2015年04月26日

創造主なる神を知る イザヤ45:1〜8

2015年04月26日 聖望キリスト教会

 4月も最後の週になりまして、本当に暖かくて、春らしい季節になりましたね。
桜は散りましたが、これから新緑が芽生えて、やがて梅雨、夏へと向かっていくのかと思います。
 別に、私が思わなくても、自然とそうなるんですけどね。

今日の招きの言葉は、伝道者の書12:1を選ばせていただきました。

伝道者の書12:1 「あなたの若い日に、あなたの創造者を覚えよ。…」

 教会学校では暗証聖句の定番みたいな聖句の1つで、私も小さな頃から嫌というほど聞いてきた言葉なんですが、ここでの「覚える」とは、単に頭の記憶として「覚える」、暗記するという意味ではありません。

 それこそユダヤ人たちは代々、創造主なる神様のことは聞いてきましたし、信じてもいたわけですよね。改めて、覚えるも何もないわけです。
ですが、自分という存在を愛し、生かし、育んでくださっている創造主の存在をもっと深く知る、もっと深く感じ取る、これがこの「覚える」の意味するところです。

「…わざわいの日が来ないうちに、また「何の喜びもない。」と言う年月が近づく前に。」

 聖書って正直だと思うんですが、決して、災いがないとは決していわないんです。
 これは被災地に行かせていただいて実感するんですが、本当に大きな「わざわい」がある前に、神様を信じているのと、そうでないのとでは、違うんですよね。
クリスチャンですら、神様なんで!と思ってしまう、これが正直なところだとは思うんです。でも、それでも、自ら被災しながらも、人を助けようとする…これが被災地のクリスチャンの姿でした。
 でも、そうでない人はどうかというと、本当にショックを受けて、心にも多くの傷を負ってしまうんですよね。それは、本当に今もなおなんです。

 私自身、4年前に起きた震災、また、それに続く福島の原発事故という大きな「わざわい」を通して、この自然界というもの、その恵み、また、それらを創られた創造主の父なる神様の存在を深く思う、感じるようになったように思うんです。

 もちろん、これまでも、この天地を神様が創られたとは信じてはいましたよ。
ですが、どちらかといえば、花より団子の世界です。
道端に花が咲いていてもスルーでしたし、雨が降れば、嫌だなと思いますし、夏、暑ければ、不満を言っていたようにも思うんです。
 ですが、実に、信仰あるなし関係なく、現実に、私たち人間は間違いなく、この自然環境があって、生かされているんですよね。
にもかかわらず、じゃあ、この与えられている自然環境に、どれだけ感謝していたんだろうというと、それまで、私自身、さほどでもなかったように思うんです。

 そこで、今日は、このイザヤの預言に導かれましたので、この箇所からみていきたいと思うのですが、この箇所を正しく理解するために、ちょっと簡単に、歴史背景から見ておきたいと思います。

 この預言者イザヤが活動していた当時には、南北に分かれたイスラエルは共に衰退、まず先に北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ、やがて南のユダ王国も、次に台頭してきた新バビロニア帝国に侵略され、多くの労働者や技術者、またダニエルのような将来有望な人材が、バビロニアへと強制連行されていく、いわゆるバビロン捕囚が起きます。

 その原因は、王をはじめとする民たちの偶像礼拝だったわけですが、エレミヤ書、エゼキエル書を見ますと、民たちは、仕事が終われば、すぐにでも、またイスラエルの地に帰れるくらいに、楽観視していたようです。
 ところが、やがてエルサレムが陥落、神殿も崩壊、その希望は砕かれ、長い年月、バビロニアに拘束されたわけです。

 40章以降は、そのバビロン捕囚に囚われたイスラエルの民が、いかにして、再びイスラエルの地に戻り、国の再興、すなわち平和な暮らしを取り戻せるのか、そういった意味での「救い」について書かれている、これが第一義的な預言です。
 ですが、聖書の預言というのは、さらに後に起きることも重ねて預言されていまして、700年後に誕生する本当の救い主、イエス様についても預言されているわけですね。
 それゆえ、イザヤ書は旧約聖書の福音書とも言われています。
イザヤ書45:1〜8

 45:1 主は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
 45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
 45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが主であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
 45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。
 45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。
 45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 45:8 「天よ。上から、したたらせよ。雲よ。正義を降らせよ。地よ。開いて救いを実らせよ。正義も共に芽生えさせよ。わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 1節に出てくる「油そそがれた者」というのは、まさにメシア、救い主の代名詞的な言葉で、ギリシャ語の「キリスト」も油をそそがれた者という意味を含んでいるんですね。

…と、ここまでは、ここまでなら、今日の聖書箇所も、すばらいしい救いを知らせている福音的な預言のように思えるかもしれません。

 ですが、このクロスという人物は、のちに起きるペルシアの王様だったんです。
 本来、「油そそがれた者」「メシア」といえば、まずはイスラエルの英雄、ダビデ王のことであり、救い主も、当然、ダビデの子孫から起こされるはずのもの、ですから、イエス様もダビデの子孫です。

 しかし、ここでは、その「油そそがれた者」という肩書きが、なんと異国の王様に、しかも名指しで与えられているわけです。
もちろん、このクロス王は、聖書の神様を信じていないどころか、まったく違う別の宗教を信じていた人物なんですよね。

神様は、そのペルシア王クロス王に

45:1…「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。」
45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
といいます。つまり向かうところ敵なし。事実、ペルシアがバビロニアを攻略する時は、バビロニアは、そのまま城門を開ける、ほぼ完全降伏状態だったようです。

45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなた(…クロス王のことですが)、あなたをあなたの名で呼ぶ。
あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
 45:5 わたしが主である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。

 ペルシア王クロスは、この預言を知ってか知らずか、バビロニアがエルサレムの神殿から持ち出した神殿の器具、用具、宝を、イスラエルの民に全部持たせて、エルサレムに帰還させ、それでエルサレムの神殿は再建されていきます。

 ですが、さあ、これがイスラエルの民の立場からしたら、どうでしょう。
もちろん、この預言が成就して、イスラエルの地に帰れるのは、希望であり、喜びです。

 しかし、なぜ、よりによって、異国の王によって救いがもたらせるのか、どこか腑に落ちない、どこか情けない、そんな気分にもなるかもしれません。

 まあ、自分たちは偶像礼拝に走ってもいたわけですから、言えた義理ではないんですが、続く9節以下を見ますと…

45:9 ああ。陶器が陶器を作る者に抗議するように自分を造った者に抗議する者。
粘土は、形造る者に、「何を作るのか。」とか、「あなたの作った物には、手がついていない。」などと言うであろうか。

…と、こうした疑問や反発心も、実際、あったんだろうと思います。

しかし、そのペルシアの王を油注がれた者、メシア、救い主として立て、イスラエルの民をバビロニアから救い出す、これを創造したのも「わたし」、創造主のわたしだ…というわけです。

45:6 それは、日の上る方からも、西からも、わたしのほかには、だれもいないことを、人々が知るためだ。わたしが主である。ほかにはいない。

 イスラエルの民は、昔から、創造主のことを知ってはいました。偶像礼拝に走っていたとはいえ、一応、信じてもいたはずです。
 ですが、どこかで自分たちは創造主なる神様を知っている、自分たちこそ選ばれた民だという誇り、思い上がり、実は、神様ではなく、自分たち自身のことを過信、楽観していたところもあったかと思うんです。
 ところが、バビロン捕囚が起き、エルサレムの神殿が崩壊し、こうした「わざわい」の中から、異教国の王によって救われる、そのことによって自分たちのうちにあった優越感、高ぶりは見事に砕かれていったわけです。謙虚にさせられたわけですね。

 「わたしが、これを創造した」。
 このことを通して、創造主なる神を知りなさい…というのが、この箇所のまず第一のメッセージです。

 私たちは、どうでしょうか…。こうした信仰者としての高ぶり、誇りはないでしょうか?
 どこかで、あるようにも思うんです。
 教会の敷居が高い…といわれてしまう所以も、こうしたところにあるのかもしれません。

 これは日本の教会ということではないですが、キリスト教会全体の歴史を見たときに、十字軍やユダヤ人迫害に代表されるような他宗教に対する過剰な攻撃、決して他宗教でも構わないということではありませんよ。
 でも、「人」に対する尊重、最低限の礼儀や敬意を失うこともあるように思うんです。

 こと私たち日本のクリスチャンは、圧倒的多くのクリスチャンではない人たち、多くの未信者、他宗教の人たちにも、助けられながら生きているわけですよね?
 「わたしが、これを創造した。」
 決して偶像礼拝を肯定するわけではないですが、たとえ偶像礼拝をしている人たちであったとしても、また神様が創った人であることに変わりはありません。たとえ、まだ神様のことを信じていなくても、その人にも優れた面、その人から学ぶこともありますよね。
 そうした人に対する礼儀や感謝を忘れずにいたいものです。

45:7 わたしは光を造り出し、やみを創造し、平和をつくり、わざわいを創造する。わたしは主、これらすべてを造る者。」

 クロスの信じていたペルシアの宗教では、善か悪か、善の神と悪の神が対立して世界を作り上げていると考える、善悪二元論でした。
 よいことは全て神様の業で、悪いことはすべて悪魔のしわざ…みたいな?
 もちろん、神様が二人存在しているわけではありませんので、そこに釘を指すための言葉とも捉えられていますが、「わざわい」もまた、神様が造ったというんです。

 なんで、神様「わざわい」まで創るんだろうと思うわけですが、私たちが「わざわい」や試練から、学ぶこと、そこであえて神様が気づいて欲しいこともあるんですよね。それはもちろん、神の御手の中にあってのことです。

 みなさん、「神様の奇跡」と言うときに、何を思い浮かべるでしょうか?

