2009年06月17日

求め続ける祈り ルカ11:1〜13

 おはようございます。
 雨も降ったり、やんだりで、だんだんと蒸し暑くもなってきましたが、みなさん、お体、体調のほうは、大丈夫でしょうか。
 
前回、少しお話しましたが、最近、私たちの体、あるいは脳の働きについて書かれた本に少々はまっておりまして、そういった本を読んでいくと、実に不思議なんですよね。

 それらの本を書いた人たちは、医学者であったり、脳科学者であったりして、いってみればクリスチャンではありません。ところが、クリスチャンである私が、その内容を読んでいくと、どこか聖書で言われていることにつながって来るんですね。
 実に、私たちのこの体の仕組み、生業を見ていくと、そこに神の言葉が刻まれている…、まさしく神の言葉によって創られているということがわかるのです。

 なんてことをいうと、いやいや、そんなことは、はじめから信じていますよ…と言われてしまうところなのかもしれません。
 
 神が言葉によって、私たち人間を創られた…確かに、私もそう信じてはいました。でも、そこまでなんですよね。
 具体的に、神様が、どんなふうに私たち人間の体を創られているの…そこまでは深く知らないし、突っ込んで考えない。
 クリスチャンではない人たちにしてみれば、えー、言葉なんかで創ったの?そんなの信じられない…ということになるところでしょう。

 でも、今日は「祈り」ということを取り上げますが、私たち人間の体が、実は「祈る」ように創られているとしたら、ちょっと、なんか、不思議じゃありません?

 さて、今日の箇所は、弟子たちが主イエスに「私たちにも祈りを教えてください。」とたずねるところから始まっています。
 主イエスは、ここで2つの祈りを教えています。

 1つ目の主の祈り…これは、まさしく心静めて、平安を祈る祈りと言えるでしょう。
もう1つは「求め、捜し、門をたたく」祈り、それは自ら積極的に行動する祈りといえると思います。
 今日は、「求め続ける祈り」と題して、後半の2つ目の祈りに主眼を置いているわけですが、まずその前に、この平安を求める主の祈りと、活発的に動く緊張の中で求める祈り、この2つのバランスの中で語られていることに注目したいのです。

 前回もお話しましたが、私たちの体の自律神経には、平安、リラックスモードの副交感神経と、緊張モードの交感神経の二種類がありまして、お互いに相反する働きをしながら作用して、両方がバランスよく働く必要があるんですね。体自体がそのように創られているわけです。逆に、このバランスが崩れると、私たちの体にも不具合が発生するんです。

 私たちは、ある程度の安定を求めます。それも、実は脳の働きでもあるんです。
不安や緊張の中にあることは、交感神経だけが活発に働くことになり、いわゆるストレスになるわけです。血圧が上がり、血糖値があがり、よく言えば体全体が活動モードになるわけです。
 特に現代に生きる私たちは、本来あるべき自然な状態から離れていますから、どうしても交感神経が優位になりがち。ですから意識して心を静めて、安らかに平安を求める祈りというものもまず必要不可欠となるわけです。言うなれば、休みの日や、朝晩、安らぎを得るために祈る祈りです。

 聖望教会では、この主の祈りを、子供たちにも分かるような言葉で、かなりゆっくり祈るじゃないですか?
 ところが、他の教会に行くと、むちゃくちゃ早いときもあるんですよね。
私が前にいた会社でも、韓国人のクリスチャンたちが、朝の集会みたいのをやっていて、その最後に、じゃあ、主の祈りをして終わりましょう…なんて時もあるんですが、そしたら、めっちゃくちゃ早いんですよね。
天にましますわれらの父よ、願わくば御名をあがめさせたまえ、御国をきたらせたまえ…韓国人なのに、日本人の私が追いつかないくらいのスピードで、祈るわけですね。
でも、主の祈りの本質からいくと、それでは安心も平安もなかろう…いう気がします。

 天にいます、私たちの父よ…。
 イエス様は、神様のことを「父」、それも「お父ちゃん」とか「パパ」とか、子供が呼びかける言葉で紹介したわけですが、
 そんな父なる神の御名があがめられますように、御国が来ますように、
御心が天になるこどく、地にもなりますように。。。
 まさに神の平安、神の守り…、それは家で子供が父親の守りの中で安心するように、天の御国にある神の平安、神の守りが、まさしく私たちが生活するこの地にあっても満たされますように…という祈りなわけです。

 ですから、1日の始まる前にでも、終わった後にでも、深呼吸でもしながら、ゆっくりと、そのことを願い、また父なる神が私たちを守っていてくださることを感じながら、祈る時に、この主の祈りの意味、味わいもでてくるわけです。
 
 では、そういった平安の祈りだけでいいのかというと、決して、そうではない。
私たちの日常生活の間には、様々な必要や問題が起きてくるわけですよ。
それは決してネガティブなことばかりではなく、私たちが何かを求め、新しいことに意欲的に取り組むとき、チャレンジする時、そこには生きがいがあり、感動があり、喜びや感謝も生まれてくる。
平安と緊張、あるいは挑戦…、このバランスがとても大切なんですね。
実際に、脳を活性化させる喜びのホルモン、ドーパミンが放出され、心も体も生き生きとしてくるんだそうです。

 そこで、2つ目の祈りもあるのですが、この祈りは、静かに手を組んで祈る…というよりは、「求め、捜し、そして門をたたく」…すなわち実践、行動が含まれている点に注目したいところです。
 
 さてイエス様は、ここのたとえ話で、結構とんでもないことを言っています。でも、たとえ話では、そのとんでもない部分が、鍵になる部分です。
11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。
11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。

これはある話です。
今と違って、夜らくだに乗って旅をしますから、真夜中に突然、やってくる…これはある話です。

11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

これも当然な話ですよね。でも、次はむちゃくちゃな話です。
11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

友達だからと言うことで与えることをしないでも…って言っていますが、これを本当にやり続けたら、いい迷惑というか、本当に友達をなくしそうな気がします。新改訳聖書の下の註を見てみると、「頼み続けるので」というのは、「あつかましさのゆえに」ともなっています。人にしたらあつかましい限りですが、少なくとも神様に対しては、あつかましいくらいに、祈り求め続けなさい…ということなんですよね。

ここでイエス様が語っている「求めなさい」ということ、この「求めなさい」はギリシャ語の原文で、現在形。求め続けなさい…とも訳していい言葉です。

求め続けなさい。捜し続けなさい。門をたたいて、たたいて、なお、たたき続けなさい。
そう語っているんです。

 この求め、捜し、門をたたく…というプロセス、実に私たちが何かを求める時、この脳が、まったく同じプロセスを踏むんです。

 ある意味、当たり前のような話なんですが、わかりやすく説明するために、おいしいラーメンが食べたいと思ったとしましょう。
 どんなにおいしいラーメン食べたいなあ…と、いくら思っていたとしても、それだけでは、おいしいラーメンにはありつけないですよね。

 ラーメンが食べたいな…と求めた瞬間に、普通、私たちの脳は、おいしいラーメンを食べられる方法、手段を捜し求めているんです。
 自分で作る方法もあるだろうし、過去に食べた記憶の中からおいしいラーメン屋さんを思い浮かべるかもしれません。いや、もっと違う他のラーメンが食べたいと思えば、情報誌か何かで、ラーメン屋さんを捜します。
 そして、これ!というラーメン屋さんが見つかったら、門をたたく、のれんをくぐる…すなわち、行動に移す。もしかしたら1軒目はいまいちかもしれません。ならば、2軒目、3軒目と捜し求めて、それで、はじめて、おいしいラーメンにもありつけるわけです。

 本当にそんなの当たり前じゃないかと思われるかもしれないんですが、でも、私たちが意識することなく、私たちの脳は、あらゆる日常生活の場面で、「求め、捜し、門をたたく」…このプロセスを繰り返し働かせているわけです。

 つまり見方を変えれば、実は、私たちの日常の全てが「祈り」そのものなんですね。
決して特別なことではない。私たちの脳の回路に、もうあらかじめ、この「祈り」のプロセスはセットされているともいえると思います。

ところが、さまざまな出来事の中には「求め、捜し、門をたたく」このプロセスがうまくいかなくなることもありうるんですよね。
求め、捜しても、見つからない。門をたたいても、開かれない。結果、あきらめとなってしまう。
あるいは、何かを求め、捜し、方法や手段も見つかった。
でも、門をたたけない…ということがあるんですよね。

過去に起きた、様々な失敗、挫折、困難の経験によって、その祈りや願い、夢を、気づかないうちに自ら否定してしまっているなんてこともあるような気がします。いわゆるトラウマというやつです。

勇気を出して、いざ門をたたいても、すぐに開かれるとは限りません。
開かれても、それで、すべては解決するとも限りません。
またまた失敗してしまうかもしれないです。
そうしているうちに、求めているはずの願いや夢やをあきらめてしまう、捜すことも、ついには、求めることすらやめていることもあるような気がするんです。

しかし、そんな自分の限界を超えて、「神」という存在により頼みながらも、なお求め、捜し、たたき続けていく…そこに「祈り」があるのでしょう。

蚤の実験の話って知っています?

蚤って…、最近見たことないかな?
猫とか飼っていると、お目にかかることもあると思いますが、1mm、2mmの大きさで、ピョーンって、えらい高くとびよるんですな。

でも、その蚤に、ガラスのコップかぶせるじゃないですか。
そうすると、いつもの調子でピョーンと飛ぶと、頭ぶつけるんですな。
しばらくは飛んでもぶつけ、飛んではぶつけ繰り返すらしいです。でも、そのうちに、ぶつからない程度にしか飛ばなくなる。

それから、ガラスのコップはずしても、ぶつからない程度にしか飛ばなくなるというんです。

私たちも、よもすると、過去という名の目に見えないガラスのコップをかぶせられている…なんてこともあるかもしれないですよね。

でも、イエス様がここで言っているのは、あくまで
求め続けなさい。捜し続けなさい。門をたたいて、たたいて、なお、たたき続けなさい…。

実は、求める…ということには、過去のしがらみから脱出して、将来や未来に目を向けるということでもあるわけです。

大体、最近、こう言っても信じてもらえないんですが、私はそもそも、人前で話すのが大の苦手なんですよ。
今、こうしてしゃべっているのは、すべて、前もって原稿にしてあるからなんですね。
だから、たまにアドリブで話をいれると、頭がこんがらがって、舌が回らなくなるんです。

小学校、中学校くらいまでは、全然、そんなことを意識していなかったように思うんですけどね。むしろ授業中、あほな発言して、怒られていたこともあったんですよ。
でも、大人になってからかもしれないですが、いつの間にか、緊張するようになって、思ったことを口にすることができにくくなっていたんです。

そんな自分だったんですが、イエス・キリストの福音を福音として伝える…という使命というか、願いが起こされたんですが、でも口下手でしょ。どうやって話したらいいのか…って迷いもあったんです。
仕方がないから、まず最初は、自分のお気に入りの先生の物まねから、はじまったんです。
もう、しゃべり方から、内容、話の落とし方まで、すべて物まね。
でも、そうしていくうちに話の間とか、抑揚、強弱だとか、落ちのつけ方だとか、そして、いかに本題を伝えるか…、段々と自分のものにもしてきたんですよね。
それで、ようやくこのくらいには、しゃべられるようになった…というところなんです。
今でも、どうしたら伝えられるか…は、求め続けていますよ。

それは私自身に与えられた夢であり、やりたいことだったわけで、みなさんは、みなさんであるはずです。
かつては描いていたけど、今はあきらめてしまっている自分の夢や希望はありませんか。どうでしょう…。
別に、教会生活、伝道や奉仕といった類でなくてもいいです。
みなさんこの社会で生き、様々な人とかかわりを持って、生活しているわけです。
このたとえ話でも、旅してきた友に与えるパンがなくて、祈り求めていく祈りなんです。
この世に生を受けて、家庭であったり、仕事であったり、いろんな人たちとのかかわりの中で、この社会で何をなすか、人に何を与えるか、そこで自分の命を輝かせる…、こうしたメッセージでも、結局は、社会にむけて語るわけですよね。

11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。
11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。
11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。
11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

なぜ、ここで、求める人には、聖霊なんでしょう…。そんな気がしません?
それはそれでありがたい話なんですけれども、でも、どちらかというとパンを求める時には、パンがほしいかな…って気がするじゃないですか。
でも、パンをください、魚をください、何をください…って求めていても、聖霊なんですよ。聖霊がパンを作ってくれるわけでもないだろうし、なぜ、聖霊なんでしょう…。

それは、あくまで求め続け、捜し続け、門をたたき続けるのは、まず私たち、自分自身だからかもしれません。私たちが、求め続けていく時、様々な困難や壁にもぶつかります。時には、周りや人のせいにしてみたり、自分はだめだと否定したくもなる。
求め続けるのも、案外、大変なんです。

私も旅行会社やっていて、はあ、くじけそうになるというか、自分の能力的な限界を感じることも、しばしばです。おじけづいたり、もう嫌になる時もあったりします。
でも、求め続けるのも自分、探すのも自分、門をたたくのも、あくまで自分。
周りのせいや、自分を否定してみても、事が進むわけでもありません。
そんな時に、私たちに慰めや、励まし、勇気を与えてくれるのが、まさに聖霊…、実に神ご自身です。私たちが、求め、捜し、門をたたき続けていくのは、あくまで自分だとしても、決して一人ではない、その祈りの中に神がともにいて、求め、捜し、門をたたき続けてくださる。

だから、求め続けなさい、捜し続けなさい、門をたたき続けなさい…

モーセが出エジプトの使命を与えられたのも、80歳になってからです。
それも、すんなり実現したわけではなく、エジプトの王と直接交渉し、紅海をわたり、民の反抗にあい、水のない荒野を40年もさまようことになるわけですよ。
最後、約束の地カナンの一歩手前、ヨルダン川の向こう岸まで、たどり着いた時、御年120歳です。
そこまでモーセを支えたものは何でしょう。
もちろん神様の導きや慰め、助けがあったからには違いないですが、モーセ自身、約束の地、乳と蜜の流れる地に行きたい、一歩でいいから踏みしめたい…その希望、夢を持ち続けていたからではないでしょうか。モーセの場合、カナン地には行くことはできないよといわれていたにもかかわらず、神様に、もう祈るなと言われるくらい、祈りもとめ続けたわけですよ。
結果、やはりヨルダン川を渡ることこそ許されなかったわけですが、でも、求め続けていたからこそ、ネボ山の山頂から約束の地、カナン全土を見渡して、その生涯を全うし得たわけですよね。

うちの母親も同じく80歳になりますが、父が天国に旅立って、今は静岡で一人暮らし。そこで、私の姉が一緒に暮らそうか…と言う話になったんですが、母にしてみると姉はともかく、その旦那が少々苦手と言うか、お気に召さないらしい。
 まあ、一緒に同居となれば、生活も一転しますから、80歳にもなって、まだ一人でもやっていけるうちは、そんなに無理することもなかろう…と思っていたんですが、この前、静岡に行ったら、一緒に暮らすことを決めたというんですよね。
 おいおい大丈夫かいなと思って、聞いてみたところ、こういうんですわ。
 「これは神様が私に与えたチャレンジ、私の最後のお役目だと思ってやってみるよ。」
 いや、今まで父の方は、出るなと言っても出てくるタイプだったんですが、どちらかというと母は控えめ。旅行に行こうかと誘っても、この歳になって怪我すると嫌だから…そういうタイプだったんですね。
 でも、御歳80で、なお新たなチャレンジする。孫たちに何かを与え、それが母の生きがいになるのであれば、息子としても応援していかなきゃならんですよね。

青年は幻を見、老人は夢を見る…

ペンテコステ、まさに聖霊降臨の時に、ペテロも引用した御言葉です。

ぜひ求め続けてください。
捜し続けてください。
門をたたき続けてください。

今すぐ実現には至らないかもしれません。
多くの困難にもぶつかるかもしれません。
遠い遠い、本当に夢に終わるのかもしれません。
でも、求め続け、捜し続け、門をたたき続ける中で、様々な出会いや発見、求め続けなければ得ることのできない新しい世界も見えてくるはずです。

わたしは、あなたがたに言います。
求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。
たたきなさい。そうすれば開かれます。
だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれるのです。

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喜びの秘訣 ピリピ4:4〜13

おはようございます。

みなさん、元気ですか?元気があれば、なんでもできる…
というのは、アントニオ猪木の言葉なんですが、
聖書的な言葉で言えば、それは喜びになるのかもしれません。

有名な聖書の言葉の一つにですね。。。。

いつも喜んでいなさい。
絶えず祈りなさい。
すべての事について、感謝しなさい。

 …と言う言葉もありますよね。

静岡の実家では、お便所に掲げられている有名な御言葉なんですが、
でも、正直、いつも喜べることばかりではないし、
すべて感謝できるわけでもありません。

どうしたらいつも喜び、すべてのことに感謝できるというのか…、
これが自分自身にとっても一つの課題でもあったんですね。

たまたま静岡に帰ったときに、テレビの前に転がっていた本がありまして、
安保(あぼう)徹という新潟大学の医学部教授をしている方の本なんですが、
【病気を治す体の声の聞き方】この本を読んでいった時に、
実は、喜びや感謝という感情が、実は、体の状態によって左右されている
ということがわかったんです。

その中には「感謝の気持ちが病気を治す」ということも書かれています。

それから、お医者さんであったり、あと脳ですね。脳外科医や、脳科学者の人たちの本を読み漁っているんですけれども、表現の違いはあっても、結論的には同じ。

結論だけ言ってしまうと、
いつも喜び、感謝できる状態が、人間の体にとってもベストらしい。

「いつも喜んでいなさい。
 絶えず祈りなさい。
 すべての事について、感謝しなさい。

 これが、キリスト・イエスにあって
 神があなたがたに望んでおられることです。」

言い換えれば、これが神の願いであり、みこころ。
それは私たち人間のこの体全体が、

そもそも喜び、感謝しながら、生きていくように創られている…

といえるんではないでしょうか。

そこで、今日の取り上げているピリピ人への手紙なんですが、
「喜びの書簡」とも呼ばれるくらい、最初から最後まで、繰り返し、
「喜んでいます」「喜びなさい」喜ぶということが書かれています。

3章でも、

3:1 最後に、私の兄弟たち。主にあって喜びなさい。

と言いながら、

この4章でも 「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と強く勧めています。

でも、このとき、パウロ自身は逮捕され、牢獄の中からこの手紙を書き送っているんですね。伝道者としては圧倒的に不利な状況です。どうして、そのような状況でも、喜べと言うのでしょうか。

