の前では、よくたじたじになっていますが、このあとも失敗して、「下がれ、サタン」まで言われているんですよね。

でも、イエス様は、そのぺテロに、なぜ、岩だと呼んだんでしょうか。
これが、今日のお題です。

またね、竹下が、妙なところに、疑問を持ち始めたって思われちゃうかもしれないんですが、どうして岩だったと思います?
そんなこといったって、イエス様が、岩だって呼んだんだから、そうなんでしょう…といわれてしまえば、そうなんですけどね。

もともとの名前、シモン…というのは、聞くもの。従順である。という意味です。
これも、なかなか、いい名前でしょ。
でも、イエス様は、そのシモンという名をおいてまで、あえてケパ、岩だと呼んだ。
そこには何かしら意味もあるような気がするじゃないですか。

たとえばですね、ぺテロはそもそもガリラヤの漁師ですから。
案外、頑固者だったのかもしれないですね。人の言うことなんか聞かない、思ったことはやってみる、やってみないと気がすまない、お前はシモンじゃないよな〜、ケパ、岩だよ、なんてアダ名がついたんなら、わかるような気がするじゃないですか。
これは全くの私の想像ですが、アダ名って、そういう風につくんですよね。

普通に解せば、キリスト信仰ということになるんだと思います。
でも、ぺテロが岩のような大きく固い信仰の持ち主だったのか?

…というとですね、そうでもないような気がするんですよね。
聖書では、どちらかというと揺らぎ、迷い、逃げるぺテロの姿が描かれているわけです。

荒れた湖を歩いてきたイエス様に、私も傍に行かせてくださいといって…湖の上を実際に1歩でも2歩でも、歩いたんですよ。でも、怖くなって、ドボンと沈んで、溺れちゃう。
またイエス様が捕らえられた時、それでも、がんばって、大祭司カヤパの官邸までついて行くんです。でも、そこで、三度、イエス様のことを知らないといってしまう。

これが、ぺテロです。
その時のペテロには、自分が、まるで石ころみたいな存在に感じられたのかもしれない。岩のような揺るがない意思や信仰まで持っていたか…というと、決して、そういうわけではなかったんですよね。

それでも、イエス様は、あなたは岩だ、キリスト信仰が刻まれたあなたは、目の前にあるような岩になる。そう語られた。ここに、イエス様の心があるんではないかと思うわけです。それは、ペテロの何かではなく、生ける神ご自身がそう語り、そう働くからです。

私たちはどうでしょう。
自分自身を見たときに、実際、本当に石ころみたいな存在に思えるかもしれません。
それがぺテロであり、私たちのリアリティ、現実そうだとしても、イエス様は、あなたは岩だとおっしゃるんです。

生ける神の子キリストを信じる信仰のゆえに、あなたはケパ。あなたは岩になる。この岩の上に、わたしの教会を立てていくよ。

私たちが注意したいのは、たとえ今の状態がどうであっても、それで信仰のよしあしだとか、クリスチャンとしてのよしあしを、簡単に評価、決めつけてはならないってことなんです。他者はもちろんですが、自分自身であったとしてもなんです。
あるいは霊的にいいとか、悪いとか。。。
霊においては、本当は、いいも悪いもないはずなんですよ。信ずる者は、みな聖霊を受けてるんですよね。霊においては、最高、鉄壁な岩なんです。

ただ、その回りには、こってり肉的というのか、古い人間性が残ってるわけですよ。
ペテロも、また他の弟子たちもですが、聖霊を受けたら、それで100%完璧になったのか…というと、決してそうではないんですよね。

でも、それでも、あなたは岩だ。それでも、あなたはクリスチャン。
イエス様は、この岩の上に、わたしの教会、イエス様の教会を建てる、ハデス〜地獄の門もそれには打ち勝てないんだ。
…とおっしゃるわけです。

16:19 わたしは、あなたに天の御国のかぎを上げます。何でもあなたが地上でつなぐなら、それは天においてもつながれており、あなたが地上で解くなら、それは天においても解かれています。」

カトリックでは、これをペテロ個人に語った言葉として受け止めています。
ですが、これと同じような話が、この後の18章、失われた一匹を探す羊飼いのたとえの後にも出てきているんですね。ですから、ここではペテロに、でも他の弟子たちにも、そしてそれは、キリストを信じる私たち一人一人に語られている言葉でもあるんです。

教会というのは、キリストを信ずる人の集まりで、神様との縦の繋がりであると同時に、人と人での横の繋がりでもあるとすれば、それを繋げといってるのか、解けといってるのかといえば…、もちろん、繋げです。
あなたがたはどう思うか。だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、九十九匹を山に残して、その一匹を捜しに出かけないだろうか…。

行かない。これが社会一般的な常識かもしれません。多少は探したとしても、弱い羊、群れについてこれないような羊は、あきらめる、むしろ、いなくなったほうが群れのために、いいのかもしれない…。
でも、わたしは、一匹とて失うことなど考えられない。ルカの福音書では、みつけるまで探すとまで言っています。
これが、イエス様の心、イエス様の生き様、十字架に向かうイエス様のスピリットなんですよね。

16:21 その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた。
ぺテロは、十字架を予告したイエス様をなだめて、怒られていますが、でも実は、この段階での、神の子キリストに対するぺテロの信仰であり、他の弟子たちも同じだったんです。

救い主キリストが、異国ローマの支配から救いだし、イスラエルを独立へと導いてくださる。だから、この段階での彼らがイエス様を信じるということは、これからエルサレムに上って行って、イエス様が王となるということでもあったんです。
だから、ぺテロにしてみれば、ある意味、信仰的に、いやいやあなたが負けるはずがありません…と答えているつもりだったんです。これが、このときのペテロの理解、限界です。

それに対して、「下がれ、サタン」とまで、きついことを言われてしまうわけですが、これは、ペテロがサタンに惑わされるというよりは、これから十字架に立ち向かおうとするイエス様にとって誘惑になりそうな言葉だったのかもしれませんね。
16:24 それから、イエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。

もし私たちが人の罪を赦す時、一方では、どうして赦すのか、それでは秩序が保てないだとか、人々の非難や責めが、赦した人へと移っていくことになると思います。
よく何かの事件の弁護士さんなんかが、報道陣に囲まれて、質問攻めになるときもありますよね。それでも、彼らは、決して、身代わりの刑罰まで受けるわけではありません。
しかし、イエス様は、本当に多くの罪人たちを赦し、宗教家たちから非難を浴び、さらには十字架までをも背負ってもなお、それを貫いていくんですよね。

弟子たちが、その十字架の最後まで着いていけたのか。決して、そうではありません。
それでも、ぺテロは他の弟子たちが一目散に逃げて行くなか、かなり頑張ったんですよ。
でも、できなかった。私たちもまた、実際に、同じ現場にいたなら、そうかもしれない。

それでも、あなたは岩。
イエス様が、本当に、ぺテロや弟子たち、そして私たちの心の岩に刻み付けてもらいたかったもの。
神は、リアルに、現実として、人を愛し、人を赦し、人を生かす神だということ。
それを、そこに生ける神の子としての生き方、生き様、いのちもあることを、十字架と復活の姿を通して、その心の岩に刻み付けて欲しかったのではないでしょうか。

私たちが、人を赦そうとするとき、それは時として、難しくなる時があるんですよね。
まさに、自分を捨て、自分の十字架を負うことになる。
でも、私たちは、痛みを負いきれなくて、どうしても赦せないことが出てくると思うんですね。それが、今の自分の現実、それは、それでいいんです。
それは、やっぱりイエス様だからできること。私たちには、イエス様の十字架までは背負うことはできないんですよね。

でも、イエス様は、それでも、あなたは岩だ…とおっしゃる。
私たちには私たちの、自分には自分自身の背負うべき十字架があるんだと思います。
人を赦し、人を生かす生き方…。その十字架を少しでも背負っていけたら、いいですね。


…あなたは岩です。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てます。
 ハデスの門もそれには打ち勝てません。

ラベル:マタイ 教会
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2010年12月25日

クリスチャン的景気回復 イザヤ43:18〜21

みなさん。おはようございます。
今年、最後の礼拝となりました。みなさんにとって、どんな1年だったでしょうか。

「クリスチャン的景気回復」なんて、サブタイトル付けてみましたが、まあ、世間一般的に言えば、不景気で、私もそのひとりなんですが、仕事をされている皆さんも様々な苦労も絶えない、家計をあずかる奥様はもっと大変じゃ…なんて方もいるかもしれません。

今日のイザヤ書のこの箇所は、いつの時期に書かれたか、様々な説もあるわけですが、
ただ希望を伝えている言葉ではなくて、神様から離れ、偶像に走り、結果、イスラエルの地から追われ、バビロニア(今のイラク)に囚われの身として連行されるか、あるいはすでに連行されたイスラエルの民に向けられている言葉です。

なんて言うと、なんだか、希望もへったくりもないな〜って気もするわけですが、でも、実は、今の日本の不景気も似たようなところがあるんじゃないのかな…と思うわけです。
イスラエルの民にとっては、かつて、モーセによってエジプトを脱出した出エジプトの出来事は、現実的な神の救いの証として、一つの希望の光でもあったわけです。

ところが、そのまさに紅海の海をわけ、イスラエル民を連れ出した、その神様が、
43:18 先の事どもを思い出すな。昔の事どもを考えるな。と、言うわけです。

なぜなんでしょう。
イスラエル民は、出エジプトをした神様に期待もしていたかもしれません…が、反面、昔はよかった…、あの頃は、神様が助けてくれたのに…、でも、今は助けてくれない…そんな風にも思っていたのかもしれません。
私たちは、どうでしょうか。
どこかバブル時代か、その前か、景気がよかった頃を思い出して、「あの頃は、よかった。」「でも今は、不景気で…」なんて風に、思ってはいないでしょうか。

私も普段、旅行業してるじゃないですか。聖地旅行の見積依頼もきまして出すんですが、そうすると「この不景気なのに、この金額では人が集らないんじゃないだろうか。」なんて言われちゃうんですよね。
いやあ、それで利益を削ったら、うちも不景気になりますから…とは言えないんですけど、業者の裏を話せば、安い物には、安いだけの訳もあるんですよね。一生に一度行くか行かないかのイスラエル、たとえ豪華ではなくても土地のものを味わい、ちゃんと見るものは見てもらいたいと思うんですよね。

確かに、景気はよくないんでしょう。実際、うちも仕事は増えても、利益は横ばいです。でも、これで「不景気」と言ってしまえば、さらなる景気低迷を招くように思うわけです。

ですが、本当に、日本は貧しいのか…。決して、そうではない。
世界的に見れば、圧倒的に豊かな国なんですよね。では、何を基準に不景気と言っているか、不景気だと感じているか…といえば、景気のよかった昔の頃と比較して、景気が悪い、不景気だと感じているに過ぎないんじゃないでしょうか。

まさに、バビロニアに捕らえられようとしている民に向かって、新しい出来事、新しい救いの業、言うなれば、昔の出エジプトではなく、新しい出バビロニアが起きるんだというわけです。
43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。

私たちの日常生活であっても、日が昇り、会社行って、学校行って、家事をして、日が沈む、日々、同じことの繰り返しのように思えてしまうことがあるのかもしれない。でも、実は、常に新しいこと。
私たちが、今日、生かされている、そこにある神の恵みと、明日、生かされて、明日、与えられる神の恵みは、まったく同じ、変わらないように思えたとしても、今日と明日では違う、常に、新しい恵み、新しい助け、新しい1日が始まって行くんですよね。

43:19 見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

神様が道を造られるというと、なんだかいいようですが、よくよく考えてみると、奇妙なことが書かれているんです。どうでしょう。皆さん。気づくでしょうか。
確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

荒野に道…なんですよ。ようは、そこを通る…ってことですよね。
申命記には、「蛇や、さそりのいる、恐ろしい荒野」なんて書かれていますが、実際に、荒野では、石をどければ、結構、蛇さん、さそりさんたちが、本当にいらっしゃるんですよ。あえて、荒野なんか、通りたくはないですよね。

でも、神様は、その荒野に道を造る、荒野に行け…とおっしゃるんです。なぜでしょう。

川を設けると言われても、そもそも年間降水量30mm以下ですから。普段は岩と砂で、見た目、まっ茶茶の世界。乾ききった土地です。
特に乾燥になれていない日本人が旅行をするときには、20分に一度は、水を含んでくださいとお願いするわけですが、そうしないと、肌からもどんどん水分が抜けていって、脱水症状を起こしてしまうんですよね。今の旅行なら、バスもあるし、エアコンもついてるし、水も積んでいます。でも、当時は、基本歩きです。荒野へ行きたいですか。あまり、行きたい場所とは思えないですよね。
でも、なぜか、神様は、荒野を通すんです。そこにいったい、何があるというんでしょう。

「人は、パンのみに生きるのではない。…」って御言葉ありますよね。

人が生きていくためには、パン以外に、何が必要ですか。
クリスチャン的模範解答で言えば、「神の言葉が必要だ。」…という答えにもなるのかもしれないですよね。でも、実際問題、みなさんが生活していくうえで、何が必要になりますか。何を必要としていますか?
とりあえず、パンと聖書一冊あれば、それで生活していけますか。
いやいや、そんなはずはないですよね。

これ、別に、意地悪で言っているわけではないですから。率直に、考えてみてくださいね。
模範解答を覚えることが、聖書を読むということではないんです。ぶっちゃけ、それだと建前…になりかねないですよね。本当のところ、生きていくために、必要になるものって、なんでしょう。いろいろあると思います。
まず、服。たとえ立派ではなくても最低限、着る服は必要ですよね。いらない…って人は、いませんよね。荒野とは違い日本は雨も降りますから、少なからず、屋根のある住む場所も必要ですよね。
衣食住、それらを得るためには、何が必要でしょう。
それらを得るためには、お金が必要ですよね。そのお金を得るためには仕事も必要でしょうし、買うためのお店も必要かもしれません。

ですが、これが荒野だったらどうでしょう。
「人はパンのみに生きるにあらず…」実に、これも荒野で語られた御言葉です。

年間降水量30mm以下の、乾ききった大地を想像してみてください。
その場所で、本当に、生きていくために必要なものって、なんでしょう。

パンよりも、まず、水が必要になります。出エジプトの民が求めたのも、まず水だったんですよね。パンだって、たとえ小麦粉があっても、水がなければ、作れないわけですよね。
別に、コンビニやお店があるわけじゃないですからね。
荒野では、どんなに、たくさんお金があったとしても、どんなにいろんなものを持っていても、もし、たった水一杯飲めなければ、もう生きてはいけないんです。私たちが都市文明で身に付けた余計なものを、一切無にしてしまうのが、荒野という世界なんです。