 病気が癒されること。問題や悩みが解決されること。必要が満たされること…。

 もちろん、そういったこともあるとは思います。
 でも、これも気をつけないと、無病息災、家内安全、商売繁盛…、お札かお守りに書いてありそうな、ご利益宗教とおんなじになってもしまうかもしれないんです。

 ですが、今日も太陽が昇り、時に雨も降りながら、大地が潤い、四季折々の草花が息吹き、あらゆる動植物たちが住み、この自然界の中で、私たち人間も生かされている。
「わたしがこれを創造した。」
 これが、まず何よりも、一番、まず最大の奇跡で、感謝すべきことではないでしょうか。

45:8
「天よ。上から、したたらせよ。
 雲よ。正義を降らせよ。
 地よ。開いて救いを実らせよ。
 正義も共に芽ばえさせよ。
 わたしは主、わたしがこれを創造した。」

 天地創造という時、聖書と科学、…というよりは、クリスチャンと科学と言ったほうがいいかもしれないですが、どこか無用な喧嘩もしてきたようにも思うんです。
 これが私には、残念だな…って思うんですよね。そのために逆説的ですが、聖書が語る天地創造、創世記1章の記述が、現実離れしたような、ひとつの「神話」かのような印象を与えてしまっているように思うんです。

 確かに聖書では、神が7日で創った、7日目は安息、お休みですから、実質6日で創ったということになるわけですが、ところが科学では、地球誕生46億年だとか、宇宙誕生138億年だとか、桁外れな数字が出てくるわけですよね。
 これだけを取り上げてしまうと、まったく違うことが書かれているように思ってしまうかもしれません。ある人にとっては、6日で創ったなんて信じられないことでしょうし、クリスチャンにしてみれば、聖書を否定しているように聞こえてしまうかもしれません。

 ですが、科学の計算というのは、あくまで創造主、神という存在や力を計算に入れなかった場合での計算なんです。
それだけでも、けしからん…なんて思う方もいるかもしれないですが、でも、もし神様の力を抜きで計算したら、確かに、この地球の自然環境が形成されるには、46億年くらいかかるような代物、神様は6日で作られたとしても、46億年に匹敵するような価値あるものなんですよね。
 これは聖書を否定しているわけでも、なんでもないんです。
 むしろ、科学は、この創造の「6日」の価値の大きさ、偉大さ、また、いろんな多くの不思議さを教えてくれているわけです。
 もちろん、こうした科学のすべてが、正しいというわけではないですし、多くの科学者が、聖書の神様、創造主を知らないし、知っていても信じていないかもしれませんが、決して、まったくの出鱈目を言っているわけではなく、神様が創られた被造物を熱心に調べているわけです。

 創世記で描かれているのは、きわめて概略、大雑把ではあるんですが、よく見れば、ちゃんと1日、1日、一つ、一つ、物理的な段階を踏んで、この地球を創っていることがわかります。その順番も、決して、あながち科学の見解と矛盾しているわけでもないんです。
 そして、私たち人間は、決して1日目でもない、2日目でもない、6日目の自然環境の中で創られ、生かされているわけです。

 この地球が、こうした生物が生息できる環境にあるというのも不思議ですよね。
 地球がほんとのちょっと太陽よりに位置したら、灼熱地獄、水は蒸発して、気体になってしまい、雨にはならないんです。当然、生物は生息できません。
 また逆に、ほんのちょっと離れていても、全面凍りついて、やっぱり私たちは生きてはいけない。
この水が気体、液体、固体…ちょうどいい位置にいるから、私たち人間も、動植物たちも生息できます。

それ以外にも多くのことを、科学は教えてくれているわけですが、
大切なのは、「わたしが、これを創造した」
それは、まさに、今、私たちが住んでいる、この自然界です。

 前にもお話したことがありますが、ここ1年か2年前くらいからなんですが、毎朝、市川駅まで行く道すがら、意識して、空でも、風でも、鳥のさえずりでも、自然界の何かを感じるようにしているんですね。これが、なかなか、私の場合、意識していないと難しいんですが、仕事で悩み事があると、そのことばかり考えながら、いつの間にか市川駅についてしまうんですよ。
 それで、あわてて、ホームから空を見上げてみたりすることもあるんですが、私も仕事をしていますから、ストレスが溜まったり、ついついイライラしてしまったり、心配事で頭がいっぱいになったりしてしまうわけですよね。

 ところが、この自然界の何かを感じられると、今日もこの自然界の中で生かされている…、そのこと自体、そのことだけでも、神様の愛に包まれているような、自然と、まず何よりも感謝だなと思えるんです。
 それで、仕事の問題か悩みが解決されるわけではないですが、まず最初に、その感謝があることで、心にゆとりが生まれ、人への感謝、接し方であったり、よっしゃ、今日もがんばろう!と仕事への取り組み方も変わってくるんですよね。

 皆さんも、今日の帰り道、空を仰ぎ見、風を感じ、草花や鳥のさえずりでも、何でもかまいません。
 何気なく目の前を横切る猫やんも、そして自分自身も、この自然界の中で、今日も生かされている、そして、周りには多くの人たちがいて、助けられながら生きている、生かされていることを感じてみてください。

 イザヤもまた、特に荒野の自然界、そこに生きる動植物たちの姿を描きながら、わたしがこれを創造した…と繰り返しています。

 時に、確かに、この自然界は厳しくもあります。
 日本には荒野こそありませんが、地震や津波、火山、ついでに台風もあって、時に、災害をもたらします。でも、この自然があって、この日本は存在し、豊かな自然の恩恵を受けながら、私たち日本民族は生かされてきたわけです。

 当たり前のようで、決して、当たり前ではない。
 日本語の感謝の言葉「ありがとう」って、よくできた言葉だと思うんですよね。有るのが難しいと書いて、「ありがとう」なんです。私たちが生きている、生かされている…というのは、本当にありがたい話なんです。

 ところが、今日の現代社会を見たときに、この日本に原発を作り、あれだけの被害を出し、多くの人々が故郷を追われているにもかかわらず、今もなお原発に依存しようとしているわけです。
 片方で年間自殺者3万人、自ら命を経つ人がいれば、もう片方では「誰でもいいから殺してみたかった」…なんていう殺人事件も起こっています。
 人と人とが殺しあう戦争もそうかもしれませんが、実に、人一人という存在がないがしろにされてしまう、「いのちのありがたみ」というものが薄らいできているように思います。

 誰かを非難したり、国を非難したりするのは簡単です。
 でも、その前に、こんな時代だからこそ、まず、私たちクリスチャン自身が、天と地、この自然界、そして私たちを創られた創造主を覚える、畏敬の念と感謝の心をもって深く知る、味わっていく、ということが大切だと思うのです。
 その創造主の畏敬と感謝の念が、自分であり、周りであり、人の命を大事にする心、価値観にもつながってくるでしょうし、そうした価値観を広めていくことにもつながるのではないでしょうか。

 私たち自身もまた、神様、創造主について、まだまだ知らないこと、わかっていないことも多いんだと思うんです。
ですが、まったく神様を知らなかった、異教徒のクロスに語られているように、

 あなたはわたしを知らないが、
 わたしはあなたに力を帯びさせる。

 実は、私たちにも名指しで語られているのではないでしょうか。

 天地を創られた神様がいて、事実として、今日も私たちを生かし、力を帯びさせてもくださるわけです。
 与えられている役割は、人それぞれです。
決して、私たちが、メシア、救い主になるわけではありませんが、真の救い主、イエス・キリストを知っています。
いきなりは信じてはもらえないかもしれませんが、家庭において、職場において、地域社会の中において、まずは神が創られた人々に、日本の民に、感謝と敬意、愛を持って、あなたも愛されている、かけがいのない存在であることを伝えていけたらいいですよね。


ラベル:イザヤ書 創造論
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2014年12月24日

ニュースレター第9号

主の御名を賛美いたします。
いつも、私たち夫婦の活動のためにお祈りいただきまして、誠にありがとうございます。

今年一年、静は全国コンサートツアーを展開し、また韓国人アーティストたちの交流が広がり、韓国でのコンサートも行なうことができました。
10 月には声帯を痛め、ピンチな時期もありましたが、おかげさまで回復し、11/30 のアドヘント(待降節)第一週の加古川キリスト教会でのコンサートを皮切りに、クリスマスシーズンへと突入しました。

私・力も、静に置いていかれないように(?)、各地にて伝道活動を展開させていただいております。
このクリスマスの時期、初めて教会に来られる方にもわかりやすいように、福音メッセージを届けていきたいと思っております。
東北支援活動も継続しています。
11 月には南相馬、仙台の各教会へと訪問、石巻でのコンサートも実施しております。
今後も、細くても長く、引き続き、支援していきたいと考えております。

■活動報告と予定

11 月15 日(土) 原町聖書教会(福島・南相馬)静・クリスマスコンサート
11 月16 日(日) 原町聖書教会(福島・南相馬)力・メッセージ/静・賛美
11 月22 日(日) シーサイド・バイブル・チャーチ(宮城・仙台)力・説教/静・礼拝コンサート
11 月30 日(日) フリーメソジスト・加古川キリスト教会(兵庫・加古川)力・説教/静・コンサート
12 月 7 日(日) ミッション・エイド・クリスチャン・フェローシップ(東京・御茶ノ水)静・賛美
12 月 7 日(日)  サンライズ杉戸教会(埼玉・杉戸) 静・クリスマスコンサート
12 月10 日(水) 八木山聖書バプテスト教会(宮城・仙台) ほっとクリスマス 静・コンサート
12 月14 日(日) 上釜会館・ベンソン師(宮城・石巻)Christmas Live in Kamikama 静・コンサート
12 月14 日(日) 塩釜BBC グレイス岩切エクレシア(宮城・塩釜)
12 月20 日(土) 武蔵野福音自由教会(東京・武蔵野)クリスマスコンサート 静・コンサート/力・説教
12 月21 日(日) 聖望キリスト教会(千葉・市川)クリスマス礼拝 力・説教
12 月21 日(日) 京浜キリスト教会(神奈川・相模原) クリスマスコンサート 静・コンサート
12 月23 日(火) 気仙沼聖書バプテスト教会(宮城・気仙沼) 静・クリスマスコンサート/力・説教
12 月24 日(水) 福音宣教教会(愛知・名古屋)クリスマス 静・コンサート
12 月28 日(日) シャローム福音教会(神奈川・横浜)力・説教
12 月28 日(日) 愛と希望のチャリティ音楽会2014 ファイナル(東京・世田谷) 静・出演

■各教会でご奉仕いたします!…地方の教会でも、まずはご相談ください。また、ご紹介いただけましたら幸いです。

働きながらの活動ですので、説教は無償でもお受けできます。交通費程度ご負担いただければ幸いです。
牧師先生の休暇、出張、また特に無牧の教会、小さな伝道所などでもご活用ください。

静の賛美・コンサートについては、実費が発生してしまうため、無償での奉仕は難しいのですが、
まずはご相談ください。来年も全国ツアーを展開します。説教&賛美での奉仕も、ぜひどうぞ!