順番はちょっと前後しちゃいますが、先に

10 私のことを心配してくれるあなた方の心が、今ついによみがえってきたことを、私は主にあって喜んでいます。…

ピリピの人たちも、パウロの投獄の話を聴いて、パウロのことを心配に想い、どうもパウロに差し入れを届けていたようなのですが、自分たちもまたこの先どうなるのか、不安と緊張の中にいたんです。
そのような状況の中にあって、積極的に、パウロは「喜ぶ」ことを薦めていくのです。

そもそも、私たちに何が幸せをもたらしてくれるのか…。

それはお金なのか、病気にならず、健康でいることでしょうか。何でしょう。
お金があっても幸せとは限らないし、逆に、貧しい中でも幸せを感じている人もいます。
病気にはならなくても、不安と絶望の中にいる人もいますし、病の中であっても幸せを感じて生きている人もいます。
イスラエルの荒野に行っても、そう思いますよね。
水も乏しい、気候も厳しい、日本のようにこんな便利にはできていないですよ。
でも、その環境の中でも、実際に生活している人がいて、そこにはそこでの幸せや、喜び、感謝もあるんですよね。

私たちは周りの状況で自分の幸せが左右するように感じていますが、実は、そうではない。
同じ環境の中にあっても、私たちの感じ方、すなわち脳の思考によって、喜びを感じ、幸せだと思えることもあるし、不満に思い、不幸せと感じる場合もあるわけです。

まず、1つ言えることは、パウロ自身は、喜びの基盤を回りの環境には置いていなかったことがわかります。

パウロは、こんなふうに言っていますよね。

4:12 私は、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。

つまり、パウロは自分が喜べるような環境が与えられるように求めたのではなく、自分が周りのいかなる環境に置かれたとしても対処していけるように、その秘訣を身に着けていったといえるでしょう。

…といっても、なかなか簡単なことではないですよ。

パウロはこれまでの人生、すざましいものがあります。

コリントの手紙には、こんな風に書かれています。

11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、
11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。
11:26 幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、
11:27 労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。
11:28 このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

いやいや、私だったら簡便と思うのですが、
でもパウロは、そういった中で、いかなる困難にも対処していく秘訣を身に着けて行ったんですよね。

そんなパウロですが、決してはじめから強かったわけではなく、むしろ、意外と否定的な考え、弱さを訴えているんですよね。
目が見えなくて、劣等感を抱いていみたり、「私は罪人のかしらだ」とか、ローマ書では「私は、なんとみじめな人間なんだろう」と意外と自己否定的な発言もしているんです。

でも、数々の困難や試練を通して、その秘訣を心得ていくようになったのだと思います。

私は、死ぬほどのムチも耐えてきた、船が難破して死にそうな目にあっても生かされてきた。
どんな状況でも対処する秘訣を心得ている。
だから、ピリピの人たち心配要らないよ。牢獄くらい、なんともない。
大丈夫。

私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです!

このニュアンス、わかります?

どんな状況の中でも、キリストはともにいてくれる、キリストが守ってくれている…その平安の中にパウロは身をおいていた。
だから、牢獄ぐらい大丈夫。
それは、一朝一夕に言えることではないかもしれません。
これまでの経験があってこそ、得られた確信なんですよね。

 それだけではなく、不安と緊張の中にいたピリピの人たちを勇気付けようとするパウロの愛情が篭っているわけです。

 もう一つ、パウロの喜びの秘訣は、自分が牢獄の中にいるにもかかわらず、ピリピの人たちの喜び、幸せを願っていたことでしょう。

 私たちは、自分自身の幸せを最優先にしてしまいます。
 まして、自分自身が望まない状況、つらい状況にあったとしたら、なおのこと。まず自分を守る。それが普通です。

 でも、パウロは、自分のことよりも、ピリピの人たちのことを想い、ピリピの人たちがキリストにあって喜ぶことを願うわけです。
 でも、それでピリピの人たちが喜びに包まれたとしたならば、それがパウロにとっての喜びとなるわけですよね。

そんなパウロが、ピリピの人たちに、すすめているのは、まず

4:5 あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。

私たちは、自分が幸せになろう、幸せになろう…とすると、逆に得られない不満ばかりが募って、かえって不幸感につつまれていってしまうのかもしれません。

逆に、寛容な心をすべての人に知らせる、周りの人たちの幸せを願う…そういう心を持ちえたとしたなら、実は、その瞬間に、自分自身も幸せな心になっているような気がします。

4:6 何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。
4:7 そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。

何も思い煩わないで・・・と、言われて、何も思い煩わずにすむんだったら、何も苦労はいらないですが、それでも思い煩ってしまうというのが、正直な私たちですよね。

それでも思い煩う自分が、あたかも信仰が薄いか、弱いかのように考えてしまえば、さらに思いわずらいも増えていってしまうような気がします。

ですが、実は、最初に言ったように、心、精神面だけではなく、体全体のこととして考えると、ちょっと見え方が変わってくるんです。

私たちの脳は、意識、無意識関係なく、ぐるぐる同じ物事を繰り返して考えているらしいんです。もし否定的な思考回路(神経伝達)が繰り返されてしまうと、そこの神経が太くなって、脱却しにくくなり、しかも思考力が低下していくらしいんです。

私自身、何か嫌なことがあると、嫌だ嫌だ…と思うじゃないですか。
で、嫌だ、嫌だと言うことによって、あわよくば周りを変えようとするんですよね。

でも、脳にとっては、この嫌だ、嫌だと思っている状態…、
これが嫌な状態らしいんです。

ところが、私たちは周りが嫌な思いを与えている…かのように勘違いするんです。

にもかかわらず、その嫌だ、嫌だと言う思いを続けていくと、脳はますます嫌な思いが嫌だ…って言うことになっていきまして、思考能力も鈍ってきて、余計に解決策、いいアイデアが浮かばなくなるという悪循環を引き起こしてしまうというわけです。

そこで、意識して、肯定的な思考をするようにしていくと、そちらの思考回路、神経の方が太くなっていき、脳の活性化にも繋がり、いいアイデアや、体の能力も引き出せます。

つまりね、

否定的に考えてしまうのは、気持ちや精神力、
キリスト教の業界用語で言えば、信仰が強いか弱いか…の問題ではない


ってことなんです。
脳の思考回路の問題、肯定的に考えるための神経回路ができているかどうかなんです。

ですから、思い煩うことはあってもいいし、実際あるでしょう。
でも、そこで、思い煩っている、否定的な思考回路が回っている自分に気がつくことが、まず大切なんですね。

そうしたら、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、

この「感謝」ということが、もうひとつのポイントです。

私たちの体には、自律神経というやつが働いていまして、それで体のホルモンだとか、いろいろな機能のバランスをとっているらしいんですが、それには活動モードで働く交感神経と、リラックスモードで働く副交感神経があるんですね。

 交感神経が働いている時には、血管が収縮し、血圧や血糖値も上がる…、体全体が、やる気モード、戦う姿勢に入っているわけです。でも、そこに思い煩いが加わると、不安と緊張、いわゆるストレスとなって、怒りの感情にもなってくると言うんですね。
 
 逆に、喜びや、感謝する…という感情は、副交感神経が働いている時に出てくる感情だと言うのです。

つまり、いくら頭で感謝しようと思っても、もし体全体が緊張モード、交感神経が働きっぱなしであったとすれば、感謝できないし、体も休まらない、それは心の問題ではなく、体のモードが切り替わっていないためでもありうるわけです。
 
では、副交感神経を働かせるには、どうしたらいいか。
 深呼吸をしたり、お風呂にでも入って体をよく温めてあげる。
ようはリラックスモードを体全体に作ってあげるわけですね。
これが「思い煩わないで」。
それからゆっくり、今まであった感謝できることを1つ1つ思い出してみてください。結構、これまでの人生の中でも感謝できること、守られてきたこと、あると思います。

詩篇の中にも、
 わがたましいよ、主をほめたたえよ。
 主が、よくしてくださったことを何一つ忘れるな…
と出てきますが、
あれも、自分の魂、心、脳に言い聞かせているわけですよ。
そうやって、あえて感謝していくことで、副交感神経の方が刺激されて、
思い煩いも解消されるという仕組みに、私たちの体全体が出来上がっているというわけです。
おまけに、血圧が下がり、血糖値も下がり、リンパも活発になり、免疫も上がる、病気にもなりにくい。脳の働きもよくなります。

そうすれば、心と思いだけではなく、体も、脳も一番ベスト、それではじめて、その時、その時に、今の自分にできる対処方法も冷静に考えて、実践していく事もできるわけです。

何か問題があっても、それに向かって1つ何か対処出来たごとに、意識して喜ぶ。成果より前に、実践できたことをまず喜ぶ。そして、問題を乗り越えられた暁には、もう1つ喜びの秘訣が得られる!とにかく、喜ぶことを目標にしていく。

 そう意識していくことで、問題や思い煩いがある中にも、喜びや感謝が生まれ、おまけに体にも、脳にもいい…!!!!
クリスチャンであるからこそ、元気があれば、何でもできる!ということにもなるのではないのでしょうか。

何も思い煩わないで、
あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、
あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。

そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、
あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
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2009年05月17日

からだの調和 Tコリント12:12〜27

2009年5月17日 田園グレースチャペル

 みなさん。おはようございます。
 新型インフルエンザが、国内でも感染したということで、またニュースになっていますが、それにしてもあの騒ぎようというか、警戒の仕方は、どこか日本独特のもかもしれませんね。

 いい面で言えば、感染の拡大を防ぐという効果もあるものの、一方で、外部からの侵入者=ウイルスに対して、他の国の人たちに比べると、不安感、恐怖心が強いのかもしれません。
それは島国で生まれた日本人独特の感覚もあるように思います。

 旅行会社的には少なからず打撃もあるところなんですが、せっかくね、民主党の小沢代表が辞めてくれたおかげで、トップニュースが変わったと思ったら、これでしょ。

 ちなみにですね、あまり不安感が強すぎると、逆に、からだの免疫力も低下してしまうんだそうです。
 イエス様も「あなたの言ったとおりになる」と言っていますが、インフルエンザになるんじゃないか…と不安や緊張が続くと、自律神経の交感神経が活発になって、むしろ免疫力は低下する、そういう仕組みになっているわけです。

 マスク、手洗い、うがいなどの予防策も大切ですが、かかっても大丈夫くらいの「気持ち」と「からだ」作りの方が大切なような気がしますね。

 さて、今回とりあえげるのは、パウロが教会を「からだ」に、ならぞらえている箇所です。

12:12 ですから、ちょうど、からだが一つでも、それに多くの部分があり、からだの部分はたとい多くあっても、その全部が一つのからだであるように、キリストもそれと同様です。

聖書で、「からだ」を取り上げているのは実に興味深い点です。

たとえば、「霊的にいい」とか「悪い」とか…言ったりしますよね。
でも、聖書では「からだ」を含めて考えられている。
霊・たましい・からだ…それらすべて揃って「人間」という考え方なんですね。

キリスト教が、霊的…、あるいは精神的、観念的、頭だけの世界に偏ってくる時、どこか「からだ」の存在が見落とされてしまうこともあるのではないかと思うのです。

じゃあ、「からだ」ってなんだろう…。
今、インフルエンザと戦っていますけれども、この「からだ」は、決して、理想どおりにはいかない、思い通りにはいかない、疲れを感じたり、病気になったり、弱さや限界も、しっかり抱えている…。
それが、この「からだ」です。

ちなみに、「疲れ」というものも、からだが疲れてくると、脳も疲れるし、脳が疲れてくると、からだも疲れてくる。
私たちの心も、脳で描かれているわけですよね。
脳も、実は、からだの一部、心と「からだ」は、本当に一つなんです。

さて、私たちが、この「からだ」を有している時点で、様々な限界をしっかりと抱え込んでいます。
神学校に行くと「教会論」とか勉強するんですけれども、神学的に、どんなに理想的で完璧な教会像を描いてみても、絶対に、間違いなく、理想どおりには、うまくいかない…。
全世界に教会は数多くあるけれど、完璧な教会は存在しません。
それは、私たちが、この「からだ」を有しているからといってもいいと思います。

さて、そもそも、パウロが、なぜ教会をキリストの「からだ」になぞらえたのか…
それは、まずダマスコ途上での出来事がきっかけとなっているようです。
パウロがまだ「サウロ」と呼ばれ、クリスチャンではなく、バリバリのパリサイ派だった頃、ダマスコにある教会を潰しに行こうとしていた途中、そこで、突然、まぶしい光を浴びて、一つの声を聞くわけですよね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、わたしを迫害するのか…。わたしはあなたの迫害するイエスである」

そこで、パウロは、キリストの「痛み」に触れるわけですよね。
教会を撃つことが、キリストを撃つことであって、
キリストと教会が一体であることを感覚的に理解するんです。
その「痛み」の感覚というのは、まさに「からだ」の感覚なんです。

しかも、この時パウロは、同時に目が見えなくなるわけです。
そこで、己の弱さ、不完全さというのものを「からだ」で実感するわけです。

それまでのパウロは、バリバリのパリサイ派、
今のトルコにあるタルソという学問の都市で生まれ、
そこからエルサレムの総本山に来て律法を学んだわけですよね。
いうなれば、東大法学部で勉強したわけですよ。
当時はまだ旧約聖書しかないわけですが、
律法については落ち度のないもの…、
それだけ熱心に聖書も研究したし、実践もしてきた。

だから、愛だの、赦しだの説くキリスト教会が、どうしても赦せなかったわけです。

ところが、いまや自分独りで歩くこともできない、
律法も守れない、何もできない、誰かの助けを必要としたわけです。
そういった「からだ」の体験、また「からだ」の不完全さ、弱さを実感していった時に、パウロは、そこにキリストの愛と赦しも理解したし、このキリストのからだなる教会という感覚を身に着けたのではないかと思います。

この「からだ」を有している私たちというのは、自分ひとりでは、どこまでも不完全で、弱さを抱えている存在かもしれません。でも、そのからだが集まって形作られているが、教会でもあるわけです。

12:13 なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。

よく教会では「御霊の一致」という表現が使われていますけれども、みなが同じ考え方をし、みなが同じ働きをすることなのか…というと、違うんです。
これは、よく教会で、間違えて使われていることも多いのではないかと思います。

ある決められた1つの答えに、みなが意見や意思を統一させることは、「御霊の一致」ではなく、「意見の画一化」なんですよ。
これを「御霊の一致」という言葉を使ってみてください。
違う意見を持つこと自体、御霊、神様に逆らっているみたいになりません?

もし誰か第三者の意思に合わせて、みなが動くのだとすると、
それはカルト、マインドコントロールの世界になってしまうんです。

 ですが、ユダヤ人はユダヤ人、ギリシア人はギリシア人、日本人は日本人。
 みな、違います。

 新型インフルエンザの騒ぎが出てからも、韓国旅行ですらキャンセルが出ているんですが、
韓国の現地手配の韓国人に言わせれば、

「韓国人はキムチとにんにく食べているから大丈夫!」

と言っていましたからね。

 もともと韓国人は「ケンチャナヨ」と言って、あまり気にしない国民性なんですが、隣の国であっても、考え方は違っているわけですよね。クリスチャンだからって、一緒の考え、発想するかというと違うわけですよ。

みな、考え方も、得意、不得意、やり方も、役割も、みな違います。

しかし、イエス・キリストという1点にあって1つ…これが「御霊の一致」なんです。

 イエス・キリストだったら、どう考えるだろう…
 あのイエス様だったら、なんと言うだろう…この視点。

 イエス様が、みなに、同じ対応をしたでしょうか…。
パリサイ派に対して、遊女や取税人に対して、弟子たちに対して、みな違いますよね。

同じ弟子に対しても、ある時には信仰の薄い者だな…といいながら、でも、ある時には身を張って弁護する、時と場合によっても異なりますよね。

ケース・バイ・ケースによって、イエス・キリストの心を知る。

みな、それぞれに個性や役割も違うのだけど、
ああ、もしイエス様だったら、こういう場面、この状況で、こういうふうに考えるに違いない。
イエス様を知る人間であれば、誰でも合点がいく
…ここに御霊の一致もあるわけです。

その中で自分にできること、自分の役割を果たしていく…、
行動の一致ではなく、方向性の一致です。

たとえば、私たちが、もし、前に進もうとしたときに、この「からだ」がどう動くか考えて見ましょう。

いくら前に進むといっても、右手も、左手も、両足、頭もすべて、みながみな一斉に前に進もうとしたら、大変おかしな動きになりますよね。
ぴょ〜んみたいな?
 右手が前に行くときには、左手が後ろに行き、左足は前でも、右足は後から遅れてついてくるんです。
これが自然体です。それぞれに役割があって、まったく正反対方向に動く器官もありながら、
からだ全体の調和、バランスをとって、前に進むわけです。

さて、からだには多くの器官があります。
12:14 確かに、からだはただ一つの器官ではなく、多くの器官から成っています。
12:15 たとい、足が、「私は手ではないから、からだに属さない。」と言ったところで、そんなことでからだに属さなくなるわけではありません。

手には手の、足には足の働き、目には目、耳には耳の働きがあります。
みな違います。
私には伝道ができないから、奉仕できないから、特別な賜物がないから、
あるいは、みなのように祈れないから、聖書わからないから、不完全だから…、
そんなことで「からだ」に属さないわけではありません。

私もこうして、メッセージなんかして、まがいなりにも「先生」なんて呼ばれちゃったりするでしょ。そうすると、結構悩むんです。
決して完璧ではないし、実際、「先生」なんて呼ばれるほど立派じゃないですよ、本当に。

でも、この前、落語を見に行ったんですよね。
落語というのは、笑い話だけかと思ったら、違うんですね。
笑いを絡ませながら、人生の教訓めいたことを聞かせる落語もあるんです。
それを聞いてたら、ふと思っちゃったんでよね。

俺のやっていることと、一緒じゃん!