もちろん、食べ物も必要です。でも、荒野ではパン屋さんがパンを作ってくれるわけでも、小麦すらも何もないんですよ。そこで出エジプトの民には、マナという別のものが与えられた。ある科学者は、荒野に住むある昆虫の分泌液ではなかったかとも言っています。あるときには、鶉の群れが飛んできて、肉も与えられた。
荒野に、ひとたび雨が降れば、太陽はサンサンですから、1日か、2日かもすれば、植物たちが芽を吹き始めるんです。中には、薬にもなる草が生えたり、石鹸にもなる植物が生えたりするんです。植物があれば、そこに虫たちがやってくる。虫がいると、それを餌にする鳥や、様々な動物、それこそ野の獣、ジャッカルや、だちょうも訪れるようになっていくわけです。実に、あらゆる自然界の生命が湧きあがってくるわけですよ。そのためには、太陽も必要、雨も必要、大地も必要で、実に空気も必要です。

非常に厳しいとも、過酷とも言える荒野の世界では、限られた自然界のありとあらゆるのものが、人が生きていくために必要なものになっていくわけですよね。
それを実感できるのが、イスラエルの民にとっては、荒野という世界だったのかもしれません。

聖書では、神が言葉でこの自然界すべてを創られたと書かれているわけですが、この自然界全てのもの、全ての営みがあって、人は生きていける、生かされているわけですよ。
日本にいる私たちもですよ、この服だってそう。もとを正せば自然界にあるものから加工して造っているわけですよね。

それが、「人はパンだけで生きるのではない。主の口からでる全てのものによって生きる」という言葉の本来の意味。それを、まさにリアルに、実感込めて感じさせてくれるのが、荒野だというわけです。
43:20 野の獣、ジャッカルや、だちょうも、わたしをあがめる。わたしが荒野に水をわき出させ、荒地に川を流し、わたしの民、わたしの選んだ者に飲ませるからだ。
野の獣…ジャッカルや、ダチョウも、決して、あまりいいイメージの動物ではないですよね。でも、そんな彼らであっても、神をあがめている…と、イザヤは語るわけです。

では、私たちは、どうでしょうか。
日本には、水が豊富にあります、様々な動植物たちが生息し、木々も豊富、四季折々、いろんな食べ物が取れます。イスラエルに比べれば、圧倒的な豊かさのはずなんです。

…が、でも、実際、つい本音の部分で、「不景気」な言葉が出てきてしまうんですよね。
別に、模範解答は求めていませんから。本音でいいんです。私も旅行業、やってはいるけど、大変ですよ。弱気になったり、へこたれたり、ついつい愚痴の一つもでてきまよね。

実際、日本は、ものすごく豊かですよ。それは人間が作った経済社会はともかく、神が造った自然界を見れば…そうですよ。この自然界に対する感動、感謝、賛美が、どれだけ私たちのうちに普段あるでしょうか。。。いつの間にか、なくしていたりしません?
でも、実際、荒野に行くと、水の乏しい地で、アイベックス(野やぎ)の群れなんかが、50頭ぐらいの一家一族がずらずらと歩いてたりするんですよね。そんな荒野で生息する動植物たちの姿を見ると、実感として、俺なんか、まだまだ大丈夫、本当にそう思うんですよ。

不思議なものでして、神様を信じていなくても、聖書が言うところの神が造られたものを人は「自然」と呼び、人が作ったものを「人工物」もしくは「不自然」と呼ぶんですよね。
直感的に、人は「自然」「不自然」とに、ちゃんと分けているんですよね。

私たちは、命のない、コンクリートや、アスファルト、機械に囲まれた、あまりにも「不自然」な社会を作り上げてしまったのかもしれないですよね。
実に、不自然な社会で、不景気を感じ、心まで蝕んでいるのかもしれません。もう10年以上、年間自殺者3万人を超えていて、今年もほぼ3万人を超す見込みです。
このおかしさ、不自然さに、もう気づかなくてはならないんです。

荒野に行けとは言わないまでも、自然界に触れる、自然を見直す必要がわたしたち人間には、あるような気がするんです。
イザヤが強調しているのも、「わたしがこれを造った」創造の神だということなんです。

43:21 わたしのために造ったこの民はわたしの栄誉を宣べ伝えよう。
これは、昨年の年末もお話したことですが、正月、実家に帰ると、大体、夫婦で、初日を見に行くんですが、ぜひ、みなさんも、見にいける人は、見に行ったらいいですよ。

日本人の多くは、初日そのものを拝みにいってしまうわけですが、実は、その陽が昇るその姿に、直感的に「神」を感じ取っているからだと思うんですよね。
日本の場合、太陽そのもの、木そのもの、自然界の森羅万象その個々の中に、八百万の神々がいると勘違いしてしまったかもしれないですが、やれ偶像礼拝だとか、汎神論だとか否定しすぎるような気がします。確かに宗教的、神学的な誤りだとしても、パウロは、あらゆる被造物の中に、神の性質が現されている…と語っているわけで、その日本人の感性は、必ずしも否定されるべきものではないと私は思うわけですよ。

日本人が個々に神々が宿っていると思っていたところを、聖書では、その自然界の根源に、これらを造られた唯一の神がいるといっているわけです。
まだ暗く、寒く、冷え切ったところに、真っ赤に染まった太陽が、強烈な光と熱をもって、昇ってくる。決して、繰り返しではない、新しい1年、新しい1日の始まりが、そこにはあるわけです。それを肌で感じ取ってみてください。ご自身の目で目撃してください。

その太陽が昇り来る雄大な姿に、美しさを感じる。この太陽がなければ、私たち人間も、誰一人、生きてはないですよ。その熱と光によって、今日も生きている、今年も神に生かされている、鳥たちも羽ばたき、いのちの感動を感じる。すごいと思う。
それがまさに、この自然界を造られた神を「霊とまことによって賛美する」ってことになるわけですよね。

初日は無理という方も、ぜひ少しでもいいから、意識して、神が造られた自然界に触れるときを持ってみていただけたらと思うわけです。これらすべて、私たちが生きていくために必要なものとして、神が与えてくださっていることを感じ取ってみてください。

決して、クリスチャン的模範解答を覚えていくことでも、優等生になることでもない。
神が造られた自然界の恵みを感じ取り、それによって生かされていることを感じ取るとき、
野の獣、ジャッカルや、だちょうも、罪人であっても、神をあがめる。
リアルに、私たちの内側から、神の言葉が実現していくんです。

さて、皆さんにとって、新しい年はどんな1年になるでしょうか。
相変わらず、不景気のまま続くのでしょうか。それとも、大丈夫。日本は、ぜんぜん豊か。大もうけはできなくても、なんとかなる。そう思って、いけそうでしょうか。
私たちは、よく「新年を迎える」って言うじゃないですか。
ですが、まさに神様によって、今、新しい1年が始まろうとしているわけです。新年を迎えるのではなく、新年に向かって、景気よく、進んでいきたいものですよね。

…見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。
 あなたがたは、それを知らないのか。
 確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。

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2010年11月06日

キリストの富 ルカ16:1〜18 (不正な管理人のたとえ) 

2010年9月26日 聖望キリスト教会

みなさん、おはようございます。

「暑さ、寒さも彼岸まで…」と申しますが、本当に秋分の日を過ぎたら、一気に冷え込みましたよね。
体の冷えは、体の免疫力を落とすらしいです。
ぜひ、みなさん、お体には気をつけていただきたいと思うところです。


●文脈から読み取る


さて、今日の箇所は、非常にわかりにくい箇所ではないかと思います。

以前、Oさんからですね、
「ここの箇所、まったく意味がわからないよ。次のメッセージでやって」とリクエストを受けまして、
正直、そのとき私自身も、このたとえ話の意味は、まだ、わからなかったんですよね。
おそらく、私やOさんだけではないと思います。

でも、わからないままというのも癪なんで、今日は、この箇所に挑戦しようというわけです。

まず、この不正な管理人のしたことは、120%不正、ズルです。
ところが、「不正の富で、友を作れ」だとか、「不正の富に忠実でなければ…」だとか、
イエス様が、あたかも不正を薦めるかのような発言に、私たちの頭は???になってしまうわけですよね。

聖書の注解書を見ても、まず「非常に難解な箇所」などと書かれていまして、
そんなことは、わかっとるわい!と言いたいところなんですが、
その解釈は、注解書によって、それぞれ違う…それくらいの箇所なんです。

決して、イエス様が不正を薦めているわけではなかろう…ということから、
たとえばですね、不正な管理人が書き換えさせたのは、自分の取り分や利息であって、
実は主人に損はさせていないんだとか…?
苦しい言い訳のような、まるで、イエス様の話を弁護でもするかのような、そんな解釈もあります。

いやいや、でも、最初の使い込みから考えれば、不正は不正、ズルはズルなんですよね。

また、ある注解書では、
「『不正の富』とは『この世の富』のことで、『まことの富』とは『神の国の富』のことを指す」とも
書かれています。なるほど、わかりやすい、そんな気もしますよね。

ですが、13節になると、
「…あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」と出てくるわけですよ。
結局、この世の富に忠実であるべきなのか、そうではないのか、わけがわからない。
これでは、Oさんからも、「結局、どっちなのよ!」って突っ込みをいれられてしまいそうです。

どんな文章であっても、一文の意味は文脈、前後の文章によって決まります。
これが文章読解の大原則です。
もし前後の文脈と、つじつまが合わないとしたら、その理解は間違っているといえますし、
逆に、文脈から切り離した瞬間、いろんな解釈も生まれてしまいます。

ですが、聖書って、案外、一部分だけを抜き出して、読むことが多いと思うんですよ。
それで、つい、わからない箇所ほど、視野が狭くなって、前後が見えにくくなってしまうのかもしれません。

しかし、聖書の一章一節も、あくまで前後の文脈、極端な話、聖書66巻全体の流れの中で読み取る必要があるわけです。

実に、私たちがわからないのも、決して「不正の富で、友を作れ」という日本語そのものの意味ではなく、
文脈の流れが通らない、わからなくなっているのではないでしょうか。

たとえば、もし、この時に登場しているのが、悪魔で、誰かをそそのかして「不正の富で、友を作れ」と言っている話なら、なんだか、すんごく、わかるような気がするじゃないですか。
ところが、なぜ、この時、イエス様が、こんなことを語ったのか、そこが、わからない。
それを教えてくれるのも、あくまで聖書本文、前後の文章、文脈ということになります。

文脈を読むというのは、単に言葉や文字の意味を追いかけることではありません。
前後の文章を手がかりに、その時の状況や、背景を探り、なぜ、このようなことが語られたのか、その意味を探る…、言い換えれば、キリストの心を読むということになるわけです。

そこで、今日は、このたとえ話の解釈、意味だけを追いかけるのではなく、このわからない箇所を、文脈から読み取る…、その読み方まで一緒にみていただければと思います。


●たとえ話の背景

まず、この話は、いったい、誰に、どういった状況で話されたことでしょうか…。
そこから見ていきますが、16章1節には、「イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。…」と出てきます。
「にも」ということは、まだ、その他に前がありそうですよね。実に、この話は、その前の15章から始まっているんですよね。

15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

度々出てくる話ですが、主イエスの周りに罪人たちが集まってきて、一緒に食事をしていたわけですね。
ユダヤの世界で、一緒に食事をするのは、和解や赦しを意味していますから、もうこの時点で、イエス様が罪人たちの罪を赦しちゃっていることになるわけです。
それをパリサイ、律法主義者たちが、神を冒涜しているだの、律法を無視しているだの、あれは罪人の仲間だの、いちゃもんをつけている、まーよくある場面です。

15:3 そこでイエスは、彼らにこのようなたとえを話された。

そこで彼ら…というのは、パリサイ派、律法学者でしょう。彼らに、語られたのが、超有名な3つのたとえ話。
・迷える1匹の子羊を捜し求める羊飼いのたとえ。
・なくなった銀貨一枚を見つけて、尋常じゃない喜び方をする女性の話。
・最後に、いなくなった放蕩息子を大喜びで迎える父親のたとえ話。

あなたがたは、天の父を誤解している…。迷った一匹の子羊も、なくなった1枚の銀貨も、どんなアホな放蕩息子であっても、戻ってきたら、喜んで迎える神なのだ。
どれも福音中の福音、代表作ともいえる、たとえ話3連発です。

そこに加えるかのように、
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた…。というわけです。それが、今回のたとえ話となるわけです。

状況、場面は、わかりましたでしょうか…。
まず、主イエスがいて、そこに集まってきた罪人たちがいたわけですね。一方で、それを非難するパリサイ派、律法主義者たちがいたわけです。
その状況の中で、弟子たちにも語られたのが、このたとえ話というわけです。

●何が「不正な富」なのか


さて、いよいよ、このたとえ話を見ていきますが、
不正な管理人が、その使い込み、不正がばれたというんで、さらに不正を働いて、身を守るために主人が貸した負債者の証文を書き換えちゃうんですね。
これを、文字そのままに実践すれば、立派な業務上横領で逮捕されます。永遠…とはいいませんが、刑務所に1年くらいは迎え入れられて、お友達ができるかもしれません。

ですから、この管理人のしたことは、その前の使い込みも含めて、本当に120%の不正、立派な横領、犯罪なんです。

ところが、この主人は、この120%「不正」を赦すばかりか、抜け目なく、ようやったと、ほめたというんです。ここが、わかりにくいところ。
おまけに主イエスは、弟子たちに、「不正の富で友を作れ」とまでいうわけですよね。なんなのか…。
でも、これは、たとえ話ですから、何かのたとえとして、話しているわけですよね。

そこで注目したいのは、
いったい何を例えて「不正な富」としているのか…、実際には何を指しているのか…なんです。

実は、この時、この場面で、「不正」とされていたことがあるんです。なんでしょうか…?