■PDF版ニュースレターはこちら。東北支援レポートも合わせてご覧ください。

 >>> 第9号.pdf
 >>> 東北支援141125.pdf


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2014年12月21日

「『今日』という日のクリスマス」ルカ2:8〜20

(2014.12.21 聖望キリスト教会クリスマス礼拝)

みなさん。メリークリスマス。
今日、こうして皆さんとともに、クリスマスをご一緒にお祝いできること、心よりうれしく思います。

実は、3年前のイブ礼拝では、「『今日』という日クリスマス」と題して、お話させていただいているんですね。覚えていらっしゃる方、いるでしょうか?
おそらく、いない…だろうと思いながらお話してたりもするんですが、今日のタイトルは、一字違いでして、「『今日』という日クリスマス」。

時に、その「クリスマス」、「クリスマス」って…、何の日でしょう?

「イエス・キリストの誕生日」なのかというと、実は、違うんですよね。
イエス様が、実際に12月25日に生まれたというわけではないんです。
これは後の時代になって定められたものでして、暇な人が聖書の細かな記事から計算していった時に、9月か10月くらいじゃないかと言う人もいます。
なんだ、もう過ぎちゃったみたいな?実際のところは、特定できないんですよね。

ですので、クリスマスというのは、イエス・キリストの「誕生日」ではなく、全世界規模で「キリストの誕生をお祝いする日」ということになろうかと思います。
以後、毎年、毎年、12月には、クリスマスが訪れるわけですが、「誕生日」でなければ、私たちは何を喜んでいるのでしょう。
クリスマスの出来事、その歴史的な事実は、およそ2000年前にイエス・キリストがお生まれになった「今日」というその日、1日の出来事です。
しかし、今日は、2000年前の今日だけではなく、今現在、私たちにとっての「今日」という日も意識しながら、この「クリスマス」について味わっていただけたらなと思うわけです。

2:8 さて、この土地に、羊飼いたちが、野宿で夜番をしながら羊の群れを見守っていた。

世界で一番、最初のクリスマス、救い主誕生の第一報が届けられたのは、野にいた羊飼いでした。

ベツレヘムというのは、イスラエルに行った方は、わかると思うんですが、標高700mくらいの丘陵地帯にある小さな町です。
しかも、その郊外の夜の野原です。
辺りはシーンと静まり返って物音一つしない、遠くの方では、狼が、ウォーー 遠吠えしていて、その寂しさを凌ぐために焚き火でもしていたかもしれません。

2:9 すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた。
2:10 御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。

 「恐れることはない」って言われても、そりゃ、びっくりしますよね。
まあ正直、御使いなんて、おるんかなーという話になるかもしれませんが、御使いでなければ、彼らに誰も伝える人もいなかったかもしれないんです。

聖書で「羊飼い」というと、なんとなく、いいイメージがあると思います。
でも、当時のユダヤ社会で羊飼いといえば、身分も極めて低い仕事、羊飼い同士で放牧する土地を争うこともあったわけですね。
神様の教えを守らない世のならず者、神様から離れ、神からも見放された、そういう風にも見られていたんです。

誰からも愛されない、誰からも認められない、こんなに寂しいことはありません。
彼らは、焚き火でも温まることのない心の寒い夜にいたのです。
しかし、そんな彼らの元に、まず真っ先に、救い主の誕生の知らせは届けられたんですね。

2:11 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。

 こんな俺たちのところに、救いがやってきた。
 こんな俺たちのことでも、神様は愛してくれていた。

もう彼らは、喜び勇んでダビデの町、ベツレヘムへと向かったのです。

2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」

もしイエス様が、王や貴族の子供として宮殿か豪邸で生まれていたとしたなら、羊飼いたちは、見ることも近寄ることも出来ない、ほど遠い存在でしかなかったと思います。
ごくごく普通の宿屋の部屋に泊まっていたとしても、家畜番をしていれば、当然、においもするわけですよね。
宿屋の主人に門前払い、入れてもらえなかったかもしれないんです。

しかし、イエス様は、田舎大工の夫婦の子供として、ただの赤ん坊として、飼い葉おけ、家畜小屋で生まれた。
「これが、あなたがたのためのしるし。」
家畜小屋だったからこそ、羊飼いであっても、救い主に会うことが出来たんですね。

天使たちは賛美します。
2:14 「いと高き所に、栄光が、神にあるように。地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように。」

ここでいう「御心にかなう人々」とは、いったい誰、どんな人たちのことなんでしょう。

「御心にかなう」なんていわれちゃうとですね。
自分は御心にかなっているのかな?、私は、だめかもしれん…なんて思ってしまう人もいらっしゃるかもしれません。

ですが、当時の羊飼いというのは、いわば、世のならず者だったわけですよね?
救い主の誕生は、この民全体のための、すばらしい喜びの知らせだったんです。
それは、清く正しく美しい人間のためだけでもなければ、立派で正しくて、力や権力を持つ人間のためだけでもありません。

日本で、クリスチャンや教会というと、どうしても清く、正しく、美しい…、そういう美しい誤解があるように思うんですね。。。
もちろん、そういう部分もあるとは思います。
ですが、私たちは、クリスチャンであっても、なくても、誰であっても、間違うこともあるし、失敗することもあるんですよね。
夫婦喧嘩の一つや二つ、三つや四つ、五つや六つ…、数え切れないくらいすると思います。うちではありますよ。
 自分は正しい、あなたが間違っている、お互いにそう言い合っては、けんかしたり、争ってみたり、実に、戦争と言うのも、お互いに自分たちは正しいと言いながら、相手と戦うわけですよね。

ですが冷静になって、本当の本当に自分が正しいのか、自分に過ちがないのかといえば、決して、そうではないはずなのです。

もし絶対に正しいといえるとしたなら、それは神という存在だけでしょう。
「天に栄光」。
もしお互いに、お互いにですよ。
私たち人間的な基準ではなく、絶対なる神を基準にして、「自分にも間違いがある、ごめんなさい」と認め合うことが出来たなら、実は、夫婦喧嘩も、戦争も起きなくなる…のかもしれませんよね。

クリスマス、キリストの誕生は、この民全体のため…。
身分の低い人も、貧しい人も、あの人も、この人も、
そして決して、正しいとはいいがたい、むしろ、間違う自分、失敗する自分、そんな自分でさえも、
実は、神様から見たときには「救いの対象」「愛すべき対象」、すなわち「御心にかなう人」で、
「天に栄光、地には平和を」、
そんな自分のところにも、いや、そんな自分のためにこそ、救い主がやってきたというのであれば、驚きじゃないですか。

2:15 御使いたちが彼らを離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは互いに話し合った。
「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

これが、まさにクリスマスの喜びなんです。羊飼いたちの心にも、神の平和が訪れた瞬間でした。

2:20 羊飼いたちは、見聞きしたことが、全部御使いの話のとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

 たとえ、過ちがあったとしても、そんな過ちのある自分を認め、この救い主、イエス・キリストを喜び、迎える人は、みな「御心にかなう人」なんです。


「地には平和を」。
時に、先週は、衆議院選挙がありましたが、今年は、みなさん、多かれ少なかれ、「平和」ということを意識させられた1年でもあったかと思います。

平和というのは、二種類あると思います。
1つは、武力をはじめ、経済、政治…、力によって支配することで生まれる「平和」です。
もう1つは、愛と赦しの心から生まれる「平和」です。

イエス様が生まれた時も、イスラエル、ユダヤの地域にローマ帝国の支配がやってきた頃でした。少し前を見ていただいて、2章1節

2:1 そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。
2:2 これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった。

何気なく書かれていますが、皇帝アウグストゥスというのは、帝国化したローマの、初代ローマ皇帝です。
そのローマ帝国から、ローマ軍とともに、イスラエルの北、シリアに総督が派遣され、やがてはユダヤにも、かのポンテオ・ピラトが派遣されてくるわけですね。

実に、ルカ自身が、この福音書を書いていた時期も、実は、ローマ帝国によって、だんだんキリスト教会への圧力が加わり、迫害の時代に差し迫っていた、そういう時期でもあったんです。

このローマの皇帝が成し遂げようとしていたのは、言うなれば、まさしく力による平和と言えるのかもしれません。武力により、反逆分子を制して、地域を平定する…。
それが、ゆえに、ローマの皇帝も、「救い主」とも、「主」とも呼ばれていたんですね。それは、まさに2章11節と同じ「救い主」「主」という言葉、同じ称号であったんです。

しかし、ローマに支配された国々の人々、ユダヤの民にしてみても、そういう風に呼ばされていた…というのが正解かもしれません。
力による平和は、片方にとって都合のいい平和であって、虐げられる者を生み、数々の反発や敵対心、力によって対抗するものも生んでいきます。