なんとか馬鹿なことも言いながら、笑いで気持ちをつかんでおいて、
そこに、そっと聖書の何かを伝えてく…
なんか、びびっと、きちゃいました。
俺は、決して、立派な聖人にはなれないけれども、
キリストの芸人にはなれるか…、
なんかいいじゃないですか、「キリストの芸人」。
だから、こんな落語家みたいな頭にしたわけではないんですが、
まずは口なら口の役割をしていくことなんでしょうね。

12:17 もし、からだ全体が目であったら、どこで聞くのでしょう。もし、からだ全体が聞くところであったら、どこでかぐのでしょう。
12:18 しかしこのとおり、神はみこころに従って、からだの中にそれぞれの器官を備えてくださったのです。

ある意味、能力、個性、働きは、みなバラバラでもいいんです。
みなが同じことができる必要はないし、みなが同じ風に考える必要もないし、目には目の、耳は耳の、手には手の感覚、働き、役割があるわけです。
大切なのは、神様が、からだの各器官を配置してくれているということなんです。
みなが、同じようなクリスチャンになる必要はありません。
でも、からだは一つだというわけです。

12:20 しかしこういうわけで、器官は多くありますが、からだは一つなのです。
12:21 そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。

あの人は、この働きができないから、必要ないということもできないのはもちろんですが、自分にはできないことを、他の人が持っていて、補ってくれている…実に必要な存在であったりもするわけです。

12:22 それどころか、からだの中で比較的に弱いと見られる器官が、かえってなくてはならないものなのです。
12:23 また、私たちは、からだの中で比較的に尊くないとみなす器官を、ことさらに尊びます。こうして、私たちの見ばえのしない器官は、ことさらに良いかっこうになりますが、
12:24 かっこうの良い器官にはその必要がありません。

パウロが、具体的にどの器官を指して弱いとか尊いと考えていたかは、分からないのですが、自分のからだの実感を持って弱さを感じたのは、おそらく目でしょう。
視力を失ってみて、その大切さを実感していたに違いありません。
私たちも、普段、目が見えて当たり前、耳が聞こえて当たり前のところがあるように思います。でも、これがもし失われたとしたなら、はじめて、その尊さ、大切さを知るのかもしれないですよね。

しかし神は、劣ったところをことさらに尊んで、からだをこのように調和させてくださったのです。
12:25 それは、からだの中に分裂がなく、各部分が互いにいたわり合うためです。

ここで言われているのが、「調和」、バランスということ。

私たち一人一人も、100%完璧な存在ではありうるわけではありません。
でも完璧ではないから、劣っているから、否定されてしまうのか、
決してそうではない、キリストは、そんな私たちを命がけで愛してくれているわけですよね。
私たち自身、それぞれが役割を持って、それぞれを、いたわりあうために存在しているというわけです。

12:26 もし一つの部分が苦しめば、すべての部分がともに苦しみ、もし一つの部分が尊ばれれば、すべての部分がともに喜ぶのです。
12:27 あなたがたはキリストのからだであって、ひとりひとりは各器官なのです。

1つの個人でも、1つの教会でも、ある意味、もし単独で完璧さを求めていったとしたら、実は、必ず、どこかに無理や限界が必ず出てくるはずです。

疲れが出てくる、怪我をする、病気にもなる、かえって不健全になる…、
それが「からだ」というものなんです。

どんなに一流のアスリートであっても、突き詰めれば突き詰めるほど、得意とする専門分野があるわけで、決してオールマイティではないんです。
また無理や無茶なトレーニングを繰り返せば、故障にもつながります。

仕事をするときには仕事をし、遊ぶ時には楽しく遊び、そして、休む時には休む。
私たちのからだにも、やる気モードの交感神経と、リラックスモードの副交感神経があって、それぞれが相反する働きをしながら、その両方がバランスよく働いて、調和を保っているんですよね。
本当に、そういうふうに創られているんです。

この調和・バランスという感覚が、本当に大切のような気がします。
このバランスが崩れると、からだに何らかの不具合も発生してくるんです。

もっと広い視野で見ていった時に、グレースにはグレースの特徴があり、市川の聖望教会には聖望教会の特徴がある、1つ1つの教会も、各器官であるわけです。

1つの教会だけで完璧になるというよりは、1つ1つの教会が、それぞれの役割を果たしていくことで、全世界に広がるキリスト教会、クリスチャン全体で、1つの「からだ」となっていくことではないでしょうか。

そのあとに、それぞれの役割が出てきます。

「神は教会の中で人々を次のように任命されました。すなわち、第一に使徒、次に預言者、次に教師、それから奇蹟を行なう者、それからいやしの賜物を持つ者、助ける者、治める者、異言を語る者などです。」

必ずしも、すべてがグレースに揃っているわけではないですよね。
でも、逆に、ここには出てこない働き、能力を持っている人もあると思います。
それは、やはり神様が、グレースチャペルという「からだ」の調和・バランスを持って、配置してくれている各器官であるわけです。

すると、個々の教会の個性、特徴というのも、実に、

教会に集まる一人一人の存在、個性、特徴によって決まる

ものなんですよね。
決して、理想的である必要もないし、誰か一人がうちの教会はこうだ!と決められるものではないんです。

いろんな働きがあって、いろんな個性があって、みな違う、だから、みな大切。
キリストに愛されている一人一人。各器官。
その感覚が連なって、全世界にキリストの「からだ」なる教会として広がっていくのではないでしょうか。
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2008年07月21日

「ヤボクの渡し」創世記32:22〜32

…私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。創世記32:26

つれて逃げてよ〜、ついておいでよ〜
それは、矢切の渡し。今日は、ヤボクの渡し。失礼しました

前回についで、ヤコブの物語から見ていきたいと思うわけですが、
そもそも、ずるがしこいヤコブ、策略家のヤコブ、
兄ちゃんを出し抜き、父親を騙し、神からの祝福を自分のものにしようとして、家を出なくてはならなくなったヤコブです。
でも、その家を出て、ひとり孤独になったルズの地で、神と出会い、神からの祝福の約束を受けることになったわけですね。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

それが前回の話です。
てせも、それからのヤコブの人生ばら色か…というと、決して、そうではありません。
叔父ラバンのもとに身を避けるわけですが、このラバンがヤコブ以上に上手でして、今度は、自分が騙されることになったわけです。

このラバンには二人の娘がおりまして、お姉ちゃんのレアと、妹ラケル。
ヤコブは、妹ラケルに一目ぼれするわけです。
それで、父親のラバンに嫁にくださいと申し出たところ、7年働いたら、嫁にしてもいいというわけですよ。
それで、ヤコブは、せっせ、せっせと7年間、働くわけですな。

で、いよいよ婚礼となったわけですが、朝起きたら、横にいるのはお姉ちゃんのレアだったというわけですよ。
なんで、レアがおんねん!
…という前に、気づけよ!という話かもしれないですが、当時、電気なんかありませんからね。日が暮れれば、もう暗くてわからなかったんでしょうね。
つまり、叔父のラバンに騙されちゃうわけです。

姉ちゃんより先に、妹を嫁に出すわけいかないというわけですよ。
もう7年働くんだったら、ラケルを嫁にしてもいいというわけです。

そこで、ヤコブはさらに7年、ラバンの下で、働くことになったわけです。

それも、ほとんど、ただ働きですからね。
まあ食べさせてはもらえても、14年間働いても、自分の財産、蓄えはできなかったわけです。
それで、さらに6年、今度は自分の財産を蓄えるために、この叔父ラバンの下でヤコブは、働いていたわけです。
もちろん、相手は自分以上に策略家ですから、そこでも、またすったもんだがあったわけですが、いよいよ、そのヤコブに、「あなたの生まれた国に帰りなさい」と神からのお告げがくだるわけです。

ところがですね。いよいよ、帰ろうとするわけですが、家に帰るということは、
あの、おっかない、おっかない、お兄ちゃんが待ってるわけですよね。

この時のヤコブには、兄貴を騙した自分が悪いということもわかっていました。
叔父ラバンの下で、騙されたものの痛みを自ら経験してきたわけです。
この時のヤコブには、なぜ兄貴が殺そうとするほどに、自分に対して怒りを燃やしたのか、身をもってわかっているわけです。
兄貴は、まだ怒っているだろうか…。帰ろうものなら、返り討ちにあわないだろうか…
ヤコブとしては、家に帰りたいんですよ。
でも、帰れない。

ヤコブの中に、激しい葛藤が生じてくるわけです。

それで、段々と家に近づいていくわけですが、ますます恐怖心が高まってくる。

その葛藤と恐怖が頂点に達したのが、今日のこの場面、ヤボクの渡しです。
それで、とにかく、他の人たちはヤボクの渡しを渡らせて、自分ひとりになり、格闘しはじめるわけです。

32:24 ヤコブはひとりだけ、あとに残った。すると、ある人が夜明けまで彼と格闘した。

私たちの人生の歩み中では、このような葛藤、悩み、壁にぶつかることがあると思います。
ヤコブの場合は、兄との人間関係ですが、
人それぞれ、状況や場面がちがっても、壁にぶつかることが、しばしばあるんですよね。

私なんか、若干35歳ですから、しょっちゅうです。

そんな時に、どうするか…というと、クリスチャン的には、まあ、祈るわけですよね。
でも、その時の「祈り」というものを考えた時に、自分の周りの人や状況を変えようとしていたり、時には、人である自分が、神様を動かそうとしていたりしていないだろうか…。

時には、それで、神様が動いてくれて、必要を備えてくれることもあると思いますよ。
でも、時として、人や周囲ではなく、実は、自分自身が変わらなくてはならない、変えられる必要がある時も、あるわけですよね。
ところが、どうして、いざ自分自身を変えようと思っても、なかなか変わらない、変えられない…そんなことがないでしょうか。

ヤコブも、このヤボクの渡しにたどり着くまで、思いっきり、逃げこしになります。
まず、使いを遣わして、兄貴に贈り物を届けさせるわけですよ。
まあ、なんとか、兄貴のご機嫌を取って、あわよくば赦してもらおうというわけですよね。
ところがですね、使いが帰ってきたら、兄ちゃんが400人を連れて迎えに来ているといわけですよ。
ますます、怖いものだから、群れを2つに分けて、自分は後ろ、それも一番後ろにつくわけです。いざとなったら、半分は犠牲になっても、残り半分を引き連れて、逃げようと言うわけですね。

ずるいヤコブ、卑怯なヤコブ、計算高い策略家のヤコブが顔をのぞかせるわけです。
これが、ヤコブ自身が持っていたヤコブの本質、ヤコブの弱さです。

ずるがしこさ、策略によって、人を騙し、それで兄貴を怒らせ、家から出る羽目になったにもかかわらず、また叔父ラバンによって、騙された人の悔しさ、痛みを理解したにもかかわらず、でも、変わらない自分が確かにいるわけです。

32:25 ところが、その人は、ヤコブに勝てないのを見てとって、ヤコブのもものつがいを打ったので、その人と格闘しているうちに、ヤコブのもものつがいがはずれた。

もものつがい、股関節というのは、自分の体重を支えるのに、大切な場所です。
その、もものつがいが外れるというのは、自分の力で踏ん張りが利かなくなる…ということを意味します。
それまでは、どうにか、エサウを変えさせ、神を動かそうとしていたヤコブです。
しかし、これで、ヤコブの方が、折れるわけです。

一晩かかって、ようやくなんですね。
でも、純粋に一晩で変えられたのか…というと、けっして、そうではない。

兄貴を騙し、怒りを買い、家を出て、一人野宿した地で神と出会ったのが、20年前。
そこから20年、叔父ラバンのもとで働き、奥さんも同時に二人ももらって切磋琢磨。
その20年という時を経て、それでも変わらなくて、兄貴を目前としたヤボクの渡しまで来て、そこで神の使いと格闘し、それも一晩かかっても駄目で、もものつがいがはずれ、自分の心の内面、本質にあった、凝り固まったものも外れたわけですよね。

神様が、ヤコブに祝福の約束をしたのも、ヤコブが決して、いい人だから、従順だから、すぐれていたからではないんです。むしろ、人間性の面では劣っていたわけでしょ。
でも、神は祝福を約束し、そのヤコブにとことん付き合うわけです。
むしろ、神様の方が根を上げるくらい、ヤコブはしぶとかった。

32:26 するとその人は言った。「わたしを去らせよ。夜が明けるから。」…

でも、このヤコブの優れていたところをあげるとするならば、神からの祝福の約束を決して手放そうとしなかったことでしょう。

32:26 …しかし、ヤコブは答えた。「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」

このヤボクの渡しでの格闘のあと、ヤコブは変わります。
レアや、ラケル、そしてその時一番末っ子だったヨセフは一番後ろにおいて、

33:3 ヤコブ自身は、彼らの先に立って進んだ。彼は、兄に近づくまで、七回も地に伏しておじぎをした。

すなわち、土下座をして「ごめんなさい」をしたわけですよね。
これこそ、ヤコブが兄貴と和解し、祝福つまり幸せになるためには、ヤコブに必要なことだったわけです。
それには、家を出てから20年という時が必要だったんですよね。その間、様々な体験をしながら、神様もずっとヤコブと共にいて、導いてきたわけです。

また、兄エサウにとっても、ヤコブを赦し、受け入れるためには、20年という時が必要な時だったのかもしれませんね。

その長いスパンを持って、神はヤコブを捉え、いつも共にいて、祝福へと導いていったわけです。
でも、これで、ヤコブが変えられ、めでたし、めでたし…かというと、そうではない。この後も、ヤコブの人生には、いろいろな格闘が起きてくるわけです。しかし、そこにも神の導きがあるわけです。全生涯を通じてのものなんですよね。

私たち、クリスチャン。
よもすると、今というこの時、この瞬間に、理想的なクリスチャンの姿・形を求めすぎてしまうことがあるのかもしれません。
それは他人に対してもそうかもしれないし、自分自身に対しても同じ。あるいは、人から求められることもあるかもしれない。

実際に、私たちには、私自身にも、変わらなくてはならないところ、弱さ、欠点、数多く持っているわけですよね。
それは生まれ育った環境、これまでの人生の出来上がってきた歪み、
過去に負っている傷であったり、あるいは劣等感かもしれない、
それも、心の内面、内側、それも奥の奥の本質的な部分において、
なんか、ありやがるんですよね。こう、凝り固まったようなものです。

それは、人それぞれ違いがあっても、誰しもが存在していると思うんです。それって、なかなか変わらない、変えられない。
それが、時として、人に対する好き嫌いとか、人間関係の中で良くも悪くも出てきたりだとか、それが引き金となって、問題がおきたり、悩みにもなったり、葛藤を起してみたりもする。
でも、わかっていても変わらない自分がいて、もやもやになったり、自分は駄目だと思ったりするときもあるかもしれない。

しかし、自分自身もそうだし、その時、その瞬間だけの人を見て、いいとか、悪いとか簡単には評価しちゃいけないし、そんな自分は駄目だと思ってもいけないと思うんです。

そう最近、私、トイレ掃除に、はまっているんです。
なんか嫌なことがあったり、心がもやもやして来ると、トイレ掃除するの。
それも誰もいない時に、ひそかに一人でやるのがいいですよ。
ただ掃除するんじゃなくて、トイレの便器は、自分の心の鏡だと思って、掃除するんです。

うちの奥様も、あんまり掃除しないものだから、結構、汚れたりするんですよね。
私もあんまり気にする人じゃないから、ほうっておいたんですけれども、まあ、ある時、掃除したわけです。
まあ、かなり汚れていましたから、汚いな…とか、女性の住んでる家とは思えんな…とか(笑)。
でも、それって、すべて、自分の心のうちにあることなんですよね。トイレの便器にある汚れじゃなくて、自分自身の心のうちにある汚れなの。
それから、トイレは自分の心の鏡だと思って、掃除するようになったんですが、あの便器は、たいした器ですよ。
いうなれば、毎日、自分が生きていく上で、出てくる老廃物、汚れを受け止めてくれているんですわな。それも、ただ個室で、ひそかに受け止めてくれているわけです。
それを、ほうっておけば、汚れるんですよ。
私たちの心も一緒。
生活の中で、いろんなもの受け止め、いろんなものを被り、ほうっておけば汚れるわけですよ。

トイレは心の鏡と思いながら、その日あった嫌なことや、モヤモヤしていることを思いながら、で、そのトイレの汚れは、自分の心のうちにある汚れだと思いながら、この器の中だけじゃなく、便座の表も裏も、便器の下から床まで、掃除していくんです。
そして、最後にジャーと流しておしまい。きれいなになったトイレを見て、なんとなく、自分の心も、きれいになったような気分になれる…というだけなんですけどね。

でも、その、きれいにしたトイレに、また用を足すわけですよね。
ああ、便器さん、ありがとうございます…みたいな?
モヤモヤした心がね、感謝の心に変わっているんですよ。いやいや、便器はたいした器ですよ。

ヤコブは、ある人と格闘し、竹下は便器と格闘する。
ヤボクの渡しではなく、トイレの流しみたいな。
アホなようなことなんですけれども、それで、ひとつ楽しくなれたらいいわけですよ(笑)

私たちの主イエス・キリストも、私たちの罪、咎、汚れを背負って、十字架を背負われた。
まさに、神ご自身が、トイレの便器と同じ役割を担ってくれているわけです。
私たちが、日々、毎日、罪を全く犯さないということはないし、私たちの心が、全く清らかということもないんです。罪はある、汚れはある、未熟な部分もある。
毎日、用を足さなくてはならない、老廃物、汚れを出さなくてはならない。
誰が受け止めてくれるのか、イエス・キリストなんですよね。

私たちには、その主イエス・キリストの名によって、祝福の約束が与えられています。
それは、ただ信じるがゆえに、神様から一方的に注がれているものですが、それと同時に、
「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
私たちも、その祝福の約束を手離さない。

32:28 その人は言った。「あなたの名は、もうヤコブとは呼ばれない。イスラエルだ。あなたは神と戦い、人と戦って、勝ったからだ。」

すごいですよね。新改訳の注にもあるように、「イスラエル」というのは、神と戦う者の意味なんですよね。神と戦う、神の争うなんて、すごい話じゃありませんか。でも、そこまで、ヤコブは神様と取り組むし、神様もそのヤコブに、とことんかかわりを持ったわけです。

私たちも、失敗あるかもしれない、悩むことも、苦しむこともあります。いつまでも変わらない自分がいて格闘するときもあるかもしれません。
しかし、今の自分がどうであれ、やがては神が祝福してくださる。神が変えてくださる。その信仰を持ち続けることなんですよね。

「私はあなたを去らせません。私を祝福してくださらなければ。」
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2008年06月16日