まず主イエスが一緒に食事をしていた罪人たち、取税人たちに不正があったかもしれません。
彼らはローマに納める税金以上のものを取り立て、それを自分の利益にしていたわけです。

そしてさらには、主イエスがその罪人たちと一緒に食事をする、罪を赦すということ…、
実にパリサイ派、律法学者たちにとって、これこそ、まさしく120%「不正」極まりない行為、できれば石で撃ち殺したい、やがては本当に十字架に展開していくほどの「不正」だったんですよね。

何が正しく、何が間違っているのか…というものは、ものの見方、立場が変われば、まったく逆になってしまうことがあるものです。
それを裏付けるように、この話のあとにも、またパリサイ派の人たちが登場してくるわけです。

●背後にいるパリサイ派


16:14 さて、金の好きなパリサイ人たちが、一部始終を聞いて、イエスをあざ笑っていた。

彼らからすれば、そんな馬鹿な主人がいるかよ…、そんな話に聞こえたかもしれません。
ルカは皮肉も込めて、「金の好きな…」と書いていますが、彼らは、それこそ、この世の富には、ものすごく忠実だったんでしょう。
ここでも「不正の富」を、「この世の富」としてしまう解釈は違うことがわかります。

16:15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、人の前で自分を正しいとする者です。」

ここに、主イエスのパリサイ派に対する反論、主旨があるわけです。
彼らは、自分を正しい者として、罪人たちや、その罪人を赦す主イエスを非難していたわけなんですよね。つまり15章のはじめから、この一連の話はまだ続いているわけなんです。ここに、文脈で読む大切さがあるんです。

16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

もし、この一文だけを抜き出して読んでしまうと、離婚して再婚するのは、罪。姦淫だということになってしまいます。
似たような箇所から、クリスチャンは離婚もしてはいけない、離婚した人がなんだか肩身の狭い思いをしてしまうようなこともあるんですが、実は、これがまったく違うことを意味している一文としたら、みなさん、驚きますか?

それが、文脈なんです。
なぜ、ここで、いきなり離婚だの、姦淫だの、そんな話が出てきたんでしょうか。あまりにも唐突で、話の流れが見えてこないですよね。なぜでしょう。

この時、主イエスの周りには、思いっきり姦淫の罪を犯してきた罪人たちもいたからではないでしょうか。

まず、有名なのは、マグダラのマリア。
彼女は遊女、売春婦の一人だったといわれています。彼女の売春婦仲間も集まっていたのかもしれないですし、その他にも、主イエスの周りには、多くの遊女たちが来ていたようです。

また、別の箇所では、バツ1、バツ2どころじゃない、バツ5で、現在、別の男と同棲中のサマリアの女性にも、主イエスは声をかけています。ですが、決して、あなたのしていることは姦淫だとか、あなたは神に忌み嫌われている…なんて言わないわけですよ。
むしろ逆です。
彼女は、同じサマリア人の目をも避けるように井戸に水を汲みに来ていたわけですが、
その彼女に「わたしが与える水を飲むなら、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」…そう語られたわけですよね。

また、あるときには、姦淫のまさにその現場で捕らえられた女性が、主イエスの前に連れてこられたこともありました。
そのときに、イエス様は何ていわれたでしょう…。

「あなたがたのうち、罪のないものが石を投げなさい。」

いいでしょうか…。
主イエスの周りには、離婚、再婚どころではなく、まずリアルに正真正銘、姦淫の罪を犯してしまった女性たちもいたんです。もちろん男性でもいたかもしれません。主イエスは、そういう罪人たちとも、食事をしていた、赦していたんですよね。
パリサイ派の人たちは、そういう罪人たちを、どうして赦すのか、それは神に対する冒涜、120%「不正」だと、非難していたんです。

それに対して、「いやいや、お前たちの仲間にだって、罪人はいるだろう。」

16:18 だれでも妻を離別してほかの女と結婚する者は、姦淫を犯す者であり、また、夫から離別された女と結婚する者も、姦淫を犯す者です。

彼らの間では、離縁状さえ渡せば、奥さんと離婚して、ほかの女性と結婚できる…、
もともと他人の奥さんであっても、旦那からちゃんと離縁状さえもらえば、結婚できる…、
ちゃんと離縁状さえあれば、それは罪ではない、「正しい」ということになっていたんです。
いやいや、それだって、同じようなものでしょ…という話なんです。


決して、離婚も再婚もしなければ、正しいということではないですよ。
主イエス、神様の目から見たら、情欲を抱いて異性を見るなら姦淫も一緒、
兄弟に向かって愚か者というなら、人を殺すのも一緒、
夫婦で喧嘩しているなら離婚も一緒ということになるのかもしれない。
私たち人間には、誰しも、その心のうちに、同じような罪の要素はあるわけですよね。

「あなたがたのうちで、罪のない者から石を投げなさい。」

これこそが、イエス様の真意、イエス様の心なんです。

いいでしょうか…。
主イエスは、離婚や再婚を非難しているのではなく、自らを正しい者として、取税人や遊女、罪人たちを非難していた、パリサイ派の人々の「正しさ」を否定しているんです。

なんてことをいうと、このキリスト教の世界では、竹下は離婚を肯定しているという非難もありそうな気もするんですが、
罪を赦す、その負い目を取り除くということ…。
イエス様も、そのために神を冒涜しているとか、「不正」だとか、数々の非難を受けていたんですよね。

●不正の富で友を作れ

イエス様が十字架を背負い、この世を離れた後、今度は弟子たちが
「なぜ、罪を赦してしまうのか。それは不正だ。」
こういった非難を受けていくことになるわけですよね。
だから、パリサイ派を前にして、弟子たちに言われたんです。

 人は、いろいろというかもしれない。非難を浴びるかもしれない。
 しかし、不正の富で、友を作れ!

言い変えるならば、「罪を赦して、友を作れ」、「十字架の富で、友をつくれ。」
弟子たちに向けた、激励だったのではないでしょうか。

あくまで、このたとえ話で、管理人のしていることは、本当に不正です。
だから、これをそのままに真似したら、逮捕されます。罪は罪なんです。

しかし、この主人が、管理人の不正を赦すことは、「不正」でしょうか…。
そうではないですよね。
だとしたら被害者でもない、外野である人間が、とやかく言う必要もない話ですよね。
もし、この主人が、本当に赦すんだとすればですよ。

その代わりにこの主人は、管理人が不正を働いた損失分を、自分自身が負うことになるんです。
神は、実に、そのひとり子を与えるほどに、世を愛された。。。
事実、イエス様は、取税人、遊女、私たち人間のあらゆる「不正」、その罪を赦した代わりに、
きっちり十字架を背負って、その非難、負い目、負債を肩代わりもしたわけですよね。


実に、私たちこそ、「不正な富の管理人」みたいなものなのかもしれませんね。

今朝も主の祈りでも、こう、お祈りしましたよね。
「私たちの罪を赦してください。私たちも人の罪を赦しますから…。」


ここで、私たちには、罪があります。不正がありますって、告白しているんですが、
でも、私たちには、人の罪が赦せないようなことも、でてくるんですよね、これがまた。

決して、自らを「正しい者」とする必要はないんですよ。
正直でいいんです。
実際に、赦せないことって、あると思うんです。


小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実…ともあるわけですが、
人を赦すということ、友となるということ…。
小さいことようで、実は難しく、本当に、もしできたとすれば、非常に、大きなことなのかもしれませんね。

特に、自分自身が直接的な痛みを受けてしまったようなことは、なかなか、どうして、赦すことは難しい。
私たちには十字架までは背負えない。
それが私たちの限界でもあり、それもまた、私たちの罪といえるのかもしれないです。
でも、その「人を赦せない」という罪も、また赦されている罪の一つです。


罪とは、的外れ。人生における数々の失敗といえるでしょう。
誰しもが、多かれ少なかれ、負い目を負っていくことにもなるんです。
その罪を赦す…というのは、その罪を「正しい」とすることではなく、その負い目を取り除いてあげるということなんです。
しかも、その代償は、主イエス自らが、十字架によって支払ってくださるというわけですよ。

この主イエスの十字架のゆえに、人を赦すということ、友となっていくということ。
この十字架の富に、抜け目なく、忠実に、大切にしていくということ。。。

お金や財産といったこの世の富も、私たちにはある程度必要だし、力にもなるものですが、
本当に壁にぶつかった時、ピンチの時、私たちを助け、励まし、
私たちの人生を、本当に豊かにしてくれるのは、お金よりも、まさに「友」という存在ですよね。

もし、この十字架の富に忠実でなかったら、まことの富を任せられるだろうか…。
あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。

そのようにしてできた、まことの富、本当の「友」という存在、まさにこの仲間ですよ。
それは私たちのものである前に、キリストの友であり、神の家族なんですよね。
それは、この世の生涯ばかりではなく、永遠の神の国にまで繋がっている、本当の財産になっていくに違いないのです。

これこそ、私たちに与えられているキリストの最大の富であることには間違いですよね。
この十字架の富を、抜け目なく、忠実に、大切にしていきたいものですよね。

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2010年08月25日

本当の奇跡 マルコ5:21~34

2010年8月22日 茅ヶ崎シオン・キリスト教会

 みなさん、おはようございます。竹下 力です。


 私は、普段、月曜から金曜までは、仲間と一緒に旅行業を営んでおりまして、
その名も「にこまるツアー」。

 おかしな名前でしょ? 

 まあ、人生の中でいろいろな事が起きてくる…。その中でも、旅行を通じて、
希望とか、喜びとか、いろんな「笑顔」を描きたい…、それが「にこまるツアー」なんです。
普段は、韓国旅行を専門として、たまに、イスラエルの聖地旅行なんかも手配しながら、
こうしてメッセージのご奉仕もさせていただいております。


 さて、イエス様もいろいろなところを旅しながら、各地を周っていたわけですが、
この時には評判が広がり、もう人気絶好調、あそこに、イエスがいるぞ!とわかると、
たちまち多くの人たちが集まってきました。

テレビもラジオもない時代ですからね。
何か珍しいものでも見れるんじゃないだろうか…。何か、ご利益があるかもしれん。
いわゆる野次馬たちも、大勢、集まってくるんです。
  
この長血をわずらっていた女性もその群衆の中にいた一人です。
病気なのに、意気のいい群衆を掻き分けていくわけですから、それはもう大変だった思います。

「お着物にさわることでもできれば…。」なんて、言ってたら、触るどころか、跳ね飛ばされちゃうんですね。


「着物に触って、きっと直るんじゃ…!」とにかく必死だったと思うんです。
あたかも、ヨン様を追いかけ、あわよくば握手してもらおうと押し寄せる、おば様方のように、
やっとの思いで、つかんでみたら、ペテロだったりしてね。

あんた、もう、邪魔!…なんか言いながら、とにかく、イエス様の着物に触ったんだと思うんです。
その瞬間、直った!!!


すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。


私たちは、このような話を見聞きするときに、いやー、そんなこと、あるんかな…とか、
いやいや、そう信じることこそ信仰だ…とか、彼女の病気が癒された「奇跡」そのものや、
その「奇跡」を呼び起こした彼女の信仰とかに注目していくことが多いような気がします。

でもね、こうした病気が治ることは、実際、ままあるんです。

私たちは、普段、西洋医学的な考え方にどっぷり浸かっていますから、こうして病気が
治ってしまうのは、まさに120%「奇跡」のように思えるかもしれません。

でも、東洋医学の世界ではどうか。
「きっと直る」と、その気になることが、治療の核だというんです。
体をほぐしたり、体調やバランスを整えながら、「きっと直る」、その気を起こさせていく…
これが東洋医学的な発想なんです。人間の体というのは、実によく創られていまして、
その気になることで、本当に免疫力や自然治癒力も上がるらしいんですよ。

でも、慢性的な病気、重たい病気ほど、人間なかなかその気にならない、それこそ
「病の気」、そこが難しいというわけです。
でも、イエス様には、彼女をその気にさせるものが存分に溢れていたわけですよね。
だから、東洋医学的に言えば、奇跡というよりも、イエス様がスーパードクター、
優れた医者だということになるのかもしれません。
人間的な限界を超えても、さらに、その気になる…そこに、神を信ずる者の力もある
ように思います。


もうだいぶ前ですが、私の叔父も、癌の手術をしたんです。
でも、取りきれなくて、全身転移、医者からは余命3ヶ月の宣告を受けたんですね。
それを聞いた私の父が、だったら最期は自宅で…と、退院させたんです。

ところが、本人は、その告知を聞いていなかったんです。
というのも、手術をした後、感染症を引き起こしまして、耳が聞こえなくなっていたんですね。
一時は、顔がパンパンにはれ上がり、呼吸も3回止まるほど、
その度ごと、うちの父親や牧師が駆けつけては、これまた大きな声で祈るわけですよ。
半分、逝きかけていたのを、無理やり引き戻されて、今度は退院でしょ。

それまでは、神様も何も、一切、信じようとしなかった人だったんですが、
神様が救ってくれた!
そう信じきっちゃったんです。そしたら、どうでしょ。。。

全身に転移していたはずの癌が、本当に、きれいになくなっちゃったんです。


なんだか、半分、ずるいような話なんですけどね。
なんせ、本人、ガンが転移していることなんか聞こえてないんですもん。
でも、考えてみれば、人から余計なことを聞かされないために、神様が耳をふさいだ
のかもしれないですね。


とにもかくにも、こうした病気が治ることは、実際にあるんです。
しかし、本当の奇跡は、実は、この後に起きていったんです。


30 イエスはすぐ、自分の内から力が出て行ったことに気づかれて、群衆の中で
 振り向き、「わたしの着物にさわったのはだれか」と言われた。


「だれか」…と言われても、もう、その他大勢の群集たちが、押し寄せているわけですよ。

弟子たちにしてみれば、
「先生、変なこと、言わんといてください。みな触っています。私だって触っていますよ。」
そんな感じだったと思うんです。
ヤイロも、「先生、お願いですから、急いで、娘のところに来てください。」
もう、必死で、先を急いでいたと思います。


ところが、それでも、イエス様は、動こうとしない、

32 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。


なぜイエス様は、この状況の中、この一人の女性のことに、こだわったのでしょう…。
そこに、何か隠された訳もあるような気がするじゃないですか。


そこで今日は、この女性が病気を患っていた12年間という時。
この12年間の時…というものを考えてみたいと思うのですが、皆さん、12年前は、何をしていましたか。


私は今37…、12年前といえば、25歳です。
私、もとはカメラマンをしていたんですが、仕事を辞めて、神学校に入ったのが12年前。
生活のために、昼間、アルバイトをしながらたったんですが、
ところが、このバイトというのが、なかなかハードというか、社員並みに働かせてもらいまして、
「いのちのことば社」って言うんですけど。。。(笑)