ルカは、このローマ皇帝や、帝国による力による支配を意識しながらも、でも、その中にあって、天使たちの言葉を使いながら、「この方こそ主キリストです。」と伝えている、宣言しているわけです。

ですが、ルカは、決して、クリスチャンたちに、ローマに力で立ち向かえ…と言いたいわけではありません。むしろローマ帝国のテオピロという高い役職の人に、この福音書を書き送り、皇帝とは違う、キリストが示している平和の道を理解してもらいたかったんですよね。

今日の招きの言葉は、イザヤ書から選ばさせていただいたんですが、

イザヤ2:4
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

一見すると、クリスマスらしくない言葉かもしれませんが、実に、これも「メシア預言」、救い主の預言なんです。
しかも、同じくアドベントで読まれるミカ書にも、まったく同じ預言が出てきます。
この預言に続いて、救い主の誕生の預言はなされていくんです。
いうなれば、これがメシア、救い主によって成し遂げられる「平和」の約束、目的なんです。

11月の終わりには、牧野先生から、イザヤ書のお話があったかと思います。
このイザヤの当時、イスラエルは南北に分かれていたわけですが、南のユダ王国は、周辺諸国から軍事的圧力を受け、アッシリア帝国の軍事力に頼ってしまうわけですね。
しかし、頼ったがゆえに、アッシリア帝国の従属国のようになり、やがては次に起きたバビロニア帝国に呑まれていくわけなんですが、そのときに立てられていた預言者がイザヤであり、また、ミカだったんです。

実に、メシア、救い主、キリストの預言も、またその成就も、帝国による支配が近づいてきた時になされていることがわかります。
その中で、クリスマス、救い主の誕生は、平和の訪れを示すものでもあるんです。

では、その救い主、キリストは、どういう平和をもたらしてくださったんでしょうか。。。

イエス様は、軍事力を傘に、軍隊を引き連れて、やってきたわけではありません。
完全無防備の赤ん坊として生まれました。
この世的な政治活動や権力を握ったわけでもない、羊飼いのように身分の低い者や、貧しき者に寄り添い、病を癒し、友なき罪人たちと友となり、やがては十字架を背負う。

見方によっては、無力な敗北者の姿なのかもしれません。
しかし、王が力によって民を封じ込めるのではなく、王自らが、民のために、命を差し出す…。
その王の姿を見た民が、その心を理解することによって生まれる平和。

 彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。

これが「平和の君」のやり方、愛と赦しによる平和です。

この御言葉は、国連にも掲げられているらしいですが、クリスチャンの多い国が数ある中で、どれだけ実現できているかと言うと、実は、できていないわけですよね。
奇しくも、クリスチャン人口1%のこの日本にあって、憲法9条「戦争の放棄」が掲げられ、戦後69年間、保たれてきたわけですが、残念なことに、それも今、崩されようとしています。
ある意味、私たち人間たちにとっては、当然のように生まれてきてまう発想なのかもしれないです。
現実的にはなかなか難しい。武器を持つものがいる以上、武器を持たざるを得ない、力を求めてしまう。
実際に実現するには、イエス様が再びこられて、王となる日を待たなくてはならないのかもしれません。

ですが、そうであったとしても、私たちはどうあるべきなのか。
力による平和なのか、愛による平和なのか…。

私たちは、この世の権力者がどうであれ、現実がどうであれ、あくまで「愛と赦しによる平和」を目指す。
私たちに力はないかもしれません。でも、まずは、身近なところから。
それが「平和の君」を王の王、主の主を、救い主、主とするということではないでしょうか。


十字架というのは、ローマ帝国が編み出した、世界で最も苦しいといわれる、極めて残酷な死刑です。
それゆえ、ローマの市民権を持つものには執行されず、支配した国の者、属国の反逆分子を防ぐために行われた公開処刑なんです。

イエス様は、十字架に架せられた時、その十字架に釘打つ者、ローマの兵隊のためにも、「父よ。彼をお赦しください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」、そう祈られました。
一方で、横で、一緒に十字架につけられていた強盗の一人に向かっても、「今日、わたしと一緒にパラダイス、天国に行くよ。」と語られたんです。
この両者…、このローマの兵隊と、この強盗は、いわば敵同士。
でも、イエス様にとって、どちらが正しくて、どちらが間違っているとか、敵とか味方とかは、なかったわけですよね。
どちらも救いの対象、愛すべき存在であったわけです。
どちらにも平和であってほしい…その願いも込められていたんではないでしょうか。

イエス様は、強盗に向かって、「今日だ。」と言いました。「今日、わたしと一緒にパラダイスに行く。」今日、イエス・キリストを信じるなら、今日、救われます。

私たちにとっての「今日」という日、今、まさに、私たちのうちにどれだけ、クリスマスの喜び、心の平和が保たれているでしょうか。
ここは正直であっていいと思うんですよ。

私たちの人生の中では、様々なシーンの中で、誰かに傷つけられること、誰かを傷つけてしまうこと、様々な痛みもあると思います。
その痛みがゆえに赦せなくなること、怒りが湧き上がってしまうこと、反対に、そんな自分を責めてしまうこともあるかと思うんです。
でも、イエス様は、その痛みや苦しみも、貧しい馬小屋にも、十字架の上でも、イエスは来てくださるお方です。
もし、今、心のうちにそうした痛みがあるならば、ぜひ、そのまんまをイエス様に打ち明けてみてください。
イエス様は、その痛みにも寄り添ってくださるお方です。

そんな救い主と出会うその日、その「今日」という日が、まさにクリスマス。

 きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになった。
 今日、あなたは私と一緒にパラダイスに行く。

 こんな私のところにも、救いがやってきた。
 こんな俺のことでも、神様は愛してくれていた。

私たちもまた、今日というこの日に、改めて、平和の君、救い主なるイエス・キリストを喜び迎え、「この方こそ主キリストです」と告白、賛美するものであろうではありませんか。

来年は、戦後70年という節目の時も迎えます。
二度と戦いのことを習わない。
真の平和を祈りつつ、キリストの福音、平和の福音、愛と赦しによる平和を目指していきたいものですね。



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2014年08月13日

ニュースレター第8号

いつも、私たち夫婦の活動のためにお祈りいただきまして、誠にありがとうございます。

早くも8月となり、ますます暑さも厳しい日が続いておりますが、皆様、お変わりなくお過ごしでしょうか。
意外と皆様からご心配いただくのが、私、力の仕事(旅行業)のこと…。元々一般向けに韓国を一番の得意としていたのですが、政治的な日韓外交関係の悪化から、韓国旅行での売上は下がったままです。しかし代わりに台湾他に展開し、厳しい状況ではありますが、なんとか守られてもおります。ありがとうございます。

そんな折、韓国からピアニストのゴン・ミン氏が静とコラボでコンサートをしてくださり、反対に、静もまた9月、ゴン・ミン氏のコーディネートで、韓国でのコンサートが予定されております。

このゴン・ミン氏は、プロで活躍するクリスチャンアーティスト。しかし、3年前の震災後に日本のために何かできないかと、それから日本語を勉強し始め、今では毎月のように日本に訪れています。
日本人と韓国人。時に「国」という単位で、十把一絡的に人を見てしまいがちですが、人と人とで付き合って見る時に、それがいかに偏見かもわかると思います。こうした日韓クリスチャンとの交流も、日韓の平和の架け橋になっていくことを期待し、祈るところです。

今年も後半戦に入っておりますが、夫婦共々、仕事に奉仕にがんばりますので、ぜひ、お祈りのほど、よろしくお願いいたします。

PDF版ニュースレター >>>第8号.pdf 

■活動予定
8月 1日(金) 市川市 市川家庭集会(聖望キリスト教会)静・夏の夕べのコンサート
8月10日(日) 川崎市 保守バプテスト・田園グレースチャペル 力・メッセージ
8月17日(日) 加古川市 フリーメソジスト・加古川キリスト教会 力・メッセージ/静・コンサート
8月29〜30日 軽井沢町 ゴスペルリンキング in軽井沢(恵みシャレー)静・出演
8月 24日(日) 横浜市 単立 シャローム福音教会 力・メッセージ
9月13〜15日 静・愛知/京都ツアー(志賀キリスト教会、京都中央チャペル「洛都祭」他)
9月14日(日) 市川市 聖望キリスト教会 力・メッセージ
9月 21日(日) 横浜市 単立 シャローム福音教会 召天者記念礼拝 静・賛美
9月25〜30日 静・韓国ツアー with Migiwa, ゴン・ミン
10月 3〜6日 静・北陸ツアー(金沢中央教会、内灘聖書教会他)
10月11日(土) 新宿区 復興支援一致祈祷会(ウェスレアンホーリネス淀橋教会) 静・音楽ゲスト
10月12日(日) 寝屋川市 日本キリスト教会 香里園教会 静・コンサート
10月16〜20日 静・沖縄ツアー(沖縄しあわせコンサート、ゴスペリンキング他)
10月26日(日) 静岡市 単立 その枝キリスト教会 力・メッセージ/静・賛美
11月 9日(日) 横浜市 単立 シャローム福音教会 力・メッセージ
※その他、折を見て、東北にも訪問させていただく予定です。

東北支援活動については、こちらをご覧ください。>>>聖望キリスト教会「単立教会 東北支援」





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2014年02月20日

ニュースレター第7号

いつも、私たち夫婦の活動のためにお祈りいただきまして、誠にありがとうございます。

今年も本拠地市川の聖望教会を皮切りに、各地へと巡回奉仕が始まりました。教会の内外問わず、仕事とも両立しながら、必要な求めに応じて、巡回伝道・コンサート活動を展開してまいります。東北では、

震災から満3 年を迎えますが、未だに仮設住まいを余儀なくされている方もいらっしゃいます。こちらも引き続き、訪問していく予定です。
ぜひ、お祈りに覚えていただけましたら、幸いです。