孤独が神の家に 創世記28:10〜28

今日はヤコブという人物の話から、見ていきたいと思うのですが、突然、ベエルシェバから、カランへと旅立ったといわれても、わからないと思うので、まず、これまでヤコブについてお話ししますね。

ヤコブと言うのは、イスラエルの祖であるアブラハム、その子イサク、そして3代目がヤコブになるわけですね。

このヤコブには、エサウという双子の兄貴がいたんですが、普通に行けば、家は兄である長男エサウが継ぐことになるわけですね。でも、このヤコブという人物は、ある意味、狡猾、ずるがしこい策略家でして、長子の権利を、なんとかして自分の物にしようとするわけですよ。
そこで、エサウが狩りから帰ってきて、お腹がペコペコのところに、まあ、おいしそうな煮物を作って、待ってるわけですよ。
腹へって死にそうだから、その豆の煮物くれ〜
だったら、長子の権利を譲ることを誓え!
で、そのレンズ豆の煮物と引き換えに、エサウから長子、長男の権利を譲ってもらうわけですな。

まあ、それで、簡単に長子の権利を譲ってしまうエサウもエサウなんですが、豆の煮物と長子の権利、あまりにも差がありますよね。
もし今の日本の法律でしたら、この契約は、後から不成立にもできるんです。
あまりにも差が有りすぎて、本当とは思えない、冗談だと思った…といえるんです。

そのぐらい馬鹿げた方法で、まんまとエサウから長子の権利を得てしまうのです。

次に、父イサクを騙します。
イサクとしては、アブラハムから受け継いだ神の約束の祝福を、エサウに、引き継がせたかったんですね。その祝福の祈りを、エサウにしようとしていました。
そこで、ヤコブは、イサクの目が見えなくなっていたのをいいことに、エサウの振りをして、イサクを騙し、自らが受け継いでしまうのです。

それを聞いたエサウは、どうですか。
怒り心頭、カンカンになって、ヤコブを殺す勢いになったわけですね。

そこで、ヤコブは、逃げるように家を出て、叔父ラバンの下へ身を避けなくてはならなくなったわけです。それでベエルシェバから、カランへと旅立った…というのが今日の箇所の始まりです。

ある人は、こういいます。
神からの祝福を得るためには、ヤコブのように、貪欲である必要がある。
果たして、そうなんでしょうか。いや、決して、そうではないんですね。

その策略によって、ヤコブが得たものは、祝福ではなく、まさに「孤独」だったわけです。

28:11 ある所に着いたとき、ちょうど日が沈んだので、そこで一夜を明かすことにした。彼はその所の石の一つを取り、それを枕にして、その場所で横になった。

家にいれば、やわらかい枕もあったことでしょう。しかし、彼は、石を枕にして、野宿することになったのです。

それは、まさに身から出た錆、当然といえば、当然の結果なんです。
何が、神の祝福なんだろう…と、ヤコブも思ったかもしれません。

このヤコブを見た時に、実際、こういう、ずるがしこくて、親兄弟を騙して、自分のものにしてしまう策略家を見たときに、好きになれます?なれないですよね。

そこで得られた「孤独」。それは、まさにヤコブの身から出た錆。
そんなヤコブが、神様からの祝福を受けようなんていうのは、あつかましい話なんですよね。

にもかかわらず、神様は、そういうヤコブのある意面だけを捉えて、なんじゃ、そんな奴は、よう好かん!とは言わないんですな。

28:13 そして、見よ。主が彼のかたわらに立っておられた。

そのずるがしこいヤコブの傍らに、主は立たれたんです。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

これが、皆さん、まさに神の恵みなんです。
神の恵みの祝福というものは、
兄だから、長男だから、権利があるから与えられるものでもなく、
人間的な努力や策略によって獲得できるものでもなく、
受けるに値しないにもかかわらず、一方的に、神から注がれるものなんですよね。

でも、私たちは、人の一面だけをみて、いい人、悪い人と判断してしまいがちなんだと思うのです。そのことを一番思わされたのが、この前の日曜の秋葉原の事件です。
被害者やその家族、当事者にとってみれば、その痛みは大きく、とてもじゃないけど許し難いことでしょう。しかし、マスコミまで、事実以上に、彼の悪いところ、悪いところを掘り下げて、悪い奴かのように言うわけですな。私たちは気をつけないと、こういうマスコミの影響を知らず知らずに受けてしまうような気がします。

彼のしてしまったことは、確かに、取り返しのつかない重大なことなんですけれども、でも、わかっているのは、あくまで、彼の極々一面でしかないわけですよ。
それまでの生い立ち、家庭環境、社会生活、何を思い、何を考え、どうしてあの犯行に及んだのか…、それも裏表、偏りなく見ていかない限り、正確なところは、わからないことだと思います。

私が、彼から受けた印象は、まず強烈な孤独感。
友達がいないわけではない、でも、心のうちにある本音を表現する術を知らなかったのか、あるいは、打ち明けて、共感してくれる相手が身近にいなかったのか、とにかく話せなかったんでしょう。

「誰でも、よかった」っていうじゃないですか。なぜ「誰でもいい」んでしょう。
ね、「誰でも、よかった」なんて冗談じゃない。それこそ被害を受けた人は、たまったものじゃないです。
でも、なぜ「誰でも、よかった」のか…。
誰もいいから、わかってほしかったんじゃないかなと思うんです。
その悔しさ、寂しさ、挫折、怒り、孤独感…、いろんなものが心の中でギュッと濃縮されて、鬱積されていったわけですよ。
誰でもいいから、自分のことをわかってほしい…、その表現が、こともあろうか、ああいう形になっちゃったんじゃないかなって思うんですよね。

そんなこと、誰がわかるか…、誰が受け止められるか…、それこそ冗談じゃない。普通一般的には、そうかもしれない。
でも、私たちは、そういった心の刃(やいば)を受け止められる存在を、一人だけ、知っちゃっているんですよね。
誰ですか…。
まさに、カルバリの十字架を背負ったイエス・キリストです。

…彼への懲らしめが、私たちに平安をもたらし、
彼のうち傷によって、私たちはいやされた。

本当に、誰でも、よかったんです。イエス・キリストで、よかったんです。
イエス・キリストなら、彼のことを受け止めていたでしょう。
でも、彼は、イエス・キリストの存在を知らなかったんです。

なぜ、神様は、ヤコブの傍らに立たれたのか。
それは、ヤコブの策略が成功したから、イサクの祈りがあったからではないんです。

ヤコブが、ずるがしこくって、狡猾で、兄から殺されるほどに嫌われて、孤独だったからではなかったでしょうか。

28:16 ヤコブは眠りからさめて、「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった。」と言った。

このとき、初めて、ヤコブは、祝福の源である神という存在に気がつくんですね。
不思議だと思いません?
ヤコブは、あれだけ神の祝福を得たいと思っていながら、肝心の祝福の源であるはずの神の存在を意識したのは、このときなんですよ。

では、いつから、神はヤコブの傍らにおられたんでしょうか。

この場所に、来て初めてでしょうか。
家を出た時からでしょうか。
イサクに祝福の祈りをしてもらってからでしょうか。

いいえ、母の胎内にいる時から、ずっとです。

25:23 すると主は彼女に仰せられた。「二つの国があなたの胎内にあり、二つの国民があなたから分かれ出る。一つの国民は他の国民より強く、兄が弟に仕える。」

実に、ヤコブが、母の胎内にいる時から、すでに神の計画があったわけですね。

ヤコブは、それを知らなかったか、信じていなかったのか、自分の策略、力で得よう、得ようとしていたわけですね。
でも、神は、はじめから、ヤコブが生まれる前から、ヤコブがわかっていない時も、信じていない時も、知らずに孤独に陥った時も、神はヤコブの傍らに立ち、ヤコブに祝福の約束は注がれていたわけです。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。」

祝福の約束を受けたヤコブが、それからの人生ばら色、順風満帆だったのか。決して、そうではありません。
これから、ヤコブは叔父のラバンの元に行くわけですが、このラバンという男が、ヤコブ以上にずるがしこい策略家でして、ヤコブは逆に騙され、痛みを知り、そこで練られていくわけです。
「あなたをこの地に連れ戻す」祝福の約束が実現するには、やがて兄とも和解しなくてはならないわけですが、そのためには、そのずるがしこさ、狡猾さがそぎ落とされなければならなかったんですよね。ヤコブがそうなるためには、必要な時でもあったわけです。

では、エサウのことは愛していなかったのか。
決して、そうではないですよ。
兄が弟に仕える、エサウはエサウなりの役割が与えられているわけです。

でも、エサウにはエサウの問題があって、それを理解し、飲み込むまでには、やはり時間が必要でした。二人がその問題を乗り越え、成長するには、お互いに、まだしばらく時間が必要だったわけですよね。

クリスチャンの人生、歩みも同じだと思います。
私たちが、どこで一番悩むかといえば、家庭であり、学校、会社であったり、地域であったり、場所や問題はいろいろであっても、究極は人間関係の問題が一番多いと思います。
私たちは、決して、完成されているわけではありません。決して、すべてがうまくいく、すべてが順風というわけにもいきません。
時に、人間関係で悩み、苦しみ、失敗もしながら、そこで練られていくんでしょう。
でも、主は、私たちの傍らに立っておられる。
私たちがわかっていようがいまいが、信じられない時も、失敗した時も、一人孤独な時も、
わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

私たちが、そんな神という存在を知る時に、ルズはべテルに、孤独は神の家に変わります。

最後に、十分の一をささげる話が出てきます。
十分の一をささげるから、神が祝福してくださる…わけじゃないですよね。
以前のヤコブだったら、そういって取引しようとしたかもしれません。
でも、「私が賜るものの十分の一」、すなわち、神の祝福が先、行ないは後、神の恵みが先行しているのです。

恵みとは、受けるにふさわしくないにもかかわらず、無代価、無条件に注がれる神からのよい贈り物のことを言います。
私たちは、その贈り物を、無代価、無条件に、ただ受け取っていくことなんですよね。

28:15 見よ。わたしはあなたとともにあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない。

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2008年03月23日

命がけの福音 ガラテヤ書2:11〜21

2008年3月16日 田園グレースチャペル

みなさん、おはようございます。

暖かくなりまして、いよいよ花粉症のシーズンも到来といったところなんですが、私も花粉症なんですね。
毎年、この季節が近づくと、まだ、くしゃみがでない、今年こそ治ってるんじゃないか、そういう淡い期待をもちながら過ごしていたんですが、やっぱり、はじまっちゃいました。
 おかげさまで、くしゃみと共に、春を体感している今日この頃です。

 さて、キリスト教の暦の上では、今日は、いよいよイエス様が最後にエルサレムへと入城した日でして、十字架を経て、来週のイースター、復活の日を迎えるわけですね。

今日は、ガラテヤ書を通しながら、その十字架の恵みを味わっていきたいと思うわけですけれども、私たちが救われるのは、信じる信仰による、それはイエス・キリストの受じかと復活によって成し遂げられた、神様の恵みであるわけですよね。

ところが、イエス様が天に昇られて、まだ間もない、初代教会の時代にあって、信じる信仰による救いを覆すような教えが登場していました。
信じる信仰だけでは、救われない。割礼も必要である。
信仰に、プラス アルファーが付いてしまったわけですね。ガラテヤの諸教会は、そういった教えに振り回されてしまったわけです。

今日の箇所は、そのガラテヤの教会に向け、パウロは過去の出来事を振り返りながら、福音の真髄を説き明かしていく場面です。

ところが、ケパが、アンテオケに来たとき、彼に非難すべきことがあったので、私は面と向かって抗議しました。
2:12 なぜなら、彼は、ある人々がヤコブのところから来る前は異邦人といっしょに食事をしていたのに、その人々が来ると、割礼派の人々を恐れて、だんだんと異邦人から身を引き、離れて行ったからです。

ユダヤ人には、律法で食べてはいけないものが決められていて、いかとか、たことか、豚肉だとか、一切、食べないんですね。
 時に、ケパこと、ペテロは、アンテオケに来ていたとき、異邦人と同じものを食べていたんです。 この豚肉おいしいですね…とか言いながら、豚肉を食べていたのかもしれません。
 ところが、ユダヤ色の強い割礼派の人が来たときに、その食卓から離れていったんです。
そして、あたかも、私は異邦人のようでありません、豚肉なんか食べていません、いかも、たこも食べていません…、そういう振りをしたんですね。

ユダヤの食事そのものが問題ではありません。
律法で禁じられているものは、傷みやすい、食あたりを起しやすい、そういう食べ物です。私たちも豚肉はよく火を通すように、冷蔵庫などない当時にあって、そういった食べ物を避けるというのは、理にかなった話、ある意味、正しいことでもあるんです。

 しかし、その、たった1つの食べ物によって、神に喜ばれるとか、汚れるとか、あがったり、さがったり、人の評価が決まるわけではありません。その他にも、数多くの律法、事柄はあるわけですよね。
 でも、ペテロは、ユダヤ人からの攻撃を恐れるあまりに、その食卓から身を引いた。そればかりか、パウロと行動を共にしていたバルナバまでもが偽善に引き込まれた。

 そこで、パウロは猛然と抗議するわけです。
 パウロは、今でこそ有名ですが、十二弟子でもない、下っ端の使徒です。一方、ペテロといえば総本山エルサレム教会のトップですよ。その下っ端が、エルサレム教会のトップに面と向かって抗議するというのは、ただごとではありません。

2:14 しかし、彼らが福音の真理についてまっすぐに歩んでいないのを見て、私はみなの面前でケパにこう言いました。「あなたは、自分がユダヤ人でありながらユダヤ人のようには生活せず、異邦人のように生活していたのに、どうして異邦人に対して、ユダヤ人の生活を強いるのですか。

 ペテロも、別に言葉で、異邦人に、ユダヤ的な生活を強いたり、救いを否定したりしたわけではありません。
たかが食事です。しかし、されど食事だったんです。
ペテロたちの行為によって、異邦人がワンランク下かのような、あたかも律法を守ってないことが不完全、不十分であるかのような錯覚を起させたんですね。
結果として、神の恵み、福音の真理を分からなくさせてしまっていたんですね。

そこにパウロは、猛然と抗議したわけです。まして、律法を大切にするユダヤ人がいる前で、律法を否定するようなことを言うのは、まさに命がけです。神を冒涜する者、まさに死刑に値します。ですが、パウロは、キリストの使徒として、命を懸けて、宣言するんです。それが、16節、福音の大憲章です。

2:16 人は律法の行ないによっては義と認められず、
ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、
ということを知ったからこそ、
私たちもキリスト・イエスを信じたのです。
これは、律法の行ないによってではなく、
キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。
なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。

もし私たちが、自分の行ないによって義と認められる、正しいと認められようとするならば、律法の全て、いや、それ以上のことを守る必要があります。
たかだか割礼1つ、食事1つではないんですよ。

日本にも、いくつも法律があるわけですが、例えば道路交通法、どこまで把握して、守っていますか。ある教習所で、ベテランのドライバーを集めて、運転免許を取る時の試験を受けさせたんですね。だいたい正解率は7割くらいだそうです。
 まあ70点くらい取れれば上出来かな…って思うじゃないですか。でも、本来、免許取るには90点以上必要なんですね。
しかも、○×式での試験ですからね。全くわからなくても、確率的に50点は取れる試験なんですよ。すくなくとも、3割は、違反していても気づいてもいないということになりますよね。

まして、聖書の教えをどこまで把握して、事細かに覚えていますか。分からないですよね。

それなのに、たかだか割礼一つ、ユダヤ的な食事一つで、自分は正しいとしてしまう。
ほんの、ごくごく一部の行為によって、自分は正しいとしてしまう。

ありえない。それが、いかに独善的、自己満足的な正しさか分かると思います。
 
 その律法そのものが悪いわけではないんです。むしろ、正しいことだったりします。
 「主義」が問題。
ある律法の行ないによって、自分を正しいと主張する…それが律法「主義」というものです。律法によって、自分を評価し、また人を評価し、上げたり、下げたりしてしまう…
そればかりか、本来、無条件に注がれている神の恵みに、勝手に条件を付けさせる、自分の手柄にしてしまう、やがて「恵み」であることをわからなくさせてしまう…そこに問題があるわけです。
ガラテヤの教会もまた、信仰プラス アルファーをつけて、神の恵みが分からなくなってしまっていたわけですね。

 私たちも、そもそもユダヤの律法を守っているわけではありません。
でも、どこか自分たちの独自の判断基準や、価値観、律法を作っては、それによって自分の正しさを主張する、自分が正しくあることによって身を立てようとする、なんとか主義を掲げてしまう、そんな性質もあるように思うんですよ。
もちろん、正しいことをすること自体はいいんですよ。でも、そういった自分の正しさを打ち立ててみては、できない人を責めてみたり、逆に、その自分の正しさが崩れると今度は落ち込んでみたり、あがってみたり、下がってみたり、忙しかったりするんですよね。実際、私も、そうですわ。

しかし、本当は上も下もない、罪という点では五十歩百歩、実は、それ以上に多くの面で罪があって、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められただけのもの、すなわち赦されている罪人にすぎないんですよね。

2:17 しかし、もし私たちが、キリストにあって義と認められることを求めながら、私たち自身も罪人であることがわかるのなら、キリストは罪の助成者なのでしょうか。そんなことは絶対にありえないことです。

信じる信仰だけで救われるというと、罪が野放しになるかのように思われがちですが、そうではありません。
キリスト・イエスを信じるということは、まず私たち、自分自身の罪を認めるということから始まるんですね。もし、自分の罪が分からなければ、罪の赦しを求めることなんて、ありえないですよね。

2:18 けれども、もし私が前に打ちこわしたものをもう一度建てるなら、私は自分自身を違反者にしてしまうのです。

でも、それを、あれをしてはいけない、これをしてはいけない…と、再び律法的な規制によって罪を犯さないようにしようとするなら、それこそ違反者だというわけです。

では、私たちは、どうあるべきなのか。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。

よくこの箇所は、自分を殺す、自我が死ぬ。自我が死んで、神に全てを捧げきる信仰の極意か、悟りの境地みたいに語られることがありますが、決して、そうではありません。それは完全なる間違いというか、勘違いです。
「私」という言葉は、ギリシャ語でエゴーですから、まあ確かにパウロはエゴが死んだと言っているわけですが、自我は決して死なない…というか、殺してはいけないんです。
 なぜなら、イエス・キリストは命を懸けて、この「私」を愛してくれているんですよね。