普通、「神学校」って、「神」の「学校」って書くじゃないですか。
私の場合は、違うんです。
寝る学校と書いて、「しんがっこう」と読むみたいな?
そしたら、学校から、ぜひ、もう1年いてくださいと、卒業させてもらえなかったんですよね。

ま、それでバイトを辞めまして、とにかく卒業し、その後、働きながらの伝道を目指して、
1社、2社と渡り歩いて、今、「にこまるツアー」で、ちょうど3年が立とうとしているところです。
12年の間には、いいことも、悪いことも、いろいろなことがあるものですよね。


でも、この長血の女性、彼女の場合には、そういった12年という時、ずーっと
病気のために苦しんでいたんです。
それは、それは、長い長い12年間だったはずです。


「長血」という病気が、今でいうなんという病気かは断定できないんですが、
出血を伴う婦人科の病気だと思われます。
そうすると、ユダヤの社会では、汚れたものとして、忌み嫌われてしまうんですね。
理不尽な話ですが、彼女に触れば、汚れる…、社会的に阻害されてしまうんです。
その病気のために、仕事も結婚もできなかったかもしれません。
そんな彼女が、人ごみ、群衆の中にいることなんて、もっと赦されない、非常識なことだったんです。

だから、群衆の中に「紛れ込み」、うしろから、ばれない様に触っていたんですよ。

実に、12年もの間、社会も、また自分自身も、彼女の人格を否定し続けていたのです。

まして、イエス様に触ったなんて言えない、彼女は、そう考えたと思います。


でも、イエス様も、触れられた瞬間、直感的に何かを感じ取ったんでしょう。
だから、それをした「人」に、こだわり続けた。
彼女も、覚悟を決めて、イエス様の前に進み出ます。


33 女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、
  イエスに真実を余すところなく打ち明けた。


当然、彼女が打ち明けた真実とは、病気が治ったということだけではありません。

12年もの間そんな「長血」という病気だったこと、いろんな医者にかかっても駄目、
ひどいめにもあわされ、全財産使いはたしてしまったこと、絶望に陥ったこと、
涙に暮れる日もあったと思います。
その悔しさや悲しみ、あるいは憎しみといった感情もあったかもしれません。


たとえ病気が治ったとしても、それで、よかったね…では、すまないことってあるじゃないですか。

あの医者たちは一体なんだったのか…とか、
財産もなくなって、私の12年間は一体なんだったのか…とか、
もし、彼女がそっちの方に考えが行ってしまうとしたなら、彼女が納得できるような答えは
見つからないんですよね。そこに、救いもないんです。
心に傷を負ったまま、結局、病んだままになってしまうんです。


12年という時…。これが、彼女の真実です。
彼女は、イエス様に、その真実を余すところなく打ち明けた。


その悲しみや、苦しみ、12年間の真実を、全部、打ち明けた、その後に、イエス様は、
彼女に語りかけたわけですね。


「娘よ…。」

それは、まさに、彼女の全人格に向けて、呼びかけられた言葉でした。

「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。」

こうしてはじめて、彼女の全人格に対して、本当の奇跡、正真正銘、「救い」が訪れたのです。

28節を、ちょっと見てください。 「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」

この「直る」、ギリシャ語の原文では、全人格的な「救い」を表す言葉です。これが、彼女の信仰でした。

ところが、その後の、29 節
「すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。」

ここの「なおった」は、別の単語で、ごく普通の病気が「治った」という言葉が使われています。
つまり、この段階では、病気が治っただけで、救われたとは言えなかったんです。


そして、イエス様が語られた言葉、「あなたの信仰があなたを直した。」

この「直した」は、全人格的な救いを意味している言葉です。
この時、はじめて、体だけではなく、心も「元の気」を取り戻せるんです。


「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」


この先、彼女が、まったく病気にかからなかった…わけではないと思います。
クリスチャンになったら、カゼ一つ引かない、虫歯一本ならないという人は、まずいません。
カゼにもなれば、虫歯にもなります。
そして、いつかは、この世の生涯を閉じるときも来るんですね。彼女もまた、同じです。

しかし、たとえ死を迎えるような病気になったとしても、
もし、心は平安、すこやかに、その時をすごすことができたとしたなら、
それは、病気といえるでしょうか。病気も、もはや病気ではなくなっているような気がします。

 先ほど紹介した、余命3ヶ月と宣告された叔父ですけど、もともと脳卒中で半身不随が
ありまして、ひどい劣等感の固まり、お酒を飲んでは、わめき散らしてしまう…そんな人
だったんですよね。
教会に行くようになってからも、しばらくは、あの人は嫌いとなれば、嫌な顔して、握手も
しない…、そういうタイプの人だったんです。

でも、徐々に、徐々に、変えられていきまして、いつしか、誰にでも、笑顔で接するように
なっていきました。
退院してから3年、ある日、風邪でも引いたかな…と思ったら、実は肺炎だったようで、
病院に行く途中に、眠るように天国へと旅立っていったんですが、とっても穏やかな
最期だったらしいです。

叔父が、その生涯を、健やかに幕を閉じるためには、その3年という時が
また必要だったのかもしれませんね。


時に、私たちは、先を急ぐあまり、立ち止まって振り向くことができないことがあるような
気がします。


5:31弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、
それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか


特にこの現代、次から次へと情報が流れていて、瞬く間に時代は変化していきます。
立ち止まってなんかいられない、振り向いてなんかいられない…、
忙しいという字は、心を亡くす…と書きますが、一人の人のために、もしかしたら自分自身の
ことですら、振り向く余裕を失ってしまうのが、この現代なのかもしれません。


しかし、イエス・キリストは、そうではありません。


 イエスは、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。

 イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた…。


イエス・キリストは、目には見えません。耳で言葉を聞くことはできません。
しかし、今日も、ここにいて、私たち一人一人の声を聞きたいと願っている。
かかわりを持ちたいと願っている。

信じて、救われたら、それで完了ではなくて、「きっと直る」そう信じた時から、神と人との関わり
の中で、本当の奇跡、全生涯、全人格をかけた救いが始まっていくんですよね。

私たちが、心も体も元気であるために、たった一人のためにも、振り向いて、
その人のことを知ろうとしてくださる…、それがイエス・キリストです。

 彼女は、イエスに真実を、余すところなく打ち明けた・・・。


お祈りします。
いま少し、イエス様の前に、私たちの真実を打ちあけて行く時を持ちたいと思います。

今、皆さんが、人には言えない、一人、心に抱え込んでいる悩みはないでしょうか。
もしかしたら、それは「罪」と呼ばれるものかもしれません。
過去に負った傷、まだ癒されていない傷なのかもしれません。
でも、真実なそのままの私を、イエス様に打ち明けてみましょう。



…あなたの信仰があなたを救った!! 病気にかからず、すこやかでいなさい。

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2010年08月01日

自分の言ったとおりになる!? マルコ11:20〜25

みなさん、おはようございます。
ほんと暑い日が続いていますが、みなさん、お元気でお過ごしでしょうか。


ちょうど先日、環境問題の講演を聞いてきたんですが、地球の平均気温は、100年前より、
0.74度上がっているらしいんです。
たった0.74℃なの?って思うじゃないですか。

でも、地球全体の平均ですからね。東京では約2℃、平均ですよ、上がっているらしい。
当然、涼しい日もあれば、暑い日もあるわけですよね。都会のアスファルトや、
ビルディングに囲まれていれば、実際には、もっともっと上がる日もあるわけですよね。


今日は、そんな環境問題から話を始めたいと思うんですが、これ、ものすごい大切な
話なんですよ。それを実感込めて、考えるには、この暑い夏が一番だと思うんですよね。

今、地球の温暖化ですとか、異常気象とも言われますが、そもそも異常なのは、私たち
人間の活動だと思います。
私たちが、石油でも、ガスでも、ゴミでも、ガンガンに燃やして、CO2、二酸化炭素を
バンバン作り出すものだから、地球の方は、自然と気温が上がっただけ。
気温が上がったから、自然と、気候も変わっているだけ。
異常なのは、私たちの人間の活動、そう思いません?


それも地球の人口の10%か、せいぜい20%の人間、先進国の人間たちが出す
二酸化炭素が、地球全体の8割、9割を占めていて、異常に多いんです。
今の猛暑も、集中豪雨も、赤潮も、私たちが、間違いなく、その原因を作り続けて
いるんですね。


今回、私もはじめて知ったんですけどね。
石油や天然ガス、電気、それらを使って製造される製品…、今の私たちが排出する
CO2は、そもそも自然界で処理しきれるような量ではなく、蓄積されてしまうんだそ
うです。そのくらい膨大なんですね。
だから、今から排出する量を10%、20%減らしても、すでに大量発生したCO2は
なくならない。それどころか、単純に90%分は増え、温暖化も進むんです。


今、エコバックとか、エコカーとか、あるじゃないですか。実は、そういうレベルじゃ
全然ないんです。エコカーなんて、確かにガソリンを使う量は減りますよ。
でも、その分電気を使い、大きなバッテリーも使い、CO2は1.5倍増えるんです。

このまま行けば、10年後には、さらに0.6℃以上のペースで、平均気温が上がって
いく、東京ではさらに2℃あがってしまうという計算になるんです。


本当は、レジ袋どころか、もう自動車には乗らない、エアコンも使わない…、
CO2の排出量8割、9割、そのくらいレベルで減らしていく必要があるんです。本当は。
それでも100年後には地球の平均気温は約2℃まで、あがってしまうらしいですよ。


みなさん、どーしますか?
先生、そんなことを言ったって、エアコンなしなんて、無理ですよ…。
確かに、そうだとなんです。最近の建物自体が空調で気温調整する設計になって
しまっているわけですから、これで、エアコン切ったら、熱中症で、バタバタ倒れて
しまいますから。
ちなみに日本の実績はというと、10%削減どころか、エコバック、エコカー、エコ商品の
おかげで、エコ気分にはなれたとしても、見事日本のCO2排出量は、7%増えている…
これが現実です。

まずは、エコ気分になってしまうのではなく、「今の私たちはエコじゃない」、その現実
から、知っておいてもらいたいと思うのです。


さて、今日のタイトルは、「自分の言ったとおりになる!?」と「!?」マーク付でお届け
しようとしているんですが、教会ではよく「神様の御言葉がなる」とか、「必ず、みこころが
なる」、「だから、神を信じなさい」…そんな風にはよく聞くところじゃないかなと思うんです。


でも、その聖書にはですね。「自分の言ったとおりになる」…そうも書いてあるんですよね。
御言葉どおりになるなら、そうなりますよ。
でも、なんか、すごく、不思議じゃありません?
こんな私たち、人間の「自分の言ったとおりになる」、なってしまうとしたら、
ある意味、いいようで、でも、何か、とんでもないことになるような気もしますよね?


神様は、言葉で、この自然界全てを創られた。クリスチャンなら、そう信じています。
一方、今のこの暑さや異常気象は、そもそも神様が創った自然の状態から離れて、
ある意味、私たち人間が創り上げてきた環境なんですよね。


すると、普段、私たちが何を話しているのか、「自分の言ったとおりになる」…
これは、私たちが人生を生きていくうえでも、大切なことを示していると思うんですよね。


今日は、そんなことも考えながら、この箇所を読んで見たいと思います。


さて、取り上げた箇所は、イチジクの木が枯れている場面からなんですけれども、
少々、いわくつきの箇所でもあります。

これには前振りがあります。


12 翌日、彼らがベタニヤを出たとき、イエスは空腹を覚えられた。
13 葉の茂ったいちじくの木が遠くに見えたので、それに何かありはしないかと
  見に行かれたが、そこに来ると、葉のほかは何もないのに気づかれた。
  いちじくのなる季節ではなかったからである。
14 イエスは、その木に向かって言われた。「今後、いつまでも、だれもおまえの
 実を食べることのないように。」弟子たちはこれを聞いていた。


ものすごく簡単に言ってしまえば、イエス様が、お腹がすいたときに、
たまたまイチジクの木に実がついておらず、呪われて、枯れてしまったというわけです。
しかも、いちじくは実のなる季節ではなかったというわけですよ。


理不尽といえば理不尽、イチジクの木がかわいそうゆうか、私たちが普段考えている
イエス様とは、ずいぶん違う、違和感のある記事ではないかと思います。

その理不尽さ、違和感のゆえに、イエス様の真意が見えにくくなる箇所かもしれません。
なんで、イエス様は、こんなことをしたんでしょう。
数々の注解書でも、いろんなことが言われていて、物議をかもしている箇所です。


ある人は、このイチジクの木はイスラエルの象徴で、救い主が来たにもかかわらず、
それに対して実を結ばない律法主義者たち、イスラエルの人々に対する神の裁きと
忠告を現している…と考える人もいます。


また、ある注解者は「わからない」とするのが正解ではないかとも言っています。
確かに、それも賢明なのかな…とも思うわけですが、それらの解釈を見ていくと、
2つの点を見落としているような気がするんですよね。


1つは、これからイエス様は、まさに十字架を背負われようとしている、その直前の
出来事なんですよね。


私たちだったら、どうでしょう。平然と、いつもの通り、冷静でいられますか。
とてもとても、その前に、とっくに逃げ出しているのかもしれないですよね。


もし、イエス様が、十字架に対して、微塵の恐怖もいただかず、ただ平然と釘付け
られたのなら、関係ないのかもしれません。でも、決して、そうではないんですよね。

痛みや、苦しみも、自ら、ちゃんと知りつつ、その恐怖と戦い、十字架へと向かっている
わけでしょ。その極みが、ゲッセマネの祈りです。
単に優しいだけではない、あらゆる恐怖と戦う愛。まさに命がけの愛なんですよね。
この時のイエス様は、一種の戦闘モード、極度の緊張状態にあるわけですよね。

その状況下で、イエス様に、普段どおりの冷静さや、優しさだけを求めるのなら、もしか
したら、あまりにも勝手なイエス様の理想像を創り上げてしまっているのかもしれないです。

でも、イエス様は、私たちのこの肉体を持ち、リアルに、現実としての十字架に立ち向かった
んですよね。


そう考えれば、空腹を覚えたときに、実を結んでいなかったイチジク。
このイチジクにしてみれば、不運といえば不運だったかもしれないですが、
イエス様の言葉が、普段より、きつくなっても、何も不思議ではないですよね。
まして神の言葉ですから、イチジクにとっては、かなり、きつかったかもしれないですね。