PDF版ニュースレター >>>第7号.pdf ぜひ、ご覧ください。

■活動報告&予定

1 月12 日(日) 市川市 聖望キリスト教会 力・メッセージ/静・賛美
1 月25 日(土) 宮城県名取市 閖上地区みなし仮設 静・コンサート
   (企画・保守バプ・船岡聖書バプテスト教会「ナオミの会」)
1 月26 日(日) 仙台市 単立 シーサイド・バイブル・チャーチ 力・メッセージ/静・賛美
2 月 1 日(土) 東京都 お茶の水・東京プレヤーセンター お昼の礼拝 力・メッセージ/静・賛美
2 月 9 日(日) 横浜市・単立 シャローム福音教会 力・メッセージ
2 月21,22 日 宮城県気仙沼市 静・仮設コンサート(3.11 いわて教会ネットワーク主催)
2 月23 日(日) 岩手県北上市 保守バプテスト・北上聖書バプテスト教会 力・メッセージ/静・賛美
3 月7〜11 日 宮城県各地 3.11 東北メモリアルツアー 静・コンサート(with Migiwa 他)
(3 月11 日 東北支援3 年目復興コンサート・宮城野区文化センター)
3 月 9 日(日) 宮城県石巻市 単立 キリスト教会・石巻祈りの家 力・メッセージ
3 月19〜24 日 沖縄県 アルファトラックス(CD 発売元) 静・沖縄巡回コンサートツアー
3 月30 日(日) 川崎市 保守バプテスト・田園グレースチャペル 力・メッセージ/静・賛美
4 月 5 日(土) 東京都 お茶の水・東京プレヤーセンター お昼の礼拝 力・メッセージ/静・賛美
4 月13 日(日) 横浜市・単立 シャローム福音教会 力・メッセージ

■各地教会でご奉仕いたします … 夫婦迷コンビ!? 説教&賛美での奉仕も、ぜひどうぞ!

★奉仕先教会募集★ 竹下静 全国巡回コンサート・ツアー計画中!

新CD の発売元であるアルファ・トラックスでは、普段は行きづらい全国各地での巡回コンサートを計画中です。
下記巡回先での教会の皆様はぜひこの機会に。またお知り合いの教会などがありましたら、ぜひご紹介ください。

3/19〜24 沖縄、 4/16〜20 静岡(東海)、5/14〜18 大阪、6/17〜22 四国、7/11〜20 北海道
8/8〜17 北陸/東北(日本海側)、9/19〜28 九州、10/4〜12 沖縄(一部予定。記載以外の日程・地域も随時承ります。)

企画・お問い合わせ 竹下静ツアー事務局(アルファ・トラックス) TEL.044-322-9225 http://alphatrax.net

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2014年01月19日

「三位一体の神に守られて」ヨハネ14:6〜28

みなさん。おはようございます。

今年最初の説教当番になりますが、本年もよろしくお願いいたします。

昨年は、東北被災地を中心に活動を展開してまいりましたが、静もCDを出しまして、今年は、さらに活動を広げていきたいと願っています。

使徒の働きには、こうありますよね。
「聖霊があなたがたに臨む時、あなたがたは力を受けます。
そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、わたしの証人となります。」
 
 使徒たちによって伝えられた福音は、エルサレムに始まり、いまや東の果て、日本、この市川三丁目にも届けられているわけです。
 しかし、教会というのは、内向きに、この建物の内側ばかりを意識するのではなく、地の果て、外に向かって、外に発信していく。市川三丁目にはじまり、関東、さらには地の果てに向けて発信していく、そうした性質も帯びているわけですよね。

 …といっても、みなが伝道者ではありません。みなが静のような歌うたいではありません。それは私たちの働き、役目として担っているわけですが、ホームグラウンドは、あくまで聖望教会だと思っておりますので、よろしくお祈りをもって、応援していただけましたら幸いです。

 さて、今日は、「三位一体」なる神様について考えてみたいと思っているのですが、三位一体なる神様というのは、今朝も告白しました使徒信条にも表されるキリスト教の中でも極めて重要かつ中心的な信仰内容の一つです。

ですが、正直な話、「三位一体」と言われても、なんだかよくわからない、難しく考えてしまう方も多いじゃないかな…と思うんですよね。
 父なる神様と、子なるキリスト、そして聖霊、確かに3つ存在しているのに、三つの神様ではなく、1つだというわけですよ。なんちゃあ、よう、わからん。これで、私たちの頭は、完全に「?」になるわけですよね。

 なぜ、大切かというと、今朝もお読みしましたイザヤの預言からしても、救い主は神ご自身、「わたしのほかにはいない」わけですよね。

 ところが、この「わからない」「わかりにくい」ところ突かれて、たとえば、イエス様をキリスト(救い主)だとは言いながら、神様ではない…、エホバの証人や、異端的な教えが忍び込んでしまうわけです。それは、すなわち「三位一体」を否定した考えなんです。

 あるいはですね、父なる神様…なんとなく、わかります。イエス様、よくわかります…、ところが聖霊となった瞬間、目には見えないし、正直な話ですよ、いるのか、いないのかも、よくわからなくて、下手をすれば、「聖霊の働き」といえば、なんでも「正しい」ことになってしまうなんてことも、世の中では起きているわけですね。

 それも、ちょっと嫌じゃないですか。
ですが、この「三位一体」、実は、単純素直に受け止めれば、そんなに難しい話でもないんですよね。それは、よくわからない人間が、難しく言ってしまっただけの話なのかもしれません。
 
 もちろん、相手は神様のことですから、私たちの頭で完全に正しく理解できるというわけでもありません。聖書66巻、全部を把握したとしてもですよ。神様は、人知をはるかに超えているわけですよね。神様ご自身について本当に語れるのは、実は、聖書記者でも、神学者でもなく、神様ご自身だけなんですよね。

ヨハネ1:18 にはこうあります。
「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。」

つまり、神様ご自身については、人ではなく、イエス様がなんと言っているかが、極めて大事なんです。

そこで、今日は、イエス様がなんと言っているか、そこを見ていきたいと思うわけですが、その前に、「何が、わかりにくくさせてるのか」、それについてお話させていただきたいと思うんですね。なぜ、わかりにくいか…、それが、わかると、逆に、頭はすっきりします。
 
イスラエルからみて、私たち異邦人というのは、たいていイエス様の福音、新約聖書からはいるわけです。
ですから、いきなり父と子と聖霊、3つ登場してしまうわけですよね。
3つだけど、1つ、これが、わかりづらいんです。

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 ところが、ユダヤ人にとっては、どうかというと、旧約時代から唯一絶対の神様がただひとり、ドーンと存在しているわけですよね。
 そして、イエス・キリスト、救い主が現れたときに、実は、唯一絶対の神様の中には、父と子と聖霊、3つの格…、神様なので「人格」ではなく「神格」とでもいいましょうか、難しい言葉で言うと、位格・ペルソナになるんですが、そうした自由意志を持つ存在があることを知るわけです。
唯一絶対の神様には、3つの格、存在がある。1つが先に来て、「1つの中には、三つある」…というのが、もともとの理解だったんです。

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この理解は、オーソドックスとも呼ばれる東方正教会、ギリシャ正教会とか、ロシア正教会とかありますよね?日本にも教会がありますが、実に、この正教会には残っていて、祈祷文に「一体にして分かれざる聖三者」という表現で非常によく使われているんです。
つまり、「1つの中には、三つある」、まず1が先にくるわけです。

この福音書を書いたヨハネも、またパウロやペテロも、みなユダヤ人です。
もともとの初代キリスト教会は、エルサレムに始まり、ユダヤ人から異邦人へと伝えられ、世界各地に築かれていったわけですよね。

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最初の海外拠点になったのは、今のトルコ南部にあるアンテオケの教会です。

よく聞くところでカパドキアもトルコですし、エペソの教会をはじめとする黙示録にある七つの教会も今のトルコにありましたし、コリントや、テサロニケといった教会は、隣のギリシャにある町です。今でこそ、国が違いますが、当時はローマ帝国、一つの国だったわけですね。
そして、やがて西の首都ローマへと福音は伝えられていくわけです。

これが、やがてローマ・カトリックとなるわけですが、もともとは、西のローマも、東のギリシャ、トルコの教会も一つの教会、教団だったんです。

ところが、ローマ帝国が西と東に分断したこともあって、西のローマと、東の教会との交流も薄らぎ、次第に別れていくことになったわけです。

ローマ・カトリックは、エルサレムからも遠く、完全に異邦人中心の教会でしたから、最初にいきなり3がくる、三でありながら一つという「三位一体」という風に捕らえるようになっていったわけですね。

プロテスタントも、ローマ・カトリックの流れを汲みますから、同じく三位一体、3つでありながら一つという、わかるようでわからない理解の仕方をしているわけです。

ですが、もともとを辿れば、エルサレムから、アンテオケ、東から西へと伝わったわけですよね。「1つの中に、三つある」という理解のほうが、素直ということになるわけです。

この「1つの中に、三つ」…父、子、聖霊…3つの存在があるというのは、他でもないイエス様ご自身によって、明らかにされたことなんですよね。それが今日のヨハネの福音書の箇所になります。

「1つの中に、三つある」、それが唯一の神様なんだとわかると、もう、ほとんど、イエス様がいっていること、そのまんまでも理解できるかと思うんですが、まず、私たちは、イエス様から入るわけですよね。


14:6 「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

「わたしが道、真理、いのち」、必ず、イエス様を通してでなければ、天の父の元にいくこともないし、また、

14:9 …わたしを見た者は、父を見た」

イエス様を知るということは、天の父を理解していくということでもあるというわけですよね。

14:10 わたしが父におり、父がわたしにおられることを、あなたは信じないのですか。

わたしがあなたがたに言うことばは、わたしが自分から話しているのではありません。わたしのうちにおられる父が、ご自分のわざをしておられるのです。

イエス様は、一つの人格、自由意志を有しながらも、決して単独の意思で行動しているわけではなく、父という存在から切っても切り離せない関係であるわけです。

14:16 わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです。

そして、父なる神様は、助け主、聖霊様を遣わしてくださるというわけですね。

14:26 しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。
 
その聖霊様は、私たちとともに住み、「わたしがあなたがたに話したすべてのこと」、つまり、イエス様の話したことを「思い起こさせてくださいます」というわけです。

イエス様は父なる神様を指し示し、父なる神様は助け主として、聖霊様を遣わし、聖霊様はイエス様を指し示す…この3つのリレーション、トライアングルが見事に成り立っているわけですよね。