2:19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。

 律法主義の世界では、自分が罪人であるということを認められません。
もし自分が罪人だということを認めようものなら、その時点で、自分自身の評価が下がる、存在すら否定されてしまうですよ。仮面を被って、本来抱えている罪人として姿を隠し通さなければならない世界。すなわち自分を殺す、これこそ、律法主義の実情です。

パウロも、そんな律法主義の世界で、ひたすら律法を守ってきた人です。
しかし、あのダマスコ途上の出来事。
サウロよ、サウロ、なぜ私を迫害するのか、わたしはあなたの迫害するイエスである…。
熱心さのあまり教会を迫害していた私。
自分は正しいと思いながら、実は、律法によって裁かれるべき罪人だった私。
まさに、そんな私をも愛し、十字架を背負うキリストと出会うわけです。

私はキリストとともに十字架につけられました。
かつての教会迫害者であったサウロは、十字架の身代わりの死によって、罪人として、すでに裁かれ、すでに死んだものとされた。

もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

仮面を被って、自分を殺す「私」から、
キリストの愛によって生かされている「私」へ…。

ここに、クリスチャンとしての自我、どう生きるのか、行ないもあるとおもいます。
イエス・キリストの愛を受け止めることが出来た時、心に何の変化もないということはないんですね。そんなイエス様のことを礼拝したい、そんなイエス様のことを賛美したいという気持ちや、この貧しい心にも、多少なりとも愛なり、喜びなり、やさしさなりも生まれてくるんですね。そこから自然と出てくる行動、行ないがあるはずなんですよね。

もちろん、生まれながらの罪人としての自分も、実際には、まだ生きていますから、多くの面で、失敗もすれば、罪も犯しますよ。誰かを、赦せない、愛せなくなることもある。
でも、十字架があったなら、復活もまたあるんです。
そこには、イエス・キリストに愛されて生きる「私」も、確かに存在しているんですよね。

パウロが使徒として異邦人に伝道したのも、キリストの愛に迫られて、内側から湧きでてきたものなんです。

2:21 私は神の恵みを無にはしません。
もし義が律法によって得られるとしたら、それこそキリストの死は無意味です。
無駄死にです。
犬死にです。

パウロの叫びは、ここにこそあります。

信じる信仰によって救われる…。私たちは、普段、その福音の真髄を、どのくらい大切に、どのくらい価値あるものだと感じているでしょうか…。
信じるだけというと、何か物足りないような、簡単すぎるかのような気もするのかもしれません。多少なりとも、自分の努力か行ないがあった方が、安心できるというか、いかにもクリスチャンとして、信仰的に優れているかのような気がするのかもしれません。

しかし、すべてはイエス・キリストの十字架によって、成し遂げられたこと。大きな大きな神の恵みなんです。
それは、皆さん一人一人を神がどれほどまでに愛しているのか、神の愛の現われでもあるわけです。
 
なぜ、主イエスは十字架を背負ったのか…。

クリスチャン的模範解答で言えば、「イエス様は、私たちの罪の身代わりになるために、十字架を背負われた」と言うことになるわけですが、言葉にしてしまえば簡単です。

でも、十字架というのは、世界で最も残酷だといわれる死刑です。それは、決して、簡単ではないし、宗教的、教理的な思想、頭の中だけでの事柄ではないんですよね。

イエス様は、実際に、遊女、取税人、多くの罪人たちを赦し、受け入れ、友となれたわけですが、一方で、祭司、パリサイ派、律法学者、いわば宗教的な正しさを身にまとった律法主義者たちから、罪を赦していいのか、それでは秩序が保てない…そういった反発、非難も、強く強く受けていくわけです。
しかし、それでも、なお、神はこの人たちも愛していると、主イエスは罪人たちをかばうかのように、赦し続けたんですよね。
そんな主イエスの周りには大勢の群集が集まるようにもなっていきます。そこで、政治家でもあった祭司たちは、このイエスの名によってテロやクーデターが起きることを強く警戒しはじめたんです。実際に、ヨハネの福音書には、このイエスを王として担ぎ上げよう、つまりクーデターを狙っていた人達がいたことも書かれています。そのイエスが、首都エルサレムに入るということは、どういうことになりますか。一気に緊張が高まるわけです。
もちろん、主イエスにテロだのクーデターだの、そんな意図は全くありません。
でも、この時、この段階で、エルサレムに入るということが、必然的に十字架を意味していたんです。それでも、主イエスは、そこから逃げなかった。わかっていながら、神の都エルサレムへと向かうわけですよ。それでも、なお愛を貫き通したんですよね。
 その結果としての十字架。

「イエス様は、私たちの罪を赦すために、いや赦したからこそ、十字架を背負われた」これは、決して、ありがたい救いの教えではなく、歴史的な事実です。

今日は、このあと聖餐式があるわけですが、
最後の晩餐で、ぶどう酒に象徴された主イエスの血潮。あれは、単に血液そのものを意味しているわけではないんです。ユダヤ人的な感覚では、血は命を意味しているんですね。
ですから、あの杯に注がれているのは、主イエスの命そのものなんですわ。
「この杯から、取って、飲みなさい。これは、わたしの契約の血、いのちそのものです。罪を赦すために、多くの人のために流されるものです…。」

私たちは、そんなイエス・キリストの生き様、命の中に、神の愛や、神の赦しを知り、ただ受け取っているにすぎません。「信じる」ということは、神から与えられた愛や赦しを信じて、そのままに、ただ受け取ることなんです。

特に今週は、イエス様が十字架を背負って成し遂げてくれた神の恵みの大きさ、深さ、広さを味わいつつ、来週のイースターを迎えたいものですよね。

神は、実に、そのひとり子イエス・キリストをお与えになったほどに、世を愛された。
それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、
永遠のいのちを持つためである…!! ヨハネ3:16
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2008年02月24日

パリサイ人の食卓 ルカによる福音書7:36〜50

2008年2月24日 シャローム福音教会

イエス様が活動した場所を見ていくと、神殿とか、会堂とか、神様のために特別に整えらた宗教的な場所よりも、その多くを日常的な空間で語られています。その1つが、「食卓」という場所です。

今日は、「パリサイ人の食卓」というタイトルでお話させていただくんですが、皆さんにとって、普段の食卓というのは、どういう場所でしょう。
いろんな食卓があると思うんですよね。私の普段の昼飯といえば、会社の机で、カップラーメンとおにぎり一個が定番なんですが、そんな落ち着かない食卓もありますし、仲間同士、大勢で食べる食卓もあります。楽しい食卓もあれば、時には喧嘩をする食卓なんていうのもあると思います。

そんな私たちの日常の食卓を見渡した時に、そこが王の王、主の主、神と呼ばれる方を迎えるのにふさわしい場所か…というと、決してそうではないと思うんですよね。
でも、その「食卓」にもイエス様は来てくださる。それは、まさに恵みだと思います。

今日の箇所の直前、34節を見ると、イエス様が、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難を受けていたことがわかります。
イエス様の周りには、実に多くの罪人たちがいて、イエス様は、その罪人たちと、よく食卓を囲んでいたんですよね。

ところが、同じ食卓でも、今日の箇所は、ちょっと珍しい食卓かもしれません。

 7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家に入って食卓に着かれた。

 さらっと読めば、さらっと読めてしまうところなのですが、実に奇妙な話の連続なんです。
パリサイ派といえば、イエス様と、意見の対立していた人たちです。
まさに、「あれは大酒のみの食いしん坊。罪人の仲間だ」と非難していた張本人です。

そのパリサイ人が、イエス様を自らの食卓に招いたと言うわけですから、ありえない…というか、何か裏が大いにありそうな気がするじゃないですか。背後には、緊迫した空気も流れているのです。

 しかも、そこへもってきて、すると、その町にいた一人の罪深い女がやって来た…と言うわけです。
 この「すると」と訳されている言葉。他の訳では、「見よ」と訳されている言葉、「見よ、罪深い女性がやって来た」注意、注目を示す言葉です。おそらく、遊女、売春婦だったと思われます。

 パリサイ人は、こういう女性たちのことを、汚らわしい、絶対、話したくもない、毛嫌いしていた訳です。もちろん、この女性だって、そんなパリサイ人なんて大嫌い。イエス様以上に水と油だったわけですが、そのパリサイ人の食卓に、罪深い女までやってきちゃったという訳ですね。

何も起こらずには済まないような状況。いったい、どうなってしまうというのか。
…なんていうまもなく、この女性、イエス様の足もとに立つやいなや、泣きだしちゃった…というわけですね。

当時、足を投げ出して、半分寝るような格好して食事をした訳ですが、そのイエス様の足元で、…涙で足を濡らし、髪の毛でぬぐい、口付け、キスをし始めた。
しかも、ここは、未完了形、何度もキスをし続けて、やめなかった…のです。

さあ、皆さんは、この光景をどんなふうに見ますか。どんな情景として、想像していますか。

 私たちは、この女性のしていることを、美しい礼拝の姿の1つとして見てしまうのかもしれません。しかし、実際に、現場にいた人から見れば、いったい何が、起こったんだろう…、あの女は、一体、何をしているんだろう…、実に、実に、奇妙な光景が展開されている訳です。

そんな時、このシモンは、心の中でこう思うわけです。
39節、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」

 聖書では丁寧な日本語で、「この方が…」なんて書かれていますが、気持ちとしては「こいつが…」です。
「この女が誰で、どんな女であるか…」
そんなことは、一目瞭然、見た目一発でわかる、その町で有名な罪深い女性なんです。よっぽど鈍感じゃない限り、誰でもピンとくること、別に預言者の証明になると言うことではありません。

 シモンが何を思っているかというと、「こいつが、本当に預言者だったら、この女を、どう扱うか見物だぞ。罪深い女なんだから。」といういうことなんですね。
「この女のしていることを、神が赦すわけがない。そのまま見逃してしまうのなら、神の言、律法を無視することになる。預言者とはいえない。偽者である。」という論法です。

彼にしてみれば、これで、あのイエスという男の尻尾が捕まえられる、ちょうどいい鴨がやってきた…といったところだったかもしれません。
一人の女性が涙している姿を、そんな冷やかな眼差しで見ていたのです。

 しかし、それがきっかけとなって、この奇妙な光景の真実が、明らかにされていきます。

 まず、イエス様が、語られたのが、このたとえです。
 ある金貸しから、500デナリ借りた人と、50デナリ借りた人。日本円で、500万と、50万ですが、金貸しは、その両方とも赦してやった。
 どちらが、よけいに、この金貸しを愛するようになるかと言う訳です。

多く赦されたものが、多く愛するということ。
単純に受け取れば、この女性が多く愛してくれているのは、多く赦しを受け取っているからだ…というわけですね。
でも、パリサイ人シモンと、この女性、どちらが罪深いと思いますか?

この女性は、確かに、これまで罪深いことをしてきたのかもしれません。いや、この時、現在進行形で、罪深い女性だったことでしょう。でも、生まれた時から、そうなりたくて、そうなった訳じゃない。この女性の持つ本当の「真心」というものを、誰にもわかってもらえず、傷つき、痛み…、それでも一人、突っ張って生きてきたのでしょう。

そんな一人の女性が、このパリサイ人の食卓に出て行くのは、とてつもなく、勇気が要ることだったと思います。周りからは、白い目で見られ、ある意味、罪深い自分が、赤裸々にされるわけでしょ。もしかすると、この女性自身も、すぐにでも外に追い出されるつもりでいたかもしれません。
しかし、主イエスは、この女性した行為を何なく受け止めた。この女性の真心を受け止めた。赦されていたんです。
だから、感動しつづけた。涙があふれて、止まらなかった。キスをし続けて、やめなかったのです。

多く赦された者が、多く愛すると言うこと。
 
この女性の流した涙は、悔いの涙であると同時に、感動の涙…。
イエス・キリストに赦されていることを知った彼女は、ますます多く愛があふれてとまらなかったのです。

では、このパリサイ人シモンという男は、赦されていなかったのでしょうか。
 やっぱり赦されていたんですね。

当時、未舗装の道路をサンダル履きで旅をする訳ですから、足は汚れ、髪の毛も誇りで汚れ、乱れます。そんな旅人を家に招く時、足を洗い、口付けを持って迎え、頭に香油を塗る、これは、最低限のルール、礼儀だった訳です。
日本で言えば、まず上座へ通し、お茶を出す、みたいな? いわゆる、お約束です。
 
このシモンという男、そういったことを何一つしていなかったのです。ここでイエス様のことを、心から歓迎しているわけではなかったことがわかります。
 にもかかわらず、この女性のことを、罪深い女だと冷やかに見下していたんです。

「愛する」ということこそ、本来あるべき、律法の中心、聖書の中心です。
ところが、「愛する」というのは、行為だけではなくて、心が伴うものではないですか。「真心」というもの。どれだけのことをしたかではないし、形だけでは取り繕えないんですね。
このパリサイ人シモンは、確かに事細かな数多くの律法は守っていたかもしれませんが、肝心の愛するということは見失っていたのです。

そんな、もてなしの礼儀を決定的に欠いていたにもかかわらず、愛を見失っていたにもかかわらず、イエス様は、その「パリサイ人の食卓」にも着かれたんですよね。この、たとえ話からもわかるように、両方とも、赦されていたのです。

 ところが、このシモンは、律法を守るという、自分自身の宗教的行為に安心して、自分は「正しい」と思っていた。自分の落ち度や、自分の罪に気がつかず、まして自分が赦される必要性も感じていなかったのです。これが、パリサイ人シモンの真実でした。
その為に、すぐ目の前に神の赦しがあったのに、いや実際に赦されていたのに、それを受け取ることも、味わうこともできなかったのです。

 イエス様は、そのシモンに向けて、こう語りかけます

 この女を見ましたか…。現在形。
 …この女を見ているかい。
  わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが…、
  この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました…。

  あなたは、できているつもりになって、この女性を見下しているけど、
  あなたができなかったことを、この女性はしているんじゃない…
  あなたも、また、できていないんだよ。
  あなたもまた、多くのことが、赦されているんだよ…。

多く赦されるか、少ししか赦されないか…、
それは、過去に罪を多くした人ほど、多くのことが赦されて、罪が少ない人は少ししか赦されることがない…というわけではないんですね。
 自分の罪というものを量ではなくて、質としてどれだけ自覚しているかです。
罪というのは、軽くても重くても、単純にしてはいけないことでしょ。そのしてはいけないことを、してしまうのが私達の罪深さなんですね。シモンは、それを自覚していなかったわけです。
実に、私たちは、自分が思っている以上に、多くのことが赦されているんです。

どうしても私たちは罪というと、なんだか自分が責められるような気がして、あるいは自分が不利になるような気がして、中々認めにくい時があります。
 人のせいにしてみたり、言い訳してみたり、どうせ罪人なんだからと開き直ってみたり…でも、自分の罪が認められるのはいいこと、すばらしいことなんです。

「あなたの罪は赦されている!」

49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

こういう考えは、私たちの日常の中に、多く溢れているような気がします。
もし、巷で話題になっている罪深い人に対して、「あなたの罪は赦されています。」と公に宣言するとしたならば、「罪を赦していいのか」「いったい何様のつもりなんだ。」とか、同じような反応があるような気がしますよね。

もしかしたら、この女性自身、そう思ったかもしれません。彼女もユダヤ人。罪が赦されたのはうれしいんだけど、本当に大丈夫なんだろうか…

一人の罪人の罪が赦されるとき、その罪の責めは、赦した者に移ります。
この女性の罪を赦したときから、その罪の責めは、キリストご自身が負っているのです。

「あなたの信仰が、あなたを救った。」

これは本来、日本語にはない言いまわしなんですよ。なので、少し意味がぼけてしまっているんです。どうでしょう、皆さん。自分の信仰が、自分を救うと思います?
もし日本語的な表現で訳すなら、「あなたの信仰のゆえに、私があなたを救う。」になるところなんです。イエス様が救ってくれるんですよね。

あなたは私のことを信じているから、その信仰のゆえに、私はあなたを助けるよ。
私があなたの身代わりになって、十字架を背負うよ。だから、安心していきなさい。
キリストは、十字架での命と引き換えに、罪を赦しているのです。

 私達もまた、この女性と同じように、イエス・キリストの十字架によって赦された罪人です。みなさんなら、よく理解されているかと思います。
ところが、ところがなんですよ。私達の日常の中では、時に、パリサイ人シモンのようになってしまうことがあるような気がするんですよね…。っていうか、あるんですわ。
私達は「自分が正しい」と思っている時ほど、人を上から見下したり、非難したり、裁いていたりするんですよね。高ぶりというもの。それもまた、実は、罪なんです。
 パリサイ人シモンの姿、それも罪深い人間の姿、私たちの真実な一面かもしれません。

しかし、ここが今日の一番のポイントです。
イエス様はそんな「パリサイ人の食卓」にも着いてくださっているんですよね。

イエス様は、その両方とも、赦しているんです。両方とも、イエス様に赦された罪人の食卓だったんです。ですが、シモンとこの女性の違いは、自分の罪を自覚しているかどうか、ただ、それだけだったのです。でも、その食卓で、イエス・キリストにある愛と赦しと恵みを味わえたのは、なんとこの罪深い女性なんですよね。

 みなさんが、今日、家に帰って、また日常の食卓につくと思います。
 そこは、決して、イエス様を迎えるのには、ふさわしくない食卓かもしれません。でも、今日、その食卓に付いた時に、ぜひ思い出してほしい。イエス様も、その食卓についてくださっているんです。そこには赦しがあり、そこに、恵みがあるんです。
 ぜひね、その食事と同時に、その恵みも味わってみてほしいと思います。

恵みとは、受けるに値しないのに、無代価、無条件に神が与えてくださるよいもののことをいいます。そして、そのよいものが、自分は受けるにふさわしくないにもかかわらず、無代価、無条件に受け取る時に、はじめて「恵まれた」となります。

 見よ、罪深い女がいた。 見よ、罪深い男がいた。 見よ、罪深い自分がいた…。

 「あなたの罪は赦されている…。」

 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。
 罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう…。
 
 しかし、イエスは言われた…。

「あなたの信仰が、あなたを救った! 安心して…行きなさい…!!。」

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2008年02月10日

系図に始まる福音書 マタイ1:1〜17

2008年2月10日 聖望キリスト教会

みなさん、おはようございます。
今日は、マタイの福音書のはじめ、イエス・キリストの系図そのものを取り上げてみたのですが、実際に、読んでみていかがでしたでしょうか。
正直、つまらない。それが一番の印象ではないかと思います。
初めて、新約聖書を開く人が、初めに目に付くのが、このマタイの福音書の系図だったりするわけですよね。なんじゃこりゃ。
なぜ、マタイは、この系図から始めたんでしょうね…。