実際に、ある農家の人が言うには、私たち人間の言葉であっても、
優しい言葉を投げかけた木と、そうでない木は、実の着け方、成長度合いが違う。
極端な話、否定的な言葉を投げかけ続ければ、枯れてもしまうらしいんです。
植物でさえ、その言葉の持つ意味、気持ちは感じ取っているんですね。


もう一つ、私たちが考えておく必要があるのは、イチジクにたとえられるのは、
イスラエルだけか?ということです。

とんでもない話でございまして、私たちもまた、いや私たちこそ、本来、実を結ば
ないイチジク、滅ぶべき罪人…だったはずなんですよね。


とにもかくにも、イチジクが枯れていたのをぺテロが見つけて、こう言うわけです。


20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。
21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれた
 いちじくの木が枯れました。」


イエス様が、本当に、イチジクを呪ったのか…、もしかしたら、その理解は、ペテロの
理解だったのかもしれません。
イエス様自身は、「今後、いつまでも、だれもおまえの実を食べることのないように。」と
言っただけなんです。もしかしたら、空腹と十字架の重圧が重なって、ついイラっと来た
のかもしれない。その本当のところは、わかりません。

でも、自分の言った言葉が、イチジクを枯らしたのも、事実。
それを見たイエス様は、何を、どう感じたんでしょうね…。何かを感じたはずなんですよ。

ペテロの指摘に対して、あたかも話題をそらすかのように語られたのが、今日の本題となるわけです。


22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。
23 まことに、あなたがたに告げます。
  だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、
  ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。


…といわれて、皆さん、どう思うでしょうか。
そんな、山に動いて、海に入れ〜って言っても動かんでしょ…って思うんですよね。
その通りになるんだったら、苦労はしないよ〜なんて思うかもしれません。


そうなんですよね。。。だから、山は動かない。ある意味、その通りになっているんです。


山…というのは、ユダヤの世界では、大きな問題の象徴として、よく使われるんですが、
でもね、これが本気で、本当に山を動かさなくてはならない…って状況に追い込まれて
いたら、どうします?
この山を動かさないと、自然災害か何かに巻き込まれて、本当に多くの人が犠牲になる…
みたいなね。だとしたら、私たちは、あらゆる知恵を絞って、どうにか山を動かそうとする、
動かしていくに違いないんです。


実は、皆さん自身も、自分の言ったとおりになる…ってことは、見聞き、体験もしている
はずなんです。


子供がですね。テーブルに飲みかけのジュースを置いたまま、遊び始めたとします。
すると、お母さんが「そんなところにジュース残したまま、遊んでたら、こぼすわよ〜」
なんて言うじゃないですか。


でも、子供は遊びに夢中で、それどころじゃない。そうこうしているうちに、本当に、
こぼしてしまうんですよね。その時、お母さんは、なんて言うでしょう。

「ほら、だから、お母さんが言ったじゃない!」みたいな?


子供のほうも、お母さんの「ジュース残したまま、遊んでたら、こぼす」という言葉が
働いて、ジュースをこぼしてはいけない…と思いながらも、無意識の領域で、ジュースを
こぼしてしまうことをイメージしてしまい、本当にこぼしてしまう…らしいんですよ。


これは、よくも、悪くもですが、最近の脳科学でも、私たちの脳には、自分の言ったこと、
聞いたことも含めて、私たちの頭の中にある言葉の通りに、物事を実現しようとする
性質があることがわかってきたようです。


よく私の父親も「得たりと信じて感謝します」なんて、祈っていたものですが、祈って
いく言葉の中で、祈りが聞かれるというのと同時に、私たちが発する言葉も変えられ
ていく、それを実現させるように脳が動いていく…ということはあると思います。

しかし、一方、私たちが、心の中で疑わずに言っていること…って何なのかな…って
考えてみるとですね、それは意識して、考えて、ある意味、計算して言っているような
言葉よりも、どちらかといえば、普段、無意識的に、ふと口に出しているような言葉、
あるいは本音で、あまり考えずに言っているような言葉なんですよね。


よくも、悪くも、「自分の言ったとおりになる」。実際、多くの場合、なっているんです。

ついつい、私たちは、何か悪いことがあると、人のせい、周りのせい、時には神様の
せいにもしてしまうんですが、ですが、実は、喜び感謝するのも自分、不平不満に
思うのも自分、自分のうちにある言葉の影響も、かなり大きいわけですよ。


…だとすると、自分の言っている言葉、自分のうちにある言葉…って、すんごく、
かなり大切ですよね。私たちのうちには、どんな言葉があるんでしょう…。
それも本音ですよ、本音に、どんな祈り、どんな言葉があるか、ここが重要なんです。


もし、人を愛する言葉があったら、どうでしょう。
周りの人との関係もよくなり、相手も好感を持ちやすくなりますよね。
すごいよ、大丈夫、平気だよ…みたいな、ほめたり、励ましたり、何かと肯定する
言葉があれば、周りはもちろん、実は、自分自身をも肯定していくんです。

逆に、自分の中に、無理、駄目、嫌だ…とか、何かと批判や否定する言葉があれば、
周りだけではなく、実は、自分自身のことをも否定してしまうんです。

自分が言っている言葉を誰が一番聞いているでしょう…。実は、自分自身なんですよね。


確かに、私たち人間には、いろんな限界はあります。
自分でも誰でも、私たちの人間的な器だけを見ていれば、決して前向き、肯定的ばかりには
考えられないかもしれない。

でも、それだけじゃない。「神を信じなさい。」神を信じる。


その神は、どういう神様なんでしょう…。実らないイチジクを滅ぼす神なのか。


25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。
  そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」


赦してやりなさい。天の父も、あなたがたの罪を赦してくださる神なのだから…。


あの枯れてしまったイチジクの木…
イエス様が、もし本当に実を結ばないイスラエルは、呪われてしまえ…と考えていたなら、
本当にイスラエルは、完全に滅んだままでしょう。

イエス様が、実を結ばないような人間は、滅んでしまえ…、そう考えたんでしょうか。
もしも、私たちが、そう考えるなら、その考え、言葉が、周りも、そして自分自身のことをも
滅ぼしてしまうのかもしれないです。


でも、イエス・キリストは、あのイチジクのように、イスラエルであっても、私たちであっても、
枯れてしまうことを、決して望まなかった。
きっと実を結んでくれる…そう信じて、十字架をも背負ったわけですよね。


また少し環境問題、入っちゃいますが、今、この自然破壊が進んで、1日におよそ100種
くらいの生物が絶滅しているらしいですよ。それこそ、本当に根こそぎ絶滅ですよ。

動植物だけではなく、もう今すでに、貧しい国の人たちほど、日本でも、人間の生命に影響を
及ぼしはじめています。それは神様ではなく、私たち人間が今していることなんです。


エコカー、エコバック…、それでは、エコにはなりません。
では、エアコンやめられますか?…やめられません。それが今の正直な本音ですよね。
私も、決して偉そうなことはいえないんです。かつては、電気付け魔ですから。

でも、クーラーの設定温度を、1度上げる、2度あげる…まずは、そこから。
私たちがエアコンをつける、設定温度を1度下げる、それは、地球の温度を上げること。
今は、家でも、会社でも、28℃。それを次は29℃にする、それが、今の私にできる一つ。
そして、それを語ること。

この今、この地球で起きている環境への意識、その言葉を、一人でも多くの人に持って
もらうことが、エアコンなしでいい建物作り、車を使わない街づくり、今この社会全体の仕組、
意識を変えていくことになるんではないか・・・そう思うんですよね。

環境問題だけではありません。
年間自殺者3万人の問題、その他の社会問題、また皆さん一人一人、家庭で、職場で
様々な問題、「山」にぶつかり、そこで悩み、苦しんだりもしているかもしれません。


しかし、神は、決して一人として滅びることは望まず。
それは、私自身も、皆さんも、イスラエルも、全地球上のすべての人たち…全てなのです。


「まことに、あなたがたに告げます。
 だれでも、この山に向かって、『動いて、海にはいれ。』と言って、心の中で疑わず、
 ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。」

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2010年04月30日

聖地旅行記「荒野に生きるアイベックス」

旅行会社のブログで、イスラエル聖地旅行のコラムを連載しています。

今日は、この2月に行った旅行記からの転載です。

荒野に生きるアイベックス

「荒野に生きるアイベックス」
Photo: Chikara Takeshita


イスラエルの荒野に行くと、アイベックスという、野生のヤギが数多く生息しています。
彼らは、外的から身を防ぐためか、普段、崖の高いところを好んで生活しています。


しかしながら、当然なことに、水は崖のはるか下を流れているわけです。
しかも、年間降水量30mmという、ただでさえ水の乏しい地域。
川と言っても、そのほとんどは水のない、ワディと呼ばれる水無川です。

彼らは、ごく限られた地下水が湧き出て流れている谷川のわずかな水を慕い求めて、
ほとんど垂直、断崖絶壁とも言える崖でも、彼らは強靭な足と爪で、上り下りしていくのです。

まさに、荒野のロック・クライマー!

日本は、水も食料も豊富です。
そればかりか海外からも、多くの水や食糧もさらに輸入し、
いろんな物にもあふれているにもかかわらず、
年間自殺者は3万人以上…、何かがおかしい。


決して、水や食料がどれだけあっても、生きていけない、
いや、そのことにも気がつかないまま、心は脱水症状を起こし、
たましいが渇ききってしまうのかもしれません。

聖書の中にある詩の中に、こんな詩があります。
「鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。」詩篇42:1

昔は、野生の鹿も棲息していたのかもしれませんが、おそらく、このアイベックスが
「谷川の流れを慕う鹿」ではないかと思われます。
この詩の作者もまた、心の渇きと絶望のどん底にいたようです。


「私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。」詩篇 42:2


頭だけのただの「神」ではない、この荒野の地でヤギや鹿たちをも生かす「生ける神」。
この「神」こそが、私も、生かしてくださるに違いない…
「絶望」が襲い掛かる中で、己のたましいに向かって、言い聞かせていくのです。

「わがたましいよ。なぜ、おまえは絶望しているのか…。
 神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。私の救い、私の神を。 詩篇 42:11


人生、山あり谷あり…。
もし神がいるなら、なぜ、なだらかな平坦な道ばかりではないのでしょう…
そんなふうにも思えてしまうのですが、
その山を越え、谷を越えた先にこそ、見えてくるもの、得られるもの、
神が見せたいものもあるのかもしれませんね。


あの過酷と思える自然環境の中で、アイベックスたちが生き、子を産み、
群れを成している姿を見ていると、
あ、自分はまだまだ大丈夫…と、勇気や力も湧いてくるから不思議です。


荒野でヤギや鹿を生かす神がいる…!

生きるためには、水も食べ物も、多くの物が必要です。
でも、本当に、いのちあるものだけが、いのちを慰め、励まし、生かすことができるような気がします。

「あなたは岩間の野やぎが子を産む時を知っているか…。 

 わたしは荒れた地をそれの家とし、不毛の地をその住みかとした。」ヨブ 39:1, 6


(写真・文 竹下 力/ にこまるツアー ・聖望キリスト教会伝道師) 

――――――――――――――――――――――――――
いろんな笑顔、描きたい― にこまるツアー

東京都台東区台東4−30−8 宮地ビル本館7F
TEL (03)5812−7080
FAX (03)5812−7085

韓国旅行専門サイト  http://www.nikomaru.jp/
イスラエル専門サイト http://www.nikomaru.jp/acts/
株式会社HMC 東京都知事登録旅行業第3-3609号
――――――――――――――――――――――――――

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2010年01月11日

ダビデのなめらかな石 1サムエル17章

おはようございます。
2010年がはじまって10日が経ちましたけども、皆さんはどのようなスタートを切りましたでしょうか。

とにかく世間では、未曾有の不景気。
テレビでも、いろんな暗いニュースやら、政治批判やら、とかく否定的な言葉が多く聞こえてくるわけです。
鳩山さんもがんばってはいると思うんですけれどね。いろんな批判の矛先が、すべてリーダーに向けられていってしまう。
ですが、批判は誰にでも出来ますが、じゃあ、どうすればいいのか…その答えは、誰も持っていないんですよね。

「ことば」というのは、ある意味、恐ろしいところがありまして、駄目だ、駄目だと思っていると、本当に駄目になってくる。
イエス様も、「あなたの言ったとおりになる」といいましたけれども、否定的な言葉を繰り返し耳にしたり、口にしたりすればするほど、私たちの脳も体も、否定的な感情にとらわれて、元気を失ってきてしまうような気がします。

確かに、不景気は不景気。ですが、こんな時こそ、クリスチャンは元気でありたいと思うんですよね。
今年一年、それぞれに目標や課題があると思います。1年のはじまりに、この不景気にも、それぞれの課題にも立ち向かっていく勇気と力をいただきたいと思うわけです。

さて、今日の箇所は、少年ダビデと巨人ゴリアテの戦い、少年ダビデ君が、ペリシテの巨人ゴリアテを石投げで倒してしまう…、教会学校でも必ず登場してくる有名な話の1つだと思います。

時は紀元前1000年頃の話です。
ペリシテというのは、イスラエルの宿命のライバルといってもいい隣国でして、ちょうど今のイスラエルでいうガザ地区のあたり、地中海沿岸を領土にしていたようです。

今でいう「パレスチナ」という名称も、このペリシテに由来しているんですが、この聖書に出てくるペリシテ人は、ダビデ王朝の時代に、すでに滅亡してしまっているんです。

では、どこから出てきたかというと、今の「パレスチナ」というのは、ローマ帝国によってつけられた名前なんですね。
エルサレムを陥落させた後にも残っていた、反ローマ的なユダヤ勢力を抑えるために、このイスラエルのライバルであったペリシテから名前を取って、ユダヤ州からシリア・パレスチナ州と名前を変更したんです。それが、現在のパレスチナです。
皮肉にも、この両者は、今も対立してしまっているわけです。

さて、話を戻しますと、そのライバル・ペリシテとの戦い
ゴリアテという大男がペリシテの代表として、一騎打ちを挑んできたわけです。

17:4 ときに、ペリシテ人の陣営から、ひとりの代表戦士が出て来た。その名はゴリヤテ、ガテの生まれで、その背の高さは六キュビト半。

この数字を、そのままに信用しますと、身長は、なんと286cmにもなります。
でかっ!みたいな。
さらに、57kgのよろいかぶとを身に付け、7kgの槍を振り回していたわけです。
とにかく、とてつもないつわものであったことには間違いないでしょう。