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「父・子・聖霊」全部揃って、全体で「唯一の神様」なんです。
それぞれが自由意志がありながらも、決して独自に単独で動いているわけではありません。

たとえば、父なる神様やイエス様抜きで、「神」は語れないし、「聖霊」だけで「神」全体でもないんです。

ところが、この「聖霊」というのが曲者でして―本当に曲者なのは、私たち人間なんですが―、
目には見えないがゆえに、聖霊の名において、人間が、自分の都合のいいように、「聖霊に導かれているから、間違いない」などと、なんでも正しいかのように言えてしまうという危険もありうるわけです。

ですが、聖霊様も決して単独独自に行動することはなく、必ず、父なる神様から派遣されて、「道であり、真理、いのち」、救い主・子なるイエス様を指し示していくんです。

このヨハネの福音書の続きを少しみてみましょう。

15:26 わたしが父のもとから遣わす助け主、すなわち父から出る真理の御霊が来るとき、その御霊がわたしについてあかしします

16:13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示すからです。
 16:14 御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。
 16:15 父が持っておられるものはみな、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせると言ったのです。

いいでしょうか。。。

決して、聖霊なる神様が単独、独自で行動し、自分の言いたいことを言って自己主張しているわけではないんですよね。
「父」から遣わされて、必ず、道であり、真理、いのちである「わたし」すなわち「イエス様」を指し示しているんです。

イエス様は残念ながら、今は眼には見えないわけですよね。実際に、この耳で言葉を聞けるわけでもないわけです。
そうすると、イエス様が、愛してくださっている…といわれても、本当に愛してくれてるのかな、私なんかと本当に一緒にいてくれるのかな…なんて思ってもみたりするわけですよ。

 そんな時に、「大丈夫。イエス様がいるよ。イエス様が愛してくれているよ。」イエス様を指し示してくれているのが、助け主、聖霊様なんです。

ですから、たとえ聖霊ご自身について、よくわからなかったとしてもですよ、イエス様のことがわかる、イエス様を信じられるというのは、聖霊様が働いてくださっている証拠なんですね。

逆に、イエス様だったら、そうはしないだろう…とか、イエス様だったら、そうは言わないだろう…ということは、聖霊の導きでも、働きでもないわけです。

仮に、そういう勘違いあったとしても、すべてが否定されるというわけではないでよ。
私たちは、不完全な人間ですから、誰も完璧な人もいないわけです。
どんなに聖霊に満たされていても、当然、間違いや、失敗はつき物ですよね。

ですが、聖霊も神様なんですから、間違いのある人間がむやみやたらに「聖霊」の名を用いてもいけないはずですよね。。?

宮村先生も、徹底した聖霊信仰は、徹底した聖書信仰だと語られていますが、その聖書を通して、子なる神、イエス様ご自身が、繰り返して語られているのは、助け主、聖霊は「わたしについて教え、わたしについて証をする」ということなんですよ。

ヨハネは、手紙の中でも「霊だからといって、みな信じてはいけません。」(Tヨハネ4章)と忠告しているわけですが、受肉、十字架、復活、歴史的事実として「人となって来たイエス・キリストを告白する霊」これこそ、聖霊です。
反対に、イエス様の心、イエス様を理解できれば、聖霊様のことも、わかるということになるわけです。

これが、イエス様ご自身が、最後の晩餐のときに、口を酸っぱくして語られた、助け主、聖霊というお方なんです。

さて、私たちは、この聖霊の助けをいただいて、イエス様のことを知り、そしてイエス様を通して、さらには、父なる創造主を知ることになるわけですね。

14:28 …あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです。

イエス様は肉体を有して、私たち人間に、目に見える姿、形をもって、神ご自身について、説き明かしてくださったわけですよね。
しかし、肉体を有するということは、ある時間、場所に限定されてしまうことにもなります。それが、神ご自身のすべてかというと、そうではないわけですよね。

イエス様と同じような父なる神様、天の父が、目には見えませんが、イスラエルにも、この日本にも、何億万光年離れた宇宙のはての果てにも、時間と空間をはるかに越えて、存在しているわけです。

私たちは、この天の父に抱かれるように、命をはぐくみ、事実、今、生かされているんです。つまり、父なる神様に愛されて、存在しているわけですよね。

私たちは、神様の奇跡というと、超ウルトラ、ミラクルを期待してしまうのかもしれません。ですが、今日も日が昇る、これも天地を創られた神様の奇跡の業ですよね。

今年も正月三日目に、ようやく、うちら的、初日を見に行ったんですけどね。特に、冬の寒い朝ほど、太陽の光って暖かく感じるんですよね。
この絶妙な熱によって、私たちは、間違いなく、生かされているんですよ。

地球がもう少し太陽に近かったら、地球は灼熱地獄、海の水も蒸発してしまうわけです。ほんのちょっとでも離れていたら、海の水は凍り付いて、人間をはじめとする生物は、やはり生きられないんです。それは、この地球上にも、わずかの違いで、日本には春夏秋冬が存在し、水のない砂漠も、万年凍りついたような南極が存在していることでも察しがつきますよね。
実に、絶妙なバランスのところで、この地球という環境は創られているわけですよ。
すごいと思いませんか。

決して、クリスチャンだけではありません。たとえ、まだイエス様のことを知らなくても、父なる神様を知らなくても、たとえ偶像礼拝者であったとしても、太陽は昇り、地には雨が降り、天の父は、あらゆる生物、命を生み出し、養い育ててくださっている。愛してくださっているわけですよね。

わたしたちが神様を知る、救いに預かる、それは「わたしが道であり、真理」イエス様を通してだけです。
しかし、イエス様だけに守られているわけではなく、私たちは、聖霊によらなければ、イエス様のことはわからないし、イエス様を通して出なければ、この太陽の日の光が、父なる神様の愛の表れとは、思いもつきませんよね。

1年365日、私たちは、実に、父、子、聖霊…、この三位一体の神様のリレーションに、包まれるように、守られて、生き、存在しているんです。

私たちは、ついつい日曜に教会に来る時だけが礼拝の時、聖書を読むことだけが、神様を知ることかのように思ってしまいがちかもしれません。そうではないんです。
三位一体、聖霊の助けを得て、イエス様のことを知り、イエス様を通して、父なる神様を知った私たちは、ここから外に出て行くときにも、あらゆるところで、神様の愛でいっぱい、神様の奇跡でいっぱい感じることができるのではないでしょうか。

イエス様が、この三位一体なる神様のことを明かされた時に、もう一つ、語られているのが、「わたしの戒め」ということです。

14:21 わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。

ここで言う「わたしの戒め」って何でしょう。

それは、「愛する」ということなんです。
ところが、ぎっちょんちょん。
この「愛する」と言うのは、言うは安し、行うは難し…。

愛するというのは、真心、心が伴うものなんですよね。
決して、うわべでもなく、また、独りよがり、自己満足でもなく、本当に相手にとってベストばかりが尽くせるか…というと、決して、そうではない。難しいものですよね。
おそらく、これは生涯を通じて、養い、育てられていく、課題なんだと思うのです。

しかし、そんな不完全な私たちであっても、イエス様に愛され、父に愛され、聖霊もまた私たちを愛し、神の愛を伝えてくれているんですよね。だからこそ、私たちもまた愛し合うんです。

そんな三位一体の神様を賛美、礼拝をしに、次の日曜には、教会に集まり、共に喜び合いたいものですよね。

また、この世の荒波にもまれ、傷を負ったとしたなら、やはり教会に来て、英気を養い、疲れを癒し、再び、この世に遣わされていくものでいきましょう。



ラベル:三位一体
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2013年12月30日

「朝明けには喜びの叫びがある」詩篇30篇


(2013.12.29 シャローム福音教会)

クリスマス終わって、急にまた一段と寒くなりましたね。
今年一年、皆様、どんな一年でしたでしょうか。

いよいよ、今年、最後の礼拝になりました。今日は、歌と説教で半々とさせていただきました。

実は、今回、静のCDは、この詩篇から、インスピレーションをいただいて、タイトルをつけているんですね。

30:5 …夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

1枚が、賛美歌を集めた、Before the Dawn 夜明け前。
もう1枚が、オリジナルソングを集めたBrightest Morning 明るい朝。

1枚1500円、2枚で3000円、ちゃっかり宣伝しているんじゃないかと思われそうですが、長い話を短くすれば、まあ、そうなんですけどね。

今回のCDには、静なりの東北への思いが込められているようです。

来年の3月には、東日本大震災から満3年を迎えようとしていますが、被災地では、まだまだ復興途上にあるのが現状です。
12月には、福島の南相馬に行ってきましたけれども、警戒立入禁止区域の浪江町境にある牧場では、およそ3マイクロシーベルト〜4マイクロシーベルト。
それは、このあたりの50倍〜100倍くらいの放射線量となるわけです。

そのあたりは立入は許されていますが、居住、住むことは許されていません。
牛たちは放牧ではなく、半ば放置、草が食べられるように、放たれたままにされています。
でも、牛たちはやせ細っているのが現状です。

もう1日は、もう少し北の相馬市の仮設住宅を訪問もさせていただきましたが、そこには、やはり放射線量の高い飯館村の方々が、集団避難されているんですよね。
子供もいる働き盛りの若い世代は、県外へ職を求め出て行き、残されている多くは高齢者が中心。お年寄りがお年寄りの手を引き、車椅子を押している状況です。