こうして、メッセージのご奉仕をさせていただいていると、今年は、何をテーマにメッセージをしていこうかとか、皆さんに何をどう伝えようかとか、いろいろ考えるわけですよね。その時に、なぜか気になりだしたのが、この系図の存在なんですね。
もう少し、興味を引くような出だしはなかったものでしょうか。

注解書を見れば、一応の答えはすぐに出てきます。
1番目に、まず、このマタイの福音書は、まずユダヤ人に向けて書かれた福音書であることが挙げられています。
私たちにしてみれば、あまり関心のない系図なんですけれども、ユダヤ人にとっては、非常に関心のある事柄であったわけです。

なるほど。。。という気がしますよね。

でも、マタイが、素直に、系図を取り上げているのかというと、決してそうではないんですよね。普通、こういったユダヤの系図には女性の名前は出てこないんですか、マタイは、マリヤを除いて4人の女性を挙げています。それは、いわば曰く付きの女性たちばかりです。
タマルは、ユダの息子の嫁、舅と嫁の関係です。
ラハブは、遊女。
ルツも、モアブの異邦人。
そして、ウリヤの妻、バテシェバですが、ようするに不倫の関係です。

それにも一応、答えがあって、注解書では、イエス・キリストが罪人の家系に生まれた、まさに罪人の中に来られたということを、マタイは伝えたかったと解釈されています。

なるほど。。。確かに、そうかもしれない、そうなんでしょう。
しかし、1番目と2番目の理由は、どこか矛盾しているような気がします。
マタイは、ユダヤ人の誇りである系図を尊重しているのか、それとも否定的なんでしょうか…。なんか、腑に落ちないんですよね。

もし、マタイが、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人の関心のある系図を書いたとすれば、福音書の冒頭で、いきなりユダヤ人の誇りに挑戦するような、しかもイスラエルの英雄・ダビデの系図ですよね、そこに、わざわざ、この4人の女性たちを取り上げるでしょうか。

しかも、マタイの頭の中には、少なからず、この福音書の最後、世界宣教命令があったはずです。そこに、ユダヤ人にしか興味のない系図を、冒頭でぶつけてくるだろうか。

マタイは、この28章に渡るマタイの福音書、イエス・キリストという一大テーマを書くにあたって、なぜ、アブラハムの系図から始めたんでしょう…。

そこには、もっと何かマタイなりの訳、マタイ自身にとっての系図の持つ意味があったんではないだろうか…。なんてことを、考えちゃったりしてたわけですね。

そんな時も時、ちょうど、この前、堅固さんが取り上げてくれたアブラハムに与えられた神の約束に触れた時に、マタイのこだわりも、ここにあるんじゃないかと思うのです。

創世記
12:1 その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。
12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

このアブラハムに与えられた祝福の約束。
「あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。・・・地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」…という、アブラハムの祝福の約束とですね。
マタイ 28:19「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」…という世界宣教命令。

この二つ、すごく似ていると思いませんか。

マタイは、アブラハムに与えられた祝福の約束の実現を、このイエス様によってもたらされた世界宣教命令に見ているんではないだろうか。

1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。

この系図というのは単に、単にユダヤ人としての血統、血筋、家系を現しているのではなく、そのアブラハムと、その子孫とに与えられた、神様の祝福の約束の継承、その系図、歴史を表しているといえるのではないでしょうか。
そこにこそ、本質的なユダヤ人として系図のあるべき意味もあるはずです。

今日は、そういった視点で、この系図を辿ってみようと思うわけですが、アブラハムから、実に、イエス様の誕生まで2000年ですよ。あー、長いですね。ガンバって、その2000年を見てみたいと思います。

まず、アブラハムに与えられた祝福の約束ですが、アブラハムにイサクが生まれ、イサクにヤコブが生まれ、ヤコブにユダとその兄弟たちが生まれ…、子、またその子へと、受け継がれていくわけですね。
でも、その過程の中には、あるまじき行為や、ユダヤ人たちが嫌っていた異邦人の血も含まれていたわけです。

3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、
タマルは、舅と嫁の関係です。まさか…のような関係でしょ。
 それでも、その本来あってはならない関係の中で、生まれた子に祝福の約束は継承されていくわけです。

5 サルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、

ラハブは、エリコを攻める時にイスラエルに協力した女性ですけれども、元々エリコの街に住んでいた遊女であり、ユダヤ人でもないでしょう。

ルツもまた、モアブの異邦人です。
律法では、特に、このモアブ人との結婚は硬く禁じられていました。それは、異国の宗教、偶像礼拝が持ち込まれてしまうからですが、でも、ルツはモアブ人ながら、ユダヤ人にとっても1つの模範として存在してもいるんですよね。
実は、血統、血筋が問題ではなく、信仰こそが大切ではなかったのか…そんな問いかけも含まれているのかもしれませんね。アブラハムの祝福の約束は、しっかりと、その子どもたちへと受け継がれていったわけです。
ボアズに、ルツによってオベデが 生まれ、オベデにエッサイが生まれ、
そして、エッサイによって、かのダビデ王が登場するわけですが、ダビデもまた罪を犯してしまいます。ウリヤの妻、バテシェバとの不倫です。

悲しいかな、これが罪人としての人間の本質ですよ。
しかし、ここで注目したいのは、でも、その決して、あってはならないような関係、罪がある関係、その間で生まれた子供にも、祝福の約束は継承されていったという点です。

こういった関係を、神が認めているのかというと、決して、そういうことではありませんよ。しかし、もしここで、神様がダビデを切ったら、この系図も、ここでおしまいなんですよね。
バテシェバとの最初の子供は、命を落としてしまうんですが、しかし、ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ、祝福の約束は、その子へと継承されていったんです。なぜでしょう。

子供には、罪がなかったかというと決して、そんなことはありません。子供には、子供で、自分自身の罪があるんですね。

ソロモンの時代に、イスラエルは栄華を極めるわけですが、ソロモンには、700人の妻と300人の側室がいたと記録されています。それも、外国の女性たちが多かったようです。次に出てくるレハベアム(旧約聖書では、レハブアム)は、アモン人の女性との間に生まれた子です。

それにしても、この700人の妻と300人の側室…、数が異常だと思いませんか?
ソロモンは、実は、家族の愛に、非常に枯渇していたのではないかと思うのです。
罪を犯したのは、あくまで親であるダビデとバテシェバです。
しかし、小さい時から、そのソロモンに向けられていた目というのは、どんな目だったでしょうか。まして、その子が王位を継承していくのです。その裏では、ねたみや、嫉妬、言葉ではいわれなくても、「ソロモンは不倫の子」、そんな視線が、実は、あったんではないでしょうか。それが及ぼす人格への影響って、必ず、あるはずですよね。
私たちも、ここは注意したいところです。罪に対して責めるばかりで、そこにある神の赦し、神の恵みを見逃してしまうことがあるように思う。
主はソロモンを愛したと、聖書にはあります。そして、そのソロモンに、アブラハムの約束は受け継がれたわけですね。それは、まさに、神様の恵みでしょう。

しかし、そうはいっても、あまりに奥さんが多かったものだから、国家の財政は破綻していきます。しかも、ソロモンは、彼女たちの持ち込む異国の宗教まで取り入れてしまうわけですね。それが、後々、混乱の元にもなります。
その息子レハブアムの時、イスラエルは南北に分裂し、国は徐々に衰退していきます。系図上では3代ほどカットされていますが、やがて滅ぼされ、バビロニアへの強制連行・バビロン捕囚を迎えるわけです。

そして、この捕囚以後になると、これらの人物というのは、聖書に、他の記録はありません。かつては栄華を極めたダビデ・ソロモンの王家も、歴史から名前を消していくことになったわけなんです。でも、その間も、人知れず、アブラハムへの約束は継承されていたんです。

そして、16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。

あまり、ヨセフについての記事も多くはないし、語られることは少ないんですが、このヨセフ、すごいと思いませんか。
結婚前に、婚約者が、自分に身に覚えのない子供を宿したっていうんですよ。実に、ヨセフとイエス様は繋がっていないんですよね。
いくら聖霊によって、身ごもったと言われても、誰が、信じられるか!という話じゃないですか。ヨセフも、ひそかに離別しようとしていたことが、このあとに書かれています。

しかし、ヨセフは、結果として、イエスを宿したマリヤを迎えいれるんです。マリヤの嘘かもしれないし、天使が現れたといっても、ただの夢かもしれないじゃないですか。しかし、このヨセフは、それを信じるんですよね。マリヤの夫ととして、またイエスの父として家族を守る、その大きな役割を担うわけですよ。こうして、救い主の誕生の用意が整うわけです。

こうして、見ていったときに、アブラハムに始まったこの系図に描かれているものは、本来、あるべきではない関係、時に罪の関係にあってさえも、その間に生まれた子、また子へと、神の祝福の約束が受け継がれていき、マリアの夫ヨセフという存在を生み出しているわけですね。もし、これが、途中で否定、断絶されてしまえば、この「ヨセフ」という存在もありえないんです。

そして、イエス・キリストにあって、世界へ。

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」
「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

私たちは世界宣教命令というと、普通、「宣教」に重きを感じてしまうのですが、ここでは、もっと「世界」が強調されるべきなのような気がします。

イエス様のこの時代、ユダヤ人たちは、まさに家系、血統、系図そのものに縛られていました。2000年という歴史の間に生まれた誇り、自負のようなものもあったんでしょう。
ユダヤ人こそ、神に選ばれた民である。ユダヤ選民思想。神を知らない異邦人が、神に愛され、神に祝福されることなどありえない…そういう感覚です。系図によって壁を作ってしまったんですよね。そのために、逆に、異邦人を排除するようにもなり、なんとイエス様まで拒んでしまったんですね。
しかし、「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」
アブラハムにはじまり、約2000年の時を超えてユダヤ人に受け継がれきた、神の祝福の約束は、あらゆる国の人々へ、すべての民族へ、祝福を注ぐものであったはずなのです。

系図を超えて、世界へ。
 民族、血統、国境を超えて、世界へ。
 歴史、文化、伝統を超えて、世界へ。

 「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。」

それが、イエス・キリストの十字架と復活によって実現し、さらに2000年という時を超えて、今や、イスラエルから遠く離れた私たちのところにまで、神の祝福が訪れているわけです。
私たちも、そういう意味では、イエス・キリストにあって、アブラハムの祝福の約束を受け継ぐ者でもあるわけなんですね。

さて、そこで、私たちにとって、ユダヤ人がこだわってしまった系図に値するようなものはないでしょうか。

1つには、キリスト教も、この2000年という間に築かれた、歴史、文化、伝統、それに対する誇りもあるような気がします。
その歴史や、文化、伝統もあって、今の私たちも存在しているのも確かです。ですから、それを否定することはできません。
しかし、一方で、その歴史には、人間的な誤りもあったわけですよね。
でも、そこを超えて、神の祝福の約束が、人から人へと受け継がれてきたわけですよ。それは、まさに、神様の憐れみ、恵みでしょう。

歴史、文化、伝統を超えて、世界へ。
今までに築かれてきたキリスト教の文化、伝統というのは、多くは西洋で築かれてきたものだと思います。それはそれで大切にする一方で、これまでの文化や伝統にのっとる事が、正統であるということではないはずです。日本人のための、日本人によるキリスト教文化もあっていい。大切なのは、ヨセフのように、救い主を迎え入れるということでしょう。
時には、伝統を塗り替える、乗り越えていくことも必要なのかもしれませんよね。

聖望教会は、その点、かなり自由のある教会だと思います。他の教会に奉仕に行くじゃないですか。乗り越えなければならない壁みたいのを感じますよ。
しかし、その聖望教会にも、今までに築いてきたスタイルや、伝統にもなるものもあると思うんです。それが聖望教会の聖望教会たる所以である一方で、そこに固執してしまうのではなく、さらに新しい聖望キリスト教会流を発信していくことだと思うんですね。これから会堂建設も控えているわけですが、この市川の地から、世界に向けて発展し続ける聖望教会でありたいですよね。

さて、もう1つ、私たちにとっての系図、それは自分自身の生まれ、育ちにおいてです。
わたしもまあ、よくも悪くも父親から、いろんなものを受け継いでいますよね。
父親だけではなく母親もそうだし、これまでの人生の中で、いろんな人の出会いや経験の中から、いいことも、悪いことも含めて、築いてきた歴史、価値観、人格があるんです。

私の弱点の1つは、時に、マイナス的な評価に捉われ過ぎてしまうことがあるんです。それも、いつもではなく、何かあるパターンの時に必要以上に極端にガクーンと落ち込んでしまう時があるんですよね。また、そうなるのを恐れて、臆病に成ってしまう事がある。
あるいは、苦手なタイプができたり、嫌いなタイプの人が出来たり、それは自分自身の内に壁みたいなものができてくるわけですよ。
それも、今までの経験の中で築かれた何かが、そういう風にさせているはずなんです。

よく誰かに何かを言われて「傷ついた」という感情ってありますよね。あれも、恐らくその時に傷ついているわけではないと思うんですよ。それまで過去の人生の中で、どこかで経験した傷があって、それが反応しているんだと思うんですよね。

そういった今までの人生の中で築かれてきた性質、性格…、今の自分に至るまでの歴史、系図が、私たち人それぞれあるわけですが、そういう生まれ、育ち、環境にあったから、仕方がないのか。それが、すべてなのか。いや、決して、そうではない。
欠点や罪があるから、ダメなのか…そうではありません。

系図を超えて、世界へ。

イエス・キリストにあるとき、そこには癒しと回復もあるはず。
今ある自分自身という壁、自分という枠組、過去の生い立ち、系図を越えて、ほんの一歩でも進み出る事ができたとき、きっと、新しい世界がそこにはあるはずです。

「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。
地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

これは、命令ではなく、約束です。
私たちは、今や、アブラハムの約束も受け継いでいる者なのです。

「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」

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2008年01月15日

恵みによって強くなる 第2テモテ2:1〜13

◎2008/1/13 田園グレースチャペル

そこで、わが子よ…。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
第2テモテ2:1

みなさん、おはようございます。
今年は、初めてですよね。本年もよろしくお願いします。
お祈りいただいている静岡の父親ですが、クリスマスの時に入院したんで帰ったんですけれども、十何年ぶりに親子でのクリスマスとなりました。この親不孝者は、こういうことでもない限り、クリスマスに帰らないだろうと思うと、これもまた恵みなのかなと思います。

さて、今年から、あざみ野にある教会でも、奉仕させていただくことになったんですが、毎度のこと、新しい奉仕を引き受ける時なんかには、自分自身を見て、牧師とか、伝道師とか、そういった働きをする器なのかな…って思うんですよね。いや、一人の人間として、まだまだ青いな…と思うわけですよ。
そうするとですね、本当に自分はどうすべきなのかな…、俺なんかでいいんかな…、神様は俺に一体なにせいっていうんだろう…って、考えちゃったりすることも多いわけです。そのために、どこかで萎縮してしまったり、消極的になってしまうときもあるような気がします。

この第二テモテは、牢獄の中から、次世代の伝道者テモテへと書き送った、パウロ最後の手紙です。1章をみて見ると、どうもパウロが投獄されたことで、テモテはやや臆病風に吹かれていたようです。そんなテモテに、パウロは、呼びかけていきます。

2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。

普通、人間的に強くなる、鍛えるというと、教育だとか、訓練だとか、鍛錬によって強くすると思います。それはそれで目的に応じて必要ではあるんですが、でも、それだけだと時として、弱さに対する配慮を失ってしまう時もあるんですね。それで、もし、脱落してしまったらドロップアウト、落ちこぼれになっていってしまうんです。
しかし、パウロはここで「恵みによって」と言っているんです。恵みとは、無代価・無条件に神から与えられる、よいもののことをいいます。

しかも、ここの「強くなりなさい」は、原文では受身です。
キリスト・イエスにある恵みによって「強くされなさい」「強くしていただきなさい」
もっと積極的に言えば、「キリスト・イエスにある恵みが、あなたを強くする」ということになります。それは、一体、どういうことなんでしょう。

この時、誰が弱さを感じていたかといえば、まずパウロ自身だったように思います。1章をみてみると、1:8パウロが「牢獄いることを恥じてはいけない」、1:12「私はそれを恥とは思っていません。」1:16「私が鎖につながれていることを恥とも思わず」、恥るという言葉が繰り返されています。

神や救いを説いていながら、牢にいれられ、その神は本当に実在するのか…、宗教家としては情けない、「恥ずかしい」そんな視線や評価が周囲にはあっただろうし、パウロ自身が感じていたはずなんですよね。逆説的ですが、だから「恥」という言葉が繰り返されているんです。

でも、そんなパウロを支えたものはなんだったのだろうか。。。。
それは、パウロの精神力でも、忍耐力でもないんです。
パウロを支えてきたもの、それが、まさに、キリスト・イエスにある恵みだったのです。

私たちから見ると、パウロというのは、スーパー伝道者、ザ・クリスチャンのように見えるじゃないですか。でも、案外、劣等感のかたまりでもあったようです。

そもそも、パウロという人は、バリバリの律法主義者、破壊的な教会の迫害者であって、そのことに負い目も感じていたようです。

その当時の自分を振り返って、ピリピ人への手紙あたりでは、
「律法による義についてならば非難されるところのない者」とまで言ってるんですが、そのくらいパウロ自身は非常に熱心に、律法、神の言葉に従っていたと言えるでしょう。

でも、それは、恵みの世界とは全くの正反対、出来ない人間はダメ、律法を守らない人間はダメ、それでは神に喜ばれない、マイナス、マイナス、マイナス…そういう価値観、評価の中で、パウロは生きてきたわけです。
その中で、打ち勝っていくためには、とにかく徹底して律法を厳守していくしかないんですよね。そういった律法を守る事が、自分の評価にもなり、優越感、裏を返せば、自分が抱えている劣等感を覆い隠すこともできたわけです。

ところが、そこへ持ってきて、新しくできたキリスト教会という奴は、愛だの赦しだのを説いて、もう赦せなかったんですよね。多くの教会を迫害していたわけです。

そんなパウロ、当時は、サウロと言ったわけですが、そのサウロに一大転機となる事件が起きるわけです。それが、ダマスコ途上の出来事です。
ダマスコにある教会を迫害しにいく途中の出来事、そこでパウロは突然、目がくらむような光に包まれ、声を聞くわけですね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害するイエスである。」