イスラエルの兵士たちは、みな、びびってしまうわけですよね。
あんなのには、勝てねえよ〜。
ある意味、当然かもしれません。まさしく命がけの戦なのですから。

17:24 イスラエルの人はみな、この男を見たとき、その前を逃げて、非常に恐れた。
 17:25 イスラエルの人たちは言った。「あの上って来た男を見たか。イスラエルをなぶるために上って来たのだ。あれを殺す者がいれば、王はその者を大いに富ませ、その者に自分の娘を与え、その父の家にイスラエルでは何も義務を負わせないそうだ。」

サウル王も、娘を妻にくれてやるだとか、税金を免除するだとか言うわけですが、そういう問題ではないわけですよね。イスラエルの兵士たちだけではなく、実は、サウル王自身も、戦うことができないでいたわけです。
ゴリアテは、朝と晩に現れては言いたい放題、言って帰るわけですね。そんなことを実に40日間も繰り返していたというのですから、ある意味、驚きです。

そこに現れたのが、少年ダビデ君。
…というふうに、小さい頃見た絵本には描かれていたような気がしますが、兄の陣中見舞いに戦場へ使わされてくるくらいですから、実は、もうそこそこの青年だったかもしれません。

なんなんだ。これは。。。
17:26 …「…この割礼を受けていないペリシテ人は何者ですか。生ける神の陣をなぶるとは。」

ダビデは、一人奮い立つわけです。

はじめから自分が戦おうとか、自分だったら勝てるという話ではないように見えます。
ところが、兄は、ダビデを見つけて、なぜか怒りを表すのです。

17:28 兄のエリアブは、ダビデが人々と話しているのを聞いた。エリアブはダビデに怒りを燃やして、言った。「いったいおまえはなぜやって来たのか。荒野にいるあのわずかな羊を、だれに預けて来たのか。私には、おまえのうぬぼれと悪い心がわかっている。戦いを見にやって来たのだろう。」

もちろん、濡れ衣です。
17:29 ダビデは言った。「私が今、何をしたというのですか。一言も話してはいけないのですか。」

まさに、そのとおりなんですよね。
ダビデは、父親のエッサイに頼まれて、その兄のところに陣中見舞いにきたのです。
戦いを見に来たと言われても、イスラエルは戦うどころか、恐れて逃げていただけなんです。兄エリアブも、その一人だったのでしょう。

ダビデは、末っ子で、羊飼いでしたから、そのダビデが人々と話すのを見て、小生意気に思えたんでしょうね。

なんだか、この記事を見ていくと、今の日本も、ある意味そうなのかもしれないな…って思うんですよ。
この不況というゴリアテを目の前にして、世の中、不景気だ、不景気だ…と言いながら、政治にしても、何にしても、ちょっとでも相手の弱いところを見つけると、批判ばかりが繰り返されていく。
巨人のゴリアテがやってくると、わーっと逃げて、小さいダビデにはコノヤロみたいな。

私たちにも、そんなことが、どこかありそうな気がします。
17:32 ダビデはサウルに言った。「あの男のために、だれも気を落としてはなりません。このしもべが行って、あのペリシテ人と戦いましょう。」

私たちの人生の中でも、時に、様々な問題や壁、巨大なゴリアテにぶち当たることがあるように思います。
クリスチャンになったら、全てが平安だとは限らない。だったら、いいんですけどね。もちろん問題や困難がないことに越したことはないわけですが、問題がないことが、必ずしも神に守られていると言うことでもないようです。
逆に、この世の人生には、目の前を立ちふさがるような大きな問題や困難が起きてくる。

その時に、私たちが、まず失ってはならないのは、巨人ゴリアテに立ち向かう勇気なのかもしれません。
ダビデは、なぜ勇気を失わなかったのでしょう。

一言で言ってしまえば、神に対する信仰…となるのでしょうが、
信仰だったら、サウルもイスラエルの兵士たちもあったといえば、あったんですよね。私たちにもある。
でも、正直なところ、目の前にゴリアテが現れた時に、時には弱気になったり、くじけそうにもなったりするのも、私たちですよね。

では、その違いは何でしょう。そこを見ていきたいと思います。

この時の話と言うのは、ダビデ君は、神様を信ずれば、特別な神の力が働いて、ゴリアテにも負けない、スーパーマンか何かになれる…というわけではないんですよね。
ダビデは、これまでの羊飼いをしていく中で、熊や獅子と戦ってきた実力や実績と、神が守ってくださったという経験に立っているわけです。

しかし、人は、いろいろなことを言ってくるわけです。
17:33 サウルはダビデに言った。「あなたは、あのペリシテ人のところへ行って、あれと戦うことはできない。あなたはまだ若いし、あれは若い時から戦士だったのだから。」

サウルも、決して弱い戦士ではなかったんです。
でも、ゴリアテはでかい、強い、ゴリアテには勝てない、相手はベテランの猛者、ダビデには無理だ…、40日間の間に、すっかり否定的な言葉に包まれているんですよね。

17:37 ついで、ダビデは言った。「獅子や、熊の爪から私を救い出してくださった主は、あのペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。」

ダビデが、これまでの羊飼いをしていた中では、決して、恐れや失敗がなかったわけではなかったと思います。
はじめは、父親や兄たちからも熊や獅子から守り、戦う術をみて学んできたことでしょう。
時には、ダビデの力及ばず、危ない目に遭ったり、怖い思いもしたのかもしれません。
でも、その都度、ダビデは神に守られてきたという経験もしているんですよね。

私たちの人生の中でも、これまで数々のピンチがあったと思います。
それは、私よりも、人生長く生きてきた人ほど、ピンチの経験をしてきているのではないかと思うのです。でも、今こうしてある…。
今、こうしてあるのは、ピンチがなかったわけではなく、ピンチを乗り越え、守られてきたんですよね。
ダビデは、これまでの日常至る所で、神の守りと言うものを意識してきたわけです。

さあ、そのダビデが、いざゴリアテと戦おうとした時に、王のサウルは、自分の鎧兜や剣をダビデに貸して、身につけさせます。
なぜならば、ダビデが戦士の格好ではなく、ただの羊飼いの格好だったからです。

17:39 ダビデは、そのよろいの上に、サウルの剣を帯び、思い切って歩いてみた。
思い切って歩いてみたというわけですが、思い切らないと歩くことも出来なかったみたいですね。そんな鎧兜なんか着たことのないダビデは、よろけてしまい、まともに動くことすらできないわけですよ。慣れていないから。
それで、こんなんで戦えるか〜と言って、鎧兜を脱ぎ捨て、普段どおりの羊飼いの姿で、自分の最も得意とする石投げで、ゴリアテに一人立ち向かおうというわけです。

さて、川原には、いろんな石が多く転がっているわけです。
皆さんがダビデだったら、巨人ゴリアテと面した時に、どんな石を選ぶでしょう。。。

ついつい大きなゴリアテだから、大きな石を選んでしまいそうな気もしますよね。
これだったら、ゴリアテを倒せるだろうと思って、大きな石を選んでも、足元にも届かなかったりして。
砲丸投げの室伏だったら、砲丸みたいな石を選ぶのかもしれません。
でも、ダビデは、ゴリアテが大きいからといって、特別に大きな石を選んだわけではありません。だからいって、とにかく手当たりしだい、数打ちゃ当たるで、ひたすら多くの石を集めたわけでもありません。
「なめらかな石」を5つだけ、選ぶんですよね。それが、ダビデにとって、自分のベストを出せる石だったわけですよ。

それは、ある人にとっては、それは戦う姿ではなく、ある人にとっては、無謀な姿にも見えたかもしれない。

でも、ダビデにとっては、その羊飼いの格好が一番のベストのスタイルで、巨人のゴリアテと戦うには、石投げこそがダビデにとってベストの戦い方だったわけですよね。
そして、一番自分にとって、ベストな石を用意して、ゴリアテに挑んでいったわけです。

17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」
ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。

当時、羊飼いと言えば、子どもできる仕事、実に身分の低い仕事でもあったわけです。
でも、ダビデは、その羊飼いである、そのままの自分を神が愛し、熊や獅子から守ってくれていたことを知っていたからこそ、その神の存在がゆえに、羊飼いの姿、やり方で、ゴリアテにも立ち向かっていくことができたわけです。

17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。

私たちは、どうでしょう。
巨大な問題にぶつかった時、事の大きさゆえに、右往左往してしまうことはあると思います。
思わず、慣れない鎧兜を身につけて、身動きが取れなくなってしまったり、
投げられないような大きな石や、とにかく数多くの石を集めて対処しようとするのかもしれません。

でも、実は、神様は、これまでも、このまんまの私を愛し、ピンチの場面でも、すでに必要な力は与えているのではないだろうか…。

神様を信じるということは、私を愛してくれている神を信じること。
それは、神が愛された私を信じること…なのかもしれないですよね。
人は否定するかもしれない、笑うことかもしれない、本当に小さいかもしれない、
でも、御子イエス・キリストが十字架にかかってまでも惜しくないほどに愛してくれているわけです。
その私に、今すでに神が与えてくれている力もあるわけです。その自分の力を信じるということなのではないでしょうか。

もちろん、100%完璧な人もいません。ダビデもそうです。得意不得意、長所短所、人それぞれでしょう。
でも、無理して慣れない鎧兜を身につけるよりは、普段どおりの自分らしいスタイルで、自分のもっとも得意とする方法で勝負したほうが、力も発揮できるというわけですよ。

いやいや、私は何のとりえもなくて…ということは、絶対にないはずなんです。
今まで誰かに否定されてきたかもしれない、人と比べては、比較相対、無いものねだりで、自分自身で否定してしまったのかもしれない。
実は、私自身、自分で自分を否定していることが多くあるように思うんですよね。
でも、神は、この私を愛してくれていて、今、こうしてある。
必ず、私なりの方法、私にとってのベストな「なめらかな石」があるはずなんです。

17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
こうしてダビデの一番ベストの石が、強敵ゴリアテを打つわけです。

今は、もちろん戦をするわけではありません。
でも、クリスチャンであってもなくても、世で生きていく上では、困難があります。
まして、この未曾有の不景気の中で、みなが否定的、暗く沈みがちな昨今です。
クリスチャンだからこそ、お金は無くても、喜びがある、感謝がある、希望がある、前向きにチャレンジできる愛の戦士でありたいものですよね。

時々、戦士とはこうあるべき、クリスチャンはこうあるべき…みたいな。
狭い既成概念に捕らわれて、慣れない、よろいかぶとを着せられて、身動き取れなくなっているクリスチャンも、いたりするような気がします。
ガチャ、ガチャ、ガチャ。どう立派でしょ。でも、動けてないから…みたいな?

慣れない鎧かぶとなら、脱いでよし!
その代わり、神様が自分に与えてくれているもの、自分にとっての「なめらかな石」とは何なのか、ぜひ探して、選び取っていきたいものです。


…ダビデはペリシテ人に言った。
「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、
 私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。」

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2009年10月11日

初代教会の限界 使徒の働き4:32〜5:14

初代教会の限界 使徒4:32〜5:14
みなさん、おはようございます。

今日は珍しくスーツ姿でして、どうしたんだろう〜とお思いの方もいらっしゃるかもしれませんが、
今日この後、例の聖地旅行の営業で、チャペル・オブ・アドレーションに営業してこようと、
もくろんでいるわけです。
先ほどから、「馬子にも衣装」だとか冷やかされちゃっているんですが、
私も仕事の時には、ちゃんとスーツも着ているんですよ(笑)。

さてさて、普段、私は、いくつかの教会をめぐっているのですが、最近あらためて、この聖望キリスト
教会の良さと言うか、違いも感じているところです。

ここでは、いつも普段着で礼拝させてもらっていますが、それには私なりのこだわりみたいな
ものがありまして、神様の前で、格好をつけない、そのままの自分…、
それはある意味、罪人としての自分かもしれないですが、
決して、飾ることのない素の自分の姿で、神様の前に出て礼拝をしたい、
また、そのありのままの自分を愛してくれている神様を伝えたい…
そんな思いから、普段着でメッセージもさせてもらっています。

他の教会では、そうもいかず、やはりこのようなスーツを着ていくんですけれども、
そういったわけで、普段着で礼拝することが赦されているというのは、私にとって、
大変、ありがたい話なんです。

総会の時に、皆さんが教会堂のイメージとして、多く掲げられていたひとつには、
「家」ということ、あるいはこの家族的な交わり、雰囲気を大切にしたい…という
意見だったと思います。
 
普通、会堂建設というと、多かれ少なかれ、もめるというのが常でして、それは
どのくらいの予算の建物を立てるのか、そのお金をどうするのか、どのくらい借金して、
月々いくら献金しなくてはならないとか…、それは単にお金の問題ではなくて、
その献金が負担に感じる人もいて、会堂が大切なのか、それとも人が大切なのか…、
何を大切にするのか…、ぐちゃぐちゃくちゃと、一悶着あったりするものです。

静岡の母教会でも、まだ小さかった時ですが、そういうことがありましたし、
ほかの教会に通っている時も、そうでした。
 
それに比べると、聖望教会は、やっぱ違うよな…と、つくづく思うんですよね。
決して建物自体が目的ではなく、この交わりを維持、継続、発展させていくために
必要な建物…であって、逆に言うならば、この交わりを損なうような会堂建設では
あってほしくない…という共通の認識がすでに出来上がっていると思うのです。

そこで今日は、そんな皆さんと一緒に、教会について考えてみたいと思うのですが、
教会の初期の頃に起きた、アナニア・サッピラ夫婦の事件を題材にしながら、
「教会のあり方」ってなんなんだろう…ということを、皆さんと一緒に考えて
みたいんです。

皆さんだったら、教会で起きたこの事件をどのように考えるでしょうか。。。

単純に受け止めてしまうと、アナニア、サッピラという夫婦が、献金を誤魔化して、
神に打たれて死んだ…ということになろうかと思います。

多くの聖書注解でも、このアナニア・サッピラ夫婦の献金のあり方を問題視して、
教会の必要に応えず、自分たちのために一部を残しておいたのは罪が重いとか、
一部を残しておくことは自由だけれども、神の前に偽りがあったことが問題だったとか、
とにかく、この夫婦がいけない、この夫婦に罪があったというのが主流の意見なんですね。

でも、皆さんだったら、この事件を見たときに、どのように考えるでしょうか。。。
別に、間違えてもいいんです。「自ら考える」ということが、今日のポイントでも
あるんです。