何もなかったら、自分が手に負えるくらいの畑仕事でもしながら、自分の慣れ親しんできた土地で、残りの余生を暮らすはずだったのかもしれません。
ところが今や、アスファルトの上に立てられた、プレハブの仮設住宅の暮らし。
生活環境があまりに変わって、楽しみも、少ないわけです。

そこに静が歌を歌い、一時は、楽しんでももらえるわけですが、帰るころには、「帰り際がさみしいんだよね」と語る方もいらっしゃるわけですよね。
単に、生活ができるか、できないかだけの問題ではないんですよね。

東京オリンピックの選考会では、わが国の首相いわく、福島の原発は「アンダーコントロール」、管理されているらしいですが、これが「コントロール」されているというのであれば、ほとんど見て見ぬ振り、無視に近いんじゃないかと思うわけです。

私たちは、まやかしの言葉で、「コントロール」されてはいけないな…と思うわけです。

私たちができることは、小さなことかもしれないですが、しっかりと現実を見据えた上で、自分たちにできることをしていきたいものですよね。

さてさて、決して、東北のみならず、私たちの人生は山あり、谷あり。
いいことも、悪いこともあるものですよね。

クリスチャンになったら、いいこと尽くめ。すべてが、うまくいく…なんてことはないわけです。
クリスチャンになっても、ならなくても、災害に会うこともあります。病気になることもあります。思わぬトラブルに巻き込まれることもあります。

あの…残念なお話ながら、東北の震災を、まじめに神の裁きだという、クリスチャンもいたりするわけですよ。はっきりいいますが、100%、聖書的間違いですからね。
ただ単に自分が災難にあっていないから言える、自信過剰のこれぞ罪。

言葉が悪くて、本当に申し訳ないですが、ほんと、私がクリスチャンじゃなかったら、俺がお前に災難、神の裁きを下してやろうか…って話なんですよ。

日本は地震でできた国。いつかは、関東にも大きな地震はきます。
私の実家、静岡なんて、近いうちに必ず大きな地震が来ると言われ続けているんですから。
それが日本の自然。でも、その自然界の恩恵もたくさん受けて、私たちは生かされているわけですよね。
私たちも、この日本、地球に暮らしている限り、こうした災害、災難に会うことは、十分、ありえるわけですよね。

私たちは、その日本の自然の中で生活していることを前提にしておくべきなんですよね。
だとすれば、福島の事故に至っては、言うまでもなく、地震や津波、日本の自然を甘く見た、100%人災なんですよね。。。

この詩篇30篇は、ダビデは大きな危険からの救いを主に感謝している詩です。
2節、3節を見ると、死を予期させるような、重い病気にかかったのではないかと考えられます。
信仰深かったダビデもまた病気になるんです。

ですが、単に、病気にかかったに終わらず、

30:2 私の神、主よ。私があなたに叫び求めると、あなたは私を、いやされました。

ダビデは、神にあって生かされていることを感じ取っているわけです。

私も、クリスマス直後ですね、首の左側のリンパ腺がはれてしまって痛かったんですよね。特に風邪も引いてないのに、こうなるのは、はじめてだったんで、最初ちょっと、何の病気かと思って、内心、びびったりもしたんですけどね。

しかし、私たちには、感謝なことに、イエス・キリストにあって、すでに永遠の命が保証されているわけです。
死は、瞬間、恐れはあっても、絶望ではない…、死の先にすら希望がある、
これは、信じる信仰によって与えられる、クリスチャン特有のものでしょう。

30:4 聖徒たちよ。主をほめ歌え。その聖なる御名に感謝せよ。
30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。
30:6 私が栄えたときに、私はこう言った。「私は決してゆるがされない。」

「まことに、御怒りはつかの間、」
神様は、人間ほどには、怒ったり、裁いたりしないのかもしれない。
逆に言えば、私たち人間のほうが、人を裁いたり、怒ったりしてしまうのかもしれないですよね。
実に、神様は、クリスチャンであっても、そうでなくても、恩寵、恵みのうちに、生かしてくださっているわけです。

この聖書の神様を信じるということは、人間が自力で生きているのではなく、この神様の恩寵、恵みのうちに生かされているものであるということを認める、受け入れるということなんです。

毎年、年末には、よくお話をさせていただいているんですが、初日じゃなくても、ぜひ、皆さん、機会があれば、日の出を見に行ってみてください。

私たちは、天地万物を創られた、もちろん太陽も、この日の本、日本も作られた神様を信じているんですよね。
日本人は、太陽そのものに神を感じて、知らずに拝んでしまったわけですが、私に言わせれば、これは惜しいことなんです。実に、太陽の向こうに、太陽を創られた神がいるわけですよね。

八百万の神を信仰するということで、キリスト教会では否定的に語られてしまうわけですが、でも、見方を変えればですよ。この自然界、森羅万象、あらゆる被造物の中に、直感的に「神」という存在を感じ取ってきた民族でもあるわけです。

反対に、クリスチャン、聖書学者、私みたいな伝道者も、つい、うっかりすると、聖書そのものばかりに集中してしまい、この自然界に疎くなってしまうことがあるように思います。
でも、この聖書そのもの、本そのものの中に、神様がいるわけではないですよね。

この全宇宙、大自然の中で、これらを創られた神様によって、わたしたちは、生かされている…、そのことを伝えてくれているのが、聖書だったりするわけです。

ですからね、ぜひ、みなさん、機会があれば、日の出、見てきてください。
夜明け前、まだ日が出る直前というのは、一番、寒かったりするんですよね。。。

ところが、暗闇を引き裂くように、太陽が顔を見せる瞬間、強烈な光とともに、熱を感じるわけですよ。
鳥たちは飛び立ち、生命が喜びの声を上げる。

30:5 まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

繰り返しになりますが、人生は山あり谷ありです。
今年一年、この終わりのときに、あるいは苦しみの中にある方、悲しみの中にある方いらっしゃるかもしれません。

しかし、今日も自然界の恵みのうちに生かしてくださる神様がいます。

今は涙があっても、明けない夜もありません。

夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。

嘆きを踊りに、荒布を喜びに、変えてくださる神様がいます。

共に喜び、共に泣く…、そういう仲間、神の家族もいます。

あのカルバリの十字架を背負われたイエス・キリストもまた、あなたの苦しみ、病、悩みを共に背負ってくださる、そういうお方です。

30:11 あなたは私のために、嘆きを踊りに変えてくださいました。あなたは私の荒布を解き、喜びを私に着せてくださいました。
30:12 …私の神、主よ。私はとこしえまでも、あなたに感謝します。

2014年もまた、皆様にとって、喜びと感謝にあふれた一年になりますように、お祈りしております。


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2013年12月24日

家畜小屋で生まれた救い主

(2013年12月24日 聖望キリスト教会 イブ燭火礼拝)

メリークリスマス!

今日は蝋燭の明かりの中で、静かにクリスマスを思うときが与えられているわけですが、皆さんはどのような思いでお迎えでしょうか。
それぞれに感じるところがあるのではないかと思います。


今年のクリスマスに当たって、私個人が考えさせられたのは、イエス様がお生まれになったのが、実に、家畜小屋だったということなんですよね。。。
それは、ただ単に宿屋がいっぱいでとか、そのほうがお涙ちょうだいできる…ということではないんです。


ルカの福音書
2:12 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。


これが、「あなたがたのためのしるし」だったんです。

よくメッセージでは、家畜小屋だったからこそ、羊飼いも救い主の元に行くことができた…なんてお話したりもするんですが、羊飼いたちは、当時、最も身分が低く、人々から大変、嫌われる職業だったんですね。そんな羊飼いたちは、救い主知らせを受けて、急いで行き、喜んで帰っていったと聖書では書いてあります。

でも、自分だったら、どうでしょう。。。
家畜小屋で生まれた赤ん坊を、果たして、救い主として受け入れられるでしょうか?
あるいは、反対に、もし自分が救い主の立場だったら、あえて家畜小屋で生まれたいって思うでしょうか。正直ね、そうは思えないような気がするんですよね。

先にお読みしたミカ書の預言では、こうあります。


5:2 ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。
その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。

ベツレヘムは昔からある丘陵地帯にある農村地帯です。
ダビデの町、ダビデ王の出身地ではありましたが、この預言者ミカの時代になると、ベツレヘムは、小さなもの、小さな村となっていたようです。

でも、その小さなベツレヘムから、イスラエルの支配者が出る。しかも、それが昔から、永遠の定めであると言うわけです。

その小さなベツレヘムの、しかも家畜小屋。当時は、洞窟を改造して作られた家畜小屋であったとも考えられています。
その家畜小屋に主イエスは、お生まれになったわけです。


私たちは、ついつい大きなもの、立派なものに目が向いてしまいがちかもしれません。

キリスト教会も、何人の教会になったとか、立派な会堂が建ったとか、そちらの方に目が向きやすいし、その方が説得力もあるのかもしれない。
でも、神様は、目立たず、弱い、小さな者の方へと目を注がれているわけです。

かつて、私が神学校時代に、講師に来た先生が、こんな風に言ったんですよね。
「私は、1000人の人たちが集う日本で最も祝福された教会の牧師をさせていただいてるものです。」


私も、高慢というか、鼻っ柱だけは強い、生意気な若造でしたからね。。。
「何を〜!。聖望教会は30人だけど、世界でもっとも祝福されている教会の一つじゃ」と、口には出さないまでも、そのくらいには思ったりしたもんです。

決して、大きいこと、人数が増えることがいけないわけではないです。むしろ、目指すべきかもしれない。でも、小さな者、小さな群れ、小さな教会を軽んじてもいけないんです。


聖望教会も最初5人から始まったと聞いています。その最初の5人の小さな群れの中にも、主は共にいてくださり、祝福してくださっていたんですよね。世界でもっとも祝福されている教会の一つだったんです。だから、今もあるわけですよね。