サウロこと、パウロにとっては、衝撃的な出来事だったわけです。

イエスは、死んだのではなかったのか…
イエスは、よみがえったのか…
イエスは、神なのか…

だとすれば、私は神を迫害していたことになる
ならば、なぜ、神は、私を裁かないのか…、滅ぼしてしまわないのか…

律法主義というのは、そういう世界、神観念だったわけです。

ですが、
神に従っていると思っていながら、実は、神を迫害していた自分…
自分は正しいと信じていながら、実は、とんでもない罪人だった自分…
その本当の自分の姿がさらけ出されても、なお、その私を、赦し、愛し、受けいれてくれているキリスト・イエスの存在、また「恵み」ということを、そこではじめて理解した得たわけです。

教会の迫害者から、キリストの愛に生きる使徒パウロへ。

それから、パウロは目が悪くなります。
これもまた、当時の感覚からいえば、神の祝福を失った証拠、神から裁きを受けた証拠、やっぱりマイナスの評価でしかなかったわけですよね。
パウロにとって、肉体のトゲ、心のトゲとなり、非常に苦しんだようです。
でも、そこに与えられたキリストの答えは「わたしの恵みはあなたに十分である。なぜなら、わたしの力は、弱さの中にこそ働くからである」
自分の弱さを知ればこそ、理解できる人の弱さがあり、自分が弱さを負ったからこそ、受け取れることのできたキリスト・イエスにある恵みが、確かにあったわけです。
それから、パウロは、自分の弱さをも誇れるようにさえなったのです。

でも、そんなパウロのことを決して認めることの出来ない人たちもいたわけですね。
まずは、かつてのパウロがそうだったように、バリバリの律法主義者だったユダヤ人たち。
その次は、自分自身を崇拝させようとするローマの皇帝です。
パウロは、彼らによって投獄されるわけですが、でも、それでも、パウロはこの自分を変えてくださったキリスト・イエスを否定することなどできなかったわけです。

2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。

パウロの語る福音を受け取らない人たちもいましたが、そればかりではなく、本来ある福音を曲げて、違った教えを伝えてしまう人も多く現れていました。

そこで、「他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。」
「委ねる」ということが出てきています。
投獄され、死をも予期していただろうパウロにとって、テモテにまず、委ねたかったのかもしれません。キリスト・イエスにある恵みの福音は、ただスピーカーのように伝えられるものではなくて、人から人へと、恵みから恵みを、バトンタッチのように渡されていくものなのかもしれないですね。

2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。

…と書かれていますが、パウロは、苦しみではなく、その恵みのバトンをテモテに託したかったんだと思います。
それにしても、苦しみというと、なんか嫌じゃないですか。
パウロは、もともと優秀でもあっただろうし、情熱や忍耐強さもあったかもしれない。
ですが、パウロは、ここで三つのたとえを持ち出して語っていますけれども、この苦しみというのは、一言でいうと「愛する」ということになるかと思います。

1番目に 2:4徴募した者を喜ばせるため。

教会の迫害者、いや神の迫害者である自分を、招き、そればかりではなく、使徒として、異邦人宣教という使命まで与えてくれた。それは、もうパウロにとって、天と地とがひっくり返るような出来事だったわけですよ。
それは、まさにキリスト・イエスにある恵みによるものだったのです。

そんな本当に取るに足りない自分を徴募してくれた者…、イエス・キリストを喜ばすため。
その与えられた使命を、とにかくまっとうしたかったんですよね。
これは、神様への愛だと思います。

二番目には
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。

競技だけではなく、仕事でも勉強でも、何かを成し遂げようとする時には、必ず通らなくてはならないプロセスってありますよね。
でも、なぜ、わざわざ苦労するのか。それは、その苦労の先に、希望があるからですよね。

伝道者パウロにとっての栄冠って何だったのかな…と考える時に、自分自身が受けたキリスト・イエスにある恵み、その喜びを手にしてもらうことだったように思います。
2:10 ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。

このことが、まさにパウロ自身にとっての希望、喜びにもなっていたんです。
これは自分自身への愛でしょう。

3番目に 2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。

農夫というのは、まず土地を耕し、種を撒き、水をやり、雑草を抜き…、とにかく与えて、与えて、与えて…、農作物を育てていくじゃないですか。それは愛だと思います。

伝道も同じ。福音を話すだけで、一発で、信じてもらえるんだったら、どんなに楽か。
でも、そうじゃないんですよね。土地を耕し、種を撒き、水を撒き…、いろんなことを通して、実を結んでいくんですよね。これは、隣人を愛する愛だと思います。

神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…、この3つの愛。
でも、それで愛せるか…。なかなかどうして、愛せなかったりもするじゃないですか。
その愛はどこから来るのか…、その一番の本家本元、根源は、パウロ自身、自分自身にあるのではなく、やっぱりイエス・キリストという存在にあるんです。

2:8 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。

まず、イエス・キリストの生き様こそが、まさにそういう生き方だったでしょう。

人々から嫌われていた病人や、取税人や遊女、罪人と呼ばれる人たち、当時の社会では存在価値すら認められない人たちを、赦し、受け入れ、愛したわけですよね…。
そのために多くの非難を浴びるわけですよ。その行き着く先が十字架であったわけです。
でも、その十字架まで背負ってもなお、愛を貫き、愛に生きた、これがイエスの生き様です。
でも、決して、死んで終わったわけではない。
「死者の中からよみがえったイエス・キリスト」
その神の愛は、2000年を超えた今でも語り継がれ、イエス様ご自身、今もなお生きているわけです。

その神の愛が、パウロしかり、私たちの心の中に注がれていく時、この私たちの人生にも、何らかの影響、様々な変革をもたらしているはずなのです。

口語訳ではこんな風に訳されているんですね。
2:8 ダビデの子孫として生れ、死人のうちからよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。
これがわたしの福音である。

これこそが私の伝えた福音。他ではない。私でもない。
すべてがイエス・キリストご自身にある。これが、私の伝える福音です。

2:9 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

かつてはユダヤ教の世界では、エリート中のエリート。
しかし、福音を伝えたがために、そのように鎖で繋がれてしまった。身動きが取れない。
伝道者としては、決定的な出来事。見方を変えれば、人生の落伍者ですよ。
ローマに行くと、パウロが投獄されていた牢屋だといわれている牢獄跡があるんですね。
暗い冷たい地下室の天井に、パンを落とす穴があけられているだけ…。

でも、その牢獄の中にあって、パウロは断言するんです。
しかし、神のことばは繋がれてはいない…!!
パウロには、牢獄の苦しみの中にあっても、主イエスの存在がはっきりと見えていたんでしょうね。
そして、この手紙は、新約聖書として編集され、まさに神のことばとして世界に広められている。でも、この時、パウロは、まさか、そうなろうとは、思っても見なかったでしょう。

私たちはどうか。
私たちもまた、目には見えない、いろんな鎖に繋がれていますよね。
テモテは臆病という鎖であったのかもしれません。
自分の弱さや、問題、それは罪と呼ばれるものかもしれません。
または、社会的なしがらみ、世間体、いろんな人の評価、人間関係
あるいは過去に受けた傷、劣等感、挫折感…

人それぞれ、違いはあっても、私たちは、結構、いろんな鎖に繋がれていますよね。
私も、いろんなものに縛られていますわ。でも、だから駄目ではないんです。神のことば、キリスト・イエスご自身は繋がれてはいないんですよ。

2:11 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」

毎年、年末に、その年を現す一字の漢字が選ばれるらしいんですが、去年2007年の漢字は、「偽」だったらしいです。
本当にいろんな偽装事件やら、偽りの証言、嘘が多かったですよね。
いや、実は、別に突然偽りが増えたわけではなくて、あれも嘘だ、これも嘘だ、嘘を暴いて、非難することが流行した年だったのかもしれないです。

比内地鶏でしたっけ。あの社長なんか、なんだか本当に東北の田舎の親父さんじゃないですか。ただ、なんだか普通の鶏だったんだけど、「比内地鶏」とつけると、よく売れるもんだから、売っちゃってたみたいな。
でもね、考えて見てくださいね。たとえ本当に比内地鶏であったとしてもね、化学調味料でしっかり味付けされて、保存料も入れられて、真空パックにされた比内地鶏って、おいしいと思います?いや、普通の鶏でも変わらないと思いません?
本物の比内地鶏の美味しさって、その土地に言って、ちゃんと調理した比内地鶏を食べないとわからないと思うんですよ。

新幹線の中で「静岡名物安倍川もちはいかがですか〜」って売られている安倍川もちも、本当のお餅は使っていないんですけどね。日持ちしないから。あれは、偽装にはならないんですかね…。って、別に偽装しているわけじゃないんですよ。でも名前は安倍川「もち」ってついているけど、本当のお餅じゃないわけですよ。
ちなみに、本当の安倍川餅は、安倍川にかかっている安倍川橋のふもとで売られていまして、本当のお餅が使われています。

嘘だ、嘘だと、非難ばかりが多くて、じゃあ本物って何?という時に、あまり語られていなかったり、実は、知らなかったりもするわけですよね。
もちろん騙すのはよくないんですけれども、私たちにも本物を見る目、表のラベルだけではなく中身、真実を見る目も必要な気がしますよね。

私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

私たちの真実って、何でしょう。
それは私たちの肩書きや、ラベル、あるいは建前、恥ずかしさ…そういったものを取り外した時に、内側にある真実の私の姿って、どうなんでしょう。
弱さがあり、罪があり、悩みや問題を抱え、時に虚栄を張り、劣等感や傷を背負っている
それは、自分でも嫌な、恥ずかしい自分、醜い自分の姿かもしれないですよ。
かつて、パウロは律法を守ることによって、正しい自分という仮面を被ってきたわけです。
私たちも、クリスチャンみたいな仮面を被って、誤魔化しているような時もあるのかもしれないですよね。

でも、一度、その仮面を取り外して、その真実の私、その真実の自分に対して、イエス・キリストは何て語りかけてくれるんでしょう。
わたしは、お前を愛してるよ…
たとえそのために十字架を背負ったとしても、その愛を絶対に曲げない、それがイエス・キリストの真実です。

この第二テモテでは、テモテも伝道者ですから、伝道という視点で描かれていますが、みなが、みな伝道者であるわけではありませんし、伝道がすべてではありません。
みなさん、それぞれに、会社であったり、家庭であったり、いろんな役割や使命が与えられていると思うんですよね。

その中で、本当に、欠点があり、罪があり、いろんな失敗もある。決して、完璧じゃない。
それが真実の私たち。
わたしなんて、本当、もう、ボロボロですよ。
でも、この小さな者をも、キリストが愛してくれているというので、
自分なりに、自分らしく、自分ができることをもって、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…この3つの愛に生きる
ここにクリスチャンとしての真実があるのではないでしょうか。

それは、一歩一歩、本当に小さいことの積み重ねかもしれないです。
でも、たとえどんなに小さくても、その真実の愛を1つ1つ積み重ねていきたいものですよね。
恵みで始まった信仰は、最後まで恵みなんです。

恵みとは、受けるにふさわしくない者が、無代価・無条件に与えられるもののことをいいます。
その恵みを受けるに値しないにも関わらず、無代価・無条件に受け取る時に、はじめて「恵まれた」となります。

そこで、わが子よ…。
キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
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2007年12月09日

嵐の中のインマヌエル マタイによる福音書14:22〜33

07年12月9日 聖望キリスト教会

イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ…!! マタイ14:32,33

おはようございます。
12月となり、アドベントも第二週、いよいよクリスマスが近づいてきました。
皆さんは、今年のクリスマスを、どんな心持でお迎えになられることでしょうか。
クリスチャンにしてみれば、1年の終わりに、一大イベントを迎えることになるわけですけれども、その年、その年で、毎年違うクリスマスの味わいがあるものです。

今年1年を振り返った時に、仕事から、家族のことから、今年は、本当にいろんなことがありまして、1つの問題を解決したかと思えば、また次の問題が起きてくる、その連続だったんですね。
まあ、それは人生の先輩方の方が、百戦錬磨で、私なんかは、まだまだ、これからといったところかもしれませんが、クリスチャンになったからといって、人生ばら色、100%うまく行くわけではありませんよね。クリスチャンであっても、山あり谷あり、いろいろな出来事が起きてくる、それが現実ではないかと思うのです。
ですが、その中で、本当に思わされたのが、「インマヌエル」すなわち「神われらと共にあり」ということでした。

今日のこの箇所も、そんなこの世の人生を象徴しているような出来事かもしれません。

さて、今日のこの箇所、
14:22 それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。
「それからすぐ」とありますけれども、この直前では、5つのパンと2匹の魚が<男だけで5千人ですからね、もう1万以上の人たちに、分け与えられる、有名な奇跡の話が出ている箇所です。
それはそれは、すんばらしい、神様の栄光、神様の力が現された、輝かしい場面です。

一方で、今日お読みした箇所は、向かい風で、波の激しい、暗くて寂しい夜のガリラヤ湖。

弟子たちの中でも、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネなんていうのは、元々ガリラヤ湖で漁師をしていたわけですから、船の操作も、湖のことも知り尽くしているわけですよね。その4人がいて、なお苦戦していたわけですから、相当の向かい風、波もかなり荒れていたはずです。
こんな日に、船なんか出したくない。
弟子たちにしてみれば、大勢の群衆に囲まれ、パンと魚の奇跡で拍手喝さい、そんな輝かしい神の栄光の中に浸っていたい、せめて1泊、ここに泊まって、明日行けばいいじゃないか…そんな気分だったかもしれません。

でも、イエス様は、それからすぐ、弟子たちを強いて舟に乗り込ませたんですね。

それで渋々、弟子たちは荒れたガリラヤの湖を渡ることになるわけです。
こんな日に他に船なんていない、あたりは真っ暗、ただ荒れ狂った風と波の音だけ。
そんな暗く寂しいガリラヤ湖に、12人が乗った弟子たちの乗った船だけが、荒波に揺られて、もまれている…。
そこへ遠くの方から、ぼんやりと何かか影が近づいてきました…。

俺たちの他にも船出してる奴いるんかな?
いや、なんか違うぞ。
あれは、なんだ…。人じゃないのか????
幽霊だー!!!
弟子たちはと叫ぶわけですけれども、そりゃあ驚くというか、怖いでしょう。ある意味、当然なんですよね。イエス様だろうが、普通、人は湖の上なんか歩かないんだから。

同じ奇跡でも、直前の奇跡とくらべると、ずいぶん違いますよね。まったく対象的な場所へと、強いて、弟子たちは押し出されたわけです。

これはいったい、何を意味をしているんでしょう。

私たちは、ある面、神様の奇跡を願う、神様の栄光を願う、神様の力が現されることを願うんだと思うんでよね。
それはそれで、もちろん、いいことなんですけれども、でも反面、心のどこかでは、何事も順風満帆、自分の思い通りに物事うまく行ってほしい、逆風、困難、苦労になんかあいたくない、そんな気持ちの裏返しもあるように思います。

でも、実際の現実はどうか。
思わぬところで、逆風が吹いてくる、波が押し寄せてくる、嵐が巻き起こってくる…
それが、この世の現実、リアリティだと思うんです。

うっかりするとですね、「信仰」の名のもとに、この現実を否定してしまうことがあるように思う。逆に言えば、信仰が現実からかけ離れてしまう、リアリティを失ってしまうことがあるようにも思います。

でも、私たちが、本当に何かを願い、何かを始めようとするならば、向かい風にもむかっていかなくてはならない、大きな波を乗り越えていかなくてはならない…、それが、現実なんですよね。その現実の中に、私たちは生きているわけです。
そこで、私たちは、悩んだり、恐れたり、苦しんだりもするんですが、でも、イエス様もまた、いや、イエス様こそ、その波風嵐のある現実の世界に立たれたお方なんです。

神のひとり子が、天の栄光を捨て人となる、それは、悲しみ、苦しみ、悩みがある、この世にこそ、神の救いを必要としている人たちがいるからなんですよね。そんなこの世こそ、まさに救い主として生きる現場だったからですよね。

実に、この時、イエス様もまた、悲しみの現実のただ中にあったんです。
14章の初めを見たときに、バプテスマのヨハネが処刑されたことが知らされています。
イエス様にとって、バプテスマのヨハネといえば、先駆者であり、同労者でもあり、また親族でもあるわけです。そのヨハネの死。もしかしたら、このあと自らも背負うことになる十字架のこも連想させたかもしれません。イエス様も、そんな深い悲しみの嵐の中にいたんです。そこで、イエス様は、ひとり身を置いて祈りたかったのですが、それでも人々をあわれみを求めてきた時、救いの手を差し伸べ、食べ物を与えていたわけです。

パンと魚の奇跡、それはそれで、すばらしいことなんです。
さらに、ヨハネの福音書では、このパンと魚の奇跡のあと、イエスを王にしようとした人達がいたことが書かれています。もしイエス様が王となって、この世を治めてくれれば、もっと素晴らしいかのように思えますよね。
そしたら、もう弟子たちは、側近中の側近ですよ。いいじゃないですか。
でも、現実はそうではない。これだけの力を持ち、5千人以上の男達、見方を変えれば5千の軍勢がすでに集まっているわけです。時の権力者たちは、そのイエスと群衆による反乱を恐れたわけです。この栄光の裏側に、実に、十字架の現実も待ち構えているわけです。

そのイエスに従う弟子たち。彼らは、そんなイエスの悲しみも十字架も露知らず、その場にいたわけですけども、彼らもまた、これから輝かしい神の栄光につつまれて、輝かしい未来をスキップしながら生きていけるわけではないんですよね。彼らはまさにこれから、波風嵐のあるこの世で生きていく人たちだったわけです。
人々は神の救い、助け、ある意味、神の栄光を求めて集まってくるかもしれない。でも、彼らは、それらを必要としている救いの現場、まさに波風嵐の中へと出て行く人たちだったわけです。

でも、その波風嵐に、自分が怖がっていては、自分が恐れをなしていては、誰も助けることは出来ないんですよね。平常心を失い、自分自身が溺れてしまうことにもなるわけです。
向かい風を受けても、波が高くても、そこに立ち向かう勇気と力が必要なんですよ。

さて、そんな中、ペテロが立ち上がるわけです。
「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」
ある意味、お調子者のペテロだから行けたのかもしれませんが、水の上を歩きだします。でも、そのペテロも風を見て、やっぱり怖くなってしまった。ある意味、失敗しちゃうわけですよね。

「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか…」

この言葉、皆さんは、どう聞こえますか…?
あー、もう、お前は信仰の薄いやっちゃな。何で疑うんだ?はあ、もう、わしゃ知らん。
そんなイエス様の嘆きのように聞こえるか
それとも、そんな信仰じゃ、弟子とはいえん。そんなじゃ、ダメだ!
というような、責めの言葉に聞こえるか。
どうでしょう????