正直、私は納得できないんですよね。
アナニア、サッピラ夫婦に偽り、問題があったのは確かかもしれません。
でも、その時の、ペテロの対応に問題はなかったのか、周りにいた教会の人たちに
問題はなかったのか…、その視点にかけているような気がします。

そこで、これから皆さんにお話するのは、少数派の解釈になるわけですが、
ぜひ、皆さんにも、どうなんだ?ということを考えてもらいたいと思うんです。

さて、イエス様が天に昇られて、弟子たちを中心に宣教が開始され、
そこに信じる人たちが群れとなって、そこに初代の教会が形成されるようになってきた
わけですね。

 4:32 信じた者の群れは、心と思いを一つにして、だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。
 4:33 使徒たちは、主イエスの復活を非常に力強くあかしし、大きな恵みがそのすべての者の上にあった。
 4:34 彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、
 4:35 使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。

さあ、皆さんはこの初期の教会の姿をどのように思うでしょうか…。
ある意味、理想的といえば理想的。順調といえば順調。
美しい教会の姿のように見えるかもしれません。

…が、これを、もし私たちが真似したら、どうでしょうか。正直言って、続きますか?
地所や家、持ち物を売っては、それを全部、教会に捧げちゃうんです。
余っている土地ならまだしもね、家を売ったら、その後、住む場所は、どうするんでしょうね…。
献金されるものを分け合いながら、共同生活することになるわけでしょうが、
バルナバにいたっては、畑を売っています。

 4:36 キプロス生まれのレビ人で、使徒たちによってバルナバ(訳すと、慰めの子)と呼ばれていたヨセフも、
 4:37 畑を持っていたので、それを売り、その代金を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

そもそも「畑」って何でしょう…。作物を取って、収穫を得る。仕事、収入源、これが畑です。
畑を持っていれば、そこで採れた作物を食べることもできれば、作物を売って現金収入を得る
事もできます。

ところが、自分は畑を持っているからといって、それを売ってしまうんですね。
つまり、仕事、収入源を断ってしまう。確かに、畑を売れば、その時は、まとまったお金に
なるかもしれません。でも、それ以上の収入、仕事は失ってしまうわけですよね。

つまり、貯金を切り崩して、生活していくようなものだったわけです。
事実として、この後、エルサレムの教会は、経済的に困窮していくことになります。
それでも、誰も疑わず、「皆、心と思いを一つ」にしてしまっていたんです。
悪く言えば、誰ひとりとして「考えていなかった」んです。
そんな時も時に、このアナニア・サッピラという夫婦の事件が起きてしまったわけです。

 5:1 ところが、アナニヤという人は、妻のサッピラとともにその持ち物を売り、
 5:2 妻も承知のうえで、その代金の一部を残しておき、ある部分を持って来て、使徒たちの足もとに置いた。

彼らは、なぜ代金の一部を残しておいたんでしょう…。
もちろん私利私欲のために、自分たちのものにして置きたかったのかもしれません。
でも、もしかしたら、将来に不安を感じはじめていたのかもしれませんよね。
このまま売っては教会で使い、売っては教会で使いしていけば、絶対に持たなくなる…
そう考えたのかもしれません。

だったら、そういえばいいじゃん…って思うでしょ。
でも、使徒をはじめ、周りのクリスチャンも、みんな「心と思いを一つにして」たんですよ。
「だれひとりその持ち物を自分のものと言わず…」、誰一人言わないんです。
いや、言えない暗黙のルールが出来上がっていたんです。
「すべてを共有にしていた。」んです。

そんな中で、自分だけ、これは自分のものだと言えますか? 言えないですよね〜。

とにもかくにも、そこで、アナニアとサッピラは、夫婦で考えたわけですよ。
まあここは一つ、黙って少し残しておいて、一応、全部ってことにしておくか。。。
それで、それを全てかのように捧げたわけです。

みなさん、どうでしょう。どう考えますか。

いやいや、神様の前に欺きがあってはならない。それは罪だ。
ペテロだって、そう言っているじゃないですか。
だから、神に打たれて、死んだんじゃないですか…?

うーん。なるほど…。やはり、そうなのでしょうか。
それでは、ペテロさんの発言を見てみましょう。

5:3 そこで、ペテロがこう言った。「アナニヤ。どうしてあなたはサタンに心を奪われ、
聖霊を欺いて、地所の代金の一部を自分のために残しておいたのか。
 5:4 それはもともとあなたのものであり、売ってからもあなたの自由になったのではないか。
なぜこのようなことをたくらんだのか。あなたは人を欺いたのではなく、神を欺いたのだ。」

なるほど。確かに言っていますね。さあ、みなさん、どう思います…?
考えてくださいね。それが今日のテーマです。

ペテロが、もしここで正しく神の導きで神の言葉を語っているなら、
アーメン、そのとおりでいいんですよ。
でも、ペテロ自身の思いで、ペテロの言葉だったらどうでしょう。
ここにペテロが、「聖霊によって」とか「聖霊に満たされて」とか書かれていないんです。

ペテロは、あくまで人です。人だから、間違いもあります。
聖書に書いてあるから、聖霊の導きだから、神の教会だから、指導的な立場にある人だから
間違いない…というのは、大きな間違いなんです。
多くの場合、クリスチャンは、「聖書は神の言葉」、正しいことが書かれていると考えて
読んでいると思います。それはそれである意味、正しいんですが、それがゆえに、この
ペテロの発言まで、正しいと思い込んで、広く読まれてしまっている箇所なのかもしれません。

逆に、人には、間違いがある。…これも聖書の指し示している正しさです。
だとすると、本当に正しい発言かどうかは、検討しなくてはいけないですよね。

もしここでペテロが言うとおり、本当に自由に献金すればいいということが、
教会の中に共通理解として広く浸透していたとするなら、アナニアも誤魔化す必要も
なかったはずです。
アナニアは、ただ自分が捧げたいと思った分を捧げたというだけの話です。
何の問題もなかったはずですよね。
ただ捧げたいと思った分を、捧げただけ…ですよね。

でも、そうは捉えていなかったし、だから、ペテロも咎めたわけでしょ。
ここに矛盾があります。

そもそも、ペテロだって、サタンに心奪われ、イエス・キリストを三度知らないと
いったことだって、あったんですよね。
あなたは人を欺いたのではなく、神を否定したのじゃ〜ってなものじゃないですか。

でも、そんなペテロに、三度「わたしを愛するか…」「わたしの羊を飼いなさい」
そう語りかけてくれたのは、誰ですか。
イエス・キリストです。この方こそ、神です。

この時のペテロの言葉に、そんなイエス・キリストの心はあるでしょうか。
イエス様だったら、アナニアになんて語りかけたでしょう。
いきなり鬼の首でも取ったかのように、ばっさり切りつけるでしょうか。
ペテロは赦されて、アナニアは赦されない…そんなことはないですよね。

アナニアのためにも、十字架を背負う…それがイエス・キリストです。
そのイエス・キリストの十字架のゆえに、神の裁きは、すでに終わったはずですよね。

アナニアにも罪の告白、悔い改めは必要かもしれないですが、これが、もし神の裁きに
よって死んだのだとすると、私たちの信仰、信じる信仰による救い…は否定されます。

でも、実に、ここに神が打ったとか、主の使いが打ったとも、書かれていないんですよ。
5:5 アナニヤはこのことばを聞くと、倒れて息が絶えた。

ペテロが言い放った「人ではなく、神を欺いたのだ」。
アナニアは、この恐ろしい言葉によって、ショック死してしまうんです。
大使徒ペテロに、いきなりばっさり切られちゃったものだから、グサっと来ちゃったん
ですよね。

その時、周りにいたクリスチャンたちの反応、態度は、どうでしょう…。
残念ながら、「ペテロさん、それは、おかしいんじゃないですか」といえる人たちも
いないんです。
むしろ、教会の人たちは、「非常な恐れ」、恐ろしさのあまり、誰も何も言えなくなって
しまったんです。

そして、これを聞いたすべての人に、非常な恐れが生じた。
5:6 青年たちは立って、彼を包み、運び出して葬った。
 5:7 三時間ほどたって、彼の妻はこの出来事を知らずにはいって来た。

どうでしょう。皆さん、おかしいとは思いませんか…?

旦那さんが死んだのに、奥さんが知らないままなんですよ。
奥さんがやってきても、皆、黙ったままなんです。
聖望教会の人たちなら、絶対に黙ってられない…、サッピラを見つけた瞬間、一斉に
話し出そうな気がするじゃないですか。
でも、奥さんが知らないうちに、もうすでに葬っているんです。

この時の教会の異常さが分かると思います。これでは正しいも何もないですよね。
でも、そういった異常さを見失わせてしまうものがあるんですね。
聖書に書いてあるから、聖霊に満たされているから、使徒の教会だから、間違いない…
そういう先入観です。

しかも…、
5:8 ペテロは彼女にこう言った。
「あなたがたは地所をこの値段で売ったのですか。私に言いなさい。」
 彼女は「はい。その値段です。」と言った。

いいですか。もうすでに人一人、死んでいるんですよね。それも、ご主人ですよ。
地所の値段だとか、欺いているとかいう前に、伝えなきゃいけないことってありますよね。
この時のペテロに、愛と哀れみは、あるでしょうか…。

5:9 そこで、ペテロは彼女に言った。
「どうしてあなたがたは心を合わせて、主の御霊を試みたのですか。
 見なさい、あなたの夫を葬った者たちが、戸口に来ていて、あなたをも運び出します。」

人一人の命の重さすら、見失っているんです。
迷える一匹の羊を探し出す羊飼いの心、キリストの心は、ここにあるでしょうか。
この時のペテロ自身、本当に聖霊の導きの中にいたと言えるでしょうか。
実は、夫婦二人から、自分が試されて、腹を立てただけとは言えないのでしょうか…。

5:10 すると彼女は、たちまちペテロの足もとに倒れ、息が絶えた。はいって来た
青年たちは、彼女が死んだのを見て、運び出し、夫のそばに葬った。
5:11 そして、教会全体と、このことを聞いたすべての人たちとに、非常な恐れが生じた。

恐れは恐れでも、常にあるべき神様に対する畏敬の念ではなく、常にあらず、非常な恐れです。
まさしく恐怖が教会を支配したんです。

アナニア、サッピラも、ペテロも、周りにいたクリスチャンも、ユダヤ人です。
小さい時から律法主義的な教育によって、罪を犯したら神にやられる、神に裁かれる…と
散々聞いてきた人たちです。
それがイエス・キリストによって、その世界から開放されて、神の愛と赦しの世界に
たどり着けたと思ったら、急転直下、本当に死ぬほど怖い言葉を投げかけられたわけ
ですよね。

でも、これがペテロをはじめ使徒たちの限界であり、初代教会の限界だったわけです。
アナニア、サッピラ夫婦にも確かに問題はありました。
でも、ペテロにも、周りにいたクリスチャン、教会にも問題があったんです。

無理な教会運営のあり方、福音理解の未熟さ、指導力の限界、始まったばかりの初代
教会の中で、いろんな無理や限界が重なって起きたのが、このアナニア・サッピラ夫婦の
悲しい事件であったのではないでしょうか。

もしこれを正しい、間違いない、聖霊に導かれた理想的な教会と思って受け止めてしまうと、
とんでもない間違いにもなりうるわけです。

そんな時に、おかしな現象が起きたんです。

5:12 また、使徒たちの手によって、多くのしるしと不思議なわざが人々の間で行なわれた。みなは一つ心になってソロモンの廊にいた。
 5:13 ほかの人々は、ひとりもこの交わりに加わろうとしなかったが、その人々は彼らを尊敬していた。
 5:14 そればかりか、主を信じる者は男も女もますますふえていった。

使徒たちの手によって、しるしや不思議な業が行われ、尊敬もされ、主を信じる人も増えて
いったにもかかわらず、ひとりもこの交わり=初代教会には加わろうとはしなかったんです。

不思議ですよね…。
教会が、イエス・キリストを見失った瞬間に、主を信じる人は増えても、人々はその輪に
加わらなくなったんです。
教会とは、「イエス・キリストの下に集まった人の群れ」のことを言います。

ペテロも人です。アナニア、サッピラ夫婦も、その周りのクリスチャンも、人です。
その人の集まりに、間違いや問題が発生しないかというと決してそうではない。
人だから、多かれ少なかれ、間違いや失敗もあるんです。

でも、そういった人間的な限界を超えて、聖霊、神様は救いの御業を進めていったわけです。

初代教会では、この後も、様々な問題や失敗も起きる中で、やがてパウロのような聖書に
精通した人物も起こされ、少しずつ学びながら改め、成長していく姿が、この使徒の働きでは
描かれています。決して、はじめから理想的で、完璧な教会ではなかったんです。

ルカも、それを、いいも悪いもなく、ただありのまま、事実を事実として描いたような気がします。
だから私たちは、その失敗からも学ぶことができるわけです。

聖霊に導かれているから、使徒だから、神の教会だから、初代教会だから、間違いはない…
ということは絶対にありません。
いろんな人が集まれば、様々な問題や失敗も必ず起きてきます。
それは、聖望教会も同じです。

その時にどうするのか…。
決して、ただ闇雲に心を一つにしていくことだけが、能ではありません。
決して、無理して、我慢して、全てを捧げ、犠牲を払っていくことでもありません。

自分たちの限界を認めながらも、自分にできることを、忠実にこなしていくことなんですよね。
私たち一人一人が、この集まりを維持継続していくために、今、群れに何が必要で、
自分には何ができるのか、その都度、その都度、考えていくことなんです。

その時に大切なのは、あのイエス様だったら、どう考えるだろう…
イエス様だったら、なんと言うだろう…
あのカルバリの十字架を背負い、今も生きておられるイエス・キリストは、
今、この状況を、どんなふうに見ているだろう…

そんなイエス様の目、イエス様の心で考える…
この視点を、私たち一人一人、忘れずにいたいものですよね。

聖望キリストの教会の基本精神の第一条には、こうあります。
1. この教会は、特定の教派・教団に属さず超教派であり、リーダー、主宰者は主イエス・キリストである。

これが掲げれていることは、本当にすばらしいことだと思うのです。
これは本当に大切にしたいですよね。

教会とは、「イエス・キリストの下に集まった人の群れ」のことを言います。
最後に、エペソ3:14〜21を皆さんと分かち合って、終わりにしたいと思います。

こういうわけで、私はひざをかがめて、
天上と地上で家族と呼ばれる、すべてのものの名の元である父の前に祈ります。

どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、
あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。