仮にこの先、聖望教会が100人、1000人になったとしても、その大きさを誇るのではなく、最初の5人の小さな群れを軽んじなかった主を忘れない、そんな主を誇るものでありたいものですよね。


私たち自身は、どうでしょう。。。
私たちもまた、クリスチャン、5年、10年やっていると、小ささを忘れて、大きなものになってしまうことがあるのかもしれない。私なんか要注意ですよね。元々、高慢なものですから。外部でいろいろ活動していけば、もっと高慢になっちゃうかもしれないですよ(笑)。

逆に言えば、心のうちには、そういう罪の性質もしっかり抱えているんですよね。

どんなに綺麗に掃除していても、実は、今もなお、醜いもの、汚い言葉も出てくる、まさに家畜小屋。いろんな欠点や弱さ、罪もある、小さな者かもしれません。

先日の宮村先生の説教から借りれば、今もなお、闇がある…それが真実でしょう。
クリスマスは、自分自身の内にある、そんな家畜小屋を思い起こす時なのかもしれない。

でも、いいでしょうか。ここがポイントです。

主イエスは、私たちの心の綺麗で立派な部分というよりは、その家畜小屋にこそ、来てくださるお方なんですよね。


 あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。
 これが、あなたがたのためのしるし…


クリスチャンになったばかりの時も、もしかしたら今もなお、家畜小屋同然のような私たちの心に、命を宿し、そればかりか十字架の愛によって、洗い流してくださっているのがイエス・キリストです。

家畜小屋のような私たちの心にも来てくださる救い主を、感謝と喜びをもってお迎えする、そんなクリスマスでありたいものですよね。
最後に、ヨハネの福音書1章4節、5節を共に味わいたいと思います。

…この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった。
  光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。

ラベル:クリスマス
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ニュースレター第6号

ご支援いただいている皆様方へ

イエスキリストのご降誕を心よりお祝い申し上げます。
いつも、私たち夫婦の活動のためにお祈りいただきまして、誠にありがとうございます。早いもので今年ももうクリスマスですが、イエスキリストがこの世にお生まれになったその恵みを今一度思い起こし、感動を新たに、伝道の働きを進めていきたいと思っております。12月も様々な場所でご奉仕させていただく予定ですが、一つ一つを大事に、主にあって誠実に行っていきたいと思っております。ぜひお祈りによって支えていただけましたら感謝です。

また、以前よりお知らせしておりましたが、6年ぶりになる静のCDが無事完成、11月2日に発売開始となりました。皆様の応援、お祈りに心から感謝いたします。

静にとって、やはり2年半前の東日本大震災が自分が歌う意義を問う、大きな契機になったようです。

東北支援活動も、10月には石巻の仮設住宅を訪問、11月には南相馬へと訪問いたします。現地は、まだまだ復興途中です。細くても長く、私たちも引き続き、支援していきたいと考えております。

今後とも、ご支援、お祈りのほど、よろしくお願いいたします。

>>>PDF版ニュースレター第6号.pdf

>>> 東北支援レポート2013年下半期(聖望キリスト教会)

■活動報告

11月30日(土) 相馬市・仮設住宅/クリスマスコンサート
        南相馬・原町聖書教会/クリスマスコンサート
12月1日(日)  南相馬・原町聖書教会 力・メッセージ/静・礼拝賛美
12月5日(木) 茅ヶ崎・聖鳩幼稚園(茅ヶ崎シオン・キリスト教会)  静・クリスマスコンサート
12月14日(土) リジョイス・クリスマス(武蔵野福音自由教会)力・メッセージ/静・コンサート 
12月21日(土) 聖学院中学校・高等学校 静・クリスマスコンサート
12月22日(日) グレースチャペル(基督聖協団市川教会)/クリスマスコンサート
12月24日(火) ホーリネス下山口キリスト教会/静・クリスマスコンサート with Migiwa
12月29日(日) 横浜・シャローム福音教会 礼拝 力・メッセージ/静・賛美
12月31日(火) 御園バプテスト教会/Go to New Year Live! 2014 静・出演(共演)

■各教会でご奉仕いたします!…ぜひご依頼、ご紹介ください

説教は、まずはお試しから、牧師先生の休暇、出張の際や、また特に無牧の教会、小さな伝道所などでもご活用いただければと思います。説教については、無償でもお受けするつもりでおります。もしご無理がなければ、活動の継続、維持のため、交通費程度のサポートをいただければ感謝です。初めての方でも楽しく、わかりやすく、聖書を味わっていただけるように心がけて参ります。
静の賛美・コンサートについては、準備や音響設備等で実費が発生してしまうため、無償での奉仕は難しいのですが、まずはご相談ください。説教&賛美での奉仕も、ぜひどうぞ!


◆6年ぶり、讃美歌&オリジナルアルバムの2枚同時発売にあたって ― 竹下 静


皆様にお祈りいただいていました新しいCDがとうとう完成し、11/2より発売開始となりました。実に6年ぶりとなる本作、2作品同時に制作というビジョンが与えられ、約半年かけて制作を進めて参りました。

■コンセプトは「イエスキリストにある希望」

今回のCD制作に際し掲げたコンセプトは「イエスキリストにある希望を伝える」、です。「夕暮れには涙が宿っても朝明けには喜びの叫びがある」( 詩篇30篇5節)という聖書箇所をイメージし、制作しました。

震災後、被災地を歌い巡る活動を続けて行く中で、本当にたくさんの傷ついた心を抱えた方々、そしてご自身も被災しながら現地でケアの働きをしていらっしゃる方々にも出会いました。そういった方々のお話や思いに触れて行くうちに、自分にできること、そして自分の使命とは、ということをとても深く考えさせられました。
震災が起きたとき、身の回りの「あたりまえ」が「恵み」であることを嫌というほど思い知らされたのですが、同時に、神様にある希望を知っているからこそ、逆境に遭遇したときにもそれを乗越える力をいただけるのではないかと思わされました。そのことを、心に傷を負って苦しんでいる方々に、音楽を通して伝えていきたい、そして神様の愛を受け取ってもらいたいと強く思うようになりました。震災から2年経って、ようやく私の使命、歌うことの目的が明確になり、今回のCD制作へと導かれました。願わくば、このCDが必要なところに届いて用いられることを祈っています。

■讃美歌CDの聴きどころ

特に聴いていただきたい曲は「深い川を越えて」です。復興、そして平和への道のりは遠く果てしないように思えるけど、向こう岸に必ず神様の下さる平安がある、そんなことをイメージして歌っています。そのほかの収録曲も、特にクリスチャンでない方々にも共感していただけるような歌詞の讃美歌を中心に選曲しています。ピアノと歌だけのアコースティックな讃美歌集です。

■オリジナルCDの聴きどころ

3曲目に収録した「Rely on Jesus」という曲が、オリジナルCDのメインの楽曲となっています。これまでの私の作品に比べ、ストレートに神様の愛を描いた曲です。私自身、神様に寄り頼んで生きることのすばらしさを日々実感しているのですが、たくさんの傷を抱えている人に、そのすばらしさを、愛を受け取って欲しいと思って作りました。一流のクリスチャンミュージシャンたちと一緒に作り上げた、音楽が好きな方にも十分楽しんで聴いていただける内容となっています。

■今後の活動予定

来年より長年役職者として務めてきた一般企業での働きを縮小し、音楽を通して福音を伝える働きに力を入れていくことになりました。来年はコンサート活動範囲を全国へ展開予定、また被災地での復興支援コンサートも、継続して行っていきたいと思っています。今後とも、ぜひ応援、お祈り、よろしくお願いいたします。


 

posted by holyhope at 11:24| Comment(0) | TrackBack(0) | ニュースレター | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2013年10月31日

鳥の鳴き声

…空の鳥を見なさい。
種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。
けれども、あなたがたの天の父がこれを養っていてくださるのです。
あなたがたは、鳥よりも、もっとすぐれたものではありませんか。
マタイ6:27

つい先日の朝ですが、駅に向かう途中で、ふと鳥の鳴き声に気づきました。

鳥には詳しくないので、名前はわからないのですが、ちょっと珍しい鳴き声。

チチチッ、ヒュー

ヒューってなんだ?って気になったのですが、おもしろいですよね。
きっと、その鳥なりの訳もあるんでしょう(笑)

毎日歩いている道ですので、今までも鳴いてたはずなのですが、全く意識できていなかったんですよねー。

都会では、アスファルトに、コンクリート、人工物に囲まれて、車のエンジン音や、人のせわしない足音ばかりが聞こえてきますが、実は、その中にも自然界は息づいているんですよね。

都会に自然がない…わけじゃなく、自然に気づけなくなっているんだなあって気がします。
神様の愛や存在も似たようなものかもしれないですね。

空の鳥を見よ…
天の父が養ってくださっている…
だから、心配するな。。

私たちも、同じ自然界の一員。
神が造られた自然界の中で活かされているわけです。

私たちはどこか無理して、一生懸命、「不自然さ」が普通、常識、必要不可欠、なくてはならないもの、あたかもそれが「自然」かのように固辞しようとしてしまっているのかもしれません。
いや、そうせざるを得ない…と言った方が適切かもしれないですね(^^;;

実際に、私自身、電車に乗り、ビルの中で、パソコンに向かいながら仕事をし、糧を得ているわけですから…。
それを否定することもできません。

それがまた、疲れにも、ストレスにも、不安にもなってくるような気がします。

でも、これは「自然」ではなく、あくまで「不自然」だと言う事も、どこかで覚えておきたいものです。

疲れやストレス、将来に不安を感じる時、ふと「不自然」の中にもある「自然」に目や耳を傾けてみたいものですね(^^)

…私は山に向かって目を上げる。
私の助けは、どこから来るのだろうか。
私の助けは、天地を造られた主から来る。
詩篇121:1〜2

posted by holyhope at 09:27| Comment(0) | TrackBack(0) | 聖書の小話 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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