いや、実際、ペテロはすごいですよね。船から出て、少なからず、水の上を歩いたわけですから。すごいんですよ。他の弟子たちは、どうかというと、ずっと船の中にいたままなんですから。
でも、そのペテロなんですけれども、目の前にイエス様がいるにも関わらず、実際、少なからず水の上を歩けたにもかかわらず、やっぱり怖くなる、そこにペテロの弱さがあったわけです。それが、ペテロの現実だったと思います。

でも、そのペテロや弟子たちを、イエス様が否定しているのか…というと、決してそうではないんです。「お前、漁師なんだから、泳げるだろ。ちょっとは反省しろ!」って、放っておいたわけではないんですね。ペテロが、助けを求めた時、イエス様は、まずすぐに、ペテロの腕をしっかりと掴んでいるんです。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか…。ここに、わたしがいるじゃないか。」
その時、ペテロは、自分の弱さと同時に、その自分を守ってくれている、力強い神の右手の感触、神が共にいる…インマヌエルを体感していたはずです。

私にとって、今年、大きな一つの波だったのが、父親の病気のことでした。
父親に対しては、かつては対立というのか、反発した時期もあったんですけどね。でも、その分、大きな存在でもあったわけです。

その父親が、家で、だんだん動けなくなってきた知らせがありまして、足腰が弱くなっているんかな…と思って帰ってみたらですね、箸が思うように使えない。右側に軽い麻痺を起していたんです。結果としては、2年前に患った大腸がんが、脳に転移したんですよね。
そんな医師からの説明を、冷静に受け止めようとする自分がいる一方で、やっぱり、動揺している自分もいるんですよね。
正直言えば、最初はどう祈っていいのかも、わからなかったですよ。
もちろん癒されてほしい、奇跡が起きてほしい、そう願いながらも、誰であれ、いつかはこの世の終わりの時は必ず迎えるわけです。それが現実ですよね。そしたら残されている時間、何かをしたいと思うじゃないですか。

とりあえず、入院を1日待ってもらって、家で、風呂に入る時に、背中を流してやったりとかしたわけですが、親父のピンチの時に、こんなことしか出来ないのかよ…って、そんな自分がふがいないというか、どうにもできない自分がいるわけですよ。

そんな時に、導かれたのが、「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…」という言葉でした。

これで、信じて、癒されたとなったら、話はすごいんですが、残念ながら、そういうわけではないんです。
あ、でも、そういうこともあるんですよ。父の兄なんかは、やはり癌で、手術はしたものの手遅れで全身に転移していたんですね。
余命3か月ということで、じゃあ自宅で最期を…ということで、退院することになりました。
でも、この時、治療の影響で耳も聞こえなくなってしまっていて、本人にはそんな医師の説明聞こえなかったんですね。でも、退院できたものだから、本人は神様が治してくれたと信じきっちゃったんですわ。
そしたらね、本当に癌がなくなっちゃったんですよ。
うーん、なんだか、それでいいのかという気もしますが、そういうこともあるんです。

父の場合は、そういうわけではないんですけれども、でも、病気が治る、治らないというところを超えて、「すべてが神の御手にある」という平安を見せてもらっています。
医学的に、CTでスキャンすれば悪いところはあるし、右手に麻痺も残っているんですけれども、それが父の場合には、「それがどうした」ぐらいの勢いでして、ただ一つの現象でしかないんですわ。

でも、そんな親父もね、ただ信仰が強いばっかりではないんですよ。実際、医師から告知を受ける瞬間は、緊張した面持ちで、やっぱり動揺した表情を見せたんです。でも、次の瞬間から、その不安をかき消すかのように、すべては神様の御手にあることだから…と切り替えていくんです。
親父もこれまでの人生の中で、不安や、恐れ、失敗もあったと思います。いろんな荒波の中で、やっぱり、イエス様が腕を掴んできてくれた、その経験、体験をしてきたからだと思うんですね。

で、本当に、今、のんきに生活していますよ。もともと前向きな性格なんですが、さらに物忘れも手伝いまして、病気のことすら忘れてる時もありますからね。そうすると、物忘れも恵みです。

「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…」
父のことは、すでにイエス様がしっかりと握っていてくれてたんですよね。
動揺していたのは、誰かというと自分自身でしかないことに、気づかされたわけです。そこで平常心に戻れたわけですが、私は私で、父のためにしたいこと、自分にできることを、していけばいいんですよね。

私たちが、この世の人生の中で、生きていく間では、思わぬ波風嵐に合う事があります。

その時に、私たちは、時にペテロや弟子たちのように、悩んだり、怖くなったり、時には、人や周りのせいにして怒りとなったり、すなわち「平常心」というものを失ってしまうんですよね。
ペテロも、風を見て怖くなったと書いてあるんですが、不思議なことに波じゃないんです。風って、怖いですか?でも、目の前の現実以上に、心の中が嵐になってしまうんですよね。それゆえに平常心を失って、失敗もすれば、判断を過ってしまうこともあるかもしれません。それらはすべて、「恐れ」から来るんでしょう。
でも、その波風嵐の中にあっても、それに立ち向かう勇気や、力、「平常心」を与えてくれるのが、インマヌエルなる神、イエス・キリストです。

それも信仰が強くなってからじゃない、何か立派になってからじゃない、信仰の薄い私たち、恐れてしまう、それが現実の弱い私たちの腕を、しっかりと掴んでいてくれるのが、イエス・キリストです。

今、イエス様は、目には見えません。手で触れるわけではありません。でも、今も生きていて、私たちの腕をしっかりと握っていてくれています。今、私たちは、そのイエス様の右の手の感触を、どれだけ感じているでしょうか。

「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」
「信仰の薄い人だな…。なぜ疑うのか…。ここにわたしがいるじゃないか。」

ペテロも、いきなり強くなったわけではない。聖書の中でも、繰り返し、繰り返し、時には逃げ、イエス様を知らないといい、弱さをさらけ出しているわけですけれども、それでもイエス様が掴んでいてくれているんですよね。

私なんかもね、弱い人間ですから、すぐにへこたれるし、些細なことでも落ち込むんですよ。でも、振り返って見ると、なんだかんだと言いながら、イエス様に腕を掴まれて、助けられてきたんだな…とおもうわけですよ。イエス様いなかったら、とうに溺れて、とうに沈んでいるかもしれないです。

インマヌエル、神われらと共にあり。

そんな救い主と出会う時、その日その時が、まさに「クリスマス」となるのです。

イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。
「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」
そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。
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2007年02月12日

ただ、この一事に励む(ピリピ人への手紙 3:4〜14)

先々週くらいか、風邪を引いてしまして、はじめはいよいよ花粉症が始まったかな…と、のんきに構えていたら、セキが出始めまして、もうかれこれ一週間以上、セキが抜けないでいます。
今も、鼻も出るんですが、いまだに花粉症なのか、カゼなのか、ようわからん状態が続いています。皆さんも、ぜひ気をつけてくださいね。

さて、皆さんにも、クリスチャンとして、こうあるべき、あーあるべき、こうした方がいい…って、あると思うんですよね。それが素直に出来ればいいんだけど、どうでしょう…。できないことも、いっぱいあったりして、そんなことで悩んだり、いいのかな…って不安になったりすることはないでしょうか。

私も、今年から、勉強のために、川崎の教会にも月1〜2回、奉仕させていただくことにしたんですが、正直、自分自身を見たときに、牧師とか、伝道師とか、そういった働きをする器じゃないと思うんですよね。少なくとも、私自身には、そうは思えない。
別に、牧師、伝道師ではなくても、クリスチャンとしても、いや、一人の人間として、まだまだ青いな…と思うわけですよ。
そうするとですね、本当に自分はどうすべきなのかな…、神様一体なにせいっていうんだろう…って、考えちゃったりすることも多いわけです。
そのために、どこかで萎縮してしまっていたというか、消極的になっていたところもあるような気がします。

今日のみことば、「ただ、この一事に励む」、文語訳では「ただ、この一事を勤む」となっていますが、これは私が小学校を卒業する時に、父が贈ってくれた御言葉です。
当時はね、「ふーん」という程度、「それがどうした」位の勢いだったんですけども、ここにきて、この言葉が私自身にとって、励みになっている。今日は、それを分かち合えたらと思うわけです。

さて、この手紙を書いたのは、パウロです。
ここでは、その直前2節で「どうか犬に気をつけてください」と、かなり激しい言葉で書かれていますが、いわゆる律法主義に対して警告している場面です。
割礼といって、生まれてすぐに、男の子の、おちんちんの先の皮を切ってしまうわけですが、それをユダヤ人たちは誇りにしていました。私たちは律法に定められた割礼を受けている、だから、神に認められた、列記とした神の民である…、それに比べ、割礼のないクリスチャンは、2流、3流、亜流…そんな考え方です。

実は、パウロ自身も、生粋のユダヤ人、かつてはバリバリのパリサイ人、律法主義者、イエス様とは真っ向からぶつかる考えの持ち主だったわけですね。

ピリピ
3:4 ただし、私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。

「律法による義についてならば非難されるところのない者です。」
そう言えてしまうのは、かなりすごいんですが、パウロ自身は非常に熱心に、律法、神の言葉に従っていたと言えるでしょう。

でも、それは何かというと、やれば、やるほど評価される世界、できればできるほど認められる世界、それが、自分の誇りにもなれば、名誉にもなったわけです。

逆に、出来ない人間はダメ、律法を守らない人間はダメ、それでは神に喜ばれない、神から愛されない、神の祝福を受けることができない…そういう価値観、評価の中で、パウロは、バリバリに生きてきたわけです。

だから、かつてのパウロも、とにかく愛だの赦しだのを説くキリスト教会がもう赦せなかったんですよね。
そんなものは神を冒涜している、赦せない、むしろ熱心なゆえに、神を愛するがゆえに、そんな教会は野放しに出来ない、だから、教会をも迫害していたわけです。

3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。

でも、そのパウロに一大転機となる事件が起きるわけです。
まさにダマスコにある教会を迫害しにいく途中の出来事、そこでパウロ、当時はサウロと言ったわけですが、サウロは突然、目がくらむような光に包まれ、声を聞くわけですね。
「サウロよ、サウロ。なぜ、私を迫害するのか。私は、あなたが迫害するイエスである。」

サウロこと、パウロにとっては、衝撃的な出来事だったわけです。

イエスは、死んだのではなかったのか…
イエスは、よみがえったのか…
イエスは、神なのか…

だとすれば、私は神ご自身を迫害していたことになる
ならば、なぜ、神は、私を裁かないのか…
ならば、なぜ、神は、私を滅ぼしてしまわないのか…

律法主義的価値観の中にあって、神に敵対して赦されるなんて事はあり得ない、滅ぼされて当然なのです。

そこで初めて、パウロは、自分が決して正しくはないことと同時に、実は神の愛と赦しの中で生かされていることを理解するわけですよね。

神に従っていると思っていながら、実は、神を迫害していた自分。
律法を完璧に守っていると思いながら、律法の中心である愛を失っていた自分。

その私を、赦し、愛し、受けいれてくれている神という存在、キリスト・イエスの存在に出会うわけです。

3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。
それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

自分の誇りくそくらえ、自分の名誉くそ食らえ、
そんなものは、ちりあくた。
律法主義というのは、律法の行ないによって、自分の義、自分の正しさを打ち立てていく世界です。そこで、生まれてくる自分の誇り、自分の名誉と言うものが、神を愛し、自分を愛し、隣人を愛する心を失わせてしまっていたのです。

 でも、それは別に、律法主義や宗教の世界に限った話ではないと思います。
 学校であれば、成績で評価され、スポーツでも、仕事でも、そう。できるか出来ないかで評価されやすいし、私たちもしているんですよね。
 私もそうですが、自分は仕事で頑張っている、頑張れば頑張るほど、自分の誇りにもなってくるんですよね。もちろん、誇りに思える仕事ができる、それはそれで幸せなことだと思います。
でも、一方で「自分はこれだけ頑張っている」という誇りがあるがゆえに、若手が努力もせんとトロい事をしていれば「なにやってんだ」と腹を立てたり、あの人は怠けているとか、自分だけが損をしているとか、損な思いもしているわけです。それも自分の誇りが言わせるのです。

それら対し、イエスの生き方は、全くの逆だったといえます。
自分が受けることよりも、人に与える。
それも、人々から嫌われていた病人や、取税人や遊女、罪人と呼ばれる人たち、当時の社会では存在価値すら認められない人たちを、赦し、受け入れ、愛したわけですね…。
そのために非難を浴びて、十字架まで背負ってもなお、愛を貫き通した、これがイエスの生き様です。

これまで神様のためと言いながら、所詮は、自分の誇りのために生きてきたパウロが、そのイエスの生き様、本当の意味での十字架の意味を知った時、それは全くあり得ない、衝撃的なことだったはずです。
人のために、それも罪人のために、自分の命までを与えるなんてことは考えられなかったわけです。

でも、そのキリストの愛に触れた時、その愛によって、自分が赦され、生かされているということを知った時に、自分を誇り、人を裁く生き方から、人を愛し、人に与える心がパウロの中にも芽生えたのです。

3:10 私は、キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、
3:11 どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。

自分が受けるよりも、自分の命を捨ててまで、人に尽くす、人に与える…。そんな生き方。

私たちは、どうでしょう…。
できるかな…と考えると、どこかで、やっぱり、自分を守ってしまうもんだと思うんですよね。命どころじゃないですよ、その1歩どころじゃない、100歩も手前で、自分を守っているような気がするじゃないですか。

このあとにも賛美に入れさせていただいた「今こそ、キリストの愛に応えて」という歌がありますが、これは私のかつて行っていた教会でも歌われていまして、大好きな賛美の1つだったんですが、サビの部分で、「いのちを、すべてを捧げよう…」ってありますよね。ある人は、この歌は何か脅迫されているようで、好きじゃないって人もいたんですよね。

なるほどな…と思います。
私たちが、いのちを、すべてを捧げられるか…というと、そう簡単に、捧げられるわけではないんです。

それは、パウロも言っているんですよね。

3:12 私は、すでに得たのでもなく、すでに完全にされているのでもありません。ただ捕えようとして、追求しているのです。そして、それを得るようにとキリスト・イエスが私を捕えてくださったのです。

あー、あのパウロでさえ、すでに得たのではなく、完全でもないといっているわけですから、私たちは全然でしょう。

でも、この歌は、決して、みなが殉教覚悟で命がけで宣教しようという歌ではないと思う。

2番「なんの力もないけれど、何かをして行こう。こんな小さな者だけど、何かを捧げよう…」

ここにこそ、真意があると思います。

むしろ、自分を誇り、自分を大事にしてしまう。
自分を誇るがために、人を見下げたり、非難や悪口を言ってしまう…そんな私たちかもしれません。
でも、そんな私たちをも、愛して、そんな小さな私たちのためにも、命まで与えてくれたのがイエス・キリストなんです。

先日ですね、会社からの帰り道。
それも、ちょっとシステムにトラブルがあって、終電ギリギリまで粘って、残業した帰り道に、いたずらで、生卵をぶつけられましてね。
はー、弱り目に祟り目、システムも結局、その日は復旧できず、終電まで頑張ったところで、誰も褒めてくれるわけでもなし、で、挙句の果てに、生卵ですよ。
 気分は、げんなりですよ。もう怒る気にもようならん。何やってるんだろ、俺…みたいな。

 でも、その時にふーと思わされたのは、イエス様の十字架はこんなものではなかったんだよな…そう思わされましたよね。
 生卵どころじゃない、あざけられ、鞭打たれ、血を流し、茨の冠を被り、あの十字架までをも背負った。
 それに比べ、生卵でげんなりしているわけですから、自分はまだまだというか、本当に小さな器だな…と思うんですよね。
 って、腹も立つんですよ、げんなりもするんですよ…、決してだからといって綺麗さっぱり、赦せるかというとそうではないんですが、私も罪人ですから。でも、一方で、キリスト・イエスを知っているがゆえに、そういうふうに怒りだけで終わらないのも、やはり恵みかなって思うんですよね。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

ただ、この一事に励む。

私たちには、いろんな意味で限りがあります。
それは肉体的な限界、精神的な限界、能力的な限界…、さまざまな限界があって、本当に限られているんですよね。
決して、完全にも、完璧にもなれない。
でも、その限りある中でも、できる事があると思います。
人に与えられるものがあると思います。
決して、どれたけできるか、どんなに優れているかではありません。
私は常々思うんですが、私たちが人を愛する…という時に、私たちにできることは、せいぜいコップ一杯の水を与える程度のことなのかもしれません。でも、コップ一杯の水が与えられるのであれば、それを与えていくことじゃないかなって思うんです。

命って、何かといえば、生きる…ってことじゃないですか。
本当の意味で、いのちを捧げるというのは、キリストにあって、人を愛し、人のために、生きるってことだと思います。

イエス様も、決して十字架の上で、ただ死んだわけではないと思う。
人を愛するがゆえに、十字架をも背負って、最後まで生きたんだと思うんですよね。

そのキリストの愛を、私たちも受けている。

この小さな者をも、キリストが愛してくれるというので
自分なりに、自分らしく、自分ができることをもって、
神様を愛し、自分を愛し、隣人を愛する…
ただ、この一事に励む

ウルトラ伝道者、ザ・クリスチャンとも言えるパウロもまた、優れた人ではあったと思いますが、ひたむきに前に向かって、ただ、この一事に励んできた人ではなかったかと思います。

私たちは、全然及びもつかない、もっと小さな小さな者かもしれません。でも、私たちは私たちで、この一事に励む、ひたむきに前を向って、走る者でありたいですよね。

3:13 兄弟たちよ。私は、自分はすでに捕えたなどと考えてはいません。ただ、この一事に励んでいます。すなわち、うしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進み、
3:14 キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。
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