また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。

こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。

どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて
豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。
アーメン。

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2009年06月21日

賢い娘と愚かな娘のたとえ話 マタイ25:1〜13

今日のたとえ話は、たとえ話の中でも、受け取りようによっては、ちょっと怖いような、ある意味、危ないたとえ話から取り上げてみました。今日は、単純に、1つのたとえ話の意味をお話するのではなく、その読み方、コツまでつかんでもらえればなと思っています。


25:1 そこで、天の御国は、たとえて言えば、それぞれがともしびを持って、花婿を出迎える十人の娘のようです。
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。
25:4 賢い娘たちは、自分のともしびといっしょに、入れ物に油を入れて持っていた。
25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』
25:10 そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意のできていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。
25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。
25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

 
油を用意していた5人の賢い娘と、油を用意していなかった5人の愚かな娘。
クリスチャンと言えども、5人は救われ、5人は取り残される…
そう読み取っても不思議でもない、そんな箇所です。
 
皆さんどう思いますか?
このたとえ話を皆さんは、どのように理解するでしょうか。
 
クリスチャンと言えども、5人は救われ、5人は取り残される…
だとすれば、「油」の意味するところは何でしょう。

ある人は、信仰というかもしれません。ある人は、聖霊というかもしれません。
ともしびの灯りは、信仰の灯りで、油は聖霊のこと。
1度は信じてクリスチャンになっても、聖霊が注がれていなければ、熱心に祈り、御言葉にしたがっていなくては、信仰のともしびも、やがて消えてしまう…。
クリスチャンでも、最終的に救われる確立は50%。5分と5分。
5人は救われ、5人は取り残される…
 
どうでしょう。考えてみてください。
この解釈は、正しいでしょうか、間違っているでしょうか…。

なあんて言うからには、答えは、もちろん間違っているんですけれどもね。

でも、そう誠しやかに語られたら、そうなのか…って思ってしまいません?
これは、実際に、今までのキリスト教会の中にあった解釈の1つです。
でも、そこに、違和感を感じてほしいんです。

確かに、このたとえ話だけを読んだら、文章的な意味では、そう解釈できる話でもあるかもしれません。

でも、まず、ここがポイント。
どんな文章でも、前後の文脈によって、その言葉の意味は決まります。これは、聖書に限らず、いかなる文章を読み取る上でも鉄則なんです。
聖書も同じです。必ず、前後の文脈があります。
どんな状況で、何について語られているのか、その場面、背景から、読み取るのが自然ですよね。そうしないと、イエス様が考えても思ってもみなかった、深い、深い、たとえ話の解釈も生まれてきてしまうんです。

さらに言えば、聖書全体、イエス様が全生涯、命を賭けて伝えたかったこと、愛と赦し、十字架と復活、信じる信仰によって救われる…この福音の本質を踏まえて読み取ることなんです。

もうその瞬間に、クリスチャンといえども、5人は救われ、5人は取り残される…、この解釈は間違いなく違ってきますよね。
むしろ、あのイエス様なら、なんとかこの愚かな5人を助けようとするに違いない、いや、この愚かな5人ほど受け入れようとするに違いない。
何かがおかしい。イエス様が言いたいことは、別にある。
そういうセンサーを、ぜひピピっと働かせてほしいんです。

そもそも、たとえ話は、決して、わかりやすく語ることが目的でもないんですね。
イエス様の周りには、パリサイ派、律法主義者、あるいは祭司たち、イエス様の説く福音に反対する人たちも大勢いたわけです。そういった人たちからの余計な反論、攻撃をかわすため、わざと真理をぼかしてもいるんです。

「耳のあるものは、聞きなさい」

わかる人にはわかるように、でもイエス様の考え、福音に反対する人、本気で聞くつもりのない人には、ぼやけていて話が分からなくなっているわけです。

そこに隠されたイエス様が本当に語りたいこと、表面的な字面ではなく、その心を知る、それがたとえ話の味わいなんです。
 
では、このたとえで、イエス様は何を語りたかったのか、文脈、聖書全体から、イエス様の心に迫ってみましょう。

もともと、前の24章から、世の終わり、終末について語られている場面です。

24:3 イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」

これが、話の始まりです。

世の終わりが近づく時、いろいろな患難が起こる、にせ預言者やにせキリストが出てくる、反キリスト、反福音勢力が起こってくる…

24:23 そのとき、『そら、キリストがここにいる。』とか、『そこにいる。』とか言う者があっても、信じてはいけません。
24:24 にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

みなさん、ここ注意してくださいね。
にせキリスト、にせ預言者って、自分のこと、なんと言うか知っています?
まさか、正直に、私は偽者です…なんて言わないですよね。
反キリストの名前も。実は「キリスト」なんです。そのキリストの名の下、正当な預言者、伝道者、牧師として活動するわけですよ。

で、何をするの?福音に反対すること、福音の真理を曲げてくるんです。

信じるだけでは、救われない。
5人は救われ、5人は取り残される…
だから伝道しなさい、人を集めなさい、そして一生懸命、献金しなさい…。

本当に、そういう話にもなりかねない。いや、実際、起こっているのかもしれません。
キリスト教も、本物か偽者かもわからなくなるような、混乱の時代が来るというわけです。
でも、その最後の最後に、けじめとして、本物のイエス様が、再び来られる…というわけですね。

ある日突然、その時には、一人は引き上げられ、一人は取り残される…。
またまた、怖くなるような話が出てきますが、これがクリスチャンだけのことを指しているのではなく、この世の全体での話だということはわかると思います。
これも決して1対1、確率が50%という意味合いではありません。
この時、世にいるクリスチャンは、みな引き上げられます。
しかし、世の終わりは、ある日突然、思いがけない時、でも、いざ来るとなったら、瞬く間にやってくる…そういう話なんです。

さて、そんな話の中に、このたとえ話も出てきます。
結論を先に言ってしまえば、ここでイエス様がいいたいのは、

25:13 だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

50%が問題ではないんです。
混乱の時、終末の時を、意識していなさい。警戒していなさい。目を覚ましていなさい。
ここが、イエス様の一番言いたい結論です。

イエス様が世の終わりに関して、1つは、瞬く間にやってくるということ、もう一つは、その来るのは、遅くなるということだったようです。
このたとえ話でも、花婿の到着が遅くなり、夜中になっています。

実際に、エルサレムの教会では、イエス様は、もっと早くに来ると思っていたようです。
だから、持ち物や土地を売っては、みなと分配し、共有していたことが、使徒の働きには出てきます。よもすると、理想的な、美しい教会の姿として語られたりもします。

ですが、土地を売ってしまうということは、畑で生産する能力もなくなるわけですよね。
ただ、ひたすら貯金を食いつぶしていくようなものです。

ところが、いつまでたっても、イエス様はやってこない。
やがて、エルサレムの教会では、経済的に困窮していくようになってしまうんです。本当に、物質的な油切れを起こし始めたんですね。
そこで、パウロは各地方の教会へ、一つの募金を募り、エルサレムの教会を経済的に支援していたようです。

かつて、日本のキリスト教会でも、また韓国でも、強力な指導者が、私は夢を見た。夢でお告げを受けた。何年何月にイエス・キリストが再び来られる…そう予言して、話題になったことがありました。

それを信じた信徒たちは、みな仕事をやめ、財産を売り払い、すべてを献金して、山に登り、ああ信じない人たちは愚かな娘たちのように取り残されるのかもしれない、でも、私たちは大丈夫、万全の用意をしたつもりで、イエス・キリストを待ち望むわけですよ。

ところが、こないんです。来るわけもないんです。
来るとしたら、その指導者に、損害賠償の裁判がやってくる。
正しく理解していないと、こういう話も、起こるんです。

その日、その時は誰も知らない。わたしも知らない…イエス様ですら知らないですもん。
なんで、人間様ちゃんが、知ることになるんでしょう。
いや、むしろ、遅くなる。
全世界に福音が届けられ、一人でも救えるうちは、最後の最後まで、ぎりぎりまで粘る。
これがイエス様の心です。

でも、遅くなればなるほど、いつ来るんだろうか…、
本当に来るんだろうか…、
だんだんと世の終わりに対する意識も薄れてしまうのも、私たちかもしれません。

25:5 花婿が来るのが遅れたので、みな、うとうとして眠り始めた。
25:6 ところが、夜中になって、『そら、花婿だ。迎えに出よ。』と叫ぶ声がした。
25:7 娘たちは、みな起きて、自分のともしびを整えた。
25:8 ところが愚かな娘たちは、賢い娘たちに言った。『油を少し私たちに分けてください。私たちのともしびは消えそうです。』
25:9 しかし、賢い娘たちは答えて言った。『いいえ、あなたがたに分けてあげるにはとうてい足りません。それよりも店に行って、自分のをお買いなさい。』

もし、この油が、信仰か、聖霊だとするならどうでしょう。
信仰や聖霊を分けてあげられない。そういう意味なら、ありうるかもしれません。
ですが、信仰や、聖霊って…、店に行って、買いに行くようなものなんでしょうか?
その瞬間、話の筋が見えなくなります。

大体、花嫁の友達を呼んで、夜遅くまで、花婿を出迎えるために待たせているわけでしょ?
普通だったら、ともしびも、油も、この家の主人、つまり花嫁の父親が、用意すべきものですよね。
家の中にも当然、ランプや油があるはずなんです。
なのに、どうして家の主人に求めるのではなく、わざわざ店へ買いに行かせたんでしょう?

私に言わせれば、この賢い娘たち…、これがクリスチャンだったら、相当、意地悪な娘のように思えてしますよね。
やっぱり女には裏があるゆーか、女は怖いぜよ…そういう話にもなってきそうです。

しかも、この後、愚かな娘たちが、油を買って、戻ってくると、宴会が始まっていて、扉が閉められてしまっているんですよね。

25:11 そのあとで、ほかの娘たちも来て、『ご主人さま、ご主人さま。あけてください。』と言った。
25:12 しかし、彼は答えて、『確かなところ、私はあなたがたを知りません。』と言った。

いいですか。
自分の家の娘と結婚する花婿を迎えるために来てくれた人たちですよね。
しかも、わざわざ、夜中に油を買いに行ってきたのに、間に合わなかったとはいえ、入れてもらえない…。この主人も、ずいぶん冷徹と言うか、薄情だと思いません?

イエスさまのたとえ話の中には、当時、よくある話を語りながら、そこにありえない、不可解な点が出てきます。
実は、ここがイエス様が言いたいところ、イエス様のオリジナルになっている部分なんです。

本当に、世の終わりが来る時、わたしが来る時、それは一瞬の出来事、
実際には、油を売ってる暇もなければ、油を買いに行ってる時間もありません。
その日、その時は誰も知らない。瞬く間に来る。

だから、目を覚ましていなさい…。これが、言いたいんです。

さて、私たちにとっての終末。皆さんの中では、どういう位置づけになっているでしょうか。
世の終わりというと、まだ遠い先のように感じてしまうかもしれません。
でも、私たちにとって、自分の死を迎える時…これも一つの小さな世の終わりなんです。
もちろん、この世はそのまま続くかもしれませんよ。
でも、自分にとっての、この世の時が終わる、それが死という瞬間なんですよね。

私も、まだ30年くらいは生きるつもりでいますけどね。
でも、帰り道、車ではねられて、死んでしまうのかもしれない。
この世での「死」は、誰にでも間違いなくやってきます。厳粛です。
それは、今日かもしれないし、30年先かもしれない、わからないわけですよ。

私たちは、信仰によって、永遠の命を受けています。
信じる信仰によって、間違いなく、天国に行きます。
でも、この世での命が、いつ終わりになってもいいように、いい意味で緊張感を持って、「今」というこの瞬間、瞬間を、どれだけ大切に生きているでしょうか。
それが油を用意しているか、どうか…ではないでしょうか。

いざ、その日が来てから、いや、もうちょっと待ってくださいとか、
あ、これをしとけばよかったとか、まだやってなかったとか、
ちょっと店に油を買いに行ってきますから…なんて時間は、もうないんですよね。

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないからです。

あえて、賢い娘か、愚かな娘かといわれれば、私たちは「愚かな娘」なのかもしれないですよね。
でも、実際に、そんな愚かな娘にもかかわらず、神の恵みと憐れみのゆえに、賢い娘のように天の御国に迎え入れられているんです。
これが福音の真理です。

ですが、一方で、本当に長年、救い主を待ち望んでいながら、迎えることができていなかった人たちがいました。
それが、パリサイ派や律法主義者、そして祭司たちです。

ここに、福音の不思議な逆転があります。
おそらく祭司たちがこのたとえ話を聞いたならば、自分たちこそ「賢い娘」のつもりでいたことでしょう。
彼らは、ある意味、本当に待ち望み、用意も万端に整えているつもりだったんです。
ところが、いざ実際に、救い主が来たら、彼らはイエス様のことを迎え入れられなかった。
それは、「愚かな娘」のように思っていた遊女、取税人のような罪人たちのことを、イエス様が赦し、愛したからですよね。
それで祭司たちは、その救い主を十字架に付けて、抹殺すらしてしまうわけです。
逆に、そんな彼らから、「愚かな娘」同然に思われていた罪人たちが、救い主を受け入れ、天の御国に入ろうとしていたわけです。

実に、愚かな娘と、賢い娘…、表裏一体、紙一重なんです。
本当に、救い主を迎える気持ちがあるかどうか、それだけでしょう。

 祭司、律法主義者の人たち…。
 あなたがたは、自分が賢い娘かのように思っていますが、
 実は、愚かな娘になっていませんか。
 今は、裁かれないつもり、自分は用意ができているつもりでいますが、
 実際に、わたしを迎え入れようとはしていないではないですか…。
 本当に、この世の終わりが来た時、あなたがたを受け入れるのは誰なのでしょう…
 これからわたしは、あなたがたのためにも十字架を背負います。
 どうか愚かな娘のように閉め出されることがないように、わたしを受け入れてください。

 これが、イエス様の心です。

私たちも、ついうっかりすれば、「賢い娘」になったつもりで、「愚かな娘」になっているようなこともあるのかもしれませんよね。

でも、私たちは、基本、愚かな娘、放蕩息子なんです。
その愚かな娘、放蕩息子が家に帰る時、父は喜んで迎えてくださる…これが福音の本質です。
そんなイエス様の心を心に蓄えて、今日という日を歩んで生きたいですよね。
posted by holyhope at 23:14| Comment(4) | TrackBack(0) | メッセージ | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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